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2019年12月19日
氏姓制度
氏姓制度(しせいせいど)
氏姓の制(うじかばねのせい)
ヤマト政権が、5世紀〜6世紀にかけてつくり上げた身分による支配制度です。
古代日本において、中央貴族、ついで地方豪族が、国家(ヤマト王権)に対する貢献度、朝廷政治上に占める地位に応じて、朝廷より氏(うじ)の名と姓(カバネ)の名とを授与され、その特権的地位を世襲した制度。
大化の改新ののち、律令国家の形成におよぶと、戸籍制によって、氏姓はかつての部民(べみん)、つまり一般民衆にまで拡大され、すべての階層の国家身分を表示するものとなった。氏姓を有しない者は、天皇をはじめとする皇族と奴婢のみとなった。
大化の改新ののち、律令国家の形成におよぶと、戸籍制によって、氏姓はかつての部民(べみん)、つまり一般民衆にまで拡大され、すべての階層の国家身分を表示するものとなった。氏姓を有しない者は、天皇をはじめとする皇族と奴婢のみとなった。
氏姓の制(うじかばねのせい)
ヤマト政権が、5世紀〜6世紀にかけてつくり上げた身分による支配制度です。
古代日本において、中央貴族、ついで地方豪族が、国家(ヤマト王権)に対する貢献度、朝廷政治上に占める地位に応じて、朝廷より氏(うじ)の名と姓(カバネ)の名とを授与され、その特権的地位を世襲した制度。
大化の改新ののち、律令国家の形成におよぶと、戸籍制によって、氏姓はかつての部民(べみん)、つまり一般民衆にまで拡大され、すべての階層の国家身分を表示するものとなった。氏姓を有しない者は、天皇をはじめとする皇族と奴婢のみとなった。
大化の改新ののち、律令国家の形成におよぶと、戸籍制によって、氏姓はかつての部民(べみん)、つまり一般民衆にまで拡大され、すべての階層の国家身分を表示するものとなった。氏姓を有しない者は、天皇をはじめとする皇族と奴婢のみとなった。
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和珥氏
和珥氏(わにうじ)は、「和珥」を氏の名とする氏族。5世紀から6世紀にかけて奈良盆地東北部に勢力を持った古代日本の中央豪族である。和珥は和邇・丸邇・丸とも書く。
氏姓
和珥臣
氏祖
天足彦国押人命
(孝昭天皇の第1皇子)
種別
皇別
本貫
大和国添上郡和邇
氏姓
和珥臣
氏祖
天足彦国押人命
(孝昭天皇の第1皇子)
種別
皇別
本貫
大和国添上郡和邇
朝臣
朝臣(あそん、あそみ)
684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓の制度で新たに作られた姓(カバネ)で、上から二番目に相当する。一番上の真人(まひと)は、主に皇族に与えられたため、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたる。読みは「あそみ」が古い。古くは阿曽美、旦臣とも書いた。
この朝臣が作られた背景には、従来の臣(おみ)、連(むらじ)、首(おびと)、直(あたい)などの姓の上位に位置する姓を作ることで、姓に優劣、待遇の差をつけ、天皇への忠誠の厚い氏(うじ)を優遇し、皇室への権力掌握をはかったと思われる。
『日本書紀』には、684年(天武天皇13年)11月1日に初めて朝臣を賜った52氏として、大三輪氏、大春日氏、阿倍氏、巨瀬氏、膳氏、紀氏、波多氏、物部氏、平群氏、雀部氏、中臣氏、大宅氏、粟田氏、石川氏、桜井氏、采女氏、田中氏、小墾田氏、穂積氏、山背氏、鴨氏、小野氏、川辺氏、櫟井氏、柿本氏、軽部氏、若桜部氏、岸田氏、高向氏、宍人氏、来目氏、犬上氏、上毛野氏、角氏、星川氏、多氏、胸方氏、車持氏、綾氏、下道氏、伊賀氏、阿閉氏、林氏、波弥氏、下毛野氏、佐味氏、道守氏、大野氏、坂本氏、池田氏、玉手氏、笠氏が記されている[1]。
朝臣は、主に壬申の乱で功績の有った主に臣の姓を持つ氏族(古い時代に皇室から分かれたものが多い)に優先的に与えられた。その次に位置する主に連の姓を持つ氏族には宿禰の姓を与えていた。しかしながら、その後も朝廷に功績が有った氏族には朝臣の姓を下賜していき、奈良時代にはほとんどの氏が朝臣の姓を持つようになった。
さらに時代が下ると、大半の貴族や武士は藤原朝臣、源朝臣、平朝臣などの子孫で占められてしまい、また、武家台頭による下級貴族の没落もあり、朝臣は、序列付けの為の姓としての意味を失ってしまい、公式文書で使う形式的なものになっていった。
平安時代以降、公卿(三位以上及び参議)は、氏の下に朝臣、諱の下に公(大臣)ないし卿という敬称を以って称した。四位以下の者は氏、諱の下に姓をつけて呼称した。氏ではなく諱の下に朝臣とつけた者は特に名乗り朝臣という。
例 足利内大臣正二位源朝臣義政公(足利義政)
例 細川右京大夫従四位下源勝元朝臣(細川勝元)
