木幡神社(きばたじんじゃ)は、栃木県矢板市木幡1194にある神社。
祭神
正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊
由緒
坂上田村麻呂が、蝦夷征伐において戦功があったため、日ごろ崇敬していた山城国の許波多神社を勧請し、建立された。延暦14年(795年)のこととされる。別の説では、塩谷惟広が勧請したとされ、以来塩谷氏の氏神として崇敬された。
祭礼行事
厄除け大祭(どんと焼き・太々神楽) - 毎年1月14日
春季例大祭(太々神楽) - 毎年4月第2日曜日
秋季例大祭(百物揃武者行列渡御)- 毎年10月第2日曜日。100人超の武者行列が練り歩く。
文化財
矢板市の文化財の宝庫である。
重要文化財
本殿 - 室町時代中期(1393年-1466年)の建立。三間社流造、銅板葺。昭和25年(1950年)8月29日指定。
楼門 - 室町時代中期(1393年-1466年)の建立。一間一戸楼門、入母屋造、銅板葺。明治41年(1908年)8月1日指定。
以上の2点は、栃木県最古の神社建築である。
所在地 栃木県矢板市木幡1194
位置 北緯36度47分25.8秒 東経139度55分58.7秒
主祭神 正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊
本殿の様式 三間社流造
例祭 春季例大祭(太々神楽)
毎年4月第2日曜日
秋季例大祭(百物揃武者行列渡御)
毎年10月第2日曜日
2024年08月18日
2024年08月16日
丈六寺(じょうろくじ)は徳島県徳島市丈六町丈領に所在する曹洞宗の寺院
丈六寺(じょうろくじ)は徳島県徳島市丈六町丈領に所在する曹洞宗の寺院。正式には瑞麟山 慈雲院 丈六寺という。
本尊は釈迦如来(本堂)と聖観世音菩薩(観音堂)。寺号は丈六仏[2]の観音像を安置することに由来する。
徳島県内の寺院の中では文化財が多く阿波の法隆寺とも呼ばれる。阿波秩父観音霊場第24番札所。
歴史
寺伝によれば、寺の歴史は白雉元年(650年)に関東地方よりたどり着いた尼僧が、この地に庵を構えたことに始まると伝えられている。室町時代中期の長享・延徳年間頃(1487年〜1491年)、阿波国・三河国・讃岐国の守護大名・細川成之が金岡用兼を招聘し宗派を曹洞宗に改めて中興開山し、伽藍を整備した。
江戸時代になると、徳島藩蜂須賀家歴代藩主が庇護し寺院を整備した。
境内には細川成之・持隆・真之の墓がある。また、蜂須賀家重臣の墓も多く、家老の稲田家・山田家、中老の里見家・生駒家、奉行等の墓も見られる。
文化財
重要文化財
三門:建築年代は不詳だが室町時代末期とされている。徳島県下最古の建造物である。三間三戸二階二重門、入母屋造、本瓦葺、東面。昭和32年(1957年)解体修理された。昭和28年(1953年)3月31日指定。
本堂:入母屋造単層、本瓦葺き。寛永6年(1629年)、蜂須賀家政が娘・辰姫(戸田忠光の妻)供養のために方丈を再建し寄進した。明治時代に本尊として釈迦如来を安置したため本堂と呼ばれるようになった。昭和28年(1953年)3月31日指定。
観音堂:普門閣とも呼ばれる。寄棟造二重仏堂(上層・下層の2つの屋根をもつ仏堂)。戦国時代の永禄10年(1567年)、細川真之により建立された。現存する建物は江戸時代初期の慶安元年(1648年)の建立で、昭和32年(1957年)に解体修理された。昭和28年(1953年)3月31日指定。
経蔵 附棟札5枚:永禄10年(1567年)、細川真之により僧堂(座禅堂)として建立された。現存する建物は寛永21年(1644年)の再建で、江戸時代中期の享保12年(1727年)に経蔵に改められた。中には八角の輪蔵が安置され、径山版大蔵経が納められている。平成10年(1998年)12月25日指定。
木造聖観音坐像:平安時代末期の作とされる。定朝様式の仏像で、像高3.1m。曹洞宗改宗以前からのこの寺院の本尊である。修理時に発見された胎内仏は寺内宝物館に安置されている。明治44年(1911年)8月9日指定。
絹本著色細川成之像:縦74cm、横31.1cm、室町中期の作。昭和42年(1967年)6月15日指定。
アクセス
境内への入山は志納金300円をセルフで求めている。
JR徳島駅より徳島バス『八多』・『五滝』・『大久保』行きで約30分・丈六北バス停下車、徒歩5分。
JR徳島駅より徳島バス『丈六寺南』行きで約30分・丈六寺南バス停下車、徒歩3分。
所在地 〒771-4262 徳島県徳島市丈六町丈領32
位置 北緯34度0分18.8秒 東経134度33分3.4秒
山号 瑞麟山
院号 慈雲院
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦如来(本堂)、聖観音(観音堂)
創建年 伝・白雉元年(650年)
中興年 長享・延徳年間頃(1487年 - 1491年)
中興 細川成之、金岡用兼(開山)
正式名 瑞麟山 慈雲院 丈六寺
別称 阿波の法隆寺
札所等 阿波秩父観音霊場24番
文化財 三門・本堂・聖観世音菩薩坐像ほか(重要文化財)
書院・徳雲
本尊は釈迦如来(本堂)と聖観世音菩薩(観音堂)。寺号は丈六仏[2]の観音像を安置することに由来する。
徳島県内の寺院の中では文化財が多く阿波の法隆寺とも呼ばれる。阿波秩父観音霊場第24番札所。
歴史
寺伝によれば、寺の歴史は白雉元年(650年)に関東地方よりたどり着いた尼僧が、この地に庵を構えたことに始まると伝えられている。室町時代中期の長享・延徳年間頃(1487年〜1491年)、阿波国・三河国・讃岐国の守護大名・細川成之が金岡用兼を招聘し宗派を曹洞宗に改めて中興開山し、伽藍を整備した。
江戸時代になると、徳島藩蜂須賀家歴代藩主が庇護し寺院を整備した。
境内には細川成之・持隆・真之の墓がある。また、蜂須賀家重臣の墓も多く、家老の稲田家・山田家、中老の里見家・生駒家、奉行等の墓も見られる。
文化財
重要文化財
三門:建築年代は不詳だが室町時代末期とされている。徳島県下最古の建造物である。三間三戸二階二重門、入母屋造、本瓦葺、東面。昭和32年(1957年)解体修理された。昭和28年(1953年)3月31日指定。
本堂:入母屋造単層、本瓦葺き。寛永6年(1629年)、蜂須賀家政が娘・辰姫(戸田忠光の妻)供養のために方丈を再建し寄進した。明治時代に本尊として釈迦如来を安置したため本堂と呼ばれるようになった。昭和28年(1953年)3月31日指定。
