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2019年12月15日
香宗我部 親秀
香宗我部 親秀(こうそかべ ちかひで)は、戦国時代の武将。土佐国の国人。
生涯
土佐国香美郡東南部の国人・香宗我部通長の長男として誕生。
家督相続後、大永6年(1526年)に土佐安芸郡の領主・安芸氏を攻めて大敗し、嫡男の秀義を失った。そのため弟の秀通を養子にし、自らは遷仙と号して隠居した。
しかし長宗我部国親の勢力が拡大した事に恐れを抱き、その3男を養子に迎えようとして秀通と対立。秀通は国親と結ぶ事に強硬に反対し、遂に弘治2年(1556年)に親秀は秀通を暗殺して国親の3男を香宗我部親泰として養子に迎えて跡を継がせた。
以後は親泰を補佐しながら隠居していたという。
生涯
土佐国香美郡東南部の国人・香宗我部通長の長男として誕生。
家督相続後、大永6年(1526年)に土佐安芸郡の領主・安芸氏を攻めて大敗し、嫡男の秀義を失った。そのため弟の秀通を養子にし、自らは遷仙と号して隠居した。
しかし長宗我部国親の勢力が拡大した事に恐れを抱き、その3男を養子に迎えようとして秀通と対立。秀通は国親と結ぶ事に強硬に反対し、遂に弘治2年(1556年)に親秀は秀通を暗殺して国親の3男を香宗我部親泰として養子に迎えて跡を継がせた。
以後は親泰を補佐しながら隠居していたという。
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香宗我部秀通
香宗我部 秀通(こうそかべ ひでみち)は、戦国時代の武将。土佐国の国人。
香宗我部親泰の養子に伴い謀殺された
香宗我部秀通の碑と墓。
高知県香南市野市町の香美神社に隣接した墓地に設けられている。また、秀通に殉死した家臣も葬られている。明治26年(1893年)、子孫である武田秀山によって「香宗我部秀通公碑」と題した石碑が建立された。秀山も死後、同地に葬られている。
生涯
永正7年(1510年)、土佐国香美郡東南部の国人・香宗我部通長の次男として誕生。兄に親秀がいる。
大永6年(1526年)、兄・親秀の嫡男である秀義が安芸氏との合戦で戦死したため、親秀の養子に迎えられて家督を継いだ。
ところが香宗我部氏は次第に衰退していき、親秀は自家の再興を図るために勢力を拡大していた長宗我部国親の3男・親泰を新たに養子に迎えて秀通を隠居させようとした。これに対し秀通は自らに実子があることなどを理由にして親泰の入嗣を反対して親秀と対立。そのため親秀は家臣に秀通の暗殺を指示し、弘治2年(1556年)10月21日に殺害された。享年47。秀通の死後、家督は親泰が継ぐことになった。
なお、秀通の嫡男・泰吉は親秀に庇護されて中山田姓を名乗り、家老として活躍した。
系図では2男1女である。
香宗我部親泰の養子に伴い謀殺された
香宗我部秀通の碑と墓。
高知県香南市野市町の香美神社に隣接した墓地に設けられている。また、秀通に殉死した家臣も葬られている。明治26年(1893年)、子孫である武田秀山によって「香宗我部秀通公碑」と題した石碑が建立された。秀山も死後、同地に葬られている。
生涯
永正7年(1510年)、土佐国香美郡東南部の国人・香宗我部通長の次男として誕生。兄に親秀がいる。
大永6年(1526年)、兄・親秀の嫡男である秀義が安芸氏との合戦で戦死したため、親秀の養子に迎えられて家督を継いだ。
ところが香宗我部氏は次第に衰退していき、親秀は自家の再興を図るために勢力を拡大していた長宗我部国親の3男・親泰を新たに養子に迎えて秀通を隠居させようとした。これに対し秀通は自らに実子があることなどを理由にして親泰の入嗣を反対して親秀と対立。そのため親秀は家臣に秀通の暗殺を指示し、弘治2年(1556年)10月21日に殺害された。享年47。秀通の死後、家督は親泰が継ぐことになった。