684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓の制度で新たに作られた姓(カバネ)で、上から二番目に相当する。一番上の真人(まひと)は、主に皇族に与えられたため、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたる。読みは「あそみ」が古い。古くは阿曽美、旦臣とも書いた。
この朝臣が作られた背景には、従来の臣(おみ)、連(むらじ)、首(おびと)、直(あたい)などの姓の上位に位置する姓を作ることで、姓に優劣、待遇の差をつけ、天皇への忠誠の厚い氏(うじ)を優遇し、皇室への権力掌握をはかったと思われる。
『日本書紀』には、684年(天武天皇13年)11月1日に初めて朝臣を賜った52氏として、大三輪氏、大春日氏、阿倍氏、巨瀬氏、膳氏、紀氏、波多氏、物部氏、平群氏、雀部氏、中臣氏、大宅氏、粟田氏、石川氏、桜井氏、采女氏、田中氏、小墾田氏、穂積氏、山背氏、鴨氏、小野氏、川辺氏、櫟井氏、柿本氏、軽部氏、若桜部氏、岸田氏、高向氏、宍人氏、来目氏、犬上氏、上毛野氏、角氏、星川氏、多氏、胸方氏、車持氏、綾氏、下道氏、伊賀氏、阿閉氏、林氏、波弥氏、下毛野氏、佐味氏、道守氏、大野氏、坂本氏、池田氏、玉手氏、笠氏が記されている[1]。
朝臣は、主に壬申の乱で功績の有った主に臣の姓を持つ氏族(古い時代に皇室から分かれたものが多い)に優先的に与えられた。その次に位置する主に連の姓を持つ氏族には宿禰の姓を与えていた。しかしながら、その後も朝廷に功績が有った氏族には朝臣の姓を下賜していき、奈良時代にはほとんどの氏が朝臣の姓を持つようになった。
さらに時代が下ると、大半の貴族や武士は藤原朝臣、源朝臣、平朝臣などの子孫で占められてしまい、また、武家台頭による下級貴族の没落もあり、朝臣は、序列付けの為の姓としての意味を失ってしまい、公式文書で使う形式的なものになっていった。
平安時代以降、公卿(三位以上及び参議)は、氏の下に朝臣、諱の下に公(大臣)ないし卿という敬称を以って称した。四位以下の者は氏、諱の下に姓をつけて呼称した。氏ではなく諱の下に朝臣とつけた者は特に名乗り朝臣という。
例 足利内大臣正二位源朝臣義政公(足利義政)
例 細川右京大夫従四位下源勝元朝臣(細川勝元)
海野氏
国司
国司(こくし)とは?
奈良時代に貴族を中心とした朝廷によって、中央集権国家をつくるために制定された律令制のもとで、諸国を治めるために設置された役職です。主に諸国における戸籍の作成や租税の徴収、兵士の召集、班田収授などをその役割としていました。班田収授とは、6年ごとに戸籍をもとに6才以上の男女に口分田(くぶんでん)と呼ばれる耕地をあたえ、死亡すると国家に返納させる制度です。
奈良時代に貴族を中心とした朝廷によって、中央集権国家をつくるために制定された律令制のもとで、諸国を治めるために設置された役職です。主に諸国における戸籍の作成や租税の徴収、兵士の召集、班田収授などをその役割としていました。班田収授とは、6年ごとに戸籍をもとに6才以上の男女に口分田(くぶんでん)と呼ばれる耕地をあたえ、死亡すると国家に返納させる制度です。
2019年12月18日
守護代
守護代(しゅごだい)とは、鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職である。
概説
広義には代官の一種であるが、室町時代以降は室町幕府の直轄領の土地支配の代理人を代官といい、守護の代理人たる守護代と代官は区別された。
守護は、鎌倉や京都につめて中央の政務に携わることが多く、任国を留守にする期間が長かった。複数の国を兼任する守護の場合、兼任した国を視察する機会はさらに少なかった。このため守護は、家臣の中から代官を任命して実際の政務を代行させた。これが守護代である。守護代も自らの代理人たる小守護代を置き、守護任国における土地支配構造はきわめて重層的であったといえる。また、一国に2人以上の守護代が居ることもあり、このような場合は「分郡守護代」の体制をとった。
室町時代に入ると、当初は守護の一門やその傍流、或いは重臣、または守護国内の有力武士(国人)が任じられる(ただし、複数の守護を兼ねる家の場合には、他の領国の国人が守護代とされる場合もある。讃岐香西氏→丹波守護代、能登遊佐氏→河内守護代など)ことが多くなり、次第に世襲化していくと、守護に代わって実質的統治者になっていった。守護代は室町幕府より守護の白傘袋(しろかさぶくろ)、毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)、及び塗輿(ぬりごし)の格式に次ぐ、唐傘袋(からかさぶくろ)、毛氈鞍覆、及び塗輿の使用が認められる格式を与えられ、国人よりも一等高い地位にあった。
