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2011年11月05日

漢文の素養

「近代以前の日本で、学才によって大臣にまで出世したのは、吉備真備と菅原道真の二人だけである」(加藤徹『漢文の素養』光文社新書 147頁)

菅原道真が学問の神様として、現在においても尊敬を受けているのは、血筋や家柄と関係なく自らの才覚によって責任ある大臣の位に登ったことによるのですね。

歴史的にこのような人は2人しかいないというのですから、特別な存在であることも頷けます。

現在の日本においても、血筋、家柄のある人々の力が強いようです。

影響力のある人を調べていくと、血筋、家柄につながっていることが分かります。

ある人が影響力を持ちはじめたときに、その人を排斥するキャンペーンが繰り広げられることがあります。

観察してみると、その人は血筋、家柄のない人であり、血筋、家柄のある人々の勢力範囲に入り込み始めている時であったりします。

表向きは民主主義であり主権在民ですが、実質は、特定の血筋、家柄の人々のネットワークにより大きな影響力を受けているのですね。

ただ、その特定の血筋、家柄の人々も意識的にネットワークを築いているというのではなく、無意識に、自然に、無理なく、当たり前のようにつながっているようです。

よって、強力なのでしょう。

ただ、古代、中世、近世と違って、近代以後の現代においては、血筋、家柄がなくても、自らの才覚により、力を持ち得ることができる範囲は広がっています。

『漢文の素養』の著者である加藤徹氏によると、漢文の素養を磨いていくことが重要ということです。

さて、漢文といっても、何を読めばよいのでしょうか。加藤周一『読書術』では、漢文素材として、『論語』をあげていました。

また、経典としては、「般若経」や「法華経」をあげていました。

現代日本においても影響力を持ち得ている『論語』のような書籍でもって、漢文の素養を身に付けることはおもしろそうですね。

どこでも、いつでも通用するでしょう。

世代間の溝を気にする必要もないでしょう。

現在、漢文に触れる機会は少ないですが、昔の新聞には、漢詩欄があったのですね。

「明治から大正の前半までは、新聞には和歌や俳句と並んで漢詩欄が設けられ、一般読者の投稿による漢詩や、プロの漢詩人の新作を掲載していた」(加藤徹『漢文の素養』光文社新書 219頁)

2011年11月04日

維摩経

「譬えば高原の陸地は蓮華を生ぜず、卑湿の淤泥は乃ち此の華を生ずるが如し。是くの如く無為法を見て正位に入れる者は、終に復、能く仏法を生ぜず、煩悩の泥中に乃ち衆生有りて仏法を起こすのみ」
(梵漢和対照・現代語訳『維摩経』 岩波書店 350頁)

蓮華という美しい花は、高原という高いところに咲くのではなく、泥のある湿っぽい水辺という低いところで咲くように、仏の法(ブッダの特質)も正しい行いができている人(高位の人)に生じるのではなく、欲望にまみれている人(低位の人)にこそ生じる、と言っています。

仏という尊いものを生じるためには、欲望のような卑しいものを排除しなければと考えてしましますが、そうではないようです。

全く逆の発想をするのですね。

もちろん、欲望がそのままでよいという趣旨ではなく、欲望があるからこそ、仏の法を実現することができるという趣旨ですね。

ほとんどの人間は、家柄が何百年、何千年と続く名門、貴族の出ではありません。

言葉は悪いですが、卑しい身ともいえます。

しかし、維摩経は、いつまでも卑しく欲望まみれというのではなく、その卑しさ、欲望をよく分かっているがゆえに、常に向上し精進しながら、尊い存在になっていける側面があることを教えています。

虚心に自分自身を振り返ってみるならば、今までの人生、恥ずかしいことばかり、うまくいかないことだらけといってよいでしょう。

ただし、維摩経の考え方からいえば、そのような恥ずかしい人間だからこそ、また、うまくいかない人生を経験しているからこそ、心掛け次第で、素晴らしい特質を生じさせていくことができます。

ちょっと勇気を与えてくれる経典ですね。

確かに、我々は、煩悩の泥中に存在しているかもしれませんが、よりよい人生を歩むための素地と考えれば、いたずらに自己を卑下することなく、変に嘆き落ち込むこともなく、リラックスして生きていけそうですね。

