2012年08月06日
「地震カミナリ火事」親父とトキ母
両親のことについて話そう。このブログの主題である離婚協議、特に親権の問題にはどうしても深く関わってくる……。
俺は幼い頃から親父に褒められた記憶があまりない。いつもゲンコツくらってた記憶しかない。もちろん俺は相当な悪ガキで、2コ年上の姉ちゃんをイジめてたりしてたからだが。その他も幼い頃の悪行は絶えない。キン肉マン風に言うと悪行超人出身だ。
セピア色ながら、よく覚えているのは、幼稚園の年中の頃、1コ年上の近所の悪ガキ3人と決闘をして、2人まで倒したものの、3人目に敗れた時のこと。決闘は正々堂々としたものだった。1対1で戦う。相手が降参したら止める。その勝ち抜き形式。負けたのはその近所をしきってたボスだった。大工の息子。
だが、悔しくて悔しくてしょうがなく、泣きながら家に帰った。たぶん日曜日。親父は家にいた。
「それでお前は泣きながら帰ってきたのか! 年上だって関係ない。そいつに勝つまで帰ってくるな!」そう言われて家を追い出された。鍵までかけられた。
俺はどうしようもなく、近所の空き地の畑をうろうろしていた。ずっとふらふら遊んでいた。虫捕まえたりして。母親が心配して探しに来るまでずっと。
昨日、親父に「ひでえ親父だよ。まったく」って苦情入れたら、本人覚えていない。
トキ母「こん人も、少年時代この辺じゃ有名な悪ガキだったみたいだけん……」
親父が10代の頃、何をしたのか詳しくしらないが、警察から山狩りにあった経験があるということは一度書いた。その他にはこんなエピソードもある。少年時代、母一人子一人で育てられた親父ははちゃめちゃな悪ガキだった。何せ飼っていた豚を、小屋から出して競走馬よろしく走らせてみたらしい。尻をひっぱたいて。
親父曰はく「豚は100mぐらいしか走れない。それぐらい走ったらコテッって転ぶとぞ」
この人、こういう感じのエピソードに事欠かない。若い頃飲酒運転の常習犯で、崖に転落したこともある。ぐうぜん木に引っ掛かって助かったらしい。
「伝説の男〜、伝説の男〜」
おととい、祖母の葬儀の後、1次会で飲まずにそのまま帰ったのは、実は芝刈り……ゴルフのためではなかった。家に置きっぱなしの愛犬が気になったからだと言う。近所の人達に一応世話は頼んだが、ずっと頼みっぱなしは悪いので早々に帰ったらしい。
昨日のハトの雛事件でも、それを後で知ると「可哀そうに……。どがんかできんか」と一生懸命心配している。
……こんなに立派に更正して。オイラは嬉しいよ。何せガキの頃俺が捨て犬を拾って来たら、その子犬の首根っこを掴んで畑にぶん投げた人だ。
とにかく子供の頃から褒められてない。よく考えたら。教育学上問題ありだろ?
