勝福寺(しょうふくじ)は、兵庫県神戸市須磨区にある高野山真言宗の寺院。山号は桂尾山。摂津国八十八箇所第87番札所。
歴史
この寺は、988年(永延2年)、証楽(藤原伊尹の子、藤原英雄丸)の開山により創建されたと伝えられ、一条天皇の勅願所であったという。かつては5宇の子院を有していた。
文化財
重要文化財(国指定) 1959年(昭和34年)12月18日指定
金銅密教法具(火舎・花瓶・六器)
交通アクセス
山陽電気鉄道東須磨駅より、北に徒歩10分。
山陽電気鉄道及び神戸市営地下鉄板宿駅より、西に徒歩11分。
所在地 兵庫県神戸市須磨区大手町9-1-1
位置 北緯34度39分38.6秒 東経135度7分34.9秒
山号 桂尾山
宗派 高野山真言宗
本尊 聖観音菩薩
創建年 988年(永延2年)
開山 証楽
札所等 摂津国八十八箇所第87番
摂津国三十三箇所第8番
福原西国三十三観音霊場第8番
文化財 金銅密教法具(重要文化財)
2024年07月25日
2024年07月24日
旧澤原家住宅(きゅうさわはらけじゅうたく)は、広島県呉市にある歴史的建造物(民家)
旧澤原家住宅(きゅうさわはらけじゅうたく)は、広島県呉市にある歴史的建造物(民家)。同家は、屋号を澤田屋と称し、代々庄屋などの要職を務めた。国の重要文化財。外観のみ見学可能で、基本的に内部は一般公開されていない。
概要
澤原(沢原)家は屋号「澤田屋」で酒造業を営み、江戸時代後期19世紀初頭に庄山田村(現在の呉市市街地)にて庄屋や安芸郡浦組9ヶ村の割庄屋(広島藩における大庄屋・大名主に相当する)を歴任した。
澤原家がこの地に住みだしたのは1729年(享保14年)からで、現在の主屋は1756年(宝暦6年)に再建されたものである。広島藩主浅野斉賢、尊王論の僧侶宇都宮黙霖が逗留した記録が残る。特に「三ツ蔵」とよばれる土蔵が有名。呉中心部から若干離れた位置であったため1945年(昭和20年)呉軍港空襲で奇跡的に損壊を免れた建物であり、歴代当主が最小限の改築のまま今日まで活用してきたという点でも貴重な建物である。2005年(平成17年)国の重要文化財に指定。近年ではこうの史代『この世界の片隅に』での一場面に登場し、いわゆる聖地巡礼として観光客が訪れている。
当住宅の敷地は道を挟んで東西に分かれるが、この道は長ノ木街道と呼ばれ、明治時代初期まで呉から広島を結ぶ唯一の道であった。澤原家が保存していた古文書群は呉市に寄託されている。
澤原家
家系
先祖は伊予国宇和島の武士で、武士をやめ、慶長年間に安芸国安南郡和庄村宮原谷に来住し、農民となった。宮原谷から山田村に転住して、ここで世代を重ねた。初代新左衛門から8代までは新左衛門の名を襲名し、その第3代新左衛門の六男に八左衛門という人が分家して澤原家の始祖となる。
文化財指定
重要文化財(国指定)
2005年7月22日付けで主屋などの建造物9棟と土地が国の重要文化財に指定され、ほかに塀など4棟が附(つけたり)指定とされている。指定物件は以下のとおり。
旧澤原家住宅(広島県呉市長ノ木町)9棟:
主屋
前座敷
表門
元蔵
三角蔵
三ツ蔵(上蔵、中蔵、下蔵からなる)
新蔵
附:中門、社、土塀(三角蔵東方)、塀(主屋北方)
宅地 2,222.89平方メートル(215番、217番1、217番2)地域内の石段、石垣を含む
公開情報
外観のみ見学可。
基本的に内部は一般公開されていない。公開は年6回、春(3月・4月・5月)と秋(9月・10月・11月)に限られている。
交通
広電バス三条二河宝町線右回りのみ、「東中央2丁目」バス停下車、徒歩約3分
広電バス三条二河宝町線、「明神橋」バス停下車、徒歩約5分
駐車場はないため注意。
所在地 広島県呉市長ノ木町2-9
位置 北緯34度15分8.6秒 東経132度34分19.1秒
類型 住居建築
建築年 主屋 宝暦6年(1756年)
文化財 国の重要文化財
概要
澤原(沢原)家は屋号「澤田屋」で酒造業を営み、江戸時代後期19世紀初頭に庄山田村(現在の呉市市街地)にて庄屋や安芸郡浦組9ヶ村の割庄屋(広島藩における大庄屋・大名主に相当する)を歴任した。
