2011年12月04日
ユージン・オーマンディ指揮の第九
ユージン・オーマンディ指揮の第九を聴きました。
1964年9月、フィラデルフィア管弦楽団による演奏です。
伸びやかさのある演奏です。
また、メリハリのある演奏と感じられました。
独唱は、自由な感じを与えます。
合唱は小刻みな感じを受けました。
全体として個性的な第九といえます。
1964年9月、フィラデルフィア管弦楽団による演奏です。
伸びやかさのある演奏です。
また、メリハリのある演奏と感じられました。
独唱は、自由な感じを与えます。
合唱は小刻みな感じを受けました。
全体として個性的な第九といえます。
2011年12月03日
『小学国語読本』
戦後、教科書の中で教えてはいけない部分を墨塗りすることが行われていました。
そのことを知識として知ってはおり、漫然と教えてはいけない部分であるから墨塗りをしたのだろうと思っておりました。
墨塗りをして、それはそれでよかったのだろうと安易に考えておりましたが、よくよく思い返せば、墨塗りをされた部分を読んだことも確認したこともないことに気付きました。
何も確認せずに物事を判断することは危険であり、自らもその危険を冒していることがあります。
さて、本当に墨塗りされたところは、教えてはいけないことだったのでしょうか。
すべてが墨塗り部分ではありませんが、『小学国語読本』は、大正7年から昭和20年までの小学国語教科書からの抜粋で構成されています。
あらあら読んでみた感想は、教えなければならないことだらけ、というものです。
国語の力の話、山内一豊の妻の馬ぞろえの話、柿右衛門の陶器の話、関孝和の和算の話、稲むらの火の五兵衛の話、修行者と羅刹の話、雪舟の絵の話等々、大人が読んでもためになる話が満載です。
当然、小学生には必要でしょう。
人間として必要な道徳、品格を教えることは当たり前のことですが、その当たり前のことをさせまいとする勢力が存在しているということですね。
人の幸せは自分の不幸と考える人がいますので、特に気を付けたいものです。
日本国は、本来、品格に満ち溢れた国であると思います。
その日本国の良さを引き継ぐことが大切です。
邪魔をする人たちも多いですが、それにもめげず、正しい認識で学び続けていきたいものです。
そのことを知識として知ってはおり、漫然と教えてはいけない部分であるから墨塗りをしたのだろうと思っておりました。
墨塗りをして、それはそれでよかったのだろうと安易に考えておりましたが、よくよく思い返せば、墨塗りをされた部分を読んだことも確認したこともないことに気付きました。
何も確認せずに物事を判断することは危険であり、自らもその危険を冒していることがあります。
さて、本当に墨塗りされたところは、教えてはいけないことだったのでしょうか。
すべてが墨塗り部分ではありませんが、『小学国語読本』は、大正7年から昭和20年までの小学国語教科書からの抜粋で構成されています。
あらあら読んでみた感想は、教えなければならないことだらけ、というものです。
国語の力の話、山内一豊の妻の馬ぞろえの話、柿右衛門の陶器の話、関孝和の和算の話、稲むらの火の五兵衛の話、修行者と羅刹の話、雪舟の絵の話等々、大人が読んでもためになる話が満載です。
当然、小学生には必要でしょう。
人間として必要な道徳、品格を教えることは当たり前のことですが、その当たり前のことをさせまいとする勢力が存在しているということですね。
人の幸せは自分の不幸と考える人がいますので、特に気を付けたいものです。
日本国は、本来、品格に満ち溢れた国であると思います。
その日本国の良さを引き継ぐことが大切です。
邪魔をする人たちも多いですが、それにもめげず、正しい認識で学び続けていきたいものです。
佐渡裕指揮の第九
佐渡裕指揮の第九を聴きました。
2002年8月、新日本フィルハーモニー交響楽団による演奏です。
やさしい演奏でありました。
聴きやすく落ち着いた印象も受けます。
日本人の指揮・演奏による第九は、丁寧であり、やさしく、繊細であるように感じます。
ヨーロッパの演奏の激しさとは違う雰囲気があります。
新しい第九、品のある第九といえましょうか。
独唱テノールにもう少しためが欲しいと思いましたが、非常に素晴らしい演奏でありました。
2002年8月、新日本フィルハーモニー交響楽団による演奏です。
やさしい演奏でありました。
聴きやすく落ち着いた印象も受けます。
日本人の指揮・演奏による第九は、丁寧であり、やさしく、繊細であるように感じます。
ヨーロッパの演奏の激しさとは違う雰囲気があります。
新しい第九、品のある第九といえましょうか。
独唱テノールにもう少しためが欲しいと思いましたが、非常に素晴らしい演奏でありました。
母鯨の愛情
母の子に対する愛情に際限はないものですが、母鯨の愛情はそのことをよく示しています。
「漁師の攻撃から仔鯨を身を挺してかばい、ついにはみずからも犠牲になるのが知られていた。ただし、こうした自己犠牲をいとわないのは母鯨のみで、父鯨は適当に見切りをつけて逃げていくという」(中村生雄『日本人の宗教と動物観』吉川弘文館 84頁)
