大衆も、日蓮を心えずにおもわれん人々は、天にすてられたてまつらざるべしや。こう申せば、愚癡の者は、「我をのろう」と申すべし。後生に無間地獄に堕ちんが不便なれば申すなり。
『日蓮大聖人御書全集 新版』1208頁(清澄寺大衆中)
清澄寺の大衆に対して与えられた書の一節です。清澄寺の大衆の中には、日蓮を理解し得ないと思っている人々がいたようです。日蓮は、そのような人々に対して、天に捨てられないようなことがあろうか、いや、捨てられるに決まっていると言うのですね。このように言うと、愚か者は、「我を呪っている」と言うだろうとしています。
日蓮がこのようなことを書いているところからすると、実際に、「日蓮は、我を呪っている」と人々に言われていたことが窺われます。日蓮からすると、死んだ後に無間地獄に堕ちてしまうのが可哀想なので言っているのであり、ある意味、慈悲の言論ということなのですね。
やはり、日蓮ほどの人であっても、「日蓮は我を呪っている」と言われることを気にしているようですね。呪っているのではなく、慈悲の気持ちで言っているのですよと弁明しているところが興味深いですね。
日蓮は、厳しく他宗排撃を行っていますから、「日蓮は、呪いをかけている」と言われていたでしょうね。日蓮としては不本意でしょうが、他者はそのように思っていたようです。考えてみますと、手厳しく批判されると「呪っているのか」と言いたくもなるでしょう。
ただ、日蓮は、呪う気持ちなど全くなく、正しい法門を追求する過程での厳密な言論をなしていただけなのですね。
正しい仏法を追究し、法華経こそ最第一との確信を得てからの言論には、他宗への配慮はなくなり、容赦ない言論をしていましたから、誤解されることも多かったでしょう。公場での法論を求めても応じる僧はおらず、日蓮としては、心苦しかったでしょうね。
日蓮の本意は、清澄寺の大衆にも、なかなか伝わらなかったことが、この御文からも窺われます。ましてや、他宗の人々には伝わらなかったでしょうね。
我々としては、日蓮の言論は、無間地獄への道を塞ぐ言論であることをしっかりと認識し、信仰に励むことですね。