澤原家がこの地に住みだしたのは1729年(享保14年)からで、現在の主屋は1756年(宝暦6年)に再建されたものである。広島藩主浅野斉賢、尊王論の僧侶宇都宮黙霖が逗留した記録が残る。特に「三ツ蔵」とよばれる土蔵が有名。呉中心部から若干離れた位置であったため1945年(昭和20年)呉軍港空襲で奇跡的に損壊を免れた建物であり、歴代当主が最小限の改築のまま今日まで活用してきたという点でも貴重な建物である。2005年(平成17年)国の重要文化財に指定。近年ではこうの史代『この世界の片隅に』での一場面に登場し、いわゆる聖地巡礼として観光客が訪れている。
当住宅の敷地は道を挟んで東西に分かれるが、この道は長ノ木街道と呼ばれ、明治時代初期まで呉から広島を結ぶ唯一の道であった。澤原家が保存していた古文書群は呉市に寄託されている。
澤原家
家系
先祖は伊予国宇和島の武士で、武士をやめ、慶長年間に安芸国安南郡和庄村宮原谷に来住し、農民となった。宮原谷から山田村に転住して、ここで世代を重ねた。初代新左衛門から8代までは新左衛門の名を襲名し、その第3代新左衛門の六男に八左衛門という人が分家して澤原家の始祖となる。
文化財指定
重要文化財(国指定)
2005年7月22日付けで主屋などの建造物9棟と土地が国の重要文化財に指定され、ほかに塀など4棟が附(つけたり)指定とされている。指定物件は以下のとおり。
旧澤原家住宅(広島県呉市長ノ木町)9棟:
主屋
前座敷
表門
元蔵
三角蔵
三ツ蔵(上蔵、中蔵、下蔵からなる)
新蔵
附:中門、社、土塀(三角蔵東方)、塀(主屋北方)
宅地 2,222.89平方メートル(215番、217番1、217番2)地域内の石段、石垣を含む
公開情報
外観のみ見学可。
基本的に内部は一般公開されていない。公開は年6回、春(3月・4月・5月)と秋(9月・10月・11月)に限られている。
交通
広電バス三条二河宝町線右回りのみ、「東中央2丁目」バス停下車、徒歩約3分
広電バス三条二河宝町線、「明神橋」バス停下車、徒歩約5分
駐車場はないため注意。
所在地 広島県呉市長ノ木町2-9
位置 北緯34度15分8.6秒 東経132度34分19.1秒
類型 住居建築
建築年 主屋 宝暦6年(1756年)
文化財 国の重要文化財
2024年07月23日
冠纓神社(かんえいじんじゃ)は、香川県高松市香南町由佐にある神社
冠纓神社(かんえいじんじゃ)は、香川県高松市香南町由佐にある神社。別名は「かむろ八幡宮」で、香南町の氏神として親しまれ、縁結び神社としても知られる。「さぬき十五社霊場」第7番。
概要
秋季例祭で披露される夫婦大獅子舞で使用される大獅子は県指定有形民俗文化財で、日本一の大きさともいわれる。讃岐国香東郡井原庄出生説もある安倍晴明が神主をしていたという伝承もある。境内には樹齢800年以上の楠を始め100種以上に及ぶ植物が群生しており、香川県自然記念物に指定されている。
歴史
861年(貞観3年)、讃岐巡礼中の円珍が井原庄に着いた時、鳩峰大自在王菩薩が現われて井原庄を鎮護すると云った。このため円珍はこの地の里人の力を借りて、宝蔵寺を建てた。1357年、細川頼之が厚く保護・尊崇し京都石清水八幡宮の冠纓を奉納した。このことから冠尾(かむりお、またはかむろ)八幡宮と呼ばれるようになり、後に冠纓神社となる。現在も地元の人は「かむろ」と呼んでいる。以後も細川氏による信仰・保護を受け、細川氏が衰えた後も由佐氏がこれを引き継いだ。後に讃岐国を支配した生駒親正や松平頼重も社領の寄進をするなど当社を保護している。
明治に入ると郷社に列格し、1907年、神饌幣帛料供進神社にも指定されている。1918年には県社に昇格した。1970年、獅子舞に使用される大獅子が県の有形民俗文化財に指定される。1977年、古来よりの自然が残る鎮守の森が香川県自然記念物に指定された。1982年、万葉集天治本が発見され、重要文化財に指定された。
2001年4月、香川郡香南町(後に高松市と合併)が境内を横断する配水管埋設工事を神社に無断で行い、高松地方裁判所は香南町に対し、配水管撤去命令を出した、ということがあった。
交通アクセス
香川県道13号三木綾川線
