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2024年10月07日
種間寺(たねまじ)は、高知県高知市にある真言宗豊山派の寺院
種間寺(たねまじ)は、高知県高知市にある真言宗豊山派の寺院。本尾山(もとおざん)、朱雀院(すざくいん)と号す。本尊は薬師如来。四国八十八箇所第三十四番札所。安産祈願の寺である。
本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
ご詠歌:世の中にまける五穀(ごこく)のたねまでら 深き如来の大悲(たいひ)なりけり
納経印:当寺本尊、奥之院瑠璃光佛

歴史
寺伝によれば用明天皇在位(585年 - 587年)の頃、四天王寺を建立するため来日した百済の仏師が帰国の際に暴風に襲われてこの地に近い秋山の港に漂着、航海の安全を祈願して薬師如来刻んで本尾山頂に安置したのが起源であるという。その後、弘仁年間(810年 – 824年)に空海(弘法大師)が巡錫し、堂宇を建立し仏師が刻んだ薬師如来を本尊として安置して開基したといい、その際に唐から持ち帰った五穀の種を境内に蒔いたことから寺号が定められたという。
天暦年間(947年 - 957年)には村上天皇が藤原信家を勅使にして「種間」の勅額を下賜。土佐藩主からの信仰も得ていた。神仏分離令で明治4年(1871年)に廃寺となり跡地には春日神社が創建された。本尊は近くの池田観音堂に移してあったが、明治13年(1880年)現在地に再興される。

文化財
重要文化財
木造薬師如来坐像:木造、漆箔、140.3 cm、平安時代後期、大正2年8月20日指定
高知市指定有形文化財
木造薬師如来立像:一木造り、像高32.3 cm、平安時代後期、昭和54年5月26日指定
石造手水鉢:高さ38 cm、直径55 cm、延宝5年 (1677年) 作、昭和56年12月4日指定

交通案内
鉄道
四国旅客鉄道(JR四国) 土讃線 – 朝倉駅 (7.5 km)
バス
とさでん交通 「春野庁舎前」下車 (0.8 km)
道路
高知県道279号甲殿弘岡上線 種間寺前 (0.1 km)
所在地 高知県高知市春野町秋山72番地
位置 北緯33度29分30.2秒 東経133度29分15.3秒
山号 本尾山
院号 朱雀院
宗派 真言宗豊山派
本尊 薬師如来
創建年 (伝)弘仁年間(810年 – 824年)
開基 (伝)空海(弘法大師)
正式名 本尾山 朱雀院 種間寺
札所等 四国八十八箇所34番
文化財 木造薬師如来坐像(重要文化財)
本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
ご詠歌:世の中にまける五穀(ごこく)のたねまでら 深き如来の大悲(たいひ)なりけり
納経印:当寺本尊、奥之院瑠璃光佛

歴史
寺伝によれば用明天皇在位(585年 - 587年)の頃、四天王寺を建立するため来日した百済の仏師が帰国の際に暴風に襲われてこの地に近い秋山の港に漂着、航海の安全を祈願して薬師如来刻んで本尾山頂に安置したのが起源であるという。その後、弘仁年間(810年 – 824年)に空海(弘法大師)が巡錫し、堂宇を建立し仏師が刻んだ薬師如来を本尊として安置して開基したといい、その際に唐から持ち帰った五穀の種を境内に蒔いたことから寺号が定められたという。
天暦年間(947年 - 957年)には村上天皇が藤原信家を勅使にして「種間」の勅額を下賜。土佐藩主からの信仰も得ていた。神仏分離令で明治4年(1871年)に廃寺となり跡地には春日神社が創建された。本尊は近くの池田観音堂に移してあったが、明治13年(1880年)現在地に再興される。

文化財
重要文化財
木造薬師如来坐像:木造、漆箔、140.3 cm、平安時代後期、大正2年8月20日指定
高知市指定有形文化財
木造薬師如来立像:一木造り、像高32.3 cm、平安時代後期、昭和54年5月26日指定
石造手水鉢:高さ38 cm、直径55 cm、延宝5年 (1677年) 作、昭和56年12月4日指定

交通案内
鉄道
四国旅客鉄道(JR四国) 土讃線 – 朝倉駅 (7.5 km)
バス
とさでん交通 「春野庁舎前」下車 (0.8 km)
道路
高知県道279号甲殿弘岡上線 種間寺前 (0.1 km)
所在地 高知県高知市春野町秋山72番地
位置 北緯33度29分30.2秒 東経133度29分15.3秒
山号 本尾山
院号 朱雀院
宗派 真言宗豊山派
本尊 薬師如来
創建年 (伝)弘仁年間(810年 – 824年)
開基 (伝)空海(弘法大師)
正式名 本尾山 朱雀院 種間寺
札所等 四国八十八箇所34番
文化財 木造薬師如来坐像(重要文化財)
2024年10月05日
善勝寺(ぜんしょうじ)は、群馬県前橋市端気町にある天台宗の寺院
善勝寺(ぜんしょうじ)は、群馬県前橋市端気町にある天台宗の寺院である。本尊は鉄造阿弥陀如来坐像(重要文化財)。

