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2019年12月22日

江村親家

江村 親家(えむら ちかいえ)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。

時代
戦国時代 - 安土桃山時代
生誕
不明
死没
不明
別名
通称:小備後
官位
備後守
主君
長宗我部元親
氏族
土佐吉田氏→江村氏
父母
父:吉田重俊、養父:江村親政
兄弟
吉田重康、親家

親俊

吉田重俊の子として誕生。同じ長宗我部家臣であった江村親政の養子となった。

父・重俊と同様に備後を名乗ったため、区別のために小備後と呼ばれる。長宗我部氏の土佐国平定に他の吉田一族と同様に尽力した。土佐山田氏との戦いでも主力として活躍する。山田氏の雪ヶ峰城攻防戦では、山田長秀を一騎討ちにて倒す。

永禄9年(1566年)、伊予国三間郷を来島氏や平岡氏に攻められた一条康定の要請を受けた元親の命で救援に赴いている[1]。同永禄11年(1568年)、土佐一条氏の西園寺実充攻めにも援軍として加わり、一条氏より鎧と太刀を拝領する。一条兼定から「汝が勇は篠塚重広にも勝る」と賞された。

家老職も務めたが、天正年間に病死した。

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吉田重俊

吉田 重俊(よしだ しげとし)
戦国時代の武将。長宗我部氏の家臣。

時代
戦国時代
生誕
明応7年(1498年)?
死没
元亀元年(1570年)?
別名
通称:大備後
官位
備後守
主君
長宗我部国親→元親
氏族
土佐吉田氏
父母
父:吉田則弘
兄弟
孝頼、重俊、

吉田重康、江村親家

出自
土佐国の国人である土佐吉田氏は、藤原北家秀郷流の末裔を称する山内首藤氏の支流。山内首藤俊通の子・俊宗が足利尊氏に従い、功を上げ土佐に所領を得たことを始まりとする。

生涯
編集
長宗我部国親・元親の2代にわたって仕えた。智勇に優れ、国親の大津城攻撃では長宗我部軍の先手として活躍する。弘治4年/永禄元年(1558年)に上夜須城主に任ぜられる。永禄12年(1569年)から始まる安芸国虎討伐戦においては、一族の吉田孝俊と共に奇計によって安芸軍を敗走させ、籠城した安芸軍を計略を以って内部崩壊に導いた。

夜須川の(海津見神社)に、孫・孝俊(中富川の戦いで討死。)奉造造立の棟札が残る。

曽孫・康俊は長宗我部氏改易の後、大坂に移住。後に松平家に仕えて姫路に移る。

吉田孝世

吉田 孝世(よしだ たかよ)
土佐藩の馬廻り記録方。宝永5年(1708年)に軍記物語『土佐物語』を記述し、長宗我部氏の隆盛から滅亡へ至る過程を書き残した。吉田重俊の6代後にあたる子孫で、父は吉田正次、兄は吉田克治。

土佐物語

『土佐物語』(とさものがたり)
土佐国の戦国大名・長宗我部氏の興亡を描いた軍記物。作者は吉田孝世。宝永5年(1708年)成立。

概要
『平家物語』や『太平記』を「中央の軍記物」とすれば、『土佐物語』は「地方の軍記物」に位置付けられる[1]。原本は存在せず、「和学講談所本」(和学本・全20巻、享保5年写)、「森文庫本」(森写本・全13巻、寛政9年写)、「山内文庫本」(山内本・全21巻、文政2年写)、「恩田稿本」(恩田本・全20巻、嘉永2年写)、「内務省本」(内務本・全30巻、明治9年写)、修史館本(修史本・全20巻、明治15年写)の6種の写本が存在する[1]。

本文中には、大鬼といった怪異が登場したり[2]、文禄の役においては大蛇が現れるなど、史実とは別に脚色も見られる。また、巻第19「元親卒去 雪蹊寺の事」には、慶長4年(1599年)に長宗我部元親が正四位になったと記されているが、史実では死後に正五位を与えられたものであり[3]、誤りも含まれる。終盤(巻第20)では、長宗我部盛親に代わって土佐藩主となった山内一豊についての事績や武功、逸話(戦場で得た名槍)などについても記されている。

