萬翠荘(ばんすいそう)は、愛媛県の県庁所在地である松山市中心部に建つフランス風の館である。松山城の城山の南麓に位置する。重要文化財に指定されている。
歴史と現状
廃藩置県される前の松山市は15万石とも言われた松山藩の領地であった。その松山藩主の主家の子孫であり伯爵の地位を得ていた久松定謨が1922年に建築した別荘が萬翠荘である。萬翠荘は松山城の城山南麓の中腹に建っているフランス・ルネッサンス風の洋館で、設計は後に愛媛県庁本館などを手がけた建築家の木子七郎である。建物を「萬翠荘」と命名したのは、定謨の子で次代当主となった久松定武である。
建築面積428.78平方メートル、地下1階、地上2階建て。
松山で最も古い鉄筋コンクリート造建築である。屋根は寄棟造、スレートおよび銅板葺き。屋根中央にはマンサード屋根、東南隅には尖塔を設けて外観に変化をもたせる。平面は正面車寄を入って中央が階段のある広間、東側は表がサロン(謁見の間)、裏手が食堂(晩餐の間)となり、西側には執事室、配膳室など内向きの部屋を配する。2階は居間、寝室などの居住スペースとする(現在は第1〜第7展示室)。玄関の床は大理石、玄関ホールの柱は岡山産の万成石(通称紅桜)、正面階段の手すりは継ぎ目の無い南洋チーク材の一本木、各部屋には色の異なる大理石で造られたマントルピース(暖炉)、水晶のシャンデリア、縦4,442ミリメートル×横3,106ミリメートルのステンドグラスで飾られているなど様々な意匠がこらされている。踊り場の大窓に広がる海の風景は、グラデーションを使用した繊細な色彩のステンドグラスで、これまでハワイ製と言われていたが、2010年の愛媛県の調査(奈良文化財研究所に委託)により木内真太郎の制作と判明した。
完成直後の1922年(大正11年)11月22日から24日まで、皇太子摂政宮(昭和天皇)が滞在した。その後も皇族などの滞在場所として度々使用されている。また、当時は社交の場として各界の名士が集まったという。
太平洋戦争終結後、米軍に接収される。接収解除後、1947年(昭和22年)から松山商工会議所として使用される。1952年(昭和27年)から松山家庭裁判所として裁判官室、事務局等が入居。1954年(昭和29年)より愛媛県の管理となり、同年8月に愛媛県立郷土芸術館として開館した。1979年(昭和54年)に愛媛県立美術館分館と名称変更。1985年(昭和60年)に愛媛県指定文化財に指定された。2008年に改修工事が行われ、2009年4月から指定管理者制度の導入により、愚陀仏庵とともに株式会社ウインに運営を委ねた(2014年(平成26年)3月31日まで)。2011年11月29日に本館と管理人舎の2棟が国の重要文化財に指定された。
松山城や現在の愛媛県庁からはいずれも数百メートルの距離で、約10台の自動車を収容できる駐車場も備えている他、伊予鉄道の市内線の最寄り駅からも直線距離で200メートル程度と公共交通機関でも容易に来ることができる。現在は所定の休館日を除いて昼間は一般公開されており、イベント・展示会場としても利用されている。
利用情報
開館時間 - 9:00〜18:00
休館日 - 月曜(祝日及び振替休日に該当する場合は開館)
入館料 - 大人300円、小人100円(2020年4月より変更。1Fの貸館イベントへの入場は無料)
交通アクセス
伊予鉄道城南線の大街道停留場から徒歩3分。一番町通りから坂の上の雲ミュージアムの方向に入る。
設計者 木子七郎
開館開所 1922年(大正11年)
所在地 〒790-0001
愛媛県松山市1番町3丁目3-7
座標 北緯33度50分32.8秒 東経132度46分5.6秒
文化財 重要文化財
指定・登録等日 2011年(平成23年)
2024年08月28日
2024年08月27日
上地八幡宮(うえじはちまんぐう)は、愛知県岡崎市上地町にある神社
上地八幡宮(うえじはちまんぐう)は、愛知県岡崎市上地町にある神社。本殿は重要文化財に指定されている。