大変なことがあっても、その大変なことがあるおかげで一段と成長できるということですね。

困難を避けるのが上手な生き方という風潮もあるでしょうが、すべての困難を避けることはできず、困難があればあったで、潔く立ち向かっていきたいですね。

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2011年11月01日

キケロの「ストア派のパラドックス」に学ぶ:足るを知る

投資をする際、当然のことながら、資産を増やそうとするわけですが、単にマネーとしての財産だけを増やそうとすることは好ましくありません。

投資をすることを通して、世の中の仕組みを理解することが大切です。

知識としての財産、世の中を見通す力としての財産を得ることが重要です。

例えば、ある銀行の株式を保有している場合、少なくとも年2パーセントの配当が得られます。

しかし、預金利率は、普通預金で年0.02パーセントです。

100倍もの差がついています。また、株主には、ご丁寧にも事業報告書等が送付されます。

預金者にはそのようなものは送付されません。

銀行が預金者ではなく、いかに株主を重視しているかがよく分かります。

これは、株主にならないと実感できません。

その他の株式の場合、株主優待というものもあります。

ジュースやコシヒカリが送られてきます。

ちょっとしたことですが、うれしいものです。

このようなことは、株式を保有していないと分かりません。

知識としての財産と同時に心掛けとしての財産も必要です。

お金お金と儲けることばかり考える投資では、行動も心も貧しくなります。

キケロの「ストア派のパラドックス」の中に以下の文章があります。

「財産の高を決めるものは、世間でおこなわれている資産評価なのではありませぬ。それは、なんとしても、衣食にかんする磨かれた心掛けであるのです。欲張らぬことが、金なのです。買いたがらぬことが、収入なのです。わけても、自分の持ち物だけで満足していることが、なによりも大きな、なによりも安定した富なのです」
(『世界の名著』14 中央公論新社 121頁)

欲張ってあれもこれも欲しいというのでは、お金は足りなくなります。

しかし、キケロが言うように逆の発想であれば、財産が増えていきます。

心の余裕も生まれてきます。

よくよく身の周りを見渡せば、必要なものは、ほぼ揃っています。

儲けや稼ぎが増えなくても、要らないものを買いたがらなければ、実質的に収入が増えているのと同じであるとの発想は、面白いですね。

簡単に言えば「足るを知る」という心掛けがポイントですね。

2011年10月31日

稲盛和夫「敬天愛人 西郷南洲遺訓と我が経営」に学ぶ:大義

自分だけ良ければよいという利己的な考え方で経営を行い、結局は破綻していった企業がたくさんあります。

とりたててどこの企業という必要もないほど、多くの企業の破綻を報道で知るに至ります。

稲盛和夫「敬天愛人 西郷南洲遺訓と我が経営」第5講 大義
「企業とは本来、多くの人との関わり合いを持ちながら、世のため人のために貢献することをもって、この社会で活動することを許されている存在です」(「日経ビジネス」2005年10月31日号107頁)

個人の場合も、多くの人々との関わりの中で生活しているという感覚を忘れてはならないでしょう。

毎日の食事にしても、その作物を作った人、加工して製品にする人、流通に携わる人、小売りを担当する人、また、商品を購入するための金員を扱う金融等々、たくさんの人がおり、数え上げればきりがありません。

そもそも、自分だけ良ければよいということはあり得ないことです。

あり得ないことを基にして活動していれば、おかしくもなるでしょう。破綻するのは明らかです。

ある時、「自分だけ幸せになろうとしている」と言って人を非難する人がいました。

おかしなことを言う人だなと思っておりました。

その人は、やや単純な思考回路の持ち主であるので、思慮不足な発言をしているのだろうと、その時は考えておりました。

確かに、思慮不足なのでしょうが、それだけでは、何かが抜けていると感じ、いろいろと考え、また、その人の行動をよくよく観察してみると、その人自身が「自分だけ幸せになろうとしている」人だったんですね。