テストで100点取って帰ってきても、
「できて当たり前。そんぐらいで満足しとってつまるもんか。120点取って帰ってこい」
まあ、そういう親父とうまくバランスとる形でトキ母がいるのだが。アメとムチをこの二人が、二人の役割で使い分けてたような気がする。Σ(°Д°;
でも、俺は母からもそんなに褒められてはきてない。よく言われていたのは「本当は優しい子なんだけど」ってことだけ。
大人になって、みんながいる時に飲んでいる時や家族で飲んでいる時でも、俺のことを決して褒めない。
「頭ばっか」「アゴばっか」
唯一親父が喜んで話してたのを聞いたのは、ちょっと前の親父のホールインワンの飲み会の時(その時、離婚協議中の妻やその家族を呼んでいた)
「こいつが、なかなかやるなって思ったのは、大阪に転校して行った時、そこであっと言う間にガキ大将になっとったことです。向こうの奴らに負けとらんなって」と向こうの父親に自慢していた。
何せその頃サッカーは日向小次郎並のプレイスタイル。しかも昔から腕力も人一倍あった。野球に一時期ハマッたが、その頃のポジションは3番ピッチャー。同じ小学校の生徒集めてノックとかしてしごいてた。ボールもよく飛ぶ。
その頃の友人で仲が良かったのは、岬君と若林君。若林君はクラス1の秀才で、夏休みに入る頃にはもう既に夏休みの宿題が終わってた。(後は写させてもらうだけ)いつもアディダスの帽子をかぶっていて、ポジションはキーパー。ウマイ。たまにオーバーラップもする。まさにそのものだった。あだ名はフランケンだったけど。(若林君とは大学で再会する)
離婚の問題になった時だって、そうだった。
「お前がすべて悪い」と決めつけてかかってきた。向こうから伝わる嘘の事実関係を一方的に信じていた。
だが、その後いろいろ行き来することも多くなり、電話でもよく連絡を取るなりしていると、どうやらそうではないらしいということがようやくわかったみたいだ。
俺は今まで妻の悪口なんかを一切両親の耳には入れていない。そんなことしたら嫁姑問題とかが起こることが目に見えているからだ。天草に来ても、過度なぐらい妻が猫かぶってるのも黙ってた。俺が天草に来た時なんかに、特に育児を妻に任せきりにしていたのは、その方が妻の印象がいいだろうと思ってたからだ。
もはや今となっては、修復するつもりがないので、ちゃんと事実関係を話した。悪口というか、客観的事実を。
だから親父は誤解していた。俺が育児なんかにもまったく関わってなかったと。
以前(7月24日天草という地)で話したように、今、親父はほんとに好々爺になっている。母親はもともとお人好し。このお人好し二人、親権の獲得に非常に障害になっていた。
まず、住んでいる場所が離れている。ちょっと預けようとしても預けられない。
次に、本人達が、「子供は母親の手で育てるのが一番」と価値判断をしていたこと。
3点目に、俺には育児は無理だと判断してたこと。
とにかく、バックアップ体制がこちらはまったく整っていない。祖父母にやる気がない。バックアップ体制という意味で言うと、向こうとは雲泥の差がある。こうしたことから、俺自身も、「これ、親権争っても勝ちようがないな……」って判断し始めていた。
しかし、昨日思いがけないことが起こった。
「俺達にとっても可愛い孫。やるだけやれ。戦え」
「だから、俺は始めからそう言ってる。俺はむしろオカン達の『もう綺麗すっぱり、娘にも会わなくていいたい』という発言にびっくりしてた。なんでそういう発想になるのか理解できない。『断腸の思いで』って言ってたけど、それでも理解できない」
どうやら、二人の話を総合すると、自分たちは相手がそんな人だとは知らなかったし、俺自身には育児は無理だと思ってたということだった。
それがどうやら、通夜や葬儀の準備から当日の行動とかを見ているうちに変わったみたいだ。Σ(°д°lll)ガーン
俺が主にやっていたのは、準備段階ではカバーだ。今や直線ドリブルと強烈シュートだけの人間ではない。役割的には……誰かな。岬君かな。事細かにいろいろ気づいたことを提案した。祖母の人柄を紹介するエピソードのまとめや、とりあえずここで生活するにあたっての必需品の購入、絵が好きで昔描いたという祖母のいい絵をみんなの目につくところに置く等。全体を見渡して何が足りないのかを判断していた。
実際に弔問客が訪れた時には、受付をし、案内をする。弔問客との雑談にも応じながら、聞かれたことにはいろいろ応える。
夜は夜でずっと、いとこやおじさん達とコミュニケーションをとってる。みんなが飲むものや弁当の手配も抜かりはない。
いとこの子供達とも遊んでやる。人間遊園地、大喜びだった。アンコール、疲れた。
赤ちゃんの面倒も見る。赤ちゃんの様子見てすぐに気づく「それ、おかゆ温度大丈夫ですか?」「あっ、もうはいはいしそう……」
