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2019年12月18日

土佐国

土佐国(とさこく)
古くは都佐国、波多国、がありました。
大化の改新で土佐国となりました。『延喜式』では7郡。平安朝期の荘園としては幡多荘(摂家)や夜須荘(石清水八幡宮)などがありました。鎌倉期には有力御家人が守護となり、のち北条得宗家が支配しました。南北朝期に細川家が国内を平定し、室町期にかけて細川=京兆家が守護、細川=遠州家が守護代でした。戦国期に入ると公家の一条家が下向して国司となり、本山・安芸・香宗我部・長宗我部・津野・吉良などの諸家が分立しましたが、長宗我部元親が1575年に土佐を統一しました。豊臣秀吉は元親に土佐一国を安堵しましたが、関が原の際に長宗我部家は石田方に与して領地を失い、徳川家康は山内一豊に土佐を与えました。以後、江戸期には山内家が土佐藩として存続しました。1871年の廃藩置県により高知県が成立し、1876年に旧阿波国を合併しましたが、同地は1880年に徳島県として分離したので、県域が確定しました。

聖武天皇の時代には、伊豆、安房、常陸、佐渡、隠岐と並んで、流刑の中でも特に厳しい遠流の地であった土佐ですが、西部は伊予からの交通の便が比較的良かったため、幡多方面から東部へと次第に発展していったようです。古い時代の記録についてはよく分からない部分が多いのですが、幡多、高岡、吾川、土佐、長岡、香美(香我美)、安芸の七郡は割と古い時期に成立していたようですね。
「土佐」の名称の由来については、健依別の古称にちなんでその性「利し」と解釈したり、代表港浦戸の湾口が狭いので「門狭(とさ)」と考えたり、辺境なので「遠狭(とさ)」だろうと説明したり、これもハッキリしないようです。
四国地方に関しては「讃岐」、「伊予」、「阿波」、「土佐」という古い呼び名の方が、なんだか通りが良いようですね。
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