その後、その人は「俺の人生は何だったのか」と嘆いていたということですが、真面目に生きていけばよいのにと思ってしまいます。

あり得ないことを基にしているからおかしくなるのでしょう。

つまり、人が他者を非難する時は、自分自身の卑しいところをそのまま相手にぶつけてしまうのですね。

悪口にしても、自分自身の卑しいコンプレックスを吐露しているだけのように思われます。

非難や悪口ではなく、世のため人のために貢献する生き方をしたいですね。

そうでなければ、何しに生まれてきたのかと心ある人に叱られてしまうでしょう。

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2011年10月25日

J.S.ミル『大学教育について』に学ぶ:教養とは何か

教養とは、どのようなものなのでしょうか。ジョン・スチュアート・ミルの言葉を手掛かりに考えてみたいと思います。

「人間が獲得しうる最高の知性は、単に一つの事柄のみを知るということではなくて、一つの事柄あるいは数種の事柄についての詳細な知識を多種の事柄についての一般的知識と結合させるところまで至ります。私の申し上げる一般的知識とは、漠然とした印象のことではありません。(中略)一つの主題について一般的知識をもつということは主要な真理のみを知ることであり、そしてその主題の肝心な点を真に認識するために、表面的ではなく徹底的にそれらの真理を知ることです。小さな事柄は、自分の専門的研究のために必要とする人々に任せればよろしいのです。広範囲にわたるさまざまな主題についてその程度まで知ることと、何か一つの主題をそのことを主として研究している人々に要求される完全さをもって知ることは、決して両立しえないことではありません。この両立によってこそ、啓発された人々、教養ある知識人が生まれるのであります」(J.S.ミル『大学教育について』竹内一誠訳 岩波文庫 28頁)

知識は単独では価値を生まず、ひとつひとつの知識もさまざまな知識と結びつくことによって価値のある知識になるということです。

そのひとつひとつの知識も曖昧な知識ではなく確固とした知識でなければなりません。

すべての知識に関して、専門的知識があればよいのですが、そのようなことはあり得ません。

せいぜいひとつの専門分野を持つのが精一杯ではないでしょうか。

また、専門分野を持てずに一生を終える人の方が多いのかもしれません。

ある事柄に詳しい専門家も自分の専門分野を離れると、その他のすべての分野に関しては単なる素人となります。

ただし、素人とはいっても専門家でないということだけであって、その他すべての分野の知識がなくてよいということではありません。

専門バカでは、全く教養のない人間となってしまいます。

ミルが求めているのは、専門ではないその他すべての分野に関しては、「主要」な「肝心」な点だけであっても徹底的に深く知ることです。

曖昧な表面的な知識ではいけません。

専門ではないその他すべての分野では、狭く深くという知識をたくさん持ちながら、ひとつの専門分野に関しては、広く深くという完璧なまでの知識を持つことが理想であり、それを実現している人を教養のある人としています。

上記のことから、まずは、自分自身の専門分野をひとつ持ち、その分野ではありとあらゆる知識を得て、ひとかどの専門家となるべきでしょう。

そして、専門分野以外の分野では、「主要」な「肝心」な点を見極め、その部分に特化して学んでいくことでしょう。

くれぐれも「枝葉末節」な部分、「浅い」部分に囚われてはなりません。

あやふやな知識の集合体や、広く浅い知識は、決して教養を形作りません。

専門知識とその他多数の一般的知識との結合による効果によって、にじみ出てくるものが教養といえるでしょう。

にじみ出てこなければ、まだまだ、修養が足りないということだと思われます。

いろいろ書いてきましたが、丸山眞男の説明が分かりやすいでしょう。

「J・S・ミルの定義した意味での「教養人」を志さざるをえないことになる。それは「あらゆることについて何事かを知っており、何事かについてはあらゆることを知っている人」というのだ。これだけじゃ一寸見当がつかないかもしれないが、あのオーケストラの指揮者を連想すればいいんじゃないかな。指揮者は管弦楽のあらゆる楽器の専門奏者には到底なれないが、少なくともそれぞれの性質や奏法を一応全部知っていなければならず、しかも指揮法については徹底的に精通していなければならない」(丸山眞男『政治の世界』岩波文庫 313頁)

ミルの言葉を要約すれば、専門分野では広く深い知識、その他の分野では狭く深い知識が必要ということです。

ポイントは「深い」知識です。

あれもこれもといった浮ついた態度は教養と正反対の態度といえるでしょう。

( Try to learn something about everything and everything about something )

