2021年02月12日
千利休が切腹になった本当の理由!
本日ご覧頂きまして誠にありがとうございます。
今回のテーマですが、時の天下人である豊臣秀吉の命令で切腹になった侘茶の家元・千利休について語ります。
あれほど秀吉公から気に入られていた、侘茶の創始者である千利休でしたが、70歳という高齢で武士でもないのに切腹という前代未聞の裁定が下りました。
それほど秀吉公の怒りが激しかったことを意味します。
簡単におさらいしますと、千利休は大阪府堺市で生まれ本名は「田中与四郎」です。
少し千利休の生い立ちは割愛しまして…時は戦国時代でしたが、千利休の拠点とする堺は戦国の覇者・織田信長の直轄地となりました。その頃、信長公が京都で開いた茶会へ堺の豪商である今井宗久や津田宗及らと共に千利休も招かれたのです。
それをキッカケに千利休は織田信長お抱えの茶堂として召喚されました。
茶堂の役割については、お茶を煎じたり茶道を極めるのではなく、お茶を通して戦(いくさ)が無い時は家中の者に礼儀作法や道徳などを教えるのも一つです。
また織田信長専属の御伽噺(おとぎばやし)衆的な存在でもあり、それ以外にも茶器の創作や花入の研究まで行っていたと云います。
あと織田信長が外交で茶会を開いた際、一流の腕を持つ茶人がいることは、招いた客人や交渉相手に対して優位性を保てるという側面もありました。
何しろ当時は茶人が創る高級な茶器や、外来の由緒ある椀物の価値は非常に高く、レアなモノであれば城一つを上回るほどだったそうです。
やがて織田信長が本能寺の変で亡くなり、その後は豊臣秀吉専属の茶人として居座ります。しかも千利休は3000石と屋敷まで与えられ、茶人として召喚されているとは思えないほどの高待遇でした。
豊臣家内でも色んな方々から頼られて重宝されたこともあり、千利休の存在感は増すばかりで内政にも口出しするようになりました。
現在は国宝指定されておりますが、京都府の大山崎に待庵(たいあん)という千利休の茶室が存在しています。
その茶室は何と畳2帖ほどしかなく、大の男が2人向き合って座れるだけの空間で、そこに入室する時は名高い殿方でも鎧や刀を身から外すことが必須です。
そこを訪ねたり招かれる大名や殿方は合戦の前日が多く、もし命を落としても心残りがないように秘密や懺悔、想いを馳せる者への伝言などを洗いざらい告白する場所となっておりました。
秀吉公の命令によって建てられた茶室ですが、自身だけではなく後継者の古田織部が属する利休七哲、徳川家康や前田慶次郎などの大物も立ち寄ったとのことです。
その他にも信憑性はともかく、とある資料には待庵で千利休と会うために直江兼続・宇喜多秀家・石田三成・島左近・大友宗麟などのビッグネームも待庵の入室者として名が挙がっています。
有名な戦国武将たちが千利休に茶道の弟子として、利休十哲と呼ばれる衆徒になったり、多くの名立たる武将と交流を持つ人格者とされる利休が切腹を命じられたのは何故でしょうか?
