金剛證寺(こんごうしょうじ)は、三重県伊勢市朝熊町岳にある臨済宗南禅寺派の寺院。山号は勝峰山。院号は兜率院。本尊は虚空蔵菩薩。朝熊山(あさまやま)南峰(経ヶ峯)東腹にあり、当寺は「朝熊山」と呼ばれる場合がある。
歴史
創建は6世紀半ば、欽明天皇が僧・暁台に命じて明星堂を建てたのが初めといわれているが、定かではない。平安時代の天長2年(825年)に空海が真言密教の道場として当寺を中興したと伝えられている。またその際、空海は本尊として福威知満虚空蔵菩薩を祀り、寺名を勝峰山兜率院金剛證寺とし、虚空蔵求聞持法を修したという。なお鳥羽市河内町丸山539の庫蔵寺(真言宗御室派)は、空海が当寺の奥の院として建立したものであるという。
当寺はその後衰退して無住の時代が続いたが、14世紀末の明徳3年(1392年)から応永年間(1394年 - 1427年)に鎌倉建長寺71世の仏地禅師東岳文c(とうがくぶんいく)が再興に尽力した。これにより東岳文cを中興で新たな開山第一世とし、真言宗から臨済宗に改宗し禅宗寺院となった。
境内
本堂(重要文化財) - 摩尼殿。慶長14年(1609年)に姫路藩初代藩主池田輝政の寄進により再建されたもの[5]。本尊は福威智満虚空蔵菩薩で、伊勢神宮内宮の祭神天照大御神を現す神鏡も祀られており神仏習合の形式をとっている。日本三大虚空蔵菩薩の第一位として、広大無辺な「福徳・威徳・智徳」の三徳を有する秘仏で、伊勢神宮のご遷宮の翌年に二十年に一度の開帳を厳修している。本堂の前には本尊・虚空蔵菩薩の広大な智慧を戴いた寅の像「智慧寅」がある。安らぎの姿中に一視同仁の慈愛と威徳をお授けするという。また、向かいには丑の像「福丑」がある。この福丑は頭上に福の神である大黒天を頂いている。一度この福丑に触れれば心清く、意思堅固となり、福徳智慧増進し、身体健康の御利益が授けられるという。
文化財
国宝
伊勢国朝熊山経ヶ峯経塚出土品 一括
陶経筒 1口 奉造立如法経亀事、承安三年八月十一日、伊勢大神宮権禰宜荒木田時盛在銘
(以上第一経塚)
銅経筒 2口
銅鏡 残欠共 2面分
青白磁盒子 1口
(以上第二経塚)
銅経筒 1口 平治元年己卯八月十五日在銘
経巻13巻 内1巻法華経巻三 平治元年八月十四日奥書 内1巻般若心経
線刻阿弥陀三尊来迎鏡像 2面
線刻阿弥陀三尊鏡像 1面
線刻阿弥陀如来鏡像 1面
銅提子 1口
土製外筒 1具
(以上第三経塚)
重要文化財
金剛證寺本堂 附:厨子
紙本著色九鬼嘉隆像
木造雨宝童子立像
木造地蔵菩薩立像
銅造双鳳鑑
太刀(伝吉包) 附:黒漆太刀拵
アクセス
自動車
近鉄鳥羽線 朝熊駅より車で約30分。
伊勢自動車道「伊勢西IC」から伊勢志摩スカイラインを車で約20分。
バス
三重交通「参宮バス」(土日祝日、8月13日〜8月15日、12月30日〜1月4日のみ運行) で浦田町バス停から約20分。
所在地 三重県伊勢市朝熊町岳548
位置 北緯34度27分26.68秒 東経136度47分7.56秒
山号 勝峰山
院号 兜率院
宗派 臨済宗南禅寺派
本尊 虚空蔵菩薩
創建年 伝・6世紀半ば
開山 伝・暁台
中興年 明徳3年(1392年)
中興 東岳文c
正式名 勝峰山 兜率院 金剛證寺
札所等 伊勢西国三十三所観音霊場第2番
文化財 伊勢国朝熊山経ヶ峯経塚出土品 一括(国宝)
本堂、紙本著色九鬼嘉隆像、木造雨宝童子立像ほか(重要文化財)
朝熊山経塚群(国指定史跡)
2024年09月09日
2024年09月07日
双林寺(そうりんじ)は、宮城県栗原市築館にある曹洞宗の寺院
双林寺(そうりんじ)は、宮城県栗原市築館にある曹洞宗の寺院。山号は医王山。本尊は薬師如来。
歴史
この寺は、760年(天平宝字4年)医王山興福寺という法相宗寺院として創建されたという。その後衰退し、1591年(天正19年)に再興されたという。境内に薬師如来を祀る瑠璃光殿(江戸時代の建築)があり「杉薬師」とも称される。
文化財
重要文化財
木造薬師如来坐像
木造二天立像
所在地 宮城県栗原市築館薬師台1-1-1
位置 北緯38度43分50.1秒 東経141度1分4.8秒
山号 医王山
宗旨 曹洞宗
別称 杉薬師
文化財
木造薬師如来坐像(重要文化財)
木造二天立像(重要文化財)
木造地蔵菩薩立像(県指定)
銅造阿弥陀如来立像(県指定)
ほか
歴史
この寺は、760年(天平宝字4年)医王山興福寺という法相宗寺院として創建されたという。その後衰退し、1591年(天正19年)に再興されたという。境内に薬師如来を祀る瑠璃光殿(江戸時代の建築)があり「杉薬師」とも称される。
文化財
重要文化財
木造薬師如来坐像
木造二天立像
所在地 宮城県栗原市築館薬師台1-1-1
位置 北緯38度43分50.1秒 東経141度1分4.8秒
山号 医王山
宗旨 曹洞宗
別称 杉薬師
文化財
木造薬師如来坐像(重要文化財)
木造二天立像(重要文化財)
木造地蔵菩薩立像(県指定)
銅造阿弥陀如来立像(県指定)
ほか
2024年09月05日
圓福寺(えんふくじ)は、宮崎県高鍋町南高鍋にある浄土宗寺院
圓福寺(えんふくじ)は、宮崎県高鍋町南高鍋にある浄土宗寺院。本尊は阿弥陀如来。
歴史
応永年中に土持氏により時宗寺院として創建されたとされる。開山は久意。中興の10世住職の正誉により時宗から浄土宗に改宗。
江戸時代は高鍋藩主家秋月氏より、お目見えと御盃の待遇が許可される。寺領は寛永15年(1638年)の『高鍋藩給人帳』に10石、『貞享三年高鍋藩寺社帳』(1686年)に15石とある。
所在地 宮崎県児湯郡高鍋町大字南高鍋6405番地
位置 北緯32度07分12.7秒 東経131度30分37.1秒
