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2019年12月11日

長宗我部盛親

Screenshot_20191211-170904~2.png
長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)は、安土桃山時代から江戸時代前期の土佐国の大名・武将。長宗我部氏第22代当主。長宗我部元親の四男。戦国大名としての長宗我部氏の最後の当主。

生誕 天正3年(1575年)
死没 慶長20年5月15日
   1615年6月11日
改名 千熊丸(幼名)→ 盛親
別名 通称:右衛門太郎
   号:祐夢
戒名
領安院殿源翁宗本大居士
蓮国一栄大禅定門

墓所
蓮光寺(京都府京都市)
官位
宮内少輔、土佐守
主君
(長宗我部元親)→ 豊臣秀吉 → 秀頼
氏族
長宗我部氏
父母
父:長宗我部元親
母:元親夫人(斎藤利三妹)

兄弟
信親、香川親和、津野親忠、盛親、右近大夫、康豊


正室:長宗我部信親の娘(実姪)

盛恒、盛高、盛信、盛定

父・元親の死後に長宗我部家の家督を継ぐ。関ヶ原の戦いで西軍に属すが、敗色濃厚と見て戦わず帰国し、徳川氏に謝意を表した。しかし、帰国直後に重臣たちが浦戸一揆を起こしたことをとがめられ、領国を没収され浪人となった。のち豊臣側から故郷の土佐一国の贈与を条件に旧臣と共に大坂城に入城、大坂の陣が勃発し、戦闘に参加したが敗北。再起を図るため、逃亡したが捕らえられた後、処刑された。

生涯
家督相続

長宗我部盛親像(蓮光寺蔵)
時代
安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕
天正3年(1575年)
死没
慶長20年5月15日(1615年6月11日)
改名
千熊丸(幼名)→ 盛親
別名
通称:右衛門太郎
号:祐夢
戒名
領安院殿源翁宗本大居士
蓮国一栄大禅定門
墓所
蓮光寺(京都府京都市)
官位
宮内少輔、土佐守
主君
(長宗我部元親)→ 豊臣秀吉 → 秀頼
氏族
長宗我部氏
父母
父:長宗我部元親、母:元親夫人(斎藤利三妹)
兄弟
信親、香川親和、津野親忠、盛親、右近大夫、康豊

正室:長宗我部信親の娘(実姪)

盛恒、盛高、盛信、盛定
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父・元親の死後に長宗我部家の家督を継ぐ。関ヶ原の戦いで西軍に属すが、敗色濃厚と見て戦わず帰国し、徳川氏に謝意を表した。しかし、帰国直後に重臣たちが浦戸一揆を起こしたことをとがめられ、領国を没収され浪人となった。のち豊臣側から故郷の土佐一国の贈与を条件に旧臣と共に大坂城に入城、大坂の陣が勃発し、戦闘に参加したが敗北。再起を図るため、逃亡したが捕らえられた後、処刑された。

生涯 編集
家督相続 編集
天正3年(1575年)、長宗我部元親の四男に生まれる。幼名は千熊丸。

天正14年(1586年)の戸次川の戦いで長兄の長宗我部信親が戦死すると、兄の香川親和や津野親忠を推す一派と家督相続をめぐって争うが、父の後押しがあり[注釈 1]、天正16年(1588年)に世子に指名された。この家督相続には吉良親実をはじめとして反対する者が少なくなかった。その理由のひとつは、元々盛親は兄弟の中でも傲慢で短気な性格から人望が薄く、嫌悪感を持つ者がいたからである(しかし元親はそれらを全て処断している)。元親が少年である千熊丸を世子に指名した理由は、親和と親忠は他の家系を既に継いでいたこと[注釈 2]、何よりも溺愛していた信親の娘を娶わせるには上の2人では年齢差がありすぎたためともされている。豊臣氏の一門ではなく増田長盛を烏帽子親として元服し、「盛」の一字を授かって盛親と名乗ったことから、豊臣政権下において長宗我部家の格付けは低かったとされる[1]。

長宗我部家の家督に決定した後、父・元親と共に長宗我部氏の共同支配者として二頭政治を行い[2]、豊臣氏による天正18年(1590年)の小田原征伐、天正20年(1592年)からの朝鮮出兵に参加する。また、文禄3年(1594年)以降、知行宛行権が盛親に移譲されたが[2]、これ以外の大名当主としての権限は変わらずに両人が共有していた[3]。更に慶長2年(1597年)3月24日に父の元親と共に制定した「長宗我部元親百箇条」を発布している。

だが、こうした流れの一方で、家督継承の経緯の異常性からか、豊臣秀吉及び豊臣政権は盛親を長宗我部氏の当主として最後まで認めなかったとする見方がある。武家官位を重要視する豊臣政権は大名およびその後継者に一定の官位を授けていた[注釈 3]が、盛親が官位を受けた記録は無く、公式には通称の「右衛門太郎」のままであり(「土佐守」などは非公式な通称とされる)、これは大名当主としては異様である[4]。慶長4年(1599年)5月、父・元親の死去により、家督を継いで土佐の国主となる。だが、その後も盛親の長宗我部氏の家督と土佐の国主の継承を豊臣政権が承認したことを示す記録は存在せず、この異常な状況は翌年の関ヶ原の戦いまで続くことになる[5]。 これに対して、慶長2年(1597年)に盛親が単独で豊臣秀吉に拝謁していたことから、次期当主として承認されていたのではないかとする説もある[6]。

