新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2023年08月09日
宇和島城(うわじまじょう)は、四国の愛媛県宇和島市丸之内にあった日本の城
宇和島城(うわじまじょう)は、四国の愛媛県宇和島市丸之内にあった日本の城である。江戸時代は宇和島藩の藩庁となった。城跡は国の史跡に指定されている(1937年〈昭和12年〉指定)。別名は鶴島城。

概要
宇和島城は、中世期にあった板島丸串城の跡に藤堂高虎の手によって築かれた近世城郭である。標高74メートル(80メートルとも)の丘陵とその一帯に山頂の本丸を中心に囲むように二ノ丸と帯曲輪、その北に藤兵衛丸、西側中腹に代右衛門丸、藤兵衛丸の北側一段低い所に長門丸を配置し、東側の中腹に井戸丸、麓の北東に三ノ丸、内堀で隔てて侍屋敷が置かれた外郭を廻らせる梯郭式の平山城となっており、各曲輪が山上部に散在している中世的な縄張りを色濃く残しながらも、山麓部には追手門や搦手門のように内枡形や喰違虎口といった近世城郭的な縄張りももつ。東側に海水を引き込んだ水堀、西側半分が海に接しているので「海城(水城)」でもある。
現在、見られる天守などの建築は宇和島伊達家によるものであるが、縄張そのものは築城の名手といわれた藤堂高虎の創建した当時の形が活用されたと見られている。外堀などの外郭ラインが五角形となる縄張りは、幕府の隠密が江戸に送った密書(『讃岐伊予土佐阿波探索書』)には「四方の間、合わせて十四町」と誤って記され、この史実から高虎の巧みな設計として「空角の経始(あきかくのなわ)」の伝説が生まれたとされる。

高虎の発想は、城を攻める側は当然方形の縄張を予想して攻めてくる。しかし実際は五角形だから、一辺が空角になる。つまり、城を攻める側にとって、完全に死角になってしまい、攻撃は手薄になる。いわば、この一辺の空角は、敵の攻撃を避けられるとともに、敵を攻撃する出撃口ともなり得る。そればかりではない。この秘かな空角は、物資搬入口ともなり、城から落ちのびる場合の抜け道ともなる。これは守城の作戦上、効果は絶大なものといえるだろう。当時の築城術でこのようなからくりを用いた城は他にはなかった。
宇和島城には本丸天守から、原生林の中を抜ける間道が数本あり、西海岸の舟小屋、北西海岸の隠し水軍の基地などに通じていた。宇和島城には、間道、隠し水軍などの優れた高虎の築城術の秘法が、見事に生かされた城だったのである。
城を囲む五角形の堀は高虎の後の大名にも代々受け継がれ、三大海城の一つと謳われたが現在は堀も海も埋め立てられており、その面影は大きく失われている。明治以降は大半の建物が撤去され、城郭は戦後「城山公園」として整備された。建物は、天守、追手門などが残されたが太平洋戦争中の空襲により追手門を焼失し、現在は天守(重要文化財)と上り立ち門(市指定文化財)、石垣と山里倉庫(城山郷土館)が現存する。


天守
当初、高虎による複合式望楼型の三重天守が上がっていたが、寛文2年(1662年)から寛文11年(1671年)に2代目藩主伊達宗利によって行われた改修の際に修築の名目で現在の独立式層塔型3重3階に建て替えられた。
本丸
天守がおかれ、塁上に二重櫓の御弓櫓・轆轤櫓・櫛形門南角櫓と平櫓の御休息所櫓・御鉄砲櫓・右髪櫓・櫛形門北角櫓がおかれた。本丸への唯一の門として櫛形門があった。櫓門の形状であるが櫛形窓をもっていたため櫛形門とよばれていた。
現地情報
交通
JR予讃線宇和島駅から徒歩約15分で登り口、登り口から天守まで徒歩約20分
料金
大人:200円
利用情報
日本100名城スタンプラリー スタンプ設置場所:宇和島城天守
藤兵衛丸には城山郷土館がある。建物は山里倉庫(武器庫)を移築したもの。
上り立ち門の前には宇和島出身の児島惟謙の銅像がある。
別名 鶴島城、板島丸串城(旧称)
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 複合式望楼型3重3階(慶長6年〈1601年〉築、非現存)
独立式層塔型 3重3階(寛文11年〈1671年〉再、現存)
築城主 藤堂高虎
築城年 慶長元年(1596年)
主な改修者 藤堂高虎、伊達宗利
主な城主 西園寺氏、戸田氏、富田氏、藤堂氏、伊達氏
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 現存天守・門、石垣
指定文化財 重要文化財(天守)
国の史跡
宇和島市指定有形文化財(上り立ち門)
位置 北緯33度13分10.12秒 東経132度33分54.85秒

概要
宇和島城は、中世期にあった板島丸串城の跡に藤堂高虎の手によって築かれた近世城郭である。標高74メートル(80メートルとも)の丘陵とその一帯に山頂の本丸を中心に囲むように二ノ丸と帯曲輪、その北に藤兵衛丸、西側中腹に代右衛門丸、藤兵衛丸の北側一段低い所に長門丸を配置し、東側の中腹に井戸丸、麓の北東に三ノ丸、内堀で隔てて侍屋敷が置かれた外郭を廻らせる梯郭式の平山城となっており、各曲輪が山上部に散在している中世的な縄張りを色濃く残しながらも、山麓部には追手門や搦手門のように内枡形や喰違虎口といった近世城郭的な縄張りももつ。東側に海水を引き込んだ水堀、西側半分が海に接しているので「海城(水城)」でもある。
現在、見られる天守などの建築は宇和島伊達家によるものであるが、縄張そのものは築城の名手といわれた藤堂高虎の創建した当時の形が活用されたと見られている。外堀などの外郭ラインが五角形となる縄張りは、幕府の隠密が江戸に送った密書(『讃岐伊予土佐阿波探索書』)には「四方の間、合わせて十四町」と誤って記され、この史実から高虎の巧みな設計として「空角の経始(あきかくのなわ)」の伝説が生まれたとされる。

高虎の発想は、城を攻める側は当然方形の縄張を予想して攻めてくる。しかし実際は五角形だから、一辺が空角になる。つまり、城を攻める側にとって、完全に死角になってしまい、攻撃は手薄になる。いわば、この一辺の空角は、敵の攻撃を避けられるとともに、敵を攻撃する出撃口ともなり得る。そればかりではない。この秘かな空角は、物資搬入口ともなり、城から落ちのびる場合の抜け道ともなる。これは守城の作戦上、効果は絶大なものといえるだろう。当時の築城術でこのようなからくりを用いた城は他にはなかった。
宇和島城には本丸天守から、原生林の中を抜ける間道が数本あり、西海岸の舟小屋、北西海岸の隠し水軍の基地などに通じていた。宇和島城には、間道、隠し水軍などの優れた高虎の築城術の秘法が、見事に生かされた城だったのである。
城を囲む五角形の堀は高虎の後の大名にも代々受け継がれ、三大海城の一つと謳われたが現在は堀も海も埋め立てられており、その面影は大きく失われている。明治以降は大半の建物が撤去され、城郭は戦後「城山公園」として整備された。建物は、天守、追手門などが残されたが太平洋戦争中の空襲により追手門を焼失し、現在は天守(重要文化財)と上り立ち門(市指定文化財)、石垣と山里倉庫(城山郷土館)が現存する。