観音堂:普門閣とも呼ばれる。寄棟造二重仏堂(上層・下層の2つの屋根をもつ仏堂)。戦国時代の永禄10年(1567年)、細川真之により建立された。現存する建物は江戸時代初期の慶安元年(1648年)の建立で、昭和32年(1957年)に解体修理された。昭和28年(1953年)3月31日指定。
経蔵 附棟札5枚:永禄10年(1567年)、細川真之により僧堂(座禅堂)として建立された。現存する建物は寛永21年(1644年)の再建で、江戸時代中期の享保12年(1727年)に経蔵に改められた。中には八角の輪蔵が安置され、径山版大蔵経が納められている。平成10年(1998年)12月25日指定。
木造聖観音坐像:平安時代末期の作とされる。定朝様式の仏像で、像高3.1m。曹洞宗改宗以前からのこの寺院の本尊である。修理時に発見された胎内仏は寺内宝物館に安置されている。明治44年(1911年)8月9日指定。
絹本著色細川成之像:縦74cm、横31.1cm、室町中期の作。昭和42年(1967年)6月15日指定。
アクセス
境内への入山は志納金300円をセルフで求めている。
JR徳島駅より徳島バス『八多』・『五滝』・『大久保』行きで約30分・丈六北バス停下車、徒歩5分。
JR徳島駅より徳島バス『丈六寺南』行きで約30分・丈六寺南バス停下車、徒歩3分。
所在地 〒771-4262 徳島県徳島市丈六町丈領32
位置 北緯34度0分18.8秒 東経134度33分3.4秒
山号 瑞麟山
院号 慈雲院
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦如来(本堂)、聖観音(観音堂)
創建年 伝・白雉元年(650年)
中興年 長享・延徳年間頃(1487年 - 1491年)
中興 細川成之、金岡用兼(開山)
正式名 瑞麟山 慈雲院 丈六寺
別称 阿波の法隆寺
札所等 阿波秩父観音霊場24番
文化財 三門・本堂・聖観世音菩薩坐像ほか(重要文化財)
書院・徳雲
2024年08月15日
池上本門寺(いけがみほんもんじ)は、東京都大田区池上にある日蓮宗の大本山
池上本門寺(いけがみほんもんじ)は、東京都大田区池上にある日蓮宗の大本山。
寺格は大本山、山号を長栄山、院号を大国院、寺号を本門寺とし、古くより池上本門寺と呼ばれてきた。また日蓮入滅の霊場として日蓮宗の十四霊蹟寺院のひとつとされ、七大本山のひとつにも挙げられている。
歴史
弘安5年(1282年)9月8日、病身の日蓮は身延山を出て、湯治のために常陸(茨城県)へ向かう。9月18日に武蔵国池上郷(東京都大田区池上)の池上宗仲の館に到着。生涯最後の20数日間を過ごすこととなる。同年同月に、池上氏館の背後の山上に建立された一宇を日蓮が開堂供養し、長栄山本門寺と命名したのが池上本門寺の起源という。
同年10月13日に日蓮が没すると、池上宗仲は法華経の字数(69,384)に合わせて六万九千三八四坪を寺領として寄進し寺院の基礎が築かれ、以来「池上本門寺」と呼びならわされている。その後は日蓮の弟子・日朗が本門寺を継承した。
池上氏館の居館部分は本門寺西側の谷の一帯にあったと考えられており、現在は、1276年(建治2年)建立された池上氏館内の持仏堂(法華堂)を起源とする本門寺の子院・大坊本行寺の境内となっている。本門寺は、鎌倉・室町時代を通じて関東武士の庇護を受け、近世に入ってからも加藤清正や紀伊徳川家等諸侯の祈願寺となり栄えた。
江戸時代、不受不施派を奉ずる本門寺は、身池対論を経て久遠寺の傘下に収まった。第二次世界大戦の空襲によって五重塔、総門、経蔵、宝塔を除く堂宇を焼失したが、戦後順次復興した。
本殿
本殿とは、本師(釈尊)のおわします殿堂との意味。1969年(昭和44年)に、戦災で焼失した釈迦堂を再建したもの。戦後に建てられた近代仏堂建築として評価が高い。旧釈迦堂は旧大堂(祖師堂)に隣接して建っていたが、再建にあたっては公道を隔てた大堂後方の北側へ移された。本尊の釈迦如来像の胎内には、インドのネルー首相が寄贈した釈迦の舎利骨が納められている。他に、四菩薩立像(上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩)を安置する。釈迦如来像の後方に位牌堂が併設されており、永代供養の位牌が安置されている。
交通アクセス
東急池上線 池上駅から徒歩10分。
お会式の万灯練り供養が行われる10月12日は夕方から増発運行される。
都営地下鉄浅草線 西馬込駅南口から徒歩15分。
JR京浜東北線大森駅または蒲田駅より東急バス 本門寺前バス停から徒歩10分。
JR東海道線川崎駅または山手線五反田駅より東急バス 本門寺裏バス停から徒歩10分。
所在地 東京都大田区池上一丁目1番1号
位置 北緯35度34分44秒 東経139度42分18.6秒
山号 長栄山
院号 大国院
宗派 日蓮宗
寺格 大本山
本尊 三宝尊
創建年 1282年(弘安5年)
開山 日蓮
開基 池上宗仲
正式名 長栄山大国院本門寺
札所等 日蓮聖人霊跡
東国花の寺百ヶ寺東京4番
京浜四大本山
文化財 木造日蓮聖人坐像(重要文化財)ほか
寺格は大本山、山号を長栄山、院号を大国院、寺号を本門寺とし、古くより池上本門寺と呼ばれてきた。また日蓮入滅の霊場として日蓮宗の十四霊蹟寺院のひとつとされ、七大本山のひとつにも挙げられている。
歴史
弘安5年(1282年)9月8日、病身の日蓮は身延山を出て、湯治のために常陸(茨城県)へ向かう。9月18日に武蔵国池上郷(東京都大田区池上)の池上宗仲の館に到着。生涯最後の20数日間を過ごすこととなる。同年同月に、池上氏館の背後の山上に建立された一宇を日蓮が開堂供養し、長栄山本門寺と命名したのが池上本門寺の起源という。
同年10月13日に日蓮が没すると、池上宗仲は法華経の字数(69,384)に合わせて六万九千三八四坪を寺領として寄進し寺院の基礎が築かれ、以来「池上本門寺」と呼びならわされている。その後は日蓮の弟子・日朗が本門寺を継承した。
池上氏館の居館部分は本門寺西側の谷の一帯にあったと考えられており、現在は、1276年(建治2年)建立された池上氏館内の持仏堂(法華堂)を起源とする本門寺の子院・大坊本行寺の境内となっている。本門寺は、鎌倉・室町時代を通じて関東武士の庇護を受け、近世に入ってからも加藤清正や紀伊徳川家等諸侯の祈願寺となり栄えた。