Screenshot_20191211-181622~2.png
関ヶ原の戦いの長宗我部盛親陣跡
(岐阜県不破郡垂井町)

Screenshot_20191211-192329~2.png
関ヶ原の戦い時の馬印・旗印

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こる。西軍に加担したのは元親生前より増田長盛や垣見一直との縁があったからとみられ、盛親参戦の動機は当主として豊臣政権から認知されることにあった[7]。『古城伝承記』によると、盛親は当初は東軍に味方しようと決め、十市新左衛門・町三郎右衛門の二人を使者として徳川家康に派遣しようとしたが、近江国水口で西軍に道を閉ざされ、西軍に味方をすることに決めたとされるが、山本大によると、盛親と増田長盛の関係を考えるとこの話の真偽は疑わしいのではないかとしている[8]。

盛親は東軍に与する伏見城や安濃津城などを落としながら関ヶ原に向かい、毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家らとともに家康本陣背後の南宮山に布陣した[8]。

しかし、合戦においては徳川家康に内応する吉川広家によって毛利隊は動けず、毛利隊の後方に布陣していた長束隊や長宗我部隊も毛利隊の動向が分からず、動くことができなかった。最終的に戦闘に参加しないまま西軍は敗退した。

西軍壊滅後、盛親は西軍の壊滅を島津義弘の知らせと吉田重年の偵察で知った[9]。盛親は池田輝政軍や浅野幸長軍の追撃を受けて多羅尾山に逃れ、伊賀から和泉に逃れて小出吉親の追撃を受けて大坂の天満に引揚げて、土佐へ帰った[9]。

改易・蟄居
盛親は懇意にあった徳川氏の重臣・井伊直政を通じて家康に謝罪しようとしたが[注釈 4]、『土佐物語』などでは改易の原因を家臣・久武親直の讒言から兄の津野親忠を殺害したため[注釈 5]、家康の怒りを買って領土没収で改易されたとしている[注釈 6][注釈 7]。

ただし、井伊直政の書状によると盛親は土佐を没収される代わりに「御堪忍分」という形で替地を与えられる予定であり、盛親の上洛はそれに応じたものだったようだ。しかし接収時に国替えに不満な家臣や吉良・津野などの遺臣が国元で浦戸一揆を引き起こし、その責任を問われ「御堪忍分」の支給を反故にされ改易という形になったことが伺える[3][10]。一方で津野親忠殺害の是非については触れられた様子がないので改易の原因ではない[10]。大名家としての長宗我部家はこのときをもって滅亡し、家臣団は各地の大名に誘われ再仕官する者、浪人となった者、元の百姓に戻った者など、散り散りになった。

浪人となった盛親は慶長6年に大坂から伏見に移住して大名への復帰運動を慶長10年頃まで続けていた[11]。慶長15年には剃髪して大岩祐夢と称して[11]、旧臣らの仕送りで暮らしていたといわれる、寺子屋の師匠をして身を立てていたとの記録もあるが[12]、一次史料では確認されていない[11]。慶長17年頃には上立売の柳ヶ逗子で生活をしていた[8]。また清原秀賢と交友があったとの記録も残っている。いずれにしても反徳川になり得る危険人物として京都所司代・板倉勝重の監視下に置かれていた。
Screenshot_20191211-193128~2.png

大坂の陣
大坂の陣時の旗印(右)

大坂方と徳川方との間が険悪になる中、慶長19年(1614年)9月に板倉勝重は盛親に大坂入城の是非を詰問し、盛親は此度は関東方に味方して戦功をたて微録を得たいと念願しており、浅野長晟とも旧約を結んでいると答えて勝重を油断させ[12]、僅か6人の従者と共に京都を脱出し、10月6日に大坂入城を果たした[13]。これに応じて長宗我部家の再興を願う中内総右衛門を初めとする旧臣たちも入城し、大坂城に集結した牢人衆の中では最大の手勢1,000人を持つに至った盛親は、真田信繁、後藤基次、毛利勝永、明石全登とともに、いわゆる「五人衆」に数えられる主力部隊となった[13]。

こうして大坂の陣が始まり、籠城戦となった冬の陣では豊臣家重臣の木村重成、後藤基次らとともに八丁目口・谷町口に布陣し、真田信繁が築いた真田丸の支援拠点を担った[注釈 8]。 12月4日に真田丸の戦いが始まると、城内の火薬庫が爆発した事故を南条元忠の寝返りの合図と勘違いして押し寄せてきた井伊直孝隊・松平忠直隊に応戦し、損害を与えて退却させた。しかしこれ以外に大規模な戦闘は発生せず、膠着状態のまま大坂方と幕府方の間に和議が成立する。

Screenshot_20191211-193700~2.png

長曽我部物見松遺址碑
(大阪府八尾市)

