雪蹊寺(せっけいじ)は、高知県高知市長浜にある臨済宗妙心寺派の寺院。高福山(こうふくざん)、幸福院(こうふくいん)と号す。本尊は薬師如来。四国八十八箇所第三十三番札所。
本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
ご詠歌:旅の道うえしも今は高福寺 のちのたのしみ有明(ありあけ)の月
納経印:当寺本尊、奥の院中谷堂
歴史
寺伝によれば空海(弘法大師)の開基で、創建当初は真言宗に属し、「少林山高福寺」と称したという。鎌倉時代に仏師運慶と長男の湛慶が来山して「慶運寺」と改めたという。
寺に伝わる毘沙門天および両脇侍像は、毘沙門天像の足枘銘から湛慶の真作と判明し、高福寺創建の嘉禄元年(1225年)頃の作と推定されている。ただし、湛慶作の仏像が都から遠く離れた土佐に伝わった経緯は定かでない。
なお、『土佐国編年紀事略』には嘉禄元年(1225年)、右近将監定光なる人物が高福寺を創建したとする。天正16年(1588年)の長浜地検帳には「慶雲寺」とあり、この頃までに慶雲寺と改称していたことが窺える。。
その後、寺運が衰え、廃寺となっていたが、天正年間(1573年 – 1593年)の後期に月峰和尚が住職となり、土佐国の戦国大名長宗我部元親の後援で臨済宗の寺として復興した。慶長4年(1599年)の長宗我部元親の病没後、当寺は長宗我部家の菩提寺となり、元親の法名「雪蹊恕三大禅定門」から「雪蹊寺」と称した。
江戸時代初期には「南学発祥の道場」といわれ天室僧正が朱子学南学派の祖として活躍、野中兼山などの儒学者を生み出した。
明治時代になると廃仏毀釈により明治3年(1870年)廃寺となり、翌年、本堂跡に当寺所蔵の長宗我部元親坐像を神体とした秦神社が建立された。明治12年(1879年)大玄和尚により維新館の跡地に再興、明治44年(1911年)までに寺域を拡張して本格的な復興を遂げた。なお、明治12年に再興されるまで納経は、31番竹林寺で「高福寺」の名でされていたという。
交通案内
鉄道
とさでん交通桟橋線 - 桟橋通五丁目停留場 (5.1 km)
バス
とさでん交通 長浜行き・桂浜行き「長浜」下車 (0.3 km)
道路
一般道:高知県道34号桂浜はりまや線 長浜 (0.3 km)、高知県道278号弘岡下種崎線 雪蹊寺前 (0.1km)
所在地 高知県高知市長浜857番地3
位置 北緯33度30分3秒 東経133度32分35.1秒
山号 高福山
院号 幸福院
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 薬師如来
創建年 (伝)弘仁6年(815年)、嘉禄元年(1225年)とも
開基 (伝)空海(弘法大師)
中興年 天正年間(1573年 – 1593年)後期
中興 月峰
正式名 高福山 幸福院 雪蹊寺
札所等 四国八十八箇所33番
文化財 木造薬師如来および両脇持像、木造毘沙門天および脇侍吉祥天・善膩師童子立像(国の重要文化財)
2024年05月02日
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