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2017年10月08日
本山氏
檜 扇
(出自不詳、清和源氏の裔か)
本山氏は、土佐国長岡郡本山城を本拠として、のちに高知平野に進出して棚倉城に拠り、土佐の戦国群勇のなかにあって、おおきな勢力を形成していた。しかし、その先祖については不詳としかいいようがない。
『土佐物語』には「八木伊典といふものが、何の頃にか、本山に来たりて居住す。其の子養明、其の子茂宗まで三代、本姓を改めて本山と号す。是は清和源氏吉良氏の庶流と云う。」とある。また『南路志』にも「本山氏は清和源氏吉良氏の庶流八木伊典、初めて当国に来、城を築云々」として本山氏は清和源氏に発し、吉良氏庶流の八木氏であると伝えている。しかし、『土佐名家譜』では吾川郡芳原村の若一王子宮、高岡郡蓮池村の西宮八幡宮の棟札には「大檀那 平茂辰」とあることによって、平氏であると述べている。また、但馬国造八木氏の子孫であるとするものもある。要するに、本山氏の先祖については決定的な説はないというのが現状だ。
いずれにしても、中世の吾橋庄を中心として活躍した八木氏のあと、戦国の動乱期にあらわれたのは、養明・茂宗・茂辰の三代であった。本拠の本山は山部であり、生産力の高い平野部と流通経済の活動が便利な海港地帯を確保するため、南部への進出をはじめたのである。文明頃には、現在の高知市市域まで勢力を伸長していたようだ。
永正五年本山養明が首謀者となって、山田・大平・吉良の諸氏とともに長宗我部兼序を討ち、土佐郡から吾川郡へと勢力を広げた。その子茂宗は土佐戦国諸豪族のなかでも傑出した人物であった。本城を子茂辰に譲って土佐朝倉城に移り、兼序の子である、長宗我部国親と対決することとなった。
国親は弘治二年土佐郡に出兵、本山氏に属する諸氏と戦った。こうして永禄三年本山・長宗我部の激突がはじまったのである。そして長浜戸の戦で本山軍は長宗我部軍によって一敗地にまみれ、浦戸城を包囲された。しかし、国親は急に囲みをといて兵をひきあげ、岡豊に帰城した。不可解としかいえない行動であった。そして国親は急に病に伏し、帰らぬ人となってしまった。
国親のあとを継いだ元親は、本山氏をを徐々に圧迫し、ついに、永禄五年本山茂辰の拠る朝倉城に攻撃をかけた。 たがいび勝敗はあったが、翌年茂辰は朝倉城を退き、本城本山城に退去していった。こうして本山氏は昔日の面影を なくし、茂辰の子親茂の代になって、長宗我部氏に敵すべくもなく降参を請い、いれられて和睦がなった。以降、 本山氏は長宗我部氏の支配下に組み入れられた。
2017年10月07日
天皇の一覧
代 | 天皇名 | 読み |
---|---|---|
第1代天皇 | 神武天皇 | じんむ |
第2代天皇 | 綏靖天皇(綏天皇) | すいぜい |
第3代天皇 | 安寧天皇 | あんねい |
第4代天皇 | 懿徳天皇(懿コ天皇) | いとく |
第5代天皇 | 孝昭天皇 | こうしょう(かうせう) |
第6代天皇 | 孝安天皇 | こうしょう(かうせう) |
第7代天皇 | 孝霊天皇(孝靈天皇) | こうれい(かうれい) |
第8代天皇 | 孝元天皇 | こうげん(かうげん) |
第9代天皇 | 開化天皇 | かいか(かいくゎ) |
第10代天皇 | 崇神天皇(崇~天皇) | すじん |
第11代天皇 | 垂仁天皇 | すいにん |
第12代天皇 | 景行天皇 | けいこう(けいかう) |
