旧太田脇本陣林家住宅(きゅうおおたわきほんじんはやしけじゅうたく)は、岐阜県美濃加茂市太田本町にある脇本陣を担った古民家で、中山道において江戸時代に建てられた脇本陣としては唯一現存している建造物である。主屋、表門、質倉、借物倉、隠居家、附便所、附井戸屋、附塀ならびに宅地が日本国により重要文化財に指定されている。
林家は中山道太田宿で庄屋を務めた名家であり、味噌蔵ならびに質屋を生業としていた。敷地北側は中山道が通っていた。
主屋は居住に用いられる居室部が明和6年(1769年)、宿泊等に用いられる座敷部が安永2年(1773年)頃に建造された。主屋は桁行7.5m、梁間9.5mで平入切妻造り2階建てで、座敷は式台、次の間および上段の間を備えた平屋建て切妻造りで桁行3m、梁間5mである。表門は文久元年(1861年)に建てられたものである。昭和46年(1971年)12月28日に主屋、表門、質倉ならびに借物倉が国の重要文化財に指定され、平成12年(2000年)5月25日には隠居家、附便所、附井戸屋、附塀および宅地が追加で重要文化財に指定されている。2022年現在でも林家が住宅として使用しているが、隠居家が一般に公開されている。
所在地 岐阜県美濃加茂市太田本町3-3-34
位置 北緯35度26分17.3秒 東経137度00分49.3秒
類型 町屋(庄屋、脇本陣)
形式・構造 木造、平入切妻造2階建(主屋)、桟瓦葺、うだつ
建築年 主屋居室:明和6年(1769年)
主屋座敷:安永2年頃(1773年頃)
表門:文久元年(1861年)
文化財 国の重要文化財:昭和46年(1971年)12月28日指定、平成12年(2000年)5月25日追加指定
2024年09月18日
光触寺(こうそくじ)は、神奈川県鎌倉市十二所に所在する時宗の寺院
光触寺(こうそくじ)は、神奈川県鎌倉市十二所に所在する時宗の寺院で、山号は岩蔵山、院号を長春院という。創建は弘安元年(1278年)で、開山は作阿上人、開基は一遍上人と伝えられている。本尊は阿弥陀三尊で、中尊の阿弥陀如来像は頬焼阿弥陀(ほおやきあみだ)として知られる。
鎌倉三十三観音霊場第7番、鎌倉二十四地蔵霊場第5番、鎌倉六阿弥陀第6番札所。藤沢市清浄光寺末。
歴史
光触寺に伝わる鎌倉時代中後期の絵巻『頬焼阿弥陀縁起』の詞書に、当寺本尊阿弥陀如来の由来について次のようにある。鎌倉時代の始め頃、将軍の招きで鎌倉に来ていた仏師雲慶(運慶)は、町局(まちのつぼね)という女性の求めにより阿弥陀三尊像を刻んだ。ある時、町局に仕えていた万歳法師なる素行不良の僧が盗みの容疑をかけられ、頬に「くつわの水つき」によって焼印を押されたが、法師の頬には焼痕が残らない。その後、町局の夢に阿弥陀仏が現れ、「なぜ、私の頬に火印を押すのか」と言った。朝になってみると、阿弥陀仏の頬に焼痕が残っており、修復を21度試みてもかなわなかったという。
その後、町局は出家して比企ヶ谷の西部に岩蔵寺という真言宗寺院を建立、この阿弥陀三尊像を本尊として安置したので、由縁により寺院は火印堂(かなやきどう)と呼ばれたと伝えられる。この縁起は、絵図と同じく鎌倉時代中後期に成立した無住道暁の仏教説話集『沙石集 巻第二ノ三』に、細部の異同はありながら「弥陀ノ利益事」として同様の説話が載っている。
岩蔵寺と当寺についての直接の資料は前述の絵巻物を除いて残っておらず明らかでないが、弘安元年(1278年)に現在地へと移ったとされ、その後第3代住持が一遍に帰依して作阿弥陀仏(作阿)と改名。一遍を開基に迎え、寺号の岩蔵を山号とし、光触寺へと改称したという。江戸初期には藤澤山(藤沢山)とも称した。
寺域は移転より長らく無事であったが、元禄年間(1688年 – 1704年)に起きた大地震により寺が崩れており、22代住持の含了により中興されている。また、安政年間(1854年 – 1860年)の大地震や突風により再び倒壊した際には、33代住持の大純により中興されている。現存の本堂が安政6年3月(1859年4月)上棟とする。堂は37代住持広道の任期において1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の折に傾斜したが、翌1924年(大正13年)には修復されている。