概要
伝承によれば、1184年(元暦元年)、源頼朝の弟の源範頼が平家討伐に向かう途中、この地の祠に祀られていた八幡神に戦勝の祈願をしたという。範頼は「私がこの戦で勝利を収めることができたのなら、ぜひとも、この小祠を立派な社殿に建て替えさせて欲しい」と言い残して戦に向かい、勝利を収める。範頼は三河国の守護に命じられると、祈願したとおりに1190年(建久元年)に社殿を造営する。これが上地八幡宮の起源とされる。
1926年(大正15年)4月19日、本殿一棟は室町時代建造で、当時の古社寺保存法に基づき特別保護建造物(現在の重要文化財)に指定された。本殿の形式は三間社流造、檜皮葺。1948年(昭和23年)、拝殿が新築された。
秋季に2日間にわたって行われる例大祭では、神輿と担ぎ太鼓の練り込み、奉納花火、小学生女子による神楽の奉納、女学生による舞の奉納、太鼓奉納演奏などがあり大変にぎわう。
所在地 愛知県岡崎市上地町字宮脇48番地
位置 北緯34度54分27秒 東経137度9分33秒
主祭神 応神天皇、仁徳天皇、天照大神、秋葉社、健勲社、うなり石
創建 1190年
本殿の様式 三間社流造
概要
伝承によれば、1184年(元暦元年)、源頼朝の弟の源範頼が平家討伐に向かう途中、この地の祠に祀られていた八幡神に戦勝の祈願をしたという。範頼は「私がこの戦で勝利を収めることができたのなら、ぜひとも、この小祠を立派な社殿に建て替えさせて欲しい」と言い残して戦に向かい、勝利を収める。範頼は三河国の守護に命じられると、祈願したとおりに1190年(建久元年)に社殿を造営する。これが上地八幡宮の起源とされる。
1926年(大正15年)4月19日、本殿一棟は室町時代建造で、当時の古社寺保存法に基づき特別保護建造物(現在の重要文化財)に指定された。本殿の形式は三間社流造、檜皮葺。1948年(昭和23年)、拝殿が新築された。
秋季に2日間にわたって行われる例大祭では、神輿と担ぎ太鼓の練り込み、奉納花火、小学生女子による神楽の奉納、女学生による舞の奉納、太鼓奉納演奏などがあり大変にぎわう。
所在地 愛知県岡崎市上地町字宮脇48番地
位置 北緯34度54分27秒 東経137度9分33秒
主祭神 応神天皇、仁徳天皇、天照大神、秋葉社、健勲社、うなり石
創建 1190年
本殿の様式 三間社流造
2024年08月26日
天台寺(てんだいじ)は、岩手県二戸市浄法寺町にある天台宗の寺院
天台寺(てんだいじ)は、岩手県二戸市浄法寺町にある天台宗の寺院。山号は八葉山。
1976年、中尊寺貫主であった今春聽(作家今東光)が特命住職として晋山、本尊十一面観音像(丈六立像)の新たな造立を発念し復興に着手したが、着任から二年、宿痾の結腸癌に斃れ遷化した。のちの1987年、瀬戸内寂聴が住職として後任を勤め(現・名誉住職)復興の責を果たしたことで知られる。また、その際に植えられたアジサイが名物となっており、毎月1回の法話の日と7月に開催される「天台寺あじさい祭り」の期間は、境内に入りきれないほどの参拝客で賑わう。
歴史
寺伝によれば、奈良時代の神亀5年(728年)に行基菩薩が聖武天皇の命を受けて、八葉山と命名し、山中の桂の大木を刻んで本尊聖観音菩薩とし、天皇直筆の額を掲げて開山したものという。草創の正確な時期は不明であるが、寺に伝わる仏像の制作年代から、平安時代には寺観が整っていたと思われる。もともとは山道下の桂の大木の根元から清水が湧き出ていたことから「桂泉観音」「御山の観音」と呼び親しまれており、霊地として崇められていた桂清水が、のちに観音の霊場として、そして古代において日本最北の仏教文化へ発展したものと考えられている。