江戸時代、不受不施派を奉ずる本門寺は、身池対論を経て久遠寺の傘下に収まった。第二次世界大戦の空襲によって五重塔、総門、経蔵、宝塔を除く堂宇を焼失したが、戦後順次復興した。
本殿
本殿とは、本師(釈尊)のおわします殿堂との意味。1969年(昭和44年)に、戦災で焼失した釈迦堂を再建したもの。戦後に建てられた近代仏堂建築として評価が高い。旧釈迦堂は旧大堂(祖師堂)に隣接して建っていたが、再建にあたっては公道を隔てた大堂後方の北側へ移された。本尊の釈迦如来像の胎内には、インドのネルー首相が寄贈した釈迦の舎利骨が納められている。他に、四菩薩立像(上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩)を安置する。釈迦如来像の後方に位牌堂が併設されており、永代供養の位牌が安置されている。
交通アクセス
東急池上線 池上駅から徒歩10分。
お会式の万灯練り供養が行われる10月12日は夕方から増発運行される。
都営地下鉄浅草線 西馬込駅南口から徒歩15分。
JR京浜東北線大森駅または蒲田駅より東急バス 本門寺前バス停から徒歩10分。
JR東海道線川崎駅または山手線五反田駅より東急バス 本門寺裏バス停から徒歩10分。
所在地 東京都大田区池上一丁目1番1号
位置 北緯35度34分44秒 東経139度42分18.6秒
山号 長栄山
院号 大国院
宗派 日蓮宗
寺格 大本山
本尊 三宝尊
創建年 1282年(弘安5年)
開山 日蓮
開基 池上宗仲
正式名 長栄山大国院本門寺
札所等 日蓮聖人霊跡
東国花の寺百ヶ寺東京4番
京浜四大本山
文化財 木造日蓮聖人坐像(重要文化財)ほか
2024年08月14日
旧吉田家住宅(きゅうよしだけじゅうたく)は、千葉県柏市花野井にある歴史的建造物
旧吉田家住宅(きゅうよしだけじゅうたく)は、千葉県柏市花野井にある歴史的建造物。主屋など8棟が2010年(平成22年)12月24日に国の重要文化財に指定された[1]。代々農業を営みながら名主の役をつとめ、穀物商を営むなどして在郷商人として成長後、醤油醸造業を営んでいた吉田家の邸宅。茅葺き屋根が特徴の主屋は嘉永7年(1854年)建築。
概要
敷地南端に長屋門を開き、その東に道具蔵、西に向蔵がある。主屋は敷地やや北寄りに建ち、その東に書院、北裏に新座敷を別棟で建てる。このほか、長屋門・主屋間の前庭の東寄りに新蔵、主屋の西北裏手に味噌蔵が建つ。主屋の西側手前には西門があり、敷地西側の吉田家新宅(醤油工場跡)へ通じる。吉田家は名主を務めるとともに、小金牧の管理をする役職である牧士(もくし)に任じられた家柄であった。この住宅は、書院と新座敷を主屋とは別棟で建てており、座敷部の発達している点に特色がある。蔵などの付属建物群や庭園、屋敷林を含め、江戸時代末期の豪農の屋敷構えを良好に保存している点で価値が高い。
主屋は桁行20.4メートル、梁間10.1メートルで、寄棟造、茅葺とする。平面は西半を土間、東半を床上部とする。床上部は手前の下手を「ミセ」、上手を「ゲンカン」とし、奥は下手を「ダイドコロ」、上手を「ナンド」とする。「ゲンカン」と「ナンド」の間には「仏間」を設け、「ゲンカン」の正面には式台を設ける。主屋は嘉永7年(1854年)の建立だが、土間の西に突出する「釜屋」は元治元年(1864年)に、「ミセ」前に突出する「帳場座敷」は明治前期に、それぞれ増築された。
書院は主屋と同年の建築で、寄棟造、桟瓦葺き。西に「前座敷」、東に「奥座敷」を設ける。書院の北に突出する「小座敷」は明治14年(1881年)の増築である。
新座敷は慶応元年(1865年)の建築で、寄棟造、桟瓦葺き。それぞれ2室続きの座敷が2組(それぞれ新座敷、奥座敷と称する)あり、これらの中間に位置する「合の間」を含む5室を矩折れ(L字形)に配置する。
長屋門は天保2年(1831年)の建築で、寄棟造、桟瓦葺き。平面規模は桁行25メートル、梁間5メートルである。
文化財
重要文化財(国指定)
吉田家住宅 8棟
主屋 - 嘉永7年(1854年)
書院 - 嘉永7年(1854年)
新座敷 - 慶応元年(1865年)
長屋門 - 天保2年(1831年)
向蔵 - 天保4年(1833年)
新蔵 - 天保4年(1833年)
道具蔵 - 慶応3年(1867年)
西門 - 安政3年(1856年)
(以下は附(つけたり)指定)
味噌蔵
普請関係文書3冊
家相図1枚
登録記念物(国登録)
旧吉田氏庭園
施設情報
公開日: 12月29日から1月3日まで休館、毎週月曜日休(祝日の場合は翌日)
時 間 : 午前9時30分〜午後4時30分
入場料: 大人 210円 高齢者110円 大学生以下・障害者 無料
20名以上は団体割引 大人 170円 高齢者90円
交 通 : TX柏たなか駅から東武バス、JR柏駅から東武バス、JR北柏駅から東武バス
所在地 千葉県柏市花野井974-1
位置 北緯35度53分46.6秒 東経139度58分26.8秒
建築年 嘉永7年(1854年)
文化財 国の重要文化財
概要
敷地南端に長屋門を開き、その東に道具蔵、西に向蔵がある。主屋は敷地やや北寄りに建ち、その東に書院、北裏に新座敷を別棟で建てる。このほか、長屋門・主屋間の前庭の東寄りに新蔵、主屋の西北裏手に味噌蔵が建つ。主屋の西側手前には西門があり、敷地西側の吉田家新宅(醤油工場跡)へ通じる。吉田家は名主を務めるとともに、小金牧の管理をする役職である牧士(もくし)に任じられた家柄であった。この住宅は、書院と新座敷を主屋とは別棟で建てており、座敷部の発達している点に特色がある。蔵などの付属建物群や庭園、屋敷林を含め、江戸時代末期の豪農の屋敷構えを良好に保存している点で価値が高い。
主屋は桁行20.4メートル、梁間10.1メートルで、寄棟造、茅葺とする。平面は西半を土間、東半を床上部とする。床上部は手前の下手を「ミセ」、上手を「ゲンカン」とし、奥は下手を「ダイドコロ」、上手を「ナンド」とする。「ゲンカン」と「ナンド」の間には「仏間」を設け、「ゲンカン」の正面には式台を設ける。主屋は嘉永7年(1854年)の建立だが、土間の西に突出する「釜屋」は元治元年(1864年)に、「ミセ」前に突出する「帳場座敷」は明治前期に、それぞれ増築された。
書院は主屋と同年の建築で、寄棟造、桟瓦葺き。西に「前座敷」、東に「奥座敷」を設ける。書院の北に突出する「小座敷」は明治14年(1881年)の増築である。
