常福寺(じょうふくじ)は、茨城県土浦市下高津にある新義真言宗の寺院である。土浦旧市街の南側に位置し、旧水戸街道の西側にほぼ隣接している。隣接地には茅葺の社殿を有する愛宕神社がある。
学校法人常福寺学園(もみじ幼稚園)を経営している。
歴史
常福寺は、平安時代初期、最澄の高弟最仙の開基と伝えられている。
1905年(明治38年)10月1日の創立から1913年(大正2年)3月20日の移転までの間、旧制常総学院中学校が境内にあった。
文化財
重要文化財(国指定)
木造薬師如来坐像
1920年8月16日重要文化財指定。制作は平安末期。
所在地 茨城県土浦市下高津2丁目10-22
位置 北緯36度4分28.4秒 東経140度11分19.3秒
宗旨 新義真言宗
本尊 薬師如来
創建年 平安時代
開基 最仙
文化財 常福寺の薬師如来坐像(重要文化財)
2024年07月05日
2024年07月04日
革秀寺(かくしゅうじ)は、青森県弘前市にある曹洞宗の寺院
革秀寺(かくしゅうじ)は、青森県弘前市にある曹洞宗の寺院。山号は津軽山。本尊は釈迦牟尼仏(釈迦如来)。本堂などは重要文化財に指定されている。
本堂(重要文化財)
歴史
もとは弘前藩祖津軽為信が慶長年間(17世紀初)、現在の藤崎町に創建したもので、為信が帰依した長勝寺8世の格翁舜逸が、自らの隠居所としたという(津軽一統志)。
津軽為信が没した翌年の慶長13年(1608年)、弘前藩2代藩主津軽信枚が藤代村(現在の弘前市藤代)に移し、父・為信の菩提寺としたと伝える。一方、慶長14年(1609年)、津軽信枚が父・為信菩提のための位牌所として創建したとの伝えもある(津軽歴代記類)。
革秀寺の周囲には池や2重の土塁が築かれ、家臣でも出入には制限が設けられるなど聖地化し、藩祖為信を神格化させた。慶長14年7月18日の津軽信枚寺領宛行状では、藤崎・舞田屋敷・川辺の3村で寺領100石が安堵され、藩祖菩提寺として歴代藩主の帰依をうける。また、本堂の修繕銘板から、現在地に移転した直後に火災に遭い、慶長15年(1610年)に修繕されたと思われる。
明治期には堂宇が荒廃していたことから、明治39年(1906年)に修築再建され、現在に至る。
重要文化財(国指定)
津軽為信霊屋(境内) - 江戸時代初期に建立された当時は質素であったが、文化年間(1804年〜1817年)に大修理し、現在の華麗な姿になった。規模は小さいが豪華で凝った建築が松や杉の古木が茂る中に建っていて、桁行一間、梁間一間、柱は総円柱、入母屋造、正面軒唐破風をつけたこけら葺き屋根。内部は非公開だが、板卒塔婆を巡らし宝篋印塔と元弘前城の館神であった木造太閤秀吉座像が安置されていて、彫刻や天井絵などの漆塗り、極彩色の華麗な塗装の多くが、文化年間の大修理によるものである。
本堂 - 入母屋造、茅葺。内部を八間取りとする方丈形式の本堂で、江戸時代初期の建立。
交通
弘南バス
弘前駅 - 城西大橋・工業高校経由 - 藤代営業所線
向駒越停留所。
所在地 青森県弘前市藤代1丁目4−1
位置 北緯40度36分45.8秒 東経140度27分00.4秒
山号 津軽山
宗旨 曹洞宗
本尊 釈迦如来
創建年 慶長年間(17世紀初頭)
開基 格翁舜逸
津軽信枚
文化財 本堂(国の重要文化財)
津軽為信霊屋(国の重要文化財)
本堂(重要文化財)
歴史
もとは弘前藩祖津軽為信が慶長年間(17世紀初)、現在の藤崎町に創建したもので、為信が帰依した長勝寺8世の格翁舜逸が、自らの隠居所としたという(津軽一統志)。
津軽為信が没した翌年の慶長13年(1608年)、弘前藩2代藩主津軽信枚が藤代村(現在の弘前市藤代)に移し、父・為信の菩提寺としたと伝える。一方、慶長14年(1609年)、津軽信枚が父・為信菩提のための位牌所として創建したとの伝えもある(津軽歴代記類)。
革秀寺の周囲には池や2重の土塁が築かれ、家臣でも出入には制限が設けられるなど聖地化し、藩祖為信を神格化させた。慶長14年7月18日の津軽信枚寺領宛行状では、藤崎・舞田屋敷・川辺の3村で寺領100石が安堵され、藩祖菩提寺として歴代藩主の帰依をうける。また、本堂の修繕銘板から、現在地に移転した直後に火災に遭い、慶長15年(1610年)に修繕されたと思われる。
明治期には堂宇が荒廃していたことから、明治39年(1906年)に修築再建され、現在に至る。
文化財
重要文化財(国指定)
津軽為信霊屋(境内) - 江戸時代初期に建立された当時は質素であったが、文化年間(1804年〜1817年)に大修理し、現在の華麗な姿になった。規模は小さいが豪華で凝った建築が松や杉の古木が茂る中に建っていて、桁行一間、梁間一間、柱は総円柱、入母屋造、正面軒唐破風をつけたこけら葺き屋根。内部は非公開だが、板卒塔婆を巡らし宝篋印塔と元弘前城の館神であった木造太閤秀吉座像が安置されていて、彫刻や天井絵などの漆塗り、極彩色の華麗な塗装の多くが、文化年間の大修理によるものである。