現存の仏像や遺物等からはまだ奈良時代に遡る確証は得られていない。1980年(昭和55年度)に行われた第五次発掘調査では、現本堂(観音堂)の東側から礎石立建物跡が検出された。これは出土土器と915年8月17日に噴火した十和田火山灰の抱合状態から、成立は10世紀と推定された。仏像の制作年代は10世紀中頃と思われる。これを考え合わせると、天台寺が寺としての体裁を整えたのは10世紀中葉と考えられる。十和田火山の大噴火により、米代川流域の集落は火砕流や泥流、火山灰により大きな被害を受けた。安比川流域においても火山灰被害は甚大であった。十和田湖火山の噴火後に安比川流域の集落遺跡が急増している。これは陸奥から鹿角や津軽とを結ぶ重要ルートの復旧のため農民が移動させられたと考えられる。そして、その農民の鎮護と人々の祈りのために、天台寺が整備されたとも考えられる。
文化財
重要文化財
本堂(附:棟札、造営文書) - 入母屋造、銅板葺きの密教仏堂。万治元年(1658年)、盛岡藩2代藩主南部重直によって造営された。
仁王門 - 本堂と同時期の明暦3年(1657年)に造営。
木造聖観音立像(桂泉観世音) - 像高118.2センチ。像表面の大部分に規則的なノミ痕を残して荒彫り風に仕上げた、いわゆる「鉈彫」の典型的作品で、平安時代、11世紀頃の作と推定される。
木造十一面観音立像
交通アクセス
JR東日本東北新幹線二戸駅より車で20分
JRバス二戸線(二戸駅 - 浄法寺)で15分、「天台寺」下車 参道まで徒歩15分
八戸自動車道浄法寺インターチェンジより5分
所在地 岩手県二戸市浄法寺町御山久保33-1
位置 北緯40度11分54.0秒 東経141度11分11.6秒
山号 八葉山
宗派 天台宗
本尊 聖観音(寺伝・桂泉観世音)
創建年 (伝)神亀5年(728年)
開基 (伝)行基(開山)
正式名 八葉山 天台寺
札所等 奥州観音霊場第33番札所
文化財 本堂、仁王門、木造聖観音立像、木造十一面観音立像(重要文化財)
1976年、中尊寺貫主であった今春聽(作家今東光)が特命住職として晋山、本尊十一面観音像(丈六立像)の新たな造立を発念し復興に着手したが、着任から二年、宿痾の結腸癌に斃れ遷化した。のちの1987年、瀬戸内寂聴が住職として後任を勤め(現・名誉住職)復興の責を果たしたことで知られる。また、その際に植えられたアジサイが名物となっており、毎月1回の法話の日と7月に開催される「天台寺あじさい祭り」の期間は、境内に入りきれないほどの参拝客で賑わう。
歴史
寺伝によれば、奈良時代の神亀5年(728年)に行基菩薩が聖武天皇の命を受けて、八葉山と命名し、山中の桂の大木を刻んで本尊聖観音菩薩とし、天皇直筆の額を掲げて開山したものという。草創の正確な時期は不明であるが、寺に伝わる仏像の制作年代から、平安時代には寺観が整っていたと思われる。もともとは山道下の桂の大木の根元から清水が湧き出ていたことから「桂泉観音」「御山の観音」と呼び親しまれており、霊地として崇められていた桂清水が、のちに観音の霊場として、そして古代において日本最北の仏教文化へ発展したものと考えられている。
現存の仏像や遺物等からはまだ奈良時代に遡る確証は得られていない。1980年(昭和55年度)に行われた第五次発掘調査では、現本堂(観音堂)の東側から礎石立建物跡が検出された。これは出土土器と915年8月17日に噴火した十和田火山灰の抱合状態から、成立は10世紀と推定された。仏像の制作年代は10世紀中頃と思われる。これを考え合わせると、天台寺が寺としての体裁を整えたのは10世紀中葉と考えられる。十和田火山の大噴火により、米代川流域の集落は火砕流や泥流、火山灰により大きな被害を受けた。安比川流域においても火山灰被害は甚大であった。十和田湖火山の噴火後に安比川流域の集落遺跡が急増している。これは陸奥から鹿角や津軽とを結ぶ重要ルートの復旧のため農民が移動させられたと考えられる。そして、その農民の鎮護と人々の祈りのために、天台寺が整備されたとも考えられる。
文化財
重要文化財
本堂(附:棟札、造営文書) - 入母屋造、銅板葺きの密教仏堂。万治元年(1658年)、盛岡藩2代藩主南部重直によって造営された。
