善寳寺(ぜんぽうじ)は、山形県鶴岡市にある曹洞宗の寺院。山号は龍澤山(りゅうたくさん)。本尊は薬師如来。妙厳寺、最乗寺と並ぶ曹洞宗三大祈祷所。
歴史
平安時代の天慶から天暦年間(938年 - 957年)頃、天台宗の妙達によって草庵が結ばれ、龍華寺と呼んだものを始まりとする。鎌倉時代の延慶年間(1308年 - 1311年)、總持寺二世峨山韶碩が龍華寺跡で教化を垂れる。 室町時代の永享年間(1429年 - 1441年)、韶碩の七世法孫[要出典]、曹洞宗の僧・太年浄椿がその遺志を継ぎ諸堂を復興し、寺号を善寳寺と改めた。
姿を顕した二龍神(龍宮龍道大龍王、戒道大龍女)が寺号を授け、寺内の貝喰池に身を隠したという伝承が残り、龍神信仰の寺として航海安全を祈願する海運関係者や大漁を祈願する漁業関係者などから全国的に信仰を集める。
天保4年(1833年)に再建された龍王殿や安政2年(1855年)に寄進された五百羅漢堂、文久2年(1862年)に再建された山門、1883年(明治16年)に建立された五重塔などの諸堂のほか、菱田春草「王昭君の図」(国の重要文化財)などを保有する。
1982年には、鶴岡高専教授の斉藤信義が住職に就任した。
また、1990年(平成2年)頃には、貝喰池のコイが「人面魚」として耳目を集めた。
2010年、五十嵐卓三が42世住職に就任。
2016年、妙達上人生誕1150年祭に合わせ、初の龍王殿ご尊体のご開帳を挙行する。
2017年、妙達上人の木像遷座開眼法要を挙行する。作成は京仏師櫻井覺山。
交通
山形自動車道鶴岡インターチェンジから車で約15分
鶴岡駅から庄内交通バス「善宝寺経由湯野浜温泉行」に乗車、善宝寺バス停下車すぐ(ただし本数少)
所在地 山形県鶴岡市下川字関根100
位置 北緯38度46分21.62秒 東経139度46分02.33秒
山号 龍澤山
宗旨 曹洞宗
本尊 薬師如来
正式名 龍澤山善寳寺
文化財 王昭君図(菱田春草筆、国の重要文化財)
2024年07月15日
2024年07月14日
八坂神社(やさかじんじゃ)は山口県山口市にある神社
八坂神社(やさかじんじゃ)は山口県山口市にある神社。別名は祇園さま。
祭神
素盞嗚尊
稲田姫命
手名槌命
足名槌命
歴史
大内弘世が室町時代の応安3年(1370年)に京都の祇園神社から勧請した神社。本殿は永正17年(1520年)に大内義興が再建。
社殿
本殿 : 三間社流造
祭事・年中行事
例祭 : 7月20日 - 7月27日(山口祇園祭)
文化財
重要文化財(国指定)
本殿 - 室町時代後期(1520年)の建立。三間社流造、檜皮葺。大正6年(1917)08月13日指定。
所在地情報
所在地
山口県山口市上竪小路100番地
交通
鉄道
上山口駅(西日本旅客鉄道〈JR西日本〉山口線) - 徒歩で約14分
バス
「野田学園前」バス停下車徒歩3分
位置 北緯34度11分9.59秒 東経131度28分42.26秒
主祭神 素盞嗚尊、稲田姫命、手名槌命、足名槌命
創建 応安3年(1370年)
本殿の様式 三間社流造
別名 祇園さま
例祭 7月20日
祭神
素盞嗚尊
稲田姫命
手名槌命
足名槌命
歴史
大内弘世が室町時代の応安3年(1370年)に京都の祇園神社から勧請した神社。本殿は永正17年(1520年)に大内義興が再建。
社殿
本殿 : 三間社流造
祭事・年中行事
例祭 : 7月20日 - 7月27日(山口祇園祭)
文化財
重要文化財(国指定)
本殿 - 室町時代後期(1520年)の建立。三間社流造、檜皮葺。大正6年(1917)08月13日指定。
所在地情報
所在地
山口県山口市上竪小路100番地
交通
鉄道
上山口駅(西日本旅客鉄道〈JR西日本〉山口線) - 徒歩で約14分
バス
「野田学園前」バス停下車徒歩3分
位置 北緯34度11分9.59秒 東経131度28分42.26秒
主祭神 素盞嗚尊、稲田姫命、手名槌命、足名槌命
創建 応安3年(1370年)
本殿の様式 三間社流造
別名 祇園さま
例祭 7月20日
2024年07月13日
棲雲寺(せいうんじ・栖雲寺)は、山梨県甲州市大和町木賊にある寺院
棲雲寺(せいうんじ・栖雲寺)は、山梨県甲州市大和町木賊にある寺院。臨済宗建長寺派寺院で、山号は天目山、本尊は釈迦如来。創建時には護国禅寺と称した。県指定名勝である。また、裏山の斜面には庭園が存在する。
概要
棲雲寺は、天目山山中の標高約1,050mの日川渓谷の上流左岸にある。日川渓谷のさらに4.6kmほど下流の田野には、曹洞宗寺院の天童山景徳院がある。
南北朝時代の貞和4年/正平3年(1348年)、開基業海本浄(ごうかいほんじょう、通称ごっかい、1284-1352年)は、当時木賊山と呼ばれていたこの山を訪れた。業海は文保2年(1318年)に、仲間5人と元に渡り、天目山において普応国師中峰明本(ちゅうほうみんぱん、1263-1323年)から教えを受け、印可を授かって、嘉暦元年(1326年)に帰国した。その後、師の教えを実践させる、修行の場に相応しい地を求めて、20年以上にわたって諸国を旅して、木賊山が天目山を髣髴とさせる景勝地であるとして、この地に天目山護国禅寺を創建した。
文化財
重要文化財(国指定)
木造普応国師坐像 - 昭和46年6月22日指定
普応国師は、中国元の時代の高僧で、臨済宗幻住派の祖中峰明本である。孤高の隠遁者として知られ、日本からも多くの禅僧が彼の元に参じて教えを受けて帰朝しているが、天目山棲雲寺の開山業海本浄もその一人である。きわめてきびしい禅風で知られ、この期のわが国の禅林に影響を与えた。木造普応国師座像は、剃髪し、衣の上に袈裟をつけ、腹前で禅定印を結んで座した頂相彫刻である。座高82.5cm、檜材の寄木造り、玉眼を入れた彩色像であるが、現在はほとんど表面の彩色は剥落している。像内首枘に朱書の銘があり、文和2年(1353年)に、仏師法眼院広と法橋院遵によって造像されたことが分かる。院広と院遵は、棲雲寺本尊の釈迦如来坐像の作者でもある。
交通
鉄道 - JR中央線 - 甲斐大和駅下車、路線バス乗車
路線バス - 甲州市市民バス 甲州市(塩山、勝沼、大和)縦断線 天目(栖雲寺)行 - 天目(栖雲寺)停留所下車、徒歩3分
所在地 山梨県甲州市大和町木賊122[1]
位置 北緯35度39分38.2秒 東経138度48分38.4秒
山号 天目山