本堂 - 入母屋造、茅葺。内部を八間取りとする方丈形式の本堂で、江戸時代初期の建立。
交通
弘南バス
弘前駅 - 城西大橋・工業高校経由 - 藤代営業所線
向駒越停留所。
所在地 青森県弘前市藤代1丁目4−1
位置 北緯40度36分45.8秒 東経140度27分00.4秒
山号 津軽山
宗旨 曹洞宗
本尊 釈迦如来
創建年 慶長年間(17世紀初頭)
開基 格翁舜逸
津軽信枚
文化財 本堂(国の重要文化財)
津軽為信霊屋(国の重要文化財)
2024年07月03日
横手神明社(よこてしんめいしゃ)は、秋田県横手市神明町にある神社
横手神明社(よこてしんめいしゃ)は、秋田県横手市神明町にある神社である。旧社格は郷社。
由緒
社伝では、日本武尊が東征するに際し、上総国(千葉県)より随従した者が当地方に滞留して社殿を建立したとしている。
享保元年(1716年)、当時横手町の富豪として知られた大沼津右衛門、金子吉右衛門、泉兵右衛門らが横手城下町と横手前郷村の境にあたる前郷村大乗院塚に社殿を建立し、外町(町人地)の鎮守とした。横手を訪れた江戸時代の旅行家菅江真澄も『月の出羽路』において当時の横手町の町屋が前郷集落まで続いているようすを伝えている。町人の信仰篤い神社で、石灯籠など多くの寄進があり、境内には華道をたしなむ人たちによる「花塚」の石碑もある。
明治6年(1873年)郷社に列し、明治13年(1880年)2月、大乗院塚から現在地の神明町に移転した。長い年月によって多くの神社と合祀した結果、境内には小祠が軒を連ねている。社宝の「銅錫杖頭」は国の重要文化財に指定されている。
本殿には菅原道真公も祀られていることから、平成31年(2019年)より鷽替えまつりを開催。
祭神
天照大神
豊受姫大神
猿田彦神
須佐之男神
菅原大神
文化財
重要文化財(国指定)
銅錫杖頭(どう しゃくじょうとう) 正元元年銘(1259年)
交通
鉄道
JR東日本 奥羽本線 横手駅より930メートル
バス
バス停「神明町」
羽後交通
その他
駐車場 : 有り
所在地 013-0046 秋田県横手市神明町7-2
位置 北緯39度18分28.6秒 東経140度34分7秒
主祭神 天照大神
豊受姫大神
猿田彦神
須佐之男神
菅原大神
社格等 旧郷社
例祭 5月4日・5
由緒
社伝では、日本武尊が東征するに際し、上総国(千葉県)より随従した者が当地方に滞留して社殿を建立したとしている。
享保元年(1716年)、当時横手町の富豪として知られた大沼津右衛門、金子吉右衛門、泉兵右衛門らが横手城下町と横手前郷村の境にあたる前郷村大乗院塚に社殿を建立し、外町(町人地)の鎮守とした。横手を訪れた江戸時代の旅行家菅江真澄も『月の出羽路』において当時の横手町の町屋が前郷集落まで続いているようすを伝えている。町人の信仰篤い神社で、石灯籠など多くの寄進があり、境内には華道をたしなむ人たちによる「花塚」の石碑もある。
明治6年(1873年)郷社に列し、明治13年(1880年)2月、大乗院塚から現在地の神明町に移転した。長い年月によって多くの神社と合祀した結果、境内には小祠が軒を連ねている。社宝の「銅錫杖頭」は国の重要文化財に指定されている。
本殿には菅原道真公も祀られていることから、平成31年(2019年)より鷽替えまつりを開催。
祭神
天照大神
豊受姫大神
猿田彦神
須佐之男神
菅原大神
文化財
重要文化財(国指定)
銅錫杖頭(どう しゃくじょうとう) 正元元年銘(1259年)
交通
鉄道
JR東日本 奥羽本線 横手駅より930メートル
バス
バス停「神明町」
羽後交通
その他
駐車場 : 有り
所在地 013-0046 秋田県横手市神明町7-2
位置 北緯39度18分28.6秒 東経140度34分7秒
主祭神 天照大神
豊受姫大神
猿田彦神
須佐之男神
菅原大神
社格等 旧郷社
例祭 5月4日・5
2024年07月02日
伏見寺(ふしみじ)は、石川県金沢市寺町5丁目にある高野山真言宗の寺院
2024年07月01日
遠照寺(おんしょうじ)は、長野県伊那市高遠町山室にある日蓮宗の寺院
遠照寺(おんしょうじ)は、長野県伊那市高遠町山室にある日蓮宗の寺院。山号は妙朝山。牡丹寺として知られる。釈迦堂と堂内の多宝小塔は重要文化財。旧本山は、身延山久遠寺。潮師法縁。
歴史