第13代天皇 | 成務天皇 | せいむ |
第14代天皇 | 仲哀天皇 | ちゅうあい |
第15代天皇 | 応神天皇(應~天皇) | おうじん |
第16代天皇 | 仁徳天皇(仁コ天皇) | にんとく |
第17代天皇 | 履中天皇 | りちゅう |
第18代天皇 | 反正天皇 | はんぜい |
第19代天皇 | 允恭天皇 | いんぎょう |
第20代天皇 | 安康天皇 | あんこう(あんかう) |
第21代天皇 | 雄略天皇 | ゆうりゃく(いうりゃく) |
第22代天皇 | 清寧天皇(C寧天皇) | せいねい |
第23代天皇 | ||
皇室
皇室(こうしつ)は、天皇および皇族の総称[1]。 狭義には内廷皇族、広義には天皇とその近親である皇族を意味するが、皇族の範囲は時期によって異なる。 近代(明治維新)以降は、天皇と内廷皇族を家族とする内廷と皇太子以外の皇族男子及びその家族で構成される宮家を意味する。
皇室典範第五条に定める、天皇の配偶者である皇后、先代の天皇の未亡人である皇太后、先々代の天皇の未亡人である太皇太后、また、皇太子(皇太孫)、皇太子妃(皇太孫妃)、皇族男子たる親王、王、さらには生まれながらの皇族女子である内親王、女王がある。親王妃、王妃は親王、王の配偶者となることをもって、皇族とされる。戦前(大日本帝国憲法下、日本国憲法施行まで)においては、帝室(ていしつ)とも呼ばれていた。
一般国民の女性は、皇族男子との婚姻により皇族になることができる。また、15歳以上の内親王、王、女王はその意思により、皇太子、皇太孫を除く親王、内親王、王、女王は、その意思によるほかにやむをえない特別の事由があるとき、皇室会議の議決を経て皇族の身分を離脱できる。なお、皇族女子は天皇、皇族以外の者と婚姻したとき皇族の身分を離れる(臣籍降下・臣籍降嫁)
2017年10月04日
織田氏
織田氏(おだし)は、日本の氏族・武家。斯波氏の家臣の家柄。家紋は揚羽蝶、織田木瓜など。通し字は嫡流・伊勢守家の「広」、大和守家の「定」、後に近世大名となる弾正忠家の「信」など。
織田一族の発祥地は越前国織田荘(福井県丹生郡越前町)にある劔神社である。本姓は藤原氏(のちに平氏を称する)。実際は忌部氏の流れを汲むとされる。甲斐氏、朝倉氏と同じく、三管領の斯波武衛家の守護代であり、序列は甲斐氏に次いで二位であった。室町時代は尾張国の守護代を務める。戦国時代には一族同士の争いの結果、弾正忠家の織田信長が勢力を大きく広げた。しかし、天下統一を目前に本能寺の変で信長および嫡子の織田信忠が討たれると織田家有力家臣の勢力争いとなった。最終的に羽柴秀吉が織田家中を纏めたが、織田家当主とされた織田秀信成長後も政権は織田家に返されることはなかった。しかし織田家の本国である岐阜城は返却され美濃の領主とされた。関ヶ原の戦いで西軍についたことで徳川家康により織田秀信が改易され、5年後の彼の死を以って織田家嫡流は断絶したと言われている。しかし、織田信長の次男である織田信雄を筆頭に弾正忠家の庶流は存続し続け、江戸時代には外様の小大名や高家、旗本、尾張藩や明石藩家老などとして存続した。なかには藤掛氏、津田氏のように織田を称しない一族もいる。現在でも直系子孫が続いている。
明治維新後、大名の織田家四家が子爵に列した。