ことでんバス香南支所バス停
所在地 香川県高松市香南町由佐字三原1413番地
位置 北緯34度14分18.9秒 東経134度0分41.6秒
主祭神 帯中津日子、命品陀和気命、息長帯比売命
社格等 県社
創建 861年(貞観3年)
別名 かむろ八幡宮
例祭 10月第2日曜日
概要
秋季例祭で披露される夫婦大獅子舞で使用される大獅子は県指定有形民俗文化財で、日本一の大きさともいわれる。讃岐国香東郡井原庄出生説もある安倍晴明が神主をしていたという伝承もある。境内には樹齢800年以上の楠を始め100種以上に及ぶ植物が群生しており、香川県自然記念物に指定されている。
歴史
861年(貞観3年)、讃岐巡礼中の円珍が井原庄に着いた時、鳩峰大自在王菩薩が現われて井原庄を鎮護すると云った。このため円珍はこの地の里人の力を借りて、宝蔵寺を建てた。1357年、細川頼之が厚く保護・尊崇し京都石清水八幡宮の冠纓を奉納した。このことから冠尾(かむりお、またはかむろ)八幡宮と呼ばれるようになり、後に冠纓神社となる。現在も地元の人は「かむろ」と呼んでいる。以後も細川氏による信仰・保護を受け、細川氏が衰えた後も由佐氏がこれを引き継いだ。後に讃岐国を支配した生駒親正や松平頼重も社領の寄進をするなど当社を保護している。
明治に入ると郷社に列格し、1907年、神饌幣帛料供進神社にも指定されている。1918年には県社に昇格した。1970年、獅子舞に使用される大獅子が県の有形民俗文化財に指定される。1977年、古来よりの自然が残る鎮守の森が香川県自然記念物に指定された。1982年、万葉集天治本が発見され、重要文化財に指定された。
2001年4月、香川郡香南町(後に高松市と合併)が境内を横断する配水管埋設工事を神社に無断で行い、高松地方裁判所は香南町に対し、配水管撤去命令を出した、ということがあった。
交通アクセス
香川県道13号三木綾川線
ことでんバス香南支所バス停
所在地 香川県高松市香南町由佐字三原1413番地
位置 北緯34度14分18.9秒 東経134度0分41.6秒
主祭神 帯中津日子、命品陀和気命、息長帯比売命
社格等 県社
創建 861年(貞観3年)
別名 かむろ八幡宮
例祭 10月第2日曜日
2024年07月22日
金武観音寺(きんかんのんじ)は、沖縄県国頭郡金武町にある高野山真言宗の寺院
金武観音寺(きんかんのんじ)は、沖縄県国頭郡金武町にある高野山真言宗の寺院。山号は「金峯山」。本尊は聖観音。寺社建造物の多くが太平洋戦争で消失した沖縄県下で、戦前の古い建築様式が残る貴重な木造建造物である。
沿革
伝承によれば、16世紀に日秀上人(にっしゅうしょうにん)により創建。16世紀前期、日秀上人が紀伊国より唐を目指した(「補陀落渡海により西方浄土を目指した」との説もある)が、遭難して琉球王国金武のフナヤ(富花港)に流れ着いた。その後、金武にある鍾乳洞を拠点とし布教活動を行い、観音寺を創建したと伝えられる。その鍾乳洞は日秀洞(にっしゅうどう)と呼ばれている。1934年(昭和9年)に火災により焼失した後、1942年(昭和17年)に再建されたものが現存する建造物である。
その他
1984年(昭和59年)6月1日、本堂が金武町の文化財に指定。
1991年(平成3年)12月24日、境内のフクギが金武町の文化財に指定。
所在地 沖縄県国頭郡金武町字金武222番地
位置 北緯26度27分19.15秒 東経127度55分17.22秒
山号 金峯山
宗旨 高野山真言宗
本尊 聖観音
開基 日秀
正式名 金峯山金武観音寺
文化財 本堂、金武観音寺のフクギ(金武町指定文化財)
沿革
伝承によれば、16世紀に日秀上人(にっしゅうしょうにん)により創建。16世紀前期、日秀上人が紀伊国より唐を目指した(「補陀落渡海により西方浄土を目指した」との説もある)が、遭難して琉球王国金武のフナヤ(富花港)に流れ着いた。その後、金武にある鍾乳洞を拠点とし布教活動を行い、観音寺を創建したと伝えられる。その鍾乳洞は日秀洞(にっしゅうどう)と呼ばれている。1934年(昭和9年)に火災により焼失した後、1942年(昭和17年)に再建されたものが現存する建造物である。