大坂の陣における見方・批評としては、藤堂和泉守と盛親が対陣し、井伊掃部頭が木村長門守と対陣していたが、長門守が突然討死し、掃部頭が高虎と合流したため、盛親は討ち負けしてしまい、「大阪の落城は盛親に始まる」「大阪の負け軍(いくさ)は盛親第一なり」として、敗北の遠因を長宗我部氏に求めている。

『土佐国古城伝承記』を基に記された経緯があり、各所に文飾が多くみられることから近世の学者である谷秦山から内容に信頼性を疑われており、現代の研究者の間でも歴史資料としての評価は高くないとされる。

一領具足の記述について
『土佐物語』より信頼性が高い軍記物の『長元記』[4]にも「一領(両)具足」の記述は見られるが、「土佐の一領具足と申は、他家の馬廻と同事也」とあり、『土佐物語』のように一領具足を土佐独自の存在としては扱っていない。そのため、『土佐物語』が説明するように「一領しか鎧を有さないため」に「一領具足」といわれたか、由来の信頼性が確かでない。また、こうした二次資料(後世の軍記物)では「一領具足」の表記は見られるものの、『長宗我部氏掟書』(分国法)には見られず、資料が少なく、一領具足を記した一次資料として、「慶長5年(1600年)12月3日付 宇賀二兵衛宛 長宗我部氏重臣連署状写」(浦戸一揆に関するもの)があるぐらいで、一領具足が認識されていたことはわかるが、一領具足の由来が本当に「一領しか鎧がないため」だったかの証明には至らない[4]。

平井上総は近世に土佐藩(山内氏)が郷士を登用するにあたって、条件として、武士の家系でならなければならないと定めたことから、長宗我部氏の遺臣達は郷士になるために、先祖の名声を強調しようとしたと想定し、『土佐物語』の一領具足の説明は、郷士達の願望や要望が反映された可能性が捨てきれないとする。そして他資料比較から、「鎧一領しか持たない武士」ではなく、「鎧一領分の軍役を負担する武士」としてついた呼称と見るべきものとしている。

源義朝

源 義朝(みなもと の よしとも)
平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の長男。母は白河院近臣である藤原忠清の娘。源頼朝・源義経らの父。

Screenshot_20191222-145337~2.png
元平治合戦源義朝白河殿夜討之図
東京都立図書館 歌川芳虎

時代
平安時代末期
生誕
保安4年(1123年)
死没
平治2年1月3日(1160年2月11日) 享年38
別名
上総曹司、左典厩、下野守、頭殿、大僕卿
戒名
勝定寿院
墓所
愛知県美浜町 野間大坊
官位
従四位下、左馬頭、下野守、播磨守
贈正二位内大臣
主君
鳥羽院→後白河天皇(後白河院)→藤原信頼
氏族
清和源氏為義流(河内源氏)
父母
父:源為義、母:白河院近臣・藤原忠清の娘
兄弟
義朝、義賢、義憲、頼賢、頼仲、為宗
為成、為朝、為仲、行家、鳥居禅尼、他

正室:藤原季範娘(由良御前)
側室:常盤御前、三浦義明娘、波多野義通妹、遠江国池田宿遊女、青墓長者大炊

義平、朝長、頼朝、義門、希義、範頼、
阿野全成、義円、義経、坊門姫、女子

源義家の死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていた。都から東国へ下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平治の乱で藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる道中尾張国で家人に裏切られ謀殺された。

生涯
保安4年(1123年)、白河院政の時代、崇徳天皇が即位した年に、源為義の長男として生まれる。母は白河院の近臣で淡路守・藤原忠清の娘。かつて都の武者として名を馳せた河内源氏は一族内紛によって凋落し、父為義も自身の問題行動によって白河院の信頼を失い、官位は低迷して逼迫している状況にあった。なお、従来為義の系統が河内源氏および清和源氏の嫡流であったとの見方がされていたが、近年ではこの系統が嫡流扱いになったのは後年鎌倉幕府を開いた頼朝が自分の血統を嫡流だったと主張した結果に過ぎず、実際には河内源氏および清和源氏はそれぞれの系統が独自の道を歩み各系統の上に立つ「嫡流」というものは存在しなかったという見解もある[1]。