織田氏は系図の上では平資盛の子と称する平親真を祖とする桓武平氏流と自称している。しかし、福井県越前町の法楽寺で発見された親真を供養した五輪塔の一部には「喪親真阿聖霊(あしょうりょう)正應三年庚刀(かのえとら)二月十九日未尅(ひつじのこく)」、つまり親真は正応3年(1290年)2月19日に亡くなったと刻印されており、『信長記』(小瀬甫庵)などの文献と照らし合わせると親真が100歳を超える寿命になり信憑性が問われる[1]。
この他、越前国織田荘(福井県丹生郡越前町)の織田剣神社の神官の出自であるともされている[2]。
また、福井県の郷土史家である松原信之の研究によると、織田剣神社にある『藤原信昌・兵庫助弘置文』の古文書で、明徳4年(1393年)の6月17日に剣神社宝前に奉納し、置文を記した鎮守府将軍・藤原利仁(あるいは利仁の岳父で、敦賀郡の豪族藤原有仁(忌部氏?))の系統と思われる藤原信昌、藤原兵庫助将広(常松?・常竹?)父子が越前織田家の先祖に関連がある人物と伝わる。事実として織田信長は「藤原信長」と称しているが、その根拠はここから来ており、元東京帝国大学史料編纂官の博士・田中義成の研究によると、信長は実際に天文18年(1549年)11月、熱田八ヶ村の熱田神宮で自ら「藤原信長」と認(したた)めていると述べているまた、天文23年(1554年)6月11日、織田信長は熱田神宮に菅原道真画像(熱田神宮所蔵)を寄進。その絵巻には「藤原織田勘十郎」と記してある。
また、他の学説としては、親真自身が忌部氏の出自とする説もある。
なお、「織田」の読み方について、『寛永諸家系図伝』仮名本の振り仮名を根拠として当時(江戸時代前期)には「をた(おた)」と読まれており、織田信長も生前は「おたのぶなが」と清音で読まれていた可能性があるとする橋本政宣の見解がある
蝦夷地(えぞち)
蝦夷地(えぞち)は、日本人がアイヌの居住地を指して用いた言葉で、江戸時代に使われた。和人地の対語である。渡島半島周辺を除く現在の北海道を中心に、樺太と千島列島を含む。なお、アイヌ人はそれらの島々をアイヌモシリと呼んだ。
明治以前の北海道・千島・樺太(からふと)の総称。また、特に北海道のこと。
明治以前の北海道・千島・樺太(からふと)の総称。また、特に北海道のこと。
2017年05月08日
土佐七雄(とさしちゆう)
土佐七雄(とさしちゆう)
土佐七守護(とさしちしゅご)とは
室町時代末期から戦国時代にかけて土佐国に存在した7つの豪族の総称。
戦国時代土佐七雄勢力図
「土佐物語」には香美郡楠目城主・山田氏、
高岡郡法巌城(ほうごんじょう)片岡氏を加えた9氏が記されている
土佐七雄の成り立ち
土佐国は古来より罪人などが流される地であり、北を四国山脈に塞がれ、南は太平洋に面しているため、どこにも行けぬ陸の孤島であった。南北朝時代に細川頼益が守護代として入国し安定を見せたが、応仁の乱により細川氏が衰退すると、在地の豪族達が勢力を伸ばし始めた。これが土佐七雄である。
土佐七雄一覧
(『長元物語』より。1貫 = 1〜2石)
土佐一条氏 - 土佐国司。七雄にとって盟主的存在。幡多郡中村城 16,000貫
本山氏 - 長岡郡本山城 5,000貫
吉良氏 - 吾川郡吉良城 5,000貫
安芸氏 - 安芸郡安芸城 5,000貫
津野氏 - 高岡郡姫野々城 5,000貫
香宗我部氏 - 香美郡香宗城 4,000貫
大平氏 - 高岡郡蓮池城 4,000貫
長宗我部氏 - 長岡郡岡豊城 3,000貫
本山氏- 長岡郡5000貫を支配した。
本山氏 家臣団
本山養明(もとやまやすあき)
本山茂宗(もとやましげむね)など。
居城は本山城
吉良氏 - 吾川郡5000貫を支配した。