山号 水コ山
院号 滿月院
宗旨 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 応永年中
開山 久意
開基 土持氏
中興 正誉(10世住職)
正式名 水コ山滿月院圓福寺
歴史
応永年中に土持氏により時宗寺院として創建されたとされる。開山は久意。中興の10世住職の正誉により時宗から浄土宗に改宗。
江戸時代は高鍋藩主家秋月氏より、お目見えと御盃の待遇が許可される。寺領は寛永15年(1638年)の『高鍋藩給人帳』に10石、『貞享三年高鍋藩寺社帳』(1686年)に15石とある。
所在地 宮崎県児湯郡高鍋町大字南高鍋6405番地
位置 北緯32度07分12.7秒 東経131度30分37.1秒
山号 水コ山
院号 滿月院
宗旨 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 応永年中
開山 久意
開基 土持氏
中興 正誉(10世住職)
正式名 水コ山滿月院圓福寺
2024年09月04日
大日坊(だいにちぼう)は、山形県鶴岡市にある真言宗豊山派の寺院
大日坊(だいにちぼう)は、山形県鶴岡市にある真言宗豊山派の寺院。山号は湯殿山。院号は金剛院。寺号は瀧水寺。本尊は湯殿山権現。国の重要文化財「銅造如来立像」(6 - 7世紀頃の制作と推定)がある。正式には湯殿山総本寺瀧水寺金剛院大網大日坊と称する。宗教法人としての登録名は「湯殿山総本寺大網大日坊」。
歴史
寺伝によれば807年(大同2年)空海が開山し、その弟子である渡海が開基と伝えられる。出羽三山参道のうち大網口に位置している。出羽三山神社では蜂子皇子を出羽三山の開祖としているが、大日坊及び注連寺では空海を開祖としている。大網の名は、湯殿山の本地仏である大日如来と月山の本地仏である阿弥陀如来を掛け合わせた「大阿弥」から来ており、地元では、大網を「空海によって聖地として定められ、清められた地」としており、湯殿山を高野山と対になる聖地としている。
湯殿山派4か寺の1寺であり、表口別当として古くから出羽三山に対する山岳信仰・修験道の寺のひとつとして栄えた。
かつては、春日局の寄進で1640年(寛永17年)に建てられた、3間四方の堂に、徳川家光の武運長久を祈願した本尊が安置されていたと言う。
この寺には、1786年(天明6年)に96歳で没した真如海上人の即身仏(厳しい修行の末に体内から脂肪や水分を落とし、身体内の窒素率を消耗しつくし、 腐敗雑菌の発生を防ぎ朽ちない身となり土の中に入って断食死し、その後数年後に掘り出されたもの)がある。
明治時代の神仏分離により、仏教寺院として出羽三山から独立した。また、1936年(昭和11年)に、地すべりが発生したため、現在の場所へ移転している。
本尊
本尊である湯殿山権現は、「金胎両部大日如来坐像」とも呼ばれる。出羽三山は、古来より女人禁制の山とされ、女人の入山が出来ず、別当寺が湯殿山の女人参詣所でもあった。寺伝では、大日坊の開祖空海が女人を哀れみ、湯殿山大権現を自ら彫ったと伝えている。本尊は秘仏とされ、丑歳と未歳にのみ開帳されている。
所在地 山形県鶴岡市大網11
位置 北緯38度35分33.1秒 東経139度54分1.3秒
山号 湯殿山
宗派 真言宗豊山派
本尊 湯殿山権現
創建年 天長2年(825年)
開基 空海
正式名 湯殿山総本寺瀧水寺金剛院大網大日坊(湯殿山総本寺大網大日坊)
別称 女人湯殿山
札所等 東北三十六不動尊霊場二番
庄内三十三観音霊場九番
文化財 銅造如来立像(重要文化財)
皇壇の杉(県天然記念物)
歴史
寺伝によれば807年(大同2年)空海が開山し、その弟子である渡海が開基と伝えられる。出羽三山参道のうち大網口に位置している。出羽三山神社では蜂子皇子を出羽三山の開祖としているが、大日坊及び注連寺では空海を開祖としている。大網の名は、湯殿山の本地仏である大日如来と月山の本地仏である阿弥陀如来を掛け合わせた「大阿弥」から来ており、地元では、大網を「空海によって聖地として定められ、清められた地」としており、湯殿山を高野山と対になる聖地としている。
湯殿山派4か寺の1寺であり、表口別当として古くから出羽三山に対する山岳信仰・修験道の寺のひとつとして栄えた。
かつては、春日局の寄進で1640年(寛永17年)に建てられた、3間四方の堂に、徳川家光の武運長久を祈願した本尊が安置されていたと言う。
この寺には、1786年(天明6年)に96歳で没した真如海上人の即身仏(厳しい修行の末に体内から脂肪や水分を落とし、身体内の窒素率を消耗しつくし、 腐敗雑菌の発生を防ぎ朽ちない身となり土の中に入って断食死し、その後数年後に掘り出されたもの)がある。
明治時代の神仏分離により、仏教寺院として出羽三山から独立した。また、1936年(昭和11年)に、地すべりが発生したため、現在の場所へ移転している。
本尊
本尊である湯殿山権現は、「金胎両部大日如来坐像」とも呼ばれる。出羽三山は、古来より女人禁制の山とされ、女人の入山が出来ず、別当寺が湯殿山の女人参詣所でもあった。寺伝では、大日坊の開祖空海が女人を哀れみ、湯殿山大権現を自ら彫ったと伝えている。本尊は秘仏とされ、丑歳と未歳にのみ開帳されている。
所在地 山形県鶴岡市大網11
位置 北緯38度35分33.1秒 東経139度54分1.3秒
山号 湯殿山
宗派 真言宗豊山派
本尊 湯殿山権現
創建年 天長2年(825年)
開基 空海
正式名 湯殿山総本寺瀧水寺金剛院大網大日坊(湯殿山総本寺大網大日坊)
別称 女人湯殿山
札所等 東北三十六不動尊霊場二番
庄内三十三観音霊場九番