所在地情報
所在地
神奈川県鎌倉市十二所793
交通
鎌倉駅東口より京浜急行バス、鎌倉霊園正門前太刀洗・金沢八景駅行バスに乗り停留所「十二所」下車徒歩約2分
位置 北緯35度19分12.8秒 東経139度34分51.7秒
山号 岩藏山
院号 長春院
宗派 時宗
本尊 阿弥陀三尊
創建年 弘安元年(1278年)
開山 作阿
開基 一遍
中興年
元禄年間(1688年 – 1704年)
安政年間(1854年 – 1860年)
中興
含了(元禄)
大純(安政)
正式名 岩藏山長春院光觸寺
別称 頬焼阿弥陀、火印堂
札所等
鎌倉三十三観音霊場第7番
鎌倉二十四地蔵霊場第5番
鎌倉六阿弥陀第6番
文化財
木造阿弥陀如来及両脇侍立像 3軀(国の重要文化財)
紙本淡彩頬焼阿弥陀縁起 2巻(国の重要文化財)
絹本著色阿弥陀三尊像 1幅(市指定文化財)
紙本著色頬焼阿弥陀縁起絵巻模本 2巻(市指定文化財)
鎌倉三十三観音霊場第7番、鎌倉二十四地蔵霊場第5番、鎌倉六阿弥陀第6番札所。藤沢市清浄光寺末。
歴史
光触寺に伝わる鎌倉時代中後期の絵巻『頬焼阿弥陀縁起』の詞書に、当寺本尊阿弥陀如来の由来について次のようにある。鎌倉時代の始め頃、将軍の招きで鎌倉に来ていた仏師雲慶(運慶)は、町局(まちのつぼね)という女性の求めにより阿弥陀三尊像を刻んだ。ある時、町局に仕えていた万歳法師なる素行不良の僧が盗みの容疑をかけられ、頬に「くつわの水つき」によって焼印を押されたが、法師の頬には焼痕が残らない。その後、町局の夢に阿弥陀仏が現れ、「なぜ、私の頬に火印を押すのか」と言った。朝になってみると、阿弥陀仏の頬に焼痕が残っており、修復を21度試みてもかなわなかったという。
その後、町局は出家して比企ヶ谷の西部に岩蔵寺という真言宗寺院を建立、この阿弥陀三尊像を本尊として安置したので、由縁により寺院は火印堂(かなやきどう)と呼ばれたと伝えられる。この縁起は、絵図と同じく鎌倉時代中後期に成立した無住道暁の仏教説話集『沙石集 巻第二ノ三』に、細部の異同はありながら「弥陀ノ利益事」として同様の説話が載っている。
岩蔵寺と当寺についての直接の資料は前述の絵巻物を除いて残っておらず明らかでないが、弘安元年(1278年)に現在地へと移ったとされ、その後第3代住持が一遍に帰依して作阿弥陀仏(作阿)と改名。一遍を開基に迎え、寺号の岩蔵を山号とし、光触寺へと改称したという。江戸初期には藤澤山(藤沢山)とも称した。
寺域は移転より長らく無事であったが、元禄年間(1688年 – 1704年)に起きた大地震により寺が崩れており、22代住持の含了により中興されている。また、安政年間(1854年 – 1860年)の大地震や突風により再び倒壊した際には、33代住持の大純により中興されている。現存の本堂が安政6年3月(1859年4月)上棟とする。堂は37代住持広道の任期において1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の折に傾斜したが、翌1924年(大正13年)には修復されている。
所在地情報
所在地
神奈川県鎌倉市十二所793
交通
鎌倉駅東口より京浜急行バス、鎌倉霊園正門前太刀洗・金沢八景駅行バスに乗り停留所「十二所」下車徒歩約2分
位置 北緯35度19分12.8秒 東経139度34分51.7秒
山号 岩藏山
院号 長春院
宗派 時宗
本尊 阿弥陀三尊
創建年 弘安元年(1278年)
開山 作阿
開基 一遍
中興年
元禄年間(1688年 – 1704年)
安政年間(1854年 – 1860年)
中興
含了(元禄)
大純(安政)
正式名 岩藏山長春院光觸寺
別称 頬焼阿弥陀、火印堂
札所等
鎌倉三十三観音霊場第7番
鎌倉二十四地蔵霊場第5番
鎌倉六阿弥陀第6番
文化財
木造阿弥陀如来及両脇侍立像 3軀(国の重要文化財)
紙本淡彩頬焼阿弥陀縁起 2巻(国の重要文化財)
絹本著色阿弥陀三尊像 1幅(市指定文化財)
