伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)は、愛媛県松山市にある神社。式内社で、旧社格は県社。神紋は「左三つ巴」。
別称として「湯月八幡」・「道後八幡」とも呼ばれる。
楼門(重要文化財)
概要
松山市市街地の西部、道後温泉近くの道後山の東南端に鎮座する。もとは道後公園のある場所にあったが、建武年間に河野通盛によって湯築城構築のため現在地に移された。
現存する社殿は寛文7年(1667年)に松山藩主松平定長によって造営された。
国の重要文化財に指定されている社殿は、全国に3例しかない八幡造である。このほか、重要文化財の太刀(銘 国行)が伝えられている。
祭神
主祭神
譽田別尊 (ほんだわけのみこと) - 応神天皇に同じ
足仲彦尊 (たらしなかつひこのみこと) - 仲哀天皇に同じ
氣長足姫尊 (おきながたらしひめのみこと) - 神功皇后に同じ
三柱姫大神 - 宗像三女神に同じ。以下の3柱を指す
市杵島姫尊 (いちきしまひめのみこと)
湍津姫尊 (たぎつひめのみこと)
田心姫命 (たぎりひめのみこと)
配神
東照大神 (東照大権現) - 徳川家康に同じ
本殿と透塀(ともに重要文化財)
歴史
概史
社伝によれば、仲哀天皇と神功皇后が道後温泉に来湯した際の行宮跡に創建されたという。旧鎮座地は「伊佐爾波岡」と呼ばれていた。
平安時代中期の『延喜式神名帳』には「伊予国温泉郡 伊佐尓波神社」と記載され、式内社に列している。神仏習合の時代には、宝厳寺と石手寺は、共に伊佐爾波神社の別当寺であったとされる。
伊予国守護・河野氏による湯築城の築城に際し、現在の地に移転した。当社は湯築城の守護神として河野氏から崇敬されたほか、道後七郡(野間・風速・和気・温泉・久米・伊予・浮穴の各郡)の総守護とされた。
松山藩の藩主となった加藤嘉明は、松山城の固めとして松山八社八幡を定め、当社は「湯月八幡宮」として一番社とされた。また武運長久の祈願社として、社領に久米郡井合の土地100石を寄進した。
寛文2年(1661年)、弓の名手といわれた三代藩主松平定長は、将軍家より江戸城内において弓の競射を命じられた際、湯月八幡宮へ必中祈願をした。寛文4年(1664年)6月、定長は、将軍家の御前で弓を無事に射ることができ、祈願成就の御礼として社殿の造替に着手した。
寛文7年(1667年)5月15日、大工697人、延べ人数69,017人を要し新社殿が完成。松平家より代参として家老竹内家が参拝し、遷宮式が挙行された。新社殿は石清水八幡宮を模したとされる八幡造で、宇佐八幡宮とあわせて3例のみである(現存)。
常盤新田霊社(重要文化財)
文化財
重要文化財(国指定)
建造物
本殿 - 昭和31年指定
申殿及び廊下 - 昭和42年指定
楼門 - 昭和42年指定
廻廊 - 昭和42年指定
(以下、附(つけたり))
透塀 1棟 - 昭和31年指定(本殿と同時)
末社高良玉垂社本殿 - 昭和42年指定
末社常盤社新田霊社本殿 - 昭和42年指定
石燈籠 2基 - 昭和42年指定
棟札 1枚 - 昭和42年指定
工芸品
太刀(銘 国行)
鎌倉時代の作。長さ77.7cm。寛文5年(1665年)8月、松山城主・松平定長による奉納。昭和3年指定。
高良玉垂社(重要文化財)
現地情報
交通アクセス
最寄駅:伊予鉄道城南線(市内電車) 道後温泉駅 (徒歩5分)
所在地 愛媛県松山市桜谷町173
位置 北緯33度51分2.66秒 東経132度47分20.48秒
主祭神 譽田別尊
足仲彦尊
氣長足姫尊
三柱姫大神
社格等 式内社(小)
旧県社
創建 不詳
本殿の様式 八幡造
別名 湯月八幡宮・道後八幡
例祭 10月6日
2024年02月17日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/12431905
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック