善福院(ぜんぷくいん)は、和歌山県海南市にある仏教寺院。天台宗、山号は宝遊山。
1215年、栄西禅師により廣福寺五ヶ院の一つとして創建されて以来廣福禅寺という寺号であったが、明治初期の廃仏毀釈を経て現在の寺号に改められた。安土桃山時代は加茂氏の菩提寺として栄え七堂伽藍を有していたが、釈迦堂が現存するのみである。釈迦堂は、功山寺仏殿とともに鎌倉時代の禅宗様建築を代表するもので、国宝の指定を受けている。
善福院釈迦堂(国宝)
文化財
国宝
釈迦堂
桁行三間、梁間三間、一重裳階付、寄棟造、本瓦葺。堂内に安置する釈迦如来像に嘉暦2年(1327年)の銘があり、釈迦堂の建立も同年頃とみられる。組物を柱上のみならず柱間にも密に配する点、内部の架構などに禅宗様の特色がみられる。日本に現存する禅宗様仏殿としては、功山寺仏殿とともに最古例の一つである。裳階正面は中央3間を桟唐戸、両脇を縦板壁とする。堂内は土間(瓦敷)とし、天井は中央の方一間を鏡天井、その周囲を天井板を張らない化粧屋根裏とする。
堂内四隅に燧梁(ひうちばり、火打梁)という45度方向の短い梁が架けられている。これは瀬戸内海地方の禅宗様にみられるものであり、他の燧梁の例として安国寺釈迦堂(広島県福山市鞆町)、松生院本堂(和歌山県和歌山市、1945年戦災により焼失)がある。
交通アクセス
JRきのくに線 加茂郷駅 徒歩25分
所在地 和歌山県海南市下津町梅田271
位置 北緯34度7分50.0秒 東経135度10分38.1秒
山号 宝遊山
院号 善福院
宗派 天台宗
もと臨済宗、高野山真言宗
寺格 臨済宗廣n宦i廣やW寺)の塔頭
本尊 釈迦如来
創建年 建保3年(1215年)
開山 栄西
正式名 宝遊山 広福寺 善福院 釈迦堂
寶遊山廣n尅Pi@釋迦堂
文化財 釈迦堂(国宝)
2023年08月13日
2023年08月12日
旧矢掛本陣石井家(きゅうやかげほんじんいしいけ)は、岡山県小田郡矢掛町にある旧西国街道矢掛宿の本陣
旧矢掛本陣石井家(きゅうやかげほんじんいしいけ)は、岡山県小田郡矢掛町にある旧西国街道矢掛宿の本陣である。
旧矢掛本陣石井家
概要
旧矢掛本陣石井家は、岡山県小田郡矢掛町矢掛に所在する。
石井家は1620年(元和6年)に現在地に移り、1635年(寛永12年)の参勤交代の制定に伴い、四郎兵衛喜昌のときに本陣職を命じられた。
本陣、脇本陣の両方が重要文化財に指定されているのは全国で唯一矢掛町のみである。 元禄期ごろには、山陽道では数少ない五街道と対等の輸送施設を備える規模であり、鹿児島藩主島津氏、萩藩主毛利氏などが定宿とし、天璋院篤姫が宿泊したという記録もある。
1969年(昭和44年)6月に国の重要文化財に指定された。
御成門
歴史
矢掛宿は山陽道尼崎から18番目の駅宿である[8]。町は宿場町・在郷町として大いに栄えたのである。矢掛宿の成立は、概略以下の通りである。
1600年(慶長5年)小堀新助は、関ケ原の戦功により旧領に加え備中において(小田・中村・江良・西三成)1万石を得、備中松山城の守護・備中国奉行を勤めた。新助は1604年(慶長9年)死去。息子、政一(遠州)は父の遺領1万2460石余を相続するとともに備中国奉行として統治した。1617年(元和3年)河内国奉行に転出する(備中の所領は1619年(元和5年)1月近江国に移し小室に藩を置いた)が、矢掛村の中心集落である「古市」が大火にあう。遠州の書状に「やかけ火事、不残焼候由」とみえている。
遠州の後任の松山城主は、池田長幸(6万5千石)で矢掛近辺11カ所村も支配したが矢掛村は庭瀬戸川領、1619年(元和5年)から池田領となる。池田長幸は、山陽道の宿場を成立させるため矢掛村の山側を流れていた美山川の河道を村の西側に流し小田川・星田川と合流させ自然堤防を活用、古市方面へ屋敷地を造成した。石井家も1620年(元和6年)に古市より移住した。(23軒)
池田氏は矢掛村を陸分と町分に分け夫々に村(町)役人を置き支配した。1641年(寛永18年)に二代長常の死により無嗣絶家以後、幕府領となり宿場の整備が進んだ。(1642年〜1692年・1698年(寛永15年〜元禄5年・元禄11年))。1694年〜1697年(元禄7年〜10年)は庭瀬松平領。 1699年(元禄12年)から庭瀬板倉藩領となり、明治の廃藩まで宿場町として存続した。
石井家は1669年(寛文9年)酒造業を始め、1680年(延宝8年)町庄屋となり1708年(宝永5年)小田郡の大庄屋となった。その間宿場の整備と共に本陣職を務めた。本陣職は1635年(寛永12年)についたが、1698年(元禄11年)青山播磨守・目付別所孫右衛門が福山城受取のため8月11日(往路)、8月16日(復路)宿泊の記録がみえる。また1694年(元禄7年)周防徳山毛利飛騨守・肥前佐賀松本丹後守が宿泊している。参勤交代としての大名宿泊は1838年(元文3年)阿部伊勢守である。以後、1750年ごろから幕末まで大名が年間14件、幕府御用関係が8件ぐらいの休泊利用があった。
矢掛本陣 酒店の店土間入り口
矢掛本陣 主屋 中土間から主人の間と二階
店・居住用
主屋
桁行19.938メートル、梁間9.015メートル
建て替えは1855年(安政2年)に着手し、建築後昭和期まで度々改造が行われた。主屋は店棟・台所棟・居室棟で構成されている。
本陣用
中心は座敷棟であり、1832年(天保3年)に建て替えられたものである。門・玄関・座敷・風呂・便所で構成されている。
広さとしては、ほぼ130坪で、敷地面積の13%程である。
酒造用
米蔵は土蔵造りで幕末頃の建物である。(1848年〜1854年)。酒蔵の中央部の7間半は安永頃(1772年〜1781年)のもので、柱は栗材である。2階は杜氏等酒造関係の使用人が起居した。絞り場は、明治初年頃酒造南部分とともに建設された。
所在地