紙本著色頬焼阿弥陀縁起絵巻模本 2巻(市指定文化財)
2024年09月17日
古市家住宅(ふるいちけじゅうたく)は鹿児島県熊毛郡中種子町坂井にある江戸時代の民家
古市家住宅(ふるいちけじゅうたく)は鹿児島県熊毛郡中種子町坂井にある江戸時代の民家。国の重要文化財。
1846年(弘化4年)に古市源助が建てた木造瓦葺き平屋建てである。古市家は河内国古市(現・羽曳野市古市)の出身で種子島氏の元で代々庄屋を務めた家柄であった。
種子島には現存する古民家が少なく、この古市家住宅が現存最古であったため1994年(平成6年)7月12日に国の重要文化財に指定された。老朽化が進んでいたことと近年まで住居として利用されていたため重文指定後に補強と原状回復工事が行われている。
文化財
以下の物件が国の重要文化財に指定されている。
古市家住宅
主屋 - 桁行6.7m、梁間11.1m、正面入母屋造、背面切妻造。北面突出部桁行7.9m、梁間6.0m、入母屋造、桟瓦葺。
土地 - 2454.89平方メートル(石垣、井戸を含む)
1846年(弘化4年)に古市源助が建てた木造瓦葺き平屋建てである。古市家は河内国古市(現・羽曳野市古市)の出身で種子島氏の元で代々庄屋を務めた家柄であった。
種子島には現存する古民家が少なく、この古市家住宅が現存最古であったため1994年(平成6年)7月12日に国の重要文化財に指定された。老朽化が進んでいたことと近年まで住居として利用されていたため重文指定後に補強と原状回復工事が行われている。
文化財
以下の物件が国の重要文化財に指定されている。
古市家住宅
主屋 - 桁行6.7m、梁間11.1m、正面入母屋造、背面切妻造。北面突出部桁行7.9m、梁間6.0m、入母屋造、桟瓦葺。
土地 - 2454.89平方メートル(石垣、井戸を含む)
2024年09月16日
真光寺(しんこうじ)は神戸市兵庫区にある時宗の仏教寺院
真光寺(しんこうじ)は神戸市兵庫区にある時宗の仏教寺院。
歴史
仁明天皇(833年 - 850年)のころ、恵萼が唐より観世音を持ち帰り、和田岬で船が動かなくなったので、堂を建てて祀ったのが始まりという。
建治2年(1276年)一遍上人がこの観音堂に住して中興開祖となる。
正応2年(1289年)8月23日、一遍上人51歳で遷化。
遊行2世他阿上人が寺を建て、伏見天皇から真光寺の名を賜り、時宗の寺となる。寺伝によると、赤松則村(円心)が境内8町四方、寺領数百を寄進とある。
応安2年(1369年)、第6世尊観法親王が本山鎌倉遊行寺の遊行上人となり、以後本山遊行上人の兼帯となる。
慶長年間(1596年 - 1614年)除地の黒印を得、「大道場屋敷分事」として仏堂・僧堂など34とある。
元禄5年(1692年)の届書には大徳院・法林院・慶重院・善長庵・乾寮・竜蔵庵・陽徳院・常徳院・養生庵などの塔頭を記録している。
天明8年(1788年)の記録によれば、塔頭には陽徳院・宝積院・修善院・西北院・聖徳院があった。
1945年(昭和20年)の神戸大空襲で全伽藍を焼失。清盛七弁天の真野弁天は大日堂にあったという。
交通
JR神戸線「兵庫駅」下車、徒歩10分
所在地 兵庫県神戸市兵庫区松原通1丁目1-62
位置 北緯34度39分51.5秒 東経135度10分12.4秒
山号 西月山
宗派 時宗
本尊 阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩
創建年 仁明天皇(833年 - 850年)
開基 恵萼
中興年 建治2年(1276年)
中興 一遍上人
札所等 福原西国三十三観音霊場第33番札所
清盛七弁天 真野弁天
文化財 「紙本著色遊行縁起」(重文)
歴史
仁明天皇(833年 - 850年)のころ、恵萼が唐より観世音を持ち帰り、和田岬で船が動かなくなったので、堂を建てて祀ったのが始まりという。
建治2年(1276年)一遍上人がこの観音堂に住して中興開祖となる。
正応2年(1289年)8月23日、一遍上人51歳で遷化。