寺伝によれば最澄が東国教化のために伊那谷を通った折りに(詳しくは『叡山大師伝』)教えに浴し、弘仁11年(820)(1955年文部省による解体調査修理の折り、屋根裏より「弘仁十一年薬師堂建之」の矢羽根が発見された)現在の釈迦堂の場所に前身である薬師堂が建てられた時が草創とされる。伝承では、最澄自作の漆黒の薬師如来を安置したという。以来、天台宗寺院として発展し、天福元年(1233年)現在地より1キロメートルほど南、原妙堂の地に天台宗谷室山天福寺が開かれた。『三義村誌』には「碩徳名僧相継ぎ諸人の渇仰最も盛んにして輜素の精髄之に集まり近郷最稀なる著名の巨刹にして二百四十一年を経るも、文正六年十一月伽藍悉く祝融の厄に遭ふ。然るに、文明五年(1473)身延山11世行学院日朝上人、この地に駐錫を垂れ住僧権律師某を教誡す。師本化の慈光に浴し豁然として改宗し名を日用と賜わり遠照寺第1世として、道場を薬師堂の許に創し一寺を建立し、日朝上人を開山と仰ぎ日蓮宗妙朝山遠照寺を開く」(要約)とある。
文化財
重要文化財
釈迦堂(附 多宝小塔)
1930年(昭和5年)5月23日、旧国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定。附指定の多宝小塔は1955年(昭和30年)2月2日追加指定。
釈迦堂は方3間、一重、入母屋造、向拝一間付き、銅板葺で、西面する。2020年日蓮宗最古の法華堂に指定。文明6年(1474年)から明応4年(1495年)の間の建立。宗門史跡調査委員会の調査により天文7年(1538年)建立説は改められる。15世日耀上人に至るまで釈迦堂を本堂として充てるが、後に本堂を別に建立する。大仏様が見られる東端の仏堂になる。
堂内の多宝小塔は、三間多宝塔、瓦棒入板葺。心柱に以下の墨書がある。正面(西側)「地頭藤沢遠江守御代々官比丘尼妙因 生年 六十四」。南面 「文亀2年壬戌二月二十三日始之六月一日建立畢」。背面「吉田原豊前守法名円妙ーー遠照寺住正行房日周ーー大工鉾持住池上左衛門太夫政清ーー」。北面「奉造立処之宝塔者遠尋在世現本巳之中間顕証ーー」。『三義村誌』には「金銀五色の彩色を施し實に精緻荘厳を極め地方之に冠たるものなしと云」とある。長野県最古の多宝塔。
釈迦堂(附 多宝小塔)
所在地 長野県伊那市高遠町山室2010
位置 北緯35度50分45.0秒 東経138度6分2.6秒
山号 妙朝山
宗派 日蓮宗
本尊 釈迦如来
創建年 伝・821年(弘仁11年)
開基 最澄(寺伝による開基)日朝(中興)
文化財 釈迦堂(附 多宝小塔)(重要文化財)
七面堂 庭園(市指定文化財)
歴史
寺伝によれば最澄が東国教化のために伊那谷を通った折りに(詳しくは『叡山大師伝』)教えに浴し、弘仁11年(820)(1955年文部省による解体調査修理の折り、屋根裏より「弘仁十一年薬師堂建之」の矢羽根が発見された)現在の釈迦堂の場所に前身である薬師堂が建てられた時が草創とされる。伝承では、最澄自作の漆黒の薬師如来を安置したという。以来、天台宗寺院として発展し、天福元年(1233年)現在地より1キロメートルほど南、原妙堂の地に天台宗谷室山天福寺が開かれた。『三義村誌』には「碩徳名僧相継ぎ諸人の渇仰最も盛んにして輜素の精髄之に集まり近郷最稀なる著名の巨刹にして二百四十一年を経るも、文正六年十一月伽藍悉く祝融の厄に遭ふ。然るに、文明五年(1473)身延山11世行学院日朝上人、この地に駐錫を垂れ住僧権律師某を教誡す。師本化の慈光に浴し豁然として改宗し名を日用と賜わり遠照寺第1世として、道場を薬師堂の許に創し一寺を建立し、日朝上人を開山と仰ぎ日蓮宗妙朝山遠照寺を開く」(要約)とある。
文化財
重要文化財
釈迦堂(附 多宝小塔)
1930年(昭和5年)5月23日、旧国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定。附指定の多宝小塔は1955年(昭和30年)2月2日追加指定。
釈迦堂は方3間、一重、入母屋造、向拝一間付き、銅板葺で、西面する。2020年日蓮宗最古の法華堂に指定。文明6年(1474年)から明応4年(1495年)の間の建立。宗門史跡調査委員会の調査により天文7年(1538年)建立説は改められる。15世日耀上人に至るまで釈迦堂を本堂として充てるが、後に本堂を別に建立する。大仏様が見られる東端の仏堂になる。
堂内の多宝小塔は、三間多宝塔、瓦棒入板葺。心柱に以下の墨書がある。正面(西側)「地頭藤沢遠江守御代々官比丘尼妙因 生年 六十四」。南面 「文亀2年壬戌二月二十三日始之六月一日建立畢」。背面「吉田原豊前守法名円妙ーー遠照寺住正行房日周ーー大工鉾持住池上左衛門太夫政清ーー」。北面「奉造立処之宝塔者遠尋在世現本巳之中間顕証ーー」。『三義村誌』には「金銀五色の彩色を施し實に精緻荘厳を極め地方之に冠たるものなしと云」とある。長野県最古の多宝塔。
釈迦堂(附 多宝小塔)
所在地 長野県伊那市高遠町山室2010
位置 北緯35度50分45.0秒 東経138度6分2.6秒
山号 妙朝山
宗派 日蓮宗
本尊 釈迦如来
創建年 伝・821年(弘仁11年)
開基 最澄(寺伝による開基)日朝(中興)
文化財 釈迦堂(附 多宝小塔)(重要文化財)
七面堂 庭園(市指定文化財)
2024年06月30日
埴生護国八幡宮(はにゅう ごこく はちまんぐう)は、富山県小矢部市にある神社(八幡宮)