岡山県小田郡矢掛町矢掛3079
交通アクセス
車の場合
鴨方ICから約20分 玉島ICから約25分 笠岡ICから約30分
鉄道の場合
井原鉄道井原線矢掛駅から徒歩10分
利用情報
開館時間
午前9時〜午後5時(11月〜2月は4時)
休館日
月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)
入館料
一般人: 500円
団体(20名以上): 400円
旧矢掛本陣石井家
概要
旧矢掛本陣石井家は、岡山県小田郡矢掛町矢掛に所在する。
石井家は1620年(元和6年)に現在地に移り、1635年(寛永12年)の参勤交代の制定に伴い、四郎兵衛喜昌のときに本陣職を命じられた。
本陣、脇本陣の両方が重要文化財に指定されているのは全国で唯一矢掛町のみである。 元禄期ごろには、山陽道では数少ない五街道と対等の輸送施設を備える規模であり、鹿児島藩主島津氏、萩藩主毛利氏などが定宿とし、天璋院篤姫が宿泊したという記録もある。
1969年(昭和44年)6月に国の重要文化財に指定された。
御成門
歴史
矢掛宿は山陽道尼崎から18番目の駅宿である[8]。町は宿場町・在郷町として大いに栄えたのである。矢掛宿の成立は、概略以下の通りである。
1600年(慶長5年)小堀新助は、関ケ原の戦功により旧領に加え備中において(小田・中村・江良・西三成)1万石を得、備中松山城の守護・備中国奉行を勤めた。新助は1604年(慶長9年)死去。息子、政一(遠州)は父の遺領1万2460石余を相続するとともに備中国奉行として統治した。1617年(元和3年)河内国奉行に転出する(備中の所領は1619年(元和5年)1月近江国に移し小室に藩を置いた)が、矢掛村の中心集落である「古市」が大火にあう。遠州の書状に「やかけ火事、不残焼候由」とみえている。
遠州の後任の松山城主は、池田長幸(6万5千石)で矢掛近辺11カ所村も支配したが矢掛村は庭瀬戸川領、1619年(元和5年)から池田領となる。池田長幸は、山陽道の宿場を成立させるため矢掛村の山側を流れていた美山川の河道を村の西側に流し小田川・星田川と合流させ自然堤防を活用、古市方面へ屋敷地を造成した。石井家も1620年(元和6年)に古市より移住した。(23軒)
池田氏は矢掛村を陸分と町分に分け夫々に村(町)役人を置き支配した。1641年(寛永18年)に二代長常の死により無嗣絶家以後、幕府領となり宿場の整備が進んだ。(1642年〜1692年・1698年(寛永15年〜元禄5年・元禄11年))。1694年〜1697年(元禄7年〜10年)は庭瀬松平領。 1699年(元禄12年)から庭瀬板倉藩領となり、明治の廃藩まで宿場町として存続した。
石井家は1669年(寛文9年)酒造業を始め、1680年(延宝8年)町庄屋となり1708年(宝永5年)小田郡の大庄屋となった。その間宿場の整備と共に本陣職を務めた。本陣職は1635年(寛永12年)についたが、1698年(元禄11年)青山播磨守・目付別所孫右衛門が福山城受取のため8月11日(往路)、8月16日(復路)宿泊の記録がみえる。また1694年(元禄7年)周防徳山毛利飛騨守・肥前佐賀松本丹後守が宿泊している。参勤交代としての大名宿泊は1838年(元文3年)阿部伊勢守である。以後、1750年ごろから幕末まで大名が年間14件、幕府御用関係が8件ぐらいの休泊利用があった。
矢掛本陣 酒店の店土間入り口
矢掛本陣 主屋 中土間から主人の間と二階
店・居住用
主屋
桁行19.938メートル、梁間9.015メートル
建て替えは1855年(安政2年)に着手し、建築後昭和期まで度々改造が行われた。主屋は店棟・台所棟・居室棟で構成されている。
本陣用
中心は座敷棟であり、1832年(天保3年)に建て替えられたものである。門・玄関・座敷・風呂・便所で構成されている。
広さとしては、ほぼ130坪で、敷地面積の13%程である。
酒造用
米蔵は土蔵造りで幕末頃の建物である。(1848年〜1854年)。酒蔵の中央部の7間半は安永頃(1772年〜1781年)のもので、柱は栗材である。2階は杜氏等酒造関係の使用人が起居した。絞り場は、明治初年頃酒造南部分とともに建設された。
所在地
岡山県小田郡矢掛町矢掛3079
交通アクセス
車の場合
鴨方ICから約20分 玉島ICから約25分 笠岡ICから約30分
鉄道の場合
井原鉄道井原線矢掛駅から徒歩10分
利用情報
開館時間
午前9時〜午後5時(11月〜2月は4時)
休館日
月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)
入館料
一般人: 500円
団体(20名以上): 400円
2023年08月11日
獅子窟寺(ししくつじ)は、大阪府交野市にある高野山真言宗の寺院
獅子窟寺(ししくつじ)は、大阪府交野市にある高野山真言宗の寺院。山号は普見山。本尊は薬師如来。
歴史
生駒山塊の普見山中に位置する。山内には寺号の由来となった獅子が吼える形の岩もある。
黄檗僧・月潭による『獅子窟寺記』(元禄5年・1692年)によれば、当寺は文武天皇の頃、役行者が開山し、聖武天皇の勅命により行基が金剛般若窟の寺号で創建したとされる。天長年間(824 - 833年)には空海が当地で仏眼仏母の修法を行ったという。永正4年(1507)、僧・真海による『獅子窟寺縁起』も役行者草創を伝える。当地は平安時代には葛城修験の山岳霊場となっていた。『新後撰和歌集』には、静仁法親王(後土御門天皇第6皇子)が当地の「獅子のいはや(岩屋)に籠り侍りける」時に詠んだ歌が残されている。
鎌倉時代に一時衰退し、亀山上皇の帰依により14世紀には復興するが、元和元年(1615年)に焼き討ちに遭い全山十二院を焼失した。これは大坂夏の陣の際に当寺が豊臣方への加勢を拒否したためであるという。現存する薬師如来像は塔頭吉祥院の法師の尽力によって難を逃れ、一時大和国に避難していた。その後寛永年間(1624 - 1643年)、和泉槇尾山寺(施福寺)の光影により再興され、現在に至っている。