いっぽう、荘園の崩壊による惣の発達によって在地土豪や国人層の社会的地位が上昇し諸国で紛争が発生すると、領国を一元的に支配する傾向が顕著になって戦国大名が成長し守護大名とともに守護代は消滅していった。ただし越後の長尾氏、越前の朝倉氏や、尾張の織田氏、阿波の三好氏、備前の浦上氏、出雲の尼子氏のように、守護代が戦国大名化した事例も全国的に見られる。
戦国大名化した守護代たち
また、守護代の戦国大名化に伴い、守護級の格式を求められる大名家が増えていった。
その代表例は朝倉氏である。朝倉氏はそもそも、足利将軍家の有力一門で、代々三管領筆頭の地位を占めた斯波氏の被官であった国人の一人であった。応仁の乱では西軍に加担し、渋川氏から斯波氏を相続した斯波義廉を大将に守り立てていたが、東軍の総帥、管領細川勝元の誘引により、東軍寝返りの見返りに越前守護に補任され、守護となった。しかし、旧主斯波氏による訴えや幕府の斯波氏に対する同情から、朝倉氏の守護職維持が次第に難しくなり、三代将軍足利義満の次男で兄足利義持に謀叛して倒れた足利義嗣の末裔が越前国に鞍谷御所と称し存続していた点に目をつけ、斯波義廉の子に鞍谷御所を相続させて、足利義俊と名乗らせ、傀儡の越前守護に補任するよう手続きし、越前一国の実効支配を確保した。
出雲国の守護代尼子氏も同国守護京極氏の庶流であり、その重臣として出雲守護代を命ぜられた家であった。しかし、応仁の乱以降の戦乱において戦功を重ね、京極家中において実力を養うと主家を追い戦国大名化し、やがて守護の格式を手中にした。そもそも、出雲守護には代々京極氏が補任されていたが、京極政経に背いた尼子経久が主君を追い、出雲国を掌握し11カ国に拡がる大名へと成長していった。子の尼子政久が討ち死にしたため、家督を嫡孫に譲ると、経久は孫に将軍足利義晴の一字 晴の字を受けて尼子晴久と名乗らせ、また出雲守護補任を認めさせ、守護代から守護への格式へと家柄を向上させた。
さらに、越後守護代の長尾氏(のち越中守護代も兼ねる)では、当初、守護職までは手中にしなかったものの、主君を追放し、関東管領をも討ち果たした長尾為景が、朝廷と幕府に寄進して守護の格式である白傘・袋毛氈鞍覆の格式と、嫡男に12代将軍足利義晴の偏諱を賜り、長尾晴景と名乗らせるなど、守護代に守護級の格式を認められていった。やがて、病弱な晴景に代わり、為景次男の景虎(後の上杉謙信)が家督を継ぐと、勢力拡大、甲信を制した武田氏と雌雄を決する対戦を繰り返し、やがて北条氏に攻められ勢力を失いつつあった上杉氏の上杉憲政の懇願で、上杉氏の家督と関東管領職を継承し、通常の守護よりも格段に高い地位を得ることとなった。晩年は畠山氏が守護だった越中と能登をも支配し、畠山氏を客将(高家)として傘下に置いた。
このように、室町時代は守護の代理人としての地位に過ぎなかった守護代の地位は戦国時代の幕開けとともに、主君を追い、取って代わる存在へと変貌していった。
一方で、戦国大名化に一時的に成功するも、やがてその家臣により失敗した例も多く存在する。その代表例が、三好氏である。 尾張国の守護代織田信友も主君である斯波義統を傀儡の守護として奉じ、自らの尾張国内での優位性と勢力拡大の大義名分に利用していた。しかし、やがて対立するようになった主君を自害に追うものの、傍流にして家臣でもあった、織田信長に主殺しを咎められ攻め滅ぼされた。
また、備前国に勢力を持った浦上氏も、一時的に戦国大名化を遂げ、配下の宇喜多氏にとって代わられた家のひとつである。浦上氏は播磨国を本貫とし、播磨国、備前国などの守護を務めた赤松氏の重臣で、代々、備前守護代を務めてきた。しかし、浦上宗景の代に、主家に反抗し、やがて独立的な地位を確立し、備前国の戦国大名として中国に鳴らした。しかし、自家の傘下にいた有力国人である宇喜多氏が、やがて浦上氏を下し、その領国支配を奪取した。
主な守護代の一覧
守護:斯波氏
甲斐氏(越前・遠江)
織田氏(尾張)
朝倉氏(越前)
二宮氏(越中・信濃・加賀)
完草氏(越前・越中・若狭・信濃)
島田氏(越前・信濃)
守護:畠山氏
遊佐氏(河内・能登・越中・紀伊)
長尾(府内)氏(越後・越中)
神保氏(越中・紀伊・能登)
椎名氏(越中)
本間氏(佐渡)
木沢氏(河内)
誉田氏(山城)
湯川氏(河内)
飯川氏(能登)
温井氏(能登)
守護:細川氏
香川氏(讃岐・摂津)
三好氏(阿波)
香西氏(丹波・山城・摂津)
安富氏(讃岐・備中・近江)
内藤氏(摂津・丹波)
上原氏 (丹波)
庄氏(備中)
秋庭氏(備中)
石川氏(備中)
細川氏(土佐)
上野氏(土佐・備後)
波多野氏 (丹波)
薬師寺氏(備後・摂津)
長塩氏(摂津)
奈良氏(摂津)
一宮氏(丹波)
東条氏(三河)
守護:一色氏
三方氏(若狭)
延永氏(丹後)
小笠原氏(三河・若狭)
守護:京極氏
尼子氏(出雲)
三木氏(飛騨)
隠岐氏(隠岐)
多賀氏(近江・飛騨)
塩冶氏(出雲)
古志氏(備後)
若宮氏(山城)
