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2019年12月18日

波多国

波多国と波多国造
波多国とは、高知県の幡多地方

Screenshot_20191218-173500~2.png
高知県の幡多地方
四万十市・宿毛市・土佐清水市・黒潮町 ・ 大月町 ・ 三原村
はた旅(公式)より引用

のことで、当時都佐国と別に一国をなしていた。都佐国とは、土佐郡土佐郷を中心とした現在の高知市付近のことである。
大昔の国というのは、後世の国とは異なり、その地の豪族の勢力範囲をいったものであり、人々の集まり住むところであれば地域の大小に関係なく、一部落でも部落の集団でも、すべて「クニ」と呼んでいた。小さな「クニ」が統一され、やがて大きな国となるのである。
国造くにのみやつこというのは、大和朝廷が統一した部落国家に置いた地方長官であるが、多くの場合朝廷から派遣されたものでなく、朝廷につながりをもっていた地方の部落国家の首長がそのまま任命されて、世襲したようである。
『国造本紀』(823〜936)によると、土佐国は初め、波多国と都佐国の2国に分かれていて、波多国は第10代崇神天皇の世に、神のお告げによって、天韓襲命あまのからそのみことを国造に定められたと、次のように記されている。
 「波多国造、瑞籬朝御世、天韓襲命依神教云、定賜国造」
天韓襲命は、もと波多国の首長であったとも考えられるが「天韓襲命」という名前や、神のお告げによって任命されたといわれることから、特別の事情により選任された人であったと思われる(天韓襲命は帰化人ともいわれている。)
都佐国は第13代成務天皇の世(131〜191)に、長阿比古の同祖で、三島溝杭命9世の孫の小立足尼を国造に定めたと、これまた『国造本紀』に、次のように記されてある。
「都佐国造、志賀高穴穂朝御世、長阿比古同祖、三島溝杭命九世孫、小立足尼定賜国造。」
小立は、現在の尾立ひじに通じるものと考えられるので、高知市朝倉付近に勢力を張っていた豪族と思われる。
年代に関しては、波多国造の場合と同様、信じ難い点がある。それは、『国造本紀』による国造を置いた時期は、古墳築造年代等から考えて、信憑ぴょう性がないというのである。
現代の史学では、崇神天皇は大和朝廷初代の天皇とみるみかたが強いため、大和朝廷の成立を3世紀前半とすると、国造の起源が5世紀であるという学者の見解とあわないことになる。従って、波多国造の任命は、崇神天皇時代ではなく、もう少し下るのではないかとも考えられる。
このように、国造を置いた年代には問題はあるが、ただ波多国造が都佐国造より早く置かれたことは間違いないようである。
宿毛市平田町戸内にある高知坐神社の祭神は都味歯八重事代主命である。『土佐式社考』に「都味歯八重事代主神は大和国高市郡高市社の祭神であるからあるいは高知坐神は事代神主命であろう。高知・高市は相通ずる。……国造本紀には事代主命の9世の孫である小立足尼が都佐の国造となっているので、神名帳にある大和国高市郡波多神社もこれと同じであろう」とある。
また、『中村市史』には次のように述べている。「幡多郡に高知坐神社があり、大和国高市郡には高市御県坐、鴨事代主神社がある。また、高市郡に波多郷があることからみると、土佐の高知坐神社も波多という国号も、ともに大和の名を移したものであろう。幡多郡には賀茂神社もあることから考えると、天韓襲命は事代主命の神裔で大和から移住せられたものかも知れない。」
波多国造を置いた時期や国造がはたして誰であったかは諸説があり、今のところ確実なことはわかっていないが、ただ、県下最古最大を誇る曽我山古墳と高知坐神社の所在する宿毛市平田付近は、古代幡多地方において注目すべき地としてみることができ、大和朝廷との深いつながりをもっていたことが、以上の点からもうなずけるのである。
波多国ができた当時には、都佐国はまだ小さな豪族が争っており、大豪族が統一するまでには至っていなかったのであろう。とにかく、都佐国の国造よりも早く波多の国造が任命されているということは、都佐よリも波多が先に大和朝廷に統一され、大和の文化を早く移入したものと考えてよい。
5世紀頃の古墳が東郡に見当たらなくて、宿毛市平田にあることからもこの間の歴史的事情を裏付けることができるのではなかろうか。
宿毛市平田曽我山古墳の主は、天韓襲命か、あるいは、その直後の国造と推察される。古墳の大きさや形態から考えても当然国造級のものと考えてよいのではなかろうか。古代末期に波多郡を与えられた平重盛が、家人平田俊遠を平田に置いたといわれていることなどを併せ考えると、古代の幡多地方の首長は、やはり、平田か、その近くに居たのではないかと思われる。
なお、当時波多国と都佐国が別の国であったことを物語る資料に、『旧事本紀』があり、それによると、「紀伊、熊野……中略……風速、都佐、波多13国」とある。また、四国は長、粟、讃岐、伊余、努麻、久味、小市、風早、波多、土佐の10国に分かれていたことが『続日本紀巻6』に記されている。しかし、大化改新で国郡制が定められた時(大化2年=646)波多国を都佐国へ併合して土佐国となり、波多国は波多郡となったと『日本書紀』には「大化改制土佐国を建て波多郡を置く」とある。この時、改めて国司、郡司が任命されたようである。土佐という文字が使われるようになったのも、両国が併合してからである。その後、土左、土佐が混用され、和同6年(713)に「土佐」と正式に定められたのである。
波多が「幡多」に改められた時代は明らかではないが、『三代実録巻4』に「清和天皇の貞観2年(860)6月29日、土佐国幡多郡の地11町を施薬院に賜う」とあり、これが、「幡多」のみえた最古の記録である。
波多国が都佐国より早く大和朝廷に統一されたのは不思議のようであるが、別に不思議ではない。当時の交通路が伊予から都佐へ渡るようになっていたので、都佐の西にあった波多が一足先に、大和朝廷につながりをもったものと思われる。
当時の官道は、伊予経由であって、宇和郡から幡多を通って高知付近に行ったものである。南海道は、初め紀伊から淡路を経て阿波に渡り、讃岐、伊予を通って、波多から都佐の国府に達する経路であった。この迂回した経路については、土佐は初め西から開け、伊子の国主が土佐を管理していたためであったとも考えられる。「伊予の国主従五位上高安王をして阿波讃岐土佐三国を管せしめ玉ふ」(養老3年7月。『続日本紀』、『土佐国編年記事略』)とある。
しかし、この迂回による伊予経由が長路でしかも、険難であり不便であることから、国司が朝廷に上申して、阿波から直接土佐にはいる新道を開くことの要請をした。そのために、養老2年(718)5月7日に阿波から土佐の国府へ直通できるように許可されたのである。
以上のような事情から推察すると、昔は大和文化は瀬戸内海を西進し、伊予から波多に入り、更に、都佐に入ったものと考えてよいのではなかろうか。
その後、阿波経由となったために土佐の国府は発展したが、従来土佐への入口となって栄えた幡多は、これがために、土佐で最も僻遠の地となって、都からの往来も絶え、次第に文化に遅れて「陸の孤島」の地となったのである。

宿毛市史【古代編-波多と波多国造】
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