この母鯨の姿は、蘭学者大槻青準の『鯨史稿』(文化5年:1808年)において、以下のように記されているようです。
「親鯨二三里行テモ又立帰リ、子ヲ鰭ノ下ニ入レテ隠シ、己ガ身ニ銛ヲ受ケ終ニ死スルニ至ル」(同上)
一旦は、自分が逃げおおせても、再び仔鯨のもとに引き返し、自らの鰭(ひれ)の下に仔鯨を隠して、我が身に銛(もり)を受けながらも仔鯨を守ろうとする母鯨の姿には圧倒されるものがあります。
結局は、母子ともに捕獲されてしまうわけですが、どのような状態であろうとも子供を守ろうとする姿勢は、鯨だけでなく人間にも必要とされます。
我が身を賭した愛情が本当の愛情といえます。
「漁師の攻撃から仔鯨を身を挺してかばい、ついにはみずからも犠牲になるのが知られていた。ただし、こうした自己犠牲をいとわないのは母鯨のみで、父鯨は適当に見切りをつけて逃げていくという」(中村生雄『日本人の宗教と動物観』吉川弘文館 84頁)
この母鯨の姿は、蘭学者大槻青準の『鯨史稿』(文化5年:1808年)において、以下のように記されているようです。
「親鯨二三里行テモ又立帰リ、子ヲ鰭ノ下ニ入レテ隠シ、己ガ身ニ銛ヲ受ケ終ニ死スルニ至ル」(同上)
一旦は、自分が逃げおおせても、再び仔鯨のもとに引き返し、自らの鰭(ひれ)の下に仔鯨を隠して、我が身に銛(もり)を受けながらも仔鯨を守ろうとする母鯨の姿には圧倒されるものがあります。
結局は、母子ともに捕獲されてしまうわけですが、どのような状態であろうとも子供を守ろうとする姿勢は、鯨だけでなく人間にも必要とされます。
我が身を賭した愛情が本当の愛情といえます。
2011年12月02日
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮の第九
小澤征爾指揮の第九
2011年12月01日
お世辞に気を付けましょう
加藤徹『漢文力』中公文庫にて『荀子』修身篇の一節が紹介されていました。
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我を非として当る者は吾が師なり。我を是として当る者は吾が友なり。我に諂諛する者は吾が賊なり。
自分を非難してくれる人は、自分の先生といえる。自分を支持してくれる人は、自分の味方といえる。自分にお世辞を言って褒めちぎる人は、自分をおとしいれようとたくらむ敵である。(244頁)
------------------------------------------------------------
人間は不完全な存在であり、至らぬ点だらけです。
よって、我が身の至らざるところを指摘してくれる人は、先生といえます。
変に恨まれても困りますから、好き好んで人の至らない点を指摘する人はいないでしょう。
その人に対する相当な好意、愛情、愛おしさという感情がなければ、その人の非を指摘することはありません。
このような感情を持ってくれているだけも先生といえるでしょう。
自分を支持してくれる人が味方というは、その通りです。
さて、お世辞を言う人や、褒めそやす人は危険であると注意しています。
世の社長等、責任ある立場の人で失脚した人々も、当初は、問題点を指摘してくれる人や支持者に囲まれていたでしょうが、途中から、自身の心掛けが安逸になり、そのような人々がいなくなって、お世辞ばかりのイエスマンに囲まれてしまったのでしょう。
確かに、お世辞や褒めてくれる方が心地よいでしょうが、心地よさで物事を判断してはいけません。
不完全な自分がそんなに褒めてもらえる存在であると思うのは、大きな勘違いです。
勘違いが蓄積されていけば、いずれは破滅でしょう。
お世辞を言う方は、意外と冷静に相手の不完全さをよく分かっていることでしょう。
分かっていなければ、適切なお世辞も言えません。
その上で、お世辞を言うことによって得られる利益をこと細やかに計算していると思われます。
相手が利用できるまではお世辞を言い、利用価値がなくなったら、ポイ捨てでしょうね。
身近な生活の場面でも、『荀子』の言葉は、重要です。
思い返せば、心当たりがありますね。
気を付けたいものです。
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我を非として当る者は吾が師なり。我を是として当る者は吾が友なり。我に諂諛する者は吾が賊なり。
自分を非難してくれる人は、自分の先生といえる。自分を支持してくれる人は、自分の味方といえる。自分にお世辞を言って褒めちぎる人は、自分をおとしいれようとたくらむ敵である。(244頁)
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人間は不完全な存在であり、至らぬ点だらけです。
よって、我が身の至らざるところを指摘してくれる人は、先生といえます。
変に恨まれても困りますから、好き好んで人の至らない点を指摘する人はいないでしょう。
