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2019年12月25日
国造本紀
国造本紀(こくぞうほんぎ)
大倭 (やまと) 国以下の国造の歴名,本系を記したもの。編者未詳。1巻。平安時代初期の成立。『旧事本紀』巻 10所収。神代本紀から帝皇本紀までの9巻が編年史であるのに対し,巻 10には別に序文があり,独立した一書の体裁をとっている。
古代の史書。大化(たいか)改新以前の畿内の大倭(やまと)から南海の多【ね】(たね)まで全国各地の国造(くにのみやつこ)の名をあげ,その系譜と叙任を記している。後世の律令(りつりょう)時代の国造や国司(こくし)の名が混入しているが,古代史研究の史料として貴重。《先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)》の巻10に収められている。
大倭 (やまと) 国以下の国造の歴名,本系を記したもの。編者未詳。1巻。平安時代初期の成立。『旧事本紀』巻 10所収。神代本紀から帝皇本紀までの9巻が編年史であるのに対し,巻 10には別に序文があり,独立した一書の体裁をとっている。
古代の史書。大化(たいか)改新以前の畿内の大倭(やまと)から南海の多【ね】(たね)まで全国各地の国造(くにのみやつこ)の名をあげ,その系譜と叙任を記している。後世の律令(りつりょう)時代の国造や国司(こくし)の名が混入しているが,古代史研究の史料として貴重。《先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)》の巻10に収められている。
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植田氏
植田氏(うえたし)
平安時代後期から戦国時代にかけての日本の武家、讃岐国の讃岐氏の一族である。初期の頃には殖田とも記される。家紋は扇。
本姓
讃岐朝臣
家祖
植田政景
種別
武家
出身地
讃岐国山田郡植田郷
主な根拠地
讃岐国山田郡
支流、分家
神内氏、三谷氏、十河氏など
概要
讃岐国の春日川流域に興った土豪で、平安時代末期の源平合戦(治承・寿永の乱)の屋島の戦いでは、源氏方で参戦している。室町時代は、讃岐国守護の細川管領家、守護代安富氏の臣下に入り、讃岐国山田郡の領主。代々戸田城を主城とするが、戦国時代になり土佐国の長宗我部元親の侵攻により、落城した。豊臣秀吉軍による四国平定後は、豊臣方に臣従している。
出自
讃岐国造の参照
平安時代後期から戦国時代にかけての日本の武家、讃岐国の讃岐氏の一族である。初期の頃には殖田とも記される。家紋は扇。
本姓
讃岐朝臣
家祖
植田政景
種別
武家
出身地
讃岐国山田郡植田郷
主な根拠地
讃岐国山田郡
支流、分家
神内氏、三谷氏、十河氏など
概要
讃岐国の春日川流域に興った土豪で、平安時代末期の源平合戦(治承・寿永の乱)の屋島の戦いでは、源氏方で参戦している。室町時代は、讃岐国守護の細川管領家、守護代安富氏の臣下に入り、讃岐国山田郡の領主。代々戸田城を主城とするが、戦国時代になり土佐国の長宗我部元親の侵攻により、落城した。豊臣秀吉軍による四国平定後は、豊臣方に臣従している。
出自
讃岐国造の参照
讃岐氏
讃岐氏(さぬきし、さぬきうじ)
日本の古代氏族。
氏姓
讃岐凡直、讃岐直、讃岐公、讃岐朝臣
始祖
神櫛皇子
種別
皇別
本貫
讃岐国寒川郡神崎郷
著名な人物
讃岐永直
後裔
和気氏、植田氏、神内氏、三谷氏、寒川氏、由良氏、十河氏、高松氏、高木氏