親から見て、子供はいつまでも子供のままだと思っているらしい。俺にこんなことができようとは思ってなかったようだ。確かに親の前で仕事らしい仕事するのは初めてだ。
確かに昔は気がきかない奴だったけど、もうそれは約20年前までの話だ。
それから、もういろいろやってきてる。
高校時代には、体育教師にむりやり立候補させられ生徒会の体育委員長もやった。体育祭や水泳大会の運営をする。
大学時代はイベント系テニスサークルで、企画スタッフとして花見やキャンプ、バーベキューとかぐらいなら、準備は一人でもできた。
バイトだっていろいろしてる。その当時、自分が一番苦手なことだろうと思って弱点つぶしのためにあえて居酒屋バイトをした。しかも中心部の、よく情報誌に載る人気店で。
公務員になってからも、130人ぐらいが集合する首長肝いりの市民参画の会議、この会議の準備をほぼ一人でしていた。テレビや新聞もよく入る会議だ。
だから、むしろいつの間にかこういうことが得意になっていた。
「やれ。任せる。やるだけやれ。俺達にとっても可愛い孫」親父はうわ言のようにつぶやいてる。最近酒もめっきり弱くなった。それに昨日の雛の件はショックだったんだろう。
「相手はあんたを甘く見て公務員辞めたら何もできないと思ってあぎゃんこつば言うたとだろうばってん……」
「まあ、その後驚きはしただろうね。何せ向こうの家族が雁首揃えて頭捻っても、俺一人に対抗できなかったんだから。だから早い段階で弁護士の力借りたんだろ? 調停に入るもっとずっと前の段階で」
妻は常日頃から言っていた。
「口げんかしても絶対勝てない」
「たぶん怒らせたら一番コワイタイプ」
一応はよくわかっているようだ。そう、俺は怒ったら手がつけられないタイプです。怒り心頭に達したら、何人だって相手にします。
昔からもともとは武闘派。大学時代までは、そういうイメージを持ってる人も多いだろう。(今後モテキ2〜京都の狼〜の続きでも触れます)
組織に入って、体型も含め少し丸くなったけど、それでも河川の中流の石ぐらいのとんがりはある。上司にだって噛みつく時は噛みつく。人事畑の長かった上司の言った「慇懃無礼」の評価は確かに正しいのかもしれない。
その後、親父が廊下ですれ違いざまに言った一言は衝撃的だった。( ゚д゚)ポカーン
「……親父を超えたばい」ぼそっと一言、目も合わさずに言いました。
――――――――――生まれて初めて褒められた気がする。
しかも何? その感激のセリフ…………。(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
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セピア色ながら、よく覚えているのは、幼稚園の年中の頃、1コ年上の近所の悪ガキ3人と決闘をして、2人まで倒したものの、3人目に敗れた時のこと。決闘は正々堂々としたものだった。1対1で戦う。相手が降参したら止める。その勝ち抜き形式。負けたのはその近所をしきってたボスだった。大工の息子。
だが、悔しくて悔しくてしょうがなく、泣きながら家に帰った。たぶん日曜日。親父は家にいた。
「それでお前は泣きながら帰ってきたのか! 年上だって関係ない。そいつに勝つまで帰ってくるな!」そう言われて家を追い出された。鍵までかけられた。
俺はどうしようもなく、近所の空き地の畑をうろうろしていた。ずっとふらふら遊んでいた。虫捕まえたりして。母親が心配して探しに来るまでずっと。
昨日、親父に「ひでえ親父だよ。まったく」って苦情入れたら、本人覚えていない。
トキ母「こん人も、少年時代この辺じゃ有名な悪ガキだったみたいだけん……」
親父が10代の頃、何をしたのか詳しくしらないが、警察から山狩りにあった経験があるということは一度書いた。その他にはこんなエピソードもある。少年時代、母一人子一人で育てられた親父ははちゃめちゃな悪ガキだった。何せ飼っていた豚を、小屋から出して競走馬よろしく走らせてみたらしい。尻をひっぱたいて。
親父曰はく「豚は100mぐらいしか走れない。それぐらい走ったらコテッって転ぶとぞ」
この人、こういう感じのエピソードに事欠かない。若い頃飲酒運転の常習犯で、崖に転落したこともある。ぐうぜん木に引っ掛かって助かったらしい。
「伝説の男〜、伝説の男〜」
おととい、祖母の葬儀の後、1次会で飲まずにそのまま帰ったのは、実は芝刈り……ゴルフのためではなかった。家に置きっぱなしの愛犬が気になったからだと言う。近所の人達に一応世話は頼んだが、ずっと頼みっぱなしは悪いので早々に帰ったらしい。
昨日のハトの雛事件でも、それを後で知ると「可哀そうに……。どがんかできんか」と一生懸命心配している。
……こんなに立派に更正して。オイラは嬉しいよ。何せガキの頃俺が捨て犬を拾って来たら、その子犬の首根っこを掴んで畑にぶん投げた人だ。
とにかく子供の頃から褒められてない。よく考えたら。教育学上問題ありだろ?