埴生護国八幡宮(はにゅう ごこく はちまんぐう)は、富山県小矢部市にある神社(八幡宮)
歴史
創建の正確な年代は不明。伝承によれば養老2年(718年)創建という。 一方、『吾妻鏡』や『吉記』といった史料には「入道源三位卿(=源頼政)の縁者」埴生弥太郎盛兼が、養和元年(1181年)に平家方に追い詰められ自害したとの記録がある。この記録から、摂津源氏の近親たる埴生氏によって山城国から越中国埴生に八幡軍が勧進されたのではないか、とする説がある。
『源平盛衰記』には寿永2年(1183年)5月、木曾義仲が倶利伽羅峠の戦いの戦勝を当社に祈願したことが見える。以来、武将の崇敬を受け、前田利長や佐々成政から社領を寄進された。義仲戦勝祈願書、武田信玄書状などを社宝とし、境内入口には、義仲の騎馬像と源氏軍が鳩の案内で得たという名水「鳩清水(はとしみず)」がある。また、蓮沼城主遊佐慶親の寄進による石段がある。 社殿は、国の重要文化財に指定されている。
文化財
重要文化財(国指定)
本殿 慶長5年(1600年)建立
釣殿 正保3年(1646年)建立
拝殿及び幣殿 正保3年(1646年)建立
所在地 富山県小矢部市埴生2992
位置 北緯36度40分0.7秒 東経136度51分5.8秒
主祭神 八幡大神
創建 (伝)養老2年(718年)
別名 護国八幡宮
例祭 9月15日(石清水祭)
歴史
創建の正確な年代は不明。伝承によれば養老2年(718年)創建という。 一方、『吾妻鏡』や『吉記』といった史料には「入道源三位卿(=源頼政)の縁者」埴生弥太郎盛兼が、養和元年(1181年)に平家方に追い詰められ自害したとの記録がある。この記録から、摂津源氏の近親たる埴生氏によって山城国から越中国埴生に八幡軍が勧進されたのではないか、とする説がある。
『源平盛衰記』には寿永2年(1183年)5月、木曾義仲が倶利伽羅峠の戦いの戦勝を当社に祈願したことが見える。以来、武将の崇敬を受け、前田利長や佐々成政から社領を寄進された。義仲戦勝祈願書、武田信玄書状などを社宝とし、境内入口には、義仲の騎馬像と源氏軍が鳩の案内で得たという名水「鳩清水(はとしみず)」がある。また、蓮沼城主遊佐慶親の寄進による石段がある。 社殿は、国の重要文化財に指定されている。
文化財
重要文化財(国指定)
本殿 慶長5年(1600年)建立
釣殿 正保3年(1646年)建立
拝殿及び幣殿 正保3年(1646年)建立
所在地 富山県小矢部市埴生2992
位置 北緯36度40分0.7秒 東経136度51分5.8秒
主祭神 八幡大神
創建 (伝)養老2年(718年)
別名 護国八幡宮
例祭 9月15日(石清水祭)
2024年06月29日
大山寺(だいせんじ)は鳥取県西伯郡大山町(大山隠岐国立公園内)伯耆大山中腹にある天台宗別格本山の寺
大山寺(だいせんじ)は鳥取県西伯郡大山町(大山隠岐国立公園内)伯耆大山中腹にある天台宗別格本山の寺。中国三十三観音第二十九番。山号は角磐山。本尊は地蔵菩薩。
本堂(登録有形文化財)
歴史
養老2年(718年)に俊方(金蓮上人)によって開かれたとされる。開山時は真言宗の寺院であった。『選集抄』や『大山寺縁起』によると、俊方はある日大山で鹿を弓で射たが、その対象が鹿ではなく地蔵尊だったと知った。俊方は殺生は罪深いことだったと悟り、出家して「金蓮」を名乗り、草庵をむすび地蔵菩薩を祀った。この草庵が大山寺の起源とされる。なお、この「起源」の説話が影響しているのか、現在でも、大山には石造りの地蔵が多数みられる。
大山は仏教伝来前から強力な神が住むとして崇められた神道信仰の地となっており、大山寺は山岳信仰や道教も採り入れた真言宗の信仰地として多くの修行者が訪れた。
平安時代の貞観7年(865年)には天台宗となり、天台宗別格本山角磐山大山寺として指定された。寺には地蔵菩薩の顕現として大智明権現が祀られた。寺の住職である座主は比叡山から派遣され、ここでの任期を勤めた後、比叡山に戻って昇格するという、僧侶のキャリア形成の場となった。
古くから信仰の道である大山道が岡山県岡山市から南北に整備され、途中出雲街道とも交差することもあって、信仰だけでなく、商業交通の面でも発展した。
阿弥陀堂(国の重要文化財)
文化財
重要文化財
阿弥陀堂 - 寄棟造、柿(こけら)葺き。天文21年(1552年)建立。
木造阿弥陀如来及び両脇侍像 - 中尊像内の墨書銘から天承元年(1131年)良円の作と判明する。
銅造十一面観音立像 - 奈良時代
銅造観音菩薩立像 - 奈良時代
銅造観音菩薩立像 2躯 - 1躯は奈良時代、もう1躯は宋または遼時代。
鉄製厨子 附:祈願文線刻鉄板3枚、鉄造地蔵菩薩頭部
登録有形文化財
本堂
鐘楼
交通アクセス
米子駅から日交バスで54分、終点下車。ただし、1日5往復のみ。
大山口駅から日交バスで30分、終点下車。ただし、1日下り4便、上り3便のみ。