その他
1984年(昭和59年)6月1日、本堂が金武町の文化財に指定。
1991年(平成3年)12月24日、境内のフクギが金武町の文化財に指定。
所在地 沖縄県国頭郡金武町字金武222番地
位置 北緯26度27分19.15秒 東経127度55分17.22秒
山号 金峯山
宗旨 高野山真言宗
本尊 聖観音
開基 日秀
正式名 金峯山金武観音寺
文化財 本堂、金武観音寺のフクギ(金武町指定文化財)
2024年07月21日
西光寺(さいこうじ)は、福岡県福岡市早良区にある浄土真宗本願寺派の寺院
西光寺(さいこうじ)は、福岡県福岡市早良区にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は狐峯山。梵鐘は国宝に指定されている。
文化財
国宝
梵鐘
総高136.3cm、口径77.5cm。鐘身に陽鋳された銘文により承和6年(839年)の作と判明する。銘文から製作年代が分かる日本の梵鐘のうち5番目に古いものである。銘によれば伯耆国鴨部郷(鳥取県西伯郡南部町鴨部)の金石寺の梵鐘として造られた。江戸時代の承応(1653年前後)頃は出雲大社に、その後明治22年(1889年)までは島根県神門郡(現出雲市)の多福寺・松林寺にあり、明治30年(1897年)西光寺に納められた。上帯と下帯(鐘身最上部と最下部の水平帯)に唐草文様を鋳出する。竜頭(最上部の吊り手部分)は、蓮弁を伏せて重ねた上に斜め上向きの竜を配したもので、他の鐘にみられない独自の意匠である。
交通
博多駅より西鉄バスで内野バス停下車徒歩5分
所在地 福岡県福岡市早良区内野2-7-13
位置 北緯33度29分56.9秒 東経130度20分17.8秒
山号 狐峯山
宗派 浄土真宗本願寺派
本尊 阿弥陀如来
創建年 文明元年(1469年)
開基 天海
文化財 梵鐘(国宝)
文化財
国宝
梵鐘
総高136.3cm、口径77.5cm。鐘身に陽鋳された銘文により承和6年(839年)の作と判明する。銘文から製作年代が分かる日本の梵鐘のうち5番目に古いものである。銘によれば伯耆国鴨部郷(鳥取県西伯郡南部町鴨部)の金石寺の梵鐘として造られた。江戸時代の承応(1653年前後)頃は出雲大社に、その後明治22年(1889年)までは島根県神門郡(現出雲市)の多福寺・松林寺にあり、明治30年(1897年)西光寺に納められた。上帯と下帯(鐘身最上部と最下部の水平帯)に唐草文様を鋳出する。竜頭(最上部の吊り手部分)は、蓮弁を伏せて重ねた上に斜め上向きの竜を配したもので、他の鐘にみられない独自の意匠である。
交通
博多駅より西鉄バスで内野バス停下車徒歩5分
所在地 福岡県福岡市早良区内野2-7-13
位置 北緯33度29分56.9秒 東経130度20分17.8秒
山号 狐峯山
宗派 浄土真宗本願寺派
本尊 阿弥陀如来
創建年 文明元年(1469年)
開基 天海
文化財 梵鐘(国宝)
2024年07月20日
旧滝沢本陣(きゅうたきざわほんじん)は、福島県会津若松市にある会津藩の本陣跡
旧滝沢本陣(きゅうたきざわほんじん)は、福島県会津若松市にある会津藩の本陣跡。国の史跡に指定されている。現存する建物のうち、主屋および座敷は、旧滝沢本陣横山家住宅(主屋・座敷)として国の重要文化財に指定、敷地と建物は国の史跡に指定されている。
概要
滝沢本陣は、旧若松城下から白河、江戸に至る旧白河街道沿いにあり、滝沢峠の城下側の上り口にある。現存する建物は1678年(延宝6年)に建てられ、その頃から、会津藩主が白河街道を通る際の休息所として使用された。その後、歴代会津藩主の参勤交代をはじめ、領内巡視、藩祖保科正之をまつる土津神社の参詣の際に休息所として利用された。戊辰戦争時には、藩主松平容保の出陣によって陣屋となり、座敷には当時の戦闘による弾痕や刀傷などが残る。
文化財指定
現存する本陣建物のうち、門、名子が居住した名子屋および高札場を除く主屋・座敷は、近世において滝沢組郷頭を勤めた横山家の住居として、屋内の半分が土間となっているなど、近世の農民住宅の形がよく残されている。主屋は1678年の建築で、福島県の民家ではきわだって古く、また、本陣座敷は19世紀初め(文化文政期)に建て替えられたものであるが類例が少ないものとして、1971年(昭和46年)に重要文化財に指定されている。