宗派 臨済宗建長寺派
本尊 釈迦如来
創建年 貞和4年/正平3年(1348年)
開基 業海本浄
別称 護国禅寺・栖雲寺
札所等 甲斐百八霊場第二十番
甲斐八十八ヶ所霊場第一番
文化財 木造普応国師坐像(重要文化財)
木造業海本浄和尚坐像、絹本著色十字架捧持マニ像など(県文化財)
庭園(県名勝)
概要
棲雲寺は、天目山山中の標高約1,050mの日川渓谷の上流左岸にある。日川渓谷のさらに4.6kmほど下流の田野には、曹洞宗寺院の天童山景徳院がある。
南北朝時代の貞和4年/正平3年(1348年)、開基業海本浄(ごうかいほんじょう、通称ごっかい、1284-1352年)は、当時木賊山と呼ばれていたこの山を訪れた。業海は文保2年(1318年)に、仲間5人と元に渡り、天目山において普応国師中峰明本(ちゅうほうみんぱん、1263-1323年)から教えを受け、印可を授かって、嘉暦元年(1326年)に帰国した。その後、師の教えを実践させる、修行の場に相応しい地を求めて、20年以上にわたって諸国を旅して、木賊山が天目山を髣髴とさせる景勝地であるとして、この地に天目山護国禅寺を創建した。
文化財
重要文化財(国指定)
木造普応国師坐像 - 昭和46年6月22日指定
普応国師は、中国元の時代の高僧で、臨済宗幻住派の祖中峰明本である。孤高の隠遁者として知られ、日本からも多くの禅僧が彼の元に参じて教えを受けて帰朝しているが、天目山棲雲寺の開山業海本浄もその一人である。きわめてきびしい禅風で知られ、この期のわが国の禅林に影響を与えた。木造普応国師座像は、剃髪し、衣の上に袈裟をつけ、腹前で禅定印を結んで座した頂相彫刻である。座高82.5cm、檜材の寄木造り、玉眼を入れた彩色像であるが、現在はほとんど表面の彩色は剥落している。像内首枘に朱書の銘があり、文和2年(1353年)に、仏師法眼院広と法橋院遵によって造像されたことが分かる。院広と院遵は、棲雲寺本尊の釈迦如来坐像の作者でもある。
交通
鉄道 - JR中央線 - 甲斐大和駅下車、路線バス乗車
路線バス - 甲州市市民バス 甲州市(塩山、勝沼、大和)縦断線 天目(栖雲寺)行 - 天目(栖雲寺)停留所下車、徒歩3分
所在地 山梨県甲州市大和町木賊122[1]
位置 北緯35度39分38.2秒 東経138度48分38.4秒
山号 天目山
宗派 臨済宗建長寺派
本尊 釈迦如来
創建年 貞和4年/正平3年(1348年)
開基 業海本浄
別称 護国禅寺・栖雲寺
札所等 甲斐百八霊場第二十番
甲斐八十八ヶ所霊場第一番
文化財 木造普応国師坐像(重要文化財)
木造業海本浄和尚坐像、絹本著色十字架捧持マニ像など(県文化財)
庭園(県名勝)
2024年07月12日
丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ、丹生都比賣神社)は、和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある神社
丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ、丹生都比賣神社)は、和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある神社。式内社(名神大社)、紀伊国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
別称として「天野大社」「天野四所明神」とも。全国に約180社ある丹生都比売神を祀る神社の総本社である。「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されている.。
概要
和歌山県北東部、高野山北西の天野盆地に鎮座する。空海が金剛峯寺を建立するにあたって丹生都比売神社が神領を寄進したと伝えられ、古くより高野山と深い関係にある神社である。神社背後の尾根上には高野山への表参道である高野山町石道(国の史跡、世界遺産)が通り、丹生都比売神社は高野山への入り口にあたることから、高野山参拝前にはまず丹生都比売神社に参拝する習わしであったという。丹生都比売神社自体も高野山からの影響を強く受け、境内には多くの仏教系の遺跡・遺物が残る。和歌山県・奈良県を主とした各地では、高野山の荘園に丹生都比売神社が勧請された関係で、丹生都比売神社の分霊を祀る神社の分布が知られる。
神社では国宝の銀銅蛭巻太刀拵[1]を始めとする文化財のほか、本殿[2]および楼門[3]などの社殿が国の重要文化財に指定されている。また境内は国の史跡に指定されている。これらのうち本殿、楼門および境内は、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されている。また、弘法大師を高野山に導いたのが神様のお使いの白黒2頭の犬であったという伝説から社にはご神犬がいる。
祭神
祭神は次の4柱。これら4神は「四所明神」とも総称される。
第一殿:丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)
通称「丹生明神」。古くより祀られていた神。
第二殿:高野御子大神(たかのみこのおおかみ)
通称「狩場明神」。高野山開創と関係する神。
第三殿:大食津比売大神(おおげつひめのおおかみ)
通称「気比明神」。承元2年(1208年)に氣比神宮(福井県敦賀市)からの勧請と伝える[注 2]。
第四殿:市杵島比売大神(いちきしまひめのおおかみ)
通称「厳島明神」。第三殿と同年に厳島神社(広島県廿日市市)からの勧請と伝える。
境内
丹生都比売神社は高野山との関係が深く、古くは多宝塔・御影堂・不動堂・山王堂・護摩所・鐘楼・経蔵・坊舎等の仏教建物が営まれていたことが古絵図によって知られる。神仏分離によってこれらは除かれたが、神仏習合時代の遺構が良好に残されていることから、境内は国の史跡に指定されている。境内背後の尾根上には高野山への表参道である高野山町石道(国の史跡、世界遺産)が通り、丹生都比売神社への枝道(八丁坂)への分岐点には通称「二つ鳥居」と呼ばれる鳥居2基が並ぶ(北緯34度15分31.42秒 東経135度31分38.61秒)。高野山参拝前にはここから丹生都比売神社に参拝する習わしであったという。『紀伊続風土記』によれば、この鳥居は弘仁10年(819年)5月3日に空海によって建立されたといい、当初は木造であったが慶安2年(1649年)5月に石造で建て直されたという。この2基は丹生都比売神と高野御子神の鳥居を表すとされる。いずれも「高野山町石道」の一部として国の史跡に指定されている。
