「些とも私を挟みては済まぬもの也」(『西郷南洲遺訓』岩波文庫 5頁)とは、非常に厳しい指摘であり、反省することしきりです。
稲盛和夫「敬天愛人 西郷南洲遺訓と我が経営」第2講 無私
「リーダーたる者は、私利私欲を捨て、己を無くし、正道を踏み、天道を進め。そういう人格と心がけを備えた人でなければリーダーは務まらない。どんなに頭脳明晰で才覚があっても、欲と私心にまみれた者は、人の上に立つ資格はない。
まるで、南洲が私に向かって語りかけているような気がしました」
(「日経ビジネス」2005年10月10日号109頁)
短期的に見れば、頭脳明晰で才覚のある人が脚光を浴びますが、欲が深すぎる場合、いつの間にか「あの人どうしたのだろう?」という場合が少なくありません。
長期的に見れば、地道な努力をしてきた人が、目立たない中でも世の中を支え、引っ張っているようです。
頭脳明晰で才覚があり、なおかつ、無私の心であれば、鬼に金棒なのですが、頭脳明晰で才覚のある人は、ついつい、慢心し、私利私欲を当然のこととすることが多いのかもしれません。
西郷南洲の指摘は厳しいですが、これぐらい厳しくないと、我が身を振り返らない可能性があります。
理想論といえば、理想論ですが、一つのひな形としての理想論がない場合、現実世界に流されるだけで漂ってしまうでしょう。
この意味で、厳しすぎる理想論は重要と思われます。