また、敷地と建物は、会津藩が参勤交代のときなどに使用した本陣の遺構であり、江戸時代の藩政、交通を知るうえで重要として、1970年(昭和45年)に国の史跡に指定されている。
所在地 福島県会津若松市一箕町大字八幡字滝沢122
位置 北緯37度30分22.64秒 東経139度57分9.73秒
類型 本陣・農家
形式・構造 木造、入母屋造、茅葺
建築年 1678年(延宝6年)
文化財 国の重要文化財
概要
滝沢本陣は、旧若松城下から白河、江戸に至る旧白河街道沿いにあり、滝沢峠の城下側の上り口にある。現存する建物は1678年(延宝6年)に建てられ、その頃から、会津藩主が白河街道を通る際の休息所として使用された。その後、歴代会津藩主の参勤交代をはじめ、領内巡視、藩祖保科正之をまつる土津神社の参詣の際に休息所として利用された。戊辰戦争時には、藩主松平容保の出陣によって陣屋となり、座敷には当時の戦闘による弾痕や刀傷などが残る。
文化財指定
現存する本陣建物のうち、門、名子が居住した名子屋および高札場を除く主屋・座敷は、近世において滝沢組郷頭を勤めた横山家の住居として、屋内の半分が土間となっているなど、近世の農民住宅の形がよく残されている。主屋は1678年の建築で、福島県の民家ではきわだって古く、また、本陣座敷は19世紀初め(文化文政期)に建て替えられたものであるが類例が少ないものとして、1971年(昭和46年)に重要文化財に指定されている。
また、敷地と建物は、会津藩が参勤交代のときなどに使用した本陣の遺構であり、江戸時代の藩政、交通を知るうえで重要として、1970年(昭和45年)に国の史跡に指定されている。
所在地 福島県会津若松市一箕町大字八幡字滝沢122
位置 北緯37度30分22.64秒 東経139度57分9.73秒
類型 本陣・農家
形式・構造 木造、入母屋造、茅葺
建築年 1678年(延宝6年)
文化財 国の重要文化財
2024年07月19日
蘆別神社(あしべつじんじゃ)は、北海道芦別市北3条西1丁目6番地にある神社
2024年07月18日
光明寺(こうみょうじ)は三重県伊勢市岩渕3丁目に位置する臨済宗東福寺派の仏教寺院
光明寺(こうみょうじ)は三重県伊勢市岩渕3丁目に位置する臨済宗東福寺派の仏教寺院である。山号は金鼓山(きんこざん)。南北朝時代の南朝方の武将結城宗広の終焉の地とされ、近世の伊勢神宮周辺では唯一鐘楼を許可された「光明寺の一つ鐘」で知られる。
歴史
寺伝では天平年間に聖武天皇の勅願により伊勢神宮外宮宮域の南方の前山の鼓ヶ岳(現伊勢市前山町)に創建されたという。ただしこのことは史料にはなく、もとは外宮宮域の北方の山田の世木(現在の伊勢市駅前付近の伊勢市吹上、勢田川左岸)の世木神社の近くにあったという。光明寺の古文書に外宮神職であった度会氏の世木広光が創建したと記されていることから、こちらが定説とされる。いずれにせよいつから世木にあったのか定かではないが、鎌倉時代の天福2年(1234年)に広光が一族に所領などを分割譲渡し、「先祖氏寺光明寺務執行」と嘉元3年(1305年)に記録されていることから、当寺が世木氏の氏寺で、周辺に農地などを有していたことがわかる。
鎌倉時代末期の元応元年(1319年)、禅僧の月波恵観(げっぱえかん)に再興されたと光明寺残篇(国の重要文化財)に記されている。恵観はもともと天台宗であったが、東福寺の禅師癡兀大恵に師事したことから当寺が臨済宗に改宗されたと考えられる。
所蔵文化財
重要文化財(国指定)
古文書
紙本墨書光明寺残篇 1巻(明治39年4月14日) - 鎌倉時代末期の古文書4篇[5]。「軍中日記」、「元弘日記」とも。水戸藩が編纂した『大日本史』に引用された。
元弘1年(1331年)8-10月に結城宗広が記したとされる軍中日記
元弘3年(1333年)の後醍醐天皇勅制事書案
同年の後醍醐天皇綸旨案・足利高氏(尊氏)請文案
同年の足利高氏書状案・吉見円忠施行状案