伝説
正嘉2年(1258年)に北条時頼が善勝寺を訪れた時のこととして、次のような伝説がある。その頃の住持、覚山は門前の桜の木をこよなく愛していたが、そこを出家の身となり諸国行脚をしていた時頼がたまたま訪れ、覚山と語り合った。時頼は桜を褒めるとともに、海がないのに塩釜桜があることに驚き、以下の和歌を詠み桜の枝に短冊を捧げた。
海毛那久 磯辺毛遠幾 古乃里爾 何礼乃阿満賀 植之塩釜
(うみもなく いそべもとおき このさとに いずれのあまが うえししおがま)
この桜は既に枯れて現存しないが、貞享元年(1684年)の『前橋風土記』は、善勝寺の門前に長さ数十丈の桜の古木が2本存在し、花が開くさまは白雲が天を覆うが如くだったことを伝えている。

文化財
重要文化財
鉄造阿弥陀如来坐像 - 仁治4年(1243年)の在銘で、鎌倉時代の作。丈2尺8寸8分(約90センチメートル)、重さ23貫400匁(約88キログラム)。元和元年(1615年)に小坂子村の水田中から発見され、小堂に安置されていたが明治12年(1879年)に善勝寺に献納され本尊となった。昭和3年(1928年)古社寺保存法により旧国宝に指定、昭和25年(1950年)文化財保護法により重要文化財指定。背面に以下の陽鋳銘がある。

所在地 群馬県前橋市端気町337
位置 北緯36度24分41.5秒 東経139度5分59.6秒
山号 艮場山
院号 慧雲院
宗旨 天台宗
本尊 阿弥陀如来(重要文化財)
創建年 延暦または大同年間(790年〜806年)
開山 勝道
正式名 艮場山 慧雲院 善勝寺
札所等 関東百八地蔵尊第23番
関東薬師霊場第47番
文化財 鉄造阿弥陀如来坐像(重要文化財)

伝説
正嘉2年(1258年)に北条時頼が善勝寺を訪れた時のこととして、次のような伝説がある。その頃の住持、覚山は門前の桜の木をこよなく愛していたが、そこを出家の身となり諸国行脚をしていた時頼がたまたま訪れ、覚山と語り合った。時頼は桜を褒めるとともに、海がないのに塩釜桜があることに驚き、以下の和歌を詠み桜の枝に短冊を捧げた。
海毛那久 磯辺毛遠幾 古乃里爾 何礼乃阿満賀 植之塩釜
(うみもなく いそべもとおき このさとに いずれのあまが うえししおがま)
この桜は既に枯れて現存しないが、貞享元年(1684年)の『前橋風土記』は、善勝寺の門前に長さ数十丈の桜の古木が2本存在し、花が開くさまは白雲が天を覆うが如くだったことを伝えている。

文化財
重要文化財
鉄造阿弥陀如来坐像 - 仁治4年(1243年)の在銘で、鎌倉時代の作。丈2尺8寸8分(約90センチメートル)、重さ23貫400匁(約88キログラム)。元和元年(1615年)に小坂子村の水田中から発見され、小堂に安置されていたが明治12年(1879年)に善勝寺に献納され本尊となった。昭和3年(1928年)古社寺保存法により旧国宝に指定、昭和25年(1950年)文化財保護法により重要文化財指定。背面に以下の陽鋳銘がある。

所在地 群馬県前橋市端気町337
位置 北緯36度24分41.5秒 東経139度5分59.6秒
山号 艮場山
院号 慧雲院
宗旨 天台宗
本尊 阿弥陀如来(重要文化財)
創建年 延暦または大同年間(790年〜806年)
開山 勝道
正式名 艮場山 慧雲院 善勝寺
札所等 関東百八地蔵尊第23番
関東薬師霊場第47番
文化財 鉄造阿弥陀如来坐像(重要文化財)
2024年09月28日
満願寺(まんがんじ)は、熊本県阿蘇郡南小国町満願寺にある高野山真言宗の寺院
満願寺(まんがんじ)は、熊本県阿蘇郡南小国町満願寺にある高野山真言宗の寺院である。山号は立護山。本尊は地蔵菩薩。九州観音霊場三十三ヶ所第16番。

歴史
小国郷は鎌倉時代に承久の乱により公家の葉室氏から北条氏の所領となった。満願寺は文永11年(1274年)、文永の役の際、鎮西奉行北条時定が国土安泰を祈願して建立したと伝える。
文化財
重要文化財(国指定)
絹本著色伝北条時定像・伝北条時宗像 - 頂相(禅僧の肖像)形式の肖像画。伝時宗像は、実際には時定の嫡子・定宗の像と推定されている。
天然記念物(国指定)
金比羅スギ - 満願寺建立の折に時定が植えたと伝えられる杉。樹齢1000年、幹周り12メートル、樹高約30メートル。

所在地 熊本県阿蘇郡南小国町満願寺2292番地
位置 北緯33度4分34.1秒 東経131度5分45.4秒
山号 立護山
宗旨 古義真言宗
宗派 高野山真言宗
本尊 地蔵菩薩
正式名 立護山滿願寺
札所等 九州三十三観音霊場第十六番札所
肥後三十三観音霊場第二番札所