本殿 4棟 - 本殿は第一殿から第四殿の4棟からなる。楼門奥の最上段に向かって右手から第一殿・第二殿の順で一列に並び、第四殿のさらに左手には若宮が鎮座する。これら各棟には祭神が1柱ずつ祀られている。いずれも同形式・同規模の一間社春日造の檜皮葺である。各殿内とも鎌倉時代の一間春日見世棚造の宮殿(くうでん)を納めている。宮殿には嘉元4年(1306年)の銘があり、本殿前身の社殿と見られる。本殿4棟は「丹生都比売神社本殿」として国の重要文化財に指定され、宮殿4基は重要文化財の附(つけたり)指定となっている。
第一殿(重要文化財) - 江戸時代の正徳5年(1715年)再建。
第二殿(重要文化財) - 室町時代の文明年間(1469年 - 1486年)再建。
第三殿(重要文化財) - 1901年(明治34年)再建。
第四殿(重要文化財) - 室町時代の文明元年(1469年)再建。
世界遺産
ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」(2004年7月登録)の資産「丹生都比売神社」は、以下3件の文化財を含む。
重要文化財「丹生都比売神社本殿」
重要文化財「丹生都比売神社楼門」
史跡「丹生都比売神社境内」
現地情報
所在地
和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野230
交通アクセス
西日本旅客鉄道(JR西日本)和歌山線 笠田駅から
バス:かつらぎ町コミュニティバス(天野コース、丹生都比売神社行)で終点「丹生都比売神社」バス停下車すぐ。 所要約30分、1日6往復運行。
タクシー:約15分
所在地 和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野230
位置 北緯34度15分45.8秒 東経135度31分19.2秒
主祭神 丹生都比売大神
高野御子大神
大食津比売大神
市杵島比売大神
社格等 式内社(名神大)
紀伊国一宮
旧官幣大社
別表神社
本殿の様式 一間社春日造4棟
別名 天野大社
札所等 神仏霊場巡拝の道第12番(和歌山第12番)
例祭 10月16日
主な神事 御田祭(1月第3日曜日)
花盛祭(4月第2日曜日)
別称として「天野大社」「天野四所明神」とも。全国に約180社ある丹生都比売神を祀る神社の総本社である。「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されている.。
概要
和歌山県北東部、高野山北西の天野盆地に鎮座する。空海が金剛峯寺を建立するにあたって丹生都比売神社が神領を寄進したと伝えられ、古くより高野山と深い関係にある神社である。神社背後の尾根上には高野山への表参道である高野山町石道(国の史跡、世界遺産)が通り、丹生都比売神社は高野山への入り口にあたることから、高野山参拝前にはまず丹生都比売神社に参拝する習わしであったという。丹生都比売神社自体も高野山からの影響を強く受け、境内には多くの仏教系の遺跡・遺物が残る。和歌山県・奈良県を主とした各地では、高野山の荘園に丹生都比売神社が勧請された関係で、丹生都比売神社の分霊を祀る神社の分布が知られる。
神社では国宝の銀銅蛭巻太刀拵[1]を始めとする文化財のほか、本殿[2]および楼門[3]などの社殿が国の重要文化財に指定されている。また境内は国の史跡に指定されている。これらのうち本殿、楼門および境内は、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されている。また、弘法大師を高野山に導いたのが神様のお使いの白黒2頭の犬であったという伝説から社にはご神犬がいる。
祭神
祭神は次の4柱。これら4神は「四所明神」とも総称される。
第一殿:丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)
通称「丹生明神」。古くより祀られていた神。
第二殿:高野御子大神(たかのみこのおおかみ)
通称「狩場明神」。高野山開創と関係する神。
第三殿:大食津比売大神(おおげつひめのおおかみ)
通称「気比明神」。承元2年(1208年)に氣比神宮(福井県敦賀市)からの勧請と伝える[注 2]。
第四殿:市杵島比売大神(いちきしまひめのおおかみ)
通称「厳島明神」。第三殿と同年に厳島神社(広島県廿日市市)からの勧請と伝える。
境内
丹生都比売神社は高野山との関係が深く、古くは多宝塔・御影堂・不動堂・山王堂・護摩所・鐘楼・経蔵・坊舎等の仏教建物が営まれていたことが古絵図によって知られる。神仏分離によってこれらは除かれたが、神仏習合時代の遺構が良好に残されていることから、境内は国の史跡に指定されている。境内背後の尾根上には高野山への表参道である高野山町石道(国の史跡、世界遺産)が通り、丹生都比売神社への枝道(八丁坂)への分岐点には通称「二つ鳥居」と呼ばれる鳥居2基が並ぶ(北緯34度15分31.42秒 東経135度31分38.61秒)。高野山参拝前にはここから丹生都比売神社に参拝する習わしであったという。『紀伊続風土記』によれば、この鳥居は弘仁10年(819年)5月3日に空海によって建立されたといい、当初は木造であったが慶安2年(1649年)5月に石造で建て直されたという。この2基は丹生都比売神と高野御子神の鳥居を表すとされる。いずれも「高野山町石道」の一部として国の史跡に指定されている。
本殿 4棟 - 本殿は第一殿から第四殿の4棟からなる。楼門奥の最上段に向かって右手から第一殿・第二殿の順で一列に並び、第四殿のさらに左手には若宮が鎮座する。これら各棟には祭神が1柱ずつ祀られている。いずれも同形式・同規模の一間社春日造の檜皮葺である。各殿内とも鎌倉時代の一間春日見世棚造の宮殿(くうでん)を納めている。宮殿には嘉元4年(1306年)の銘があり、本殿前身の社殿と見られる。本殿4棟は「丹生都比売神社本殿」として国の重要文化財に指定され、宮殿4基は重要文化財の附(つけたり)指定となっている。