神櫛皇子を始祖とする皇別氏族。讃岐国を本拠地とし、皇子3世が讃岐国造を賜ったことによってに始まり、同国で繁栄した氏族。
概要
神櫛皇子は12代景行天皇と五十河媛との間に生まれ、讃岐国に下る。 『先代旧事本紀』「国造本紀」によると、応神天皇期、皇子の3世孫の須賣保禮命が国造に定められたとされる。 その子孫は一時期を除き代々これを世襲し、この地域を治めた。 敏達天皇期に「紗抜大押直」(さぬきのおおしのあたい)の姓を賜り、さらに庚午年籍で「大押」を改め「凡直」(おおしのあたい)となる。 奈良時代には「讃岐直」や「凡直」となるが、後に凡直千継(おおしのちつぐ)の時、延暦10年(791年)「讃岐公」へ改賜された[8]。
平安時代に入ると、讃岐千継、広直、浄直、永直、永成など数世代にわたり明法博士を出している。讃岐永直は当時の優れた明法家として知られ、『令義解』の撰者の一人となった。承和3年(836年)弟の永成、従兄弟の当世らと供に「讃岐朝臣」を改賜されている。永直はこの時本貫を京都に移し、その子孫は和気氏を称した。 永直没後の貞観6年(864年)、高作(永成の子)、時雄(当世の子)、時人(永直の子)が「和気朝臣」を賜姓されている。
讃岐氏の子孫はその後も讃岐国で繁栄し、後裔には植田氏、神内氏、三谷氏、寒川氏、由良氏、十河氏、高松氏、高木氏、三木氏などの庶家が出た。
日本の古代氏族。
氏姓
讃岐凡直、讃岐直、讃岐公、讃岐朝臣
始祖
神櫛皇子
種別
皇別
本貫
讃岐国寒川郡神崎郷
著名な人物
讃岐永直
後裔
和気氏、植田氏、神内氏、三谷氏、寒川氏、由良氏、十河氏、高松氏、高木氏
神櫛皇子を始祖とする皇別氏族。讃岐国を本拠地とし、皇子3世が讃岐国造を賜ったことによってに始まり、同国で繁栄した氏族。
概要
神櫛皇子は12代景行天皇と五十河媛との間に生まれ、讃岐国に下る。 『先代旧事本紀』「国造本紀」によると、応神天皇期、皇子の3世孫の須賣保禮命が国造に定められたとされる。 その子孫は一時期を除き代々これを世襲し、この地域を治めた。 敏達天皇期に「紗抜大押直」(さぬきのおおしのあたい)の姓を賜り、さらに庚午年籍で「大押」を改め「凡直」(おおしのあたい)となる。 奈良時代には「讃岐直」や「凡直」となるが、後に凡直千継(おおしのちつぐ)の時、延暦10年(791年)「讃岐公」へ改賜された[8]。
平安時代に入ると、讃岐千継、広直、浄直、永直、永成など数世代にわたり明法博士を出している。讃岐永直は当時の優れた明法家として知られ、『令義解』の撰者の一人となった。承和3年(836年)弟の永成、従兄弟の当世らと供に「讃岐朝臣」を改賜されている。永直はこの時本貫を京都に移し、その子孫は和気氏を称した。 永直没後の貞観6年(864年)、高作(永成の子)、時雄(当世の子)、時人(永直の子)が「和気朝臣」を賜姓されている。
讃岐氏の子孫はその後も讃岐国で繁栄し、後裔には植田氏、神内氏、三谷氏、寒川氏、由良氏、十河氏、高松氏、高木氏、三木氏などの庶家が出た。
十河氏
十河氏(そごうし)
日本の氏族のひとつ。
くぎょうにひおうぎ
公饗に檜扇
本姓
讃岐氏植田氏流
種別
武家
出身地
讃岐国山田郡蘇甲(十河郷)
主な根拠地
讃岐国山田郡十河城[注釈 1]
著名な人物
十河存春
十河一存
十河存保
古代讃岐に下った神櫛皇子の流れをくむ植田氏の一族であり、中世讃岐国の土豪である。神内氏、三谷氏と共に植田党の一角を形成したが、戦国時代に鬼十河(十河一存)らの活躍により讃岐一円を制覇する。通字は「存」。