仁王門 - 本堂と同時期の明暦3年(1657年)に造営。
木造聖観音立像(桂泉観世音) - 像高118.2センチ。像表面の大部分に規則的なノミ痕を残して荒彫り風に仕上げた、いわゆる「鉈彫」の典型的作品で、平安時代、11世紀頃の作と推定される。
木造十一面観音立像
交通アクセス
JR東日本東北新幹線二戸駅より車で20分
JRバス二戸線(二戸駅 - 浄法寺)で15分、「天台寺」下車 参道まで徒歩15分
八戸自動車道浄法寺インターチェンジより5分
所在地 岩手県二戸市浄法寺町御山久保33-1
位置 北緯40度11分54.0秒 東経141度11分11.6秒
山号 八葉山
宗派 天台宗
本尊 聖観音(寺伝・桂泉観世音)
創建年 (伝)神亀5年(728年)
開基 (伝)行基(開山)
正式名 八葉山 天台寺
札所等 奥州観音霊場第33番札所
文化財 本堂、仁王門、木造聖観音立像、木造十一面観音立像(重要文化財)
2024年08月25日
常福寺(じょうふくじ)は、茨城県那珂市瓜連にある浄土宗の寺院
2024年08月24日
最勝院(さいしょういん)は、青森県弘前市銅屋町にある真言宗智山派の寺院
最勝院(さいしょういん)は、青森県弘前市銅屋町にある真言宗智山派の寺院。山号は金剛山、寺号は光明寺。五重塔は重要文化財に指定されているものとしては日本最北に位置する。
概要
弘前ねぷたまつりで知られる弘前市の中心部、弘前城の南方の禅林街及び新寺町と呼ばれる地区には46の寺院が建ち並ぶが、その中で長勝寺と並ぶ代表的寺院であり、市民からは「五重塔の寺」として親しまれている。寺名はつぶさには「金剛山光明寺最勝院」と称し、院号は護国三部経の一つで密教色の強い『金光明最勝王経』に由来する。
歴史
『津軽一統志』によると、天文元年(1532年)、常陸国出身の弘信が、堀越城下(現・弘前市堀越)に堂宇を建立したことに始まる。江戸時代初期に弘前藩2代藩主津軽信枚が弘前城を築城したことに伴い、慶長16年(1611年)、城の鬼門(東北)に当った現在地より北に3キロメートルほど離れた田町に寺院を移転し、弘前八幡宮の別当寺とされた。12か寺の塔頭寺院を従え藩の永世祈願所となった。近世には僧録所として、津軽藩領内の寺社を統轄する立場にあった。
明治時代の神仏分離令により最勝院以外の11か寺は廃寺となり、最勝院は廃寺となった寺院の檀家衆を引き受けて現在地(旧大圓寺跡)に寺籍を移転した。なお、神岡山大圓寺は弘前市に隣接する南津軽郡大鰐町に移転している。ただし、市民からは今でも「大円寺」の俗称で呼ばれている。
所在地 青森県弘前市大字銅屋町63
位置 北緯40度35分47.29秒 東経140度28分6.75秒
山号 金剛山
院号 最勝院
宗旨 新義真言宗
宗派 真言宗智山派
本尊 金剛界大日如来
創建年 天文元年(1532年)
開基 弘信
正式名 金剛山光明寺最勝院
別称 五重塔の寺、大圓寺
札所等 東北三十六不動尊15番
北国八十八箇所59番
津軽八十八箇所49番
津軽弘法大師霊場1番
津軽一代様(卯年)
文化財 五重塔(国の重要文化財)
概要
弘前ねぷたまつりで知られる弘前市の中心部、弘前城の南方の禅林街及び新寺町と呼ばれる地区には46の寺院が建ち並ぶが、その中で長勝寺と並ぶ代表的寺院であり、市民からは「五重塔の寺」として親しまれている。寺名はつぶさには「金剛山光明寺最勝院」と称し、院号は護国三部経の一つで密教色の強い『金光明最勝王経』に由来する。
歴史
『津軽一統志』によると、天文元年(1532年)、常陸国出身の弘信が、堀越城下(現・弘前市堀越)に堂宇を建立したことに始まる。江戸時代初期に弘前藩2代藩主津軽信枚が弘前城を築城したことに伴い、慶長16年(1611年)、城の鬼門(東北)に当った現在地より北に3キロメートルほど離れた田町に寺院を移転し、弘前八幡宮の別当寺とされた。12か寺の塔頭寺院を従え藩の永世祈願所となった。近世には僧録所として、津軽藩領内の寺社を統轄する立場にあった。