文化財 銅造如来立像(重要文化財)
皇壇の杉(県天然記念物)
2024年09月03日
龍蔵寺(りゅうぞうじ)は、山口県山口市吉敷の滝山の中腹にある真言宗御室派の寺院
龍蔵寺(りゅうぞうじ)は、山口県山口市吉敷の滝山の中腹にある真言宗御室派の寺院。中国三十三観音の第十七番札所など巡礼の札所であり、国の天然記念物に指定されたイチョウの巨木がある。紅葉の名所でもある。
概要
龍蔵寺は山口市内では最古刹であり、縁起や歴史、他所から移されてきた客仏など、多くのものの由来が確定できず伝説的である。境内に流れる「鼓の滝」は古くから名勝として知られ、雪舟作と言われる池泉回遊式庭園や春の牡丹、秋の紅葉など、景勝地として整備されている。
また、ペットの永代供養も行っている。
歴史
1778年(安永7年)に龍蔵寺から長州藩に提出された由緒書によれば、文武天皇2年(698年)に豊後国の英彦山で修行していた役小角が、北方に見た瑞雲と光明から吉敷の滝を発見し、奥の院の岩窟を「龍の蔵」と名付け、熊野権現を勧請して護摩供を修したとされる。下って天平13年(741年)、行基がこの地で千手観音像を彫り、七堂伽藍を建てて「龍蔵寺」と名付けたと言われる。
江戸時代には、現在の本堂や観音堂の他に薬師堂や開山堂などがあったが、廃仏毀釈や廃藩置県など明治初期の混乱により多くのものが破却され寺は荒廃した。その後、明治29年に住職に就任した宮原泰歓の尽力により信仰の場として復活した。
アクセス
JR西日本新山口駅新幹線口より車で約20分
JR西日本山口駅より車で約15分
小郡インターチェンジより車で約15分
所在地 山口県山口市吉敷1750番地
位置 北緯34度10分3.8秒 東経131度24分44.0秒
山号 瀧塔山
宗派 真言宗御室派
本尊 阿弥陀如来
創建年 伝・741年(天平13年)
開基 伝・行基
札所等 中国三十三観音霊場 17番
文化財 木造大日如来坐像(国の重要文化財)
木造千手観音菩薩坐像(県指定文化財)
概要
龍蔵寺は山口市内では最古刹であり、縁起や歴史、他所から移されてきた客仏など、多くのものの由来が確定できず伝説的である。境内に流れる「鼓の滝」は古くから名勝として知られ、雪舟作と言われる池泉回遊式庭園や春の牡丹、秋の紅葉など、景勝地として整備されている。
また、ペットの永代供養も行っている。
歴史
1778年(安永7年)に龍蔵寺から長州藩に提出された由緒書によれば、文武天皇2年(698年)に豊後国の英彦山で修行していた役小角が、北方に見た瑞雲と光明から吉敷の滝を発見し、奥の院の岩窟を「龍の蔵」と名付け、熊野権現を勧請して護摩供を修したとされる。下って天平13年(741年)、行基がこの地で千手観音像を彫り、七堂伽藍を建てて「龍蔵寺」と名付けたと言われる。
江戸時代には、現在の本堂や観音堂の他に薬師堂や開山堂などがあったが、廃仏毀釈や廃藩置県など明治初期の混乱により多くのものが破却され寺は荒廃した。その後、明治29年に住職に就任した宮原泰歓の尽力により信仰の場として復活した。
アクセス
JR西日本新山口駅新幹線口より車で約20分
JR西日本山口駅より車で約15分
小郡インターチェンジより車で約15分
所在地 山口県山口市吉敷1750番地
位置 北緯34度10分3.8秒 東経131度24分44.0秒
山号 瀧塔山
宗派 真言宗御室派
本尊 阿弥陀如来
創建年 伝・741年(天平13年)
開基 伝・行基
札所等 中国三十三観音霊場 17番
文化財 木造大日如来坐像(国の重要文化財)
木造千手観音菩薩坐像(県指定文化財)
2024年09月02日
大善寺(だいぜんじ)は、山梨県甲州市勝沼町にある仏教寺院
大善寺(だいぜんじ)は、山梨県甲州市勝沼町にある仏教寺院。宗派は真言宗智山派、山号は柏尾山、本尊は薬師如来である。
歴史
正確な創建年代は不明だが、寺伝によれば奈良時代に行基の開創とされている(延慶3年(1310年)『関東下知状』)。本尊である薬師如来像の様式などから、実際の創建は平安時代前期と考えられている。薬師堂は天禄2年(971年)に三枝守国による建立とする伝承がある。天文14年(1545年)の『大善寺諸堂建立炎上記』によれば、在庁官人として甲府盆地東部の東郡地域で勢力を持った古代豪族である三枝氏の氏寺とされる。
大善寺東方の甲州市勝沼町柏尾には柏尾山経塚が所在し、平安時代の康和5年(1103年)の年記を有する経筒が出土している。銘文には三枝氏の一族である三枝守定・守継の名が見られる。経筒の銘文によれば、康和2年正月に山城国乙国郡石川村出身の勧進僧・寂円が、山梨郡牧山村の米沢寺において千手観音宝前において発願したという。康和5年3月24日には完成した経典が米沢寺から大善寺にあたる柏尾山寺往生院へ移され、同年4月3日に往生院院主・堯範により開講演説・十種供養の行事が行われると、柏尾山に埋納されたという。なお、経典が書写された「米沢寺」は後の米沢寺雲峰寺の前身寺院と推定されており、山梨市牧丘町杣口に所在する金桜神社奥社遺跡に比定する説がある。
伽藍
本堂