新座敷は慶応元年(1865年)の建築で、寄棟造、桟瓦葺き。それぞれ2室続きの座敷が2組(それぞれ新座敷、奥座敷と称する)あり、これらの中間に位置する「合の間」を含む5室を矩折れ(L字形)に配置する。
長屋門は天保2年(1831年)の建築で、寄棟造、桟瓦葺き。平面規模は桁行25メートル、梁間5メートルである。
文化財
重要文化財(国指定)
吉田家住宅 8棟
主屋 - 嘉永7年(1854年)
書院 - 嘉永7年(1854年)
新座敷 - 慶応元年(1865年)
長屋門 - 天保2年(1831年)
向蔵 - 天保4年(1833年)
新蔵 - 天保4年(1833年)
道具蔵 - 慶応3年(1867年)
西門 - 安政3年(1856年)
(以下は附(つけたり)指定)
味噌蔵
普請関係文書3冊
家相図1枚
登録記念物(国登録)
旧吉田氏庭園
施設情報
公開日: 12月29日から1月3日まで休館、毎週月曜日休(祝日の場合は翌日)
時 間 : 午前9時30分〜午後4時30分
入場料: 大人 210円 高齢者110円 大学生以下・障害者 無料
20名以上は団体割引 大人 170円 高齢者90円
交 通 : TX柏たなか駅から東武バス、JR柏駅から東武バス、JR北柏駅から東武バス
所在地 千葉県柏市花野井974-1
位置 北緯35度53分46.6秒 東経139度58分26.8秒
建築年 嘉永7年(1854年)
文化財 国の重要文化財
2024年08月13日
玉作湯神社(たまつくりゆじんじゃ、玉造湯神社)は、島根県松江市玉湯町玉造にある神社
玉作湯神社(たまつくりゆじんじゃ、玉造湯神社)は、島根県松江市玉湯町玉造にある神社。式内社で、旧社格は県社。神紋は「二重亀甲に丸玉管玉勾玉」。
祭神
祭神は次の4柱。
櫛明玉神 (櫛明玉命、くしあかるたまのみこと)
大名持神
少彦名神
五十猛神
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳での祭神の記載は「玉作湯神社」が1座、「同社坐韓国伊太氐(からくにいたて)神社」が1座の計2座。それぞれ『出雲国風土記』(天平5年(733年)成立か)に見える「玉作湯社」と「由宇社」に比定される。
境内
一の鳥居 - 扁額は、第25代・第28代内閣総理大臣・若槻禮次郎による揮毫。
二の鳥居
社務所
出雲玉作跡出土品収蔵庫 - 参道石段脇にあり、1960年(昭和35年)に建てられた古代家形埴輪を模した収蔵庫で、約700点の古代玉作りに関する資料が収蔵され、そのうち、玉類及同未成品 184箇、砥石残闕共 162箇などが国の重要文化財に指定されている。
拝殿・本殿 - 本殿は安政4年(1857年)の再建によるもので、大社造を変形した様式になる。
御神水・願い石 - 社務所で叶い石を拝受し、御神水を願い石と叶い石にかけ、叶い石で願い石に、そっと触れながら願い事を3回祈念し、社務所に戻り願い札に願いを書き、複写の1枚を札入れへ入れ、もう1枚を叶い石とともに、お守り袋へ入れると願いが叶うとされる。
真玉ヶ池
摂末社 - 後述
玉造要害山城 - 境内背後の丘陵に築かれた山城跡。土塁、空堀、井戸跡などが良好に残る。
文化財
重要文化財(国指定)
出雲国玉作阯出土品 一括(考古資料) - 昭和14年5月27日に指定、昭和33年2月8日に追加指定・名称変更・員数変更。
玉類及同未成品 184箇
砥石残闕共 162箇
硝子塊 11箇
坩堝残片等 一括
これらの出土品は境内にある収蔵庫に保管されている。
国の史跡
玉作湯神社境内は、国の史跡「出雲玉作跡」の一角(宮ノ上地区)として史跡に指定されている。大正11年10月12日指定。
交通アクセス
西日本旅客鉄道(JR西日本)玉造温泉駅から
バス:一畑バス(玉造温泉行き)で「玉造温泉」バス停下車
所在地 島根県松江市玉湯町玉造508
位置 北緯35度24分49.26秒 東経133度0分42.35秒
主祭神 櫛明玉神
大名持神
少彦名神
五十猛神(配祀神)
社格等 式内社(小)
旧県社
創建 不詳
本殿の様式 大社造
例祭 10月10日
祭神
祭神は次の4柱。
櫛明玉神 (櫛明玉命、くしあかるたまのみこと)
大名持神
少彦名神
五十猛神
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳での祭神の記載は「玉作湯神社」が1座、「同社坐韓国伊太氐(からくにいたて)神社」が1座の計2座。それぞれ『出雲国風土記』(天平5年(733年)成立か)に見える「玉作湯社」と「由宇社」に比定される。
境内
一の鳥居 - 扁額は、第25代・第28代内閣総理大臣・若槻禮次郎による揮毫。
二の鳥居
社務所
出雲玉作跡出土品収蔵庫 - 参道石段脇にあり、1960年(昭和35年)に建てられた古代家形埴輪を模した収蔵庫で、約700点の古代玉作りに関する資料が収蔵され、そのうち、玉類及同未成品 184箇、砥石残闕共 162箇などが国の重要文化財に指定されている。
拝殿・本殿 - 本殿は安政4年(1857年)の再建によるもので、大社造を変形した様式になる。
御神水・願い石 - 社務所で叶い石を拝受し、御神水を願い石と叶い石にかけ、叶い石で願い石に、そっと触れながら願い事を3回祈念し、社務所に戻り願い札に願いを書き、複写の1枚を札入れへ入れ、もう1枚を叶い石とともに、お守り袋へ入れると願いが叶うとされる。
真玉ヶ池
摂末社 - 後述
玉造要害山城 - 境内背後の丘陵に築かれた山城跡。土塁、空堀、井戸跡などが良好に残る。
文化財
重要文化財(国指定)
出雲国玉作阯出土品 一括(考古資料) - 昭和14年5月27日に指定、昭和33年2月8日に追加指定・名称変更・員数変更。
玉類及同未成品 184箇
砥石残闕共 162箇
硝子塊 11箇
坩堝残片等 一括
これらの出土品は境内にある収蔵庫に保管されている。
国の史跡
玉作湯神社境内は、国の史跡「出雲玉作跡」の一角(宮ノ上地区)として史跡に指定されている。大正11年10月12日指定。
交通アクセス
西日本旅客鉄道(JR西日本)玉造温泉駅から
バス:一畑バス(玉造温泉行き)で「玉造温泉」バス停下車
所在地 島根県松江市玉湯町玉造508
位置 北緯35度24分49.26秒 東経133度0分42.35秒
主祭神 櫛明玉神
大名持神
少彦名神
五十猛神(配祀神)
社格等 式内社(小)