明治時代の神仏分離令により最勝院以外の11か寺は廃寺となり、最勝院は廃寺となった寺院の檀家衆を引き受けて現在地(旧大圓寺跡)に寺籍を移転した。なお、神岡山大圓寺は弘前市に隣接する南津軽郡大鰐町に移転している。ただし、市民からは今でも「大円寺」の俗称で呼ばれている。
所在地 青森県弘前市大字銅屋町63
位置 北緯40度35分47.29秒 東経140度28分6.75秒
山号 金剛山
院号 最勝院
宗旨 新義真言宗
宗派 真言宗智山派
本尊 金剛界大日如来
創建年 天文元年(1532年)
開基 弘信
正式名 金剛山光明寺最勝院
別称 五重塔の寺、大圓寺
札所等 東北三十六不動尊15番
北国八十八箇所59番
津軽八十八箇所49番
津軽弘法大師霊場1番
津軽一代様(卯年)
文化財 五重塔(国の重要文化財)
2024年08月23日
蚶満寺(かんまんじ)は、秋田県にかほ市に所在する曹洞宗の寺院
蚶満寺(かんまんじ)は、秋田県にかほ市に所在する曹洞宗の寺院。山号は皇宮山、本尊は釈迦牟尼仏。
古くから文人墨客が訪れた名刹として知られ、元禄2年(1689年)には松尾芭蕉が訪れ、『奥の細道』に
「 此寺の方丈に座して簾を撒けば・・・」
と紹介した。
歴史
開創
仁寿3年(853年)に天台座主円仁(慈覚大師)の開創と伝えられる。蚶方(きさかた)の美景と神功皇后の伝説によりこの地を占い、皇后山干満珠寺と号したという。
神功皇后の伝説とは、神功皇后が三韓征伐の帰路、大シケに遭って象潟沖合に漂着し、小浜宿禰が引き船で鰐淵の入江に導き入れたが、そのとき皇后は臨月近かったので清浄の地に移したところ、無事に皇子(のちの応神天皇)を産み終えたという『蚶満寺縁起』所載の伝承。その後、象潟で半年を過ごし、翌年の4月鰐淵から出帆し、筑紫の香椎宮に向かったという。蚶満珠寺の名は、干珠・満珠を皇后が持っていたことに由来するとされる。
ただし、『古寺名刹大辞典』 (1992) では、のちに真言宗に転じ、カンマン(不動明王の真言の一部)という梵語より寺号がおこったという説もあることを紹介している。
『奥の細道』最北の地
元禄2年6月、俳聖松尾芭蕉が訪れて『奥の細道』のなかで、「九十九島(つくもじま)」と呼ばれた当時の象潟の景観を絶賛している。ここで芭蕉は、中国の悲劇の美女西施を思い浮かべ[注釈 1]、「ねぶ」を「ねむの花」と「眠る」にかけて、
「 象潟や 雨に西施が ねぶの花 」
(雨にけむる象潟は、あたかもまぶたを閉じた西施のように美しい)と詠んでいる。芭蕉はまた松島(宮城県松島町)の景観との比較もおこなっている。このなかで「干満珠寺」として登場するのが蚶満寺である。
にかほ市は、この句が縁で、西施が生まれた中華人民共和国浙江省諸曁(しょき)市と姉妹都市提携を結んでいる。
所在地 秋田県にかほ市象潟町象潟島
位置 北緯39度12分55.5秒 東経139度54分11.1秒
山号 皇宮山
宗旨 曹洞宗
本尊 釈迦牟尼仏
古くから文人墨客が訪れた名刹として知られ、元禄2年(1689年)には松尾芭蕉が訪れ、『奥の細道』に
「 此寺の方丈に座して簾を撒けば・・・」
と紹介した。
歴史
開創
仁寿3年(853年)に天台座主円仁(慈覚大師)の開創と伝えられる。蚶方(きさかた)の美景と神功皇后の伝説によりこの地を占い、皇后山干満珠寺と号したという。
神功皇后の伝説とは、神功皇后が三韓征伐の帰路、大シケに遭って象潟沖合に漂着し、小浜宿禰が引き船で鰐淵の入江に導き入れたが、そのとき皇后は臨月近かったので清浄の地に移したところ、無事に皇子(のちの応神天皇)を産み終えたという『蚶満寺縁起』所載の伝承。その後、象潟で半年を過ごし、翌年の4月鰐淵から出帆し、筑紫の香椎宮に向かったという。蚶満珠寺の名は、干珠・満珠を皇后が持っていたことに由来するとされる。