そのような時勢の中、義朝は少年期に東国(関東地方)に下向したと見られ、上総氏等の庇護を受け同地で成長した。その際、義朝は「上総御曹司」と呼ばれた時期があるがこれは父・為義が安房国の丸御厨を伝領していたことからその地に移住し、その後は安西氏・三浦氏・上総氏の連携の下に義朝は安房から上総国に移り上総氏の後見を受けるようになったことによるものと思われる。なお、義朝の東国下向については、近年では為義から廃嫡された結果とする説もある。この見解によれば、保延5年(1139年)の体仁親王(後の近衛天皇)の立太子で弟の義賢が東宮帯刀に任じられていた当時、兄である義朝は未だ無位無官であり、この段階で既に義朝は既に為義の嫡男から外されていたとする[2]。

そのため父とは別に東国を根拠地に独自に勢力を伸ばし、相馬御厨・大庭御厨などの支配権をめぐって在地豪族間の争いに介入し、その結果、三浦義明・大庭景義ら有力な在地の大豪族を傘下に収める。長男・義平の母は三浦氏ともされ、相模の大豪族である波多野氏の娘との間には次男・朝長をもうけるなど、在地豪族と婚姻関係を結んだ。また、六男・範頼の母は遠江国池田宿の遊女とされ、長男・義平の母を同国橋本宿の遊女とする『尊卑分脈』の説、『平治物語』に登場する摂津国江口宿の遊女の娘とみられる「江口腹娘」など、遊女との間に子を儲けたとする話が多いが、これらの宿場はいずれも交通の要衝であり、「遊女」と称しても実際には単なる芸能民ではなく地元の有力者の子女であったとする説がある[3]。

河内源氏の主要基盤が東国となったのはこの義朝の代であり、高祖父の源頼義以来ゆかりのある鎌倉の亀ヶ谷に館を構え(亀谷殿)、特に相模国一帯に強い基盤を持った。

しかし義朝の勢力伸張は関東の他の源氏、特に下野国の足利に本拠を置く義朝の伯父・源義国の勢力と武蔵国などで競合することとなり緊張を生んだ。その両者の緊張は義国と義朝が同盟を締結し盟友となることで解消され、義国の子・義康と相婿となるなど連携を強めた。

義朝は20代前半で南関東の武士団を統率する地位を確立し、その活躍が都にも知られるようになった事で、中央進出への足掛かりを掴んだ。義朝の勢力拡大は通説では、為義の嫡男として東国武士の組織化のために行われてきたと説明されてきたが、廃嫡を下向の原因に求める説ではむしろ父・為義との対立・対抗上行われたと解釈されている。

京での躍進
長男の義平に東国を任せて都へ戻った義朝は、久安3年(1147年)に正室で熱田大宮司の娘・由良御前との間に嫡男(3男)の頼朝をもうける。院近臣である妻の実家の後ろ楯を得て、鳥羽院や藤原忠通にも接近し、仁平3年(1153年)、31歳で従五位下・下野守に任じられ、翌年には右馬助を兼ねた。河内源氏の受領就任は源義親以来50年ぶりの事であり、義朝は検非違使に過ぎない父・為義の立場を超越する事になる。この急激な抜擢は、寺社勢力の鎮圧や院領支配のため、東国武士団を率いる義朝の武力を必要とする鳥羽院との結びつきによるものと見られ、それは摂関家を背景とする為義らとの対立を意味していた。

久寿2年(1155年)、為義の意向を受けて東国に下向し勢力を伸ばしていた弟の義賢を、長男・義平に討たせ、対抗勢力を排除して坂東における地位を固めた(大蔵合戦)。このため、もう1人の弟・頼賢が復仇のため信濃国に下り頼賢と合戦になりかけるなど、義朝・為義の対立は修復不可能な事態となった。大蔵合戦は都では問題にされておらず、その背景には武蔵守であった藤原信頼の黙認があり、摂関家に属する為義派への抑圧があったとも見られている[4]。