なお、秀通の嫡男・泰吉は親秀に庇護されて中山田姓を名乗り、家老として活躍した。
系図では2男1女である。
タグ:香宗我部秀通 こうそかべ ひでみち
相合元綱
相合 元綱(あいおう もとつな)は、戦国時代の武将。毛利氏の家臣。毛利弘元の三男で庶子。吉田相合(現在の安芸高田市)にある船山城を居城としており、その所領から「相合」を姓とした
2019年12月14日
すがたたみ
菅畳(すがたたみ)
スゲで編んだ、むしろのような敷物。
「―いやさや敷きて」
スゲで編んだ、むしろのような敷物。
「―いやさや敷きて」
畳の歴史
畳の歴史(たたみのれきし)
畳の語源と起源
「畳」は「たたむ」ことを意味し、折り返して重ねる意味でもあって、 たためるもの、重ねられるものから、敷物すべてを意味したものでもあり、これが畳の起こりである。
畳は日本固有の文化です
畳が使われるようになったのは、いつごろのことでしょうか。一般的には「古くからあった」と認識されているだけで、ほとんど知られていません。実際のところ、農耕民族だった日本人の祖先が生活圏の周囲にあった稲わらなどを利用して、少しでも快適な住まい方をすることに生活の知恵を発揮してきた結果として、畳が生み出されたことは容易に想像できることです。事実、年々進んでいる縄文時代から弥生時代にかけての遺跡発掘調査作業の家庭で住居に稲わらを敷き詰めていた形跡がいつくも発見されており、稲わらなどの資源を活用して敷物をつくり出していたことは明らかです。その後、畳としての最初の形は、稲わらなどの材質でムシロ・コモ・ツカナミなどの敷物類を生み出していたところに、大陸から絹織物などが伝わり、やがてそれらが巧みに組み合わされて、快適さ・実用性・装飾性・権威性などが加味されて、八重畳はじめ置き畳や敷物などに進化したのが始まりと考えられています。畳は、寝殿造りの建物では、板張りの上に置く形であったり、「ひとひらのたたみ」のように板張りのユカの上に敷きひろげて、就寝・くつろぎの寝具や座具、さらには調度具に用いられ、その後の書院造りの建物では、次第に寝具としての役割から離れて、部屋いっぱいに敷き詰められるようになりましたが、これは畳の進化によって、住まい構造が変わり、快適タタミライフを中心とした住まい方に変わってきたことを伺わせています。いいかえれば、畳はその時代の文化の基盤だったことになります。その意味で、フローリングを中心とした現代の住まい方は、いまから1000年あまり以前の平安時代に戻っていることになります。
縄文時代から弥生時代にかけて
古くは奈良時代や平安時代からさかのぼります。鎌倉時代から室町時代にかけては高貴な人や客人のもてなしのためのものでしたが、江戸時代には一般庶民に普及する住まいの床材でした。
古事記にも登場しています
古事記の中に、菅畳、皮畳の記述があります。 日本書紀に「八重席薦(やえむしろこも)」の記載があります。 たたみという言葉は、こもとか絹とか萱を「たたむ」というところから生まれました。 貴族は何枚も重ねて敷いていたそうです。
畳の語源と起源
「畳」は「たたむ」ことを意味し、折り返して重ねる意味でもあって、 たためるもの、重ねられるものから、敷物すべてを意味したものでもあり、これが畳の起こりである。
畳は日本固有の文化です
畳が使われるようになったのは、いつごろのことでしょうか。一般的には「古くからあった」と認識されているだけで、ほとんど知られていません。実際のところ、農耕民族だった日本人の祖先が生活圏の周囲にあった稲わらなどを利用して、少しでも快適な住まい方をすることに生活の知恵を発揮してきた結果として、畳が生み出されたことは容易に想像できることです。事実、年々進んでいる縄文時代から弥生時代にかけての遺跡発掘調査作業の家庭で住居に稲わらを敷き詰めていた形跡がいつくも発見されており、稲わらなどの資源を活用して敷物をつくり出していたことは明らかです。