秀吉公は利休の腕と才能を誰よりも熟知していたからこそ領地や石高まで与えたはずです。だからこそ周りからすればショックだったでしょうし、いくら天下人でも単なる気まぐれや感情で処罰されるべき人物ではありません。
それに秀吉公と匹敵する実力を持つ徳川家康や、秀吉公が本音を話せる数少ない親友の前田利家まで、千利休の処刑については異議を唱え引き止めました。もし納得のできない理由であれば千利休を引き取る力量も彼らは持ち合わせています。
千利休には容姿端麗な娘がいて秀吉公は側室を申し入れたが利休が断ったからとか、茶器のセンスが合わないし命令に背くとか、秀吉公を毒殺しようとしてバレたからだとか色々と諸説あります。
しかし毒殺の証拠もなく、その他の理由も切腹させるには至らない内容ばかりです。ましてや、そんな理由なら天下人たる者が世間の笑い者になり威厳も失いますし、茶人に切腹など気が触れたのか?と思う者も多く現れるでしょう。
ただ利休に切腹を命じる少し前に秀吉公は最愛の弟・秀長公を亡くしたばかりです。このことは利休に切腹という命を下した要因の一つになっているでしょう。
その弟の秀長公ですが「公儀は私で構いませんが、内々のことは利休殿に」と各大名に告げておりました。そのことは秀吉公も知っています。秀長公は大和国・和泉国・河内国の計110万石という所領を持つ大大名でした。石高だけでしたら上杉家や毛利家と互角という規模を誇ります。
そこで、いつも妙に先回りして秀吉公にチクる石田三成が爆弾を抱えて秀吉公の耳に投下しました。それは「利休がキリシタンや伴天連と内通しており日本国内の最大勢力になる計画を企てている」という報せです。
数年前に秀吉公は九州平定の際、キリスト教徒以外の者が奴隷として連行されていることを知り、長崎のイエズス会とキリスト教に対して伴天連追放令と南蛮貿易の禁止を発令しました。
伴天連とはポルトガル語で神父を意味します。
実のところ千利休は日本で再婚した妻以外に愛人も数名いました。それから外国にも妻子がいて毎月仕送りしていたようです。これらは現在も大阪の堺にあった会合衆の現代バージョン衆に属する知人の先祖が、千利休の側近で先祖代々に渡って言い伝えられている話だと聞きました。
堺の百舌鳥あたりで商売をされている方ですが、一つ余談として千利休は身長182cmほどあり色男だったそうで、外国の女性と堺の寺院を散歩する姿を当時の人の多くが目撃しているとのことです。私は坊主めくりのハズレというイメージが強いのでピンときませんね。
本題に戻りますが、情報を聞いた秀吉は即座に利休を呼び出し問い詰めます。最初は知らぬフリをしていた利休ですが、秀吉公が便箋を手にしていることに気付き黙秘したそうです。便箋の中にある手記には、利休十哲の各武将の領地や石高、その他の弟子たちに関する情報や豊臣家の内情について記されていました。
残念ながら近年に置き換えると『国家反逆罪』が成立しますし、これまでも情報は行き来していたと捉えられても否定できません。そこで今の茶会メンバーは全て解散して、堺に戻り完全に隠居するなら良きに計らうと秀吉公は言いました。最善の処置だと思います。
そうです…考えてみれば千利休はクリスチャンですし、一番弟子の古田織部や利休十哲の武将である蒲生氏郷・高山右近・牧村利貞もクリスチャンです。
しかし黙秘を続けていた利休は間髪入れず『それでしたら和泉国は私が責任を持って取り仕切りましょうか?』と告げたのです。
誰よりも場の空気を読む達人の千利休らしからぬ焦りのような発言…いつもなら『頑固じじぃめ』と笑って終わりだったかも知れませんが、その一言で秀吉公は完全にブチ切れて堺に蟄居を命じたのでした。
それから間もなく京都に呼び出され千利休は切腹を命じられるのです。
さすがの徳川家康と前田利家も、それを知ってしまった以上…秀吉公の決断を抑制したり利休の助命を嘆願するエビデンスなど見つかるはずがありません。
そして利休の弟子で大名の細川忠興や後継者となる古田織部など多くの弟子たちが、豊臣の処罰に対して納得できぬまま利休の切腹は履行されたのです。
享年70歳でした。
千利休が秀吉公に切腹を命じられた本当の理由は以上となります。当たり前ですけど、この話は如何なる資料にも遺されていないでしょう。
おしまいに秀吉公は利休の切腹後しばらくのあいだ側室たちに「俺は利休に謝ってほしかっただけやのに…」とブツブツ言ってたそうです。
将来の日本人たちに歴史を伝える状況化にあって、それなりの立場である方が書記して遺された史実と一つしかない真実のどちらを貴方は受け入れますか?