野戦となった夏の陣では木村重成とともに徳川家康の本陣を突くべく5千余の主力軍勢を率いて出陣し、徳川方の藤堂高虎隊と激突する。八尾・若江の戦いである[13]。

慶長20年(1615年)5月6日の未明、八尾に進出していた長宗我部隊の先鋒・吉田重親が藤堂高虎の軍勢と遭遇した。この時、長宗我部隊の先鋒は軽装備であったためすぐに本隊と合流しようとしたが、逆に藤堂隊にも発見されてしまう。鉄砲を撃ち込まれた先鋒は壊滅し、吉田重親は本隊に伝令を発したのち討ち死にした。藤堂隊は勢いに乗じて長宗我部本隊を殲滅しようと攻勢を強めるが、盛親は川の堤防に兵を伏せ、藤堂隊を十分に引き付けたところで槍を構えた兵を突撃させた。思わぬ猛反撃を受けた藤堂隊の先陣は一気に壊滅、盛親はなおも攻撃の手を緩めなかったため藤堂隊はほぼ全軍が混乱に陥り、高虎の甥の藤堂高刑など前線の将が一度に討ち死にする。統制が乱れた藤堂隊は高虎自身も逃げ回らざるを得ない潰走状態となった。

しかし、盛親隊と並行して若江へ進んでいた大坂方別働隊の木村重成が井伊直孝らの軍勢との戦闘で壊滅し、ほどなく井伊隊が藤堂隊の援軍に駆けつける。この報を受けた盛親は敵中での孤立を余儀なくされ、やむなく大坂城へ撤退した[13]。

なお、盛親隊はこの八尾の合戦かその後退時に、大損害を受け実質壊滅したと考えられる。事実、翌日の天王寺・岡山の戦いでは盛親は大坂城に留まり、戦闘には参加しなかった。

最期
Screenshot_20191211-194635~2.png
墓所の蓮光寺と
長宗我部盛親公瘞首之地碑
(京都市下京区)

5月11日に京都八幡(京都府八幡市)付近の橋本の近くの葦の中に潜んでいたところを蜂須賀至鎮の家臣・長坂三郎左衛門に見つかり捕らえられ、伏見に護送された[13]。その後、盛親は京都の大路を引廻され、そして5月15日に京都の六条河原で斬られた[14]。享年41。これにより、長宗我部氏は完全に滅亡した。京都の蓮光寺の僧が板倉勝重に請うて遺骸を同寺に葬り、源翁宗本と諡名した[14]。

子孫
長男・長宗我部盛恒は伏見で斬首。次男・盛高と三男・盛信は土佐国に逃れたが山内氏により処刑。四男・盛定・五男(名不詳)は京都八幡に逃れるが、これも捕らえられて処刑された。

平成27年(2015年)6月の400年法要には盛親の物と伝わる鐙(あぶみ、馬具の一種)を盛親の次男・盛高の血を引くという人物が蓮光寺に持ち寄った。それまでは片側のみが蓮光寺に保存されていたが、形状・配色共に一致したため100年ぶりに双方が揃うことになった。子孫を称する人物は、祖父が100年前の300年法要で寺から譲り受けたものとしている[15]。これが事実であれば、夏の陣後の徳川方の残党狩りを逃れた盛親直系の血筋の人物(盛高の子で盛親の孫)が存在したということになる。

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大平氏

大平氏(おおひらし)は、
土佐国高岡郡の蓮池城を拠点とする豪族。
鎌倉時代初期 - 永禄9年(1566年)。
藤原秀郷の末裔という。
Screenshot_20191211-123605~2.pngScreenshot_20191211-123720~2.png

家紋 木瓜に三つ巴
   (もっこうにみつどもえ)

本姓 藤原北家秀郷流近藤支流
家祖 大平国信
種別 武家
出身地 山城国
    近江国
    土佐国
主な根拠地 土佐国高岡郡高岡郷
著名な人物 大平国雄
支流、分家 讃岐大平氏
      三宮氏
      斗賀野氏
      佐川氏
      越智氏
      田原氏
      戸波氏
歴史
大平氏は見聞諸家紋に「土佐之藤之大平 近藤国平末」あるため、藤原秀郷より五代孫にあたる近藤太・脩行の五代孫・近藤国平の系統と考えられる。国平は治承・寿永の乱に功があり讃岐守護に任ぜられる。
蓮池城は、平家の有力家人であった蓮池権守家綱が嘉応2年(1170年)に築城した。家綱は地名から蓮池と名乗る。
治承・寿永の乱により平家が滅び、家綱も夜須七郎行宗に討たれ、蓮池城周辺一帯は近藤国平に与えられる。
近藤国平の子孫が大平氏を名乗り350年にわたり蓮池城主となる。駿河国廬原郡(庵原郡)大平郷にちなむ。現・静岡県静岡市清水区大平。
大同5年(810年)、高岳親王は薬子の変に連座し皇太子を廃され落髪、真如法親王となり貞観3年(861年)より土佐国高岡郡高岡郷の清瀧寺に入山された折、今村、田原、大平の三族が近習し、この地に土着したという伝承があり、その末裔の可能性もある。
吾妻鏡に大平太郎左衛門の記述があり、いずれも正月などの武者揃えと思われ御家人身分と考えられる。
大平氏は室町時代、地頭として、時に守護代として主家にあたる細川氏のみならず五山の禅僧や公家衆とも交わり、和歌を冷泉為広に学ぶなど文化的教養を身につけていた。
応仁元年(1467年)に応仁の乱が起きると「大平之女房」という女性が関白一条教房夫人と縁者であったため、大平氏は教房の土佐国下向に尽力した。堺から大平氏の領地の猪尻の港まで船を用意し居館の蓮池城に10日ほど滞在した後、所領であった幡多荘へと向かった。
その約90年後、大平氏は土佐一条氏に滅ぼされることになる。土佐一条氏の下向当時の当主は国雄とも父の国藤ともいわれる。そのような文芸を好む体質や在京性が戦国の乱世を生き抜くには華奢すぎた。
戦国時代の土佐国には大平氏の他に幡多郡に抜群の家格を誇る土佐一条氏が、高岡郡西部にはやはり文人として聞こえた津野氏が、吾川郡には吉良氏、長岡郡北部に本山氏、長岡郡南部に長宗我部氏、香美郡に香宗我部氏、安芸郡に安芸氏が割拠し、土佐七雄と呼ばれた。