旧県社
創建 不詳
本殿の様式 大社造
例祭 10月10日
2024年08月12日
聖福寺(しょうふくじ)は長崎県長崎市にある黄檗宗の仏教寺院
聖福寺(しょうふくじ)は長崎県長崎市にある黄檗宗の仏教寺院。山号は万寿山(まんじゅさん)。
概要
日本に黄檗宗を伝えた隠元の孫弟子に当たる鉄心道胖を開山として、長崎奉行の後援や在崎唐人、鉄心の母の実家である地元豪商西村氏などの出資を得て1677年(延宝5年)に建立された。創建時に既にあった長崎三福寺とよばれる唐寺3ヶ寺の目付寺といわれるが、後代には三福寺に当寺を合わせて「長崎四福寺」あるいは「長崎四ヶ寺」とも並び称された。堂宇の様式は他の黄檗宗寺院と同系で朱塗りを特徴としているがより和風建築に近いものとなっている。俗に広東寺ともいう。
慶応3年(1867年)のいろは丸事件では紀州藩と土佐藩の談判の舞台となった。
大雄宝殿など境内の建造物は老朽化が進んでおり、修復しなければ倒壊の危険がある状態へと陥っていた。当初は修復費用を捻出できず工事に着手できない状態が続いていたが、2014年9月18日付で長崎県指定有形文化財の建造物4棟(大雄宝殿・天王殿・鐘楼・山門)が国の重要文化財に指定されたことにより、国の補助が得られるようになった。これにより国から最大で85%の工事費の補助を受けられるようになったほか、長崎県や長崎市からの補助もあり、寺側の負担が6%ほどになったことから着工へと至った。工期は10年が予定されている。
文化財
重要文化財(国指定)
大雄宝殿 - 江戸時代中期(1697年)の建立。桁行三間、梁間四間、二重、入母屋造、北面切妻屋根付、本瓦葺、西面及び北面軒下張出し付。平成26年(2014年)9月18日指定。
天王殿 - 江戸時代中期(1705年)の建立。桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、本瓦葺。平成26年(2014年)9月18日指定。
鐘楼 - 江戸時代中期(1716年)の建立。桁行三間、梁間三間、二重、入母屋造、本瓦葺。平成26年(2014年)9月18日指定。
山門 - 江戸時代中期(1703年)の建立。桁行三間、梁間二間、一重、切妻造段違、本瓦葺。平成26年(2014年)9月18日指定。
アクセス
長崎電気軌道桜町電停下車、徒歩4分。
所在地 長崎県長崎市玉園町3-77
位置 北緯32度45分10.97秒 東経129度52分37.47秒
山号 万寿山
宗旨 黄檗宗
創建年 1677年
開基 鉄心道胖
正式名 萬壽山聖福禪寺
別称 廣東寺
文化財 大雄宝殿・天王殿・鐘楼・三門(国の重要文化財)
概要
日本に黄檗宗を伝えた隠元の孫弟子に当たる鉄心道胖を開山として、長崎奉行の後援や在崎唐人、鉄心の母の実家である地元豪商西村氏などの出資を得て1677年(延宝5年)に建立された。創建時に既にあった長崎三福寺とよばれる唐寺3ヶ寺の目付寺といわれるが、後代には三福寺に当寺を合わせて「長崎四福寺」あるいは「長崎四ヶ寺」とも並び称された。堂宇の様式は他の黄檗宗寺院と同系で朱塗りを特徴としているがより和風建築に近いものとなっている。俗に広東寺ともいう。
慶応3年(1867年)のいろは丸事件では紀州藩と土佐藩の談判の舞台となった。
大雄宝殿など境内の建造物は老朽化が進んでおり、修復しなければ倒壊の危険がある状態へと陥っていた。当初は修復費用を捻出できず工事に着手できない状態が続いていたが、2014年9月18日付で長崎県指定有形文化財の建造物4棟(大雄宝殿・天王殿・鐘楼・山門)が国の重要文化財に指定されたことにより、国の補助が得られるようになった。これにより国から最大で85%の工事費の補助を受けられるようになったほか、長崎県や長崎市からの補助もあり、寺側の負担が6%ほどになったことから着工へと至った。工期は10年が予定されている。
文化財
重要文化財(国指定)
大雄宝殿 - 江戸時代中期(1697年)の建立。桁行三間、梁間四間、二重、入母屋造、北面切妻屋根付、本瓦葺、西面及び北面軒下張出し付。平成26年(2014年)9月18日指定。
天王殿 - 江戸時代中期(1705年)の建立。桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、本瓦葺。平成26年(2014年)9月18日指定。
鐘楼 - 江戸時代中期(1716年)の建立。桁行三間、梁間三間、二重、入母屋造、本瓦葺。平成26年(2014年)9月18日指定。
山門 - 江戸時代中期(1703年)の建立。桁行三間、梁間二間、一重、切妻造段違、本瓦葺。平成26年(2014年)9月18日指定。
アクセス
長崎電気軌道桜町電停下車、徒歩4分。
所在地 長崎県長崎市玉園町3-77
位置 北緯32度45分10.97秒 東経129度52分37.47秒
山号 万寿山
宗旨 黄檗宗
創建年 1677年
開基 鉄心道胖
正式名 萬壽山聖福禪寺
別称 廣東寺
文化財 大雄宝殿・天王殿・鐘楼・三門(国の重要文化財)
2024年08月10日
興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある法相宗の大本山の寺院
興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある法相宗の大本山の寺院。山号はなし。本尊は中金堂の釈迦如来。南都七大寺の一つ。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
南円堂(本尊・不空羂索観音)は西国三十三所第9番札所、東金堂(本尊・薬師如来)は西国薬師四十九霊場第4番札所、菩提院大御堂(本尊・阿弥陀如来)は大和北部八十八ヶ所霊場第62番
歴史
創建
藤原鎌足夫人の鏡王女が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)に山背国山階(現・京都府京都市山科区)で創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。
和銅3年(710年)の平城京への遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。