遊行2世他阿上人が寺を建て、伏見天皇から真光寺の名を賜り、時宗の寺となる。寺伝によると、赤松則村(円心)が境内8町四方、寺領数百を寄進とある。
応安2年(1369年)、第6世尊観法親王が本山鎌倉遊行寺の遊行上人となり、以後本山遊行上人の兼帯となる。
慶長年間(1596年 - 1614年)除地の黒印を得、「大道場屋敷分事」として仏堂・僧堂など34とある。
元禄5年(1692年)の届書には大徳院・法林院・慶重院・善長庵・乾寮・竜蔵庵・陽徳院・常徳院・養生庵などの塔頭を記録している。
天明8年(1788年)の記録によれば、塔頭には陽徳院・宝積院・修善院・西北院・聖徳院があった。
1945年(昭和20年)の神戸大空襲で全伽藍を焼失。清盛七弁天の真野弁天は大日堂にあったという。
交通
JR神戸線「兵庫駅」下車、徒歩10分
所在地 兵庫県神戸市兵庫区松原通1丁目1-62
位置 北緯34度39分51.5秒 東経135度10分12.4秒
山号 西月山
宗派 時宗
本尊 阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩
創建年 仁明天皇(833年 - 850年)
開基 恵萼
中興年 建治2年(1276年)
中興 一遍上人
札所等 福原西国三十三観音霊場第33番札所
清盛七弁天 真野弁天
文化財 「紙本著色遊行縁起」(重文)
2024年09月15日
國前寺(こくぜんじ)は、広島県広島市東区山根町にある日蓮宗本山(由緒寺院)の寺院
國前寺(こくぜんじ)は、広島県広島市東区山根町にある日蓮宗本山(由緒寺院)の寺院。すぐそばに尾長天満宮がある。
沿革
尾長山(二葉山)麓で庵を営んでいた暁忍が日像に師事、1340年(暦応3年)「暁忍寺」として開山した。
1656年(明暦2年)、広島藩浅野家2代藩主浅野光晟正室の満姫(加賀藩主前田利常の三女)の帰依により浅野家の菩堤寺となり、現名の「國前寺」に改名した。その後本堂は満姫が、その他諸堂は光晟が建立し直した。1692年(元禄5年)、不受不施派禁圧により寺領を没収された。この際浅野家は天台宗に改宗し牛田の日通寺に菩提寺を変えている。
1945年(昭和20年)8月6日広島市への原子爆弾投下により被爆。ここは爆心地から約2.60kmに位置した。爆風により建物は北東方向に傾いたが倒壊は免れた。ここの南には東練兵場が広がっており、被爆者が数多く避難してきた。翌7日から境内に大日本帝国海軍による救護所が設けられ特に重傷者を中心に運び込まれ、呉鎮守府派遣の医療班や近隣地域の民間医師団など様々な医師が活躍した。9日には被爆地救援に当たる宇品の船舶司令部麾下の陸軍船舶兵(暁部隊)の一隊が拠点をおいた。
戦後は部分的な修理が行われていたが痛みが進行したため、1988年(昭和63年)からまず庫裏を3年かけて修理、2001年(平成13年)から本堂を5年かけて修理した。
現住は39世・疋田日量(英親)貫首。
文化財
1993年(平成5年)本堂と庫裏が国の重要文化財に指定された。双方とも広島藩の城大工による建築で、一般的な寺社建築ではなく城郭建築の手法が用いられているのが特徴。
また同1993年には市により現存する被爆建物リストに登録された。1995年(平成7年)山門および参道を構成する境内は市の重要有形文化財に指定されている。
重要文化財(国指定)
本堂 - 二重屋根の寄棟造、向拝は唐破風造りで、1671年(寛文11年)建立。錣屋根の仏間が背面に出ている。前の4基の石灯籠も本堂と同年に建てられたもの。
庫裏 - 錣屋根の切妻造。棟札が残っていないため建立年はわからないが材料や建築方法が本堂と似ていることから、本堂と同時期あるいは少し前に建立されたと考えられている。
交通
JR広島駅下車、徒歩で14分
所在地 広島市東区山根町32-1
位置 北緯34度24分11.3秒 東経132度28分52.5秒
山号 自昌山
院号 龍華樹院
宗派 日蓮宗 ← 真言宗
寺格 本山(由緒寺院)
創建年 暦応3年(1340年)
開基 暁忍坊
中興年 明暦2年(1656年)
中興 自昌院(浅野光晟正室)
正式名 自昌山龍華樹院
別称 曉忍寺(真言宗)