文化財
木造薬師如来坐像 - 1968年国宝指定
像高は92.3センチメートル。9世紀(平安時代初期)の作。カヤ材の一木造で、両脚の前部、右腕の肘から先、左手首から先などに別材を矧ぐ。ただし、右腕と左手の別材部分は後補である。像底と後頭部、背部から内刳りを行う。左脚を上にして坐し、左足先を衣で包み込む形式で、唐代彫刻や唐招提寺の盧舎那仏坐像に代表される天平彫刻の古い形式を踏襲したものとみられる。面相表現には観心寺の如意輪観音像など承和後半期(840年代)の仏像との共通点が指摘される。印相は右手を胸前に上げた施無畏印とし、左手は膝上に置くのではなく胸前まで上げて宝珠を捧げる形とする点が珍しい。前述のとおり、本像の右腕の肘から先、左手首から先と持物の宝珠は後補で、当初からこの印相であったかどうかはわからない。特に後補の右腕の角度が不自然であることから、製作当初は説法印を結んだ阿弥陀如来像であった可能性が考えられている。
薬師如来像
交通アクセス
京阪交野線 私市駅 徒歩15分で山麓
所在地 大阪府交野市私市2387
位置 北緯34度46分7.83秒 東経135度41分46.02秒
山号 普見山
宗派 高野山真言宗
本尊 薬師如来
創建年 不詳
開山 伝・役行者
開基 伝・行基、聖武天皇(勅願)
文化財 木造薬師如来坐像(国宝)
歴史
生駒山塊の普見山中に位置する。山内には寺号の由来となった獅子が吼える形の岩もある。
黄檗僧・月潭による『獅子窟寺記』(元禄5年・1692年)によれば、当寺は文武天皇の頃、役行者が開山し、聖武天皇の勅命により行基が金剛般若窟の寺号で創建したとされる。天長年間(824 - 833年)には空海が当地で仏眼仏母の修法を行ったという。永正4年(1507)、僧・真海による『獅子窟寺縁起』も役行者草創を伝える。当地は平安時代には葛城修験の山岳霊場となっていた。『新後撰和歌集』には、静仁法親王(後土御門天皇第6皇子)が当地の「獅子のいはや(岩屋)に籠り侍りける」時に詠んだ歌が残されている。
鎌倉時代に一時衰退し、亀山上皇の帰依により14世紀には復興するが、元和元年(1615年)に焼き討ちに遭い全山十二院を焼失した。これは大坂夏の陣の際に当寺が豊臣方への加勢を拒否したためであるという。現存する薬師如来像は塔頭吉祥院の法師の尽力によって難を逃れ、一時大和国に避難していた。その後寛永年間(1624 - 1643年)、和泉槇尾山寺(施福寺)の光影により再興され、現在に至っている。
文化財
木造薬師如来坐像 - 1968年国宝指定
像高は92.3センチメートル。9世紀(平安時代初期)の作。カヤ材の一木造で、両脚の前部、右腕の肘から先、左手首から先などに別材を矧ぐ。ただし、右腕と左手の別材部分は後補である。像底と後頭部、背部から内刳りを行う。左脚を上にして坐し、左足先を衣で包み込む形式で、唐代彫刻や唐招提寺の盧舎那仏坐像に代表される天平彫刻の古い形式を踏襲したものとみられる。面相表現には観心寺の如意輪観音像など承和後半期(840年代)の仏像との共通点が指摘される。印相は右手を胸前に上げた施無畏印とし、左手は膝上に置くのではなく胸前まで上げて宝珠を捧げる形とする点が珍しい。前述のとおり、本像の右腕の肘から先、左手首から先と持物の宝珠は後補で、当初からこの印相であったかどうかはわからない。特に後補の右腕の角度が不自然であることから、製作当初は説法印を結んだ阿弥陀如来像であった可能性が考えられている。
薬師如来像
交通アクセス
京阪交野線 私市駅 徒歩15分で山麓
所在地 大阪府交野市私市2387
位置 北緯34度46分7.83秒 東経135度41分46.02秒
山号 普見山
宗派 高野山真言宗
本尊 薬師如来
創建年 不詳
開山 伝・役行者
開基 伝・行基、聖武天皇(勅願)
文化財 木造薬師如来坐像(国宝)
2023年08月10日
永福寺(えいふくじ)は、大分県別府市にある時宗の仏教寺院
永福寺(えいふくじ)は、大分県別府市にある時宗の仏教寺院である。山号は温泉山。
概略
鉄輪温泉の開創伝説に関わる寺院である。向拝の柱に「日本第一蒸湯開基」の額が掛けられている。温泉街の中心部「いでゆ坂」の中程に位置し、「鉄輪湯あみ祭り」の舞台となる寺としても知られている。
鉄輪湯あみ祭り
江戸時代、松寿寺では、元旦、春秋の彼岸、一遍上人の命日(8月23日)の年4回、一遍上人の座像を沐浴させる法要が行われていた。戦後の昭和35年(1960年)に、この法要が「鉄輪湯あみ祭り」として復活し、以後、新暦で一遍の忌日に当たる毎年9月21日-23日に、稚児行列や一遍上人座像の沐浴等のイベントが行われている。2013年2月15日放送のNHK BSプレミアムの「新日本風土記」で寺と祭りが紹介された。
交通アクセス
JR九州日豊本線別府駅よりバスで約20分、鉄輪バス停留所で下車徒歩約5分。
JR九州日豊本線別府大学駅または別府国際観光港よりタクシーで約10分。
所在地 大分県別府市風呂本1番地
位置 北緯33度18分57.7秒 東経131度28分37.4秒
山号 温泉山
宗旨 時宗
宗派 時宗遊行派
本尊 阿弥陀如来立像
開山 一遍智真
文化財 遊行上人縁起絵(重要文化財)
概略
鉄輪温泉の開創伝説に関わる寺院である。向拝の柱に「日本第一蒸湯開基」の額が掛けられている。温泉街の中心部「いでゆ坂」の中程に位置し、「鉄輪湯あみ祭り」の舞台となる寺としても知られている。
鉄輪湯あみ祭り