なお、終点の大山寺バス停は大山ナショナルパークセンター1階にある。
所在地 鳥取県西伯郡大山町大山9
位置 北緯35度23分27.5秒 東経133度32分5.6秒
山号 角磐山
宗派 天台宗
寺格 別格本山
本尊 地蔵菩薩
創建年 伝・養老2年(718年 )
開基 伝・金蓮
札所等 中国三十三観音29番
伯耆観音霊場14番・15番
出雲國神仏霊場10番
文化財 阿弥陀堂・木造阿弥陀如来及び両脇侍像ほか(国の重要文化財)
本堂(登録有形文化財)
歴史
養老2年(718年)に俊方(金蓮上人)によって開かれたとされる。開山時は真言宗の寺院であった。『選集抄』や『大山寺縁起』によると、俊方はある日大山で鹿を弓で射たが、その対象が鹿ではなく地蔵尊だったと知った。俊方は殺生は罪深いことだったと悟り、出家して「金蓮」を名乗り、草庵をむすび地蔵菩薩を祀った。この草庵が大山寺の起源とされる。なお、この「起源」の説話が影響しているのか、現在でも、大山には石造りの地蔵が多数みられる。
大山は仏教伝来前から強力な神が住むとして崇められた神道信仰の地となっており、大山寺は山岳信仰や道教も採り入れた真言宗の信仰地として多くの修行者が訪れた。
平安時代の貞観7年(865年)には天台宗となり、天台宗別格本山角磐山大山寺として指定された。寺には地蔵菩薩の顕現として大智明権現が祀られた。寺の住職である座主は比叡山から派遣され、ここでの任期を勤めた後、比叡山に戻って昇格するという、僧侶のキャリア形成の場となった。
古くから信仰の道である大山道が岡山県岡山市から南北に整備され、途中出雲街道とも交差することもあって、信仰だけでなく、商業交通の面でも発展した。
阿弥陀堂(国の重要文化財)
文化財
重要文化財
阿弥陀堂 - 寄棟造、柿(こけら)葺き。天文21年(1552年)建立。
木造阿弥陀如来及び両脇侍像 - 中尊像内の墨書銘から天承元年(1131年)良円の作と判明する。
銅造十一面観音立像 - 奈良時代
銅造観音菩薩立像 - 奈良時代
銅造観音菩薩立像 2躯 - 1躯は奈良時代、もう1躯は宋または遼時代。
鉄製厨子 附:祈願文線刻鉄板3枚、鉄造地蔵菩薩頭部
登録有形文化財
本堂
鐘楼
交通アクセス
米子駅から日交バスで54分、終点下車。ただし、1日5往復のみ。
大山口駅から日交バスで30分、終点下車。ただし、1日下り4便、上り3便のみ。
なお、終点の大山寺バス停は大山ナショナルパークセンター1階にある。
所在地 鳥取県西伯郡大山町大山9
位置 北緯35度23分27.5秒 東経133度32分5.6秒
山号 角磐山
宗派 天台宗
寺格 別格本山
本尊 地蔵菩薩
創建年 伝・養老2年(718年 )
開基 伝・金蓮
札所等 中国三十三観音29番
伯耆観音霊場14番・15番
出雲國神仏霊場10番
文化財 阿弥陀堂・木造阿弥陀如来及び両脇侍像ほか(国の重要文化財)
2024年06月28日
中禅寺(ちゅうぜんじ)は栃木県日光市の中禅寺湖畔・歌ヶ浜にある天台宗の寺院
中禅寺(ちゅうぜんじ)は栃木県日光市の中禅寺湖畔・歌ヶ浜にある天台宗の寺院である。世界遺産に登録された輪王寺の別院であり、坂東三十三観音霊場の第18番に位置付けられている。
本尊真言:おん ばざら たらま きりく そわか
ご詠歌:中禅寺のぼりて拝むみずうみの うたの浜路にたつは白波
歴史
寺伝によれば784年(延暦3年)、日光山の開祖である勝道上人が船で湖を遊覧していた際に、湖上に千手観音の姿を感得し、桂の木に立木のまま千手観音像を刻んだ。この「立木千手観世音菩薩」を本尊として、中禅寺が開かれた。
当初は、二荒山神社の神宮寺として、男体山登拝口近くに建立され、「補陀洛山(ふだらくさん)中禅寺」(現在の日光二荒山神社中宮祠(ちゅうぐうし))とされた。本尊は、その本寺(ほんじ)観音堂に祀られた。脇侍として、源頼朝が寄進した四天王像が祀られた。
日光は女人禁制の霊場だったため、女性はいろは坂の途中の「女人堂」から本尊を遥拝した。
1141年(康治元年)、 藤原敦光が「中禅寺私記」を著す。
1315年(正和4年)、 仁澄により中禅寺の大造営が行なわれる。
1872年(明治5年)、 神仏分離により輪王寺別院となる。山内の女人牛馬禁制解禁。
1902年(明治35年)、大山津波により壊滅的被害を受け、現在の地(中禅寺湖畔の歌ヶ浜)に再建される[1]。このとき、観音堂が湖上に押し流されたが、本尊は無傷のまま湖上に浮かび、現在の観音堂に祀られることとなっ1141年(康治元年)、 藤原敦光が「中禅寺私記」を著す。
1315年(正和4年)、 仁澄により中禅寺の大造営が行なわれる。
1872年(明治5年)、 神仏分離により輪王寺別院となる。山内の女人牛馬禁制解禁。
1902年(明治35年)、大山津波により壊滅的被害を受け、現在の地(中禅寺湖畔の歌ヶ浜)に再建される。このとき、観音堂が湖上に押し流されたが、本尊は無傷のまま湖上に浮かび、現在の観音堂に祀られることとなった。
