2019年12月22日
源頼朝
源 頼朝(みなもと の よりとも)
絹本着色伝源頼朝像
神護寺蔵
時代
平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕
久安3年4月8日(1147年5月9日)
死没
建久10年1月13日(1199年2月9日)
享年53(満51歳没)
改名
鬼武者・鬼武丸(幼名)、頼朝
別名
通称:三郎、佐殿、武衛、鎌倉殿、
源二位、右大将軍(右大将)、右幕下
戒名
武皇嘯厚大禅門
墓所
法華堂跡(神奈川県鎌倉市西御門)
白旗神社(鶴岡八幡宮境内)
矢ノ森八景(岩手県一関市東山町河津矢ノ森)
官位
正二位、権大納言、右近衛大将、征夷大将軍
幕府
鎌倉幕府 初代征夷大将軍
(在任:1192年 - 1199年)
氏族
清和源氏為義流(河内源氏)
父母
父:源義朝、母:藤原季範の娘(由良御前)
兄弟
義平、朝長、頼朝、義門、希義、範頼
全成、義円、義経、坊門姫、他女子
妻
前妻:八重姫?、正室:北条政子
側室:亀の前、大進局、利根局?
子
千鶴丸?、大姫、頼家、貞暁、三幡、実朝
日本の武士、鎌倉幕府初代将軍
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家。鎌倉幕府の初代征夷大将軍。 河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると北条時政、北条義時などの坂東武士らと平家打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平家を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼす。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。
これにより、朝廷と同様に京の都を中心に権勢を誇った平家政権とは異なる東国に独立した武家政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。
出生
出生跡地にある誓願寺と誕生旧地碑
久安3年(1147年)4月8日、源義朝の三男として尾張国熱田(現在の名古屋市熱田区)[1][2][3][4][5]の熱田神宮西側にあった神宮大宮司・藤原季範の別邸(現誓願寺)にて生まれる。幼名は鬼武者、または鬼武丸[6]。
父祖は、清和天皇、臣籍降下した源経基、多田源氏の祖の源満仲、河内源氏の祖の源頼信、前九年の役の源頼義、後三年の役の源義家、源義親、祖父の源為義[7]。母は季範の娘の由良御前。乳母は比企尼、寒河尼、山内尼。
保元元年(1156年)、父の義朝は保元の乱で、後白河天皇側で平清盛らと共に戦勝し、崇徳上皇側の父の為義の助命を自身の戦功に替えて願うが許されず、父兄弟を斬首し左馬頭に任ぜられる。
保元3年(1158年)、頼朝は後白河天皇准母として立后した統子内親王の皇后宮権少進となり、平治元年(1159年)2月に統子内親王が院号宣下を受けると、上西門院蔵人に補される。上西門院殿上始において徳大寺実定、平清盛などの殿上人が集う中で献盃役をつとめる[8]。また同年1月には右近衛将監に、6月には二条天皇の蔵人にも補任される。長兄の義平は無官とみられ、先に任官していた次兄の朝長よりも昇進が早いことから、母親の家柄が高い頼朝が義朝の後継者、嫡男として待遇されていたとみられている。
絹本着色伝源頼朝像
神護寺蔵
時代
平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕
久安3年4月8日(1147年5月9日)
死没
建久10年1月13日(1199年2月9日)
享年53(満51歳没)
改名
鬼武者・鬼武丸(幼名)、頼朝
別名
通称:三郎、佐殿、武衛、鎌倉殿、
源二位、右大将軍(右大将)、右幕下
戒名
武皇嘯厚大禅門
墓所
法華堂跡(神奈川県鎌倉市西御門)
白旗神社(鶴岡八幡宮境内)
矢ノ森八景(岩手県一関市東山町河津矢ノ森)
官位
正二位、権大納言、右近衛大将、征夷大将軍
幕府
鎌倉幕府 初代征夷大将軍
(在任:1192年 - 1199年)
氏族
清和源氏為義流(河内源氏)
父母
父:源義朝、母:藤原季範の娘(由良御前)
兄弟
義平、朝長、頼朝、義門、希義、範頼
全成、義円、義経、坊門姫、他女子
妻
前妻:八重姫?、正室:北条政子
側室:亀の前、大進局、利根局?
子
千鶴丸?、大姫、頼家、貞暁、三幡、実朝
日本の武士、鎌倉幕府初代将軍
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家。鎌倉幕府の初代征夷大将軍。 河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると北条時政、北条義時などの坂東武士らと平家打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平家を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼす。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。
これにより、朝廷と同様に京の都を中心に権勢を誇った平家政権とは異なる東国に独立した武家政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。
出生
出生跡地にある誓願寺と誕生旧地碑
久安3年(1147年)4月8日、源義朝の三男として尾張国熱田(現在の名古屋市熱田区)[1][2][3][4][5]の熱田神宮西側にあった神宮大宮司・藤原季範の別邸(現誓願寺)にて生まれる。幼名は鬼武者、または鬼武丸[6]。
父祖は、清和天皇、臣籍降下した源経基、多田源氏の祖の源満仲、河内源氏の祖の源頼信、前九年の役の源頼義、後三年の役の源義家、源義親、祖父の源為義[7]。母は季範の娘の由良御前。乳母は比企尼、寒河尼、山内尼。
保元元年(1156年)、父の義朝は保元の乱で、後白河天皇側で平清盛らと共に戦勝し、崇徳上皇側の父の為義の助命を自身の戦功に替えて願うが許されず、父兄弟を斬首し左馬頭に任ぜられる。
保元3年(1158年)、頼朝は後白河天皇准母として立后した統子内親王の皇后宮権少進となり、平治元年(1159年)2月に統子内親王が院号宣下を受けると、上西門院蔵人に補される。上西門院殿上始において徳大寺実定、平清盛などの殿上人が集う中で献盃役をつとめる[8]。また同年1月には右近衛将監に、6月には二条天皇の蔵人にも補任される。長兄の義平は無官とみられ、先に任官していた次兄の朝長よりも昇進が早いことから、母親の家柄が高い頼朝が義朝の後継者、嫡男として待遇されていたとみられている。
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