江戸時代、松寿寺では、元旦、春秋の彼岸、一遍上人の命日(8月23日)の年4回、一遍上人の座像を沐浴させる法要が行われていた。戦後の昭和35年(1960年)に、この法要が「鉄輪湯あみ祭り」として復活し、以後、新暦で一遍の忌日に当たる毎年9月21日-23日に、稚児行列や一遍上人座像の沐浴等のイベントが行われている。2013年2月15日放送のNHK BSプレミアムの「新日本風土記」で寺と祭りが紹介された。
交通アクセス
JR九州日豊本線別府駅よりバスで約20分、鉄輪バス停留所で下車徒歩約5分。
JR九州日豊本線別府大学駅または別府国際観光港よりタクシーで約10分。
所在地 大分県別府市風呂本1番地
位置 北緯33度18分57.7秒 東経131度28分37.4秒
山号 温泉山
宗旨 時宗
宗派 時宗遊行派
本尊 阿弥陀如来立像
開山 一遍智真
文化財 遊行上人縁起絵(重要文化財)
2023年08月09日
宇和島城(うわじまじょう)は、四国の愛媛県宇和島市丸之内にあった日本の城
宇和島城(うわじまじょう)は、四国の愛媛県宇和島市丸之内にあった日本の城である。江戸時代は宇和島藩の藩庁となった。城跡は国の史跡に指定されている(1937年〈昭和12年〉指定)。別名は鶴島城。
概要
宇和島城は、中世期にあった板島丸串城の跡に藤堂高虎の手によって築かれた近世城郭である。標高74メートル(80メートルとも)の丘陵とその一帯に山頂の本丸を中心に囲むように二ノ丸と帯曲輪、その北に藤兵衛丸、西側中腹に代右衛門丸、藤兵衛丸の北側一段低い所に長門丸を配置し、東側の中腹に井戸丸、麓の北東に三ノ丸、内堀で隔てて侍屋敷が置かれた外郭を廻らせる梯郭式の平山城となっており、各曲輪が山上部に散在している中世的な縄張りを色濃く残しながらも、山麓部には追手門や搦手門のように内枡形や喰違虎口といった近世城郭的な縄張りももつ。東側に海水を引き込んだ水堀、西側半分が海に接しているので「海城(水城)」でもある。
現在、見られる天守などの建築は宇和島伊達家によるものであるが、縄張そのものは築城の名手といわれた藤堂高虎の創建した当時の形が活用されたと見られている。外堀などの外郭ラインが五角形となる縄張りは、幕府の隠密が江戸に送った密書(『讃岐伊予土佐阿波探索書』)には「四方の間、合わせて十四町」と誤って記され、この史実から高虎の巧みな設計として「空角の経始(あきかくのなわ)」の伝説が生まれたとされる。
高虎の発想は、城を攻める側は当然方形の縄張を予想して攻めてくる。しかし実際は五角形だから、一辺が空角になる。つまり、城を攻める側にとって、完全に死角になってしまい、攻撃は手薄になる。いわば、この一辺の空角は、敵の攻撃を避けられるとともに、敵を攻撃する出撃口ともなり得る。そればかりではない。この秘かな空角は、物資搬入口ともなり、城から落ちのびる場合の抜け道ともなる。これは守城の作戦上、効果は絶大なものといえるだろう。当時の築城術でこのようなからくりを用いた城は他にはなかった。
宇和島城には本丸天守から、原生林の中を抜ける間道が数本あり、西海岸の舟小屋、北西海岸の隠し水軍の基地などに通じていた。宇和島城には、間道、隠し水軍などの優れた高虎の築城術の秘法が、見事に生かされた城だったのである。
城を囲む五角形の堀は高虎の後の大名にも代々受け継がれ、三大海城の一つと謳われたが現在は堀も海も埋め立てられており、その面影は大きく失われている。明治以降は大半の建物が撤去され、城郭は戦後「城山公園」として整備された。建物は、天守、追手門などが残されたが太平洋戦争中の空襲により追手門を焼失し、現在は天守(重要文化財)と上り立ち門(市指定文化財)、石垣と山里倉庫(城山郷土館)が現存する。
天守
当初、高虎による複合式望楼型の三重天守が上がっていたが、寛文2年(1662年)から寛文11年(1671年)に2代目藩主伊達宗利によって行われた改修の際に修築の名目で現在の独立式層塔型3重3階に建て替えられた。
本丸
天守がおかれ、塁上に二重櫓の御弓櫓・轆轤櫓・櫛形門南角櫓と平櫓の御休息所櫓・御鉄砲櫓・右髪櫓・櫛形門北角櫓がおかれた。本丸への唯一の門として櫛形門があった。櫓門の形状であるが櫛形窓をもっていたため櫛形門とよばれていた。
現地情報
交通
JR予讃線宇和島駅から徒歩約15分で登り口、登り口から天守まで徒歩約20分
料金
大人:200円
利用情報
日本100名城スタンプラリー スタンプ設置場所:宇和島城天守
藤兵衛丸には城山郷土館がある。建物は山里倉庫(武器庫)を移築したもの。
上り立ち門の前には宇和島出身の児島惟謙の銅像がある。
別名 鶴島城、板島丸串城(旧称)
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 複合式望楼型3重3階(慶長6年〈1601年〉築、非現存)
独立式層塔型 3重3階(寛文11年〈1671年〉再、現存)
築城主 藤堂高虎
築城年 慶長元年(1596年)
主な改修者 藤堂高虎、伊達宗利
主な城主 西園寺氏、戸田氏、富田氏、藤堂氏、伊達氏
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 現存天守・門、石垣
指定文化財 重要文化財(天守)
国の史跡
宇和島市指定有形文化財(上り立ち門)
位置 北緯33度13分10.12秒 東経132度33分54.85秒
概要
宇和島城は、中世期にあった板島丸串城の跡に藤堂高虎の手によって築かれた近世城郭である。標高74メートル(80メートルとも)の丘陵とその一帯に山頂の本丸を中心に囲むように二ノ丸と帯曲輪、その北に藤兵衛丸、西側中腹に代右衛門丸、藤兵衛丸の北側一段低い所に長門丸を配置し、東側の中腹に井戸丸、麓の北東に三ノ丸、内堀で隔てて侍屋敷が置かれた外郭を廻らせる梯郭式の平山城となっており、各曲輪が山上部に散在している中世的な縄張りを色濃く残しながらも、山麓部には追手門や搦手門のように内枡形や喰違虎口といった近世城郭的な縄張りももつ。東側に海水を引き込んだ水堀、西側半分が海に接しているので「海城(水城)」でもある。