系譜
大平国信 - 近藤国平の子、土佐国高岡郡高岡荘・蓮池荘の地頭となり大平氏を名乗る。
勝国
国嗣
敏国
国助
国満
国藤(日向守)
国雄 の時代、勢力は最大に達した。外港の宇佐から堺に大船を往来させて、貿易の利を占め、富強であったと伝えられている。力を蓄えた国雄は、佐川・越知・浦ノ内から鴨部方面にまで勢力を伸ばしていった。
元国(隠岐守) - 国雄の子 本山梅渓の呼び掛けに応じて、吉良・山田の諸氏とともに反長宗我部連合を結成した。そして、永正5年(1508年)、長宗我部兼序を攻め討死させた。横倉社など数々の寺社の造営にあたった事が史料からも知られる。元国も京にあって文芸を愛したが、天文15年(1546年)、土佐一条氏に破れる。
国興・権頭(くにおき・ごんどう) - 元国の子、蓮池城喪失後、高岡郡戸波村に小領を安堵されていたが、永禄9年(1566年)、土佐一条氏と本山氏の挟撃を受け戸波村積善寺の地に自刃して果てた。これにより土佐大平氏の正統は途絶える。
国祐

領地
土佐国高岡郡・吾川郡の南部。古老伝えて云う。藤原秀郷の裔にして東鑑謂う所の蓮池権頭家綱の後なり。高岡郡蓮池城に居し蓮池、高岡、大内(おうち)、波介(はげ)、北地、出間(いづま)、甲原(かんばら)、塚地、用石(もちいし)、新居、宇佐、龍、猪尻(いのしり、現・高知県土佐市宇佐町井尻)、浦の内、才畑(さいばた、現・同高知市春野町西畑)、仁野、木塚(現・同高知市春野町西分長谷)凡そ十七村16190石を領し伝える事十三世、四百二十年を歴す。「土佐遺語」谷泰山。

2019年12月10日

香宗我部氏

Screenshot_20191210-183147~2.png
家紋は割菱、(武田菱)
香宗我部氏(こうそかべし)は、日本の氏族。土佐国の豪族であり土佐七雄の一つ。甲斐源氏の子孫と伝えられ、室町時代初期から勢力を伸ばすが、戦国時代末期に長宗我部元親の弟親泰を養子として迎え、以降は長宗我部氏の一族となった。

本姓 清和源氏義光流一条氏流
   大中臣氏?
   中原氏?
   宗我部?
家祖 中原秋通
種別 武家
   士族
出身地 土佐国香美郡宗我郷
    土佐国香宗郷土井村
主な根拠地 土佐国香美郡宗我郷
      陸奥国宮城郡南小泉

初代秋通が鎌倉初期、三代成通が鎌倉中期、六代秀頼が鎌倉末から南北朝初期、八代秀能が南北朝期(この頃最盛期)、十三代親秀が戦国中期、十四代秀通が謀殺され、十五代に長宗我部親秦が就きました。
武田に戻したのは三代成通の時で、それは十四代まで続きました。

【参考1・名乗り】
初代が甲斐(武田)小太郎・中原太郎秋通
三代が武田(香宗我部)成通
六代が甲斐四郎孫・香宗我部秀頼
など。

【参考2・香宗我部系図】
源頼義−新羅三郎源義光−義清−清光−武田信義−一条忠頼
−中原秋通−宗通−武田成通−朝通−重通−秀頼−時秀
−秀能−通秀−益秀−真通(直通)−通長−親秀−秀通
−長宗我部親秦−親氏−親和−親重−・・・

【参考3・香宗我部支流各氏】
成通次男から造海氏、朝通次男から立山氏、
重通の子から松岡・岩原・水谷・青井・倉町・山本・笠原氏ら、
時秀次男より西山氏、そして秀通の子から中山田氏が出ています。
また、家臣であった中原氏の流れを汲む山田氏には、重通の子である基実が養子入りしています。