なお、従来義朝は為義の嫡子とみなされていたが、最近では官位の問題等で義朝が為義の嫡子であったのか疑わしいとの見解が示されている[注釈 5]。 義朝は坂東で勢力を延ばす際当初は父が仕えていた摂関家寄りの姿勢を見せていたが、義朝の基盤である相模国等が鳥羽院の知行国になるなど、東国において勢力を伸ばすには義朝が鳥羽法皇に接近する必要があり、それが摂関家に仕える父とは距離を置くという結果に繋がったとの説もある[5]。そのため、義朝の東国での動きを牽制するために遣わされたのが弟の義賢であるといわれる。またやがて義賢も嫡子の座を追われてその弟・頼賢が為義の嫡子の座についていたとの見解もある[8]。

保元の乱
保元元年(1156年)7月の保元の乱の際に崇徳上皇方の父・為義、弟の頼賢・為朝らと袂を分かち、後白河天皇方として東国武士団を率いて参陣した。平清盛と共に作戦の場に召された義朝は先制攻撃・夜襲を主張し、頭をかきむしりながら信西と共に躊躇する関白・藤原忠通に対して決断を迫った。攻撃の命が下ると、義朝は「(坂東での)私合戦では朝家の咎めを恐れ、思うようにならなかったが、今度の戦は追討の宣旨を受け、心置きなく戦う事が出来る」と官軍として赴く事に喜び勇んで出陣し、戦況を逐一報告するなど後白河方の中核となって戦った。

乱は後白河天皇方が勝利し、敗者となった為義は義朝の元に出頭した。『保元物語』には、義朝が自身の戦功に替えて父の助命を訴えたが、信西によって却下され、父や幼い弟達を斬る事になる悲劇的な場面が詳しく描かれている。7月30日、船岡山村の辺りで為義とその子らは義朝の手により処刑された。父を殺した義朝は「ヲヤノクビ切ツ」と世の誹りを受けたという[9]。

乱後、恩賞として右馬権頭に任じられるが、不足を申し立てたため左馬頭となる。義朝の助命嘆願にもかかわらず為義・頼賢ら親兄弟の多くが処刑され、また左馬頭任官ですらも清盛と平家一門への待遇と比べて相当見劣りすることから大いに不満を持ったとも言われていた。

しかし清盛は少年の頃より親王にも等しい待遇を受け、11歳で元服と同時に叙爵されて従五位下、17歳にして既に従四位下にまで官位を上げ保元の乱の10年も前に正四位下となり公卿の地位の一歩手前にまで達しており、対して保元の乱の直前に叙爵されて従五位下・下野守となりようやく受領レベルとなった義朝の地位にはもともと大きな開きがあり、恩賞の差に不満を抱いたという説明はあまり妥当とはいえない。また左馬頭はその位階以上に武門にとってはそれこそ武士の棟梁にも比されるほどの重要な官位であるから[注釈 6]、それへの任官は妥当、むしろ破格な恩賞であるという意見も近年では提示されている。また為義の処刑はあくまでも彼らを謀反人と断じた朝廷の裁決であり、清盛もまた敵側についた同族を朝命により処刑しており、このことへの義朝の不満が平治の乱につながったという見方にも疑問が呈されている[5]。その一方で、平将門の乱における藤原秀郷や前九年の役の源頼義などの例から、謀反の鎮圧に対する武家への恩賞は現在の本人の官位に関わらず「越階」「希望する国の受領への任命」「子弟・郎党に対する官位の授与」とするのが先例として成立しており、義朝もその先例に倣って四位への越階や豊かな国の受領への任命、長男の義平らに対する任官は期待していた筈で、それらを何も得られなかった以上、むしろ冷遇された恩賞であったとする反論も出されている[10]。

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『平治物語』
敗走する源義朝一行。右の子供は頼朝。
平治物語絵巻

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源義朝が打ち取られた湯殿跡
(愛知県美浜町の法山寺)