文化財 本堂、庫裏(国重文)
山門、境内地(市重要有形)
沿革
尾長山(二葉山)麓で庵を営んでいた暁忍が日像に師事、1340年(暦応3年)「暁忍寺」として開山した。
1656年(明暦2年)、広島藩浅野家2代藩主浅野光晟正室の満姫(加賀藩主前田利常の三女)の帰依により浅野家の菩堤寺となり、現名の「國前寺」に改名した。その後本堂は満姫が、その他諸堂は光晟が建立し直した。1692年(元禄5年)、不受不施派禁圧により寺領を没収された。この際浅野家は天台宗に改宗し牛田の日通寺に菩提寺を変えている。
1945年(昭和20年)8月6日広島市への原子爆弾投下により被爆。ここは爆心地から約2.60kmに位置した。爆風により建物は北東方向に傾いたが倒壊は免れた。ここの南には東練兵場が広がっており、被爆者が数多く避難してきた。翌7日から境内に大日本帝国海軍による救護所が設けられ特に重傷者を中心に運び込まれ、呉鎮守府派遣の医療班や近隣地域の民間医師団など様々な医師が活躍した。9日には被爆地救援に当たる宇品の船舶司令部麾下の陸軍船舶兵(暁部隊)の一隊が拠点をおいた。
戦後は部分的な修理が行われていたが痛みが進行したため、1988年(昭和63年)からまず庫裏を3年かけて修理、2001年(平成13年)から本堂を5年かけて修理した。
現住は39世・疋田日量(英親)貫首。
文化財
1993年(平成5年)本堂と庫裏が国の重要文化財に指定された。双方とも広島藩の城大工による建築で、一般的な寺社建築ではなく城郭建築の手法が用いられているのが特徴。
また同1993年には市により現存する被爆建物リストに登録された。1995年(平成7年)山門および参道を構成する境内は市の重要有形文化財に指定されている。
重要文化財(国指定)
本堂 - 二重屋根の寄棟造、向拝は唐破風造りで、1671年(寛文11年)建立。錣屋根の仏間が背面に出ている。前の4基の石灯籠も本堂と同年に建てられたもの。
庫裏 - 錣屋根の切妻造。棟札が残っていないため建立年はわからないが材料や建築方法が本堂と似ていることから、本堂と同時期あるいは少し前に建立されたと考えられている。
交通
JR広島駅下車、徒歩で14分
所在地 広島市東区山根町32-1
位置 北緯34度24分11.3秒 東経132度28分52.5秒
山号 自昌山
院号 龍華樹院
宗派 日蓮宗 ← 真言宗
寺格 本山(由緒寺院)
創建年 暦応3年(1340年)
開基 暁忍坊
中興年 明暦2年(1656年)
中興 自昌院(浅野光晟正室)
正式名 自昌山龍華樹院
別称 曉忍寺(真言宗)
文化財 本堂、庫裏(国重文)
山門、境内地(市重要有形)
2024年09月14日
弘憲寺(こうけんじ)は、香川県高松市にある高野山真言宗の寺院
弘憲寺(こうけんじ)は、香川県高松市にある高野山真言宗の寺院。山号は利剣山。本尊は不動明王。法泉寺とともに讃岐生駒家の菩提寺である。
歴史
伝承によれば、奈良時代の天平年間、現丸亀市飯山町下法軍寺に法勲寺が開基。しかし、少なくとも鎌倉時代以後に廃寺となり、本尊・寺宝を島田寺へ移した。その後生駒親正が讃岐に入封すると法勲寺を再建し、良純上人に寺務を執らせた。
親正の死後、息子の生駒一正は親正の墓所内(現在地)に法勲寺を移転し、親正の戒名(諡弘憲公)をとって弘憲寺と改称、古画・名器を島田寺から移転し、同寺を弘憲寺の末寺とした。
1868年(慶応4年)の鳥羽・伏見の戦いで幕府側についた高松藩は朝敵となり、迫る官軍の征討を回避するため二人の家老の首を鎮撫使に差し出した。1月18日、そのうちの一人の小河又右衛門が切腹したのが当寺である。これによって結果的に高松を戦火から逃れさせることが出来た。
2016年、生駒親正着用の甲冑が秋田県由利本荘市の龍源寺から寄贈された。4代高俊が生駒騒動により1640年(寛永17年)に出羽国由利郡矢島に改易されてから376年ぶりの里帰りとなった。
交通アクセス
JR高松駅:徒歩10分
所在地 香川県高松市錦町二丁目4番29号
位置 北緯34度20分51.7秒 東経134度2分24.6秒
山号 利剣山