天守
当初、高虎による複合式望楼型の三重天守が上がっていたが、寛文2年(1662年)から寛文11年(1671年)に2代目藩主伊達宗利によって行われた改修の際に修築の名目で現在の独立式層塔型3重3階に建て替えられた。
本丸
天守がおかれ、塁上に二重櫓の御弓櫓・轆轤櫓・櫛形門南角櫓と平櫓の御休息所櫓・御鉄砲櫓・右髪櫓・櫛形門北角櫓がおかれた。本丸への唯一の門として櫛形門があった。櫓門の形状であるが櫛形窓をもっていたため櫛形門とよばれていた。
現地情報
交通
JR予讃線宇和島駅から徒歩約15分で登り口、登り口から天守まで徒歩約20分
料金
大人:200円
利用情報
日本100名城スタンプラリー スタンプ設置場所:宇和島城天守
藤兵衛丸には城山郷土館がある。建物は山里倉庫(武器庫)を移築したもの。
上り立ち門の前には宇和島出身の児島惟謙の銅像がある。
別名 鶴島城、板島丸串城(旧称)
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 複合式望楼型3重3階(慶長6年〈1601年〉築、非現存)
独立式層塔型 3重3階(寛文11年〈1671年〉再、現存)
築城主 藤堂高虎
築城年 慶長元年(1596年)
主な改修者 藤堂高虎、伊達宗利
主な城主 西園寺氏、戸田氏、富田氏、藤堂氏、伊達氏
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 現存天守・門、石垣
指定文化財 重要文化財(天守)
国の史跡
宇和島市指定有形文化財(上り立ち門)
位置 北緯33度13分10.12秒 東経132度33分54.85秒
2023年08月08日
足助八幡宮(あすけはちまんぐう)は、愛知県豊田市にある神社
足助八幡宮(あすけはちまんぐう)は、愛知県豊田市にある神社である。

足助八幡宮拝殿
祭神
品陀和気命(ほんだわけのみこと=応神天皇)
帯中日子命(たらしなかつひこのみこと=仲哀天皇)
息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)
※ 現在は他に5柱を合祀している。
例大祭
足助まつり - 10月第2日曜に町方の山車4台の他、火縄銃の鉄砲隊、棒の手が披露、奉納される。

足助八幡宮本殿
文化財
重要文化財(国指定)
足助八幡宮本殿- 檜皮葺の三間社流造社殿で、室町時代の文正元年(1466年)11月の建立。明治40年(1907年)5月27日、特別保護建造物(現行法の重要文化財に相当)に指定された。
愛知県指定文化財
扁額「鉄砲的打図板額」- 慶長17年(1612年)に、三河国岩神村(現・足助町内)の沢田四郎右衛門尉が奉納したもので、鉄砲を描いた扁額は全国でも他に3枚しか現存しない。1957年(昭和32年)9月6日指定。

足助まつりの山車 (2016年(平成28年)10月)
所在地 愛知県豊田市足助町宮ノ後13
位置 北緯35度8分3.21秒 東経137度18分38.66秒
主祭神 品陀和気命
創建 伝・白鳳3年(673年)
本殿の様式 三間社流造
例祭 10月

足助八幡宮拝殿
祭神
品陀和気命(ほんだわけのみこと=応神天皇)
帯中日子命(たらしなかつひこのみこと=仲哀天皇)
息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)
※ 現在は他に5柱を合祀している。
例大祭
足助まつり - 10月第2日曜に町方の山車4台の他、火縄銃の鉄砲隊、棒の手が披露、奉納される。

足助八幡宮本殿
文化財
重要文化財(国指定)
足助八幡宮本殿- 檜皮葺の三間社流造社殿で、室町時代の文正元年(1466年)11月の建立。明治40年(1907年)5月27日、特別保護建造物(現行法の重要文化財に相当)に指定された。
愛知県指定文化財
扁額「鉄砲的打図板額」- 慶長17年(1612年)に、三河国岩神村(現・足助町内)の沢田四郎右衛門尉が奉納したもので、鉄砲を描いた扁額は全国でも他に3枚しか現存しない。1957年(昭和32年)9月6日指定。

足助まつりの山車 (2016年(平成28年)10月)
所在地 愛知県豊田市足助町宮ノ後13
位置 北緯35度8分3.21秒 東経137度18分38.66秒
主祭神 品陀和気命
創建 伝・白鳳3年(673年)
本殿の様式 三間社流造
例祭 10月
2023年08月07日
旧後藤家住宅(きゅうごとうけじゅうたく)は、岩手県奥州市江刺岩谷堂町向山公園内に所在する江戸時代の古民家
旧後藤家住宅(きゅうごとうけじゅうたく)は、岩手県奥州市江刺岩谷堂町向山公園内に所在する江戸時代の古民家。重要文化財に指定されている。

概要
東北地方における民家の形式を南部の曲り家とともに二分する仙台藩直家の典型的な遺構。その間取りや軸部、小屋組の架構は北上市口内にあった菅野家住宅(享保年間の建立)と比較して一段と古い。また、解体工事中に地下掘建柱の穴底から発見された笹塔婆の残欠に元禄8年(1695年)の記名があることから、元禄から宝永年間と推定される。1965年(昭和40年)5月29日、重要文化財に指定された。1967年、かつての江刺市(当時)広瀬から現在地に移築された。

建築
平面積232.9m2、寄棟造、茅葺。1870年(明治3年)に縁側が構えられ、近年天井張り建具を改造したが、主要部分については変更なく、当初の状況が残されている。
利用情報
開館日 - 3月20日から11月15日までの平日(要予約)
開館時間 - 10時から12時、13時から17時
入館料 - 無料
交通アクセス
東北自動車道水沢ICより車15分
岩手県交通バス江刺バスセンターより徒歩25分
旧用途 住宅
管理運営 奥州市観光物産協会江刺支所
延床面積 232.9 m2
所在地 〒023-1101
岩手県奥州市江刺岩谷堂町字向山
座標 北緯39度11分31秒 東経141度11分8秒
文化財 重要文化財