歴史
小国郷は鎌倉時代に承久の乱により公家の葉室氏から北条氏の所領となった。満願寺は文永11年(1274年)、文永の役の際、鎮西奉行北条時定が国土安泰を祈願して建立したと伝える。
文化財
重要文化財(国指定)
絹本著色伝北条時定像・伝北条時宗像 - 頂相(禅僧の肖像)形式の肖像画。伝時宗像は、実際には時定の嫡子・定宗の像と推定されている。
天然記念物(国指定)
金比羅スギ - 満願寺建立の折に時定が植えたと伝えられる杉。樹齢1000年、幹周り12メートル、樹高約30メートル。

所在地 熊本県阿蘇郡南小国町満願寺2292番地
位置 北緯33度4分34.1秒 東経131度5分45.4秒
山号 立護山
宗旨 古義真言宗
宗派 高野山真言宗
本尊 地蔵菩薩
正式名 立護山滿願寺
札所等 九州三十三観音霊場第十六番札所
肥後三十三観音霊場第二番札所
2024年09月26日
北野天満宮(きたのてんまんぐう、英: Kitano-Tenmangu Shrine)は、京都市上京区にある神社(天満宮)
北野天満宮(きたのてんまんぐう、英: Kitano-Tenmangu Shrine)は、京都市上京区にある神社(天満宮)。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。旧称は北野神社。神紋は「星梅鉢紋」。 通称として天神さん・北野さんとも呼ばれる。全国の天満宮、天神社、菅原社など約1万2000社であり、福岡県太宰府市の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心で、当社から全国各地に勧請が行われている。近年は学問の神として多くの受験生から信仰されている。

祭神
主祭神 - 菅原道真公
相殿神
中将殿 - 菅原高視(道真長子)を指す。
吉祥女 - 道真正室を指す。

境内
本殿(国宝)
石の間(国宝)
拝殿(国宝)
楽の間(国宝)
慶長12年(1607年)に豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建。入母屋造の本殿と、同じく入母屋造の拝殿の間を「石の間」で接続して1棟とする、八幡造(権現造のもと)の社殿である。当神社の場合は拝殿の左右に「楽の間」が接続して複雑な屋根構成となる。その事から「八棟造」とも呼ばれる。屋根はすべて檜皮葺き。本殿、石の間、拝殿、楽の間を合わせて1棟としており、国宝に指定されている。
廻廊(重要文化財)
三光門(中門、重要文化財) - 勅額「天満宮」は後西天皇の宸筆。
透塀(重要文化財)
後門(重要文化財) - かつては舎利門と呼ばれていた。
北門
茶室「明月舎」
牛舎
紅梅殿
東門(重要文化財) - 慶長12年(1607年)に豊臣秀頼により再建。
社務所
神楽殿
宝物殿
絵馬所
楼門
文道会館
梅苑「花の庭」 - 明治時代までこの地には、北野社神宮寺成就院(成就坊)があり、そこには俳諧の祖と仰がれる松永貞徳が作庭した庭園「花の庭」があった(一説には祇園にあったともされる)。「花の庭」は、妙満寺塔頭・成就院の「雪の庭」(現在は本坊の庭)、清水寺塔頭・成就院の「月の庭」とで、成就院「雪月花の三名園」と呼ばれていたが、明治時代に成就院が廃されると「花の庭」も壊された。しかし、2022年(令和4年)に残されていた庭石を利用して「花の庭」が復興された。
太閤井戸 - 豊臣秀吉が北野大茶湯で水を汲んだという井戸。
茶室「松向軒」 - 秀吉が大茶湯を行った時に細川忠興が作った茶室を復元したもの。
御土居(国の史跡) - 豊臣秀吉が京都を守るために作った土塁。
もみじ苑
茶室「梅交軒」
北野天満宮御旅所

現地情報
所在地
京都府京都市上京区馬喰町
交通アクセス
京都市営バス(10・50・51・55・急行101・急行102・203系統)で「北野天満宮前」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)
北門からほど近く、桜の名所でもある平野神社の境内を通って西大路通の「衣笠校前」バス停に抜けることもできる。
京福電気鉄道北野線 北野白梅町駅下車 東へ徒歩6分
かつての交通
1912年には、京都駅との間に京都電気鉄道北野線(後の京都市電堀川線、通称「北野線」)が走るようになった。また、1958年までは神社の前まで京福電気鉄道北野線が乗り入れていたが、京都市電今出川線建設のため、北野 - 白梅町間の路線を市電に譲る形で営業路線を短縮し、白梅町(この時、駅名を北野白梅町と改名)止まりとなった。
主祭神 菅原道真公
社格等 二十二社(下八社)
旧官幣中社
別表神社
創建 天暦元年(947年)
本殿の様式 八棟造
別名 北野爾坐天満宮天神
天満大自在天神社
天満天神
北野天神
北野聖廟
北野社
北野神社
札所等 菅公聖蹟二十五拝
洛陽天満宮二十五社順拝
神仏霊場巡拝の道第95番(京都第15番)
例祭 8月4日

