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2019年12月19日

土佐一条氏

土佐一条氏(とさ いちじょうし)
日本の武家の一つ。本姓は藤原氏で、五摂家の一条家の分家。
Screenshot_20191219-182555~2.png
家紋
いちじょうふじ
一条藤

概要
土佐国幡多郡を拠点とした戦国大名で、
五摂家の一条家が、応仁の乱を避けて中央から下向したことに始まる。

土着後も土佐国にありながら高い官位を有し、戦国時代の間、土佐国の主要七国人(「土佐七雄」)の盟主的地位にあった。次第に武家化し伊予国への外征も積極的に行うが、伸長した長宗我部氏の勢いに呑まれ、断絶した。

明治時代に入って一条家により土佐一条家の再興が行われ、一条家から分家して男爵が授けられている。

歴史
初代土佐一条氏は、1468年(応仁2年)に一条兼良の子で前関白の一条教房が、応仁の乱の混乱を避け、京都から所領であった土佐幡多荘(現在の四万十市中村)に下向したことに起源を有する。鎌倉時代末期から室町時代にかけて敷地氏・布氏・入野氏などが幡多荘の押領をもくろみ、更に戦乱による所務不振に悩まされることになり、その安定化を図る目的もあったと考えられる。教房は幡多郡を中心とした国人領主たちの支持を得ることに成功し、文明年間には拠点として「中村館」を置き、以後「中村御所」と称された。また、教房とともに公家や武士、職人なども幡多荘に下向するなど、中村繁栄の基礎を築いた。

戦国時代
2代 房家
土佐で誕生した教房の次男一条房家は京都に戻らずに幡多荘の在地領主となり、中村御所を拠点に土佐の中村に京都さながらの街を築き上げ、官位も正二位まで昇進した。房家の時代に土佐一条氏は管領細川氏(土佐守護を兼ねる)と土佐を二分する勢力[3]となり、公家としての権威を維持したまま同国に勢力をもつ大名として存在感を高めた。嫡男房冬の正室に伏見宮邦高親王の娘、側室には大内義興の娘を迎え、更に娘を伊予の西園寺公宣に嫁がせるなど、公武の有力者との婚姻を通じて土佐一条氏の安定を図っている。また、房家の次男一条房通は京都の一条家の婿養子となって関白に昇進している。

永正の錯乱(1507年(永正4年))により細川氏が中央に引き上げてその影響が消えると、土佐国は「土佐七雄」と呼ばれる七国人が割拠する状態となった。土佐一条氏はその上位に立ち、盟主的存在を担った。

