身の回りの電子機器類は薄型・小型化。スマホがそうだ。電源、ボリュームのボタンの押ししろは0.1oもないだろうか。普通の人が押した・押していないを感じられる感触のみの可動なのかもしれない。
受傷後、こういったボタンに苦労した。
押している感覚がないのだ。特にボリューム。大抵が上を押すとアップ、下でダウン。その境界線はふつう見なくても感触でわかる。
それが判らない。押しているのか押していないのか。ヘタすればボタンの突起も見ないと判らない。
今はどうか。
何とか使えている。それは慣れなのだろう。決して指の感覚が良くなったとはいえないのだ。感覚は良くなっていないが、意識が変わる。何かを触るときに意識することが増えたのだ。
その行為をする時の注意事項みたいなものが、どんどん頭にインプットされてくる。例えばスマホの電源スイッチであれば長押しすれば電源が落ちる。指の感触で長押ししてしまったかどうかは判らない。
だから触っても瞬間だけの動きにするようにする。
基本的には何でも視認するようになった。
視認しても判らないものがある。熱い料理が入った器がそう。基本的に熱いとは思っているが、ふつうは熱いかどうか器の料理が入っていない部分を触って判る。ふつうは一瞬の判断だ。持てると思ったらそのまま持つ。持てない熱さになっている時もある。その一瞬の判断ができない。
指先の熱さが脳に伝わるまでのタイムラグが長い。
感覚というのはその部分が感じているという認識になりがちだが、そのプロセスは瞬時に脳との判断の往復がなされている。
そう思ったら、痺れや痛みも怖くない。健常な人に痛さや痺れが出たら、それは何か特別なことが起こったこと。中枢神経がイカれたのだったら、それは症状として起きているだけなのだ。壊れたおもちゃが、時々動き出すのと同じだ。
昨日、寝つきが悪くて考えていた。
この日、特別に調子は良くも悪くもない。フラットな自分で考えると、右脚はけっこう痺れているなと。ふつうだったら怖くて動かせないよなと。右足首から下の痺れは強い。これでよく地面を踏もうとしたなと。足首を捻って地面に着いても感覚はわからない。
これも、視認しながら地面に着くということを自然と繰り返した。
結果的に考える、何も怖くない。ただ脳が痺れていると感じているだけなのだ。
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