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2021年04月14日

Jの話A

@の話は1985年〜1987年の夏までの話だ。
毎日仕事して、飲んで過ぎて行った。変化があったのは1987年の夏の終わりころ。寮を出る決意をし、公団(今のURか)に申し込んでいたら当選した。さあ引っ越しだと荷物をまとめていた。
その引っ越しの準備をした次の月曜日に転勤の内示があった。
札幌支店だ。

引っ越し準備の荷物は札幌送りとなった。新居は一度も住まずに床磨きをしただけだった。購入していた家電製品をお届け前にキャンセルしたのも覚えている。
会社の先輩がやってくれた送別会は盛大だった。事業部を問わず入社3年目の若造に100人近い人が来てくれた。会社内では色んな人たちと関わりを持っていた。その殆どが一緒に酒を飲んだという関係だっただろう。時代はバブルと言われる時代に入っていたが、全く実感も金もなかった。
1987年の9月の終わりだったろうか、東京の会議に出てから、札幌支店で上司になる人と一緒に札幌に行った。その上司は熊のような風貌、まさに熊のいる地にさらわれていくような気持だった。
その人が言った「○○、北海道って熊がシャケ加えて歩いていると思ってるだろ、全然違うからな」
熊に言われても実感がなかった。

Jとは事業部も違うし疎遠になった。札幌に転勤してしばらくしてJが会社を辞めた。その辞める時に電話で話したと思う。Jは家に戻って家業を継ぐということだ。家は縫製工場を営んでいる。
転勤した翌年1988年の最初の頃だったろうか。いや、転勤した年だったろうか。覚えていないが、咳が止まらず息が苦しい。住んでいた建物内にある医者に行ったが良くならない。息が出来ずに眠れもしない。タクシーに乗って一番近い病院に駆け込んだ。
救急車を使っていないのだが、すぐに診察してくれた記憶がある。それほどひどく見えたのだろうか。

結果は喘息だ。急性気管支炎。大阪にいるときから息苦しくて寝られないことはあった。
札幌の寮はマンションで部屋は暖かい。誰も掃除をしないダニがいる絨毯に寝転んでいたことが原因かもしれない。
そのまま入院となった。この時のことはずいぶん前に書いたか。1週間の入院となった。
色っぽい看護師さん、刑務所に服役している囚人、同じ部屋の人、喫茶室の金がかけられる麻雀ゲームなど面白いことがたくさんあった。

札幌での仕事は馴染めないでいた。
大阪では上司も厳しかった。先輩たちとは会社の文句を言いながら飲む毎日だったが、決して後ろ向きでなく、どうすれば良くなるかということでの文句だった。
そういう意味では何か同じ志を持った仲間という絆があった。新入社員からそれを植え付けられた。
札幌支店ではそれを感じなかった。東京・大阪(両本社)の顔色だけを窺い、スキさえあればサボるという雰囲気だった。もちろん皆が皆ではないが。意味のない慣習だけが残っていた。

退院してからだったか、上司が変わった。前の上司はいい性格なのだが、出世欲が強かった。当時の店次長の批判を支店長に告げ口して自分がその地位に収まった。その告げ口の場が、僕の退院祝いという口実で支店長を誘った寿司屋だった。
プリンスホテルの寿司屋。美味しくて次から次へと注文した。会社の金だ。札幌支店は複数で車に乗って出張して普通の交通費を請求して分けるなどをしていた。これも大阪時代では考えられないことだった。
次の上司は東京で役に立たずに追い出された、パンチパーマをあてた人だった。ファッション業界では見かけないタイプだ。酒好きのいい人だが、仕事は理解不能だった。

担当しているブランドの札幌の代表として月に1回、東京での事業部経営会議に出席していた。売り上げの見通し・在庫管理・利益などの資料も作成していた。
事業部で2つのブランドがあった。上司がもう一つにブランドで出席。
そのパンチパーマは、合計の計算をよく間違えていた、事業部長に、お前は足し算もできないのかとよく怒られていた。足し算のミスならまだいい、マネジメントというコトバ自体が彼の中にはなかった。
そんな人と合う訳ない。Jがよく言っていたコトバ「〇〇な、アホと付きおうたらアホがうつるんやぞ」
今でもそのコトバ、その時の声が耳に残っている。

いい加減、サラリーマンが嫌になっていた。
「お前はサラリーマンか」よく大阪時代に先輩たちの口から叱る時に時に出たコトバだ。
そうなのだ、我々はサラリーマンなのだ。でも、単に給料だけを貰って、向上心のカケラもない奴らをサラリーマンである我々がサラリーマンを否定したことを言っていた。
当時のアパレル業界は、普通の企業と違った色だった。一癖も二癖もあるような人が多かった。単に服が好きなオシャレだけの人ではない自分を持った精神力の強い人が多かった。
でも、それは東京とか大阪に勤務している人たちだけで、支店というのはどこか牧歌的な雰囲気だったのかもしれない。それは、その後に色んな所に住んで感じることはあった。
決して地方がダメと言っている訳でない、同じ会社でも支店によってカラーが違うのだ。

そんな時に電話があった。
Jだ。実家の縫製工場に入って、新しいことを始めているらしい。
同郷だ。「お前、もう帰ってきて一緒にやろか」と誘ってくれていた。ただ、積極的な誘いではない。
そりゃそうだろう、大手企業を辞めさせて来いとは言えないのだ。それは長い付き合いでよく判った。
札幌という土地は好きだが、仕事では我慢の限界だったかもしれない。
もう辞めようと思った。1988年の夏。札幌に来てまだ1年を迎えていなかった。

長くつまらない話だろう。ただ、自分のブログだ。ご勘弁を。
この時代に得たことが良くも悪くも自分を創っている。長い話だ、一旦ここまでで。
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posted by shigenon at 07:50| Comment(0) | TrackBack(0) | リハビリ
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2014年クリスマスイブのプレゼントは最悪でした。 「頸髄損傷」というケガなのか病気なのか・・その症状との戦いの記録と現在の日々をアップします。 (2018年4月追加) 不全の頸髄損傷は「健常な人」に見えます。“ふつうに見える”様に努力をしています。が、反面、「もう良くなったんだ」と思われがち。 骨折とは違い、中枢神経の損傷は完全回復はしないという現実。 「健常に見える」「もっと良くなるよう努力する」「もう治っているんでしょ」の狭間で何とか毎日を過ごしています。
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