著名な人物 香宗我部通長
      香宗我部親泰
      香宗我部秀通
      香宗我部親秀

歴史
1193年、一条忠頼家臣の中原姓中原秋家が土佐国香美郡宗我・深淵郷の地頭職となり、主君・忠頼の暗殺後にその子・秋通を養子としたのに始まる。秋通が香宗我部氏を称して初代となった。なお養父の秋家は土佐山田城に移り山田氏の祖となっている。

秋通の跡は宗通・成通・朝通・重通と直系で相続された。

14世紀の重通の次男・秀頼(甲斐孫四郎入道)は足利尊氏の命で長宗我部信能と共に介良庄の平定を行ったり、1362年に香宗我部の一族が物部庄を得たりと勢力を拡張している。15世紀の応仁の乱では上洛し、土佐国守護の細川氏率いる東軍に加わっている。

秀頼ののち時秀・秀能・通秀と続いたが、その後は戦国時代の親秀まで系譜の混乱がある。

通長の子という親秀は東隣の安芸郡に拠る安芸氏と抗争しながら土佐で勢力を広げるが、大永6年(1526年)に安芸氏の攻撃で嫡男の秀義を失った。また西の長岡郡で長宗我部国親が勢力を拡大し、香宗我部氏は東西から圧迫されるようになった。このため親秀は国親の三男・親泰を養子に迎えて長宗我部氏の影響下に入った[11]。ただし親秀の実弟で養子だった秀通がこれに反対したため、親秀によって殺害されている。 一方、香宗我部領の北側・香美郡中北部を勢力下としていた山田氏は長宗我部国親に滅ぼされた。

親泰は、国親の跡を継いだ元親の下で長宗我部一門として土佐・四国の統一戦に参加し活躍した。文禄の役の最中に親泰は長門国で死去し、次男の貞親(親和)が継いだ。関ヶ原の戦いの際に長宗我部氏が改易されると、貞親は土佐を去って佐倉藩主の堀田氏に仕えたが、貞親が死去したその年に佐倉藩は改易されたため、貞親の養子・重親は親類の五十嵐元成・柴田朝意兄弟が仕えていた仙台藩に仕官し、宮城郡南小泉(現:仙台市若林区南小泉)で2,000石を知行した。仙台の香宗我部氏は一族の記録を現代に伝えている[12]。

一方、養子問題で殺害された秀通の子・泰吉が中山田氏を称して親泰・貞親に仕えている。なお中山田氏は香宗我部氏の移動に同行せず土佐に残り、土佐藩では中山氏を名乗ったが、長宗我部系香宗我部氏から再度養子を迎え香宗我部分家を興したり、また武田氏・喜田氏を名乗った一族もあった。明治時代に活躍した武田秀雄 (海軍軍人)・武田秀山は香宗我部氏の出身である。

吉良 親実

吉良 親実(きら ちかざね)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。吉良親貞の子。
生誕 永禄6年(1563年)
死没 天正17年(1589年)9月以降
改名 新十郎(幼名)→親実
別名 受領名左京進
氏族 吉良氏
父 吉良親貞
母 吉良駿河守宣直の娘?
兄弟 如淵、親正、親英?
妻 正室:長宗我部元親の娘
子 町源右衛門

生涯
編集
土佐国の戦国大名・長宗我部元親の弟・吉良親貞の子。幼少の頃から智勇に優れ、元親の娘を娶ることを許されるなど重用されたが、気性が激しいところがあった。

父の死後、その家督を相続する[注釈 1]。そして一門衆として活躍するが、元親の側近・久武親直とは仲が悪く、いつも対立していた[注釈 2]。天正14年(1586年)12月、元親の嫡男である長宗我部信親が戦死して跡継ぎ騒動が起こると、親実は長幼の序から元親の次男・香川親和を推し、4男である長宗我部盛親を推す久武親直と対立する。このとき、親実は生来の気性の激しさから、元親に対してたびたび諫言して、長幼の序を守って親和を跡継ぎとすることを進言したが、その諫言がかえって元親の逆鱗に触れることになり、天正16年(1588年)10月、親実は比江山親興と共に切腹を命じられたとされる[注釈 3]。だが、親実による天正17年9月10日(1589年10月19日)付の西諸木若一王子の棟札が現存しているため、親実の切腹は比江山親興と同時ではなかったことが判明する。また、『長宗我部地検帳』の中でも天正19年1月16日(1591年2月9日)の作成期日が確認できる高岡郡鎌田村の地検帳にて蓮池上様(親実の妻である元親の娘)に直接知行が宛がわれており彼女が既に未亡人として実父元親から直に所領を与えられる立場であったことも確認できるため、吉良親実が切腹を命じられたのは天正17年9月以降天正19年1月以前であったと推定される[注釈 4]。

親実の死後、その墓では怪異が絶えなかったと伝えられており[注釈 5]、また現代においても交通事故が起こると「親実のたたり」と言われることがある[注釈 6]。それゆえか木塚明神や[注釈 7]、四国では有名な妖怪・怪異である「七人みさき」は親実とその主従の無念の死がモデルであるとも言われる。

彼の子孫は、姓を町氏と改め肥後藩に仕えたと言う。

本山氏 家臣団

本山氏 家臣団 (もとやましかしんだん)
 本山養明 (?〜?)
 本山家当主。永正五年豊かな長宗我部領を手に入れるため、山田氏、吉良氏らと共に岡豊城を攻め、長宗我部兼序を討ち取った。
 