第一殿(重要文化財) - 江戸時代の正徳5年(1715年)再建。
第二殿(重要文化財) - 室町時代の文明年間(1469年 - 1486年)再建。
第三殿(重要文化財) - 1901年(明治34年)再建。
第四殿(重要文化財) - 室町時代の文明元年(1469年)再建。
世界遺産
ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」(2004年7月登録)の資産「丹生都比売神社」は、以下3件の文化財を含む。
重要文化財「丹生都比売神社本殿」
重要文化財「丹生都比売神社楼門」
史跡「丹生都比売神社境内」
現地情報
所在地
和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野230
交通アクセス
西日本旅客鉄道(JR西日本)和歌山線 笠田駅から
バス:かつらぎ町コミュニティバス(天野コース、丹生都比売神社行)で終点「丹生都比売神社」バス停下車すぐ。 所要約30分、1日6往復運行。
タクシー:約15分
所在地 和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野230
位置 北緯34度15分45.8秒 東経135度31分19.2秒
主祭神 丹生都比売大神
高野御子大神
大食津比売大神
市杵島比売大神
社格等 式内社(名神大)
紀伊国一宮
旧官幣大社
別表神社
本殿の様式 一間社春日造4棟
別名 天野大社
札所等 神仏霊場巡拝の道第12番(和歌山第12番)
例祭 10月16日
主な神事 御田祭(1月第3日曜日)
花盛祭(4月第2日曜日)
2024年07月11日
葦守八幡宮(あしもりはちまんぐう)は岡山県岡山市北区下足守にある神社
葦守八幡宮(あしもりはちまんぐう)は岡山県岡山市北区下足守にある神社。旧社格は郷社。建立年代の明らかなものとしては日本最古の鳥居がある。
建立年代が明らかな日本最古の鳥居(重要文化財)
歴史
日本書紀の卷第十・譽田天皇紀の五.追隨妃兄媛歸省之吉備行幸に「庚寅、亦移居於葉田葦守宮時御友別參赴之」とある。これによれば、応神天皇が帰省した妃の吉備兄媛を追って応神天皇22年9月に行幸し、葉田葦守宮で兄媛とその兄・御友別命に饗応を受けたとされる。御友別命はこの行幸地に天皇の死後、天皇の遺徳を偲んで祭祀し葉田葦守宮を設けた。これが葦守八幡宮の始めであるとされている。
平安時代末期の嘉応元年(1169年)に描かれた「足守庄絵図」には現在地に八満山と八幡宮の文字が記されており、これが現在の八幡宮の前身である。なお、「足守庄絵図」の実物は京都市の神護寺にあり、地割りや集落や寺社の配置など荘園の実態を伝える貴重な資料として重要文化財に指定されている。
江戸時代初期の慶長12年(1607年)足守藩主木下家が豊臣家の姻戚であることから、豊臣秀頼は奉行の小出吉政を遣わして木瀬浄阿彌作円鏡と呼ばれる青銅鏡を豊臣家再興を願って寄進した。これが現在の御神体である。木下家の入府後、江戸時代を通じて足守藩の総鎮守となり、木下家の産土神とした。
本殿が宝永3年(1706年)に現在地に造営された。しかし、幕末には焼亡し、現在の本殿は明治3年(1870年)に再建されたものである。
文化財
重要文化財(国指定)
八幡神社鳥居:南北朝時代の康安元年(1361年)に石大工の沙弥妙阿によって建造され、建造年が特定される鳥居としては日本最古のものである。明神鳥居の形態を採り両柱の基部に稚児柱を伴う両部鳥居である。花崗岩製で高さは4.3m、柱の中央間の幅は3.4mである。正面向かって右の柱には「康安元年辛丑十月二日 (中央)願主神主賀陽重人、(右)大工沙弥妙阿、(左)祝主僧頼澄」の刻銘がある。昭和31年(1956年)6月28日指定。
アクセス
JR吉備線足守駅よりタクシーで約5分
岡山自動車道岡山総社ICより車で東へ約10分
所在地 岡山県岡山市北区下足守468
位置 北緯34度43分26.6秒 東経133度48分27.8秒
主祭神 応神天皇、神功皇后、玉依媛命、兄姫命、御友別命
社格等 郷社
本殿の様式 入母屋造
例祭 歳旦祭(元日)、大祓祭(7月第4日
建立年代が明らかな日本最古の鳥居(重要文化財)
歴史
日本書紀の卷第十・譽田天皇紀の五.追隨妃兄媛歸省之吉備行幸に「庚寅、亦移居於葉田葦守宮時御友別參赴之」とある。これによれば、応神天皇が帰省した妃の吉備兄媛を追って応神天皇22年9月に行幸し、葉田葦守宮で兄媛とその兄・御友別命に饗応を受けたとされる。御友別命はこの行幸地に天皇の死後、天皇の遺徳を偲んで祭祀し葉田葦守宮を設けた。これが葦守八幡宮の始めであるとされている。
平安時代末期の嘉応元年(1169年)に描かれた「足守庄絵図」には現在地に八満山と八幡宮の文字が記されており、これが現在の八幡宮の前身である。なお、「足守庄絵図」の実物は京都市の神護寺にあり、地割りや集落や寺社の配置など荘園の実態を伝える貴重な資料として重要文化財に指定されている。
江戸時代初期の慶長12年(1607年)足守藩主木下家が豊臣家の姻戚であることから、豊臣秀頼は奉行の小出吉政を遣わして木瀬浄阿彌作円鏡と呼ばれる青銅鏡を豊臣家再興を願って寄進した。これが現在の御神体である。木下家の入府後、江戸時代を通じて足守藩の総鎮守となり、木下家の産土神とした。
本殿が宝永3年(1706年)に現在地に造営された。しかし、幕末には焼亡し、現在の本殿は明治3年(1870年)に再建されたものである。
文化財
重要文化財(国指定)
八幡神社鳥居:南北朝時代の康安元年(1361年)に石大工の沙弥妙阿によって建造され、建造年が特定される鳥居としては日本最古のものである。明神鳥居の形態を採り両柱の基部に稚児柱を伴う両部鳥居である。花崗岩製で高さは4.3m、柱の中央間の幅は3.4mである。正面向かって右の柱には「康安元年辛丑十月二日 (中央)願主神主賀陽重人、(右)大工沙弥妙阿、(左)祝主僧頼澄」の刻銘がある。昭和31年(1956年)6月28日指定。
アクセス
JR吉備線足守駅よりタクシーで約5分
岡山自動車道岡山総社ICより車で東へ約10分
所在地 岡山県岡山市北区下足守468
位置 北緯34度43分26.6秒 東経133度48分27.8秒
主祭神 応神天皇、神功皇后、玉依媛命、兄姫命、御友別命
