人の悩みの中で大きな割合を占めるのは人間関係であると思われますが、人間関係といっても「人を相手にする」から起こりうることであって、人を超えた何がしらのものを基準にした場合、人間関係の悩みがあまりにも小さく感じられるものです。
西郷南洲遺訓では、人を超えた何がしらのものを「天」と表現しています。
敬天愛人ですから、天を敬うということですね。
稲盛和夫「敬天愛人 西郷南洲遺訓と我が経営」第4講 利他
「策には策をもって対し、悪意には悪意をもって処す―。それが人の陥りやすい性であり、すぐに醜い騙し合いや足の引っ張り合いが始まる。人を相手にするからそうなるのです。だから、物事を判断する時は、それが天の道に恥じないことか、人の道を踏み外していないかということだけを基準にせよと言っているのです」(「日経ビジネス」2005年10月24日号107頁)
しかし、天を敬う前に、他人を気にし、他人を相手にし、他人の悪いところに振り回されといったことが多いようです。
また、悪意に対して悪意をもって処しているならば、自分自身もその悪意に飲み込まれてしまいます。
自らを省みて天を敬えばよいのですが、目に見える事柄、目先の事柄に囚われてしまいます。
悪意のある人、マイナスオーラ満載の人などがおり、悪影響を及ぼされることがあります。
確かに、悪いのはその人たちであることが明らかであっても、その人たちを相手にしてはいけません。
また、その人たちを無視して足りるというものでもありません。
天の道、人の道に照らして、適切に対処することが肝要でしょう。
この「適切に対処する」ということは相当な大人でなければできないことでしょう。
単に年を取って老いていく大人になるのではなく、年輪を重ねながら味わいのある行動のできる大人になりたいものです。