テストで100点取って帰ってきても、
「できて当たり前。そんぐらいで満足しとってつまるもんか。120点取って帰ってこい」
まあ、そういう親父とうまくバランスとる形でトキ母がいるのだが。アメとムチをこの二人が、二人の役割で使い分けてたような気がする。Σ(°Д°;
でも、俺は母からもそんなに褒められてはきてない。よく言われていたのは「本当は優しい子なんだけど」ってことだけ。
大人になって、みんながいる時に飲んでいる時や家族で飲んでいる時でも、俺のことを決して褒めない。
「頭ばっか」「アゴばっか」
唯一親父が喜んで話してたのを聞いたのは、ちょっと前の親父のホールインワンの飲み会の時(その時、離婚協議中の妻やその家族を呼んでいた)
「こいつが、なかなかやるなって思ったのは、大阪に転校して行った時、そこであっと言う間にガキ大将になっとったことです。向こうの奴らに負けとらんなって」と向こうの父親に自慢していた。
何せその頃サッカーは日向小次郎並のプレイスタイル。しかも昔から腕力も人一倍あった。野球に一時期ハマッたが、その頃のポジションは3番ピッチャー。同じ小学校の生徒集めてノックとかしてしごいてた。ボールもよく飛ぶ。
その頃の友人で仲が良かったのは、岬君と若林君。若林君はクラス1の秀才で、夏休みに入る頃にはもう既に夏休みの宿題が終わってた。(後は写させてもらうだけ)いつもアディダスの帽子をかぶっていて、ポジションはキーパー。ウマイ。たまにオーバーラップもする。まさにそのものだった。あだ名はフランケンだったけど。(若林君とは大学で再会する)
離婚の問題になった時だって、そうだった。
「お前がすべて悪い」と決めつけてかかってきた。向こうから伝わる嘘の事実関係を一方的に信じていた。
だが、その後いろいろ行き来することも多くなり、電話でもよく連絡を取るなりしていると、どうやらそうではないらしいということがようやくわかったみたいだ。
俺は今まで妻の悪口なんかを一切両親の耳には入れていない。そんなことしたら嫁姑問題とかが起こることが目に見えているからだ。天草に来ても、過度なぐらい妻が猫かぶってるのも黙ってた。俺が天草に来た時なんかに、特に育児を妻に任せきりにしていたのは、その方が妻の印象がいいだろうと思ってたからだ。
もはや今となっては、修復するつもりがないので、ちゃんと事実関係を話した。悪口というか、客観的事実を。
だから親父は誤解していた。俺が育児なんかにもまったく関わってなかったと。
以前(7月24日天草という地)で話したように、今、親父はほんとに好々爺になっている。母親はもともとお人好し。このお人好し二人、親権の獲得に非常に障害になっていた。
まず、住んでいる場所が離れている。ちょっと預けようとしても預けられない。
次に、本人達が、「子供は母親の手で育てるのが一番」と価値判断をしていたこと。
3点目に、俺には育児は無理だと判断してたこと。
とにかく、バックアップ体制がこちらはまったく整っていない。祖父母にやる気がない。バックアップ体制という意味で言うと、向こうとは雲泥の差がある。こうしたことから、俺自身も、「これ、親権争っても勝ちようがないな……」って判断し始めていた。
しかし、昨日思いがけないことが起こった。
「俺達にとっても可愛い孫。やるだけやれ。戦え」
「だから、俺は始めからそう言ってる。俺はむしろオカン達の『もう綺麗すっぱり、娘にも会わなくていいたい』という発言にびっくりしてた。なんでそういう発想になるのか理解できない。『断腸の思いで』って言ってたけど、それでも理解できない」
どうやら、二人の話を総合すると、自分たちは相手がそんな人だとは知らなかったし、俺自身には育児は無理だと思ってたということだった。