ただし、『古寺名刹大辞典』 (1992) では、のちに真言宗に転じ、カンマン(不動明王の真言の一部)という梵語より寺号がおこったという説もあることを紹介している。
『奥の細道』最北の地
元禄2年6月、俳聖松尾芭蕉が訪れて『奥の細道』のなかで、「九十九島(つくもじま)」と呼ばれた当時の象潟の景観を絶賛している。ここで芭蕉は、中国の悲劇の美女西施を思い浮かべ[注釈 1]、「ねぶ」を「ねむの花」と「眠る」にかけて、
「 象潟や 雨に西施が ねぶの花 」
(雨にけむる象潟は、あたかもまぶたを閉じた西施のように美しい)と詠んでいる。芭蕉はまた松島(宮城県松島町)の景観との比較もおこなっている。このなかで「干満珠寺」として登場するのが蚶満寺である。
にかほ市は、この句が縁で、西施が生まれた中華人民共和国浙江省諸曁(しょき)市と姉妹都市提携を結んでいる。
所在地 秋田県にかほ市象潟町象潟島
位置 北緯39度12分55.5秒 東経139度54分11.1秒
山号 皇宮山
宗旨 曹洞宗
本尊 釈迦牟尼仏
2024年08月22日
江沼神社(えぬまじんじゃ)は、石川県加賀市大聖寺八間道55(大聖寺片原町)にある神社
江沼神社(えぬまじんじゃ)は、石川県加賀市大聖寺八間道55(大聖寺片原町)にある神社。旧社格は県社。境内の北側には旧大聖寺川が流れており、境内の南側には加賀市立錦城小学校がある。
祭神
前田利治
菅原道真
歴史
近世
江戸時代初期の寛永16年(1639年)、加賀藩2代目藩主である前田利常の時代に加賀藩の支藩として大聖寺藩が立藩された。宝永元年(1704年)4月、大聖寺藩3代藩主である前田利直は大聖寺藩の陣屋内に、前田家の遠祖である菅原道真の霊を祀る天満天神社を建立した。これが江沼神社の創始とされる。なお、前田利直は陣屋内に長流亭も建てており、こちらは後に重要文化財に指定されている。
所在地 石川県加賀市大聖寺八間道55
位置 北緯36度18分32.9秒 東経136度18分28.2秒
主祭神 菅原道真
社格等 旧県社
本殿の様式 流造
例祭 4月29日
祭神
前田利治
菅原道真
歴史
近世
江戸時代初期の寛永16年(1639年)、加賀藩2代目藩主である前田利常の時代に加賀藩の支藩として大聖寺藩が立藩された。宝永元年(1704年)4月、大聖寺藩3代藩主である前田利直は大聖寺藩の陣屋内に、前田家の遠祖である菅原道真の霊を祀る天満天神社を建立した。これが江沼神社の創始とされる。なお、前田利直は陣屋内に長流亭も建てており、こちらは後に重要文化財に指定されている。
所在地 石川県加賀市大聖寺八間道55
位置 北緯36度18分32.9秒 東経136度18分28.2秒
主祭神 菅原道真
社格等 旧県社
本殿の様式 流造
例祭 4月29日
2024年08月21日
開善寺(かいぜんじ)は、長野県飯田市にある臨済宗妙心寺派の寺院
開善寺(かいぜんじ)は、長野県飯田市にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は畳秀山。本尊は聖観音菩薩。
歴史
寺伝によると、鎌倉時代に伊賀良荘に入部した四条頼基が創建。
建武2年(1335年)、小笠原貞宗が清拙正澄を開山として中興されたとされる。
暦応元年(1338年)には足利尊氏御教書により諸山に列し、
応永34年(1427年)には天与清啓の尽力により、室町幕府から十刹に列せられた。
室町時代後半になると寺は衰え、明応8年(1499年)には火災による堂宇の焼失もあった。
しかし天文18年(1549年)、松尾城の小笠原信貴により復興され、現在の妙心寺派に転派した。
慶長6年(1601年)には徳川家康配下の伊那郡代官朝日受永より、朱印地35石を寄進される。
重要文化財の山門を除く、本堂や経蔵などは江戸時代に建立されたもので、このうち梵鐘は戦国時代に持ち去られ、現在は伊那市高遠町(旧高遠町)の桂泉寺にある。
文化財
重要文化財(国指定)