結城宗広並夫人書状 1巻(明治39年4月14日) - 南北朝時代に結城宗広が記したとされる書状2通と、奥羽の白河にいた夫人が光明寺の宗広に送ったとされる書状1通を1巻に仕立てた古文書[6]。宗広の書状は宗広自筆と考えられていたが、沙弥道恵が書いたのではないかと指摘されている。
アクセス
近鉄山田線宇治山田駅より東へ約600m。
三重交通前田古市口停留所から約100m。
三重県道37号鳥羽松阪線(御幸道路)沿い、伊勢郵便局の向かい側を少し入ると光明寺の山門。
所在地 三重県伊勢市岩渕3丁目3-11
位置 北緯34度29分19秒 東経136度43分1秒
山号 金鼓山
宗派 臨済宗東福寺派
本尊 阿弥陀如来
創建年 元応1年(1319年)
開基 月波恵観
正式名 金鼓山 光明寺
文化財 紙本墨書光明寺残篇
結城宗広並夫人書状(重要文化財)
歴史
寺伝では天平年間に聖武天皇の勅願により伊勢神宮外宮宮域の南方の前山の鼓ヶ岳(現伊勢市前山町)に創建されたという。ただしこのことは史料にはなく、もとは外宮宮域の北方の山田の世木(現在の伊勢市駅前付近の伊勢市吹上、勢田川左岸)の世木神社の近くにあったという。光明寺の古文書に外宮神職であった度会氏の世木広光が創建したと記されていることから、こちらが定説とされる。いずれにせよいつから世木にあったのか定かではないが、鎌倉時代の天福2年(1234年)に広光が一族に所領などを分割譲渡し、「先祖氏寺光明寺務執行」と嘉元3年(1305年)に記録されていることから、当寺が世木氏の氏寺で、周辺に農地などを有していたことがわかる。
鎌倉時代末期の元応元年(1319年)、禅僧の月波恵観(げっぱえかん)に再興されたと光明寺残篇(国の重要文化財)に記されている。恵観はもともと天台宗であったが、東福寺の禅師癡兀大恵に師事したことから当寺が臨済宗に改宗されたと考えられる。
所蔵文化財
重要文化財(国指定)
古文書
紙本墨書光明寺残篇 1巻(明治39年4月14日) - 鎌倉時代末期の古文書4篇[5]。「軍中日記」、「元弘日記」とも。水戸藩が編纂した『大日本史』に引用された。
元弘1年(1331年)8-10月に結城宗広が記したとされる軍中日記
元弘3年(1333年)の後醍醐天皇勅制事書案
同年の後醍醐天皇綸旨案・足利高氏(尊氏)請文案
同年の足利高氏書状案・吉見円忠施行状案
結城宗広並夫人書状 1巻(明治39年4月14日) - 南北朝時代に結城宗広が記したとされる書状2通と、奥羽の白河にいた夫人が光明寺の宗広に送ったとされる書状1通を1巻に仕立てた古文書[6]。宗広の書状は宗広自筆と考えられていたが、沙弥道恵が書いたのではないかと指摘されている。
アクセス
近鉄山田線宇治山田駅より東へ約600m。
三重交通前田古市口停留所から約100m。
三重県道37号鳥羽松阪線(御幸道路)沿い、伊勢郵便局の向かい側を少し入ると光明寺の山門。
所在地 三重県伊勢市岩渕3丁目3-11
位置 北緯34度29分19秒 東経136度43分1秒
山号 金鼓山
宗派 臨済宗東福寺派
本尊 阿弥陀如来
創建年 元応1年(1319年)
開基 月波恵観
正式名 金鼓山 光明寺
文化財 紙本墨書光明寺残篇
結城宗広並夫人書状(重要文化財)
2024年07月17日
仙台東照宮(せんだいとうしょうぐう)は、宮城県仙台市青葉区東照宮にある徳川家康をまつる神社
仙台東照宮(せんだいとうしょうぐう)は、宮城県仙台市青葉区東照宮にある徳川家康をまつる神社。承応3年(1654年)に仙台藩2代藩主伊達忠宗が創建。正式名称は東照宮。唐門、本殿など4棟と鳥居1基が国の重要文化財に指定されている。
歴史
承応3年(1654年)に、仙台藩2代藩主・伊達忠宗により創建。