概要
南北朝時代以降、四国においては守護大名細川氏による在地国人の被官化が進行し、十河氏ら植田党もその傘下となる。
戦国時代には細川氏の内乱(永正の錯乱)に乗じて三好氏と結び、讃岐守護代であった香西氏などと抗争しつつ勢力を拡大していった。後に甲斐源氏の流れをくむ阿波小笠原氏一族の三好長慶の弟(十河一存)が十河氏を継ぐことにより三好一門となる。一存は勇猛で「鬼十河」の異名を取ったが、有馬権現にて参拝途上の落馬により永禄4年(1561年)に急死した。一存の兄の三好実休の次男の十河存保がその跡を継ぐことになる。
存保は讃岐を支配していたが、実休の嫡男である三好長治が反乱により自刃し、阿波が混乱すると三好氏の家臣の要請により阿波も支配するようになった。存保は上洛を果たした織田信長に降り勢力を保持しようとしたが、四国統一を目指す長宗我部元親の侵攻を受けるようになる。従属先の信長が1582年に本能寺の変で急死、さらに中富川の戦いなどで元親に連敗した存保は阿波勝瑞城や讃岐十河城を失う。秀吉の援軍を引田の戦いで破った長宗我部氏の勢いはとどまることを知らず、窮地に追い込まれた存保だったが柴田勝家を破り四国征伐に本格的に取り組みはじめた羽柴秀吉の助力を得て抗戦、秀吉は元親を降伏させた。一方、秀吉と共に戦った存保は所領を安堵された。
その後秀吉の九州征伐軍に参加し、1586年(天正14年)に豊後国の戸次川で島津家久と交戦したが(戸次川の戦い)、軍目付の仙石秀久の失策により存保は討死してしまう。存保の遺児の千松丸も生駒親正の保護下において1589年(天正17年)に謎の急死を遂げた。
最後に残った存保のもう一人の遺児である存英も大坂夏の陣にて戦死し、十河氏直系は断絶した。
四国の覇権を巡って争った十河氏と長宗我部氏は、秀吉に臣従した後の戸次川の戦いで存保と元親の嫡男の信親が戦死、30年ほど後の大坂夏の陣では存保の子・存英と元親の四男・盛親が秀吉の子・秀頼に殉じた。
歴史ゲームによる人気の影響を受け、2012年(平成24年)から開始された元親を顕彰する「長宗我部まつり」に2014年(平成26年)、十河氏の傍流の末裔が参加することが報道された。
日本の氏族のひとつ。
くぎょうにひおうぎ
公饗に檜扇
本姓
讃岐氏植田氏流
種別
武家
出身地
讃岐国山田郡蘇甲(十河郷)
主な根拠地
讃岐国山田郡十河城[注釈 1]
著名な人物
十河存春
十河一存
十河存保
古代讃岐に下った神櫛皇子の流れをくむ植田氏の一族であり、中世讃岐国の土豪である。神内氏、三谷氏と共に植田党の一角を形成したが、戦国時代に鬼十河(十河一存)らの活躍により讃岐一円を制覇する。通字は「存」。
概要
南北朝時代以降、四国においては守護大名細川氏による在地国人の被官化が進行し、十河氏ら植田党もその傘下となる。
戦国時代には細川氏の内乱(永正の錯乱)に乗じて三好氏と結び、讃岐守護代であった香西氏などと抗争しつつ勢力を拡大していった。後に甲斐源氏の流れをくむ阿波小笠原氏一族の三好長慶の弟(十河一存)が十河氏を継ぐことにより三好一門となる。一存は勇猛で「鬼十河」の異名を取ったが、有馬権現にて参拝途上の落馬により永禄4年(1561年)に急死した。一存の兄の三好実休の次男の十河存保がその跡を継ぐことになる。
