一、「等雨法雨(等しく法の雨を雨らす)(等しき法の雨雨る)」の事
仰せに云わく、「等」とは、平等のことなり。善人・悪人、二乗・闡提、正見・邪見等の者にも、妙法の雨を惜しまず平等にふらすということなり。
『日蓮大聖人御書全集 新版』1152頁(御講聞書)
日蓮仏法の功徳は、雨が等しくすべてのものを潤すように、どのような人々にも平等に降り注ぎます。
ここに差はないのですね。邪見の者にも妙法の功徳が降り注ぐのですから、その余の人々に降り注ぐのは当然ですね。
仏法においては、まず、すべての人々に功徳の雨を降らせるのですね。ただ、その後、いつまでも邪見のままであるならば、無間地獄となります。まずは、功徳を与えるのが仏法のようです。この意味で平等なのですね。
ただ、その後が問題ですね。信仰をするのか、邪見のままであるのかという点において差が生じます。いくら仏が慈悲深かろうとも、信仰をしない人に対しても平等とするわけにはいきません。やはり、信仰のあるなしという差があるならば、然るべき報いで違いを出す必要があります。
信仰がある人には仏界の境涯、邪見の者には地獄界の境涯という風に差をつけるのですね。
仏は、常に平等に妙法の雨を降らしますが、そのチャンスをものにすることが肝要です。受け手である我々が信仰によって、その妙法の雨を自らのものにできるか、そこがポイントですね。