その後、畳としての最初の形は、稲わらなどの材質でムシロ・コモ・ツカナミなどの敷物類を生み出していたところに、大陸から絹織物などが伝わり、やがてそれらが巧みに組み合わされて、快適さ・実用性・装飾性・権威性などが加味されて、八重畳はじめ置き畳や敷物などに進化したのが始まりと考えられています。畳は、寝殿造りの建物では、板張りの上に置く形であったり、「ひとひらのたたみ」のように板張りのユカの上に敷きひろげて、就寝・くつろぎの寝具や座具、さらには調度具に用いられ、その後の書院造りの建物では、次第に寝具としての役割から離れて、部屋いっぱいに敷き詰められるようになりましたが、これは畳の進化によって、住まい構造が変わり、快適タタミライフを中心とした住まい方に変わってきたことを伺わせています。いいかえれば、畳はその時代の文化の基盤だったことになります。その意味で、フローリングを中心とした現代の住まい方は、いまから1000年あまり以前の平安時代に戻っていることになります。
縄文時代から弥生時代にかけて
古くは奈良時代や平安時代からさかのぼります。鎌倉時代から室町時代にかけては高貴な人や客人のもてなしのためのものでしたが、江戸時代には一般庶民に普及する住まいの床材でした。
古事記にも登場しています
古事記の中に、菅畳、皮畳の記述があります。 日本書紀に「八重席薦(やえむしろこも)」の記載があります。 たたみという言葉は、こもとか絹とか萱を「たたむ」というところから生まれました。 貴族は何枚も重ねて敷いていたそうです。
長宗我部氏
長宗我部氏(ちょうそかべし)は、
日本の武家の一つ。平安時代末から戦国時代の武家。戦国時代に土佐を統一し四国に進出した戦国大名、長宗我部元親で有名。
長曽我部・長曾我部とも記される。
ななつかたばみ
七つ酢漿草
本性 称・秦忌寸
家祖 長宗我部能俊
種別 武家
主な根拠地 土佐国長岡郡岡豊
のち吾川郡浦戸
長宗我部氏歴代当主
第1代 長宗我部 能俊
第2代 長宗我部 俊宗
第3代 長宗我部 忠俊
第4代 長宗我部 重氏
第5代 長宗我部 氏幸
第6代 長宗我部 満幸
第7代 長宗我部 兼光
第8代 長宗我部 重俊
第9代 長宗我部 重高
第10代 長宗我部 重宗
第11代 長宗我部 信能
第12代 長宗我部 兼能
第13代 長宗我部 兼綱
第14代 長宗我部 能重
第15代 長宗我部 元親
長宗我部 文兼
長宗我部 元門
長宗我部 雄親
長宗我部 兼序
長宗我部 国親
長宗我部 元親
長宗我部 盛親
親典
與助
弥左衛門
久蔵
惣亟
弥右衛門
弥四郎
歡次
與助
與右衛門
重親
吉親
親衛
林馬
友猪
友親(現・当主)
江村氏
日本の武家の一つ。平安時代末から戦国時代の武家。戦国時代に土佐を統一し四国に進出した戦国大名、長宗我部元親で有名。
長曽我部・長曾我部とも記される。
ななつかたばみ
七つ酢漿草
本性 称・秦忌寸
家祖 長宗我部能俊
種別 武家
主な根拠地 土佐国長岡郡岡豊
のち吾川郡浦戸
長宗我部氏歴代当主
第1代 長宗我部 能俊
第2代 長宗我部 俊宗
第3代 長宗我部 忠俊
第4代 長宗我部 重氏
第5代 長宗我部 氏幸
第6代 長宗我部 満幸
第7代 長宗我部 兼光
第8代 長宗我部 重俊
第9代 長宗我部 重高
第10代 長宗我部 重宗
第11代 長宗我部 信能
第12代 長宗我部 兼能
第13代 長宗我部 兼綱
第14代 長宗我部 能重
第15代 長宗我部 元親
長宗我部 文兼
長宗我部 元門
長宗我部 雄親
長宗我部 兼序
長宗我部 国親
長宗我部 元親
長宗我部 盛親
親典
與助
弥左衛門
久蔵
惣亟
弥右衛門
弥四郎
歡次
與助
與右衛門
重親
吉親
親衛
林馬
友猪
友親(現・当主)
江村氏
2019年12月13日
香宗我部親泰
香宗我部 親泰(こうそかべ ちかやす)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