その後も、天皇や皇后、また藤原氏によって堂塔が建てられ、伽藍の整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営が国家の手で進められるようになった。天平10年(738年)3月28日には山階寺(興福寺)に食封千戸が朝廷から施入されている。
五重塔
国宝。応永33年(1426年)再建。6代目。本瓦葺の三間五重塔婆である。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(旧国宝(文化財保護法における「重要文化財」に相当))に指定。1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている。創建は天平2年(730年)で、光明皇后の発願によるものである。現存の塔は、応永
中金堂
2018年(平成30年)10月再建。9代目。創建当初の建物は藤原鎌足発願の釈迦三尊像を安置するための、寺の中心的な堂として和銅3年(710年)の平城京遷都直後に造営が始められたと推定される。後に東金堂・西金堂が建てられてからは中金堂と呼ばれるようになった。創建以来たびたび焼失と再建を繰り返したが、江戸時代の享保2年(1717年)の火災による焼失後は1世紀以上再建されず、文政2年(1819年)、町屋の篤志家達の寄付によってようやく再建された。この文政再建の堂は仮堂で、規模も従前の堂より一回り以上小さかったが、1959年(昭和34年)の国宝館の開館までは、高さ5.2メートルの千手観音立像をはじめ、国宝館で現在見られる仏像の多くを堂内に安置していた。また、朱色に塗られていたため「赤堂」として親しまれていた。あくまで仮の堂として建てられたため、長年の使用に不向きである安価な松材が使用され、瓦も安物が使われており、経年による雨漏りは年々ひどくなっていった。そこで、仏像への雨漏り被害を防ぐために1974年(昭和49年)11月23日に中金堂北側の講堂跡地に仮金堂(現・仮講堂)として薬師寺の旧金堂を移築し、本尊の釈迦如来坐像などがそちらに移された。文政再建の仮堂の中金堂は老朽化のため移築再利用も不可能と判断され、一部の再利用できる木材を残して2000年(平成12年)に解体された。その後、中金堂解体後に発掘調査が行われ、創建当初の姿を再現した新・中金堂の建設と境内各所の整備が始められた。創建1,300年となる2010年(平成22年)に中金堂再建工事が着工され、2017年(平成29年)、翌年に中金堂が完成するのを見越し仮金堂内の諸仏を早くも中金堂に移し、2018年(平成30年)10月に9代目となる中金堂が落慶した。
所在地 奈良県奈良市登大路町48
位置 北緯34度40分59.7秒 東経135度49分52.2秒
山号 なし
宗派 法相宗
寺格 大本山
本尊 釈迦如来
創建年 天智天皇8年(669年)
開基 藤原不比等
札所等 西国三十三所第9番(南円堂)
西国薬師四十九霊場第4番(東金堂)
大和北部八十八ヶ所霊場第62番(菩提院)
南都七大寺第2番
神仏霊場巡拝の道第16番(奈良第3番)
文化財 五重塔、木造弥勒仏坐像、乾漆八部衆像ほか(国宝)
南円堂、木造薬王菩薩、薬上菩薩立像ほか(重要文化財)
世界遺産
南円堂(本尊・不空羂索観音)は西国三十三所第9番札所、東金堂(本尊・薬師如来)は西国薬師四十九霊場第4番札所、菩提院大御堂(本尊・阿弥陀如来)は大和北部八十八ヶ所霊場第62番
歴史
創建
藤原鎌足夫人の鏡王女が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)に山背国山階(現・京都府京都市山科区)で創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。
和銅3年(710年)の平城京への遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。
その後も、天皇や皇后、また藤原氏によって堂塔が建てられ、伽藍の整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営が国家の手で進められるようになった。天平10年(738年)3月28日には山階寺(興福寺)に食封千戸が朝廷から施入されている。
五重塔
国宝。応永33年(1426年)再建。6代目。本瓦葺の三間五重塔婆である。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(旧国宝(文化財保護法における「重要文化財」に相当))に指定。1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている。創建は天平2年(730年)で、光明皇后の発願によるものである。現存の塔は、応永
中金堂
2018年(平成30年)10月再建。9代目。創建当初の建物は藤原鎌足発願の釈迦三尊像を安置するための、寺の中心的な堂として和銅3年(710年)の平城京遷都直後に造営が始められたと推定される。後に東金堂・西金堂が建てられてからは中金堂と呼ばれるようになった。創建以来たびたび焼失と再建を繰り返したが、江戸時代の享保2年(1717年)の火災による焼失後は1世紀以上再建されず、文政2年(1819年)、町屋の篤志家達の寄付によってようやく再建された。この文政再建の堂は仮堂で、規模も従前の堂より一回り以上小さかったが、1959年(昭和34年)の国宝館の開館までは、高さ5.2メートルの千手観音立像をはじめ、国宝館で現在見られる仏像の多くを堂内に安置していた。また、朱色に塗られていたため「赤堂」として親しまれていた。あくまで仮の堂として建てられたため、長年の使用に不向きである安価な松材が使用され、瓦も安物が使われており、経年による雨漏りは年々ひどくなっていった。そこで、仏像への雨漏り被害を防ぐために1974年(昭和49年)11月23日に中金堂北側の講堂跡地に仮金堂(現・仮講堂)として薬師寺の旧金堂を移築し、本尊の釈迦如来坐像などがそちらに移された。文政再建の仮堂の中金堂は老朽化のため移築再利用も不可能と判断され、一部の再利用できる木材を残して2000年(平成12年)に解体された。その後、中金堂解体後に発掘調査が行われ、創建当初の姿を再現した新・中金堂の建設と境内各所の整備が始められた。創建1,300年となる2010年(平成22年)に中金堂再建工事が着工され、2017年(平成29年)、翌年に中金堂が完成するのを見越し仮金堂内の諸仏を早くも中金堂に移し、2018年(平成30年)10月に9代目となる中金堂が落慶した。