現在、見られる天守などの建築は宇和島伊達家によるものであるが、縄張そのものは築城の名手といわれた藤堂高虎の創建した当時の形が活用されたと見られている。外堀などの外郭ラインが五角形となる縄張りは、幕府の隠密が江戸に送った密書(『讃岐伊予土佐阿波探索書』)には「四方の間、合わせて十四町」と誤って記され、この史実から高虎の巧みな設計として「空角の経始(あきかくのなわ)」の伝説が生まれたとされる。
高虎の発想は、城を攻める側は当然方形の縄張を予想して攻めてくる。しかし実際は五角形だから、一辺が空角になる。つまり、城を攻める側にとって、完全に死角になってしまい、攻撃は手薄になる。いわば、この一辺の空角は、敵の攻撃を避けられるとともに、敵を攻撃する出撃口ともなり得る。そればかりではない。この秘かな空角は、物資搬入口ともなり、城から落ちのびる場合の抜け道ともなる。これは守城の作戦上、効果は絶大なものといえるだろう。当時の築城術でこのようなからくりを用いた城は他にはなかった。
宇和島城には本丸天守から、原生林の中を抜ける間道が数本あり、西海岸の舟小屋、北西海岸の隠し水軍の基地などに通じていた。宇和島城には、間道、隠し水軍などの優れた高虎の築城術の秘法が、見事に生かされた城だったのである。
城を囲む五角形の堀は高虎の後の大名にも代々受け継がれ、三大海城の一つと謳われたが現在は堀も海も埋め立てられており、その面影は大きく失われている。明治以降は大半の建物が撤去され、城郭は戦後「城山公園」として整備された。建物は、天守、追手門などが残されたが太平洋戦争中の空襲により追手門を焼失し、現在は天守(重要文化財)と上り立ち門(市指定文化財)、石垣と山里倉庫(城山郷土館)が現存する。
天守
当初、高虎による複合式望楼型の三重天守が上がっていたが、寛文2年(1662年)から寛文11年(1671年)に2代目藩主伊達宗利によって行われた改修の際に修築の名目で現在の独立式層塔型3重3階に建て替えられた。
本丸
天守がおかれ、塁上に二重櫓の御弓櫓・轆轤櫓・櫛形門南角櫓と平櫓の御休息所櫓・御鉄砲櫓・右髪櫓・櫛形門北角櫓がおかれた。本丸への唯一の門として櫛形門があった。櫓門の形状であるが櫛形窓をもっていたため櫛形門とよばれていた。
現地情報
交通
JR予讃線宇和島駅から徒歩約15分で登り口、登り口から天守まで徒歩約20分
料金
大人:200円
利用情報
日本100名城スタンプラリー スタンプ設置場所:宇和島城天守
藤兵衛丸には城山郷土館がある。建物は山里倉庫(武器庫)を移築したもの。
上り立ち門の前には宇和島出身の児島惟謙の銅像がある。
別名 鶴島城、板島丸串城(旧称)
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 複合式望楼型3重3階(慶長6年〈1601年〉築、非現存)
独立式層塔型 3重3階(寛文11年〈1671年〉再、現存)
築城主 藤堂高虎
築城年 慶長元年(1596年)
主な改修者 藤堂高虎、伊達宗利
主な城主 西園寺氏、戸田氏、富田氏、藤堂氏、伊達氏
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 現存天守・門、石垣
指定文化財 重要文化財(天守)
国の史跡
宇和島市指定有形文化財(上り立ち門)
位置 北緯33度13分10.12秒 東経132度33分54.85秒
2023年08月08日
足助八幡宮(あすけはちまんぐう)は、愛知県豊田市にある神社
足助八幡宮(あすけはちまんぐう)は、愛知県豊田市にある神社である。
足助八幡宮拝殿
祭神
品陀和気命(ほんだわけのみこと=応神天皇)
帯中日子命(たらしなかつひこのみこと=仲哀天皇)
息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)
※ 現在は他に5柱を合祀している。
例大祭
足助まつり - 10月第2日曜に町方の山車4台の他、火縄銃の鉄砲隊、棒の手が披露、奉納される。
足助八幡宮本殿
文化財
重要文化財(国指定)
足助八幡宮本殿- 檜皮葺の三間社流造社殿で、室町時代の文正元年(1466年)11月の建立。明治40年(1907年)5月27日、特別保護建造物(現行法の重要文化財に相当)に指定された。
愛知県指定文化財
扁額「鉄砲的打図板額」- 慶長17年(1612年)に、三河国岩神村(現・足助町内)の沢田四郎右衛門尉が奉納したもので、鉄砲を描いた扁額は全国でも他に3枚しか現存しない。1957年(昭和32年)9月6日指定。
足助まつりの山車 (2016年(平成28年)10月)
所在地 愛知県豊田市足助町宮ノ後13
位置 北緯35度8分3.21秒 東経137度18分38.66秒
主祭神 品陀和気命
創建 伝・白鳳3年(673年)
本殿の様式 三間社流造
例祭 10月
足助八幡宮拝殿
祭神
品陀和気命(ほんだわけのみこと=応神天皇)
帯中日子命(たらしなかつひこのみこと=仲哀天皇)
息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)
※ 現在は他に5柱を合祀している。
例大祭
足助まつり - 10月第2日曜に町方の山車4台の他、火縄銃の鉄砲隊、棒の手が披露、奉納される。
足助八幡宮本殿
文化財
重要文化財(国指定)
足助八幡宮本殿- 檜皮葺の三間社流造社殿で、室町時代の文正元年(1466年)11月の建立。明治40年(1907年)5月27日、特別保護建造物(現行法の重要文化財に相当)に指定された。
愛知県指定文化財
扁額「鉄砲的打図板額」- 慶長17年(1612年)に、三河国岩神村(現・足助町内)の沢田四郎右衛門尉が奉納したもので、鉄砲を描いた扁額は全国でも他に3枚しか現存しない。1957年(昭和32年)9月6日指定。
