友人のお通夜の翌日、同級生3人と呑んだが、その1人の奥さんが亡くなったという知らせ。
F君は中学・高校・大学と同じだった。大学が同じだったというのを知ったのはかなり後でだったのは、彼は2浪していたからだ。SNSで繋がったのはここ10年以内だったか。
早くに結婚したようで、SNSには孫と一緒の写真などをアップしていた。3月にこちらに戻ってきたときに喜んでくれた一人でもある。2回目の同級生会の後に2人で呑みに行ったこともあった。
最近の同級生会は欠席だった。仕事が忙しいと聞いていた。
それは違って、奥さんがガンで末期だったと聞いたのは先週。もう終末医療だと涙を流しながら話していた。
知り合いそのものが亡くなる悲しみは喪失感、知り合いの身内が亡くなるのは、その知り合いの喪失感を思っての悲しい気持ち。どちらにせよ心の中がジンジンとした痛みになる。
最近は死を意識することがなかった。身の回りの人が死んで死を意識する、同時に生きているということの喜びを改めて感じさせてくれる。
自分自身も、もう少し強い衝撃であれば死という状態だったかもしれない。
そう思ったのはかなり後になってからだった。だから入院中も、急性期に見られる症状に苦しみながらも生死について思いもしなかった。
頚髄損傷という診断名を聞いても解っていなかったのだ、寝ていれば治る病気しかしたことがないし、そう思っていた。
退院してから2人の友人の死に直面した。東京から関西まで自分の結婚式に来てくれたのは3人。
当時ほぼ毎日飲んでいた居酒屋Sのマスター、Aさん、山ピー。この3人が東京の兄貴なのだ。
Aさん https://fanblogs.jp/shigenon/archive/160/0?1699409681
山ピー https://fanblogs.jp/shigenon/archive/53/0?1699409445
誰かの死に直面した時に自分の生を感じる。それは葬式で坊さんが良く話すことでもある。
受傷した12月24日を何度も自分のもう一つの誕生日と書いている。
それは自分が死なずに生き永らえたからでもあるが、それまでとは違って“不自由な身体”という自分に負荷された元年ということもある。
生に対する考え方は人それぞれだろう。生きていること、健康であること、好きなことができること、優先順位は色々あるだろうが、生きているということ自体に感謝するべきなのだろう。
身体の調子は特別良くもなければ悪くもない。
火曜日はジムの休館日、特にケアもせずにダラダラ過ごす。生を無駄にしているのだろうか、いや、これも生きているからこその幸せだと言い訳しながら。
谷村新司、もんたよしのりと青春時代のシンガーが最近亡くなった。一人でカラオケに行って歌った。
持ち込みハイボールで良い酔いだった。
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