東照宮境内地の選定は、天正19年(1591年)に徳川家康が葛西大崎一揆鎮圧の視察を終えた帰途で、玉手崎の丘(現・境内地)に立ち寄り、当寺の天神社(現・榴岡天満宮)の境内で、藩祖・伊達政宗と休息した故事によるとされる。また、政宗没後、領内で大火、大洪水など災害が続き、藩財政が重大な危機に陥ったなどの背景があり、仙台城の正確な北東に位置するため鬼門鎮守も由縁の1つである。2代藩主・忠宗は、東照大権現を守護神として祀るため、慶安2年(1649年)5月に3代将軍・徳川家光に東照宮造営を願い出て、勧請がゆるされ、慶安2年(1649)8月に普請が始まり、本殿、唐門、透塀、幣拝殿、本地堂、御供所、御厩、鐘楼、随身門、石鳥居、別当寺・仙岳院、御旅宮などを造営し、5年後の承応3年(1654)3月に竣工した。仙台藩総力をあげての大事業であり、造営に携った総人数は834835人、総工費小判22443両を要した。大工棟梁は、大崎八幡宮本殿(国宝)、瑞巌寺本堂(国宝)などを建築した梅村家の梅村彦作之三が行っている。御神体は、東北最大ともいわれる御神輿に乗せて、江戸から仙台まで7日架けて渡御し、のちの東照宮御祭礼(仙台祭)の起源となっている。
祭礼行事
4月17日 - 例祭:徳川家康の命日に行なわれる。
神輿渡御:仙台祭ともよばれる。
1654(承応3)3月6日に、東北一の大きさといわれる神輿に御神体を乗せ、江戸を出発し、神輿、騎馬、僧侶などの行列が、7日後の3月13日に仙台に到着し、藩主を始め、伊達家一門総出で出迎えたと伝わる。1年後の1655年より始まった東照宮御祭礼において、御神体を運んだ神輿が、仙台の住民により城下町を担がれ、江戸時代を通じ行われた。江戸時代までは9月17日を例祭日としており、仙台祭とよばれ賑わっていた。神輿渡御は明治時代に一旦途切れたが、大正時代に再開し、昭和59年(1984年)から5年に1度実施されている。
御神体を運んだ神輿は修復を繰り返し、現存している。
4月第3土・日曜日 - 春祭
仙台市登録有形文化財の東照宮神楽や、子ども神輿が奉納される。
6月30日 - 夏越の大祓
文化財
国の重要文化財
東照宮 (4棟と1基) - 1953年(昭和28年)3月31日指定。
承応3年(1654年)仙台藩2代藩主・伊達忠宗により建立。
本殿 1棟 附:逗子 1基、石灯籠34基、棟札1枚
唐門 1棟
透塀 1棟
随身門 1棟 附:左右袖塀 2棟
1980年(昭和55年)1月26日に追加指定された。
鳥居 1基
アクセス
JR仙山線・東照宮駅から徒歩3分
仙台市営バス
E5-1・E5-2 安養寺二丁目行き 「宮町五丁目」又は「東照宮一丁目」下車徒歩2〜3分
所在地 宮城県仙台市青葉区東照宮一丁目6-1
位置 北緯38度16分48.7秒 東経140度53分6.3秒
主祭神 東照大権現(徳川家康)
社格等 県社
創建 承応3年(1654年)
本殿の様式 入母屋造
例祭 例祭(4月17日)
神楽奉納(4月第3土日)
神輿渡御(5年ごと)
ほか
歴史
承応3年(1654年)に、仙台藩2代藩主・伊達忠宗により創建。
東照宮境内地の選定は、天正19年(1591年)に徳川家康が葛西大崎一揆鎮圧の視察を終えた帰途で、玉手崎の丘(現・境内地)に立ち寄り、当寺の天神社(現・榴岡天満宮)の境内で、藩祖・伊達政宗と休息した故事によるとされる。また、政宗没後、領内で大火、大洪水など災害が続き、藩財政が重大な危機に陥ったなどの背景があり、仙台城の正確な北東に位置するため鬼門鎮守も由縁の1つである。2代藩主・忠宗は、東照大権現を守護神として祀るため、慶安2年(1649年)5月に3代将軍・徳川家光に東照宮造営を願い出て、勧請がゆるされ、慶安2年(1649)8月に普請が始まり、本殿、唐門、透塀、幣拝殿、本地堂、御供所、御厩、鐘楼、随身門、石鳥居、別当寺・仙岳院、御旅宮などを造営し、5年後の承応3年(1654)3月に竣工した。仙台藩総力をあげての大事業であり、造営に携った総人数は834835人、総工費小判22443両を要した。大工棟梁は、大崎八幡宮本殿(国宝)、瑞巌寺本堂(国宝)などを建築した梅村家の梅村彦作之三が行っている。御神体は、東北最大ともいわれる御神輿に乗せて、江戸から仙台まで7日架けて渡御し、のちの東照宮御祭礼(仙台祭)の起源となっている。
祭礼行事
4月17日 - 例祭:徳川家康の命日に行なわれる。
神輿渡御:仙台祭ともよばれる。