足助まつりの山車 (2016年(平成28年)10月)
所在地 愛知県豊田市足助町宮ノ後13
位置 北緯35度8分3.21秒 東経137度18分38.66秒
主祭神 品陀和気命
創建 伝・白鳳3年(673年)
本殿の様式 三間社流造
例祭 10月
2023年08月07日
旧後藤家住宅(きゅうごとうけじゅうたく)は、岩手県奥州市江刺岩谷堂町向山公園内に所在する江戸時代の古民家
旧後藤家住宅(きゅうごとうけじゅうたく)は、岩手県奥州市江刺岩谷堂町向山公園内に所在する江戸時代の古民家。重要文化財に指定されている。
概要
東北地方における民家の形式を南部の曲り家とともに二分する仙台藩直家の典型的な遺構。その間取りや軸部、小屋組の架構は北上市口内にあった菅野家住宅(享保年間の建立)と比較して一段と古い。また、解体工事中に地下掘建柱の穴底から発見された笹塔婆の残欠に元禄8年(1695年)の記名があることから、元禄から宝永年間と推定される。1965年(昭和40年)5月29日、重要文化財に指定された。1967年、かつての江刺市(当時)広瀬から現在地に移築された。
建築
平面積232.9m2、寄棟造、茅葺。1870年(明治3年)に縁側が構えられ、近年天井張り建具を改造したが、主要部分については変更なく、当初の状況が残されている。
利用情報
開館日 - 3月20日から11月15日までの平日(要予約)
開館時間 - 10時から12時、13時から17時
入館料 - 無料
交通アクセス
東北自動車道水沢ICより車15分
岩手県交通バス江刺バスセンターより徒歩25分
旧用途 住宅
管理運営 奥州市観光物産協会江刺支所
延床面積 232.9 m2
所在地 〒023-1101
岩手県奥州市江刺岩谷堂町字向山
座標 北緯39度11分31秒 東経141度11分8秒
文化財 重要文化財
概要
東北地方における民家の形式を南部の曲り家とともに二分する仙台藩直家の典型的な遺構。その間取りや軸部、小屋組の架構は北上市口内にあった菅野家住宅(享保年間の建立)と比較して一段と古い。また、解体工事中に地下掘建柱の穴底から発見された笹塔婆の残欠に元禄8年(1695年)の記名があることから、元禄から宝永年間と推定される。1965年(昭和40年)5月29日、重要文化財に指定された。1967年、かつての江刺市(当時)広瀬から現在地に移築された。
建築
平面積232.9m2、寄棟造、茅葺。1870年(明治3年)に縁側が構えられ、近年天井張り建具を改造したが、主要部分については変更なく、当初の状況が残されている。
利用情報
開館日 - 3月20日から11月15日までの平日(要予約)
開館時間 - 10時から12時、13時から17時
入館料 - 無料
交通アクセス
東北自動車道水沢ICより車15分
岩手県交通バス江刺バスセンターより徒歩25分
旧用途 住宅
管理運営 奥州市観光物産協会江刺支所
延床面積 232.9 m2
所在地 〒023-1101
岩手県奥州市江刺岩谷堂町字向山
座標 北緯39度11分31秒 東経141度11分8秒
文化財 重要文化財
2023年08月06日
金龍寺(きんりゅうじ)は、茨城県龍ケ崎市にある曹洞宗の寺院
金龍寺(きんりゅうじ)は、茨城県龍ケ崎市にある曹洞宗の寺院。山号は太田山。本尊は釈迦如来。
歴史
応永年間(1394 - 1428年)、新田貞氏が祖先(祖父とも)の新田義貞追善のため、上野国新田荘金山(現・群馬県太田市)に創建した。なお、元亨元年(1321年)に新田義貞が天真自性を開山として創建したとの別伝もある。
その後、新田氏の末裔で一族の新田金山城主であった由良国繁が天正18年(1590年)、常陸国牛久(茨城県牛久市)に転封されると寺も同地に移転した。現在地に移ったのは寛文6年(1666年)のことである。江戸時代には多くの末寺を有していた。
文化財
重要文化財
絹本著色十六羅漢像
所在地 茨城県龍ケ崎市若柴町866
位置 北緯35度56分18.2秒 東経140度8分33.0秒
山号 太田山
宗旨 曹洞宗
本尊 釈迦如来
歴史
応永年間(1394 - 1428年)、新田貞氏が祖先(祖父とも)の新田義貞追善のため、上野国新田荘金山(現・群馬県太田市)に創建した。なお、元亨元年(1321年)に新田義貞が天真自性を開山として創建したとの別伝もある。
その後、新田氏の末裔で一族の新田金山城主であった由良国繁が天正18年(1590年)、常陸国牛久(茨城県牛久市)に転封されると寺も同地に移転した。現在地に移ったのは寛文6年(1666年)のことである。江戸時代には多くの末寺を有していた。
文化財
重要文化財
絹本著色十六羅漢像
所在地 茨城県龍ケ崎市若柴町866
位置 北緯35度56分18.2秒 東経140度8分33.0秒
山号 太田山
宗旨 曹洞宗
本尊 釈迦如来
2023年08月05日
尻屋埼灯台(しりやざきとうだい)は、青森県下北郡東通村の尻屋崎の突端に立つ白亜の灯台
尻屋埼灯台(しりやざきとうだい)は、青森県下北郡東通村の尻屋崎の突端に立つ白亜の灯台。国の重要文化財に指定され、日本の灯台50選に選ばれている。
「日本の灯台の父」と称されるブラントンによって設計された、二重のレンガ壁による複層構造の灯台となっている。周辺には寒立馬(かんだちめ)と呼ばれる馬が放牧されており、一帯は景勝地となっている。
付属施設
無線方位信号所
ディファレンシャルGPS局(2019年廃止)
GPS補正・テキストメッセージ方式の気象通報を実施していた。
船舶気象通報施設(灯台放送)
1670.5kHz(H3E)で龍飛埼灯台、尻屋埼灯台、松前ディファレンシャルGPS局、大間埼灯台、恵山岬灯台の気象通報業務を行っていた。
一般公開