祭神
主祭神 - 菅原道真公
相殿神
中将殿 - 菅原高視(道真長子)を指す。
吉祥女 - 道真正室を指す。

境内
本殿(国宝)
石の間(国宝)
拝殿(国宝)
楽の間(国宝)
慶長12年(1607年)に豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建。入母屋造の本殿と、同じく入母屋造の拝殿の間を「石の間」で接続して1棟とする、八幡造(権現造のもと)の社殿である。当神社の場合は拝殿の左右に「楽の間」が接続して複雑な屋根構成となる。その事から「八棟造」とも呼ばれる。屋根はすべて檜皮葺き。本殿、石の間、拝殿、楽の間を合わせて1棟としており、国宝に指定されている。
廻廊(重要文化財)
三光門(中門、重要文化財) - 勅額「天満宮」は後西天皇の宸筆。
透塀(重要文化財)
後門(重要文化財) - かつては舎利門と呼ばれていた。
北門
茶室「明月舎」
牛舎
紅梅殿
東門(重要文化財) - 慶長12年(1607年)に豊臣秀頼により再建。
社務所
神楽殿
宝物殿
絵馬所
楼門
文道会館
梅苑「花の庭」 - 明治時代までこの地には、北野社神宮寺成就院(成就坊)があり、そこには俳諧の祖と仰がれる松永貞徳が作庭した庭園「花の庭」があった(一説には祇園にあったともされる)。「花の庭」は、妙満寺塔頭・成就院の「雪の庭」(現在は本坊の庭)、清水寺塔頭・成就院の「月の庭」とで、成就院「雪月花の三名園」と呼ばれていたが、明治時代に成就院が廃されると「花の庭」も壊された。しかし、2022年(令和4年)に残されていた庭石を利用して「花の庭」が復興された。
太閤井戸 - 豊臣秀吉が北野大茶湯で水を汲んだという井戸。
茶室「松向軒」 - 秀吉が大茶湯を行った時に細川忠興が作った茶室を復元したもの。
御土居(国の史跡) - 豊臣秀吉が京都を守るために作った土塁。
もみじ苑
茶室「梅交軒」
北野天満宮御旅所

現地情報
所在地
京都府京都市上京区馬喰町
交通アクセス
京都市営バス(10・50・51・55・急行101・急行102・203系統)で「北野天満宮前」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)
北門からほど近く、桜の名所でもある平野神社の境内を通って西大路通の「衣笠校前」バス停に抜けることもできる。
京福電気鉄道北野線 北野白梅町駅下車 東へ徒歩6分
かつての交通
1912年には、京都駅との間に京都電気鉄道北野線(後の京都市電堀川線、通称「北野線」)が走るようになった。また、1958年までは神社の前まで京福電気鉄道北野線が乗り入れていたが、京都市電今出川線建設のため、北野 - 白梅町間の路線を市電に譲る形で営業路線を短縮し、白梅町(この時、駅名を北野白梅町と改名)止まりとなった。
主祭神 菅原道真公
社格等 二十二社(下八社)
旧官幣中社
別表神社
創建 天暦元年(947年)
本殿の様式 八棟造
別名 北野爾坐天満宮天神
天満大自在天神社
天満天神
北野天神
北野聖廟
北野社
北野神社
札所等 菅公聖蹟二十五拝
洛陽天満宮二十五社順拝
神仏霊場巡拝の道第95番(京都第15番)
例祭 8月4日
2024年09月23日
長谷川邸(はせがわてい)は、新潟県長岡市塚野山にある江戸時代から近代にかけての豪農、長谷川家の旧宅
長谷川邸(はせがわてい)は、新潟県長岡市塚野山にある江戸時代から近代にかけての豪農、長谷川家の旧宅である。国の重要文化財。

概要
江戸時代初め頃から庄屋を務め、幕末から明治にかけては近郊4か村の耕地や山林の7割を独占していたとされる長谷川家の邸宅である。
街道に面し堀に囲まれた敷地は間口約70 m、奥行120 mに及び、内側には土塁生垣、正面には茅葺寄棟造りの表門がある[1][3]。茅葺寄棟造りの主屋は1706年(宝永3年)の大火で焼け、1716年(享保元年)に再建されたと伝えられている。
邸宅の周囲は旧魚沼街道(銀山街道)の塚山宿である。
施設は冬季を除き一般に開放されており、入館料を要する[1]。長谷川家収蔵品展示室では、長谷川家に伝わる書画や調度品などが展示されている。
新潟県内には伊藤邸(北方文化博物館)や笹川家住宅、市島邸、目黒邸をはじめ「豪農の館」と呼ばれる邸宅が多く残っているが、現存するものとしては長谷川邸が最古と言われている。

交通
JR信越本線 塚山駅より南西へ約1 km(徒歩約12分)
越後交通 長岡駅前=親沢=塚山=小国 線 「長谷川邸前」バス停より徒歩すぐ
駐車場あり(車59台、バス8台)
所在地 新潟県長岡市塚野山773番1
位置 北緯37度20分50.6秒 東経138度43分23.5秒
建築年 1716年(享保元年)
文化財 国の重要文化財