1969年(昭和44年) 勝道上人開山1200年記念事業として五大明王堂が建設される。
1969年(昭和44年) 勝道上人開山1200年記念事業として五大明王堂が建設される。
文化財
重要文化財
木造千手観音立像 - 立木観音堂に安置。像高約6メートル。1914年(大正3年)8月25日付けで古社寺保存法に基づく国宝(旧国宝、現行法の重要文化財に相当)に指定されている。所有者名義は輪王寺。勝道上人が延暦年間(奈良時代末期-平安時代初期)に立木に彫刻したとの伝承から立木観音と通称される。ノミをいれる度にお経を三回読む「一刀三禮彫り」によって彫られたと言われている。作風・技法等から見て、実際の製作年代は平安時代後期と推定されている。カツラ材の一木彫で、42本の手などは別材を寄せて造られている。1902年(明治35年)9月28日から9月29日にかけての暴風雨により起きた男体山の山津波により中禅寺湖に流されたが、3日後奇跡的に浮かび上がり、現在の中禅寺湖東岸に安置された。これにより、苦難や災事を乗り越える力を与えてくれるとの信仰を集めるようになった。
交通
JR日光線日光駅または東武日光線東武日光駅から、東武バス中禅寺温泉行または湯元温泉行にて中禅寺温泉下車、徒歩20分、または中禅寺温泉より東武バス中禅寺スカイライン半月山線半月山行き(7月〜11月のみ運行)に乗り換えて立木観音・遊覧船発着所下車、徒歩4分
中禅寺湖クルージング中禅寺湖一周コース(7月〜11月のみ運航)にて船の駅中禅寺または菖蒲ヶ浜、大使館別荘記念公園より立木観音前で下船後、徒歩5分。
所在地 栃木県日光市中宮祠2482
位置 北緯36度43分51.3秒 東経139度29分30秒
山号 日光山
宗派 天台宗
寺格 別院
本尊 十一面千手観世音菩薩
創建年 (伝)784年(延暦3年)
開基 (伝)勝道
正式名 日光山 輪王寺 別院 中禅寺
別称 立木観音
札所等 坂東三十三観音霊場18番
下野七福神(大黒天)
文化財 木造千手観音立像(重要文化財)
本尊真言:おん ばざら たらま きりく そわか
ご詠歌:中禅寺のぼりて拝むみずうみの うたの浜路にたつは白波
歴史
寺伝によれば784年(延暦3年)、日光山の開祖である勝道上人が船で湖を遊覧していた際に、湖上に千手観音の姿を感得し、桂の木に立木のまま千手観音像を刻んだ。この「立木千手観世音菩薩」を本尊として、中禅寺が開かれた。
当初は、二荒山神社の神宮寺として、男体山登拝口近くに建立され、「補陀洛山(ふだらくさん)中禅寺」(現在の日光二荒山神社中宮祠(ちゅうぐうし))とされた。本尊は、その本寺(ほんじ)観音堂に祀られた。脇侍として、源頼朝が寄進した四天王像が祀られた。
日光は女人禁制の霊場だったため、女性はいろは坂の途中の「女人堂」から本尊を遥拝した。
1141年(康治元年)、 藤原敦光が「中禅寺私記」を著す。
1315年(正和4年)、 仁澄により中禅寺の大造営が行なわれる。
1872年(明治5年)、 神仏分離により輪王寺別院となる。山内の女人牛馬禁制解禁。
1902年(明治35年)、大山津波により壊滅的被害を受け、現在の地(中禅寺湖畔の歌ヶ浜)に再建される[1]。このとき、観音堂が湖上に押し流されたが、本尊は無傷のまま湖上に浮かび、現在の観音堂に祀られることとなっ1141年(康治元年)、 藤原敦光が「中禅寺私記」を著す。
1315年(正和4年)、 仁澄により中禅寺の大造営が行なわれる。
1872年(明治5年)、 神仏分離により輪王寺別院となる。山内の女人牛馬禁制解禁。
1902年(明治35年)、大山津波により壊滅的被害を受け、現在の地(中禅寺湖畔の歌ヶ浜)に再建される。このとき、観音堂が湖上に押し流されたが、本尊は無傷のまま湖上に浮かび、現在の観音堂に祀られることとなった。
1969年(昭和44年) 勝道上人開山1200年記念事業として五大明王堂が建設される。
1969年(昭和44年) 勝道上人開山1200年記念事業として五大明王堂が建設される。
文化財
重要文化財
木造千手観音立像 - 立木観音堂に安置。像高約6メートル。1914年(大正3年)8月25日付けで古社寺保存法に基づく国宝(旧国宝、現行法の重要文化財に相当)に指定されている。所有者名義は輪王寺。勝道上人が延暦年間(奈良時代末期-平安時代初期)に立木に彫刻したとの伝承から立木観音と通称される。ノミをいれる度にお経を三回読む「一刀三禮彫り」によって彫られたと言われている。作風・技法等から見て、実際の製作年代は平安時代後期と推定されている。カツラ材の一木彫で、42本の手などは別材を寄せて造られている。1902年(明治35年)9月28日から9月29日にかけての暴風雨により起きた男体山の山津波により中禅寺湖に流されたが、3日後奇跡的に浮かび上がり、現在の中禅寺湖東岸に安置された。これにより、苦難や災事を乗り越える力を与えてくれるとの信仰を集めるようになった。
