衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命 時我及衆僧 倶出霊鷲山
創価学会教学部編. 妙法蓮華経並開結 (Kindle の位置No.13007-13013). 創価学会. Kindle 版.
「不自惜身命」とありますので、そのまま読めば、自らの命を惜しまないでという意味にとれますが、本当に命を惜しまないでという意味なのでしょうか。
気になりましたので、サンスクリット語からの翻訳を確認してみました。
それらの衆生たちが素直で、柔軟で、温和で、また愛欲を離れた状態になったとき、そこにおいて私は、声聞たちの集団(声聞僧伽)を形成して、グリドラクータ山(霊鷲山)に自身〔の姿〕を現わすのである。
植木雅俊訳『梵漢和対照・現代語訳 法華経』下 岩波書店 239頁
「不自惜身命」に該当すると思われる箇所は、「愛欲を離れた状態」のところですね。
単に命を惜しまないでという意味ではなく、愛欲にまみれた煩悩の命を離れた状態という意味なのですね。
自らの命そのものを捨てるのではなく、煩悩まみれの程度の低い命、愛欲だらけのみっともない命を捨てよというメッセージなのですね。
そうすると、仏と共に霊鷲山に至ることができるという。つまり、成仏できますよということですね。
「不自惜身命」という言葉だけに囚われますと、自らの命を大切にしないという間違った修行をする可能性がありますが、サンスクリット語からの翻訳も確認することで、正しく法華経を理解し、正しく修行することができます。自らの低い境涯を捨て、高い境涯を目指すという仏道修行ができるのですね。
確かに、「不自惜身命」は、力強い表現ですので、インパクトはあるのですが、インパクトがありすぎる分、誤解する人間も出てくると思われます。地道な研鑽を通した上で実践に至りませんと危険ですね。