長宗我部氏の家臣。
長宗我部国親の三男。
時代 戦国時代 安土桃山時代
生誕 天文3年(1543年)
死没 文禄2年(1593年)
改名 弥七郎(幼名)→香宗我部親泰
戒名 瑞松院殿明彭孤仙大居士
墓所 宝鏡寺跡(高知県香南市)
主君 長宗我部国親→元親
氏族 長宗我部氏→香宗我部氏
父母 父:長宗我部国親、母:不明
養父:香宗我部親秀
兄弟 元親、吉良親貞、香宗我部親泰、
島親益、 女(本山茂辰室)、
女(池頼和室)、女(波川清宗室)
妻 正室:香宗我部秀通の娘
子 親氏、貞親
生涯
天文3年(1543年)、長宗我部氏第20代当主・長宗我部国親の三男として生まれる。幼名は弥七郎。弘治4年(1558年)に父の命によって香宗我部親秀の養子となった。永禄12年(1569年)に安芸国虎が滅亡したため、安芸城主となる。
その後は兄・元親に従って各地を転戦する。親泰は阿波平定に尽力し、阿波海部城を拠点にして各地を転戦し、天正7年(1579年)に新開道善の富岡城を奪取した。親泰は外交にも秀でており、天正3年(1575年)に長宗我部信親の烏帽子親を織田信長が務め、天正8年(1580年)には渡海して安土城で織田信長と拝謁し、三好康長ら三好氏との和睦を求めたりしている。
天正10年(1582年)6月の本能寺の変後、中富川の戦いで十河存保を破り、天正11年(1583年)には阿波木津城を攻略するなど、兄の四国統一に尽力した。
信長の死後も柴田勝家や徳川家康と通じて四国平定を有利に進めたことは、全て親泰の手腕によるものである。織田氏・徳川氏など諸大名の窓口となっており、親泰宛に書状が送られている。天正13年(1585年)の豊臣秀吉の四国征伐では阿波牛岐城を守備したが、木津城が豊臣軍に落とされたため、城を放棄して土佐に帰国した。
しかし天正20年(1592年)、文禄の役に赴く途上にあった嫡男・親氏が急死、自身も朝鮮半島に赴く途上の文禄2年(1593年)に長門で兄に先立って急死した。享年51。中山田泰吉(香宗我部親秀の弟・秀通[注釈 1]の子)に跡を継がせる話も出たが、結局跡は次男・貞親が継ぎ、泰吉はその後見となった。吉良親貞同様、その死は長宗我部氏にとって大きな痛手であった。
人物像
親泰は元親の分身として四国各地を転戦し、よく補佐を務めた。親泰の死で元親を補佐・諫言できる者がいなくなり、その後元親は暴走を繰り返して長宗我部家は衰退し、元親の没後には改易となる。
家臣
中山田泰吉
中山田秀政
池内真武
西内喜兵衛
田中正吉
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
長宗我部氏の家臣。
長宗我部国親の三男。
時代 戦国時代 安土桃山時代
生誕 天文3年(1543年)
死没 文禄2年(1593年)
改名 弥七郎(幼名)→香宗我部親泰
戒名 瑞松院殿明彭孤仙大居士
墓所 宝鏡寺跡(高知県香南市)
主君 長宗我部国親→元親
氏族 長宗我部氏→香宗我部氏
父母 父:長宗我部国親、母:不明
養父:香宗我部親秀
兄弟 元親、吉良親貞、香宗我部親泰、
島親益、 女(本山茂辰室)、
女(池頼和室)、女(波川清宗室)
妻 正室:香宗我部秀通の娘
子 親氏、貞親
生涯
天文3年(1543年)、長宗我部氏第20代当主・長宗我部国親の三男として生まれる。幼名は弥七郎。弘治4年(1558年)に父の命によって香宗我部親秀の養子となった。永禄12年(1569年)に安芸国虎が滅亡したため、安芸城主となる。
その後は兄・元親に従って各地を転戦する。親泰は阿波平定に尽力し、阿波海部城を拠点にして各地を転戦し、天正7年(1579年)に新開道善の富岡城を奪取した。親泰は外交にも秀でており、天正3年(1575年)に長宗我部信親の烏帽子親を織田信長が務め、天正8年(1580年)には渡海して安土城で織田信長と拝謁し、三好康長ら三好氏との和睦を求めたりしている。