社格等 郷社
本殿の様式 入母屋造
例祭 歳旦祭(元日)、大祓祭(7月第4日
2024年07月10日
水無瀬神宮(みなせじんぐう)は、大阪府三島郡島本町にある神社
水無瀬神宮(みなせじんぐう)は、大阪府三島郡島本町にある神社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。旧称は水無瀬宮。境内には環境庁認定「名水百選」に選ばれた「離宮の水」がある。
祭神
主祭神 - 後鳥羽天皇、土御門天皇、順徳天皇
歴史
この地には後鳥羽天皇が大変気に入っていた離宮・水無瀬殿下御所が建てられていたが、後鳥羽上皇は承久の乱で鎌倉幕府に敗れて隠岐国に流され、そこで崩御すると、水無瀬殿一帯は荒れ果てた。その後、仁治元年(1240年)に後鳥羽上皇の遺勅(後鳥羽天皇宸翰御手印置文・国宝)に基づき、水無瀬信成・親成親子が水無瀬殿下御所の跡地に御影堂を建立し、上皇を祀った。この水無瀬御影堂が当宮の始まりである。明応3年(1494年)、後土御門天皇が隠岐より後鳥羽上皇の神霊を迎え、水無瀬宮の神号を奉じた。
安土桃山時代には、豊臣秀吉が福島正則を普請奉行として客殿(重要文化財)を建立している。寛永年間(1624年 - 1645年)には京都御所にあった明正天皇の内侍所を移築して改築し、新たな本殿とした。
江戸時代までは仏式で祀られていたが、明治時代になると神仏分離が行われ、1873年(明治6年)に水無瀬御影堂は神社となり、水無瀬宮に改称すると官幣中社に列せられた。同時に、後鳥羽天皇と同じく承久の乱により配流されてそこで崩御した土御門天皇と順徳天皇の神霊も配流地から迎えて合祀している。
1939年(昭和14年)に神宮号を賜って官幣大社に列格すると、水無瀬神宮と改称された。大阪府唯一の神宮である。
1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。
文化財
国宝
紙本著色後鳥羽天皇像 - 鎌倉時代の似絵の代表作。承久の変に敗れた後鳥羽上皇は出家して隠岐国に配流される前に、絵師の藤原信実に命じて自身の出家前の肖像画を描かせたことが『吾妻鏡』に見え、その絵にあたるものという。京都国立博物館寄託。
後鳥羽天皇宸翰御手印置文 - 「宸翰」は天皇直筆の意。「置文」は遺言とほぼ同意。暦仁2年(1239年)、隠岐に流されていた後鳥羽上皇が崩御の13日前に書いた自筆の遺言状。文面には上皇の手印(手形)が鮮明に付されている。歴史上著名な天皇の宸翰としてきわめて貴重な史料である。京都国立博物館寄託。
交通機関
阪急京都本線 水無瀬駅 徒歩10分
阪急京都線 大山崎駅 徒歩18分
JR京都線 島本駅 徒歩12分
JR京都線 山崎駅 徒歩15分
所在地 大阪府三島郡島本町広瀬3丁目10-24
位置 北緯34度53分5.6秒 東経135度40分23.1秒
主祭神 後鳥羽天皇
土御門天皇
順徳天皇
社格等 旧官幣大社
別表神社
創建 仁治元年(1240年)
札所等 神仏霊場巡拝の道62番(大阪第21番)
例祭 12月7日
祭神
主祭神 - 後鳥羽天皇、土御門天皇、順徳天皇
歴史
この地には後鳥羽天皇が大変気に入っていた離宮・水無瀬殿下御所が建てられていたが、後鳥羽上皇は承久の乱で鎌倉幕府に敗れて隠岐国に流され、そこで崩御すると、水無瀬殿一帯は荒れ果てた。その後、仁治元年(1240年)に後鳥羽上皇の遺勅(後鳥羽天皇宸翰御手印置文・国宝)に基づき、水無瀬信成・親成親子が水無瀬殿下御所の跡地に御影堂を建立し、上皇を祀った。この水無瀬御影堂が当宮の始まりである。明応3年(1494年)、後土御門天皇が隠岐より後鳥羽上皇の神霊を迎え、水無瀬宮の神号を奉じた。
安土桃山時代には、豊臣秀吉が福島正則を普請奉行として客殿(重要文化財)を建立している。寛永年間(1624年 - 1645年)には京都御所にあった明正天皇の内侍所を移築して改築し、新たな本殿とした。
江戸時代までは仏式で祀られていたが、明治時代になると神仏分離が行われ、1873年(明治6年)に水無瀬御影堂は神社となり、水無瀬宮に改称すると官幣中社に列せられた。同時に、後鳥羽天皇と同じく承久の乱により配流されてそこで崩御した土御門天皇と順徳天皇の神霊も配流地から迎えて合祀している。
1939年(昭和14年)に神宮号を賜って官幣大社に列格すると、水無瀬神宮と改称された。大阪府唯一の神宮である。
1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。
文化財
国宝
紙本著色後鳥羽天皇像 - 鎌倉時代の似絵の代表作。承久の変に敗れた後鳥羽上皇は出家して隠岐国に配流される前に、絵師の藤原信実に命じて自身の出家前の肖像画を描かせたことが『吾妻鏡』に見え、その絵にあたるものという。京都国立博物館寄託。
後鳥羽天皇宸翰御手印置文 - 「宸翰」は天皇直筆の意。「置文」は遺言とほぼ同意。暦仁2年(1239年)、隠岐に流されていた後鳥羽上皇が崩御の13日前に書いた自筆の遺言状。文面には上皇の手印(手形)が鮮明に付されている。歴史上著名な天皇の宸翰としてきわめて貴重な史料である。京都国立博物館寄託。
交通機関
阪急京都本線 水無瀬駅 徒歩10分
阪急京都線 大山崎駅 徒歩18分
JR京都線 島本駅 徒歩12分
JR京都線 山崎駅 徒歩15分
所在地 大阪府三島郡島本町広瀬3丁目10-24
位置 北緯34度53分5.6秒 東経135度40分23.1秒
主祭神 後鳥羽天皇
土御門天皇
順徳天皇
社格等 旧官幣大社
別表神社
創建 仁治元年(1240年)
札所等 神仏霊場巡拝の道62番(大阪第21番)
例祭 12月7日
2024年07月09日
サンチャゴの鐘(サンチャゴのかね)は、大分県竹田市大字拝田原の中川神社に伝わる銅製の鐘
サンチャゴの鐘(サンチャゴのかね)は、大分県竹田市大字拝田原の中川神社に伝わる銅製の鐘。1612年(慶長17年)に制作されたキリシタンの遺物であり、1950年(昭和25年)8月29日に「銅鐘」という名称で国の重要文化財に指定されている。
竹田市歴史文化館・由学館・国重要文化財に指定されている謎のキリシタン遺物「サンチャゴの鐘」
概要