交通
JR日光線日光駅または東武日光線東武日光駅から、東武バス中禅寺温泉行または湯元温泉行にて中禅寺温泉下車、徒歩20分、または中禅寺温泉より東武バス中禅寺スカイライン半月山線半月山行き(7月〜11月のみ運行)に乗り換えて立木観音・遊覧船発着所下車、徒歩4分
中禅寺湖クルージング中禅寺湖一周コース(7月〜11月のみ運航)にて船の駅中禅寺または菖蒲ヶ浜、大使館別荘記念公園より立木観音前で下船後、徒歩5分。
所在地 栃木県日光市中宮祠2482
位置 北緯36度43分51.3秒 東経139度29分30秒
山号 日光山
宗派 天台宗
寺格 別院
本尊 十一面千手観世音菩薩
創建年 (伝)784年(延暦3年)
開基 (伝)勝道
正式名 日光山 輪王寺 別院 中禅寺
別称 立木観音
札所等 坂東三十三観音霊場18番
下野七福神(大黒天)
文化財 木造千手観音立像(重要文化財)
2024年06月27日
最明寺(さいみょうじ)は、徳島県美馬市脇町大字猪尻にある真言宗大覚寺派の寺院
最明寺(さいみょうじ)は、徳島県美馬市脇町大字猪尻にある真言宗大覚寺派の寺院。本尊は聖観音菩薩。阿波西国三十三観音霊場第33番および四国三十六不動霊場第3番の札所になっており、多くの参拝者が集う。
御詠歌:もろびとの 心におわす み仏の誓願(ちかい)たのもし 萩満つる寺
概要
「萩寺」とも地元では呼ばれ、萩の花が境内のいたるところで9月中旬頃になると咲き乱れる。
開山を行基として天平年間(729年 - 748年)に創建され、現在地より北東200mの日野谷源流東側に位置し西光寺と号した。その後、江戸時代前期に現在地に移転し、西明寺と改号する。現在の寺名は、鎌倉時代に最明寺入道北条時頼が滞留したという伝説が西明寺縁起に残されていることに由来する。
文化財
重要文化財
木造毘沙門天立像 - 檜の一木造、古色、151.6cm、毘藍婆・尼藍婆の二鬼を従える兜跋毘沙門天の姿、平安時代後期作、明治44.8.9指定
徳島県指定文化財
木造阿弥陀如来坐像:定印結跏趺坐、桧の寄せ木造り、像高80cm、11世紀後半頃作、昭和52.1.21指定
地蔵来迎図:縦81.6cm、横35.3cm、鎌倉時代作、昭和50.2.12指定
交通アクセス
徳島線 穴吹駅からバスで「専売所下」下車 徒歩20分
新しい本堂と庫裡
所在地 徳島県美馬市脇町猪尻字西上野44
位置 北緯34度4分16.7秒 東経134度9分18.3秒
山号 弥天山(みてんざん)
院号 常光院(じょうこういん)
宗派 真言宗大覚寺派
本尊 聖観音菩薩
創建年 天平年間(729年 - 748年)
開基 行基
正式名 弥天山常光院最明寺
札所等 阿波西国三十三観音霊場第33番
四国三十六不動霊場第3番
文化財 木造毘沙門天立像(国の重要文化財)
御詠歌:もろびとの 心におわす み仏の誓願(ちかい)たのもし 萩満つる寺
概要
「萩寺」とも地元では呼ばれ、萩の花が境内のいたるところで9月中旬頃になると咲き乱れる。
開山を行基として天平年間(729年 - 748年)に創建され、現在地より北東200mの日野谷源流東側に位置し西光寺と号した。その後、江戸時代前期に現在地に移転し、西明寺と改号する。現在の寺名は、鎌倉時代に最明寺入道北条時頼が滞留したという伝説が西明寺縁起に残されていることに由来する。
文化財
重要文化財
木造毘沙門天立像 - 檜の一木造、古色、151.6cm、毘藍婆・尼藍婆の二鬼を従える兜跋毘沙門天の姿、平安時代後期作、明治44.8.9指定
徳島県指定文化財
木造阿弥陀如来坐像:定印結跏趺坐、桧の寄せ木造り、像高80cm、11世紀後半頃作、昭和52.1.21指定
地蔵来迎図:縦81.6cm、横35.3cm、鎌倉時代作、昭和50.2.12指定
交通アクセス
徳島線 穴吹駅からバスで「専売所下」下車 徒歩20分
新しい本堂と庫裡
所在地 徳島県美馬市脇町猪尻字西上野44
位置 北緯34度4分16.7秒 東経134度9分18.3秒
山号 弥天山(みてんざん)
院号 常光院(じょうこういん)
宗派 真言宗大覚寺派
本尊 聖観音菩薩
創建年 天平年間(729年 - 748年)
開基 行基
正式名 弥天山常光院最明寺
札所等 阿波西国三十三観音霊場第33番
四国三十六不動霊場第3番
文化財 木造毘沙門天立像(国の重要文化財)
2024年06月26日
井草八幡宮(いぐさはちまんぐう)は、東京都杉並区善福寺にある八幡神社
井草八幡宮(いぐさはちまんぐう)は、東京都杉並区善福寺にある八幡神社である。別表神社。
概要
青梅街道沿い、早稲田通り沿いにある。都内でも有数の広大な社叢を誇る。この地域一帯は遅野井とも称され、明治期までは遅野井八幡宮とも呼ばれていた。