宗派 高野山真言宗
本尊 不動明王
創建年 1603年(慶長8年)
開山 生駒一正
文化財 国の重要文化財:木造不動明王立像、密教法具
その他:地蔵菩薩立像、生駒親正肖像画
歴史
伝承によれば、奈良時代の天平年間、現丸亀市飯山町下法軍寺に法勲寺が開基。しかし、少なくとも鎌倉時代以後に廃寺となり、本尊・寺宝を島田寺へ移した。その後生駒親正が讃岐に入封すると法勲寺を再建し、良純上人に寺務を執らせた。
親正の死後、息子の生駒一正は親正の墓所内(現在地)に法勲寺を移転し、親正の戒名(諡弘憲公)をとって弘憲寺と改称、古画・名器を島田寺から移転し、同寺を弘憲寺の末寺とした。
1868年(慶応4年)の鳥羽・伏見の戦いで幕府側についた高松藩は朝敵となり、迫る官軍の征討を回避するため二人の家老の首を鎮撫使に差し出した。1月18日、そのうちの一人の小河又右衛門が切腹したのが当寺である。これによって結果的に高松を戦火から逃れさせることが出来た。
2016年、生駒親正着用の甲冑が秋田県由利本荘市の龍源寺から寄贈された。4代高俊が生駒騒動により1640年(寛永17年)に出羽国由利郡矢島に改易されてから376年ぶりの里帰りとなった。
交通アクセス
JR高松駅:徒歩10分
所在地 香川県高松市錦町二丁目4番29号
位置 北緯34度20分51.7秒 東経134度2分24.6秒
山号 利剣山
宗派 高野山真言宗
本尊 不動明王
創建年 1603年(慶長8年)
開山 生駒一正
文化財 国の重要文化財:木造不動明王立像、密教法具
その他:地蔵菩薩立像、生駒親正肖像画
2024年09月13日
恵比須神社(えびすじんじゃ)は沖縄県那覇市に鎮座する神社
2024年09月12日
志賀海神社(しかうみじんじゃ)は、福岡県福岡市東区志賀島にある神社
志賀海神社(しかうみじんじゃ)は、福岡県福岡市東区志賀島にある神社。式内社(名神大社)。旧社格は官幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国の綿津見神社、海神社の総本社を称する。龍の都と称えられ、古代氏族の阿曇氏(安曇氏)ゆかり地として知られる。
社名
志賀島の島名でもある「志賀」の語源について、『筑前国風土記』逸文では、神功皇后による新羅出征の際の伝承から当地を「近島(ちか)」と言い、のち「資珂島(しか)」と転訛したという。
社名「志賀海」は、現在「しかうみ」と呼称されるが、本来の呼称については「しかのわた」「しかのあま」「しかのうみ」「しかにいますわた」等の諸説がある。
祭神
祭神は、次のように左・中・右殿に主祭神が各1柱、相殿神が各1柱が祀られている。主祭神の3柱は「綿津見三神(わたつみさんしん)」と総称される。
左殿:仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)
左殿相殿:神功皇后(じんぐうこうごう)
中殿:底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)
中殿相殿:玉依姫命(たまよりひめのみこと)
右殿:表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)
右殿相殿:応神天皇(おうじんてんのう)
境内
境内は志賀島の南側に位置する。かつて志賀海神社は志賀島の北側において、表津宮(うわつぐう)・仲津宮(なかつぐう)・沖津宮(おきつぐう)の3宮から成っていたという。うち表津宮が当地に遷って現在の本社となり、仲津宮・沖津宮は現在は摂社となっている。その表津宮跡は福岡市東区勝馬に伝えられている。
境内の鹿角堂(ろっかくどう)では、1万本以上ともいわれる多くの鹿の角が奉納されている。また「亀石(かめいし)」として、神功皇后による三韓征伐の際、阿曇磯良が亀に乗って皇后らの前に現れたという伝承に因んで後世奉納された霊石がある。