本堂は国宝に指定されている。屋根は寄棟造、檜皮葺。平面は桁行(間口)、梁間(側面)とも五間(ここでいう「間」は長さの単位ではなく柱間の数を表す)。組物は二手先(ふたてさき)とする。堂の北東隅と北西隅の柱にそれぞれ「弘安九年」(1286年)の刻銘があり、この年に立柱されたことがわかる。その後、堂の完成までには長い時間を要し、正応4年(1291年)に上棟、徳治2年(1306年)頃に竣工している。堂の四面に縁をめぐらす。平面構成は、手前の梁間2間分が外陣、その奥の梁間2間分は、中央の桁行3間が内陣、その左右の各桁行1間が脇陣となり、もっとも奥の梁間1間分を後陣とするという、中世密教仏堂に典型的な形式になる。外陣内部は左右に各1本の独立柱が立つが、中央部分は大虹梁(だいこうりょう)を渡して、柱を省略している。外陣・内陣間は格子戸で区切る。内陣の厨子には「文明十七年」(1485年)の墨書がある。この厨子は国宝の附(つけたり)指定となっている。この堂は様式的には和様に鎌倉時代に渡来した新様式である大仏様(よう)を加味した折衷様建築の代表例であり、頭貫(かしらぬき)の木鼻や大虹梁上の組物の形態などに大仏様の要素がみられる。屋根は大棟の極めて短い寄棟造とするが、これは江戸時代の明暦年間(1655 - 1658年)の改造によるものである。それ以前の形式が不明であるため、1955年の修理時にも屋根形態の復元は行われなかった。前述のように、堂の北東隅と北西隅の柱には「弘安九年」(1286年)の刻銘があるが、これらの柱に対して放射性炭素年代測定を行った結果、北西の柱は1286年からあまり遠くない時期に製材されたことが判明した。一方で北東の柱は1286年よりもさらに200年ほど遡る時期の木材であることが判明し、旧建物の部材を転用した可能性がある。この本堂は山梨県下に現存する最古の建築であるとともに、建立時期が明らかな中世密教仏堂の典型として、また大仏様の影響がみられる建築の東限に位置するものとして貴重である。
拝観
9:00〜16:00 拝観は有料
アクセス
公共交通機関
JR中央本線の甲斐大和駅や塩山駅前を発着する甲州市市民バスの「甲州市(塩山・勝沼・大和)縦断線」と、塩山駅や勝沼ぶどう郷駅前を発着する「勝沼地域バス ワインコース2」が大善寺バス停を通る。
自家用車など
国道20号柏尾交差点近く
中央自動車道勝沼インターチェンジから車で約3分
中央本線 勝沼ぶどう郷駅からタクシーで約5分
所在地 山梨県甲州市勝沼町勝沼3559
位置 北緯35度39分21.4秒 東経138度44分35.4秒
山号 柏尾山
宗派 真言宗智山派
本尊 薬師如来
創建年 伝・養老2年(718年)
開山 伝・行基
正式名 柏尾山鎮護国家大善寺
別称 ぶどう寺
札所等 甲斐百八番霊場第十八番札所
甲斐八十八霊場第七十七番札所
甲州東郡七福神巡拝第一霊場
文化財 本堂(国宝)
薬師如来及び両脇侍像、日光・月光菩薩像、十二神将像(重要文化財)
山門、鰐口、木造役行者倚像、大善寺文書ほか(県文化財)
歴史
正確な創建年代は不明だが、寺伝によれば奈良時代に行基の開創とされている(延慶3年(1310年)『関東下知状』)。本尊である薬師如来像の様式などから、実際の創建は平安時代前期と考えられている。薬師堂は天禄2年(971年)に三枝守国による建立とする伝承がある。天文14年(1545年)の『大善寺諸堂建立炎上記』によれば、在庁官人として甲府盆地東部の東郡地域で勢力を持った古代豪族である三枝氏の氏寺とされる。
大善寺東方の甲州市勝沼町柏尾には柏尾山経塚が所在し、平安時代の康和5年(1103年)の年記を有する経筒が出土している。銘文には三枝氏の一族である三枝守定・守継の名が見られる。経筒の銘文によれば、康和2年正月に山城国乙国郡石川村出身の勧進僧・寂円が、山梨郡牧山村の米沢寺において千手観音宝前において発願したという。康和5年3月24日には完成した経典が米沢寺から大善寺にあたる柏尾山寺往生院へ移され、同年4月3日に往生院院主・堯範により開講演説・十種供養の行事が行われると、柏尾山に埋納されたという。なお、経典が書写された「米沢寺」は後の米沢寺雲峰寺の前身寺院と推定されており、山梨市牧丘町杣口に所在する金桜神社奥社遺跡に比定する説がある。
伽藍
本堂
本堂は国宝に指定されている。屋根は寄棟造、檜皮葺。平面は桁行(間口)、梁間(側面)とも五間(ここでいう「間」は長さの単位ではなく柱間の数を表す)。組物は二手先(ふたてさき)とする。堂の北東隅と北西隅の柱にそれぞれ「弘安九年」(1286年)の刻銘があり、この年に立柱されたことがわかる。その後、堂の完成までには長い時間を要し、正応4年(1291年)に上棟、徳治2年(1306年)頃に竣工している。堂の四面に縁をめぐらす。平面構成は、手前の梁間2間分が外陣、その奥の梁間2間分は、中央の桁行3間が内陣、その左右の各桁行1間が脇陣となり、もっとも奥の梁間1間分を後陣とするという、中世密教仏堂に典型的な形式になる。外陣内部は左右に各1本の独立柱が立つが、中央部分は大虹梁(だいこうりょう)を渡して、柱を省略している。外陣・内陣間は格子戸で区切る。内陣の厨子には「文明十七年」(1485年)の墨書がある。この厨子は国宝の附(つけたり)指定となっている。この堂は様式的には和様に鎌倉時代に渡来した新様式である大仏様(よう)を加味した折衷様建築の代表例であり、頭貫(かしらぬき)の木鼻や大虹梁上の組物の形態などに大仏様の要素がみられる。屋根は大棟の極めて短い寄棟造とするが、これは江戸時代の明暦年間(1655 - 1658年)の改造によるものである。それ以前の形式が不明であるため、1955年の修理時にも屋根形態の復元は行われなかった。前述のように、堂の北東隅と北西隅の柱には「弘安九年」(1286年)の刻銘があるが、これらの柱に対して放射性炭素年代測定を行った結果、北西の柱は1286年からあまり遠くない時期に製材されたことが判明した。一方で北東の柱は1286年よりもさらに200年ほど遡る時期の木材であることが判明し、旧建物の部材を転用した可能性がある。この本堂は山梨県下に現存する最古の建築であるとともに、建立時期が明らかな中世密教仏堂の典型として、また大仏様の影響がみられる建築の東限に位置するものとして貴重である。