井草八幡宮は、縄文期から祀られ、神社としての形態をととのえたのは平安時代(794年〜1185年)末期といわれている。 始めは春日社を祀っていたが、源頼朝が奥州征伐の戦勝祈願をしたことで八幡大神(やはたのおおかみ)を主祭神とするようになったと伝えられている。
源頼朝が起請(文治5年)して霊験を得、手植し奉献したと伝えられる老松「天然記念物-井草八幡の松」(高さ約40m)があったが、1973年(昭和48年)に枯れてしまった。現在その樹根の一部が当社回廊に飾られている。 アニメ〈物語〉シリーズにて作中の北白蛇神社のモデルにもなった。
祭神
八幡大神(応神天皇)
歴史
縄文期から人々が生活していた此の地に神が祀られ、神社としての形態をととのえたのは平安時代末期といわれている。当初は春日神を祀っており、源頼朝が奥州討伐の折、八幡神を合祀して戦勝を祈願して以来八幡宮を合祀し、後年春日社を末社として奉斎するようになった。
文明9年には太田道灌が石神井城の豊島氏を攻むるに当たり、戦勝祈願をしたと云い伝えられている。
江戸幕府三代将軍の徳川家光は、寺社奉行井上正利をして社殿を造営し、 慶安2年に朱印領六石を寄進している。以降幕末まで歴代将軍から朱印地の寄進があった。その頃、氏子崇敬者により、石燈篭、石鳥居、狛犬、手水盤などが奉献された。
明治以降も氏子崇敬者によって社殿の改修や増築が繰り返され、同時に植林も行われた。
境内
文華殿(宝物館)、民俗資料館、幼稚園を設置している。
文化財
顔面把手付釣手形土器 縄文時代 杉並区井荻三丁目(現・杉並区善福寺)出土(重要文化財)
交通
JR中央本線 西荻窪駅から徒歩18分
西武新宿線 上石神井駅・上井草駅からそれぞれ徒歩21分
関東バス 荻30・荻32・荻34・荻36の各系統で井草八幡宮停留所下車
関東バス 西01・西02・西03(西03は西武バスと共同運行)の各系統で桃井第四小学校停留所下車
所在地 東京都杉並区善福寺1-33-1
位置 北緯35度42分57.9秒 東経139度35分44.1秒
主祭神 八幡大神(古代では春日神)
応神天皇
社格等 旧郷社・別表神社
別名 遅野井八幡宮(明治期まで)
例祭 例大祭宵宮祭(9月30日)
例大祭当日祭(10月1日)
行事(10月2日)など
主な神事 神幸祭(3年に一度)
流鏑馬(5年に一度)
青梅街道渡御(上記以外の年)
概要
青梅街道沿い、早稲田通り沿いにある。都内でも有数の広大な社叢を誇る。この地域一帯は遅野井とも称され、明治期までは遅野井八幡宮とも呼ばれていた。
井草八幡宮は、縄文期から祀られ、神社としての形態をととのえたのは平安時代(794年〜1185年)末期といわれている。 始めは春日社を祀っていたが、源頼朝が奥州征伐の戦勝祈願をしたことで八幡大神(やはたのおおかみ)を主祭神とするようになったと伝えられている。
源頼朝が起請(文治5年)して霊験を得、手植し奉献したと伝えられる老松「天然記念物-井草八幡の松」(高さ約40m)があったが、1973年(昭和48年)に枯れてしまった。現在その樹根の一部が当社回廊に飾られている。 アニメ〈物語〉シリーズにて作中の北白蛇神社のモデルにもなった。
祭神
八幡大神(応神天皇)
歴史
縄文期から人々が生活していた此の地に神が祀られ、神社としての形態をととのえたのは平安時代末期といわれている。当初は春日神を祀っており、源頼朝が奥州討伐の折、八幡神を合祀して戦勝を祈願して以来八幡宮を合祀し、後年春日社を末社として奉斎するようになった。
文明9年には太田道灌が石神井城の豊島氏を攻むるに当たり、戦勝祈願をしたと云い伝えられている。
江戸幕府三代将軍の徳川家光は、寺社奉行井上正利をして社殿を造営し、 慶安2年に朱印領六石を寄進している。以降幕末まで歴代将軍から朱印地の寄進があった。その頃、氏子崇敬者により、石燈篭、石鳥居、狛犬、手水盤などが奉献された。
明治以降も氏子崇敬者によって社殿の改修や増築が繰り返され、同時に植林も行われた。
境内
文華殿(宝物館)、民俗資料館、幼稚園を設置している。
文化財
顔面把手付釣手形土器 縄文時代 杉並区井荻三丁目(現・杉並区善福寺)出土(重要文化財)
交通
JR中央本線 西荻窪駅から徒歩18分
西武新宿線 上石神井駅・上井草駅からそれぞれ徒歩21分
関東バス 荻30・荻32・荻34・荻36の各系統で井草八幡宮停留所下車
関東バス 西01・西02・西03(西03は西武バスと共同運行)の各系統で桃井第四小学校停留所下車
所在地 東京都杉並区善福寺1-33-1
位置 北緯35度42分57.9秒 東経139度35分44.1秒
主祭神 八幡大神(古代では春日神)
応神天皇
社格等 旧郷社・別表神社
別名 遅野井八幡宮(明治期まで)
例祭 例大祭宵宮祭(9月30日)
例大祭当日祭(10月1日)
行事(10月2日)など
主な神事 神幸祭(3年に一度)
流鏑馬(5年に一度)
青梅街道渡御(上記以外の年)