その後、信頼を見捨て息子の義平・朝長・頼朝、一族の源義隆(陸奥六郎義隆)・平賀義信・源重成(佐渡重成)、家臣で乳兄弟の鎌田政清・斎藤実盛・渋谷金王丸らを伴い東国で勢力挽回を図るべく東海道を下るが、その途上たび重なる落武者への追討隊との戦闘で、朝長・義隆・重成は深手を負い命を落とした。また頼朝も一行からはぐれて捕らえられ、義平は別行動で北陸または東山道を目指して一旦離脱するが再び京に戻って潜伏し、生き残っていた義朝の郎党・志内景澄と共に清盛暗殺を試みるが失敗する。

義朝は馬も失い、裸足で尾張国野間(現愛知県知多郡美浜町)にたどり着き、政清の舅で年来の家人であった長田忠致とその子・景致のもとに身を寄せた。しかし恩賞目当ての長田父子に裏切られ、入浴中に襲撃を受けて[注釈 11]殺害された(『平治物語』)。享年38。政清も酒を呑まされ殺害された。京を脱出して3日後の事であった。『愚管抄』によれば長田父子の陰謀を察知した義朝が政清に自らの首を打つよう命じ、斬首したのちに政清は自害したとされる。年が明けた正月9日、両名の首は獄門にかけられた。

伝承によれば、義朝は入浴中に襲撃を受けた際、最期に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされる。義朝の墓はその終焉の地である野間大坊の境内に存在し、上記の故事にちなんで多数の木刀が供えられている。また、境内には義朝の首を洗ったとされる池がある。

平賀義信、斎藤実盛は無事に落ち延びることに成功する。義信は後に頼朝の挙兵に従って鎌倉幕府の有力御家人として生涯を全うし、一方実盛は平家方について源氏方と戦うことになる。

父や弟たちを滅ぼし、河内源氏内での優位を確立してからわずか3年で死を迎えるが[11]、義朝が東国に築いた地盤と嫡子頼朝に与えた高い身分は、後の頼朝による挙兵の成功、ひいては鎌倉幕府成立への礎となった[12][注釈 12]。

また、娘である坊門姫の子孫に持明院統の最初の天皇である後深草天皇がおり、皇族と旧皇族の共通先祖に当たる貞成親王はその子孫である(即ち、義朝は皇族と旧皇族の女系の先祖に当たる)。

年譜・官歴
日付は旧暦。年齢は数え年

保安4年(1123年) - 誕生
年代不明 - 東国へ下向
永治元年(1141年・19歳) - 長男・義平誕生
康治2年(1143年・21歳) - 相馬御厨に介入
天養元年(1144年・22歳) - 大庭御厨濫行
久安3年(1147年・25歳) - 三男(嫡男)・頼朝誕生
仁平3年(1153年・31歳)3月2日:下野守[15]、従五位下の叙位もか。
久寿2年(1155年・33歳)
2月25日 - 兼右馬助[15]
8月16日 - 大蔵合戦。
保元元年(1156年・34歳)
7月 - 保元の乱。
7月11日 - 兼左馬頭[16]
12月29日 - 下野守重任[15] 。
保元2年(1157年・35歳)
1月24日 - 従五位上に昇叙[15]。下野守・左馬頭如元。
10月22日 - 正五位下に昇叙[15]。下野守・左馬頭如元。
平治元年(1159年・37歳)
12月9日 - 平治の乱
12月10日 - 四位(従四位下か?)に昇叙し、播磨守に転任[注釈 14]。また、『平治物語』では、前左馬頭といった前官の記載あり。尤も、以後の記事では左馬頭とあり。
12月27日 - 解官[17]。
平治2年(1160年)1月3日 - 尾張国で謀殺される。享年38。

源頼朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)
Screenshot_20191222-132212~2.png
絹本着色伝源頼朝像
神護寺蔵