それがどうやら、通夜や葬儀の準備から当日の行動とかを見ているうちに変わったみたいだ。Σ(°д°lll)ガーン
俺が主にやっていたのは、準備段階ではカバーだ。今や直線ドリブルと強烈シュートだけの人間ではない。役割的には……誰かな。岬君かな。事細かにいろいろ気づいたことを提案した。祖母の人柄を紹介するエピソードのまとめや、とりあえずここで生活するにあたっての必需品の購入、絵が好きで昔描いたという祖母のいい絵をみんなの目につくところに置く等。全体を見渡して何が足りないのかを判断していた。
実際に弔問客が訪れた時には、受付をし、案内をする。弔問客との雑談にも応じながら、聞かれたことにはいろいろ応える。
夜は夜でずっと、いとこやおじさん達とコミュニケーションをとってる。みんなが飲むものや弁当の手配も抜かりはない。
いとこの子供達とも遊んでやる。人間遊園地、大喜びだった。アンコール、疲れた。
赤ちゃんの面倒も見る。赤ちゃんの様子見てすぐに気づく「それ、おかゆ温度大丈夫ですか?」「あっ、もうはいはいしそう……」
親から見て、子供はいつまでも子供のままだと思っているらしい。俺にこんなことができようとは思ってなかったようだ。確かに親の前で仕事らしい仕事するのは初めてだ。
確かに昔は気がきかない奴だったけど、もうそれは約20年前までの話だ。
それから、もういろいろやってきてる。
高校時代には、体育教師にむりやり立候補させられ生徒会の体育委員長もやった。体育祭や水泳大会の運営をする。
大学時代はイベント系テニスサークルで、企画スタッフとして花見やキャンプ、バーベキューとかぐらいなら、準備は一人でもできた。
バイトだっていろいろしてる。その当時、自分が一番苦手なことだろうと思って弱点つぶしのためにあえて居酒屋バイトをした。しかも中心部の、よく情報誌に載る人気店で。
公務員になってからも、130人ぐらいが集合する首長肝いりの市民参画の会議、この会議の準備をほぼ一人でしていた。テレビや新聞もよく入る会議だ。
だから、むしろいつの間にかこういうことが得意になっていた。
「やれ。任せる。やるだけやれ。俺達にとっても可愛い孫」親父はうわ言のようにつぶやいてる。最近酒もめっきり弱くなった。それに昨日の雛の件はショックだったんだろう。
「相手はあんたを甘く見て公務員辞めたら何もできないと思ってあぎゃんこつば言うたとだろうばってん……」
「まあ、その後驚きはしただろうね。何せ向こうの家族が雁首揃えて頭捻っても、俺一人に対抗できなかったんだから。だから早い段階で弁護士の力借りたんだろ? 調停に入るもっとずっと前の段階で」
妻は常日頃から言っていた。
「口げんかしても絶対勝てない」
「たぶん怒らせたら一番コワイタイプ」
一応はよくわかっているようだ。そう、俺は怒ったら手がつけられないタイプです。怒り心頭に達したら、何人だって相手にします。
昔からもともとは武闘派。大学時代までは、そういうイメージを持ってる人も多いだろう。(今後モテキ2〜京都の狼〜の続きでも触れます)
組織に入って、体型も含め少し丸くなったけど、それでも河川の中流の石ぐらいのとんがりはある。上司にだって噛みつく時は噛みつく。人事畑の長かった上司の言った「慇懃無礼」の評価は確かに正しいのかもしれない。
その後、親父が廊下ですれ違いざまに言った一言は衝撃的だった。( ゚д゚)ポカーン
「……親父を超えたばい」ぼそっと一言、目も合わさずに言いました。
――――――――――生まれて初めて褒められた気がする。
しかも何? その感激のセリフ…………。(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
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