概要
江戸時代初め頃から庄屋を務め、幕末から明治にかけては近郊4か村の耕地や山林の7割を独占していたとされる長谷川家の邸宅である。
街道に面し堀に囲まれた敷地は間口約70 m、奥行120 mに及び、内側には土塁生垣、正面には茅葺寄棟造りの表門がある[1][3]。茅葺寄棟造りの主屋は1706年(宝永3年)の大火で焼け、1716年(享保元年)に再建されたと伝えられている。
邸宅の周囲は旧魚沼街道(銀山街道)の塚山宿である。
施設は冬季を除き一般に開放されており、入館料を要する[1]。長谷川家収蔵品展示室では、長谷川家に伝わる書画や調度品などが展示されている。
新潟県内には伊藤邸(北方文化博物館)や笹川家住宅、市島邸、目黒邸をはじめ「豪農の館」と呼ばれる邸宅が多く残っているが、現存するものとしては長谷川邸が最古と言われている。

交通
JR信越本線 塚山駅より南西へ約1 km(徒歩約12分)
越後交通 長岡駅前=親沢=塚山=小国 線 「長谷川邸前」バス停より徒歩すぐ
駐車場あり(車59台、バス8台)
所在地 新潟県長岡市塚野山773番1
位置 北緯37度20分50.6秒 東経138度43分23.5秒
建築年 1716年(享保元年)
文化財 国の重要文化財
2024年09月21日
高成寺(こうじょうじ)は、福井県小浜市青井にある臨済宗南禅寺派の寺院
高成寺(こうじょうじ)は、福井県小浜市青井にある臨済宗南禅寺派の寺院。山号は青井山。本尊は千手観音菩薩。 小浜公園の敷地に隣接する。元は暦応2年(1339年)に足利尊氏の命を受け諸国に建立した若狭国安国寺である。康永3年(1344年)に炎上したため、若狭守護であった大高重成が高成寺として再興した。寺号は大高重成の名に由来する。 若狭観音霊場第20番札所でもある。

文化財
重要文化財
木造千手観音立像
紙本墨書印可状(建武四年十二月梵竺仙とあり)(附 紙本墨書履践集(観応二年八月法延の自序あり)1冊、紙本墨書大高重成状(五月十三日とあり)1幅、絹本著色大年和尚図(弘治二年の賛あり)1幅)
開山の大年和尚が師の竺仙梵僊から嗣法の証として与えられたもの。附指定の履践集は大念の自叙伝。大高重成状は当寺の大檀那である重成が大年和尚に対し青井山堂建立について送った書状である。大年和尚図は、大年和尚の姿を描いたもので、縦121cm、横52cm。

交通アクセス
JR西日本小浜線小浜駅から徒歩で15分
舞鶴若狭自動車道小浜ICから約5km
国道27号後瀬から約2km
所在地 福井県小浜市青井1-11-1
位置 北緯35度29分33.1秒 東経135度43分56.9秒
山号 青井山(あおいさん)
宗派 臨済宗南禅寺派
本尊 千手観音菩薩
創建年 暦応2年(1339年)
開基 大年和尚
正式名 青井山高成寺
札所等 若狭観音霊場 第20番
文化財 木造千手観音立像、紙本墨書印可状(重要文化財)

文化財
重要文化財
木造千手観音立像
紙本墨書印可状(建武四年十二月梵竺仙とあり)(附 紙本墨書履践集(観応二年八月法延の自序あり)1冊、紙本墨書大高重成状(五月十三日とあり)1幅、絹本著色大年和尚図(弘治二年の賛あり)1幅)
開山の大年和尚が師の竺仙梵僊から嗣法の証として与えられたもの。附指定の履践集は大念の自叙伝。大高重成状は当寺の大檀那である重成が大年和尚に対し青井山堂建立について送った書状である。大年和尚図は、大年和尚の姿を描いたもので、縦121cm、横52cm。

交通アクセス
JR西日本小浜線小浜駅から徒歩で15分
舞鶴若狭自動車道小浜ICから約5km
国道27号後瀬から約2km
所在地 福井県小浜市青井1-11-1
位置 北緯35度29分33.1秒 東経135度43分56.9秒
山号 青井山(あおいさん)
宗派 臨済宗南禅寺派
本尊 千手観音菩薩
創建年 暦応2年(1339年)
開基 大年和尚
正式名 青井山高成寺
札所等 若狭観音霊場 第20番
文化財 木造千手観音立像、紙本墨書印可状(重要文化財)
2024年09月19日
旧太田脇本陣林家住宅(きゅうおおたわきほんじんはやしけじゅうたく)は、岐阜県美濃加茂市太田本町にある脇本陣を担った古民家
旧太田脇本陣林家住宅(きゅうおおたわきほんじんはやしけじゅうたく)は、岐阜県美濃加茂市太田本町にある脇本陣を担った古民家で、中山道において江戸時代に建てられた脇本陣としては唯一現存している建造物である。主屋、表門、質倉、借物倉、隠居家、附便所、附井戸屋、附塀ならびに宅地が日本国により重要文化財に指定されている。