銅鐘は、高さ80.5cm、口径66.0cm、重量108.5kg。舌(ぜつ)は失われている。表面に十字の紋と「HOSPITAL SANTIAGO 1612」の銘文が陽刻されており、この銘文から、1612年(慶長17年)に制作されたもので、長崎にあったミゼリコルディア(慈善院)附属のサンチャゴ病院の鐘であると考えられている。サンチャゴ病院は、レオン・パジェスが著した『日本切支丹宗門史』に「聖ヤコボの病院」として記述されている(「サンチャゴ」はスペイン語・ポルトガル語、「聖ヤコボ」はラテン語で、ともにヤコブのこと)。サンチャゴ病院はミゼリコルディアとともに1620年(元和6年)に破壊されている。
中川神社は代々の岡藩藩主中川氏を祀った神社で、1871年(明治4年)に岡城が取り壊された際に、場内にあった荘嶽社を1872年(明治5年)に現在地に移築したものである。中川氏がこの鐘を所有するに至った経緯については、1629年(寛永6年)から長崎奉行を務めた府内藩主竹中重義によって府内城に運ばれ、竹中重義が汚職の咎により切腹を命じられたあと、府内城の城番を任ぜられた岡藩第2代藩主中川久盛によって岡城にもたらされたのではないかとの推測がある。
資料館の入り口にかけられたレプリカのサンチャゴの鐘
複製の制作
2012年には、竹田市において、岡藩初代藩主中川秀成の没後400年を記念して、岡藩城下町400年祭事業が行われたが、中川秀成の没年がこの鐘が制作されたのと同じ1612年であったことから、サンチャゴの鐘はイベントのシンボル的存在とされ、複製の制作等が企画された。
2011年末から、オリジナルと同じ音色の複製を制作するための準備として、九州国立博物館によってサンチャゴの鐘の成分分析が行われ、組成は銅87%、スズ8%、鉛3%、鉄2%であることが判明。鉛同位体比の測定結果が日本産鉛とタイ産鉛の中間値を示しており、当時は国内産の鉛が不足してタイからの輸入が行われていたことから、産地は不明であるものの、日本において国内産の鉛をタイ産の鉛を混合して制作されたのではないかとの推定が行われている。
また、この鐘は重要文化財に指定されており保護が優先されることから、これまで鳴らされたことがなかったが、文化庁から4回に限って鐘を打つ許可を得て、2012年5月9日にスタジオで鐘の音が録音された。
サンチャゴの鐘の複製は9月30日に鳴らし初めが行われた。
竹田市歴史文化館・由学館・国重要文化財に指定されている謎のキリシタン遺物「サンチャゴの鐘」
概要
銅鐘は、高さ80.5cm、口径66.0cm、重量108.5kg。舌(ぜつ)は失われている。表面に十字の紋と「HOSPITAL SANTIAGO 1612」の銘文が陽刻されており、この銘文から、1612年(慶長17年)に制作されたもので、長崎にあったミゼリコルディア(慈善院)附属のサンチャゴ病院の鐘であると考えられている。サンチャゴ病院は、レオン・パジェスが著した『日本切支丹宗門史』に「聖ヤコボの病院」として記述されている(「サンチャゴ」はスペイン語・ポルトガル語、「聖ヤコボ」はラテン語で、ともにヤコブのこと)。サンチャゴ病院はミゼリコルディアとともに1620年(元和6年)に破壊されている。
中川神社は代々の岡藩藩主中川氏を祀った神社で、1871年(明治4年)に岡城が取り壊された際に、場内にあった荘嶽社を1872年(明治5年)に現在地に移築したものである。中川氏がこの鐘を所有するに至った経緯については、1629年(寛永6年)から長崎奉行を務めた府内藩主竹中重義によって府内城に運ばれ、竹中重義が汚職の咎により切腹を命じられたあと、府内城の城番を任ぜられた岡藩第2代藩主中川久盛によって岡城にもたらされたのではないかとの推測がある。
資料館の入り口にかけられたレプリカのサンチャゴの鐘
複製の制作
2012年には、竹田市において、岡藩初代藩主中川秀成の没後400年を記念して、岡藩城下町400年祭事業が行われたが、中川秀成の没年がこの鐘が制作されたのと同じ1612年であったことから、サンチャゴの鐘はイベントのシンボル的存在とされ、複製の制作等が企画された。
2011年末から、オリジナルと同じ音色の複製を制作するための準備として、九州国立博物館によってサンチャゴの鐘の成分分析が行われ、組成は銅87%、スズ8%、鉛3%、鉄2%であることが判明。鉛同位体比の測定結果が日本産鉛とタイ産鉛の中間値を示しており、当時は国内産の鉛が不足してタイからの輸入が行われていたことから、産地は不明であるものの、日本において国内産の鉛をタイ産の鉛を混合して制作されたのではないかとの推定が行われている。
また、この鐘は重要文化財に指定されており保護が優先されることから、これまで鳴らされたことがなかったが、文化庁から4回に限って鐘を打つ許可を得て、2012年5月9日にスタジオで鐘の音が録音された。
サンチャゴの鐘の複製は9月30日に鳴らし初めが行われた。
2024年07月08日
豊島家住宅(としまけじゅうたく)は、愛媛県松山市井門町にある歴史的建造物(民家)
豊島家住宅(としまけじゅうたく)は、愛媛県松山市井門町にある歴史的建造物(民家)。国の重要文化財に指定されている。
概要
中予地方の豪農で大庄屋格であった豊島家の邸宅である。1758年(宝暦8年)に建設された主屋(おもや)と表門、長屋門、長屋、米倉、衣装倉、中倉の計7棟が重要文化財に指定されている。豊島家には、藩の軍用馬の飼育が命じられ、馬屋が設けられていた。現存する長屋は、もとの馬屋を後に居室に改造したものである。また、当家は幕府の巡見使の宿泊所にも使用され、巡検使が滞在した座敷が残されている。主屋は、奥の居室部と手前の座敷部を雁行形に配し、これらを相の間で繋いで一体化し、それぞれに入母屋造屋根を架けた複雑な構成に特徴があり「井門の八棟造り」(いどのやつむねづくり)と呼ばれる。
1970年(昭和45年)6月17日に国の重要文化財に指定され、主屋は1972年(昭和47年)から1974年(昭和49年)にかけて、表門等の付属建物と塀は1977年(昭和52年)から1979年(昭和54年)にかけて、それぞれ解体修理が行われた。
八棟造りの代表例として、東武ワールドスクウェアに1/25のミニチュアがある。
建築概要
主屋
建築年代:1758年(宝暦8年)
総茅葺、庇本瓦葺
居室部 桁行24.6m、梁間11.8m、入母屋造、四面庇付
居室座敷取合部 桁行4.9m、梁行8.9m、入母屋造、東西面庇付