山門 - 室町時代の建立。元来三間楼門(柱間3間の2階建て門)だったものだが、現在は単層切妻造となっている。1954年重要文化財に指定。
絹本著色八相涅槃図
画文帯四仏四獣鏡 飯田市御猿堂古墳出土
所在地 長野県飯田市上川路1000
位置 北緯35度27分44.3秒 東経137度48分54.2秒
山号 畳秀山
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 聖観音菩薩
創建年 1335年
開基 小笠原貞宗
文化財 山門、絹本著色八相涅槃図、画文帯四仏四獣鏡(重要文化財)
歴史
寺伝によると、鎌倉時代に伊賀良荘に入部した四条頼基が創建。
建武2年(1335年)、小笠原貞宗が清拙正澄を開山として中興されたとされる。
暦応元年(1338年)には足利尊氏御教書により諸山に列し、
応永34年(1427年)には天与清啓の尽力により、室町幕府から十刹に列せられた。
室町時代後半になると寺は衰え、明応8年(1499年)には火災による堂宇の焼失もあった。
しかし天文18年(1549年)、松尾城の小笠原信貴により復興され、現在の妙心寺派に転派した。
慶長6年(1601年)には徳川家康配下の伊那郡代官朝日受永より、朱印地35石を寄進される。
重要文化財の山門を除く、本堂や経蔵などは江戸時代に建立されたもので、このうち梵鐘は戦国時代に持ち去られ、現在は伊那市高遠町(旧高遠町)の桂泉寺にある。
文化財
重要文化財(国指定)
山門 - 室町時代の建立。元来三間楼門(柱間3間の2階建て門)だったものだが、現在は単層切妻造となっている。1954年重要文化財に指定。
絹本著色八相涅槃図
画文帯四仏四獣鏡 飯田市御猿堂古墳出土
所在地 長野県飯田市上川路1000
位置 北緯35度27分44.3秒 東経137度48分54.2秒
山号 畳秀山
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 聖観音菩薩
創建年 1335年
開基 小笠原貞宗
文化財 山門、絹本著色八相涅槃図、画文帯四仏四獣鏡(重要文化財)
2024年08月20日
本法寺(ほんぽうじ)は、富山県富山市八尾町宮腰にある法華宗陣門流の別院
本法寺(ほんぽうじ)は、富山県富山市八尾町宮腰にある法華宗陣門流の別院。山号は長松山。本尊は釈迦如来・四菩薩。
由緒
鎌倉時代の1316年(正和5年)(征夷大将軍は宮将軍の守邦親王)、鎌倉殿中問答で名高い日印の弟子日順の開山により越中国婦負郡楡原保城生(富山市八尾町城生)に創建された寺である。明和年間(1764年 – 1771年)現在地に移転している。現住職は高橋日啓聖人。本成寺塔頭持経院より晋山。
所在地 富山県富山市八尾町宮腰1580番地
位置 北緯36度33分11.6秒 東経137度9分45.3秒
山号 長松山
宗派 法華宗陣門流
寺格 別格寺院、北陸別院
本尊 三宝尊
創建年 1316年(正和5年)
開基 日順
正式名 長松山本法寺
文化財 絹本著色法華経曼荼羅図 21幅(重要文化財)
絹本著色法華経曼荼羅図 1幅(県文化財)
由緒
鎌倉時代の1316年(正和5年)(征夷大将軍は宮将軍の守邦親王)、鎌倉殿中問答で名高い日印の弟子日順の開山により越中国婦負郡楡原保城生(富山市八尾町城生)に創建された寺である。明和年間(1764年 – 1771年)現在地に移転している。現住職は高橋日啓聖人。本成寺塔頭持経院より晋山。
所在地 富山県富山市八尾町宮腰1580番地
位置 北緯36度33分11.6秒 東経137度9分45.3秒
山号 長松山
宗派 法華宗陣門流
寺格 別格寺院、北陸別院
本尊 三宝尊
創建年 1316年(正和5年)
開基 日順
正式名 長松山本法寺
文化財 絹本著色法華経曼荼羅図 21幅(重要文化財)
絹本著色法華経曼荼羅図 1幅(県文化財)
2024年08月19日
大日寺(だいにちじ)は、鳥取県倉吉市にある天台宗の寺院