 
  本山茂宗 (?〜1555年)
 本山養明の子。本山城を子の茂辰に譲り、自身は朝倉城に居住。天文九年頃、弘岡に兵を進め、吉良氏を滅ぼす。天文十三年、高岡郡に攻め込み、一条氏と交戦。これに敗れ、撤退した。天文二十四年没。
 
 
  本山茂定 (?〜?)
 本山茂辰の叔父。朝倉城主。
 
 
  本山親茂 (?〜?)
 本山茂辰の長男。将監。母は長宗我部国親の娘。永禄五年九月十六日、長宗我部家との朝倉合戦で奮戦。見事、長宗我部軍を撃退。長宗我部元親が神田城に籠もると、これを攻める。攻め倦ねて城攻めを断念。この時、十六歳と云う。続く十八日にも元親は朝倉城攻めのため、神田城から出陣。本山茂辰軍と鴨部ノ宮付近で交戦。合戦は三十余度に渡り、本山一族二十三人、郎党八十五人、軍勢二百三十五人が討死。長宗我部軍は五百十一人が討死した。数からすれば本山家の勝利だが、これ以上の朝倉城防衛は困難であり、家中も城の処遇を巡って分裂。結局、永禄六年一月十日に茂辰は朝倉城を焼き、二十八日には本山城へ撤退した。こうして長宗我部元親は弟親貞に吉良氏を嗣がせ、吉良峰城主とした。長宗我部家の土佐中部進出は成就したのだ。永禄七年、本山茂辰は本山城を捨て、瓜生野に撤退。長宗我部勢の追撃を受け、当初は競り合ったものの、次第に劣勢となる。やがて茂辰が病没。親茂は家督を継ぐも、元亀元年に降伏。元親も甥親茂を不憫に思うようになり、岡豊城下に住まわせた。弟は内記、又四郎。他に妹が二人いた。
 
 
  本山内記 (?〜?)
 本山茂辰の次男。本山親茂の弟。母は長宗我部国親の娘。元親の甥であることから助命され、吉良親貞の家臣として蓮池に所領を賜る。
 
 
  本山又四郎 (?〜?)
 本山茂辰の三男。本山親茂、内記の弟。母は長宗我部国親の娘。元親の甥であることから助命され、長宗我部家臣西和田越後の入り婿となる。西和田勝兵衛を名乗り、馬廻衆となった。岡豊城下西和田に居住した。
 
 
  八木実茂 (?〜?)
 本山一族。大永七年、朝倉池内天神社に棟札を与える。長宗我部家滅亡により、本山家の所領が鏡川を越えて朝倉にまで達したことを意味する。
 
 
  井口勘解由 (?〜1560年)
 土佐井口城主。長宗我部重臣吉田周孝から臣従を求められるも拒否。周孝に攻められるも、三百の兵で撃退。追撃の最中、中野新八に左脇腹を射られ討死。居城も落とされた。
 
 
  大高坂権頭 (?〜?)
 土佐大高坂城主。後に長宗我部家臣となる。
 
 
  久万俊宗 (?〜?)
 土佐久万城主。豊後守。永禄三年、長宗我部勢に攻められ降伏。以降、長宗我部家臣となる。子は俊政。
 
 
  神森出雲 (?〜1561年)
 土佐神森城主。永禄四年、長宗我部家臣福留隼人、中島大和に攻められる。水を断たれるも、白米で馬を洗い、水の豊富さを演出。これを見た福留らは撤退するも、五名ほどが残り、城の北側から火を放つ。これにより城兵は錯乱し、出雲も自刃した。妻は脱出の際に谷に落ち、死没。後にその霊を慰めるため祠が建てられた。
 
 
  秋山刑部丞 (?〜?)
 土佐秋山城主。天文九年、一条房冬に降伏。弘治三年、本山茂辰に降伏。永禄三年、長宗我部元親に降伏。
 
 
  弘田伊賀守 (?〜?)
 土佐芳原城主。天文九年、一条房冬に降伏。弘治三年、本山茂辰に降伏。永禄四年、長宗我部元親に降伏。
 
 
  田上善衛門 (?〜?)
 弘治二年、加田城番。
 
 
  大窪美作守 (?〜?)
 土佐長浜城主。永禄三年五月二十六日夜、土佐長浜城は長宗我部勢の攻撃で陥落した。
 
 
  高橋壱岐守 (?〜?)
 土佐雀ヶ森城主。
 
 
  秦泉寺茂景 (?〜?)
 土佐秦泉寺城主。掃部頭。弘治二年、長宗我部国親に攻められる。後に長宗我部元親に攻められ降伏。万々城に移された。
 
 
  富家刑部 (?〜?)
 弘治三年以降、土佐森山城番。永禄三年、長宗我部元親に降伏。以後も森山城を守る。
 
 
  中島新介 (?〜?)
 永禄六年五月、岡豊城攻めのため一宮に攻め込む。高石与七、岡崎与左衛門、桑川久助らもこれに加わる。泰泉寺方面も攻めるが、泰泉寺大和守らに迎撃され撤退。
 