林家は中山道太田宿で庄屋を務めた名家であり、味噌蔵ならびに質屋を生業としていた。敷地北側は中山道が通っていた。
主屋は居住に用いられる居室部が明和6年(1769年)、宿泊等に用いられる座敷部が安永2年(1773年)頃に建造された。主屋は桁行7.5m、梁間9.5mで平入切妻造り2階建てで、座敷は式台、次の間および上段の間を備えた平屋建て切妻造りで桁行3m、梁間5mである。表門は文久元年(1861年)に建てられたものである。昭和46年(1971年)12月28日に主屋、表門、質倉ならびに借物倉が国の重要文化財に指定され、平成12年(2000年)5月25日には隠居家、附便所、附井戸屋、附塀および宅地が追加で重要文化財に指定されている。2022年現在でも林家が住宅として使用しているが、隠居家が一般に公開されている。

所在地 岐阜県美濃加茂市太田本町3-3-34
位置 北緯35度26分17.3秒 東経137度00分49.3秒
類型 町屋(庄屋、脇本陣)
形式・構造 木造、平入切妻造2階建(主屋)、桟瓦葺、うだつ
建築年 主屋居室:明和6年(1769年)
主屋座敷:安永2年頃(1773年頃)
表門:文久元年(1861年)
文化財 国の重要文化財:昭和46年(1971年)12月28日指定、平成12年(2000年)5月25日追加指定

林家は中山道太田宿で庄屋を務めた名家であり、味噌蔵ならびに質屋を生業としていた。敷地北側は中山道が通っていた。
主屋は居住に用いられる居室部が明和6年(1769年)、宿泊等に用いられる座敷部が安永2年(1773年)頃に建造された。主屋は桁行7.5m、梁間9.5mで平入切妻造り2階建てで、座敷は式台、次の間および上段の間を備えた平屋建て切妻造りで桁行3m、梁間5mである。表門は文久元年(1861年)に建てられたものである。昭和46年(1971年)12月28日に主屋、表門、質倉ならびに借物倉が国の重要文化財に指定され、平成12年(2000年)5月25日には隠居家、附便所、附井戸屋、附塀および宅地が追加で重要文化財に指定されている。2022年現在でも林家が住宅として使用しているが、隠居家が一般に公開されている。

所在地 岐阜県美濃加茂市太田本町3-3-34
位置 北緯35度26分17.3秒 東経137度00分49.3秒
類型 町屋(庄屋、脇本陣)
形式・構造 木造、平入切妻造2階建(主屋)、桟瓦葺、うだつ
建築年 主屋居室:明和6年(1769年)
主屋座敷:安永2年頃(1773年頃)
表門:文久元年(1861年)
文化財 国の重要文化財:昭和46年(1971年)12月28日指定、平成12年(2000年)5月25日追加指定
2024年09月18日
光触寺(こうそくじ)は、神奈川県鎌倉市十二所に所在する時宗の寺院
光触寺(こうそくじ)は、神奈川県鎌倉市十二所に所在する時宗の寺院で、山号は岩蔵山、院号を長春院という。創建は弘安元年(1278年)で、開山は作阿上人、開基は一遍上人と伝えられている。本尊は阿弥陀三尊で、中尊の阿弥陀如来像は頬焼阿弥陀(ほおやきあみだ)として知られる。
鎌倉三十三観音霊場第7番、鎌倉二十四地蔵霊場第5番、鎌倉六阿弥陀第6番札所。藤沢市清浄光寺末。

歴史
光触寺に伝わる鎌倉時代中後期の絵巻『頬焼阿弥陀縁起』の詞書に、当寺本尊阿弥陀如来の由来について次のようにある。鎌倉時代の始め頃、将軍の招きで鎌倉に来ていた仏師雲慶(運慶)は、町局(まちのつぼね)という女性の求めにより阿弥陀三尊像を刻んだ。ある時、町局に仕えていた万歳法師なる素行不良の僧が盗みの容疑をかけられ、頬に「くつわの水つき」によって焼印を押されたが、法師の頬には焼痕が残らない。その後、町局の夢に阿弥陀仏が現れ、「なぜ、私の頬に火印を押すのか」と言った。朝になってみると、阿弥陀仏の頬に焼痕が残っており、修復を21度試みてもかなわなかったという。
その後、町局は出家して比企ヶ谷の西部に岩蔵寺という真言宗寺院を建立、この阿弥陀三尊像を本尊として安置したので、由縁により寺院は火印堂(かなやきどう)と呼ばれたと伝えられる。この縁起は、絵図と同じく鎌倉時代中後期に成立した無住道暁の仏教説話集『沙石集 巻第二ノ三』に、細部の異同はありながら「弥陀ノ利益事」として同様の説話が載っている。
岩蔵寺と当寺についての直接の資料は前述の絵巻物を除いて残っておらず明らかでないが、弘安元年(1278年)に現在地へと移ったとされ、その後第3代住持が一遍に帰依して作阿弥陀仏(作阿)と改名。一遍を開基に迎え、寺号の岩蔵を山号とし、光触寺へと改称したという。江戸初期には藤澤山(藤沢山)とも称した。
寺域は移転より長らく無事であったが、元禄年間(1688年 – 1704年)に起きた大地震により寺が崩れており、22代住持の含了により中興されている。また、安政年間(1854年 – 1860年)の大地震や突風により再び倒壊した際には、33代住持の大純により中興されている。現存の本堂が安政6年3月(1859年4月)上棟とする。堂は37代住持広道の任期において1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の折に傾斜したが、翌1924年(大正13年)には修復されている。