初代 一条教房
二代 一条房家 
三代 一条房冬
四代 一条房基
五代 一条兼定
六代 一条内政
俗に土佐一条氏と呼んでいる。

一条家は京都五摂家の名門として、政治的社会的に高い地位にあった。この一条氏が中世において土佐の幡多荘を領有していたのである。
応仁元年(1467)7月、京都を中心に起った応仁の乱は、その後11年の間合戦が続き、京都は一面の焼野が原となった。この戦乱で貴族といわれた公家も生活に窮して地方の荘園を目指して京都を去るものが多かった。前関白左大臣一条教房(房家の父)も乱が起るとその年8月25日京都の兵火を避けて、初め奈良の興福寺に身を寄せていた。興福寺の住職尋尊大僧正が教房の弟に当たる関係である。教房は、翌応仁2年9月6日奈良をたち、同25日泉州堺から土佐の豪族大平氏の船に便乗して、翌26日に神浦(安芸郡東洋町甲ノ浦)に着き、10月1日に神浦を出帆、翌2日大平氏の居城蓮池に近い高岡郡猪ノ尻(宇佐町井ノ尻)に着き、ここでも数日間滞在してから、幡多の本庄中村に来国されたと伝えられている。
教房一行が大平氏の知行船に乗船して来国されたのは、大平氏の女房が教房夫人の宣旨殿と縁者であったためである(『大乗院寺社雑事記』)といわれているが、『土佐物語』や『古城略史』には、長宗我部文兼の父元親が京都にいた頃、教房の祖父に仕えて厚い恩遇を得ていた。それで、文兼は京都の乱を聞き、今こそ父の恩に報ゆるときと、船を艤して卿を兵庫浦から土佐国甲浦に渡し、自分の居城長岡郡岡豊に迎えたとある。
また、一説には、下国の理由について、京の戦乱によって畿内や付近の荘園からの年貢が入らなくなって、苦しい一家の経済を少しでも豊かにするために、有名無実となっていた幡多庄を回復して、荘園としての実績を挙げようとした為であろうともいわれている。
下国の理由はともあれ、京の絢燗たる文化を携え伝え、公卿大名というより戦国武将として数代百余年を土佐に勢力を張り、多くの影響を及ぼしたのである。
中村に来国した教房は、荘園内の土豪を支配下に組織して基礎経営に専念したのである。中村の町作りを京都に模し、風景も鴨川、東山に見たてて御所を設営したり、更に、下田を対明貿易の中継地とし、商業貿易の拠点として利益を挙げ、朝廷へも珍品を献納したり、石山(大阪)本願寺造営に土佐木材を送るなど、財力獲得にも成功し、凡庸の公家育ちを脱したものがあったようである。しかし、父兼良より先に文明12年(1480)58歳で死去した。国人十余人は、この主人を慕って出家したとも伝えられている。中村市妙華寺谷(奥御前谷)に教房の墓がある。
さて、教房の第2子で中村生まれの房家を、初代として房冬、房基、兼定、内政の5代を俗に土佐一条氏と呼んでいる。
一条房家は、文明9年(1477)父教房の没する3年前に生まれた。母は幡多の武将加久見宗孝の娘である。
一条家の家督は京都の叔父冬良(教房の弟)が継ぎ、房家は奈良の大乗院の叔父尋尊の孫弟子として出家することに決められていた。しかし、父教房の死を契機に内訌が起き、房家7、8才の頃母と共に、中村御所から足摺岬金剛福寺へ移リ、更に、清水へ逃れたこともあったのである幼い房家を中村に置くことに危険を感じた為であろう。
それより10年が過ぎ、明応3年(1494)18才で出家をやめて元服し、正五位下、左近衛少将になり土佐国司に任ぜられた。これによって、土佐一条氏は房家をもって初代としている。教房の死後、その後を継ぐようになった背景には、国人土豪が、房家の在国を望んで、働き掛けた為だともいわれている。
房家は土佐中村で飛騨の姉小路、伊勢の北畠と並んで公卿三国司と称せられ、いわゆる公卿大名として戦国の世に臨んでいった。そしてよく土佐の豪族を抑えて治安を獲得し、その威令は隣国の南予にまで及んだのである。また、都風の文化を移すと共に、通商を盛んにして財政の裕福も計った。一条家の一門並びに家老は、
「御所一人と申すは一条殿をいう。幡多郡一万六千貫(約五万三千三百石)の主にて中村に在城なり。御一門というは東小路、西小路、入江、飛鳥井、白河なり。家老は土居、羽生、為松、安並の4人なり」。(『土佐物語』)このほかに一条殿衆と呼ばれる53人の家臣団がいた。宿毛には、一条家兵伏随身武者所判官二宮房資をニノ宮城に置いて、宿毛城番とした。房家の治世45年間が土佐一条氏の最も栄えたときであった。
房家は寛仁の心の持主であった。永正5年(1508)9月、長宗我部兼序が吾川郡北部の本山茂宗、同郡南部の弘岡の吉良、香美都の山田、高岡郡の大平等の連合軍に急襲され兼序は防ぎかねて自殺したが、この岡豊落城の際、兼序は一子千雄(王)丸を家臣に托して幡多郡中村御所に送リ、一条房家の保護を求めた。
房家は、これを庇護成長させ、10年の後、永正15年に元服させて長宗我部国親と名乗らせ、父の旧領岡豊城を取り返して国親に与えた。長宗我部家再興の恩人でもあったのである。ところが、この温情が土佐一条氏滅亡の因をつくるようになったのはあまりにも皮肉てある。
房家は、正二位権大納言にまで進み、天文8年(1539)11月13日63才で中村城で死去され、法名を藤林寺殿正二品東泉大居士といい、藤林寺に葬られた今も、藤林寺境内にこけむしたる卵塔の墓石二基と五輪塔一基があるが、中央が初代房家の墓で、左右はその縁者の墓であろう。
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