概要
東北地方における民家の形式を南部の曲り家とともに二分する仙台藩直家の典型的な遺構。その間取りや軸部、小屋組の架構は北上市口内にあった菅野家住宅(享保年間の建立)と比較して一段と古い。また、解体工事中に地下掘建柱の穴底から発見された笹塔婆の残欠に元禄8年(1695年)の記名があることから、元禄から宝永年間と推定される。1965年(昭和40年)5月29日、重要文化財に指定された。1967年、かつての江刺市(当時)広瀬から現在地に移築された。

建築
平面積232.9m2、寄棟造、茅葺。1870年(明治3年)に縁側が構えられ、近年天井張り建具を改造したが、主要部分については変更なく、当初の状況が残されている。
利用情報
開館日 - 3月20日から11月15日までの平日(要予約)
開館時間 - 10時から12時、13時から17時
入館料 - 無料
交通アクセス
東北自動車道水沢ICより車15分
岩手県交通バス江刺バスセンターより徒歩25分
旧用途 住宅
管理運営 奥州市観光物産協会江刺支所
延床面積 232.9 m2
所在地 〒023-1101
岩手県奥州市江刺岩谷堂町字向山
座標 北緯39度11分31秒 東経141度11分8秒
文化財 重要文化財
2023年08月06日
金龍寺(きんりゅうじ)は、茨城県龍ケ崎市にある曹洞宗の寺院
金龍寺(きんりゅうじ)は、茨城県龍ケ崎市にある曹洞宗の寺院。山号は太田山。本尊は釈迦如来。

歴史
応永年間(1394 - 1428年)、新田貞氏が祖先(祖父とも)の新田義貞追善のため、上野国新田荘金山(現・群馬県太田市)に創建した。なお、元亨元年(1321年)に新田義貞が天真自性を開山として創建したとの別伝もある。
その後、新田氏の末裔で一族の新田金山城主であった由良国繁が天正18年(1590年)、常陸国牛久(茨城県牛久市)に転封されると寺も同地に移転した。現在地に移ったのは寛文6年(1666年)のことである。江戸時代には多くの末寺を有していた。

文化財
重要文化財
絹本著色十六羅漢像

所在地 茨城県龍ケ崎市若柴町866
位置 北緯35度56分18.2秒 東経140度8分33.0秒
山号 太田山
宗旨 曹洞宗
本尊 釈迦如来

歴史
応永年間(1394 - 1428年)、新田貞氏が祖先(祖父とも)の新田義貞追善のため、上野国新田荘金山(現・群馬県太田市)に創建した。なお、元亨元年(1321年)に新田義貞が天真自性を開山として創建したとの別伝もある。
その後、新田氏の末裔で一族の新田金山城主であった由良国繁が天正18年(1590年)、常陸国牛久(茨城県牛久市)に転封されると寺も同地に移転した。現在地に移ったのは寛文6年(1666年)のことである。江戸時代には多くの末寺を有していた。

文化財
重要文化財
絹本著色十六羅漢像

所在地 茨城県龍ケ崎市若柴町866
位置 北緯35度56分18.2秒 東経140度8分33.0秒
山号 太田山
宗旨 曹洞宗
本尊 釈迦如来
2023年08月05日
尻屋埼灯台(しりやざきとうだい)は、青森県下北郡東通村の尻屋崎の突端に立つ白亜の灯台
尻屋埼灯台(しりやざきとうだい)は、青森県下北郡東通村の尻屋崎の突端に立つ白亜の灯台。国の重要文化財に指定され、日本の灯台50選に選ばれている。
「日本の灯台の父」と称されるブラントンによって設計された、二重のレンガ壁による複層構造の灯台となっている。周辺には寒立馬(かんだちめ)と呼ばれる馬が放牧されており、一帯は景勝地となっている。

付属施設
無線方位信号所
ディファレンシャルGPS局(2019年廃止)
GPS補正・テキストメッセージ方式の気象通報を実施していた。
船舶気象通報施設(灯台放送)
1670.5kHz(H3E)で龍飛埼灯台、尻屋埼灯台、松前ディファレンシャルGPS局、大間埼灯台、恵山岬灯台の気象通報業務を行っていた。
一般公開
4月下旬から11月上旬までの期間に限り一般公開され、上まで登ることができる(寄付金として、中学生以上の参観者から300円を原則徴収している)。

まぼろしの灯台
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)に米軍機の機銃掃射を受けて、当時勤務していた村尾常人標識技手が殉職した。翌1946年(昭和21年)、攻撃を受け破壊しつくされたはずの灯台が光を放ち、その目撃が相次いだ。謎の光のおかげで付近を航行中の漁船が遭難を免れたということもあった。人々は米軍の攻撃時に殉職した村尾標識技手の霊なのではないかと噂した。当時の灯台長が公文書「灯台の怪火について」を灯台局に報告した。同年8月に霧信号舎屋上に仮の灯りを点灯すると同時にこの現象は消えた。なお、灯台には銃撃の跡が今でも残る。
アクセス
むつバスターミナルより75分、1日3 - 6往復、1270円(11月 - 4月は見学施設閉鎖により徒歩で約30分手前の「尻屋」まで)
むつ市中心部より青森県道6号むつ尻屋崎線から東通村道尻屋灯台線に入る。
その他
尻屋崎沖は海洋交通の難所で、実際遭難事故も数多く起こっている。
霧信号所が日本で初めて設置された場所でもある。
かつて使われていた霧鐘は犬吠埼灯台の敷地内に保存されている。

航路標識番号
[国際標識番号] 1601 [M6630]
位置 北緯41度25分49.27秒 東経141度27分43.9秒
所在地 青森県下北郡東通村尻屋字尻屋崎1-1
塗色・構造 白色 塔形 レンガ造
レンズ 第2等フレネル式
灯質 単閃白光 毎10秒に1閃光
実効光度 530,000 cd
光達距離 18.5海里(約 34 km)
明弧 52度から3度まで
塔高 32.82 m (地上 - 塔頂)
灯火標高 45.70 m (平均海面 - 灯火)
初点灯 1876年(明治9年)10月20日
管轄 海上保安庁
第二管区海上保安本部
「日本の灯台の父」と称されるブラントンによって設計された、二重のレンガ壁による複層構造の灯台となっている。周辺には寒立馬(かんだちめ)と呼ばれる馬が放牧されており、一帯は景勝地となっている。

付属施設
無線方位信号所
ディファレンシャルGPS局(2019年廃止)
GPS補正・テキストメッセージ方式の気象通報を実施していた。
船舶気象通報施設(灯台放送)
1670.5kHz(H3E)で龍飛埼灯台、尻屋埼灯台、松前ディファレンシャルGPS局、大間埼灯台、恵山岬灯台の気象通報業務を行っていた。
一般公開
4月下旬から11月上旬までの期間に限り一般公開され、上まで登ることができる(寄付金として、中学生以上の参観者から300円を原則徴収している)。