所在地情報
所在地
神奈川県鎌倉市十二所793
交通
鎌倉駅東口より京浜急行バス、鎌倉霊園正門前太刀洗・金沢八景駅行バスに乗り停留所「十二所」下車徒歩約2分
位置 北緯35度19分12.8秒 東経139度34分51.7秒
山号 岩藏山
院号 長春院
宗派 時宗
本尊 阿弥陀三尊
創建年 弘安元年(1278年)
開山 作阿
開基 一遍
中興年
元禄年間(1688年 – 1704年)
安政年間(1854年 – 1860年)
中興
含了(元禄)
大純(安政)
正式名 岩藏山長春院光觸寺
別称 頬焼阿弥陀、火印堂
札所等
鎌倉三十三観音霊場第7番
鎌倉二十四地蔵霊場第5番
鎌倉六阿弥陀第6番
文化財
木造阿弥陀如来及両脇侍立像 3軀(国の重要文化財)
紙本淡彩頬焼阿弥陀縁起 2巻(国の重要文化財)
絹本著色阿弥陀三尊像 1幅(市指定文化財)
紙本著色頬焼阿弥陀縁起絵巻模本 2巻(市指定文化財)
鎌倉三十三観音霊場第7番、鎌倉二十四地蔵霊場第5番、鎌倉六阿弥陀第6番札所。藤沢市清浄光寺末。

歴史
光触寺に伝わる鎌倉時代中後期の絵巻『頬焼阿弥陀縁起』の詞書に、当寺本尊阿弥陀如来の由来について次のようにある。鎌倉時代の始め頃、将軍の招きで鎌倉に来ていた仏師雲慶(運慶)は、町局(まちのつぼね)という女性の求めにより阿弥陀三尊像を刻んだ。ある時、町局に仕えていた万歳法師なる素行不良の僧が盗みの容疑をかけられ、頬に「くつわの水つき」によって焼印を押されたが、法師の頬には焼痕が残らない。その後、町局の夢に阿弥陀仏が現れ、「なぜ、私の頬に火印を押すのか」と言った。朝になってみると、阿弥陀仏の頬に焼痕が残っており、修復を21度試みてもかなわなかったという。
その後、町局は出家して比企ヶ谷の西部に岩蔵寺という真言宗寺院を建立、この阿弥陀三尊像を本尊として安置したので、由縁により寺院は火印堂(かなやきどう)と呼ばれたと伝えられる。この縁起は、絵図と同じく鎌倉時代中後期に成立した無住道暁の仏教説話集『沙石集 巻第二ノ三』に、細部の異同はありながら「弥陀ノ利益事」として同様の説話が載っている。
岩蔵寺と当寺についての直接の資料は前述の絵巻物を除いて残っておらず明らかでないが、弘安元年(1278年)に現在地へと移ったとされ、その後第3代住持が一遍に帰依して作阿弥陀仏(作阿)と改名。一遍を開基に迎え、寺号の岩蔵を山号とし、光触寺へと改称したという。江戸初期には藤澤山(藤沢山)とも称した。
寺域は移転より長らく無事であったが、元禄年間(1688年 – 1704年)に起きた大地震により寺が崩れており、22代住持の含了により中興されている。また、安政年間(1854年 – 1860年)の大地震や突風により再び倒壊した際には、33代住持の大純により中興されている。現存の本堂が安政6年3月(1859年4月)上棟とする。堂は37代住持広道の任期において1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の折に傾斜したが、翌1924年(大正13年)には修復されている。

所在地情報
所在地
神奈川県鎌倉市十二所793
交通
鎌倉駅東口より京浜急行バス、鎌倉霊園正門前太刀洗・金沢八景駅行バスに乗り停留所「十二所」下車徒歩約2分
位置 北緯35度19分12.8秒 東経139度34分51.7秒
山号 岩藏山
院号 長春院
宗派 時宗
本尊 阿弥陀三尊
創建年 弘安元年(1278年)
開山 作阿
開基 一遍
中興年
元禄年間(1688年 – 1704年)
安政年間(1854年 – 1860年)
中興
含了(元禄)
大純(安政)
正式名 岩藏山長春院光觸寺
別称 頬焼阿弥陀、火印堂
札所等
鎌倉三十三観音霊場第7番
鎌倉二十四地蔵霊場第5番
鎌倉六阿弥陀第6番
文化財
木造阿弥陀如来及両脇侍立像 3軀(国の重要文化財)
紙本淡彩頬焼阿弥陀縁起 2巻(国の重要文化財)
絹本著色阿弥陀三尊像 1幅(市指定文化財)
紙本著色頬焼阿弥陀縁起絵巻模本 2巻(市指定文化財)
2024年09月17日
古市家住宅(ふるいちけじゅうたく)は鹿児島県熊毛郡中種子町坂井にある江戸時代の民家
古市家住宅(ふるいちけじゅうたく)は鹿児島県熊毛郡中種子町坂井にある江戸時代の民家。国の重要文化財。
1846年(弘化4年)に古市源助が建てた木造瓦葺き平屋建てである。古市家は河内国古市(現・羽曳野市古市)の出身で種子島氏の元で代々庄屋を務めた家柄であった。
種子島には現存する古民家が少なく、この古市家住宅が現存最古であったため1994年(平成6年)7月12日に国の重要文化財に指定された。老朽化が進んでいたことと近年まで住居として利用されていたため重文指定後に補強と原状回復工事が行われている。