座敷部 桁行12.9m、梁間6.9m、入母屋造、東西面及び南面庇付、便所附属
主屋は敷地の東寄りに建ち、西側は庭園になっている。居室部(主体部)は、東側3分の2を土間、西側3分の1を居間、台所等の居室とする。東西棟の居室部の西端に矩折りに南北棟の屋根を架け、その南の東西棟の角屋(つのや)が座敷部となる。座敷部は書院、二の間、三の間からなり、書院は床(とこ)、棚、付書院を設けた本格的な数奇屋風の造りとし、欄間などに意匠をこらしている。修理時に居間の鴨居から宝暦8年(1758年)の墨書が発見され、これが建立年とされている。
表門
建築年代:18世紀中期頃
棟門、本瓦葺
長屋門
建築年代:江戸末期
長屋門、桁行11.0m、梁間2.5m、切妻造、本瓦葺
長屋
建築年代:江戸後期
桁行8.3m、梁間4.2m、切妻造、西面庇付、本瓦葺
米倉
建築年代:1917年(大正6年)
土蔵造、桁行9.6m、梁間7.1m、二階建、切妻造、南面庇付、本瓦葺
衣装倉
建築年代:明治
土蔵造、桁行4.1m、梁間4.6m、二階建、西端切妻造、東端米倉に接続、南面庇付、本瓦葺
中倉
江戸末期
土蔵造、桁行5.9m、梁間5.0m、両下造、東端衣装倉に接続、南面庇付、本瓦葺
公開状況
原則非公開。
所在地 愛媛県松山市井門町421-1
位置 北緯33度47分53.5秒 東経132度46分49.1秒
類型 大庄屋
敷地面積 3137平方メートル
延床面積 975平方メートル
建築年 1758年(宝暦8年)
文化財 国の重要文化財:1970年(昭和45年)6月17日指定
概要
中予地方の豪農で大庄屋格であった豊島家の邸宅である。1758年(宝暦8年)に建設された主屋(おもや)と表門、長屋門、長屋、米倉、衣装倉、中倉の計7棟が重要文化財に指定されている。豊島家には、藩の軍用馬の飼育が命じられ、馬屋が設けられていた。現存する長屋は、もとの馬屋を後に居室に改造したものである。また、当家は幕府の巡見使の宿泊所にも使用され、巡検使が滞在した座敷が残されている。主屋は、奥の居室部と手前の座敷部を雁行形に配し、これらを相の間で繋いで一体化し、それぞれに入母屋造屋根を架けた複雑な構成に特徴があり「井門の八棟造り」(いどのやつむねづくり)と呼ばれる。
1970年(昭和45年)6月17日に国の重要文化財に指定され、主屋は1972年(昭和47年)から1974年(昭和49年)にかけて、表門等の付属建物と塀は1977年(昭和52年)から1979年(昭和54年)にかけて、それぞれ解体修理が行われた。
八棟造りの代表例として、東武ワールドスクウェアに1/25のミニチュアがある。
建築概要
主屋
建築年代:1758年(宝暦8年)
総茅葺、庇本瓦葺
居室部 桁行24.6m、梁間11.8m、入母屋造、四面庇付
居室座敷取合部 桁行4.9m、梁行8.9m、入母屋造、東西面庇付
座敷部 桁行12.9m、梁間6.9m、入母屋造、東西面及び南面庇付、便所附属
主屋は敷地の東寄りに建ち、西側は庭園になっている。居室部(主体部)は、東側3分の2を土間、西側3分の1を居間、台所等の居室とする。東西棟の居室部の西端に矩折りに南北棟の屋根を架け、その南の東西棟の角屋(つのや)が座敷部となる。座敷部は書院、二の間、三の間からなり、書院は床(とこ)、棚、付書院を設けた本格的な数奇屋風の造りとし、欄間などに意匠をこらしている。修理時に居間の鴨居から宝暦8年(1758年)の墨書が発見され、これが建立年とされている。
表門
建築年代:18世紀中期頃
棟門、本瓦葺
長屋門
建築年代:江戸末期
長屋門、桁行11.0m、梁間2.5m、切妻造、本瓦葺
長屋
建築年代:江戸後期
桁行8.3m、梁間4.2m、切妻造、西面庇付、本瓦葺
米倉
建築年代:1917年(大正6年)
土蔵造、桁行9.6m、梁間7.1m、二階建、切妻造、南面庇付、本瓦葺
衣装倉
建築年代:明治
土蔵造、桁行4.1m、梁間4.6m、二階建、西端切妻造、東端米倉に接続、南面庇付、本瓦葺
中倉
江戸末期
土蔵造、桁行5.9m、梁間5.0m、両下造、東端衣装倉に接続、南面庇付、本瓦葺
公開状況
原則非公開。
所在地 愛媛県松山市井門町421-1
位置 北緯33度47分53.5秒 東経132度46分49.1秒
類型 大庄屋
敷地面積 3137平方メートル
延床面積 975平方メートル
建築年 1758年(宝暦8年)
文化財 国の重要文化財:1970年(昭和45年)6月17日指定
2024年07月07日
伊賀八幡宮(いがはちまんぐう)は、愛知県岡崎市伊賀町にある神社
伊賀八幡宮(いがはちまんぐう)は、愛知県岡崎市伊賀町にある神社。
概要
本殿、隨神門、神橋などが重要文化財に指定されている。
歴史
文明2年(1470年)、松平親忠が、松平氏の氏神として社(やしろ)を伊賀国より現在の地に移した。これが伊賀八幡宮の始まりとされる。
その後、慶長年間に徳川家康によって社殿の改築が行われた。さらに三代将軍家光が社殿を拡張し、祖父家康(東照大権現)を祭神に加えた。江戸時代を通じ、家康の命日である4月17日に将軍の名代として岡崎藩主が代参することが慣習となった。
祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、東照大権現。
境内
本殿
慶長年間に徳川家康によって造営された。国の重要文化財である。
随身門
神域を守る随身を門の両側に安置する。同じく国の重要文化財である。
神橋(石橋)
同じく国の重要文化財だが、現在は渡ることはできない。
文化財
重要文化財
本殿、幣殿、拝殿、附、宮殿(くうでん)1基、棟札4枚
透塀
御供所
随身門
神橋
鳥居
所在地 愛知県岡崎市伊賀町東郷中86
位置 北緯34度58分17.15秒 東経137度9分52.82秒
主祭神 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、東照大権現
社格等 旧県社
創建 文明2年(1470年)
本殿の様式 権現造
例祭 10月第1土曜・日曜
概要
本殿、隨神門、神橋などが重要文化財に指定されている。
歴史
文明2年(1470年)、松平親忠が、松平氏の氏神として社(やしろ)を伊賀国より現在の地に移した。これが伊賀八幡宮の始まりとされる。