所在地 奈良県奈良市登大路町48
位置 北緯34度40分59.7秒 東経135度49分52.2秒
山号 なし
宗派 法相宗
寺格 大本山
本尊 釈迦如来
創建年 天智天皇8年(669年)
開基 藤原不比等
札所等 西国三十三所第9番(南円堂)
西国薬師四十九霊場第4番(東金堂)
大和北部八十八ヶ所霊場第62番(菩提院)
南都七大寺第2番
神仏霊場巡拝の道第16番(奈良第3番)
文化財 五重塔、木造弥勒仏坐像、乾漆八部衆像ほか(国宝)
南円堂、木造薬王菩薩、薬上菩薩立像ほか(重要文化財)
世界遺産
2024年08月09日
清見寺(せいけんじ)は、静岡市清水区興津清見寺町[1]にある臨済宗妙心寺派の寺院
清見寺(せいけんじ)は、静岡市清水区興津清見寺町[1]にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は巨鼇山(こごうさん)、正式には「巨鼇山 求王院 清見興国禅寺」(こごうさん ぐおういん せいけんこうこくぜんじ)と称する。
歴史
寺伝では奈良時代の創建と伝える。平安時代は清見関(清見ヶ関)に置かれた比叡山を総本山とする天台宗の寺院であった。
鎌倉時代に禅寺として復興し、足利尊氏や今川義元の帰依を受けて繁栄した。また、その頃、徳川家康は今川氏に人質としてであったが、当寺の住職太原雪斎に師事し、当寺で勉強していた。交通の要衝であり、武田氏による駿河侵攻の際には、今川氏真が本陣を構えたものの、薩埵峠の戦いによる家臣の相次ぐ離反、武田方への内通により戦わずして駿府城に撤退している。
江戸時代には徳川氏の庇護を受けたほか、東海道の目の前にあることから、朝鮮通信使や琉球使の接待がここで行われた。広島県福山市鞆町にある福禅寺、岡山県瀬戸内市牛窓町にある本蓮寺と共に朝鮮通信使遺跡として国の史跡に指定されている。また庭園も国の名勝に指定されている。
また、駿河湾を望む風光明媚な高台にあり、室町時代には雪舟が、明治時代には夏目漱石や高山樗牛、島崎藤村が訪れている。
なお、寺の境内を東海道本線の線路が横切っている。
交通アクセス
JR東海道本線興津駅から徒歩約15分
しずてつジャストライン三保山の手線清見寺前停留所(JR清水駅前停留所から10分弱)から徒歩1分
静清バイパス清見寺インターチェンジより車で3分
所在地 静岡市清水区興津清見寺町418-1
位置 北緯35度2分51.45秒 東経138度30分47.15秒
山号 巨鼇山(こごうさん)
院号 求王院
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 釈迦如来
創建年 (伝)白雉年間(650年 – 654年)
中興年 弘長2年(1262年)
中興 関聖、円爾(勧進中興)
正式名 巨鼇山求王院清見興國禪寺
文化財 宋版石林先生尚書伝(重要文化財)
朝鮮通信使遺跡清見寺境内(国の史跡)
庭園(国の名勝)
歴史
寺伝では奈良時代の創建と伝える。平安時代は清見関(清見ヶ関)に置かれた比叡山を総本山とする天台宗の寺院であった。
鎌倉時代に禅寺として復興し、足利尊氏や今川義元の帰依を受けて繁栄した。また、その頃、徳川家康は今川氏に人質としてであったが、当寺の住職太原雪斎に師事し、当寺で勉強していた。交通の要衝であり、武田氏による駿河侵攻の際には、今川氏真が本陣を構えたものの、薩埵峠の戦いによる家臣の相次ぐ離反、武田方への内通により戦わずして駿府城に撤退している。
江戸時代には徳川氏の庇護を受けたほか、東海道の目の前にあることから、朝鮮通信使や琉球使の接待がここで行われた。広島県福山市鞆町にある福禅寺、岡山県瀬戸内市牛窓町にある本蓮寺と共に朝鮮通信使遺跡として国の史跡に指定されている。また庭園も国の名勝に指定されている。
また、駿河湾を望む風光明媚な高台にあり、室町時代には雪舟が、明治時代には夏目漱石や高山樗牛、島崎藤村が訪れている。
なお、寺の境内を東海道本線の線路が横切っている。
交通アクセス
JR東海道本線興津駅から徒歩約15分
しずてつジャストライン三保山の手線清見寺前停留所(JR清水駅前停留所から10分弱)から徒歩1分
静清バイパス清見寺インターチェンジより車で3分
所在地 静岡市清水区興津清見寺町418-1
位置 北緯35度2分51.45秒 東経138度30分47.15秒
山号 巨鼇山(こごうさん)
院号 求王院
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 釈迦如来
創建年 (伝)白雉年間(650年 – 654年)
中興年 弘長2年(1262年)
中興 関聖、円爾(勧進中興)
正式名 巨鼇山求王院清見興國禪寺
文化財 宋版石林先生尚書伝(重要文化財)
朝鮮通信使遺跡清見寺境内(国の史跡)
庭園(国の名勝)
2024年08月08日
苗村神社(なむらじんじゃ)は、滋賀県蒲生郡竜王町にある神社
苗村神社(なむらじんじゃ)は、滋賀県蒲生郡竜王町にある神社。延喜式神名帳に長寸(なむら)神社として列座された格式高い式内社。旧社格は県社。近郷の33ヶ村にわたって氏子を有する総社。
歴史
くわしい創祀は不詳であるが、社伝によれば垂仁天皇の時代に祖霊信仰により始まった神社とされる。東苗村古墳群の地に地名の那牟羅と同音の長寸(長は最高位、寸は村の古字)と呼ばれる社、現在の東本殿が建立された。
平安時代、延喜式神名帳に記載されて式内社に列せられる。
安和2年(969年)3月28日、大和国芳野金峯山の国狭槌命の御神霊が神域の西方に鎮座し、この際、新たな社殿が造営された。この社はこれまでの本殿(東本殿)に対し西本殿と呼ばれる。
寛仁元年(1017年)正月、朝廷に門松用の松苗を献上して以来、年々の吉例となったことから、後一条天皇から苗村の称号を賜り、苗村と呼ぶようになった。
天文5年(1536年)3月2日、後奈良天皇から「正一位」の神位を授かる。同年4月9日には勅使中御門宗藤・山科言継により、神位記が奉納される。次いで同年5月9日、「正一位苗村大明神」の勅額を下賜される。
天正年間(1573年 - 1593年)には、織田信長が馬鞍一具、太刀七振りを寄進している。
1881年(明治14年)郷社に、1920年(大正9年)に県社に昇格している。
滋賀県 苗村神社西本殿(国宝)
祭神