YouTubeでもご覧になれますので宜しくお願いします!
それでは、またお会いしましょう。
=END=
今回のテーマですが、時の天下人である豊臣秀吉の命令で切腹になった侘茶の家元・千利休について語ります。
あれほど秀吉公から気に入られていた、侘茶の創始者である千利休でしたが、70歳という高齢で武士でもないのに切腹という前代未聞の裁定が下りました。
それほど秀吉公の怒りが激しかったことを意味します。
簡単におさらいしますと、千利休は大阪府堺市で生まれ本名は「田中与四郎」です。
少し千利休の生い立ちは割愛しまして…時は戦国時代でしたが、千利休の拠点とする堺は戦国の覇者・織田信長の直轄地となりました。その頃、信長公が京都で開いた茶会へ堺の豪商である今井宗久や津田宗及らと共に千利休も招かれたのです。
それをキッカケに千利休は織田信長お抱えの茶堂として召喚されました。
茶堂の役割については、お茶を煎じたり茶道を極めるのではなく、お茶を通して戦(いくさ)が無い時は家中の者に礼儀作法や道徳などを教えるのも一つです。
また織田信長専属の御伽噺(おとぎばやし)衆的な存在でもあり、それ以外にも茶器の創作や花入の研究まで行っていたと云います。
あと織田信長が外交で茶会を開いた際、一流の腕を持つ茶人がいることは、招いた客人や交渉相手に対して優位性を保てるという側面もありました。
何しろ当時は茶人が創る高級な茶器や、外来の由緒ある椀物の価値は非常に高く、レアなモノであれば城一つを上回るほどだったそうです。
やがて織田信長が本能寺の変で亡くなり、その後は豊臣秀吉専属の茶人として居座ります。しかも千利休は3000石と屋敷まで与えられ、茶人として召喚されているとは思えないほどの高待遇でした。
豊臣家内でも色んな方々から頼られて重宝されたこともあり、千利休の存在感は増すばかりで内政にも口出しするようになりました。
現在は国宝指定されておりますが、京都府の大山崎に待庵(たいあん)という千利休の茶室が存在しています。
その茶室は何と畳2帖ほどしかなく、大の男が2人向き合って座れるだけの空間で、そこに入室する時は名高い殿方でも鎧や刀を身から外すことが必須です。
そこを訪ねたり招かれる大名や殿方は合戦の前日が多く、もし命を落としても心残りがないように秘密や懺悔、想いを馳せる者への伝言などを洗いざらい告白する場所となっておりました。
秀吉公の命令によって建てられた茶室ですが、自身だけではなく後継者の古田織部が属する利休七哲、徳川家康や前田慶次郎などの大物も立ち寄ったとのことです。
その他にも信憑性はともかく、とある資料には待庵で千利休と会うために直江兼続・宇喜多秀家・石田三成・島左近・大友宗麟などのビッグネームも待庵の入室者として名が挙がっています。
有名な戦国武将たちが千利休に茶道の弟子として、利休十哲と呼ばれる衆徒になったり、多くの名立たる武将と交流を持つ人格者とされる利休が切腹を命じられたのは何故でしょうか?