まぼろしの灯台
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)に米軍機の機銃掃射を受けて、当時勤務していた村尾常人標識技手が殉職した。翌1946年(昭和21年)、攻撃を受け破壊しつくされたはずの灯台が光を放ち、その目撃が相次いだ。謎の光のおかげで付近を航行中の漁船が遭難を免れたということもあった。人々は米軍の攻撃時に殉職した村尾標識技手の霊なのではないかと噂した。当時の灯台長が公文書「灯台の怪火について」を灯台局に報告した。同年8月に霧信号舎屋上に仮の灯りを点灯すると同時にこの現象は消えた。なお、灯台には銃撃の跡が今でも残る。
アクセス
むつバスターミナルより75分、1日3 - 6往復、1270円(11月 - 4月は見学施設閉鎖により徒歩で約30分手前の「尻屋」まで)
むつ市中心部より青森県道6号むつ尻屋崎線から東通村道尻屋灯台線に入る。
その他
尻屋崎沖は海洋交通の難所で、実際遭難事故も数多く起こっている。
霧信号所が日本で初めて設置された場所でもある。
かつて使われていた霧鐘は犬吠埼灯台の敷地内に保存されている。

航路標識番号
[国際標識番号] 1601 [M6630]
位置 北緯41度25分49.27秒 東経141度27分43.9秒
所在地 青森県下北郡東通村尻屋字尻屋崎1-1
塗色・構造 白色 塔形 レンガ造
レンズ 第2等フレネル式
灯質 単閃白光 毎10秒に1閃光
実効光度 530,000 cd
光達距離 18.5海里(約 34 km)
明弧 52度から3度まで
塔高 32.82 m (地上 - 塔頂)
灯火標高 45.70 m (平均海面 - 灯火)
初点灯 1876年(明治9年)10月20日
管轄 海上保安庁
第二管区海上保安本部
2023年08月04日
古四王神社(こしおうじんじゃ)は、秋田県大仙市大曲字古四王際にある神社
古四王神社(こしおうじんじゃ)は、秋田県大仙市大曲字古四王際にある神社。本殿は重要文化財に指定されている。

古四王神社本殿
歴史
古四王神社本殿は、氏子総代の冨樫家の古文書によると、1570年(元亀元年) に領主戸沢氏が、孔雀城主である冨樫氏(冨樫左衛門太郎勝家)を奉行として建立したと伝えられる。1930年(昭和5年)に行われた文部省(現文部科学省)による解体修理の際に、軒の組物の中に「古川村 大工 甚兵衛」という墨書が発見され、現在の岐阜県飛騨市出身の大工・甚兵衛の作であることが判明した[1]。古四王神社本殿は1905年(明治38年)、文部省古社寺保存会嘱託で工学博士の伊東忠太(東京帝国大学教授)の調査を経て、1908年(明治41年)に当時の古社寺保存法に基づく「特別保護建造物」(文化財保護法下の「重要文化財」に相当)に指定された。秋田県では初の文化財指定建造物である。

祭神と神社の由来
祭神は『古事記』・『日本書紀』で北陸を平定したとされる大彦命(オオビコノミコト)と他五柱( 天照皇大神、豊受大神、建御名方命、八坂刀売命、水波女神)。コシオウという神社は、中部以北の日本海側に多く見られ、「胡四王」、「腰王」、「故将」などと書く社の例もあり、その由来については以下の説がある。
祭神である大彦命が高志(越)国(現在の北陸地方)の王であったからという高志王説。
秋田城を鎮護する四天王寺が神仏習合して鎮守となった四王堂の四王が、古四王に転訛したという四天王寺説などがある。
本社の由来は高志王説に基づく。
秋田県内では本社の他に、秋田市寺内、にかほ市象潟町、鹿角市八幡平に鎮座する。古代史研究家の新野直吉によると、『日本書紀』斉明天皇条にみえる秋田浦の神が北方遠征を行った阿倍比羅夫と接触し,北陸の神高志(越)王と結合したと推測している。また、祭神の一つである大彦命の北陸平定神話から、本社には勝負事の利益を求めて参詣する人もいる。

本殿の特色
室町時代末期の作で、材質は杉・松・桧・栗などが適所に使用されている。和様・禅宗様(唐様)・大仏様(天竺様)などの各様式を採り入れた折衷様で、地方色も採り入れているのが特徴である。向拝の側面上にある藤唐草の彫刻や、木目を利用した一木造りの擬宝珠など、細部に様々な手法が施されている。また、通常神社は南か東を向いているものが多いが、古四王神社は北を向いている場合が多く、古四王神社崇敬については、武神との関わりから、古代の蝦夷支配との関係を指摘する声もある。当時、美術建築の権威であった伊東忠太(東京帝国大学教授)は「奇中の奇、珍中の珍」と感嘆し、後に建築史家の天沼俊一(京都帝国大学教授)も「和(日本)・唐(中国)・天(インド)を超越した天下一品の建物」と絶賛した。
行事
恒例の神事は9月8日(例大祭)、5月8日(戸開)と12月8日(戸閉)があり、12月31日から元旦にかけて正月行事が行われる。例大祭では神楽、獅子舞、刀舞、梵天の奉納が行われるほか、本殿の御開帳やライトアップが行われる。また、文化財防火デーに因んで1月には古四王神社文化財防火デー・古四王堂火消しもちまつりが行われる。防火訓練では、地元の消防団の他、東大曲小学校児童らも活躍し、続いて行われる火消しもちまつりでは、雪中田植え、天筆焼、もちつきが行われる。
所在地 秋田県大仙市大曲字古四王際30
位置 北緯39度26分17.1秒 東経140度29分57.0秒
主祭神 大彦命
天照皇大神
豊受大神
建御名方命
八坂刀売命
水波女神
社格等 神饌幣帛料供進神社
創建 伝1570年(元亀元年)
本殿の様式 一間社入母屋造
例祭 9月8日

古四王神社本殿
歴史
古四王神社本殿は、氏子総代の冨樫家の古文書によると、1570年(元亀元年) に領主戸沢氏が、孔雀城主である冨樫氏(冨樫左衛門太郎勝家)を奉行として建立したと伝えられる。1930年(昭和5年)に行われた文部省(現文部科学省)による解体修理の際に、軒の組物の中に「古川村 大工 甚兵衛」という墨書が発見され、現在の岐阜県飛騨市出身の大工・甚兵衛の作であることが判明した[1]。古四王神社本殿は1905年(明治38年)、文部省古社寺保存会嘱託で工学博士の伊東忠太(東京帝国大学教授)の調査を経て、1908年(明治41年)に当時の古社寺保存法に基づく「特別保護建造物」(文化財保護法下の「重要文化財」に相当)に指定された。秋田県では初の文化財指定建造物である。