 
  竹中弥右衛門 (?〜?)
 本山家臣。永禄年間頃の人。
 
 
  宇賀平兵衛 (?〜1560年)
 永禄三年、長宗我部家との合戦で浜田久左衛門を討つ。しかし、浜田久左衛門の弟善左衛門に討たれた。
 
 
  中島新介 (?〜?)
 永禄六年五月、岡豊城周辺に攻め込むが撃退された。
 
 
  高石与七 (?〜?)
 永禄六年五月、岡豊城周辺に攻め込むが撃退された。
 
 
  岡崎与左衛門 (?〜?)
 永禄六年五月、岡豊城周辺に攻め込むが撃退された。
 
 
  桑川久助 (?〜?)
 永禄六年五月、岡豊城周辺に攻め込むが撃退された。
 
 
  【付記】
 
 
 
 永禄三年五月二十六日、長浜城は長宗我部家の夜襲を受ける。長浜落城の報を受けた茂辰は二十七日、二千名を率いて出陣。戸ノ本にて長宗我部軍千余名と交戦。この合戦は「戸ノ本合戦」と呼ばれる。本山軍は数で勝っていたが敗れ、逆に逃げ込んだ浦戸城を包囲されてしまう。長宗我部軍は浦戸城攻めを諦め、撤退するも、敗戦によって家中は大きく動揺した。同年八月、一条氏に蓮池城を落とされた。

     長宗我部国親━┳━長宗我部元親
            ┣━吉良親貞(吉良氏)
            ┗━女子
               ‖
本山養明━┳━本山茂宗━━━本山茂辰━┳━本山親茂
     ┗━本山茂定        ┣━本山内記
                   ┣━本山又四郎
                   ┣━女子
                   ┗━女子

久万俊宗━━━久万俊政

本山養明(もとやま やすあき)

本山養明(もとやま やすあき)(生没年不詳)
土佐の豪族。八木伊典の子。山田・吉良家らと連合して岡豊城を攻め、長宗我部兼序を討った。本山家は伊典の代に本山に居住し、地名を姓としたのに始まる。
子 本山茂宗

2019年12月09日

藤原四家(ふじわらしけ)

藤原四家(ふじわらしけ)は、
藤原不比等の4人の息子が興した藤原氏の四つの家の総称。近年では藤原氏四家ともいう。

藤原南家 - 藤原武智麻呂(680年 - 737年)
藤原北家 - 藤原房前(681年 - 737年)
藤原式家 - 藤原宇合(694年 - 737年)
藤原京家 - 藤原麻呂(695年 - 737年)
藤原は氏であり家名でも苗字でもないため、明治以前においては「藤原家」と称する公家は存在しない。藤原四家とは藤原家ではなく、藤原氏の「南家」、藤原氏の「北家」、藤原氏の「式家」及び藤原氏の「京家」の総称である。

武智麻呂の館は南に有るを以て南家(なんけ)と号し、房前公の館は北に有りて北家(ほっけ)と号す。宇合公は式部卿を兼ねられしも式家(しきけ)といひ、麿は左京大夫を兼ねられるを以て京家(きょうけ)とぞ号しけり。

津野氏(つのし)

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津野氏(つのし)は土佐国高岡郡の豪族。土佐七雄の一つ。高岡郡のうち中西部の津野荘・山間部の津野新荘・檮原荘を拠点とした。

絶家 天正6年1578年 
本性 藤原北家基経流
種別 武家
主な根拠地 土佐国高岡郡津野郷
津野之高
津野基高
支流、分家 中平氏


歴史
平安時代の前期、摂政・関白として朝政を支配した藤原基経には数人の男子があったが、とくに長男時平、次男仲平、四男忠平は「三平」と呼ばれた。土佐の戦国時代の守護七雄の一に数えられた津野氏は、藤原仲平の後裔と伝えられている。

津野氏は、家伝によれば藤原基経の後裔、藤原経高(つねたか)を始祖とする。経高は罪を得て延喜10年(910年)伊予に下り浮穴郡川上庄山内谷を経て、同13年(913年)に土佐国に入り、高岡郡津野山を開拓し名字を津野に改めと伝えられているが信憑性は低い。
高岡郡津野山が現在の高知県高岡郡津野町付近であるか高知県須崎市吾井郷付近であるかは判然としない。(後述の津野荘の項参照)
津野氏は高岡郡姫野々に姫野々城を築き、以後、中世を通じて、津野荘の地頭として発展した。
津野氏も土佐一条氏や大平氏と並び文人として知られた。
中興の祖とされる津野之高(ゆきたか、名は光高(みつたか)とも)は伊予河野氏の出身とされる。
津野基高(もとたか)は、天文15年(1543年)一条房基に降伏して、家臣として存続を図る。基高の孫、勝興(かつおき)は天正6年(1578年)に没し、津野氏の正統は途絶える。