守護:今川氏
長瀬氏(遠江・駿河・筑後・備後)
蒲原氏(遠江・日向)
三浦氏(遠江)
守護:六角氏
山内氏(近江)
伊庭氏(近江)
馬淵氏(近江)
目賀田氏(近江)
儀峨氏(近江)
守護:山名氏
垣屋氏(但馬・播磨・山城)
太田垣氏(備後・備前・播磨)
八木氏(但馬・越前)
宮田氏(石見・備後・播磨)
入沢氏(美作・因幡・石見)
山内氏(備後)
南条氏(伯耆)
小鴨氏(備前)
小林氏(丹波)
田公氏(因幡)
守護:赤松氏
浦上氏(備前・山城)
小寺氏(播磨・備前・加賀)
備前松田氏(備前)
別所氏(播磨)
宇野氏(播磨)
有馬氏(播磨)
中村氏(美作)
大河原氏(美作)
守護:土岐氏
斎藤氏(美濃)
富島氏(美濃)
守護:武田氏
逸見氏(若狭)
内藤氏(若狭)
跡部氏(甲斐)
守護:富樫氏
額氏(加賀)
山川氏(加賀)
槻橋氏(加賀)
英田氏(加賀)
守護:上杉氏
長尾(白井・総社)氏 (上野・武蔵・越後)
大石氏(武蔵・上野・伊豆)
太田氏(相模・武蔵)
吉江氏(武蔵)
千坂氏(武蔵)
石川氏(上総)
宇佐美氏(伊豆)
寺尾氏(伊豆)
木戸氏(下野)
守護:仁木氏
服部氏(伊賀)
西郷氏(三河)
守護:千葉氏
大須賀氏(下総)
守護:佐竹氏
小野崎氏(常陸)
江戸氏(常陸)
守護:結城氏
山川氏(山城)
栃本氏(安房)
水谷氏(下野)
守護:宇都宮氏
芳賀氏(越後・上野・上総)
守護:小笠原氏
大井氏(信濃)
赤沢氏(信濃)
守護:大内氏
杉氏(豊前・長門・筑前・和泉・豊前)
陶氏(長門・周防・筑前・紀伊)
弘中氏(周防・安芸・山城)
内藤氏 (長門)
問田氏(周防・石見)
鷲頭氏(長門・石見)
守護:少弐氏
志佐氏(壱岐)
宗氏(対馬)
饗庭氏(肥後・筑前)
千葉氏(肥前)
原田氏(筑前)
守護:渋川氏
吉見氏(肥前)
守護:大友氏
入田氏(日向)
斎藤氏(肥前)
守護:島津氏
島津氏(薩摩)
本田氏(大隅)
土持氏(日向)
酒匂氏(薩摩)
概説
広義には代官の一種であるが、室町時代以降は室町幕府の直轄領の土地支配の代理人を代官といい、守護の代理人たる守護代と代官は区別された。
守護は、鎌倉や京都につめて中央の政務に携わることが多く、任国を留守にする期間が長かった。複数の国を兼任する守護の場合、兼任した国を視察する機会はさらに少なかった。このため守護は、家臣の中から代官を任命して実際の政務を代行させた。これが守護代である。守護代も自らの代理人たる小守護代を置き、守護任国における土地支配構造はきわめて重層的であったといえる。また、一国に2人以上の守護代が居ることもあり、このような場合は「分郡守護代」の体制をとった。
室町時代に入ると、当初は守護の一門やその傍流、或いは重臣、または守護国内の有力武士(国人)が任じられる(ただし、複数の守護を兼ねる家の場合には、他の領国の国人が守護代とされる場合もある。讃岐香西氏→丹波守護代、能登遊佐氏→河内守護代など)ことが多くなり、次第に世襲化していくと、守護に代わって実質的統治者になっていった。守護代は室町幕府より守護の白傘袋(しろかさぶくろ)、毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)、及び塗輿(ぬりごし)の格式に次ぐ、唐傘袋(からかさぶくろ)、毛氈鞍覆、及び塗輿の使用が認められる格式を与えられ、国人よりも一等高い地位にあった。
いっぽう、荘園の崩壊による惣の発達によって在地土豪や国人層の社会的地位が上昇し諸国で紛争が発生すると、領国を一元的に支配する傾向が顕著になって戦国大名が成長し守護大名とともに守護代は消滅していった。ただし越後の長尾氏、越前の朝倉氏や、尾張の織田氏、阿波の三好氏、備前の浦上氏、出雲の尼子氏のように、守護代が戦国大名化した事例も全国的に見られる。
戦国大名化した守護代たち
また、守護代の戦国大名化に伴い、守護級の格式を求められる大名家が増えていった。
その代表例は朝倉氏である。朝倉氏はそもそも、足利将軍家の有力一門で、代々三管領筆頭の地位を占めた斯波氏の被官であった国人の一人であった。応仁の乱では西軍に加担し、渋川氏から斯波氏を相続した斯波義廉を大将に守り立てていたが、東軍の総帥、管領細川勝元の誘引により、東軍寝返りの見返りに越前守護に補任され、守護となった。しかし、旧主斯波氏による訴えや幕府の斯波氏に対する同情から、朝倉氏の守護職維持が次第に難しくなり、三代将軍足利義満の次男で兄足利義持に謀叛して倒れた足利義嗣の末裔が越前国に鞍谷御所と称し存続していた点に目をつけ、斯波義廉の子に鞍谷御所を相続させて、足利義俊と名乗らせ、傀儡の越前守護に補任するよう手続きし、越前一国の実効支配を確保した。