存保は讃岐を支配していたが、実休の嫡男である三好長治が反乱により自刃し、阿波が混乱すると三好氏の家臣の要請により阿波も支配するようになった。存保は上洛を果たした織田信長に降り勢力を保持しようとしたが、四国統一を目指す長宗我部元親の侵攻を受けるようになる。従属先の信長が1582年に本能寺の変で急死、さらに中富川の戦いなどで元親に連敗した存保は阿波勝瑞城や讃岐十河城を失う。秀吉の援軍を引田の戦いで破った長宗我部氏の勢いはとどまることを知らず、窮地に追い込まれた存保だったが柴田勝家を破り四国征伐に本格的に取り組みはじめた羽柴秀吉の助力を得て抗戦、秀吉は元親を降伏させた。一方、秀吉と共に戦った存保は所領を安堵された。
その後秀吉の九州征伐軍に参加し、1586年(天正14年)に豊後国の戸次川で島津家久と交戦したが(戸次川の戦い)、軍目付の仙石秀久の失策により存保は討死してしまう。存保の遺児の千松丸も生駒親正の保護下において1589年(天正17年)に謎の急死を遂げた。
最後に残った存保のもう一人の遺児である存英も大坂夏の陣にて戦死し、十河氏直系は断絶した。
四国の覇権を巡って争った十河氏と長宗我部氏は、秀吉に臣従した後の戸次川の戦いで存保と元親の嫡男の信親が戦死、30年ほど後の大坂夏の陣では存保の子・存英と元親の四男・盛親が秀吉の子・秀頼に殉じた。
歴史ゲームによる人気の影響を受け、2012年(平成24年)から開始された元親を顕彰する「長宗我部まつり」に2014年(平成26年)、十河氏の傍流の末裔が参加することが報道された。
2019年12月24日
江村親政
江村親政(えむらちかまさ)生没年不詳
吉田重俊の次男吉田親家を養子とした。
吉田重俊の次男吉田親家を養子とした。
江村宗貞
江村宗貞(えむらむねさだ)生没年不詳
長宗我部氏初代能俊の三男で江村郷に分知され江村氏を称した。
小篭土居(こごめどい)は、
鎌倉時代江村宗貞によって築かれた。
戦国時代には吉田重俊の次男親家が江村親政の養子となった。
親家は、長宗我部元親に仕え「小備後」と称され数々の戦功を挙げている。
長宗我部氏初代能俊の三男で江村郷に分知され江村氏を称した。
小篭土居(こごめどい)は、
鎌倉時代江村宗貞によって築かれた。
戦国時代には吉田重俊の次男親家が江村親政の養子となった。
親家は、長宗我部元親に仕え「小備後」と称され数々の戦功を挙げている。
江村氏
江村氏(土佐国)
小篭土居 - 長宗我部初代・能俊の三男・宗貞が分家して江村氏を称す
長宗我部宗貞は、
長宗我部氏初代能俊の三男で江村郷に分知され江村氏を称した。
戦国時代には吉田重俊の次男吉田親家が江村親政の養子となった。
これが江村親家である。
長宗我部元親に仕え「小備後」と称され数々の戦功を挙げている。
長宗我部氏の始祖・秦能俊が信濃から土佐国長岡郡宗部郷の地頭となり長宗我部氏を称する。
その 三男・宗貞が分家して江村氏を称したとも、又・江村氏の養子になったとも伝わるが詳細は不明ながです。
江村宗貞(えむらむねさだ)
江村親政(えむらちかまさ)
江村親家(えむらちかいえ)
江村親俊(えむら ちかとし)
小篭土居 - 長宗我部初代・能俊の三男・宗貞が分家して江村氏を称す
長宗我部宗貞は、
長宗我部氏初代能俊の三男で江村郷に分知され江村氏を称した。
戦国時代には吉田重俊の次男吉田親家が江村親政の養子となった。
これが江村親家である。
長宗我部元親に仕え「小備後」と称され数々の戦功を挙げている。
長宗我部氏の始祖・秦能俊が信濃から土佐国長岡郡宗部郷の地頭となり長宗我部氏を称する。
その 三男・宗貞が分家して江村氏を称したとも、又・江村氏の養子になったとも伝わるが詳細は不明ながです。
江村宗貞(えむらむねさだ)
江村親政(えむらちかまさ)
江村親家(えむらちかいえ)
江村親俊(えむら ちかとし)