4月下旬から11月上旬までの期間に限り一般公開され、上まで登ることができる(寄付金として、中学生以上の参観者から300円を原則徴収している)。
まぼろしの灯台
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)に米軍機の機銃掃射を受けて、当時勤務していた村尾常人標識技手が殉職した。翌1946年(昭和21年)、攻撃を受け破壊しつくされたはずの灯台が光を放ち、その目撃が相次いだ。謎の光のおかげで付近を航行中の漁船が遭難を免れたということもあった。人々は米軍の攻撃時に殉職した村尾標識技手の霊なのではないかと噂した。当時の灯台長が公文書「灯台の怪火について」を灯台局に報告した。同年8月に霧信号舎屋上に仮の灯りを点灯すると同時にこの現象は消えた。なお、灯台には銃撃の跡が今でも残る。
アクセス
むつバスターミナルより75分、1日3 - 6往復、1270円(11月 - 4月は見学施設閉鎖により徒歩で約30分手前の「尻屋」まで)
むつ市中心部より青森県道6号むつ尻屋崎線から東通村道尻屋灯台線に入る。
その他
尻屋崎沖は海洋交通の難所で、実際遭難事故も数多く起こっている。
霧信号所が日本で初めて設置された場所でもある。
かつて使われていた霧鐘は犬吠埼灯台の敷地内に保存されている。
航路標識番号
[国際標識番号] 1601 [M6630]
位置 北緯41度25分49.27秒 東経141度27分43.9秒
所在地 青森県下北郡東通村尻屋字尻屋崎1-1
塗色・構造 白色 塔形 レンガ造
レンズ 第2等フレネル式
灯質 単閃白光 毎10秒に1閃光
実効光度 530,000 cd
光達距離 18.5海里(約 34 km)
明弧 52度から3度まで
塔高 32.82 m (地上 - 塔頂)
灯火標高 45.70 m (平均海面 - 灯火)
初点灯 1876年(明治9年)10月20日
管轄 海上保安庁
第二管区海上保安本部
「日本の灯台の父」と称されるブラントンによって設計された、二重のレンガ壁による複層構造の灯台となっている。周辺には寒立馬(かんだちめ)と呼ばれる馬が放牧されており、一帯は景勝地となっている。
付属施設
無線方位信号所
ディファレンシャルGPS局(2019年廃止)
GPS補正・テキストメッセージ方式の気象通報を実施していた。
船舶気象通報施設(灯台放送)
1670.5kHz(H3E)で龍飛埼灯台、尻屋埼灯台、松前ディファレンシャルGPS局、大間埼灯台、恵山岬灯台の気象通報業務を行っていた。
一般公開
4月下旬から11月上旬までの期間に限り一般公開され、上まで登ることができる(寄付金として、中学生以上の参観者から300円を原則徴収している)。
まぼろしの灯台
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)に米軍機の機銃掃射を受けて、当時勤務していた村尾常人標識技手が殉職した。翌1946年(昭和21年)、攻撃を受け破壊しつくされたはずの灯台が光を放ち、その目撃が相次いだ。謎の光のおかげで付近を航行中の漁船が遭難を免れたということもあった。人々は米軍の攻撃時に殉職した村尾標識技手の霊なのではないかと噂した。当時の灯台長が公文書「灯台の怪火について」を灯台局に報告した。同年8月に霧信号舎屋上に仮の灯りを点灯すると同時にこの現象は消えた。なお、灯台には銃撃の跡が今でも残る。
アクセス
むつバスターミナルより75分、1日3 - 6往復、1270円(11月 - 4月は見学施設閉鎖により徒歩で約30分手前の「尻屋」まで)
むつ市中心部より青森県道6号むつ尻屋崎線から東通村道尻屋灯台線に入る。
その他
尻屋崎沖は海洋交通の難所で、実際遭難事故も数多く起こっている。
霧信号所が日本で初めて設置された場所でもある。
かつて使われていた霧鐘は犬吠埼灯台の敷地内に保存されている。
航路標識番号
[国際標識番号] 1601 [M6630]
位置 北緯41度25分49.27秒 東経141度27分43.9秒
所在地 青森県下北郡東通村尻屋字尻屋崎1-1
塗色・構造 白色 塔形 レンガ造
レンズ 第2等フレネル式
灯質 単閃白光 毎10秒に1閃光
実効光度 530,000 cd
光達距離 18.5海里(約 34 km)
明弧 52度から3度まで
塔高 32.82 m (地上 - 塔頂)
灯火標高 45.70 m (平均海面 - 灯火)
初点灯 1876年(明治9年)10月20日
管轄 海上保安庁
第二管区海上保安本部
2023年08月04日
古四王神社(こしおうじんじゃ)は、秋田県大仙市大曲字古四王際にある神社
古四王神社(こしおうじんじゃ)は、秋田県大仙市大曲字古四王際にある神社。本殿は重要文化財に指定されている。
古四王神社本殿
歴史
古四王神社本殿は、氏子総代の冨樫家の古文書によると、1570年(元亀元年) に領主戸沢氏が、孔雀城主である冨樫氏(冨樫左衛門太郎勝家)を奉行として建立したと伝えられる。1930年(昭和5年)に行われた文部省(現文部科学省)による解体修理の際に、軒の組物の中に「古川村 大工 甚兵衛」という墨書が発見され、現在の岐阜県飛騨市出身の大工・甚兵衛の作であることが判明した[1]。古四王神社本殿は1905年(明治38年)、文部省古社寺保存会嘱託で工学博士の伊東忠太(東京帝国大学教授)の調査を経て、1908年(明治41年)に当時の古社寺保存法に基づく「特別保護建造物」(文化財保護法下の「重要文化財」に相当)に指定された。秋田県では初の文化財指定建造物である。
祭神と神社の由来
祭神は『古事記』・『日本書紀』で北陸を平定したとされる大彦命(オオビコノミコト)と他五柱( 天照皇大神、豊受大神、建御名方命、八坂刀売命、水波女神)。コシオウという神社は、中部以北の日本海側に多く見られ、「胡四王」、「腰王」、「故将」などと書く社の例もあり、その由来については以下の説がある。