出雲国の守護代尼子氏も同国守護京極氏の庶流であり、その重臣として出雲守護代を命ぜられた家であった。しかし、応仁の乱以降の戦乱において戦功を重ね、京極家中において実力を養うと主家を追い戦国大名化し、やがて守護の格式を手中にした。そもそも、出雲守護には代々京極氏が補任されていたが、京極政経に背いた尼子経久が主君を追い、出雲国を掌握し11カ国に拡がる大名へと成長していった。子の尼子政久が討ち死にしたため、家督を嫡孫に譲ると、経久は孫に将軍足利義晴の一字 晴の字を受けて尼子晴久と名乗らせ、また出雲守護補任を認めさせ、守護代から守護への格式へと家柄を向上させた。
さらに、越後守護代の長尾氏(のち越中守護代も兼ねる)では、当初、守護職までは手中にしなかったものの、主君を追放し、関東管領をも討ち果たした長尾為景が、朝廷と幕府に寄進して守護の格式である白傘・袋毛氈鞍覆の格式と、嫡男に12代将軍足利義晴の偏諱を賜り、長尾晴景と名乗らせるなど、守護代に守護級の格式を認められていった。やがて、病弱な晴景に代わり、為景次男の景虎(後の上杉謙信)が家督を継ぐと、勢力拡大、甲信を制した武田氏と雌雄を決する対戦を繰り返し、やがて北条氏に攻められ勢力を失いつつあった上杉氏の上杉憲政の懇願で、上杉氏の家督と関東管領職を継承し、通常の守護よりも格段に高い地位を得ることとなった。晩年は畠山氏が守護だった越中と能登をも支配し、畠山氏を客将(高家)として傘下に置いた。
このように、室町時代は守護の代理人としての地位に過ぎなかった守護代の地位は戦国時代の幕開けとともに、主君を追い、取って代わる存在へと変貌していった。
一方で、戦国大名化に一時的に成功するも、やがてその家臣により失敗した例も多く存在する。その代表例が、三好氏である。 尾張国の守護代織田信友も主君である斯波義統を傀儡の守護として奉じ、自らの尾張国内での優位性と勢力拡大の大義名分に利用していた。しかし、やがて対立するようになった主君を自害に追うものの、傍流にして家臣でもあった、織田信長に主殺しを咎められ攻め滅ぼされた。
また、備前国に勢力を持った浦上氏も、一時的に戦国大名化を遂げ、配下の宇喜多氏にとって代わられた家のひとつである。浦上氏は播磨国を本貫とし、播磨国、備前国などの守護を務めた赤松氏の重臣で、代々、備前守護代を務めてきた。しかし、浦上宗景の代に、主家に反抗し、やがて独立的な地位を確立し、備前国の戦国大名として中国に鳴らした。しかし、自家の傘下にいた有力国人である宇喜多氏が、やがて浦上氏を下し、その領国支配を奪取した。
主な守護代の一覧
守護:斯波氏
甲斐氏(越前・遠江)
織田氏(尾張)
朝倉氏(越前)
二宮氏(越中・信濃・加賀)
完草氏(越前・越中・若狭・信濃)
島田氏(越前・信濃)
守護:畠山氏
遊佐氏(河内・能登・越中・紀伊)
長尾(府内)氏(越後・越中)
神保氏(越中・紀伊・能登)
椎名氏(越中)
本間氏(佐渡)
木沢氏(河内)
誉田氏(山城)
湯川氏(河内)
飯川氏(能登)
温井氏(能登)
守護:細川氏
香川氏(讃岐・摂津)
三好氏(阿波)
香西氏(丹波・山城・摂津)
安富氏(讃岐・備中・近江)
内藤氏(摂津・丹波)
上原氏 (丹波)
庄氏(備中)
秋庭氏(備中)
石川氏(備中)
細川氏(土佐)
上野氏(土佐・備後)
波多野氏 (丹波)
薬師寺氏(備後・摂津)
長塩氏(摂津)
奈良氏(摂津)
一宮氏(丹波)
東条氏(三河)
守護:一色氏
三方氏(若狭)
延永氏(丹後)
小笠原氏(三河・若狭)
守護:京極氏
尼子氏(出雲)
三木氏(飛騨)
隠岐氏(隠岐)
多賀氏(近江・飛騨)
塩冶氏(出雲)
古志氏(備後)
若宮氏(山城)
守護:今川氏
長瀬氏(遠江・駿河・筑後・備後)
蒲原氏(遠江・日向)
三浦氏(遠江)
守護:六角氏
山内氏(近江)
伊庭氏(近江)
馬淵氏(近江)
目賀田氏(近江)
儀峨氏(近江)
守護:山名氏
垣屋氏(但馬・播磨・山城)
太田垣氏(備後・備前・播磨)
八木氏(但馬・越前)
宮田氏(石見・備後・播磨)
入沢氏(美作・因幡・石見)
山内氏(備後)
南条氏(伯耆)
小鴨氏(備前)
小林氏(丹波)
田公氏(因幡)
守護:赤松氏
浦上氏(備前・山城)
小寺氏(播磨・備前・加賀)
備前松田氏(備前)
別所氏(播磨)
宇野氏(播磨)
有馬氏(播磨)
中村氏(美作)
大河原氏(美作)
守護:土岐氏
斎藤氏(美濃)
富島氏(美濃)
守護:武田氏
逸見氏(若狭)
内藤氏(若狭)
跡部氏(甲斐)
守護:富樫氏
額氏(加賀)
山川氏(加賀)
槻橋氏(加賀)
英田氏(加賀)
守護:上杉氏
長尾(白井・総社)氏 (上野・武蔵・越後)
大石氏(武蔵・上野・伊豆)
太田氏(相模・武蔵)
吉江氏(武蔵)
千坂氏(武蔵)
石川氏(上総)
宇佐美氏(伊豆)
寺尾氏(伊豆)
木戸氏(下野)
守護:仁木氏
服部氏(伊賀)
西郷氏(三河)
守護:千葉氏
大須賀氏(下総)
守護:佐竹氏
小野崎氏(常陸)
江戸氏(常陸)
守護:結城氏
山川氏(山城)
栃本氏(安房)
水谷氏(下野)
守護:宇都宮氏
芳賀氏(越後・上野・上総)
守護:小笠原氏
大井氏(信濃)
赤沢氏(信濃)