拝観
9:00〜16:00 拝観は有料
アクセス
公共交通機関
JR中央本線の甲斐大和駅や塩山駅前を発着する甲州市市民バスの「甲州市(塩山・勝沼・大和)縦断線」と、塩山駅や勝沼ぶどう郷駅前を発着する「勝沼地域バス ワインコース2」が大善寺バス停を通る。
自家用車など
国道20号柏尾交差点近く
中央自動車道勝沼インターチェンジから車で約3分
中央本線 勝沼ぶどう郷駅からタクシーで約5分
所在地 山梨県甲州市勝沼町勝沼3559
位置 北緯35度39分21.4秒 東経138度44分35.4秒
山号 柏尾山
宗派 真言宗智山派
本尊 薬師如来
創建年 伝・養老2年(718年)
開山 伝・行基
正式名 柏尾山鎮護国家大善寺
別称 ぶどう寺
札所等 甲斐百八番霊場第十八番札所
甲斐八十八霊場第七十七番札所
甲州東郡七福神巡拝第一霊場
文化財 本堂(国宝)
薬師如来及び両脇侍像、日光・月光菩薩像、十二神将像(重要文化財)
山門、鰐口、木造役行者倚像、大善寺文書ほか(県文化財)
2024年09月01日
根来寺(根來寺、ねごろじ/ ねごろでら)は、和歌山県岩出市にある新義真言宗の総本山の寺院
根来寺(根來寺、ねごろじ/ ねごろでら)は、和歌山県岩出市にある新義真言宗の総本山の寺院。山号は一乗山。本尊は大日如来・金剛薩埵・尊勝仏頂の三尊。開山は覚鑁(興教大師)。詳しくは一乗山大伝法院根来寺と称する。
歴史
平安時代後期の高野山の僧・覚鑁が、1130年(大治5年)に高野山内に小伝法院を創建したことに始まる。1131年(天承元年)、鳥羽上皇により勅願所とされたのを機に、院号を大伝法院と改めた。
1134年(長承3年)に覚鑁は金剛峯寺座主に就任し、高野山全体を統轄する強大な勢力をもつに至る。覚鑁は当時堕落していた高野山の信仰を建て直し、宗祖・空海の教義を復興しようと努めたが、高野山内の衆徒はこれに反発し、覚鑁一門と反対派は対立しあうようになった。
1140年(保延6年)には、覚鑁の住房・密厳院を含む覚鑁一門の寺院が高野山内の反対勢力により焼き討ちされるという事件(錐もみの乱)が発生し、覚鑁一門は高野山を下りて大伝法院の荘園の一つである弘田荘内にあった豊福寺(ぶふくじ)に拠点を移した。さらに新たに円明寺を建てて伝法会道場とする。こうして豊福寺・円明寺を中心として院家が建てられ、一山総称としての根来寺が形成される。覚鑁は1144年1月18日(康治2年12月12日)、49歳のとき円明寺で没する。それから1世紀以上後の1288年(正応元年)、大伝法院の学頭であった頼瑜は大伝法院の寺籍を根来寺に移し、この頃から大伝法院の本拠地は高野山から根来寺に移った。
文化財
国宝
大塔
重要文化財
大師堂 附:厨子及び須弥壇
根来寺(建造物)6棟
大伝法堂 附:棟札2枚、板札4枚
光明真言殿
大門
不動堂 附:厨子
行者堂
聖天堂 附:板札4枚
木造大日如来坐像・金剛薩埵坐像・尊勝仏頂坐像 - 大伝法堂に三尊として、中央に大日如来、左方(向かって右)に金剛薩埵(こんごうさった)、右方(向かって左)に尊勝仏頂を安置する。像高は順に350センチメートル、343センチメートル、335センチメートル。建物は江戸時代後期の再建だが、これらの三尊像は秀吉の焼き討ちをまぬがれたもので、大日如来像及び金剛薩埵像内の墨書から1387年(嘉慶元年)から1405年(応永12年)にかけての制作と判明する。仏像彫刻衰退期の室町時代における佳作と評価されている。大日如来、金剛薩埵、尊勝仏頂の三尊の組み合わせは珍しく、中でも尊勝仏頂は彫像としては稀有の遺品である。この三尊の組み合わせは、覚鑁が高野山に建立した大伝法院にすでにあったことが知られ、彼独自の教義解釈による組み合わせと思われる。
絹本著色鳥羽天皇像 - 平成27年9月4日指定。
交通アクセス
JR西日本和歌山線岩出駅から
和歌山バス那賀
樽井駅前・りんくうタウン駅前行きに乗車。 ※近畿大学を経由する便は根来寺停留所下車すぐ、しない便の場合は岩出図書館停留所下車のち東へ徒歩1.2キロメートル。
岩出市巡回バス
東巡回(船戸・根来)コースに乗車。根来寺停留所下車すぐ。 ※1日4往復のみ。
南海本線樽井駅・JR西日本阪和線和泉砂川駅から
和歌山バス那賀
岩出駅前行きに乗車。 ※近畿大学を経由する便は根来寺停留所下車すぐ、しない便の場合は岩出図書館停留所下車のち東へ徒歩1.2キロメートル。
入山料
大塔エリア・光明殿エリアは有料(大人500円他)、大門エリア・ 不動堂エリアは無料。
所在地 和歌山県岩出市根来2286
位置 北緯34度17分14秒 東経135度19分0秒
山号 一乗山
院号 大伝法院
宗派 新義真言宗
寺格 総本山
本尊 大日如来金剛薩埵尊勝仏頂
創建年 1130年(大治5年)
開山 覚鑁(興教大師)
正式名 一乗山 大伝法院 根来寺
札所等
真言宗十八本山第17番
近畿三十六不動尊霊場第34番
紀伊之国十三仏霊場第1番
役行者霊蹟札所
神仏霊場巡拝の道第9番(和歌山第9番)
文化財
大塔(国宝)
大日如来坐像・金剛薩埵坐像・尊勝仏頂坐像、大師堂、大伝法堂ほか(重要文化財)
根来寺境内(国の史跡)
根来寺庭園(国の名勝)
歴史
平安時代後期の高野山の僧・覚鑁が、1130年(大治5年)に高野山内に小伝法院を創建したことに始まる。1131年(天承元年)、鳥羽上皇により勅願所とされたのを機に、院号を大伝法院と改めた。
1134年(長承3年)に覚鑁は金剛峯寺座主に就任し、高野山全体を統轄する強大な勢力をもつに至る。覚鑁は当時堕落していた高野山の信仰を建て直し、宗祖・空海の教義を復興しようと努めたが、高野山内の衆徒はこれに反発し、覚鑁一門と反対派は対立しあうようになった。