参道には石造の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が立つ。宝篋印塔とは仏典(宝篋印陀羅尼経)を納めた塔で、当塔は南北朝時代の貞和3年(1347年)の銘を持ち、完存では福岡県内最古である。花崗岩製で、基礎・塔身・笠部・相輪から成り、総高は334.5センチメートル。この塔は福岡県指定有形文化財に指定されている。
一の鳥居は、寛文10年(1670年)の福岡藩3代藩主・黒田光之による造営。次の鳥居は元禄13年(1700年)、海浜の鳥居は安永3年(1774年)の造営。
現地情報
所在地
福岡県福岡市東区志賀島877
交通アクセス
西鉄バス(西日本鉄道)で「志賀島」バス停下車 (下車後北へ徒歩約7分)
西戸崎駅(九州旅客鉄道(JR九州)香椎線)から、西鉄バスに乗り換え可能。
福岡市営渡船で「志賀島渡船場」下船 (下船後北へ徒歩約7分)
位置 北緯33度40分4.78秒 東経130度18分47.48秒
主祭神 表津綿津見神
仲津綿津見神
底津綿津見神
社格等 式内社(名神大3座)
旧官幣小社
別表神社
創建 不詳
本殿の様式 三間社流造檜皮葺
例祭 10月第2月曜(国土祭)
主な神事 歩射祭(1月中旬)
山誉種蒔漁猟祭(4月15日)
七夕祭(8月6日-7日)
男山祭(10月1日)
御神幸祭(隔年、国土祭前日)
山誉漁猟祭(11月15日)
全国の綿津見神社、海神社の総本社を称する。龍の都と称えられ、古代氏族の阿曇氏(安曇氏)ゆかり地として知られる。
社名
志賀島の島名でもある「志賀」の語源について、『筑前国風土記』逸文では、神功皇后による新羅出征の際の伝承から当地を「近島(ちか)」と言い、のち「資珂島(しか)」と転訛したという。
社名「志賀海」は、現在「しかうみ」と呼称されるが、本来の呼称については「しかのわた」「しかのあま」「しかのうみ」「しかにいますわた」等の諸説がある。
祭神
祭神は、次のように左・中・右殿に主祭神が各1柱、相殿神が各1柱が祀られている。主祭神の3柱は「綿津見三神(わたつみさんしん)」と総称される。
左殿:仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)
左殿相殿:神功皇后(じんぐうこうごう)
中殿:底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)
中殿相殿:玉依姫命(たまよりひめのみこと)
右殿:表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)
右殿相殿:応神天皇(おうじんてんのう)
境内
境内は志賀島の南側に位置する。かつて志賀海神社は志賀島の北側において、表津宮(うわつぐう)・仲津宮(なかつぐう)・沖津宮(おきつぐう)の3宮から成っていたという。うち表津宮が当地に遷って現在の本社となり、仲津宮・沖津宮は現在は摂社となっている。その表津宮跡は福岡市東区勝馬に伝えられている。
境内の鹿角堂(ろっかくどう)では、1万本以上ともいわれる多くの鹿の角が奉納されている。また「亀石(かめいし)」として、神功皇后による三韓征伐の際、阿曇磯良が亀に乗って皇后らの前に現れたという伝承に因んで後世奉納された霊石がある。
参道には石造の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が立つ。宝篋印塔とは仏典(宝篋印陀羅尼経)を納めた塔で、当塔は南北朝時代の貞和3年(1347年)の銘を持ち、完存では福岡県内最古である。花崗岩製で、基礎・塔身・笠部・相輪から成り、総高は334.5センチメートル。この塔は福岡県指定有形文化財に指定されている。
一の鳥居は、寛文10年(1670年)の福岡藩3代藩主・黒田光之による造営。次の鳥居は元禄13年(1700年)、海浜の鳥居は安永3年(1774年)の造営。
現地情報
所在地
福岡県福岡市東区志賀島877
交通アクセス
西鉄バス(西日本鉄道)で「志賀島」バス停下車 (下車後北へ徒歩約7分)
西戸崎駅(九州旅客鉄道(JR九州)香椎線)から、西鉄バスに乗り換え可能。
福岡市営渡船で「志賀島渡船場」下船 (下船後北へ徒歩約7分)
位置 北緯33度40分4.78秒 東経130度18分47.48秒