守護:大内氏
杉氏(豊前・長門・筑前・和泉・豊前)
陶氏(長門・周防・筑前・紀伊)
弘中氏(周防・安芸・山城)
内藤氏 (長門)
問田氏(周防・石見)
鷲頭氏(長門・石見)
守護:少弐氏
志佐氏(壱岐)
宗氏(対馬)
饗庭氏(肥後・筑前)
千葉氏(肥前)
原田氏(筑前)
守護:渋川氏
吉見氏(肥前)
守護:大友氏
入田氏(日向)
斎藤氏(肥前)
守護:島津氏
島津氏(薩摩)
本田氏(大隅)
土持氏(日向)
酒匂氏(薩摩)
細川頼益
細川 勝益(ほそかわ かつます)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。土佐国守護代。細川遠州家当主。官位は治部少輔・遠江守。細川頼種の子孫にあたる。
波多国
波多国と波多国造
波多国とは、高知県の幡多地方
高知県の幡多地方
四万十市・宿毛市・土佐清水市・黒潮町 ・ 大月町 ・ 三原村
はた旅(公式)より引用
のことで、当時都佐国と別に一国をなしていた。都佐国とは、土佐郡土佐郷を中心とした現在の高知市付近のことである。
大昔の国というのは、後世の国とは異なり、その地の豪族の勢力範囲をいったものであり、人々の集まり住むところであれば地域の大小に関係なく、一部落でも部落の集団でも、すべて「クニ」と呼んでいた。小さな「クニ」が統一され、やがて大きな国となるのである。
国造くにのみやつこというのは、大和朝廷が統一した部落国家に置いた地方長官であるが、多くの場合朝廷から派遣されたものでなく、朝廷につながりをもっていた地方の部落国家の首長がそのまま任命されて、世襲したようである。
『国造本紀』(823〜936)によると、土佐国は初め、波多国と都佐国の2国に分かれていて、波多国は第10代崇神天皇の世に、神のお告げによって、天韓襲命あまのからそのみことを国造に定められたと、次のように記されている。
「波多国造、瑞籬朝御世、天韓襲命依神教云、定賜国造」
天韓襲命は、もと波多国の首長であったとも考えられるが「天韓襲命」という名前や、神のお告げによって任命されたといわれることから、特別の事情により選任された人であったと思われる(天韓襲命は帰化人ともいわれている。)
都佐国は第13代成務天皇の世(131〜191)に、長阿比古の同祖で、三島溝杭命9世の孫の小立足尼を国造に定めたと、これまた『国造本紀』に、次のように記されてある。
「都佐国造、志賀高穴穂朝御世、長阿比古同祖、三島溝杭命九世孫、小立足尼定賜国造。」
小立は、現在の尾立ひじに通じるものと考えられるので、高知市朝倉付近に勢力を張っていた豪族と思われる。
年代に関しては、波多国造の場合と同様、信じ難い点がある。それは、『国造本紀』による国造を置いた時期は、古墳築造年代等から考えて、信憑ぴょう性がないというのである。
現代の史学では、崇神天皇は大和朝廷初代の天皇とみるみかたが強いため、大和朝廷の成立を3世紀前半とすると、国造の起源が5世紀であるという学者の見解とあわないことになる。従って、波多国造の任命は、崇神天皇時代ではなく、もう少し下るのではないかとも考えられる。
このように、国造を置いた年代には問題はあるが、ただ波多国造が都佐国造より早く置かれたことは間違いないようである。
宿毛市平田町戸内にある高知坐神社の祭神は都味歯八重事代主命である。『土佐式社考』に「都味歯八重事代主神は大和国高市郡高市社の祭神であるからあるいは高知坐神は事代神主命であろう。高知・高市は相通ずる。……国造本紀には事代主命の9世の孫である小立足尼が都佐の国造となっているので、神名帳にある大和国高市郡波多神社もこれと同じであろう」とある。
また、『中村市史』には次のように述べている。「幡多郡に高知坐神社があり、大和国高市郡には高市御県坐、鴨事代主神社がある。また、高市郡に波多郷があることからみると、土佐の高知坐神社も波多という国号も、ともに大和の名を移したものであろう。幡多郡には賀茂神社もあることから考えると、天韓襲命は事代主命の神裔で大和から移住せられたものかも知れない。」
波多国造を置いた時期や国造がはたして誰であったかは諸説があり、今のところ確実なことはわかっていないが、ただ、県下最古最大を誇る曽我山古墳と高知坐神社の所在する宿毛市平田付近は、古代幡多地方において注目すべき地としてみることができ、大和朝廷との深いつながりをもっていたことが、以上の点からもうなずけるのである。
波多国ができた当時には、都佐国はまだ小さな豪族が争っており、大豪族が統一するまでには至っていなかったのであろう。とにかく、都佐国の国造よりも早く波多の国造が任命されているということは、都佐よリも波多が先に大和朝廷に統一され、大和の文化を早く移入したものと考えてよい。
5世紀頃の古墳が東郡に見当たらなくて、宿毛市平田にあることからもこの間の歴史的事情を裏付けることができるのではなかろうか。