1140年(保延6年)には、覚鑁の住房・密厳院を含む覚鑁一門の寺院が高野山内の反対勢力により焼き討ちされるという事件(錐もみの乱)が発生し、覚鑁一門は高野山を下りて大伝法院の荘園の一つである弘田荘内にあった豊福寺(ぶふくじ)に拠点を移した。さらに新たに円明寺を建てて伝法会道場とする。こうして豊福寺・円明寺を中心として院家が建てられ、一山総称としての根来寺が形成される。覚鑁は1144年1月18日(康治2年12月12日)、49歳のとき円明寺で没する。それから1世紀以上後の1288年(正応元年)、大伝法院の学頭であった頼瑜は大伝法院の寺籍を根来寺に移し、この頃から大伝法院の本拠地は高野山から根来寺に移った。
文化財
国宝
大塔
重要文化財
大師堂 附:厨子及び須弥壇
根来寺(建造物)6棟
大伝法堂 附:棟札2枚、板札4枚
光明真言殿
大門
不動堂 附:厨子
行者堂
聖天堂 附:板札4枚
木造大日如来坐像・金剛薩埵坐像・尊勝仏頂坐像 - 大伝法堂に三尊として、中央に大日如来、左方(向かって右)に金剛薩埵(こんごうさった)、右方(向かって左)に尊勝仏頂を安置する。像高は順に350センチメートル、343センチメートル、335センチメートル。建物は江戸時代後期の再建だが、これらの三尊像は秀吉の焼き討ちをまぬがれたもので、大日如来像及び金剛薩埵像内の墨書から1387年(嘉慶元年)から1405年(応永12年)にかけての制作と判明する。仏像彫刻衰退期の室町時代における佳作と評価されている。大日如来、金剛薩埵、尊勝仏頂の三尊の組み合わせは珍しく、中でも尊勝仏頂は彫像としては稀有の遺品である。この三尊の組み合わせは、覚鑁が高野山に建立した大伝法院にすでにあったことが知られ、彼独自の教義解釈による組み合わせと思われる。
絹本著色鳥羽天皇像 - 平成27年9月4日指定。
交通アクセス
JR西日本和歌山線岩出駅から
和歌山バス那賀
樽井駅前・りんくうタウン駅前行きに乗車。 ※近畿大学を経由する便は根来寺停留所下車すぐ、しない便の場合は岩出図書館停留所下車のち東へ徒歩1.2キロメートル。
岩出市巡回バス
東巡回(船戸・根来)コースに乗車。根来寺停留所下車すぐ。 ※1日4往復のみ。
南海本線樽井駅・JR西日本阪和線和泉砂川駅から
和歌山バス那賀
岩出駅前行きに乗車。 ※近畿大学を経由する便は根来寺停留所下車すぐ、しない便の場合は岩出図書館停留所下車のち東へ徒歩1.2キロメートル。
入山料
大塔エリア・光明殿エリアは有料(大人500円他)、大門エリア・ 不動堂エリアは無料。
所在地 和歌山県岩出市根来2286
位置 北緯34度17分14秒 東経135度19分0秒
山号 一乗山
院号 大伝法院
宗派 新義真言宗
寺格 総本山
本尊 大日如来金剛薩埵尊勝仏頂
創建年 1130年(大治5年)
開山 覚鑁(興教大師)
正式名 一乗山 大伝法院 根来寺
札所等
真言宗十八本山第17番
近畿三十六不動尊霊場第34番
紀伊之国十三仏霊場第1番
役行者霊蹟札所
神仏霊場巡拝の道第9番(和歌山第9番)
文化財
大塔(国宝)
大日如来坐像・金剛薩埵坐像・尊勝仏頂坐像、大師堂、大伝法堂ほか(重要文化財)
根来寺境内(国の史跡)
根来寺庭園(国の名勝)
2024年08月31日
岡山城(おかやまじょう)は、備前国御野郡岡山(現・岡山県岡山市北区)にあった日本の城
岡山城(おかやまじょう)は、備前国御野郡岡山(現・岡山県岡山市北区)にあった日本の城。国指定の史跡。別名は烏城(うじょう)、金烏城(きんうじょう)。
概要
戦国時代に、備前東部から興って、美作、備中東部まで勢力を伸ばした宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれ、その後小早川氏、池田氏により整備、拡張が行われた。
岡山城は標高が十数メートルの丘が連なる小高い土地に建設された。
当時、旭川河口部は複数の派川に分岐しており、その中の大洲原と呼ばれる広大なデルタ地帯中央に「岡山」(柴岡山とも)、その西隣に「石山」、さらにその北西には「天神山」(天満山とも)の3つの丘が連なり、各時代ごとに要害として使用されたとされる。その中の石山にあった石山城(いしやまじょう)に宇喜多直家が入城・改築し、後に子の宇喜多秀家が隣接する岡山に新たに本丸を設け、石山城を取り込む形で城郭が建造された。これが岡山城である。
建造物
現存する建造物
月見櫓 - 国の重要文化財、元和・寛永年間(1615-1632年)築・現存。本丸の北西隅に建つ。周辺には、土塀の礎石に狭間が作られており、当時の最新式の設備と言われる。
天守 - 外観復元
不明門 - 外観復元。本段への入口になる門。天守と同時に鉄筋コンクリートで復元された。
廊下門 - 外観復元
六十一雁木上門 - 復元
旧天守礎石 - 移設
交通アクセス
公共交通機関
岡山電気軌道東山本線 城下電停下車
岡電バス・両備バス 県庁前バス停下車
自家用車
山陽自動車道・岡山IC
別名 烏城、金烏城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 複合式望楼型4重6階(1597年築)
(鉄筋コンクリート造外観復元・1966年)
築城主 上神高直
築城年 1346年 - 1369年(正平年間)
主な改修者 宇喜多秀家、小早川秀秋、池田忠雄
主な城主 宇喜多氏、小早川氏、池田氏
廃城年 1873年(明治6年)
遺構 櫓、石垣、堀
指定文化財 国の重要文化財(月見櫓、西の丸西手櫓)