津野荘
津野荘は京の賀茂御祖神社の荘園で、高岡郡吾井郷津野保(現・高知県須崎市吾井郷)にあった。本来は土佐国の賀茂御祖神社の荘園は土佐郡潮江荘であったが津波により水没、代わって津野荘が立荘された。 また、津野新荘は土讃線土佐新荘駅や新荘川にその名をとどめており、名称からして津野荘の成立後に津野新荘が成立したものと考えられる。 新荘川の流域に津野氏の山の拠点となった姫野々城がある。名称からの推測では津野氏は最初は津野荘の地頭となり、その後山深い津野新荘の地頭も兼ねるようになったと考えられる。

系譜・歴代当主
藤原基経ー摂政・関白
津野経高

安芸(藝)氏

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安芸(藝)氏
安芸氏(あきし)は、土佐の国人領主。土佐国東部の安芸郡を支配したが、戦国時代に長宗我部元親によって滅ぼされた。
安芸氏の出自は、通説では壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)に味方した結果、土佐に配流となった蘇我赤兄の子孫が土佐の東端である安芸郡などに拡大して台頭し、国人になったものと伝わる。ただし別説も多く、詳細な出自に関しては不明である。

室町時代に強勢となった安芸氏は、香美郡大忍庄に侵出して勢力を拡大した。安芸氏が勢力拡大に成功した背景には、安芸川という交通の要衝を利用した貨幣経済の発展に、土佐という土地経営を巧妙に生かして成長したのが要因といわれる。永享11年(1439年)、当主の安芸元実(もとざね、摂津守)が摂津国内で戦死(大和永享の乱の影響によるものか)し、分家の畑山氏より安芸元信(もとのぶ)が養嗣子に迎えられた。しかし、応仁の乱で東軍(細川勝元方)へ加勢した元信とその嫡男の元康(もとやす)が共に戦死するなど苦境に見舞われる。元信・元康の死後は再び畑山氏より元信の実弟である安芸元盛(もともり)が当主に迎えられて家の苦境を乗り切るも、以降の勢力拡大策は停滞することになった。とはいえ、戦国時代には土佐七雄の中でも「安芸5000貫」と称されるほどの土佐東部を代表する大国人として君臨し、なおも強勢を保った。戦国時代の大永6年(1526年)には隣接する七雄の1つである香宗我部氏を破って勢力を拡大し、さらに元盛の曾孫・安芸国虎の代に国内の名家である土佐一条氏と姻戚関係になって全盛期を迎えた。

しかし香宗我部氏を破って勢力を拡大したことから長宗我部氏との緊張関係に陥ると、永禄年間の初期、国虎が長宗我部元親の属領である香美郡夜須に侵入したことにより両家は敵対する[2]。当初は東の安芸氏よりも、北の本山氏攻略に力を傾注していた元親に対し、一条兼定からの援軍を得た国虎が優勢で一時は元親の居城・岡豊城を落城寸前に追い込むなどしたが、土佐国内の動乱を憂慮した一条兼定による安芸氏・長宗我部氏の和睦を進めたため、一時的に両家は和睦した。だが和睦から5年後の永禄12年(1569年)4月、国虎は一条兼定の援軍を得ることで和睦を破棄して元親と再度敵対する。だがこのときの元親は本山氏を服従させて土佐中部を完全に制圧しており、すでに力関係は完全に逆転していた。7月に安芸軍は矢流川合戦(もしくは八流の戦い)で衆寡敵せず大敗。支城の穴内城や新荘城なども長宗我部軍によって落とされ、国虎は安芸城に籠もった。だが譜代の家臣である横山紀伊守らが元親に内応して安芸城に招き入れたため、遂に力尽きて国虎は自殺。その遺児である千寿丸(弘恒)も三好氏を頼って阿波に落ちたため、安芸氏は滅亡した。

その後、安芸氏の旧領は元親の実弟・香宗我部親泰が支配し、元親の四国征服における原動力となった。

歴代当主
室町時代の安芸氏は土佐守護を兼ねる細川京兆家の麾下にあり、代々京兆家当主より偏諱の授与を受けている。

安芸元重(大蔵)← 細川満元
安芸元実(摂津守)← 細川満元または細川持元(※元服時期不明のため確定不可)
安芸元信(伊豆守)← 細川勝元
安芸元盛(兵部少輔)← 細川勝元
安芸元親(備後守)← 細川政元
安芸元泰(山城守)← 細川政元
安芸国虎(備後守)← 細川高国

本山城

本山城(もとやまじょう)
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本山城及び周辺城趾地図

この地の豪族本山氏の居城跡で、
標高は377.5m、
町並みからの比高130mの所に詰めの
段を構える山城である。

土佐の戦国時代、本山養明(ようめい)、茂宗(しげむね)梅慶(ばいけい)、茂辰(しげとき)と隆盛をきわめ、
「土佐戦国7守護」の一人に代々数えられた。
1527年頃には現在の高知市朝倉に進出し、
朝倉城を拠点にほぼ20年間土佐中原を支配した。
しかし長宗我部との激しい攻防戦に敗れ、
本山城に撤退、
さらに瓜生野城に退き1571年頃に降った。

山城の遺構は総じて各曲輪とも後世の手が入り、
元の形をそこねているが、
詰めの段南尾根の堀切と、
その西側斜面にのびる堅堀は原形をとどめている。
また堀切から37mほど登ったところに
小規模な堀切も確認できる。
タグ:本山城 土佐
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