宿毛市平田曽我山古墳の主は、天韓襲命か、あるいは、その直後の国造と推察される。古墳の大きさや形態から考えても当然国造級のものと考えてよいのではなかろうか。古代末期に波多郡を与えられた平重盛が、家人平田俊遠を平田に置いたといわれていることなどを併せ考えると、古代の幡多地方の首長は、やはり、平田か、その近くに居たのではないかと思われる。
なお、当時波多国と都佐国が別の国であったことを物語る資料に、『旧事本紀』があり、それによると、「紀伊、熊野……中略……風速、都佐、波多13国」とある。また、四国は長、粟、讃岐、伊余、努麻、久味、小市、風早、波多、土佐の10国に分かれていたことが『続日本紀巻6』に記されている。しかし、大化改新で国郡制が定められた時(大化2年=646)波多国を都佐国へ併合して土佐国となり、波多国は波多郡となったと『日本書紀』には「大化改制土佐国を建て波多郡を置く」とある。この時、改めて国司、郡司が任命されたようである。土佐という文字が使われるようになったのも、両国が併合してからである。その後、土左、土佐が混用され、和同6年(713)に「土佐」と正式に定められたのである。
波多が「幡多」に改められた時代は明らかではないが、『三代実録巻4』に「清和天皇の貞観2年(860)6月29日、土佐国幡多郡の地11町を施薬院に賜う」とあり、これが、「幡多」のみえた最古の記録である。
波多国が都佐国より早く大和朝廷に統一されたのは不思議のようであるが、別に不思議ではない。当時の交通路が伊予から都佐へ渡るようになっていたので、都佐の西にあった波多が一足先に、大和朝廷につながりをもったものと思われる。
当時の官道は、伊予経由であって、宇和郡から幡多を通って高知付近に行ったものである。南海道は、初め紀伊から淡路を経て阿波に渡り、讃岐、伊予を通って、波多から都佐の国府に達する経路であった。この迂回した経路については、土佐は初め西から開け、伊子の国主が土佐を管理していたためであったとも考えられる。「伊予の国主従五位上高安王をして阿波讃岐土佐三国を管せしめ玉ふ」(養老3年7月。『続日本紀』、『土佐国編年記事略』)とある。
しかし、この迂回による伊予経由が長路でしかも、険難であり不便であることから、国司が朝廷に上申して、阿波から直接土佐にはいる新道を開くことの要請をした。そのために、養老2年(718)5月7日に阿波から土佐の国府へ直通できるように許可されたのである。
以上のような事情から推察すると、昔は大和文化は瀬戸内海を西進し、伊予から波多に入り、更に、都佐に入ったものと考えてよいのではなかろうか。
その後、阿波経由となったために土佐の国府は発展したが、従来土佐への入口となって栄えた幡多は、これがために、土佐で最も僻遠の地となって、都からの往来も絶え、次第に文化に遅れて「陸の孤島」の地となったのである。
宿毛市史【古代編-波多と波多国造】
波多国とは、高知県の幡多地方
高知県の幡多地方
四万十市・宿毛市・土佐清水市・黒潮町 ・ 大月町 ・ 三原村
はた旅(公式)より引用
のことで、当時都佐国と別に一国をなしていた。都佐国とは、土佐郡土佐郷を中心とした現在の高知市付近のことである。
大昔の国というのは、後世の国とは異なり、その地の豪族の勢力範囲をいったものであり、人々の集まり住むところであれば地域の大小に関係なく、一部落でも部落の集団でも、すべて「クニ」と呼んでいた。小さな「クニ」が統一され、やがて大きな国となるのである。
国造くにのみやつこというのは、大和朝廷が統一した部落国家に置いた地方長官であるが、多くの場合朝廷から派遣されたものでなく、朝廷につながりをもっていた地方の部落国家の首長がそのまま任命されて、世襲したようである。
『国造本紀』(823〜936)によると、土佐国は初め、波多国と都佐国の2国に分かれていて、波多国は第10代崇神天皇の世に、神のお告げによって、天韓襲命あまのからそのみことを国造に定められたと、次のように記されている。
「波多国造、瑞籬朝御世、天韓襲命依神教云、定賜国造」
天韓襲命は、もと波多国の首長であったとも考えられるが「天韓襲命」という名前や、神のお告げによって任命されたといわれることから、特別の事情により選任された人であったと思われる(天韓襲命は帰化人ともいわれている。)
都佐国は第13代成務天皇の世(131〜191)に、長阿比古の同祖で、三島溝杭命9世の孫の小立足尼を国造に定めたと、これまた『国造本紀』に、次のように記されてある。
「都佐国造、志賀高穴穂朝御世、長阿比古同祖、三島溝杭命九世孫、小立足尼定賜国造。」
小立は、現在の尾立ひじに通じるものと考えられるので、高知市朝倉付近に勢力を張っていた豪族と思われる。
年代に関しては、波多国造の場合と同様、信じ難い点がある。それは、『国造本紀』による国造を置いた時期は、古墳築造年代等から考えて、信憑ぴょう性がないというのである。