国の史跡
再建造物 外観復元天守・外観復元門・外観土塀
概要
戦国時代に、備前東部から興って、美作、備中東部まで勢力を伸ばした宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれ、その後小早川氏、池田氏により整備、拡張が行われた。
岡山城は標高が十数メートルの丘が連なる小高い土地に建設された。
当時、旭川河口部は複数の派川に分岐しており、その中の大洲原と呼ばれる広大なデルタ地帯中央に「岡山」(柴岡山とも)、その西隣に「石山」、さらにその北西には「天神山」(天満山とも)の3つの丘が連なり、各時代ごとに要害として使用されたとされる。その中の石山にあった石山城(いしやまじょう)に宇喜多直家が入城・改築し、後に子の宇喜多秀家が隣接する岡山に新たに本丸を設け、石山城を取り込む形で城郭が建造された。これが岡山城である。
建造物
現存する建造物
月見櫓 - 国の重要文化財、元和・寛永年間(1615-1632年)築・現存。本丸の北西隅に建つ。周辺には、土塀の礎石に狭間が作られており、当時の最新式の設備と言われる。
天守 - 外観復元
不明門 - 外観復元。本段への入口になる門。天守と同時に鉄筋コンクリートで復元された。
廊下門 - 外観復元
六十一雁木上門 - 復元
旧天守礎石 - 移設
交通アクセス
公共交通機関
岡山電気軌道東山本線 城下電停下車
岡電バス・両備バス 県庁前バス停下車
自家用車
山陽自動車道・岡山IC
別名 烏城、金烏城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 複合式望楼型4重6階(1597年築)
(鉄筋コンクリート造外観復元・1966年)
築城主 上神高直
築城年 1346年 - 1369年(正平年間)
主な改修者 宇喜多秀家、小早川秀秋、池田忠雄
主な城主 宇喜多氏、小早川氏、池田氏
廃城年 1873年(明治6年)
遺構 櫓、石垣、堀
指定文化財 国の重要文化財(月見櫓、西の丸西手櫓)
国の史跡
再建造物 外観復元天守・外観復元門・外観土塀
2024年08月30日
円珠庵(えんじゅあん) は、大阪市天王寺区空清町にある真言宗豊山派の寺院
円珠庵(えんじゅあん) は、大阪市天王寺区空清町にある真言宗豊山派の寺院。山号は雪光山。本尊は十一面観音。別称である鎌八幡の呼び名で知られる。
歴史
いつ頃からかはよくわかってはいないが、この辺りにあった三韓坂といわれる道の横に榎のご神木と祠があり、そのご神木に向かって「鎌八幡大菩薩」と唱えながら鎌を付き刺すという風習が生まれた。ご神木は次第に「鎌八幡」と呼ばれるようになった。
慶長19年(1614年)、この地のすぐ東側に新たな大坂城の曲輪として真田丸を築いた真田信繁がこのご神木に参拝し、習わし通りに鎌をご神木に刺したところ、大坂冬の陣の際の真田丸の戦いで徳川方に勝利した。戦後、信繁はそのお礼としてご神木の祠を建て替えたという。
延宝9年(1681年)6月、百姓太郎左衛門が真言宗御室派妙法寺住持で古典研究家である契沖阿闍梨に深く帰依し、所有地であったこの地を契沖に寄進した。その後、元禄3年(1690年)になって契沖は寄進された地にあったご神木と祠の脇に円珠庵を建立して住持となり、『万葉代匠記』や『和字正濫要略』などを著している。
また、契沖がご神木鎌八幡を深く信仰し、真言宗の祈祷とも結び付いていったこともあり信仰は広まりを見せた。やがて円珠庵は「鎌八幡」や「祈祷寺」とも呼ばれるようになる。
元禄14年(1701年)1月25日、契沖は円珠庵にて62歳で亡くなった。墓所は境内に作られている。なお、契沖は1891年(明治24年)に正四位を追贈され、墓所のある円珠庵に金百円が下賜された。
1922年(大正11年)、境内が大阪市で最初の国の史跡に指定される。
境内
本堂
ご神木の榎 - ご神木である榎に対して、「鎌八幡大菩薩」と唱えて慣例に習って鎌を打ち込み、祈願が行われる。江戸時代以降は、真言宗の祈祷と結び付き、現在の形の「悪縁を断つ鎌八幡」として信仰を集めている。
庫裏
契沖の墓(国指定史跡)
山門
交通アクセス
大阪環状線及び地下鉄長堀鶴見緑地線玉造駅より、西に徒歩12分。
近鉄上本町駅より、北に徒歩11分。
地下鉄長堀鶴見緑地線並びに地下鉄谷町線谷町六丁目駅より、東に徒歩12分。
所在地 大阪府大阪市天王寺区空清町4-2
位置 北緯34度40分18.9秒 東経135度31分28.2秒
山号 雪光山
宗派 真言宗豊山派
本尊 十一面観音
創建年 元禄3年(1690年)
開山 契沖阿闍梨
正式名 雪光山円珠庵
別称 鎌八幡、祈祷寺
札所等 摂津国八十八箇所第15番
文化財 契沖著述稿本類 53種(重要文化財)
契沖旧庵ならびに墓(国の史跡)
歴史
いつ頃からかはよくわかってはいないが、この辺りにあった三韓坂といわれる道の横に榎のご神木と祠があり、そのご神木に向かって「鎌八幡大菩薩」と唱えながら鎌を付き刺すという風習が生まれた。ご神木は次第に「鎌八幡」と呼ばれるようになった。
慶長19年(1614年)、この地のすぐ東側に新たな大坂城の曲輪として真田丸を築いた真田信繁がこのご神木に参拝し、習わし通りに鎌をご神木に刺したところ、大坂冬の陣の際の真田丸の戦いで徳川方に勝利した。戦後、信繁はそのお礼としてご神木の祠を建て替えたという。
延宝9年(1681年)6月、百姓太郎左衛門が真言宗御室派妙法寺住持で古典研究家である契沖阿闍梨に深く帰依し、所有地であったこの地を契沖に寄進した。その後、元禄3年(1690年)になって契沖は寄進された地にあったご神木と祠の脇に円珠庵を建立して住持となり、『万葉代匠記』や『和字正濫要略』などを著している。