大日寺(だいにちじ)は、鳥取県倉吉市にある天台宗の寺院。山号は胎金山(現在は桜山)。本尊は阿弥陀如来。中国四十九薬師第42番札所。
2020(令和2)年3月より、それまでの本堂の老朽化のため新築工事が始まった。2020(令和2)年12月に建屋が完成。
現在は国指定重要文化財木造阿弥陀如来座像と県指定重要文化財木造薬師如来立像の修復中である。
由緒
胎金山大日寺は、平安時代の承和8年(841年)第3代天台座主で、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)によって開創されたとも、永延2年(988年)恵信僧都源信(えしんそうずげんしん)によって創建(或いは再興)されたとも言われる古刹で、古くは高野を模した上院(大日堂・釈迦堂・薬師堂)、中院(文殊堂・観音堂・普賢堂)、安養院(弥陀堂・経蔵)の三寺を構え、300を超える坊を有し、多くの僧兵を抱える大伽藍であったと伝えられている。
経瓦、五輪塔、本尊阿弥陀如来座像、梵鐘など紀年銘の残された遺物が数多く残されており、平安時代末期から鎌倉時代にかけては広大な寺域を有し、大いに栄えたと推定されているが、戦国時代に兵火にかかり荒廃したと伝えられている。
その後、1577年(天正5年)伯耆羽衣石城々主南條伯耆守元続(なんじょう ほうきのかみ もとつぐ)によって復興されたが、江戸時代の初期には一宇の小寺であったとみられ、旧本堂は江戸時代中期から後期にかけて建てられたものと伝えられている。
文化財
重要文化財(国指定)
木造阿弥陀如来坐像 - 嘉禄2年(1226年)の作
県指定保護文化財
木造薬師如来立像
県指定天然記念物
大イチョウ
所在地 鳥取県倉吉市桜354
山号 桜山
宗派 天台宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 承和8年(841年)または永延2年(988年)
開山 慈覚大師円仁または恵信僧都源信
札所等 中国四十九薬師第42番札所
2020(令和2)年3月より、それまでの本堂の老朽化のため新築工事が始まった。2020(令和2)年12月に建屋が完成。
現在は国指定重要文化財木造阿弥陀如来座像と県指定重要文化財木造薬師如来立像の修復中である。
由緒
胎金山大日寺は、平安時代の承和8年(841年)第3代天台座主で、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)によって開創されたとも、永延2年(988年)恵信僧都源信(えしんそうずげんしん)によって創建(或いは再興)されたとも言われる古刹で、古くは高野を模した上院(大日堂・釈迦堂・薬師堂)、中院(文殊堂・観音堂・普賢堂)、安養院(弥陀堂・経蔵)の三寺を構え、300を超える坊を有し、多くの僧兵を抱える大伽藍であったと伝えられている。
経瓦、五輪塔、本尊阿弥陀如来座像、梵鐘など紀年銘の残された遺物が数多く残されており、平安時代末期から鎌倉時代にかけては広大な寺域を有し、大いに栄えたと推定されているが、戦国時代に兵火にかかり荒廃したと伝えられている。
その後、1577年(天正5年)伯耆羽衣石城々主南條伯耆守元続(なんじょう ほうきのかみ もとつぐ)によって復興されたが、江戸時代の初期には一宇の小寺であったとみられ、旧本堂は江戸時代中期から後期にかけて建てられたものと伝えられている。
文化財
重要文化財(国指定)
木造阿弥陀如来坐像 - 嘉禄2年(1226年)の作
県指定保護文化財
木造薬師如来立像
県指定天然記念物
大イチョウ
所在地 鳥取県倉吉市桜354
山号 桜山
宗派 天台宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 承和8年(841年)または永延2年(988年)
開山 慈覚大師円仁または恵信僧都源信
札所等 中国四十九薬師第42番札所