吉良親貞(きらちかさだ)
吉良親実(きらちかざね)など。
安芸(安藝)氏 - 安芸郡5000貫を支配した。
安芸 国虎など
津野氏 - 高岡郡5000貫を支配した。
津野親忠など。
香宗我部氏 - 香美郡4000貫を支配した。
香宗我部 親秀
香宗我部親泰など。
香宗我部氏の代わりに香美郡の山田氏を入れる場合もある。
大平氏 - 高岡郡4000貫を支配した。
大平元国など。
長宗我部氏 - 長岡郡3000貫を支配した。
長宗我部氏歴代当主
長宗我部国親・長宗我部元親など。
この他、
長宗我部氏のルーツは一説には、蘇我氏一門の子孫説や秦の始皇帝説が言われている。元々、泰氏を名乗っており平安期から、鎌倉期に掛けて土佐に移り、長岡郡宗部郷(宗我部郷)に定住し、宗我部氏を名乗った。しかし、近隣の香美郡宗我郷に同じ宗我部を名乗る一族がいたため、それぞれ郡の一文字をいれ長宗我部、香宗我部と名乗った。
「土佐物語」によると長宗我部兼元秀(元親の祖父)の時、守護細川氏の権威をかさに着て傲慢な振る舞いを行ったため長宗我部氏は本山氏と周りの諸氏に攻められ自刃、一時衰退してしまう。 元秀の子千雄丸(国親、元親の父)は家臣に連れられて、一条氏の保護を受けその助力を得て旧領に戻ることが出来た。
その後は、元親の活躍があり土佐、四国をほぼ統一するも、豊臣秀吉の侵攻を受け降伏し、土佐一国のみを安堵された。長男信親の死以降長宗我部家は衰退していき、盛親の時代には関ヶ原で西軍につき、土佐を没収されることとなった。
土佐一条氏 幡多郡16000貫を領する土佐下向後も土佐国司、正二位の家格を誇り七雄の別格的存在である。
土佐七雄の成り立ち
土佐国は古来より罪人などが流される地であり、北を四国山脈に塞がれ、南は太平洋に面しているため、どこにも行けぬ陸の孤島であった。南北朝時代に細川頼益が守護代として入国し安定を見せたが、応仁の乱により細川氏が衰退すると、在地の豪族達が勢力を伸ばし始めた。これが土佐七雄である。
他、国人領主
土佐吉田氏
加久見氏(かくみし)
居城
加久見城(上城)
加久見 左衛門(かぐみ さえもん)
藤原姓。有力豪族で一条房家の生母は加久見土佐守宗孝の娘。
天正3年(1575年)長宗我部氏に降る。
天竺氏(てんじくし)
居城 大津城
別名 天竺城、大津御所
細川氏一族。天竺氏の滅亡に関しては諸説あり文明10年(1478年)津野基高または天文16年(1547年)頃に長宗我部国親に攻められ滅亡したともされる。
土佐七守護(とさしちしゅご)とは
室町時代末期から戦国時代にかけて土佐国に存在した7つの豪族の総称。
戦国時代土佐七雄勢力図
「土佐物語」には香美郡楠目城主・山田氏、
高岡郡法巌城(ほうごんじょう)片岡氏を加えた9氏が記されている
土佐七雄の成り立ち
土佐国は古来より罪人などが流される地であり、北を四国山脈に塞がれ、南は太平洋に面しているため、どこにも行けぬ陸の孤島であった。南北朝時代に細川頼益が守護代として入国し安定を見せたが、応仁の乱により細川氏が衰退すると、在地の豪族達が勢力を伸ばし始めた。これが土佐七雄である。
土佐七雄一覧
(『長元物語』より。1貫 = 1〜2石)
土佐一条氏 - 土佐国司。七雄にとって盟主的存在。幡多郡中村城 16,000貫
本山氏 - 長岡郡本山城 5,000貫
吉良氏 - 吾川郡吉良城 5,000貫
安芸氏 - 安芸郡安芸城 5,000貫
津野氏 - 高岡郡姫野々城 5,000貫
香宗我部氏 - 香美郡香宗城 4,000貫