秀吉公は利休の腕と才能を誰よりも熟知していたからこそ領地や石高まで与えたはずです。だからこそ周りからすればショックだったでしょうし、いくら天下人でも単なる気まぐれや感情で処罰されるべき人物ではありません。
それに秀吉公と匹敵する実力を持つ徳川家康や、秀吉公が本音を話せる数少ない親友の前田利家まで、千利休の処刑については異議を唱え引き止めました。もし納得のできない理由であれば千利休を引き取る力量も彼らは持ち合わせています。
千利休には容姿端麗な娘がいて秀吉公は側室を申し入れたが利休が断ったからとか、茶器のセンスが合わないし命令に背くとか、秀吉公を毒殺しようとしてバレたからだとか色々と諸説あります。
しかし毒殺の証拠もなく、その他の理由も切腹させるには至らない内容ばかりです。ましてや、そんな理由なら天下人たる者が世間の笑い者になり威厳も失いますし、茶人に切腹など気が触れたのか?と思う者も多く現れるでしょう。
ただ利休に切腹を命じる少し前に秀吉公は最愛の弟・秀長公を亡くしたばかりです。このことは利休に切腹という命を下した要因の一つになっているでしょう。
その弟の秀長公ですが「公儀は私で構いませんが、内々のことは利休殿に」と各大名に告げておりました。そのことは秀吉公も知っています。秀長公は大和国・和泉国・河内国の計110万石という所領を持つ大大名でした。石高だけでしたら上杉家や毛利家と互角という規模を誇ります。
そこで、いつも妙に先回りして秀吉公にチクる石田三成が爆弾を抱えて秀吉公の耳に投下しました。それは「利休がキリシタンや伴天連と内通しており日本国内の最大勢力になる計画を企てている」という報せです。
数年前に秀吉公は九州平定の際、キリスト教徒以外の者が奴隷として連行されていることを知り、長崎のイエズス会とキリスト教に対して伴天連追放令と南蛮貿易の禁止を発令しました。
伴天連とはポルトガル語で神父を意味します。
実のところ千利休は日本で再婚した妻以外に愛人も数名いました。それから外国にも妻子がいて毎月仕送りしていたようです。これらは現在も大阪の堺にあった会合衆の現代バージョン衆に属する知人の先祖が、千利休の側近で先祖代々に渡って言い伝えられている話だと聞きました。
堺の百舌鳥あたりで商売をされている方ですが、一つ余談として千利休は身長182cmほどあり色男だったそうで、外国の女性と堺の寺院を散歩する姿を当時の人の多くが目撃しているとのことです。私は坊主めくりのハズレというイメージが強いのでピンときませんね。
本題に戻りますが、情報を聞いた秀吉は即座に利休を呼び出し問い詰めます。最初は知らぬフリをしていた利休ですが、秀吉公が便箋を手にしていることに気付き黙秘したそうです。便箋の中にある手記には、利休十哲の各武将の領地や石高、その他の弟子たちに関する情報や豊臣家の内情について記されていました。
残念ながら近年に置き換えると『国家反逆罪』が成立しますし、これまでも情報は行き来していたと捉えられても否定できません。そこで今の茶会メンバーは全て解散して、堺に戻り完全に隠居するなら良きに計らうと秀吉公は言いました。最善の処置だと思います。
そうです…考えてみれば千利休はクリスチャンですし、一番弟子の古田織部や利休十哲の武将である蒲生氏郷・高山右近・牧村利貞もクリスチャンです。
しかし黙秘を続けていた利休は間髪入れず『それでしたら和泉国は私が責任を持って取り仕切りましょうか?』と告げたのです。
誰よりも場の空気を読む達人の千利休らしからぬ焦りのような発言…いつもなら『頑固じじぃめ』と笑って終わりだったかも知れませんが、その一言で秀吉公は完全にブチ切れて堺に蟄居を命じたのでした。
それから間もなく京都に呼び出され千利休は切腹を命じられるのです。
さすがの徳川家康と前田利家も、それを知ってしまった以上…秀吉公の決断を抑制したり利休の助命を嘆願するエビデンスなど見つかるはずがありません。
そして利休の弟子で大名の細川忠興や後継者となる古田織部など多くの弟子たちが、豊臣の処罰に対して納得できぬまま利休の切腹は履行されたのです。
享年70歳でした。
千利休が秀吉公に切腹を命じられた本当の理由は以上となります。当たり前ですけど、この話は如何なる資料にも遺されていないでしょう。
おしまいに秀吉公は利休の切腹後しばらくのあいだ側室たちに「俺は利休に謝ってほしかっただけやのに…」とブツブツ言ってたそうです。
将来の日本人たちに歴史を伝える状況化にあって、それなりの立場である方が書記して遺された史実と一つしかない真実のどちらを貴方は受け入れますか?
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それでは、またお会いしましょう。
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タグ:利休十哲
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