主祭神 表津綿津見神
仲津綿津見神
底津綿津見神
社格等 式内社(名神大3座)
旧官幣小社
別表神社
創建 不詳
本殿の様式 三間社流造檜皮葺
例祭 10月第2月曜(国土祭)
主な神事 歩射祭(1月中旬)
山誉種蒔漁猟祭(4月15日)
七夕祭(8月6日-7日)
男山祭(10月1日)
御神幸祭(隔年、国土祭前日)
山誉漁猟祭(11月15日)
2024年09月11日
旭田寺(きょくでんじ)は、福島県南会津郡下郷町塩生(しおのう)上ノ原にある真言宗豊山派の寺院
旭田寺(きょくでんじ)は、福島県南会津郡下郷町塩生(しおのう)上ノ原にある真言宗豊山派の寺院。本尊は大日如来。当寺に所属する重要文化財の中ノ沢観音堂は、大同2年(807年)に徳一上人の開山で創建したと伝承する堂が室町時代初期に火災によって焼失したため、再建されたもの。
本堂
歴史
天正17年(1589年)、旭田寺の前身にあたる長福寺は平田五郎忠照により僧・福蔵を招いて開山された。昭和29年(1954年)、長福寺、光明寺、無量寺、岩蔵寺が合併して旭田寺となった。昭和35年(1960年)、中ノ沢観音堂が重要文化財に指定された。
(旭田寺)福島県南会津郡下郷町塩生上ノ原1207
(中ノ沢観音堂)福島県南会津郡下郷町中妻観音前228
アクセス
(旭田寺) 会津下郷駅より南東へ1.3km。
(中ノ沢観音堂)弥五島駅より車で10分
位置 北緯37度14分54.8秒 東経139度52分25.4秒
宗派 真言宗豊山派
本尊 大日如来
創建年 天正17年(1589年)
開山 福蔵
開基 平田五郎忠照
中興年 昭和29年(1954年)
本堂
歴史
天正17年(1589年)、旭田寺の前身にあたる長福寺は平田五郎忠照により僧・福蔵を招いて開山された。昭和29年(1954年)、長福寺、光明寺、無量寺、岩蔵寺が合併して旭田寺となった。昭和35年(1960年)、中ノ沢観音堂が重要文化財に指定された。
(旭田寺)福島県南会津郡下郷町塩生上ノ原1207
(中ノ沢観音堂)福島県南会津郡下郷町中妻観音前228
アクセス
(旭田寺) 会津下郷駅より南東へ1.3km。
(中ノ沢観音堂)弥五島駅より車で10分
位置 北緯37度14分54.8秒 東経139度52分25.4秒
宗派 真言宗豊山派
本尊 大日如来
創建年 天正17年(1589年)
開山 福蔵
開基 平田五郎忠照
中興年 昭和29年(1954年)
2024年09月10日
永専寺(えいせんじ)は、北海道網走市にある真宗大谷派の寺院
永専寺(えいせんじ)は、北海道網走市にある真宗大谷派の寺院。網走市街地の国道244号沿いに建つ。長らく網走監獄の教誨師を務めた僧侶・寺永法専が住職であった寺で、その縁から1924年(大正13年)に旧網走監獄正門が当山の門として払い下げられた。現在は旧網走監獄正門のある寺として広く知られる。
旧網走刑務所正門
竣工 - 1912年(明治45年)
構造・規模 - 木造長屋門、入母屋造瓦葺き、門柱にドーム屋根の番所付
網走市有形文化財(1977年(昭和52年)指定)
備考 - 夜間ライトアップされる
交通アクセス
網走バスターミナル 徒歩5分
釧網本線 桂台駅 徒歩5分
石北本線 網走駅 徒歩20分
国道244号沿いに建つ。
所在地 北海道網走市南6条東2
位置 北緯44度1分10.3秒 東経144度16分12.5秒
宗旨 浄土真宗
宗派 真宗大谷派
本尊 阿弥陀如来
創建年 明治末期
開基 寺永法専
旧網走刑務所正門
竣工 - 1912年(明治45年)
構造・規模 - 木造長屋門、入母屋造瓦葺き、門柱にドーム屋根の番所付
網走市有形文化財(1977年(昭和52年)指定)
備考 - 夜間ライトアップされる
交通アクセス
網走バスターミナル 徒歩5分
釧網本線 桂台駅 徒歩5分
石北本線 網走駅 徒歩20分
国道244号沿いに建つ。
所在地 北海道網走市南6条東2
位置 北緯44度1分10.3秒 東経144度16分12.5秒
宗旨 浄土真宗
宗派 真宗大谷派
本尊 阿弥陀如来
創建年 明治末期
開基 寺永法専