天正10年(1582年)6月の本能寺の変後、中富川の戦いで十河存保を破り、天正11年(1583年)には阿波木津城を攻略するなど、兄の四国統一に尽力した。
信長の死後も柴田勝家や徳川家康と通じて四国平定を有利に進めたことは、全て親泰の手腕によるものである。織田氏・徳川氏など諸大名の窓口となっており、親泰宛に書状が送られている。天正13年(1585年)の豊臣秀吉の四国征伐では阿波牛岐城を守備したが、木津城が豊臣軍に落とされたため、城を放棄して土佐に帰国した。
しかし天正20年(1592年)、文禄の役に赴く途上にあった嫡男・親氏が急死、自身も朝鮮半島に赴く途上の文禄2年(1593年)に長門で兄に先立って急死した。享年51。中山田泰吉(香宗我部親秀の弟・秀通[注釈 1]の子)に跡を継がせる話も出たが、結局跡は次男・貞親が継ぎ、泰吉はその後見となった。吉良親貞同様、その死は長宗我部氏にとって大きな痛手であった。
人物像
親泰は元親の分身として四国各地を転戦し、よく補佐を務めた。親泰の死で元親を補佐・諫言できる者がいなくなり、その後元親は暴走を繰り返して長宗我部家は衰退し、元親の没後には改易となる。
家臣
中山田泰吉
中山田秀政
池内真武
西内喜兵衛
田中正吉
2019年12月12日
大平元国
大平元国【おおひらもとくに(15??〜15??)】
大平国雄の男。官途は隠岐守。1508年、「岡豊城の戦い」で本山養明、吉良宣経、山田元秀とともに長宗我部兼序を討取る戦功を挙げた。1519年、庄田の鯨坂八幡宮や吾川郡芳原村の若一王子社を修造した。1543年、「姫野々館の戦い」で津野基高を支援して一条房基勢と戦い敗退した。1546年、「須崎の戦い」で津野基高とともに一条房基勢と戦い降伏した。
大平国雄の男。官途は隠岐守。1508年、「岡豊城の戦い」で本山養明、吉良宣経、山田元秀とともに長宗我部兼序を討取る戦功を挙げた。1519年、庄田の鯨坂八幡宮や吾川郡芳原村の若一王子社を修造した。1543年、「姫野々館の戦い」で津野基高を支援して一条房基勢と戦い敗退した。1546年、「須崎の戦い」で津野基高とともに一条房基勢と戦い降伏した。
津野親忠
津野 親忠(つの ちかただ)は、
安土桃山時代の武将。
長宗我部氏の家臣。
長宗我部元親の三男。
生涯
元亀3年(1572年)、土佐国の戦国大名・長宗我部元親の三男として誕生。
父・元親が土佐国の豪族・津野氏を降し、津野勝興の養子として親忠を送り込んだことにより津野氏の当主となった。ところが、天正13年(1585年)の四国の役で父が豊臣秀吉に敗れると、秀吉のもとへ人質として送られる。
だが天正14年(1586年)、長兄の長宗我部信親が戸次川の戦いで戦死すると、親忠も長宗我部氏の家督相続争いに巻き込まれる。家臣の久武親直の讒言に加え、人質時代に藤堂高虎と親しかったこともあって父・元親からは嫌われ、家督は弟の長宗我部盛親が継ぐこととなった。慶長4年(1599年)3月には元親によって幽閉される[注釈 1]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで当主・盛親が西軍に与して敗れた後、親忠も井伊直政を通じて徳川家康に謝罪し本領安堵をしてもらうように取り付けようとしたが、親直が「親忠が藤堂高虎と謀って土佐の半国を支配しようとしている」と讒言したため[注釈 2]、親忠は盛親によって9月29日に香美郡岩村・霊厳寺にて殺害された。享年29。親忠を殺したことにより、盛親は「兄殺し」として家康に咎められたことが長宗我部氏の改易の一因となった。