現代の史学では、崇神天皇は大和朝廷初代の天皇とみるみかたが強いため、大和朝廷の成立を3世紀前半とすると、国造の起源が5世紀であるという学者の見解とあわないことになる。従って、波多国造の任命は、崇神天皇時代ではなく、もう少し下るのではないかとも考えられる。
このように、国造を置いた年代には問題はあるが、ただ波多国造が都佐国造より早く置かれたことは間違いないようである。
宿毛市平田町戸内にある高知坐神社の祭神は都味歯八重事代主命である。『土佐式社考』に「都味歯八重事代主神は大和国高市郡高市社の祭神であるからあるいは高知坐神は事代神主命であろう。高知・高市は相通ずる。……国造本紀には事代主命の9世の孫である小立足尼が都佐の国造となっているので、神名帳にある大和国高市郡波多神社もこれと同じであろう」とある。
また、『中村市史』には次のように述べている。「幡多郡に高知坐神社があり、大和国高市郡には高市御県坐、鴨事代主神社がある。また、高市郡に波多郷があることからみると、土佐の高知坐神社も波多という国号も、ともに大和の名を移したものであろう。幡多郡には賀茂神社もあることから考えると、天韓襲命は事代主命の神裔で大和から移住せられたものかも知れない。」
波多国造を置いた時期や国造がはたして誰であったかは諸説があり、今のところ確実なことはわかっていないが、ただ、県下最古最大を誇る曽我山古墳と高知坐神社の所在する宿毛市平田付近は、古代幡多地方において注目すべき地としてみることができ、大和朝廷との深いつながりをもっていたことが、以上の点からもうなずけるのである。
波多国ができた当時には、都佐国はまだ小さな豪族が争っており、大豪族が統一するまでには至っていなかったのであろう。とにかく、都佐国の国造よりも早く波多の国造が任命されているということは、都佐よリも波多が先に大和朝廷に統一され、大和の文化を早く移入したものと考えてよい。
5世紀頃の古墳が東郡に見当たらなくて、宿毛市平田にあることからもこの間の歴史的事情を裏付けることができるのではなかろうか。
宿毛市平田曽我山古墳の主は、天韓襲命か、あるいは、その直後の国造と推察される。古墳の大きさや形態から考えても当然国造級のものと考えてよいのではなかろうか。古代末期に波多郡を与えられた平重盛が、家人平田俊遠を平田に置いたといわれていることなどを併せ考えると、古代の幡多地方の首長は、やはり、平田か、その近くに居たのではないかと思われる。
なお、当時波多国と都佐国が別の国であったことを物語る資料に、『旧事本紀』があり、それによると、「紀伊、熊野……中略……風速、都佐、波多13国」とある。また、四国は長、粟、讃岐、伊余、努麻、久味、小市、風早、波多、土佐の10国に分かれていたことが『続日本紀巻6』に記されている。しかし、大化改新で国郡制が定められた時(大化2年=646)波多国を都佐国へ併合して土佐国となり、波多国は波多郡となったと『日本書紀』には「大化改制土佐国を建て波多郡を置く」とある。この時、改めて国司、郡司が任命されたようである。土佐という文字が使われるようになったのも、両国が併合してからである。その後、土左、土佐が混用され、和同6年(713)に「土佐」と正式に定められたのである。
波多が「幡多」に改められた時代は明らかではないが、『三代実録巻4』に「清和天皇の貞観2年(860)6月29日、土佐国幡多郡の地11町を施薬院に賜う」とあり、これが、「幡多」のみえた最古の記録である。
波多国が都佐国より早く大和朝廷に統一されたのは不思議のようであるが、別に不思議ではない。当時の交通路が伊予から都佐へ渡るようになっていたので、都佐の西にあった波多が一足先に、大和朝廷につながりをもったものと思われる。
当時の官道は、伊予経由であって、宇和郡から幡多を通って高知付近に行ったものである。南海道は、初め紀伊から淡路を経て阿波に渡り、讃岐、伊予を通って、波多から都佐の国府に達する経路であった。この迂回した経路については、土佐は初め西から開け、伊子の国主が土佐を管理していたためであったとも考えられる。「伊予の国主従五位上高安王をして阿波讃岐土佐三国を管せしめ玉ふ」(養老3年7月。『続日本紀』、『土佐国編年記事略』)とある。
しかし、この迂回による伊予経由が長路でしかも、険難であり不便であることから、国司が朝廷に上申して、阿波から直接土佐にはいる新道を開くことの要請をした。そのために、養老2年(718)5月7日に阿波から土佐の国府へ直通できるように許可されたのである。
以上のような事情から推察すると、昔は大和文化は瀬戸内海を西進し、伊予から波多に入り、更に、都佐に入ったものと考えてよいのではなかろうか。
その後、阿波経由となったために土佐の国府は発展したが、従来土佐への入口となって栄えた幡多は、これがために、土佐で最も僻遠の地となって、都からの往来も絶え、次第に文化に遅れて「陸の孤島」の地となったのである。
宿毛市史【古代編-波多と波多国造】