祭神である大彦命が高志(越)国(現在の北陸地方)の王であったからという高志王説。
秋田城を鎮護する四天王寺が神仏習合して鎮守となった四王堂の四王が、古四王に転訛したという四天王寺説などがある。
本社の由来は高志王説に基づく。
秋田県内では本社の他に、秋田市寺内、にかほ市象潟町、鹿角市八幡平に鎮座する。古代史研究家の新野直吉によると、『日本書紀』斉明天皇条にみえる秋田浦の神が北方遠征を行った阿倍比羅夫と接触し,北陸の神高志(越)王と結合したと推測している。また、祭神の一つである大彦命の北陸平定神話から、本社には勝負事の利益を求めて参詣する人もいる。
本殿の特色
室町時代末期の作で、材質は杉・松・桧・栗などが適所に使用されている。和様・禅宗様(唐様)・大仏様(天竺様)などの各様式を採り入れた折衷様で、地方色も採り入れているのが特徴である。向拝の側面上にある藤唐草の彫刻や、木目を利用した一木造りの擬宝珠など、細部に様々な手法が施されている。また、通常神社は南か東を向いているものが多いが、古四王神社は北を向いている場合が多く、古四王神社崇敬については、武神との関わりから、古代の蝦夷支配との関係を指摘する声もある。当時、美術建築の権威であった伊東忠太(東京帝国大学教授)は「奇中の奇、珍中の珍」と感嘆し、後に建築史家の天沼俊一(京都帝国大学教授)も「和(日本)・唐(中国)・天(インド)を超越した天下一品の建物」と絶賛した。
行事
恒例の神事は9月8日(例大祭)、5月8日(戸開)と12月8日(戸閉)があり、12月31日から元旦にかけて正月行事が行われる。例大祭では神楽、獅子舞、刀舞、梵天の奉納が行われるほか、本殿の御開帳やライトアップが行われる。また、文化財防火デーに因んで1月には古四王神社文化財防火デー・古四王堂火消しもちまつりが行われる。防火訓練では、地元の消防団の他、東大曲小学校児童らも活躍し、続いて行われる火消しもちまつりでは、雪中田植え、天筆焼、もちつきが行われる。
所在地 秋田県大仙市大曲字古四王際30
位置 北緯39度26分17.1秒 東経140度29分57.0秒
主祭神 大彦命
天照皇大神
豊受大神
建御名方命
八坂刀売命
水波女神
社格等 神饌幣帛料供進神社
創建 伝1570年(元亀元年)
本殿の様式 一間社入母屋造
例祭 9月8日
古四王神社本殿
歴史
古四王神社本殿は、氏子総代の冨樫家の古文書によると、1570年(元亀元年) に領主戸沢氏が、孔雀城主である冨樫氏(冨樫左衛門太郎勝家)を奉行として建立したと伝えられる。1930年(昭和5年)に行われた文部省(現文部科学省)による解体修理の際に、軒の組物の中に「古川村 大工 甚兵衛」という墨書が発見され、現在の岐阜県飛騨市出身の大工・甚兵衛の作であることが判明した[1]。古四王神社本殿は1905年(明治38年)、文部省古社寺保存会嘱託で工学博士の伊東忠太(東京帝国大学教授)の調査を経て、1908年(明治41年)に当時の古社寺保存法に基づく「特別保護建造物」(文化財保護法下の「重要文化財」に相当)に指定された。秋田県では初の文化財指定建造物である。
祭神と神社の由来
祭神は『古事記』・『日本書紀』で北陸を平定したとされる大彦命(オオビコノミコト)と他五柱( 天照皇大神、豊受大神、建御名方命、八坂刀売命、水波女神)。コシオウという神社は、中部以北の日本海側に多く見られ、「胡四王」、「腰王」、「故将」などと書く社の例もあり、その由来については以下の説がある。
祭神である大彦命が高志(越)国(現在の北陸地方)の王であったからという高志王説。
秋田城を鎮護する四天王寺が神仏習合して鎮守となった四王堂の四王が、古四王に転訛したという四天王寺説などがある。
本社の由来は高志王説に基づく。
秋田県内では本社の他に、秋田市寺内、にかほ市象潟町、鹿角市八幡平に鎮座する。古代史研究家の新野直吉によると、『日本書紀』斉明天皇条にみえる秋田浦の神が北方遠征を行った阿倍比羅夫と接触し,北陸の神高志(越)王と結合したと推測している。また、祭神の一つである大彦命の北陸平定神話から、本社には勝負事の利益を求めて参詣する人もいる。
本殿の特色
室町時代末期の作で、材質は杉・松・桧・栗などが適所に使用されている。和様・禅宗様(唐様)・大仏様(天竺様)などの各様式を採り入れた折衷様で、地方色も採り入れているのが特徴である。向拝の側面上にある藤唐草の彫刻や、木目を利用した一木造りの擬宝珠など、細部に様々な手法が施されている。また、通常神社は南か東を向いているものが多いが、古四王神社は北を向いている場合が多く、古四王神社崇敬については、武神との関わりから、古代の蝦夷支配との関係を指摘する声もある。当時、美術建築の権威であった伊東忠太(東京帝国大学教授)は「奇中の奇、珍中の珍」と感嘆し、後に建築史家の天沼俊一(京都帝国大学教授)も「和(日本)・唐(中国)・天(インド)を超越した天下一品の建物」と絶賛した。
行事
恒例の神事は9月8日(例大祭)、5月8日(戸開)と12月8日(戸閉)があり、12月31日から元旦にかけて正月行事が行われる。例大祭では神楽、獅子舞、刀舞、梵天の奉納が行われるほか、本殿の御開帳やライトアップが行われる。また、文化財防火デーに因んで1月には古四王神社文化財防火デー・古四王堂火消しもちまつりが行われる。防火訓練では、地元の消防団の他、東大曲小学校児童らも活躍し、続いて行われる火消しもちまつりでは、雪中田植え、天筆焼、もちつきが行われる。
所在地 秋田県大仙市大曲字古四王際30
位置 北緯39度26分17.1秒 東経140度29分57.0秒
主祭神 大彦命
天照皇大神
豊受大神
建御名方命
八坂刀売命
水波女神
社格等 神饌幣帛料供進神社
創建 伝1570年(元亀元年)
本殿の様式 一間社入母屋造
例祭 9月8日