「三類の強敵」とは、俗衆増上慢、道門増上慢、僭聖増上慢のことですが、「唱法華題目抄」において、法華経の文と妙楽大師の法華文句記巻八の四の文とを出して、まとめてくれています。御書を読めば、「三類の強敵」が文証付きで理解できるのですね。御書新版では、8頁から9頁にかけて記載されています。
「悪知識」とは、簡単に言うと、人を不幸に陥れる人間のことですが、「唱法華題目抄」では、涅槃経の文、章安大師の言葉を引用しながら説明を加えています。
故に、涅槃経二十二に云わく「悪象等においては心に恐怖なく、悪知識においては怖畏の心を生ず。何をもっての故に。この悪象等はただ能く身を壊るのみにして、心を壊ること能わず。悪知識は二つともに壊るが故に。乃至悪象に殺されては三趣に至らず、悪友に殺されては必ず三趣に至る」文。この文の心を章安大師宣べて云わく「諸の悪象等は、ただこれ悪縁なるのみにして、人の悪心を生ずること能わず。悪知識は甘談・詐媚・巧言・令色もて人を牽いて悪を作さしむ。悪を作すをもっての故に人の善心を破る。これを名づけて殺となす。即ち地獄に堕つ」文。文の心は、悪知識と申すは、甘くかたらい、詐り媚び、言を巧みにして、愚癡の人の心を取って善心を破るということなり。
『日蓮大聖人御書全集』新版 10頁 (唱法華題目抄)
ここで言う「悪象」は、単なる悪人、ただの悪人といった感じですね。確かに注意すべき悪人ではあるのですが、自らの心に悪心を抱かせるほどの悪人ではないため、悪人の程度としては、大したことがないといえます。
しかし、「悪知識」となると、善き心が破られ、悪心とさせられ、結局、地獄に落とされるというのですから、根本的な悪人といえます。注意すべきは、「悪知識」ですが、この「悪知識」は、甘い言葉で近付いてくるというのですね。詐術を使い人を騙しながら、媚びへつらうことさえします。また、口がうまいようで、弁舌爽やかであり、人の心の中にある愚かな側面を見逃さず、そこに集中攻撃をかけながら、人の善き心を破るのですね。
これは、見破るのが困難といえましょう。人は甘い言葉で寄ってこられると、つい気が緩むようで、まんまと騙されるのですね。
「悪知識」を信用してはいけないのですが、信用してしまった場合、どうなるのか。「唱法華題目抄」の記載を確認してみましょう。
日本国中の諸人は仏法を行ずるに似て仏法を行ぜず、たまたま仏法を知る智者は国の人に捨てられ、守護の善神は法味をなめざる故に威光を失い利生を止め、この国をすて他方に去り給い、悪鬼は便りを得て国中に入り替わり、大地を動かし、悪風を興し、一天を悩まし、五穀を損ず。故に、飢渇出来し、人の五根には鬼神入って精気を奪う。これを疫病と名づく。一切の諸人、善心無く、多分は悪道に堕つること、ひとえに悪知識の教えを信ずる故なり。
『日蓮大聖人御書全集』新版 11頁 (唱法華題目抄)
仏法を知る智者が不遇になるようですね。また、守護の善神はどっかに行ってしまうようです。その代わりに悪鬼が国中を暴れ回り、地震、悪天候、不作、飢饉、疫病と数々の災難を起こすのですね。これが「悪知識」の故というのですから、いよいよ「悪知識」には気を付けなければなりません。根本的な悪が「悪知識」というわけです。
また、「唱法華題目抄」では、本尊と行儀についても述べられています。
問うて云わく、法華経を信ぜん人は、本尊ならびに行儀、ならびに常の所行はいかにてか候べき。
答えて云わく、第一に本尊は法華経八巻・一巻・一品、あるいは題目を書いて本尊と定むべしと法師品ならびに神力品に見えたり。また、たえたらん人は釈迦如来・多宝仏を書いても造っても法華経の左右にこれを立て奉るべし。また、たえたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし。
行儀は本尊の御前にして必ず坐立行なるべし。道場を出でては行住坐臥をえらぶべからず。常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし。たえたらん人は一偈一句をも読み奉るべし。助縁には南無釈迦牟尼仏・多宝仏・十方諸仏・一切の諸の菩薩・二乗・天人・竜神八部等、心に随うべし。愚者多き世となれば、一念三千の観を先とせず。その志あらん人は、必ず習学してこれを観ずべし。
『日蓮大聖人御書全集』新版 17頁〜18頁 (唱法華題目抄)
文応元年の段階で、曼荼羅本尊の相貌の主要な部分があらわれています。法華経八巻が本尊と言っていますね。また、一巻、一品という言い方もしています。その後、あるいは題目と言っています。法華経八巻が本尊であり、その一部である一巻、一品だけでなく、題目も本尊ということであり、これを書いて本尊と定めるとしています。
題目だけでは物足りない向きには、釈迦如来、多宝仏を書くとあり、また、十方の諸仏、普賢菩薩等をも書いてよしとしています。まさに、曼荼羅本尊の中心部分の相貌があらわれています。
その本尊の前での行儀はどうすべきか。「必ず坐立行なるべし」ですから、座ったり(坐)、立ったり(立)、歩いたり(行)ということであり、座るだけではないのですね。立ったままでもよく、歩いてもよいわけで、動きがある行儀となっています。座るにしても、正座してもよいし、椅子に座ってもいいですね。そもそも立ったままでもよく、歩いてもいいわけで、正座にこだわる必要もなければ、座ることにこだわる必要もないでしょう。信仰は動きの中にあるといえるでしょう。
「道場を出でては行住坐臥をえらぶべからず」ですから、歩いたり(行)、立ったり(住)、座ったり(坐)、横に寝たり(臥)してよいとあります。横になる以外は、「坐立行」と変わりがありません。横になっていても題目をあげることができますから、信仰の形としては、柔軟性がありますね。ある意味、信仰心がしっかりしていれば、なんでもありということでしょう。ただ、その信仰心がぐらぐらなのが凡夫なのでしょうね。
最後に「唱法華題目抄」では、よく引用される最後の文を見てみましょう。
ただ法門をもって邪正をただすべし。利根と通力とにはよるべからず。
『日蓮大聖人御書全集』新版 23頁 (唱法華題目抄)
つい、宗教というと「利根と通力」が重要と感じてしまいますが、日蓮仏法にとっては、「利根」という、いわば才能のようなもの、勝れた資質のようなものは、確かに重要ではあるけれども、根本とすべきほどのものではないのですね。また、「通力」という、いわば超能力のようなもの、絶大な力といったもの、魔力といったものは、日蓮仏法においては、どうでもよいようです。日蓮仏法は、あくまで「法門」によるべしということなのですね。
世の宗教を概観しますと、「通力」を売り物にしている宗派がありますが、日蓮からすると偽物ということですね。宗教は、やはり、「法門」で判断すべきですし、「法門」に基づいて信仰したいと考えています。「通力」で信仰するのは困難ですね。あやふやなものというよりは、単なるインチキなのですから、そもそも、信仰に値しません。
信仰する場合は、「法華経」、「御書」を中心として信仰していくべきでしょう。