1654(承応3)3月6日に、東北一の大きさといわれる神輿に御神体を乗せ、江戸を出発し、神輿、騎馬、僧侶などの行列が、7日後の3月13日に仙台に到着し、藩主を始め、伊達家一門総出で出迎えたと伝わる。1年後の1655年より始まった東照宮御祭礼において、御神体を運んだ神輿が、仙台の住民により城下町を担がれ、江戸時代を通じ行われた。江戸時代までは9月17日を例祭日としており、仙台祭とよばれ賑わっていた。神輿渡御は明治時代に一旦途切れたが、大正時代に再開し、昭和59年(1984年)から5年に1度実施されている。
御神体を運んだ神輿は修復を繰り返し、現存している。
4月第3土・日曜日 - 春祭
仙台市登録有形文化財の東照宮神楽や、子ども神輿が奉納される。
6月30日 - 夏越の大祓
文化財
国の重要文化財
東照宮 (4棟と1基) - 1953年(昭和28年)3月31日指定。
承応3年(1654年)仙台藩2代藩主・伊達忠宗により建立。
本殿 1棟 附:逗子 1基、石灯籠34基、棟札1枚
唐門 1棟
透塀 1棟
随身門 1棟 附:左右袖塀 2棟
1980年(昭和55年)1月26日に追加指定された。
鳥居 1基
アクセス
JR仙山線・東照宮駅から徒歩3分
仙台市営バス
E5-1・E5-2 安養寺二丁目行き 「宮町五丁目」又は「東照宮一丁目」下車徒歩2〜3分
所在地 宮城県仙台市青葉区東照宮一丁目6-1
位置 北緯38度16分48.7秒 東経140度53分6.3秒
主祭神 東照大権現(徳川家康)
社格等 県社
創建 承応3年(1654年)
本殿の様式 入母屋造
例祭 例祭(4月17日)
神楽奉納(4月第3土日)
神輿渡御(5年ごと)
ほか
2024年07月16日
江田神社(えだじんじゃ)は、宮崎県宮崎市阿波岐原町(あわぎがはらちょう)にある神社
江田神社(えだじんじゃ)は、宮崎県宮崎市阿波岐原町(あわぎがはらちょう)にある神社。式内社で、旧社格は県社。
祭神
主祭神
伊邪那岐尊 (いざなぎのみこと)
配祀神
伊邪那美尊 (いざなみのみこと) - 寿永2年(1183年)の増祀。
以上の2柱は「産母(やぼ)二柱大明神」と号され、地元の人々からは「産母(やぼ)様」とも呼ばれている。
祭事
祈年祭 (2月17日)
大祓祭 (6月30日)
特殊神事として茅の輪潜りがある。かつては前夜に渚で浜禊をする習わしがあった。当日は神輿渡御ののち、神事として神職・氏子・参拝者の順に茅の輪潜りが行われる。
例大祭 (11月22日)
新嘗祭 (11月23日)
春の社日祭・秋季例大祭では、「江田神楽」が奉納される。神楽の歴史は古く、慶長17年銘の神楽面が残っている。
現地情報
所在地
宮崎県宮崎市阿波岐原町字産母127
交通アクセス
宮崎交通(19系統 動物園線)で、「江田神社」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)
位置 北緯31度57分37.62秒 東経131度27分53.49秒
主祭神 伊邪那岐尊
社格等 式内社(小)
旧県社
創建 不詳
本殿の様式 流造
例祭 11月22日
主な神事 茅の輪潜り(6月30日)
祭神
主祭神
伊邪那岐尊 (いざなぎのみこと)
配祀神
伊邪那美尊 (いざなみのみこと) - 寿永2年(1183年)の増祀。
以上の2柱は「産母(やぼ)二柱大明神」と号され、地元の人々からは「産母(やぼ)様」とも呼ばれている。
祭事
祈年祭 (2月17日)
大祓祭 (6月30日)
特殊神事として茅の輪潜りがある。かつては前夜に渚で浜禊をする習わしがあった。当日は神輿渡御ののち、神事として神職・氏子・参拝者の順に茅の輪潜りが行われる。
例大祭 (11月22日)
新嘗祭 (11月23日)
春の社日祭・秋季例大祭では、「江田神楽」が奉納される。神楽の歴史は古く、慶長17年銘の神楽面が残っている。
現地情報
所在地
宮崎県宮崎市阿波岐原町字産母127
交通アクセス
宮崎交通(19系統 動物園線)で、「江田神社」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)
位置 北緯31度57分37.62秒 東経131度27分53.49秒
主祭神 伊邪那岐尊
社格等 式内社(小)
旧県社
創建 不詳
本殿の様式 流造
例祭 11月22日
主な神事 茅の輪潜り(6月30日)