大平氏 - 高岡郡蓮池城 4,000貫
長宗我部氏 - 長岡郡岡豊城 3,000貫
本山氏- 長岡郡5000貫を支配した。
本山氏 家臣団
本山養明(もとやまやすあき)
本山茂宗(もとやましげむね)など。
居城は本山城
吉良氏 - 吾川郡5000貫を支配した。
吉良親貞(きらちかさだ)
吉良親実(きらちかざね)など。
安芸(安藝)氏 - 安芸郡5000貫を支配した。
安芸 国虎など
津野氏 - 高岡郡5000貫を支配した。
津野親忠など。
香宗我部氏 - 香美郡4000貫を支配した。
香宗我部 親秀
香宗我部親泰など。
香宗我部氏の代わりに香美郡の山田氏を入れる場合もある。
大平氏 - 高岡郡4000貫を支配した。
大平元国など。
長宗我部氏 - 長岡郡3000貫を支配した。
長宗我部氏歴代当主
長宗我部国親・長宗我部元親など。
この他、
長宗我部氏のルーツは一説には、蘇我氏一門の子孫説や秦の始皇帝説が言われている。元々、泰氏を名乗っており平安期から、鎌倉期に掛けて土佐に移り、長岡郡宗部郷(宗我部郷)に定住し、宗我部氏を名乗った。しかし、近隣の香美郡宗我郷に同じ宗我部を名乗る一族がいたため、それぞれ郡の一文字をいれ長宗我部、香宗我部と名乗った。
「土佐物語」によると長宗我部兼元秀(元親の祖父)の時、守護細川氏の権威をかさに着て傲慢な振る舞いを行ったため長宗我部氏は本山氏と周りの諸氏に攻められ自刃、一時衰退してしまう。 元秀の子千雄丸(国親、元親の父)は家臣に連れられて、一条氏の保護を受けその助力を得て旧領に戻ることが出来た。
その後は、元親の活躍があり土佐、四国をほぼ統一するも、豊臣秀吉の侵攻を受け降伏し、土佐一国のみを安堵された。長男信親の死以降長宗我部家は衰退していき、盛親の時代には関ヶ原で西軍につき、土佐を没収されることとなった。
土佐一条氏 幡多郡16000貫を領する土佐下向後も土佐国司、正二位の家格を誇り七雄の別格的存在である。
土佐七雄の成り立ち
土佐国は古来より罪人などが流される地であり、北を四国山脈に塞がれ、南は太平洋に面しているため、どこにも行けぬ陸の孤島であった。南北朝時代に細川頼益が守護代として入国し安定を見せたが、応仁の乱により細川氏が衰退すると、在地の豪族達が勢力を伸ばし始めた。これが土佐七雄である。
他、国人領主
土佐吉田氏
加久見氏(かくみし)
居城
加久見城(上城)
加久見 左衛門(かぐみ さえもん)
藤原姓。有力豪族で一条房家の生母は加久見土佐守宗孝の娘。
天正3年(1575年)長宗我部氏に降る。
天竺氏(てんじくし)
居城 大津城
別名 天竺城、大津御所
細川氏一族。天竺氏の滅亡に関しては諸説あり文明10年(1478年)津野基高または天文16年(1547年)頃に長宗我部国親に攻められ滅亡したともされる。
長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)
長宗我部 元親
(ちょうそかべ もとちか)
(1539−1599)
背が高く、色白、物静か
姫若子(姫のような男の子)と呼ばれた。
四国土佐八家の中で最も弱小、
最下位にあったのが長宗我部家(ちょうそかべけ)
祖父の代には居城を失う、財力、兵力が無く
いつ滅亡しても、おかしくない家だった
元親が家督を継ぐとまさかの連戦連勝で土佐を統一
のちに四国制覇する
父は長宗我部 国親(ちょうそかべ くにちか)
祖父 長宗我部 兼序(ちょうそかべ かねつぐ)
土佐七雄勢力地図