この盛親が、親直の讒訴によって「兄殺し」をした話は『土佐国編年紀事略』に記述されている。一方で『土佐物語』では親直の讒訴を盛親は聞き入れなかったが、親忠の抹殺を願う親直は「盛親の命令があった」と、大義名分を捏造して親忠を殺害したと伝える[3]。なお、長宗我部氏に代わって土佐国の大名となった山内一豊は、土佐入国後の領内の巡視を行った際に、「津野親忠自殺の始末を知る者はないか」と問うたため、須崎代官を勤めていた柏原新之丞が「中平清兵衛が津野氏一族なのでこの者を召されれば事実が明らかになるでしょう」と答えた。そこで、清兵衛が召しだされて津野氏断絶の一部始終が一豊に伝えられた。
安土桃山時代の武将。
長宗我部氏の家臣。
長宗我部元親の三男。
生涯
元亀3年(1572年)、土佐国の戦国大名・長宗我部元親の三男として誕生。
父・元親が土佐国の豪族・津野氏を降し、津野勝興の養子として親忠を送り込んだことにより津野氏の当主となった。ところが、天正13年(1585年)の四国の役で父が豊臣秀吉に敗れると、秀吉のもとへ人質として送られる。
だが天正14年(1586年)、長兄の長宗我部信親が戸次川の戦いで戦死すると、親忠も長宗我部氏の家督相続争いに巻き込まれる。家臣の久武親直の讒言に加え、人質時代に藤堂高虎と親しかったこともあって父・元親からは嫌われ、家督は弟の長宗我部盛親が継ぐこととなった。慶長4年(1599年)3月には元親によって幽閉される[注釈 1]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで当主・盛親が西軍に与して敗れた後、親忠も井伊直政を通じて徳川家康に謝罪し本領安堵をしてもらうように取り付けようとしたが、親直が「親忠が藤堂高虎と謀って土佐の半国を支配しようとしている」と讒言したため[注釈 2]、親忠は盛親によって9月29日に香美郡岩村・霊厳寺にて殺害された。享年29。親忠を殺したことにより、盛親は「兄殺し」として家康に咎められたことが長宗我部氏の改易の一因となった。
この盛親が、親直の讒訴によって「兄殺し」をした話は『土佐国編年紀事略』に記述されている。一方で『土佐物語』では親直の讒訴を盛親は聞き入れなかったが、親忠の抹殺を願う親直は「盛親の命令があった」と、大義名分を捏造して親忠を殺害したと伝える[3]。なお、長宗我部氏に代わって土佐国の大名となった山内一豊は、土佐入国後の領内の巡視を行った際に、「津野親忠自殺の始末を知る者はないか」と問うたため、須崎代官を勤めていた柏原新之丞が「中平清兵衛が津野氏一族なのでこの者を召されれば事実が明らかになるでしょう」と答えた。そこで、清兵衛が召しだされて津野氏断絶の一部始終が一豊に伝えられた。
安芸 国虎
安芸国虎(あき・くにとら) 1541?〜1569
安芸元泰の子。備後守。安芸氏は蘇我赤兄の流れを汲むといわれる名族で、安芸七守護のひとり。土佐国安芸郡安芸城主。
一条氏の女を妻とした。
代々土佐東部にその武威を誇り、安芸郡の大領を相伝していたが、長岡郡岡豊城に拠る長宗我部氏の台頭により、長宗我部元親と争った。
天文13年(1544)に父・元泰が没したとき、国虎はまだ4歳だったといわれ、同族の後見を受けた。当主として活動を始めるのは弘治3年(1557)頃のことである。
近隣の和食氏や香宗我部氏を圧迫し、勢力拡大を目論む。永禄6年(1563)、元親が長岡郡の本山氏と争っている際、幡多郡の一条氏の援軍を得て岡豊城を攻めるも失敗する。
安芸元泰の子。備後守。安芸氏は蘇我赤兄の流れを汲むといわれる名族で、安芸七守護のひとり。土佐国安芸郡安芸城主。
一条氏の女を妻とした。
代々土佐東部にその武威を誇り、安芸郡の大領を相伝していたが、長岡郡岡豊城に拠る長宗我部氏の台頭により、長宗我部元親と争った。
天文13年(1544)に父・元泰が没したとき、国虎はまだ4歳だったといわれ、同族の後見を受けた。当主として活動を始めるのは弘治3年(1557)頃のことである。
近隣の和食氏や香宗我部氏を圧迫し、勢力拡大を目論む。永禄6年(1563)、元親が長岡郡の本山氏と争っている際、幡多郡の一条氏の援軍を得て岡豊城を攻めるも失敗する。