主祭神 - 那牟羅彦神(なむらひこがみ)・那牟羅姫神(なむらひめがみ)・国狭槌尊(くにのさづちのみこと)。西本殿の祭神。
相殿神 - 大国主命(おおくにぬしのみこと)・事代主神(ことしろぬしのかみ)・素盞嗚尊(すさのおのみこと)。東本殿の祭神。
苗村神社 東本殿
文化財
国宝
西本殿 附:厨子1基、棟札1枚
重要文化財
東本殿 附:棟札 2枚
八幡社本殿
十禅師社本殿
楼門 附:古材 2点
神輿庫
木造不動明王立像
交通アクセス
JR琵琶湖線 近江八幡駅下車 バス20分 川守バス停下車
名神竜王IC 車10分
所在地 滋賀県蒲生郡竜王町大字綾戸467
位置 北緯35度3分53.5秒 東経136度7分40.5秒
主祭神 那牟羅彦神、那牟羅姫神、国狭槌尊(西本殿)
大国主命・事代主神・素盞嗚尊(東本殿)
社格等 式内社(小)
旧県社
創建 垂仁天皇の時代
本殿の様式 三間社流造(西本殿)
一間社流造(東本殿)
例祭 苗村祭(4月20日)
式年祭(33年毎9月5日)
主な神事 節句祭(5月5日)
歴史
くわしい創祀は不詳であるが、社伝によれば垂仁天皇の時代に祖霊信仰により始まった神社とされる。東苗村古墳群の地に地名の那牟羅と同音の長寸(長は最高位、寸は村の古字)と呼ばれる社、現在の東本殿が建立された。
平安時代、延喜式神名帳に記載されて式内社に列せられる。
安和2年(969年)3月28日、大和国芳野金峯山の国狭槌命の御神霊が神域の西方に鎮座し、この際、新たな社殿が造営された。この社はこれまでの本殿(東本殿)に対し西本殿と呼ばれる。
寛仁元年(1017年)正月、朝廷に門松用の松苗を献上して以来、年々の吉例となったことから、後一条天皇から苗村の称号を賜り、苗村と呼ぶようになった。
天文5年(1536年)3月2日、後奈良天皇から「正一位」の神位を授かる。同年4月9日には勅使中御門宗藤・山科言継により、神位記が奉納される。次いで同年5月9日、「正一位苗村大明神」の勅額を下賜される。
天正年間(1573年 - 1593年)には、織田信長が馬鞍一具、太刀七振りを寄進している。
1881年(明治14年)郷社に、1920年(大正9年)に県社に昇格している。
滋賀県 苗村神社西本殿(国宝)
祭神
主祭神 - 那牟羅彦神(なむらひこがみ)・那牟羅姫神(なむらひめがみ)・国狭槌尊(くにのさづちのみこと)。西本殿の祭神。
相殿神 - 大国主命(おおくにぬしのみこと)・事代主神(ことしろぬしのかみ)・素盞嗚尊(すさのおのみこと)。東本殿の祭神。
苗村神社 東本殿
文化財
国宝
西本殿 附:厨子1基、棟札1枚
重要文化財
東本殿 附:棟札 2枚
八幡社本殿
十禅師社本殿
楼門 附:古材 2点
神輿庫
木造不動明王立像
交通アクセス
JR琵琶湖線 近江八幡駅下車 バス20分 川守バス停下車
名神竜王IC 車10分
所在地 滋賀県蒲生郡竜王町大字綾戸467
位置 北緯35度3分53.5秒 東経136度7分40.5秒
主祭神 那牟羅彦神、那牟羅姫神、国狭槌尊(西本殿)
大国主命・事代主神・素盞嗚尊(東本殿)
社格等 式内社(小)
旧県社
創建 垂仁天皇の時代
本殿の様式 三間社流造(西本殿)
一間社流造(東本殿)
例祭 苗村祭(4月20日)
式年祭(33年毎9月5日)
主な神事 節句祭(5月5日)
2024年08月07日
西岡家住宅(にしおかけじゅうたく)は、佐賀県嬉野市塩田津重要伝統的建造物群保存地区にある、商家にして歴史的建造物
西岡家住宅(にしおかけじゅうたく)は、佐賀県嬉野市塩田津重要伝統的建造物群保存地区にある、商家にして歴史的建造物。国の重要文化財に指定されている。
概要
西岡家は、長崎街道の宿場町と有明海の川港として栄えた塩田津で、廻船問屋を営んでいた豪商であった。この地には、1810年(文化7年)頃移住した。現在の家屋は江戸時代末期の1852年(嘉永5年)に建築を始め1855年(安政2年)に完成した。当時は裏庭が川に面しており、資材の船運による搬出入作業をそこで行っていた。商家であったため、家屋の通りに面した部分は、全体を開放できる作りになっており、土間と店の間の前面は、全体が開放できるよう、出入り口は「吊大戸(つりおおど)」にして空間を確保している。
西岡家住宅は1974年(昭和49年)2月5日に国の重要文化財に指定された。またこの塩田津一帯は重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
建築概要
建築年代は1855年。
屋根は切妻造T字形、桟瓦葺、平入り。
大屋根の正面に破風が見られる、大壁造り。
正面11.8m、桁行17.9m。
背面突出部 桁行8.8m、梁間6.0m。
風呂場及び便所附属。
所在地
〒849-1411 佐賀県嬉野市塩田町大字馬場下甲720
アクセス
JR長崎本線肥前鹿島駅から祐徳バス塩田経由嬉野温泉行き、もしくは佐世保線・西九州新幹線武雄温泉駅から嬉野市役所塩田庁舎経由祐徳神社前行き乗車、「塩田下町」下車。
公開時間
公開自由(但し外観のみ)
内部は日曜と祝日に公開
概要
西岡家は、長崎街道の宿場町と有明海の川港として栄えた塩田津で、廻船問屋を営んでいた豪商であった。この地には、1810年(文化7年)頃移住した。現在の家屋は江戸時代末期の1852年(嘉永5年)に建築を始め1855年(安政2年)に完成した。当時は裏庭が川に面しており、資材の船運による搬出入作業をそこで行っていた。商家であったため、家屋の通りに面した部分は、全体を開放できる作りになっており、土間と店の間の前面は、全体が開放できるよう、出入り口は「吊大戸(つりおおど)」にして空間を確保している。
西岡家住宅は1974年(昭和49年)2月5日に国の重要文化財に指定された。またこの塩田津一帯は重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
建築概要
建築年代は1855年。
屋根は切妻造T字形、桟瓦葺、平入り。
大屋根の正面に破風が見られる、大壁造り。
正面11.8m、桁行17.9m。
背面突出部 桁行8.8m、梁間6.0m。
風呂場及び便所附属。
所在地
〒849-1411 佐賀県嬉野市塩田町大字馬場下甲720
アクセス
JR長崎本線肥前鹿島駅から祐徳バス塩田経由嬉野温泉行き、もしくは佐世保線・西九州新幹線武雄温泉駅から嬉野市役所塩田庁舎経由祐徳神社前行き乗車、「塩田下町」下車。
公開時間
公開自由(但し外観のみ)
内部は日曜と祝日に公開