祭神と神社の由来
祭神は『古事記』・『日本書紀』で北陸を平定したとされる大彦命(オオビコノミコト)と他五柱( 天照皇大神、豊受大神、建御名方命、八坂刀売命、水波女神)。コシオウという神社は、中部以北の日本海側に多く見られ、「胡四王」、「腰王」、「故将」などと書く社の例もあり、その由来については以下の説がある。
祭神である大彦命が高志(越)国(現在の北陸地方)の王であったからという高志王説。
秋田城を鎮護する四天王寺が神仏習合して鎮守となった四王堂の四王が、古四王に転訛したという四天王寺説などがある。
本社の由来は高志王説に基づく。
秋田県内では本社の他に、秋田市寺内、にかほ市象潟町、鹿角市八幡平に鎮座する。古代史研究家の新野直吉によると、『日本書紀』斉明天皇条にみえる秋田浦の神が北方遠征を行った阿倍比羅夫と接触し,北陸の神高志(越)王と結合したと推測している。また、祭神の一つである大彦命の北陸平定神話から、本社には勝負事の利益を求めて参詣する人もいる。

本殿の特色
室町時代末期の作で、材質は杉・松・桧・栗などが適所に使用されている。和様・禅宗様(唐様)・大仏様(天竺様)などの各様式を採り入れた折衷様で、地方色も採り入れているのが特徴である。向拝の側面上にある藤唐草の彫刻や、木目を利用した一木造りの擬宝珠など、細部に様々な手法が施されている。また、通常神社は南か東を向いているものが多いが、古四王神社は北を向いている場合が多く、古四王神社崇敬については、武神との関わりから、古代の蝦夷支配との関係を指摘する声もある。当時、美術建築の権威であった伊東忠太(東京帝国大学教授)は「奇中の奇、珍中の珍」と感嘆し、後に建築史家の天沼俊一(京都帝国大学教授)も「和(日本)・唐(中国)・天(インド)を超越した天下一品の建物」と絶賛した。
行事
恒例の神事は9月8日(例大祭)、5月8日(戸開)と12月8日(戸閉)があり、12月31日から元旦にかけて正月行事が行われる。例大祭では神楽、獅子舞、刀舞、梵天の奉納が行われるほか、本殿の御開帳やライトアップが行われる。また、文化財防火デーに因んで1月には古四王神社文化財防火デー・古四王堂火消しもちまつりが行われる。防火訓練では、地元の消防団の他、東大曲小学校児童らも活躍し、続いて行われる火消しもちまつりでは、雪中田植え、天筆焼、もちつきが行われる。
所在地 秋田県大仙市大曲字古四王際30
位置 北緯39度26分17.1秒 東経140度29分57.0秒
主祭神 大彦命
天照皇大神
豊受大神
建御名方命
八坂刀売命
水波女神
社格等 神饌幣帛料供進神社
創建 伝1570年(元亀元年)
本殿の様式 一間社入母屋造
例祭 9月8日
2023年08月03日
倶利迦羅不動寺(くりからふどうじ)は、石川県河北郡津幡町倶利伽羅にある高野山真言宗の別格本山
倶利迦羅不動寺(くりからふどうじ)は、石川県河北郡津幡町倶利伽羅にある高野山真言宗の別格本山である。本尊は倶利迦羅不動明王。

倶利迦羅不動寺 開山1300年 春のご開帳
概要
倶利迦羅とはサンスクリット語の「kulihah」に由来する。「福徳円満の黒い龍」を意味し、剣に黒龍が巻き付いた本尊の名前から倶利迦羅山と呼ばれるようになった。
歴史
養老2年(718年)、倶利迦羅不動明王を、元正天皇の勅願により奉安された事が始まりと伝えられている。
弘仁2年(812年)、空海(弘法大師)が本尊と同体の不動尊像を彫り、別当山として長楽寺が開山。
昭和24年(1949年)、長楽寺跡に堂宇が再建され、倶利伽羅不動寺として復興。

文化財
絵画
羅漢像:津幡町指定文化財
十一面観世音菩薩像:津幡町指定文化財
古文書
頼朝下文:津幡町指定文化財
史跡
七野墳墓群(2・3・4号墓):津幡町史跡

アクセス
山頂本堂
IRいしかわ鉄道 津幡駅から車で20分
北陸自動車道 小矢部ICから車で20分
北陸自動車道 金沢東ICから車で40分
鳳凰殿
IRいしかわ鉄道 津幡駅から車で15分
北陸自動車道 小矢部ICから車で30分
北陸自動車道 金沢東ICから車で30分
所在地 (山頂本堂)石川県河北郡津幡町倶利伽羅リ-2
(鳳凰殿)石川県河北郡津幡町竹橋ク128
位置 北緯36度39分48.7秒 東経136度48分56.1秒
山号 高野山
宗派 高野山真言宗
寺格 別格本山
本尊 倶利迦羅不動明王
開山 812年
正式名 高野山真言宗 別格本山 倶利迦羅山不動寺
札所等 (山頂本堂)北陸不動霊場 第24番
(山頂本堂)北陸白寿観音霊場 第18番
(鳳凰殿)北陸三十三ヵ所観音霊場 特番

倶利迦羅不動寺 開山1300年 春のご開帳
概要
倶利迦羅とはサンスクリット語の「kulihah」に由来する。「福徳円満の黒い龍」を意味し、剣に黒龍が巻き付いた本尊の名前から倶利迦羅山と呼ばれるようになった。
歴史
養老2年(718年)、倶利迦羅不動明王を、元正天皇の勅願により奉安された事が始まりと伝えられている。
弘仁2年(812年)、空海(弘法大師)が本尊と同体の不動尊像を彫り、別当山として長楽寺が開山。
昭和24年(1949年)、長楽寺跡に堂宇が再建され、倶利伽羅不動寺として復興。

文化財
絵画
羅漢像:津幡町指定文化財
十一面観世音菩薩像:津幡町指定文化財
古文書
頼朝下文:津幡町指定文化財
史跡
七野墳墓群(2・3・4号墓):津幡町史跡

アクセス
山頂本堂
IRいしかわ鉄道 津幡駅から車で20分
北陸自動車道 小矢部ICから車で20分
北陸自動車道 金沢東ICから車で40分
鳳凰殿
IRいしかわ鉄道 津幡駅から車で15分
北陸自動車道 小矢部ICから車で30分
北陸自動車道 金沢東ICから車で30分
所在地 (山頂本堂)石川県河北郡津幡町倶利伽羅リ-2
(鳳凰殿)石川県河北郡津幡町竹橋ク128
位置 北緯36度39分48.7秒 東経136度48分56.1秒
山号 高野山
宗派 高野山真言宗
寺格 別格本山
本尊 倶利迦羅不動明王
開山 812年
正式名 高野山真言宗 別格本山 倶利迦羅山不動寺
札所等 (山頂本堂)北陸不動霊場 第24番
(山頂本堂)北陸白寿観音霊場 第18番
(鳳凰殿)北陸三十三ヵ所観音霊場 特番
2023年08月02日
松本城(まつもとじょう)は、長野県松本市(旧・信濃国筑摩郡[注 1]筑摩野松本)にある日本の城
松本城(まつもとじょう)は、長野県松本市(旧・信濃国筑摩郡筑摩野松本)にある日本の城である。松本城と呼ばれる以前は深志城(ふかしじょう)といった。
天守は安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された現存天守の一つとして国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されている。天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は姫路城、犬山城、彦根城、松江城)。

