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2019年12月24日

江村親俊

江村 親俊(えむら ちかとし、生没年未詳)
父は江村親家
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。通称は孫左衛門。

早くから長宗我部元親に仕え、天正10年(1582年)には阿波一宮城の守備を任されている。天正13年(1585年)に豊臣秀吉の四国征伐が始まると、谷忠澄と協力して一宮城を守ったが、豊臣秀長の攻撃の前に敗れて開城した。主家の降伏後、元親の3男・津野親忠が豊臣秀吉への人質として赴くとき、親忠に従って伏見に赴いた。秀吉の朝鮮出兵でも渡海し、晋州城の戦いで武功を挙げ、1500石の知行を与えられている。

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森孝頼

森 孝頼(もり たかより)(生没年不詳)
吉田 孝頼(よしだたかより)

戦国時代の土佐国の国人である。

時代
戦国時代

主君
長宗我部元親
氏族
森氏
父母
父 森頼実

吉田重俊の娘

頼実の子。先祖は尾張から近江、その後阿波を経て土佐に来たという。その際、土佐郡長磯村で悪さをしていた猿を退治し村名を森と変えて領主になったという。阿波水軍を率いた森氏とは同族との説もある(阿波森氏側の系図にはそのような記述はない)。
 その後、森氏は勢力を伸ばし土佐郡潮江も手に入れ土佐の有力国人の一人となるが、
1544年に対立する本山清茂によって当主・頼実は城を落とされ討ち死にする(頼実は阿波に逃れたともいう。また落城の時期も諸説有り)。
 孝頼は長宗我部国親を頼って落ち延び、長ずると吉田重俊の娘と娶ったといわれる(これには疑問視する説もある)。長宗我部氏が本山氏と対立すると国親・元親に従い、やがて森と潮江の領地を回復した。
 その後の孝頼の動向は不明だが、一族の者が元親に従って各地を転戦したようである。


孝頼はかつて土佐郡森郷や潮江村の地域を治めていた豪族「森頼実(もりよしざね)」の嫡男として生まれました。
1544年、父が本山氏「本山宗茂(もとやまむねしげ)」によって滅ぼされると、まだ幼少であった孝頼は岡豊に落ち延びて「長宗我部国親(ちょうそかべくにちか)」の庇護を受けました。
その後は長宗我部氏の下で成長し、重臣である「吉田重俊(よしだしげとし)」の娘を娶りました。
1560年、長浜の戦いにおいて長宗我部氏は宿敵本山氏を撃破します。
長浜より岡豊へと帰参する最中に、潮江城(高知市潮江筆山)を攻めます。

しかし、すでに潮江城に本山軍は居なかったので、無傷で潮江城を手に入れます。
孝頼はその後も本山氏を攻める際の主力として活躍します。
その温床として、孝頼は旧領である森郷を貰い受け、潮江城主となりました。
その後は明確な資料がありませんが、元親の四国統一に貢献した働きをしたと考えられます。

孝頼は本山攻めにおいて大いに働きました。
旧領が本山氏の本拠地に隣接していた為、森氏の旧臣も沢山残っていました。その者らと内応して、
本山氏を混乱させます。
また、潮江天満宮の改修も行ったとされています。
父の仇である本山氏を長宗我部の力を借りて果たした形になりました。無事旧領を手に入れることも出来た事はよかったと思います。


土佐国(現高知県)土佐郡北部の森郷と土佐郡南部の潮江村一帯を所領とした土豪・森氏の第5代当主。父・頼実が本山氏の攻撃により居城森城を奪われ敗死すると、幼少の身だった孝頼は密かに城を脱出し、岡豊に落ち延びる。

その後、岡豊の長宗我部国親のもとに身を寄せ、その庇護を受けるが、元服後は国親の跡を継いだ長宗我部元親の家臣となり対本山戦で功を上げる。そして、元親よりもともと森氏の支城であった潮江城を与えられ城主となり、元親が本山氏の居城本山城攻略に着手した際は命を受け、森郷に潜入、森氏の旧臣らを内応し、本山城陥落の足がかりを作った。本山氏降伏後は元親より旧領森郷を与えられ、孝頼は没落した森氏の再興に成功した。

森城主となった孝頼は以後、長宗我部氏の傘下として四国統一戦に参陣、また潮江天満宮の改修なども手掛けた。

参考文献
戦国人名事典(新人物往来社/阿部猛・西村圭子編集)
日本城郭大系15巻香川・徳島・高知(新人物往来社/児玉幸多・坪井清足監修)
日本歴史地名大系40巻高知県の地名(平凡社/山本大監修)
夏草の賦(文春文庫/司馬遼太郎著)

2019年12月23日

長元物語

『長元物語/長元記』は長宗我部元親の家来の立石正賀が万治2年に著した、乾・坤の二編からなる軍記物語です。 乾は僕の初陣から土佐統一までの、坤は四国統一以降の僕の生涯の事績を箇条書したもの。

土佐国森城

土佐国森城(とさこくもりじょう)
土佐国旭城(あさひじょう)ともいう
Screenshot_20191223-155851~2.png

高知県土佐郡土佐町にあった
日本の城(山城)である。

土居の北西、和田に接する花瀬山に築かれた山城である。城地と考えられるところに「城山」・「城ツルイ」の地名が残る。この地を居城と定めたのは永正元年(1504年)頃、当地から潮江一帯を所領とした土豪森氏の3代当主頼茂であると「森家系図」に書かれており、本格的に居城を築城したのは『南路志』によると4代頼実とされている。5代孝頼のとき、天文13年(1544年)に本山茂宗によって落とされたが長宗我部氏の下で本山氏を攻略したのち森領を与えられ、森氏が再び居城した。