文化財
以下の物件が国の重要文化財に指定されている。
古市家住宅
主屋 - 桁行6.7m、梁間11.1m、正面入母屋造、背面切妻造。北面突出部桁行7.9m、梁間6.0m、入母屋造、桟瓦葺。
土地 - 2454.89平方メートル(石垣、井戸を含む)

1846年(弘化4年)に古市源助が建てた木造瓦葺き平屋建てである。古市家は河内国古市(現・羽曳野市古市)の出身で種子島氏の元で代々庄屋を務めた家柄であった。
種子島には現存する古民家が少なく、この古市家住宅が現存最古であったため1994年(平成6年)7月12日に国の重要文化財に指定された。老朽化が進んでいたことと近年まで住居として利用されていたため重文指定後に補強と原状回復工事が行われている。

文化財
以下の物件が国の重要文化財に指定されている。
古市家住宅
主屋 - 桁行6.7m、梁間11.1m、正面入母屋造、背面切妻造。北面突出部桁行7.9m、梁間6.0m、入母屋造、桟瓦葺。
土地 - 2454.89平方メートル(石垣、井戸を含む)

2024年09月16日
真光寺(しんこうじ)は神戸市兵庫区にある時宗の仏教寺院
真光寺(しんこうじ)は神戸市兵庫区にある時宗の仏教寺院。

歴史
仁明天皇(833年 - 850年)のころ、恵萼が唐より観世音を持ち帰り、和田岬で船が動かなくなったので、堂を建てて祀ったのが始まりという。
建治2年(1276年)一遍上人がこの観音堂に住して中興開祖となる。
正応2年(1289年)8月23日、一遍上人51歳で遷化。
遊行2世他阿上人が寺を建て、伏見天皇から真光寺の名を賜り、時宗の寺となる。寺伝によると、赤松則村(円心)が境内8町四方、寺領数百を寄進とある。
応安2年(1369年)、第6世尊観法親王が本山鎌倉遊行寺の遊行上人となり、以後本山遊行上人の兼帯となる。
慶長年間(1596年 - 1614年)除地の黒印を得、「大道場屋敷分事」として仏堂・僧堂など34とある。
元禄5年(1692年)の届書には大徳院・法林院・慶重院・善長庵・乾寮・竜蔵庵・陽徳院・常徳院・養生庵などの塔頭を記録している。
天明8年(1788年)の記録によれば、塔頭には陽徳院・宝積院・修善院・西北院・聖徳院があった。
1945年(昭和20年)の神戸大空襲で全伽藍を焼失。清盛七弁天の真野弁天は大日堂にあったという。

交通
JR神戸線「兵庫駅」下車、徒歩10分
所在地 兵庫県神戸市兵庫区松原通1丁目1-62
位置 北緯34度39分51.5秒 東経135度10分12.4秒
山号 西月山
宗派 時宗
本尊 阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩
創建年 仁明天皇(833年 - 850年)
開基 恵萼
中興年 建治2年(1276年)
中興 一遍上人
札所等 福原西国三十三観音霊場第33番札所
清盛七弁天 真野弁天
文化財 「紙本著色遊行縁起」(重文)

歴史
仁明天皇(833年 - 850年)のころ、恵萼が唐より観世音を持ち帰り、和田岬で船が動かなくなったので、堂を建てて祀ったのが始まりという。
建治2年(1276年)一遍上人がこの観音堂に住して中興開祖となる。
正応2年(1289年)8月23日、一遍上人51歳で遷化。
遊行2世他阿上人が寺を建て、伏見天皇から真光寺の名を賜り、時宗の寺となる。寺伝によると、赤松則村(円心)が境内8町四方、寺領数百を寄進とある。
応安2年(1369年)、第6世尊観法親王が本山鎌倉遊行寺の遊行上人となり、以後本山遊行上人の兼帯となる。
慶長年間(1596年 - 1614年)除地の黒印を得、「大道場屋敷分事」として仏堂・僧堂など34とある。
元禄5年(1692年)の届書には大徳院・法林院・慶重院・善長庵・乾寮・竜蔵庵・陽徳院・常徳院・養生庵などの塔頭を記録している。
天明8年(1788年)の記録によれば、塔頭には陽徳院・宝積院・修善院・西北院・聖徳院があった。
1945年(昭和20年)の神戸大空襲で全伽藍を焼失。清盛七弁天の真野弁天は大日堂にあったという。

交通
JR神戸線「兵庫駅」下車、徒歩10分
所在地 兵庫県神戸市兵庫区松原通1丁目1-62
位置 北緯34度39分51.5秒 東経135度10分12.4秒
山号 西月山
宗派 時宗
本尊 阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩
創建年 仁明天皇(833年 - 850年)
開基 恵萼
中興年 建治2年(1276年)
中興 一遍上人
札所等 福原西国三十三観音霊場第33番札所
清盛七弁天 真野弁天
文化財 「紙本著色遊行縁起」(重文)