歴史
近世以前
戦国時代の永正年間(1504-1520年)に、信濃守護家小笠原氏(府中小笠原氏)が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりといわれている。
天文年間には甲斐国の武田氏による信濃侵攻が開始され、1550年8月27日(天文19年7月15日)には林城・深志城などが落城し、信濃守護・小笠原長時は追放された(『高白斎記』)。武田氏は林城を破却して深志城代として馬場信春を配置し、松本盆地を支配下に置いた。その後は信濃小県郡の村上義清、越後国の長尾景虎(上杉謙信)と抗争し、北信濃に至る信濃一帯を領国化した。
1582年(天正10年)、甲州征伐に伴う武田氏滅亡により城代馬場昌房から織田長益に明け渡された後、織田信長によって木曾義昌に安堵された。本能寺の変後の武田遺領を巡る天正壬午の乱において、同年6月には越後の上杉景勝に擁立され、小笠原旧臣の助力を得た小笠原洞雪斎が奪還。さらに徳川家康の麾下となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城と改名した。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、徳川家の関東移封が行われ、当時の松本城主小笠原秀政も下総国古河へと移った。代わりに石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行う。石川数正は徳川家を出奔して秀吉の下へ走った経緯があり、天守の築城は関東を領した家康に対する牽制・防衛のためだといわれている。
その後、家康が江戸幕府を創始。江戸時代初期には大久保長安事件により石川康長が改易となり、小笠原秀政が再び入城。大坂の陣以後は、松平康長や水野家などの松本藩の藩庁として機能した。水野家の後は松平康長に始まる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした。
1686年 貞享騒動(じょうきょうそうどう)が起きる。農不作のうえ過酷な年貢に多くの農民が苦しみ、身を挺して多田加助とその同志たちが郡奉行に訴え出た。やがて松本城を農民が万余りに取り囲む騒動に発展した。沈静化のために訴えを家老達が聞き入れたが、沈静化した後、家老が聞き入れた覚え書きを取り上げられ、加助とその同志の子弟も含め28名、翌年年明けに処刑されてしまう。
1727年(享保12年)には本丸御殿が焼失、以後の政務は二の丸で執られた。

構造
典型的な平城。本丸、二の丸、三の丸ともほぼ方形に整地されている。南西部に天守を置いた本丸を、北部を欠いた凹型の二の丸が囲み、さらにそれを四方から三の丸が囲むという、梯郭式に輪郭式を加えた縄張りである。これらは全て水堀により隔てられている。現存12天守の中では唯一の平城である。
天守
5重6階の天守を中心にし、大天守北面に乾小天守を渡櫓で連結し、東面に辰巳附櫓・月見櫓を複合した複合連結式天守である。大天守は、初重に袴形の石落としを付け、窓は突上窓、破風は2重目南北面と3重目東西面に千鳥破風、3重目南北面に向唐破風の出窓を付けている。辰巳附櫓・月見櫓は、第3代将軍徳川家光が長野の善光寺に参拝する途中で、松本に立ち寄るという内意を受けたため、当時の藩主松平直政が建てた。赤い欄干を配して、風雅な雰囲気を持つ。家光の善光寺参拝は中止になったが、天守に付属する月見櫓としては唯一の遺構となった。
大天守は構造的には望楼型天守から層塔型天守への過渡期的な性格が見られ、2重目の屋根は天守台の歪みを入母屋(大屋根)で調整する望楼型の内部構造を持ちながら、外見は入母屋を設けず強引に寄棟を形成している。ただ、強引とはいえ外見的には層塔型の形状を成立させているため、各重の屋根の隅は様々な方向を向いており、松本城天守の特徴の一つとなっている。3階の、低い天井に窓のない特殊な空間が生まれたのはこのためで、パンフレットなどでは「秘密の階」と説明されているが、構造上は2重の上に生じた大屋根構造の名残りともいえる屋根裏的な空間を階として用いたことによるものである。内部は最上階(6階)の他に4階を白壁造りにするなど、ある程度の居住性が考慮されている。外壁は初重から最上重まで黒塗の下見板が張られており、この黒の原料は1950年(昭和25年)の修理工事着工までは墨によるものであったが、解体修理の際に漆塗りの痕跡が見つかったことから、修理工事が竣工した1955年(昭和30年)以降は黒漆塗りとなっている。乾小天守も構造的特徴は大天守と同様であるが、最上階に華頭窓が開けられている。

現地情報
所在地
長野県松本市丸の内4-1
交通アクセス
徒歩
JR篠ノ井線・大糸線、アルピコ交通上高地線(通称・松本電鉄) 松本駅(東口(お城口))から約20分。
JR大糸線 北松本駅(東口(お城口))から約7分。
バス
松本駅バス停から、松本電鉄バスタウンスニーカー北コースで約10分、「松本城黒門」バス停下車。
松本バスターミナルから、松本電鉄バス浅間温泉行きなどで約10分、「大名町」バス停下車。
自動車
松本インターチェンジから車で15分。


別名 深志城
城郭構造 梯郭式+輪郭式平城
天守構造 連結式望楼型(1593年頃か)
複合連結式層塔型5重6階(1633年改)
築城主 小笠原貞朝、石川数正・康長父子
築城年 1504年(永正元年)
主な改修者 松平直政
主な城主 山川氏、石川氏、松平氏
堀田氏、水野氏、松平氏(戸田氏)
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 現存天守、石垣、土塁、堀、二の丸土蔵
指定文化財 国宝(天守)
国の史跡
再建造物 黒門、太鼓門
位置 北緯36度14分20.76秒 東経137度58分8.83秒
天守は安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された現存天守の一つとして国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されている。天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は姫路城、犬山城、彦根城、松江城)。