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2011年10月24日

稲盛和夫「敬天愛人 西郷南洲遺訓と我が経営」に学ぶ:人間関係

人の悩みの中で大きな割合を占めるのは人間関係であると思われますが、人間関係といっても「人を相手にする」から起こりうることであって、人を超えた何がしらのものを基準にした場合、人間関係の悩みがあまりにも小さく感じられるものです。

西郷南洲遺訓では、人を超えた何がしらのものを「天」と表現しています。

敬天愛人ですから、天を敬うということですね。

稲盛和夫「敬天愛人 西郷南洲遺訓と我が経営」第4講 利他
「策には策をもって対し、悪意には悪意をもって処す―。それが人の陥りやすい性であり、すぐに醜い騙し合いや足の引っ張り合いが始まる。人を相手にするからそうなるのです。だから、物事を判断する時は、それが天の道に恥じないことか、人の道を踏み外していないかということだけを基準にせよと言っているのです」(「日経ビジネス」2005年10月24日号107頁)

しかし、天を敬う前に、他人を気にし、他人を相手にし、他人の悪いところに振り回されといったことが多いようです。

また、悪意に対して悪意をもって処しているならば、自分自身もその悪意に飲み込まれてしまいます。

自らを省みて天を敬えばよいのですが、目に見える事柄、目先の事柄に囚われてしまいます。

悪意のある人、マイナスオーラ満載の人などがおり、悪影響を及ぼされることがあります。

確かに、悪いのはその人たちであることが明らかであっても、その人たちを相手にしてはいけません。

また、その人たちを無視して足りるというものでもありません。

天の道、人の道に照らして、適切に対処することが肝要でしょう。

この「適切に対処する」ということは相当な大人でなければできないことでしょう。

単に年を取って老いていく大人になるのではなく、年輪を重ねながら味わいのある行動のできる大人になりたいものです。

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2011年10月18日

加藤周一『読書術』

久しぶりで光文社のカッパ・ブックスを手にとりました。

懐かしいですね。

挿絵がユーモラスであり、挿絵だけでもおもしろいですね。

だた、今はもうカッパ・ブックスは刊行されていないようですね。

道理で見かけないはずです。

改めて、ところどころ読んだ本は、加藤周一の『読書術』です。

読書術というぐらいですから、ハウツー本です。

見事なまでにハウツーが明らかにされています。

分かりやすいことこの上ないといったところです。

しかし、ハウツーといった次元にとどまらず、小品ながら、見事な文化論、教養論となっています。

ハウツーを語りながら、さまざまな知識を教えてくれます。

初版第1刷の発行が1962年10月25日であり、私の蔵書は、1990年1月10日発行の第67刷となっています。

20年以上も前に購入した本ですが、購入した時、すでに28年も経っていたのですね。

当時は、そんなことも気にせず、興味深く読んだものです。

それから、また、21年経っています。今読んでもおもしろい。

いや、以前よりおもしろく感じられるぐらいです。

その間、いろいろなことがあり、また、それなりに本を読んできたからでしょうか。

初版から数えて49年、輝きを失わない本ですね。

さすがに絶版ではもったいないと思ったのか、岩波書店が岩波現代文庫で出版しています。

本書で言及されている何人かの作家・思想家たちの主要な著作は読んでおり、知らず知らずのうちにいい影響を受けていたのだなと感じます。

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posted by lawful at 23:31| 読書

2011年10月17日

稲盛和夫「敬天愛人 西郷南洲遺訓と我が経営」に学ぶ:試練

苦労なり、試練をしなくてもよいように生きていこうと考えますが、試練がなければ人間としての成長が見込めないとなると、安逸に生きるのも考えものと思われてきます。

大変なことがあっても、嘆くだけでなく、我が人生にとって重要な機会が巡ってきていると考えるのが哲学的態度といえるでしょう。

稲盛和夫「敬天愛人 西郷南洲遺訓と我が経営」第3講 試練
「試練は、病気や失敗、左遷や倒産などだけではありません。『成功』もまた、天が人に与える試練なのです。一時の幸運と成功を得たとしても、決して驕り高ぶらず、謙虚な心を失わないことが、リーダーの絶対条件である。南洲はそう説いています」
(「日経ビジネス」2005年10月17日号129頁)