時代
平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕
久安3年4月8日(1147年5月9日)
死没
建久10年1月13日(1199年2月9日)
享年53(満51歳没)
改名
鬼武者・鬼武丸(幼名)、頼朝
別名
通称:三郎、佐殿、武衛、鎌倉殿、
源二位、右大将軍(右大将)、右幕下
戒名
武皇嘯厚大禅門
墓所
法華堂跡(神奈川県鎌倉市西御門)
白旗神社(鶴岡八幡宮境内)
矢ノ森八景(岩手県一関市東山町河津矢ノ森)
官位
正二位、権大納言、右近衛大将、征夷大将軍
幕府
鎌倉幕府 初代征夷大将軍
(在任:1192年 - 1199年)
氏族
清和源氏為義流(河内源氏)
父母
父:源義朝、母:藤原季範の娘(由良御前)
兄弟
義平、朝長、頼朝、義門、希義、範頼
全成、義円、義経、坊門姫、他女子

前妻:八重姫?、正室:北条政子
側室:亀の前、大進局、利根局?

千鶴丸?、大姫、頼家、貞暁、三幡、実朝

日本の武士、鎌倉幕府初代将軍
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家。鎌倉幕府の初代征夷大将軍。 河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると北条時政、北条義時などの坂東武士らと平家打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平家を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼす。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。

これにより、朝廷と同様に京の都を中心に権勢を誇った平家政権とは異なる東国に独立した武家政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。

出生
Screenshot_20191222-133810~2.png
出生跡地にある誓願寺と誕生旧地碑

久安3年(1147年)4月8日、源義朝の三男として尾張国熱田(現在の名古屋市熱田区)[1][2][3][4][5]の熱田神宮西側にあった神宮大宮司・藤原季範の別邸(現誓願寺)にて生まれる。幼名は鬼武者、または鬼武丸[6]。

父祖は、清和天皇、臣籍降下した源経基、多田源氏の祖の源満仲、河内源氏の祖の源頼信、前九年の役の源頼義、後三年の役の源義家、源義親、祖父の源為義[7]。母は季範の娘の由良御前。乳母は比企尼、寒河尼、山内尼。

保元元年(1156年)、父の義朝は保元の乱で、後白河天皇側で平清盛らと共に戦勝し、崇徳上皇側の父の為義の助命を自身の戦功に替えて願うが許されず、父兄弟を斬首し左馬頭に任ぜられる。

保元3年(1158年)、頼朝は後白河天皇准母として立后した統子内親王の皇后宮権少進となり、平治元年(1159年)2月に統子内親王が院号宣下を受けると、上西門院蔵人に補される。上西門院殿上始において徳大寺実定、平清盛などの殿上人が集う中で献盃役をつとめる[8]。また同年1月には右近衛将監に、6月には二条天皇の蔵人にも補任される。長兄の義平は無官とみられ、先に任官していた次兄の朝長よりも昇進が早いことから、母親の家柄が高い頼朝が義朝の後継者、嫡男として待遇されていたとみられている。

楠目城

楠目城(くすめじょう)は、土佐国、現在の高知県香美市土佐山田町楠目字楠目にあった中世の日本の城。別名・山田城。「楠目城跡」

概要
鏡野中学校の東に位置する山が楠目城跡です。南と西に城跡へ上る道があります。戦国土佐七雄にも数えられる山田氏の城跡で、建久年間(1190年から1198年)に
源頼朝の命を受けた中原太郎秋家が、土佐に下り香我美町宗我部(そがべ)、深淵(ふかぶち)の二郷の地頭職に着任したのち、楠目城に移り山田氏を名乗ったといわれています。天文年間(1532年から1554年)の終わりごろ、長宗我部国親に攻められ落城しました。

城跡の頂上に「北ノ森詰」「南ノ森詰」「マリノニワ」等があり、空濠や土塁が昔の名残をとどめています。

香美市指定史跡です。

2019年12月21日

一条兼定

一条 兼定(いちじょう かねさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての戦国大名・公家。土佐国司であり、キリシタンでもある。土佐一条氏の事実上の最後の当主。従三位・一条房基の子。

一条房基

一条 房基(いちじょう ふさもと)
戦国時代の公家・大名。
土佐国司。土佐一条氏4代当主。
タグ:土佐一条氏

一条房冬

一条 房冬(いちじょう ふさふゆ)
戦国時代の大名・公家。
土佐一条氏の第3代当主。

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