歴史
近世以前
戦国時代の永正年間(1504-1520年)に、信濃守護家小笠原氏(府中小笠原氏)が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりといわれている。
天文年間には甲斐国の武田氏による信濃侵攻が開始され、1550年8月27日(天文19年7月15日)には林城・深志城などが落城し、信濃守護・小笠原長時は追放された(『高白斎記』)。武田氏は林城を破却して深志城代として馬場信春を配置し、松本盆地を支配下に置いた。その後は信濃小県郡の村上義清、越後国の長尾景虎(上杉謙信)と抗争し、北信濃に至る信濃一帯を領国化した。
1582年(天正10年)、甲州征伐に伴う武田氏滅亡により城代馬場昌房から織田長益に明け渡された後、織田信長によって木曾義昌に安堵された。本能寺の変後の武田遺領を巡る天正壬午の乱において、同年6月には越後の上杉景勝に擁立され、小笠原旧臣の助力を得た小笠原洞雪斎が奪還。さらに徳川家康の麾下となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城と改名した。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、徳川家の関東移封が行われ、当時の松本城主小笠原秀政も下総国古河へと移った。代わりに石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行う。石川数正は徳川家を出奔して秀吉の下へ走った経緯があり、天守の築城は関東を領した家康に対する牽制・防衛のためだといわれている。
その後、家康が江戸幕府を創始。江戸時代初期には大久保長安事件により石川康長が改易となり、小笠原秀政が再び入城。大坂の陣以後は、松平康長や水野家などの松本藩の藩庁として機能した。水野家の後は松平康長に始まる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした。
1686年 貞享騒動(じょうきょうそうどう)が起きる。農不作のうえ過酷な年貢に多くの農民が苦しみ、身を挺して多田加助とその同志たちが郡奉行に訴え出た。やがて松本城を農民が万余りに取り囲む騒動に発展した。沈静化のために訴えを家老達が聞き入れたが、沈静化した後、家老が聞き入れた覚え書きを取り上げられ、加助とその同志の子弟も含め28名、翌年年明けに処刑されてしまう。
1727年(享保12年)には本丸御殿が焼失、以後の政務は二の丸で執られた。

構造
典型的な平城。本丸、二の丸、三の丸ともほぼ方形に整地されている。南西部に天守を置いた本丸を、北部を欠いた凹型の二の丸が囲み、さらにそれを四方から三の丸が囲むという、梯郭式に輪郭式を加えた縄張りである。これらは全て水堀により隔てられている。現存12天守の中では唯一の平城である。
天守
5重6階の天守を中心にし、大天守北面に乾小天守を渡櫓で連結し、東面に辰巳附櫓・月見櫓を複合した複合連結式天守である。大天守は、初重に袴形の石落としを付け、窓は突上窓、破風は2重目南北面と3重目東西面に千鳥破風、3重目南北面に向唐破風の出窓を付けている。辰巳附櫓・月見櫓は、第3代将軍徳川家光が長野の善光寺に参拝する途中で、松本に立ち寄るという内意を受けたため、当時の藩主松平直政が建てた。赤い欄干を配して、風雅な雰囲気を持つ。家光の善光寺参拝は中止になったが、天守に付属する月見櫓としては唯一の遺構となった。
大天守は構造的には望楼型天守から層塔型天守への過渡期的な性格が見られ、2重目の屋根は天守台の歪みを入母屋(大屋根)で調整する望楼型の内部構造を持ちながら、外見は入母屋を設けず強引に寄棟を形成している。ただ、強引とはいえ外見的には層塔型の形状を成立させているため、各重の屋根の隅は様々な方向を向いており、松本城天守の特徴の一つとなっている。3階の、低い天井に窓のない特殊な空間が生まれたのはこのためで、パンフレットなどでは「秘密の階」と説明されているが、構造上は2重の上に生じた大屋根構造の名残りともいえる屋根裏的な空間を階として用いたことによるものである。内部は最上階(6階)の他に4階を白壁造りにするなど、ある程度の居住性が考慮されている。外壁は初重から最上重まで黒塗の下見板が張られており、この黒の原料は1950年(昭和25年)の修理工事着工までは墨によるものであったが、解体修理の際に漆塗りの痕跡が見つかったことから、修理工事が竣工した1955年(昭和30年)以降は黒漆塗りとなっている。乾小天守も構造的特徴は大天守と同様であるが、最上階に華頭窓が開けられている。

現地情報
所在地
長野県松本市丸の内4-1
交通アクセス
徒歩
JR篠ノ井線・大糸線、アルピコ交通上高地線(通称・松本電鉄) 松本駅(東口(お城口))から約20分。
JR大糸線 北松本駅(東口(お城口))から約7分。
バス
松本駅バス停から、松本電鉄バスタウンスニーカー北コースで約10分、「松本城黒門」バス停下車。
松本バスターミナルから、松本電鉄バス浅間温泉行きなどで約10分、「大名町」バス停下車。
自動車
松本インターチェンジから車で15分。


別名 深志城
城郭構造 梯郭式+輪郭式平城
天守構造 連結式望楼型(1593年頃か)
複合連結式層塔型5重6階(1633年改)
築城主 小笠原貞朝、石川数正・康長父子
築城年 1504年(永正元年)
主な改修者 松平直政
主な城主 山川氏、石川氏、松平氏
堀田氏、水野氏、松平氏(戸田氏)
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 現存天守、石垣、土塁、堀、二の丸土蔵
指定文化財 国宝(天守)
国の史跡
再建造物 黒門、太鼓門
位置 北緯36度14分20.76秒 東経137度58分8.83秒
2023年08月01日
気多神社(けたじんじゃ)は、富山県高岡市伏木一宮にある神社
気多神社(けたじんじゃ)は、富山県高岡市伏木一宮にある神社。式内社(名神大社または小社)、越中国一宮。旧社格は県社。
所在地の高岡市伏木は、かつて国府や国分寺が存在した越中国の中心地で、当神社境内にも越中国総社跡の伝承地がある。越中国内で一宮を称する4社のうちで唯一、所在地名に「一宮」と言う銘号が入っている。

気多神社 (高岡市) 社殿
祭神
主祭神
大己貴命(おおなむちのみこと)
奴奈加波比売命(ぬなかわひめのみこと)
配神
菊理姫命(くくりひめのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)

境内入り口
境内
主要社殿のうち本殿は、三間社流造。木割りが大きく、虹梁・拳鼻・手挟[13]の手法が室町時代の特質を残しているとして、国の重要文化財に指定されている。
その他、本殿前方に拝殿、本殿横に大伴家持を祀る大伴神社、本殿から北東に越中総社跡伝承地などがある。

本殿(国の重要文化財)
主な祭事
毎年4月18日に気多神社奉賛会と春季例大祭(一宮青年団による)が行われている。春季例大祭では高岡市無形民俗文化財の「にらみ獅子」が奉納されるほか、2022年からは約30年ぶりに奉幣使出立(ほうへいししゅったつ)の儀の巡行が復活した。
文化財
重要文化財(国指定)
本殿(建造物) - 1931年(昭和6年)1月19日指定。
高岡市指定文化財
有形文化財
木造狛犬 1対(彫刻) - 1961年(昭和36年)3月27日指定。
無形民俗文化財
氣多神社のにらみ獅子 - 1996年(平成8年)12月4日指定。