その人に対する相当な好意、愛情、愛おしさという感情がなければ、その人の非を指摘することはありません。
このような感情を持ってくれているだけも先生といえるでしょう。
自分を支持してくれる人が味方というは、その通りです。
さて、お世辞を言う人や、褒めそやす人は危険であると注意しています。
世の社長等、責任ある立場の人で失脚した人々も、当初は、問題点を指摘してくれる人や支持者に囲まれていたでしょうが、途中から、自身の心掛けが安逸になり、そのような人々がいなくなって、お世辞ばかりのイエスマンに囲まれてしまったのでしょう。
確かに、お世辞や褒めてくれる方が心地よいでしょうが、心地よさで物事を判断してはいけません。
不完全な自分がそんなに褒めてもらえる存在であると思うのは、大きな勘違いです。
勘違いが蓄積されていけば、いずれは破滅でしょう。
お世辞を言う方は、意外と冷静に相手の不完全さをよく分かっていることでしょう。
分かっていなければ、適切なお世辞も言えません。
その上で、お世辞を言うことによって得られる利益をこと細やかに計算していると思われます。
相手が利用できるまではお世辞を言い、利用価値がなくなったら、ポイ捨てでしょうね。
身近な生活の場面でも、『荀子』の言葉は、重要です。
思い返せば、心当たりがありますね。
気を付けたいものです。
無用の用
効率を考えるのはいいことですが、効率の悪いこと、効率でないことも重要であるとの視点が必要です。
『荘子』には、「無用の用」という言葉が出てきます。
「人は皆有用の用を知るも、無用の用を知る莫し」(新書漢文大系12『荘子』明治書院 65頁)
例えば映画の場合、いい映画を見たときは、感動するとともに充実感もあります。
意味があり、価値があったといえます。
つまり、有用であったといえます。
しかし、駄作を見る場合があります。
駄作ですから見たことが無駄であり、意味がなく、価値がないといえ、無用であったといえます。
しかし、駄作を見ることにより、いい映画を撮ることがいかに大変であるかが分かります。
駄作映画の監督、脚本家の力量は大したことがないにしても、さて、自分自身が映画を撮った場合、はたして、いい映画となるか。
もちろん、映画のプロではないわけですから、駄作映画監督の作品よりもみっともない作品となります。
いい気になって映画評論などしていると、思い上がった浮かれ者として世の笑いものとなるでしょう。
映画を撮ることは大事業なのだと気づかせてくれるのが駄作映画の「無用の用」といえます。
駄作映画ならではの用があります。
『荘子』には、「無用の用」という言葉が出てきます。
「人は皆有用の用を知るも、無用の用を知る莫し」(新書漢文大系12『荘子』明治書院 65頁)
例えば映画の場合、いい映画を見たときは、感動するとともに充実感もあります。
意味があり、価値があったといえます。
つまり、有用であったといえます。
しかし、駄作を見る場合があります。
駄作ですから見たことが無駄であり、意味がなく、価値がないといえ、無用であったといえます。
しかし、駄作を見ることにより、いい映画を撮ることがいかに大変であるかが分かります。
駄作映画の監督、脚本家の力量は大したことがないにしても、さて、自分自身が映画を撮った場合、はたして、いい映画となるか。
もちろん、映画のプロではないわけですから、駄作映画監督の作品よりもみっともない作品となります。
いい気になって映画評論などしていると、思い上がった浮かれ者として世の笑いものとなるでしょう。
映画を撮ることは大事業なのだと気づかせてくれるのが駄作映画の「無用の用」といえます。
駄作映画ならではの用があります。
フルトヴェングラー指揮の第九(1951年)
フルトヴェングラー指揮の第九を聴きました。
1951年7月、バイロイト祝祭管弦楽団による演奏です。
バイロイトの第九として有名な演奏であり、私が以前から聴いていたのもこの演奏です。
改めて聴いてみたところ、やや緩やかな感じを受けました。
最後は、激しく、はち切れんばかりの演奏となっています。
有名な演奏ということを考えずに聴いてみると、素晴らしい演奏ではありますが、あえて特別に有名な演奏であると持ち上げる必要はないと感じられました。
特別扱いせずとも、素晴らしいものは素晴らしいという態度でこの演奏を今後も聴いていきたいと思います。
また、他のフルトヴェングラーの演奏も聴いていきたいと思います。
1951年7月、バイロイト祝祭管弦楽団による演奏です。
バイロイトの第九として有名な演奏であり、私が以前から聴いていたのもこの演奏です。
改めて聴いてみたところ、やや緩やかな感じを受けました。
最後は、激しく、はち切れんばかりの演奏となっています。
有名な演奏ということを考えずに聴いてみると、素晴らしい演奏ではありますが、あえて特別に有名な演奏であると持ち上げる必要はないと感じられました。
特別扱いせずとも、素晴らしいものは素晴らしいという態度でこの演奏を今後も聴いていきたいと思います。
また、他のフルトヴェングラーの演奏も聴いていきたいと思います。