その後、慶長年間に徳川家康によって社殿の改築が行われた。さらに三代将軍家光が社殿を拡張し、祖父家康(東照大権現)を祭神に加えた。江戸時代を通じ、家康の命日である4月17日に将軍の名代として岡崎藩主が代参することが慣習となった。
祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、東照大権現。
境内
本殿
慶長年間に徳川家康によって造営された。国の重要文化財である。
随身門
神域を守る随身を門の両側に安置する。同じく国の重要文化財である。
神橋(石橋)
同じく国の重要文化財だが、現在は渡ることはできない。
文化財
重要文化財
本殿、幣殿、拝殿、附、宮殿(くうでん)1基、棟札4枚
透塀
御供所
随身門
神橋
鳥居
所在地 愛知県岡崎市伊賀町東郷中86
位置 北緯34度58分17.15秒 東経137度9分52.82秒
主祭神 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、東照大権現
社格等 旧県社
創建 文明2年(1470年)
本殿の様式 権現造
例祭 10月第1土曜・日曜
2024年07月06日
旧千葉家住宅(きゅうちばけじゅうたく)は岩手県遠野市にある歴史的建造物
旧千葉家住宅(きゅうちばけじゅうたく)は岩手県遠野市にある歴史的建造物、国の重要文化財。
概要
江戸時代の南部地方特有の住居と馬屋を平面L字形に連結した農家建築「曲り家」を代表する建物として知られている。江戸時代後期に、斜面地に築かれた石垣上の平地にある面積540m2 の大型の住居で、25名の人と20頭の馬がこの一軒の家で生活していた。以前は住居として使われていたが、2013年6月より遠野市の管理となり、住人はいない。おり、敷地と建物の一部を公開している。付属建物や石垣などを含め、屋敷構えがよく残されており、2007年に建物と宅地が国の重要文化財に指定された。敷地の一部はNHK大河ドラマ「花の乱」の撮影に使われ、当時のセットが保存されている。
文化財指定
以下の建物と土地が重要文化財に指定されている。
主屋 - 江戸時代後期。
土蔵 - 明治45年(1912年)建立。主屋の西側に建つ。
石蔵 - 大正時代。土蔵の北に接して建つ
稲荷社(附:鳥居) - 嘉永2年(1849年)建立。屋敷地北西の小高い位置に建つ。
大工小屋 - 江戸時代末期。主屋北東に建つ。
ハセ小屋(附指定) - 江戸時代末期。屋敷地の南西に建つ。
土地 - 5599.63m2
主屋は茅葺で、寄棟造の居室部の手前に入母屋造の馬屋部分が突出し、全体としてはL字状の平面をなす。居室部は上手(東側)に南北2列、東西3室の計6室を設け、下手(西側)は台所と土間とする。上手の一部に2階(2室)を設ける。突出部はもとは馬屋であったが、展示室等に改造されている。
屋敷地は南向きの傾斜面に石垣を築いて整地している。付属建物等もよく残り、豪農の屋敷構えがよく保存されている。こうした点が評価され、2007年12月4日、国の重要文化財に指定された。2022年9月20日には宅地内の便所が追加指定されている。
利用情報
開館時間
4月 - 10月 - 8:30 - 17:00
11月 - 3月 - 9:00 - 16:00
年中無休
建築概要
竣工 - 江戸時代後期(1800年頃)
構造 - 木造、茅葺
床面積 - 540m2
所在地 - 〒028-0533 岩手県遠野市綾織町上綾織1地割14番地
交通アクセス
釜石線 遠野駅からバスで10分、「南部曲り家千葉家」下車 徒歩すぐ
所在地 岩手県遠野市綾織町上綾織1地割14
位置 北緯39度20分26.89秒 東経141度26分30.43秒
類型 農家
形式・構造 曲り家、木造、茅葺
敷地面積 5599.63m2
延床面積 (主屋)540m2
建築年 江戸時代後期
文化財 国の重要文化財
概要
江戸時代の南部地方特有の住居と馬屋を平面L字形に連結した農家建築「曲り家」を代表する建物として知られている。江戸時代後期に、斜面地に築かれた石垣上の平地にある面積540m2 の大型の住居で、25名の人と20頭の馬がこの一軒の家で生活していた。以前は住居として使われていたが、2013年6月より遠野市の管理となり、住人はいない。おり、敷地と建物の一部を公開している。付属建物や石垣などを含め、屋敷構えがよく残されており、2007年に建物と宅地が国の重要文化財に指定された。敷地の一部はNHK大河ドラマ「花の乱」の撮影に使われ、当時のセットが保存されている。
文化財指定
以下の建物と土地が重要文化財に指定されている。
主屋 - 江戸時代後期。
土蔵 - 明治45年(1912年)建立。主屋の西側に建つ。
石蔵 - 大正時代。土蔵の北に接して建つ
稲荷社(附:鳥居) - 嘉永2年(1849年)建立。屋敷地北西の小高い位置に建つ。
大工小屋 - 江戸時代末期。主屋北東に建つ。
ハセ小屋(附指定) - 江戸時代末期。屋敷地の南西に建つ。
土地 - 5599.63m2
主屋は茅葺で、寄棟造の居室部の手前に入母屋造の馬屋部分が突出し、全体としてはL字状の平面をなす。居室部は上手(東側)に南北2列、東西3室の計6室を設け、下手(西側)は台所と土間とする。上手の一部に2階(2室)を設ける。突出部はもとは馬屋であったが、展示室等に改造されている。
屋敷地は南向きの傾斜面に石垣を築いて整地している。付属建物等もよく残り、豪農の屋敷構えがよく保存されている。こうした点が評価され、2007年12月4日、国の重要文化財に指定された。2022年9月20日には宅地内の便所が追加指定されている。
利用情報
開館時間
4月 - 10月 - 8:30 - 17:00
11月 - 3月 - 9:00 - 16:00
年中無休
建築概要
竣工 - 江戸時代後期(1800年頃)
構造 - 木造、茅葺
床面積 - 540m2
所在地 - 〒028-0533 岩手県遠野市綾織町上綾織1地割14番地
交通アクセス
釜石線 遠野駅からバスで10分、「南部曲り家千葉家」下車 徒歩すぐ
所在地 岩手県遠野市綾織町上綾織1地割14
位置 北緯39度20分26.89秒 東経141度26分30.43秒
類型 農家
形式・構造 曲り家、木造、茅葺
敷地面積 5599.63m2
延床面積 (主屋)540m2
建築年 江戸時代後期
文化財 国の重要文化財