拝殿
現地情報
所在地
富山県高岡市伏木一宮1-10-1
交通アクセス
最寄駅:JR西日本氷見線 越中国分駅(徒歩約15分)
高岡駅前(高岡駅古城公園口)4番のりばもしくは新高岡駅2番のりばより加越能バス(高岡ふしき病院経由氷見市民病院行き、東回り伏木循環、西回り伏木循環)に乗り、「伏木一の宮」下車(徒歩約8分)
所在地の高岡市伏木は、かつて国府や国分寺が存在した越中国の中心地で、当神社境内にも越中国総社跡の伝承地がある。越中国内で一宮を称する4社のうちで唯一、所在地名に「一宮」と言う銘号が入っている。

気多神社 (高岡市) 社殿
祭神
主祭神
大己貴命(おおなむちのみこと)
奴奈加波比売命(ぬなかわひめのみこと)
配神
菊理姫命(くくりひめのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)

境内入り口
境内
主要社殿のうち本殿は、三間社流造。木割りが大きく、虹梁・拳鼻・手挟[13]の手法が室町時代の特質を残しているとして、国の重要文化財に指定されている。
その他、本殿前方に拝殿、本殿横に大伴家持を祀る大伴神社、本殿から北東に越中総社跡伝承地などがある。

本殿(国の重要文化財)
主な祭事
毎年4月18日に気多神社奉賛会と春季例大祭(一宮青年団による)が行われている。春季例大祭では高岡市無形民俗文化財の「にらみ獅子」が奉納されるほか、2022年からは約30年ぶりに奉幣使出立(ほうへいししゅったつ)の儀の巡行が復活した。
文化財
重要文化財(国指定)
本殿(建造物) - 1931年(昭和6年)1月19日指定。
高岡市指定文化財
有形文化財
木造狛犬 1対(彫刻) - 1961年(昭和36年)3月27日指定。
無形民俗文化財
氣多神社のにらみ獅子 - 1996年(平成8年)12月4日指定。

拝殿
現地情報
所在地
富山県高岡市伏木一宮1-10-1
交通アクセス
最寄駅:JR西日本氷見線 越中国分駅(徒歩約15分)
高岡駅前(高岡駅古城公園口)4番のりばもしくは新高岡駅2番のりばより加越能バス(高岡ふしき病院経由氷見市民病院行き、東回り伏木循環、西回り伏木循環)に乗り、「伏木一の宮」下車(徒歩約8分)
2023年07月31日
河本家住宅(かわもとけじゅうたく)は鳥取県東伯郡琴浦町にある古民家
河本家住宅(かわもとけじゅうたく)は鳥取県東伯郡琴浦町にある古民家。

概要
江戸時代に伯耆国八橋郡の大庄屋であった河本家の屋敷として建てられた旧家。 1978年(昭和53年)の調査において、主屋(居室部)が建築されたのは1688年(貞享5年)、5代目河本弥三右衛門の時代であったことが判明した。
主屋は居室部と客間部に分かれる。居室部は寄棟造、茅葺で、東半を土間、西半を床上部とし、前述のとおり貞享5年(1688年)の建築である。その西に接続する客間部は宝永4年(1707年)の増築で、切妻造、瓦葺。客間部西端に位置する奥の間は床(とこ)、棚、付書院を設けた書院造風の座敷とする。敷地内には他にも江戸時代建立の土蔵等の付属建物が残り、近世の屋敷構えが良好に保存されている。主屋は17世紀にさかのぼり、山陰地方の民家建築で建築年代の明らかなものとしては最古に属する。付属建物もそれぞれ建立時期が明らかである。
1974年(昭和49年)3月29日に鳥取県の保護文化財、1996年(平成8年)に県民の建物100選に選定され、2010年(平成22年)12月24日に主屋など建造物5棟と宅地が国の重要文化財に指定された。

文化財指定
以下の建造物5棟及び土地が国の重要文化財に指定されている。
主屋 居室部 - 貞享5年(1688年)、客間部 - 宝永4年(1707年)
離れ 文政3年(1820年)
味噌蔵及び米蔵 文化3年(1820年)
新蔵 天保13年(1842年)
土蔵 安永8年(1779年)
宅地 6,325.47平方メートル
以下は重要文化財の附(つけたり)指定物件
門及び納屋 江戸末期
米蔵 明治8年(1875年)
大工小屋 明治16年(1883年)
家相図1枚 嘉永7年(1854年)

所在地 鳥取県東伯郡琴浦町篦津393
位置 北緯35度30分56.3秒 東経133度36分56.1秒
類型 庄屋家屋
形式・構造 (主屋)木造、寄棟造、茅葺
建築年 貞享5年(1688年)
文化財 国の重要文化財、県民の建物100選

概要
江戸時代に伯耆国八橋郡の大庄屋であった河本家の屋敷として建てられた旧家。 1978年(昭和53年)の調査において、主屋(居室部)が建築されたのは1688年(貞享5年)、5代目河本弥三右衛門の時代であったことが判明した。
主屋は居室部と客間部に分かれる。居室部は寄棟造、茅葺で、東半を土間、西半を床上部とし、前述のとおり貞享5年(1688年)の建築である。その西に接続する客間部は宝永4年(1707年)の増築で、切妻造、瓦葺。客間部西端に位置する奥の間は床(とこ)、棚、付書院を設けた書院造風の座敷とする。敷地内には他にも江戸時代建立の土蔵等の付属建物が残り、近世の屋敷構えが良好に保存されている。主屋は17世紀にさかのぼり、山陰地方の民家建築で建築年代の明らかなものとしては最古に属する。付属建物もそれぞれ建立時期が明らかである。
1974年(昭和49年)3月29日に鳥取県の保護文化財、1996年(平成8年)に県民の建物100選に選定され、2010年(平成22年)12月24日に主屋など建造物5棟と宅地が国の重要文化財に指定された。

文化財指定
以下の建造物5棟及び土地が国の重要文化財に指定されている。
主屋 居室部 - 貞享5年(1688年)、客間部 - 宝永4年(1707年)
離れ 文政3年(1820年)
味噌蔵及び米蔵 文化3年(1820年)
新蔵 天保13年(1842年)
土蔵 安永8年(1779年)
宅地 6,325.47平方メートル
以下は重要文化財の附(つけたり)指定物件
門及び納屋 江戸末期
米蔵 明治8年(1875年)
大工小屋 明治16年(1883年)
家相図1枚 嘉永7年(1854年)

所在地 鳥取県東伯郡琴浦町篦津393
位置 北緯35度30分56.3秒 東経133度36分56.1秒
類型 庄屋家屋
形式・構造 (主屋)木造、寄棟造、茅葺
建築年 貞享5年(1688年)
文化財 国の重要文化財、県民の建物100選