城跡は、第二次世界大戦後の開拓により当時の様相は呈しておらず、土佐町の調査によっても正確な位置は未だ確認されていない。したがって、遺構などは残存しておらず、台地上に段石窟(あな)が確認されたが、その段石窟も現存しない。現状では地名として残る「城山」・「城ツルイ」に当たる場所に築かれたと考えられている。

吉田則弘

吉田則弘(よしだ のりひろ)
<生没年> 1500〜1530(?〜?)
長宗我部家臣。吉田孝頼・吉田重俊の父。

土佐吉田氏

2019年12月22日

吉田孝頼

吉田 孝頼(よしだ たかより)
戦国時代の武将。長宗我部氏の家臣。

時代
戦国時代
生誕
明応3年(1494年)
死没
永禄6年(1563年)
改名
吉田孝頼→入道周孝
官位
備中守
主君
長宗我部国親→長宗我部元親
氏族
土佐吉田氏
父母
父:吉田則弘
兄弟
吉田孝頼、吉田重俊

長宗我部兼序娘(長宗我部国親妹)

貞重、周重

出自
土佐国の国人である土佐吉田氏は、藤原北家秀郷流の末裔を称する山内首藤氏の支流。山内首藤俊通の子・首藤俊宗が足利尊氏に従い、功を上げ土佐に所領を得たことを始まりとする。

略歴
永正15年(1518年)、長宗我部国親が土佐岡豊城に復帰すると、孝頼は国親の妹を妻として迎え、国親に仕えた。孝頼は智謀に優れており長宗我部氏の躍進に一役買ったと言われる。

大永6年(1526年)、国親は娘を香宗我部秀義に嫁がせる約束をしていたが、これを反故し本山茂辰に嫁がせた。国親の違約に秀義は激怒し、国親討伐の兵を挙げた。しかし孝頼が出家して詫びたため、香宗我部氏は本山氏にその軍を向けたという。これは、香宗我部氏と本山氏を争わせ、弱体化を企図した為といわれている。また、長宗我部氏の軍制の基本である「一領具足」を考案したのも孝頼といわれている。永禄3年(1560年)9月、元親の命を受けて土佐郡の井口城主・井口勘解由を攻めている。

その後も長宗我部氏の宿老として活躍したが、永禄6年(1563年)に病死した。


土佐吉田氏

土佐吉田氏(とさよしだし)
Screenshot_20191222-194726~2.png
丸三引き紋

歴史
吉田城は、南北朝時代に吉田氏によって築かれた。 吉田氏は、足利尊氏に従って戦功があり地頭職を得て吉田の地に築城した。

戦国時代、吉田孝頼(周孝)は、長宗我部兼序の妹を娶り、兼序の子国親に仕え、長宗我部氏再興に尽力し、永禄4年には井口城主となっている。
本姓
山内首藤氏
家祖
山内首藤俊宗
種別
武家
出身地
土佐国
主な根拠地
土佐国
著名な人物
吉田孝頼
吉田東洋


藤原秀郷流を称した山内首藤氏の一族である。山内首藤俊宗が足利尊氏に従い、功あって土佐国に領地を得たことが始まりである。山内首藤俊宗の弟・俊氏は後に山内氏を名乗り、尾張国に住むようになる。この山内氏が、後に土佐の大名になる山内一豊の先祖である。

土佐に土着して、豪族となった後、吉田孝頼の時に長宗我部氏と姻戚となり、その重臣として活動する。一族は有能な人物が多く、長宗我部国親・元親・盛親の3代に仕えて、土佐の小豪族から四国統一の雄、そして大坂の陣の後に滅亡するまで常に主君の側にあり活躍した。長宗我部氏滅亡後、一族は離散した。

新たな土佐の主となった同族の山内氏に仕えた吉田正義、土佐で医師として活動した吉田政重、保科氏に仕えた吉田貞重、姫路で松平氏に仕えた吉田康俊らがいる。なお吉田正義の子孫に、幕末の土佐藩重鎮吉田東洋が出る。
祖は藤原鎌足に始まり藤原秀郷からと言われる。
助清の代に三河国に住み首藤を称するようになる。
その後義通の時に相模国鎌倉山内谷に住んだことにより山内とも称すようになる。

上夜須城

上夜須城(かみやすじょう)

一般的に
「尼ヶ森城」
「二本松城(二丈松城)」
「釣鐘城(釣鐘森城)」
をあわせて上夜須城といわれる

長宗我部元親

長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)
戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名。長宗我部氏第21代当主。位階は従五位下で死後に正五位、昭和3年(1928年)には正三位が贈られた。

吉田重康

吉田 重康(よしだ しげやす)
戦国時代の武将。
長宗我部氏の家臣。
土佐国上夜須城主。

時代
戦国時代
生誕
不明
死没
不明
主君
長宗我部元親
氏族
土佐吉田氏
父母
父:吉田重俊
兄弟
重康、江村親家

吉田孝俊、吉田俊政
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