苦労、大変なことだけが試練ではなく、実は「成功」も試練であるとは深い洞察です。

成功という試練に耐え得ずして人生の敗北者になる人々は、「驕り」があるということです。

何故、驕ってしまうのか。理知的に合理的に哲学的に考えても、「驕る」ことに何らの価値も見出せないと思うのですが、成功者は、つい、驕ってしまう。

この「つい」というところに人間の業が感じられます。

頭だけで分かることの限界があるようです。

生命の次元にまで至って、はじめて、解決できる問題ともいえます。

マイナス面、プラス面、双方とも試練の側面があることを認識しつつ、敢えて、試練に立ち向かう人間でありたいですね。

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2011年10月14日

六つの感性(センス)

ダニエル・ピンクは『ハイ・コンセプト』の中で、これから求められる「六つの感性(センス)」をあげています。

@ 機能だけでなく「デザイン」

A 議論よりは「物語」

B 個別よりも「全体の調和(シンフォニー)」

C 論理ではなく「共感」

D まじめだけでなく「遊び心」

E モノよりも「生きがい」

例えば、パソコンなど機能は良くても「デザイン」が良くない場合、購買意欲は湧きません。

単なる外見でなく、美しさ、芸術的なものとしての「デザイン」が求められているといえるでしょう。

学生時代は、議論をしていい気になっていたものですが、議論は重要であっても、所詮は議論であって、興味深い「物語」にはかなわないような気がします。

議論を戦わせるよりも、ストーリーで引き込む方が、双方にとって有意義でしょう。

独自のもの個別的なものを大切にしながら、やはり、「全体の調和(シンフォニー)」にまで至った方が価値的でしょう。

全体の中で埋もれたり漂ったりするのではなく、あくまでも自分自身の存在感をしっかりと持ちながら調和(シンフォニー)していくのが理想ですね。

論理的思考が大切なのはいうまでもないことですが、生活、ビジネスの場面において、論理は有用でないと感じられることが多いですね。

論理だけでは、説得、納得にまで至りません。

なぜなのだろうかと思っておりましたが、「共感」が必要だったのですね。

勉強になります。

まじめでなければならないと思いますが、まじめだけでは、肩が凝ってしまうのも事実です。

「遊び心」でリフレッシュしたいですね。

最近は、「片付け」「断捨離」がブームであり、私もせっせと「片付け」「断捨離」をしていますが、やはり、モノよりも「生きがい」が重要なセンスなんですね。

所有欲は、ほどほどにしたいですね。

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2011年10月13日

稲盛和夫「敬天愛人 西郷南洲遺訓と我が経営」に学ぶ:無私

「些とも私を挟みては済まぬもの也」(『西郷南洲遺訓』岩波文庫 5頁)とは、非常に厳しい指摘であり、反省することしきりです。

稲盛和夫「敬天愛人 西郷南洲遺訓と我が経営」第2講 無私
「リーダーたる者は、私利私欲を捨て、己を無くし、正道を踏み、天道を進め。そういう人格と心がけを備えた人でなければリーダーは務まらない。どんなに頭脳明晰で才覚があっても、欲と私心にまみれた者は、人の上に立つ資格はない。
 まるで、南洲が私に向かって語りかけているような気がしました」
(「日経ビジネス」2005年10月10日号109頁)

短期的に見れば、頭脳明晰で才覚のある人が脚光を浴びますが、欲が深すぎる場合、いつの間にか「あの人どうしたのだろう?」という場合が少なくありません。

長期的に見れば、地道な努力をしてきた人が、目立たない中でも世の中を支え、引っ張っているようです。

頭脳明晰で才覚があり、なおかつ、無私の心であれば、鬼に金棒なのですが、頭脳明晰で才覚のある人は、ついつい、慢心し、私利私欲を当然のこととすることが多いのかもしれません。

西郷南洲の指摘は厳しいですが、これぐらい厳しくないと、我が身を振り返らない可能性があります。

理想論といえば、理想論ですが、一つのひな形としての理想論がない場合、現実世界に流されるだけで漂ってしまうでしょう。

この意味で、厳しすぎる理想論は重要と思われます。

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