また、契沖がご神木鎌八幡を深く信仰し、真言宗の祈祷とも結び付いていったこともあり信仰は広まりを見せた。やがて円珠庵は「鎌八幡」や「祈祷寺」とも呼ばれるようになる。
元禄14年(1701年)1月25日、契沖は円珠庵にて62歳で亡くなった。墓所は境内に作られている。なお、契沖は1891年(明治24年)に正四位を追贈され、墓所のある円珠庵に金百円が下賜された。
1922年(大正11年)、境内が大阪市で最初の国の史跡に指定される。
境内
本堂
ご神木の榎 - ご神木である榎に対して、「鎌八幡大菩薩」と唱えて慣例に習って鎌を打ち込み、祈願が行われる。江戸時代以降は、真言宗の祈祷と結び付き、現在の形の「悪縁を断つ鎌八幡」として信仰を集めている。
庫裏
契沖の墓(国指定史跡)
山門
交通アクセス
大阪環状線及び地下鉄長堀鶴見緑地線玉造駅より、西に徒歩12分。
近鉄上本町駅より、北に徒歩11分。
地下鉄長堀鶴見緑地線並びに地下鉄谷町線谷町六丁目駅より、東に徒歩12分。
所在地 大阪府大阪市天王寺区空清町4-2
位置 北緯34度40分18.9秒 東経135度31分28.2秒
山号 雪光山
宗派 真言宗豊山派
本尊 十一面観音
創建年 元禄3年(1690年)
開山 契沖阿闍梨
正式名 雪光山円珠庵
別称 鎌八幡、祈祷寺
札所等 摂津国八十八箇所第15番
文化財 契沖著述稿本類 53種(重要文化財)
契沖旧庵ならびに墓(国の史跡)
2024年08月29日
神角寺(じんかくじ)は、大分県豊後大野市朝地町鳥田にある高野山真言宗の寺院
神角寺(じんかくじ)は、大分県豊後大野市朝地町鳥田にある高野山真言宗の寺院。山号は如意山(にょいざん)。本尊は十一面観音。
概要
豊後大野市北西部に位置する標高730mの神角寺山の頂上近くにある寺院。境内には樹齢100年を超える約500本のシャクナゲがあり、別名石楠花寺(しゃくなげでら)とも呼ばれて、5月の開花期には多くの見物客が訪れる名所となっている。
神角寺は、霊山の霊山寺、九六位山の円通寺とともに豊後の三大寺院と称される。また、神角寺を含む地域は、大分県により神角寺芹川県立自然公園に指定されている。
歴史
欽明天皇31年(570年)に新羅の僧によって建立され、醍醐天皇(在位897年 – 930年)の時代に聖宝により真言宗の寺院にされたと伝えられる。
建久7年(1196年)には、大野荘の領主であった大野九郎泰基が、大友氏の初代当主で豊後守護として入国した大友能直との合戦に破れ、この寺で自害したと伝えられる(なお、大友氏が豊後に下向したのは第3代の頼泰からであるとされ、能直が豊後に下向したという記録はない。ただし、豊後大野市内には能直の墓が残されている)。
その後戦火により荒廃したが、応安2年(1369年)に大友氏により現在の本堂(当時は東坊)を含む六坊が建てられ、中興した。
文化財
重要文化財(国指定)
本堂(1907年(明治40年)5月27日指定) - 室町時代の応安2年(1369年)に大友氏により建立されたもので、宝形造、桧皮葺、正面3間・側面3間の簡素な堂である。多くの補修を受けているが、古い禅宗様式をとどめている。
木造金剛力士立像(1982年(昭和57年)6月5日指定) - 山門に安置される高さ約2.5mの一対の寄木造彩色の金剛力士像で、鎌倉時代前期の作とされる。静的な表現の中に力強さが潜む。
所在地 大分県豊後大野市朝地町鳥田1354
位置 北緯33度3分17.03秒 東経131度27分22.92秒
山号 如意山
宗旨 古義真言宗
宗派 高野山真言宗
本尊 十一面観音
正式名 如意山~角寺
別称 石楠花寺
概要
豊後大野市北西部に位置する標高730mの神角寺山の頂上近くにある寺院。境内には樹齢100年を超える約500本のシャクナゲがあり、別名石楠花寺(しゃくなげでら)とも呼ばれて、5月の開花期には多くの見物客が訪れる名所となっている。
神角寺は、霊山の霊山寺、九六位山の円通寺とともに豊後の三大寺院と称される。また、神角寺を含む地域は、大分県により神角寺芹川県立自然公園に指定されている。
歴史
欽明天皇31年(570年)に新羅の僧によって建立され、醍醐天皇(在位897年 – 930年)の時代に聖宝により真言宗の寺院にされたと伝えられる。
建久7年(1196年)には、大野荘の領主であった大野九郎泰基が、大友氏の初代当主で豊後守護として入国した大友能直との合戦に破れ、この寺で自害したと伝えられる(なお、大友氏が豊後に下向したのは第3代の頼泰からであるとされ、能直が豊後に下向したという記録はない。ただし、豊後大野市内には能直の墓が残されている)。
その後戦火により荒廃したが、応安2年(1369年)に大友氏により現在の本堂(当時は東坊)を含む六坊が建てられ、中興した。
文化財
重要文化財(国指定)
本堂(1907年(明治40年)5月27日指定) - 室町時代の応安2年(1369年)に大友氏により建立されたもので、宝形造、桧皮葺、正面3間・側面3間の簡素な堂である。多くの補修を受けているが、古い禅宗様式をとどめている。
木造金剛力士立像(1982年(昭和57年)6月5日指定) - 山門に安置される高さ約2.5mの一対の寄木造彩色の金剛力士像で、鎌倉時代前期の作とされる。静的な表現の中に力強さが潜む。
所在地 大分県豊後大野市朝地町鳥田1354
位置 北緯33度3分17.03秒 東経131度27分22.92秒
山号 如意山
宗旨 古義真言宗
宗派 高野山真言宗
本尊 十一面観音
正式名 如意山~角寺
別称 石楠花寺