倶利迦羅不動寺(くりからふどうじ)は、石川県河北郡津幡町倶利伽羅にある高野山真言宗の別格本山である。本尊は倶利迦羅不動明王。
倶利迦羅不動寺 開山1300年 春のご開帳
概要
倶利迦羅とはサンスクリット語の「kulihah」に由来する。「福徳円満の黒い龍」を意味し、剣に黒龍が巻き付いた本尊の名前から倶利迦羅山と呼ばれるようになった。
歴史
養老2年(718年)、倶利迦羅不動明王を、元正天皇の勅願により奉安された事が始まりと伝えられている。
弘仁2年(812年)、空海(弘法大師)が本尊と同体の不動尊像を彫り、別当山として長楽寺が開山。
昭和24年(1949年)、長楽寺跡に堂宇が再建され、倶利伽羅不動寺として復興。
文化財
絵画
羅漢像:津幡町指定文化財
十一面観世音菩薩像:津幡町指定文化財
古文書
頼朝下文:津幡町指定文化財
史跡
七野墳墓群(2・3・4号墓):津幡町史跡
アクセス
山頂本堂
IRいしかわ鉄道 津幡駅から車で20分
北陸自動車道 小矢部ICから車で20分
北陸自動車道 金沢東ICから車で40分
鳳凰殿
IRいしかわ鉄道 津幡駅から車で15分
北陸自動車道 小矢部ICから車で30分
北陸自動車道 金沢東ICから車で30分
所在地 (山頂本堂)石川県河北郡津幡町倶利伽羅リ-2
(鳳凰殿)石川県河北郡津幡町竹橋ク128
位置 北緯36度39分48.7秒 東経136度48分56.1秒
山号 高野山
宗派 高野山真言宗
寺格 別格本山
本尊 倶利迦羅不動明王
開山 812年
正式名 高野山真言宗 別格本山 倶利迦羅山不動寺
札所等 (山頂本堂)北陸不動霊場 第24番
(山頂本堂)北陸白寿観音霊場 第18番
(鳳凰殿)北陸三十三ヵ所観音霊場 特番
2023年08月03日
2023年08月02日
松本城(まつもとじょう)は、長野県松本市(旧・信濃国筑摩郡[注 1]筑摩野松本)にある日本の城
松本城(まつもとじょう)は、長野県松本市(旧・信濃国筑摩郡筑摩野松本)にある日本の城である。松本城と呼ばれる以前は深志城(ふかしじょう)といった。
天守は安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された現存天守の一つとして国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されている。天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は姫路城、犬山城、彦根城、松江城)。
歴史
近世以前
戦国時代の永正年間(1504-1520年)に、信濃守護家小笠原氏(府中小笠原氏)が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりといわれている。
天文年間には甲斐国の武田氏による信濃侵攻が開始され、1550年8月27日(天文19年7月15日)には林城・深志城などが落城し、信濃守護・小笠原長時は追放された(『高白斎記』)。武田氏は林城を破却して深志城代として馬場信春を配置し、松本盆地を支配下に置いた。その後は信濃小県郡の村上義清、越後国の長尾景虎(上杉謙信)と抗争し、北信濃に至る信濃一帯を領国化した。
1582年(天正10年)、甲州征伐に伴う武田氏滅亡により城代馬場昌房から織田長益に明け渡された後、織田信長によって木曾義昌に安堵された。本能寺の変後の武田遺領を巡る天正壬午の乱において、同年6月には越後の上杉景勝に擁立され、小笠原旧臣の助力を得た小笠原洞雪斎が奪還。さらに徳川家康の麾下となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城と改名した。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、徳川家の関東移封が行われ、当時の松本城主小笠原秀政も下総国古河へと移った。代わりに石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行う。石川数正は徳川家を出奔して秀吉の下へ走った経緯があり、天守の築城は関東を領した家康に対する牽制・防衛のためだといわれている。
その後、家康が江戸幕府を創始。江戸時代初期には大久保長安事件により石川康長が改易となり、小笠原秀政が再び入城。大坂の陣以後は、松平康長や水野家などの松本藩の藩庁として機能した。水野家の後は松平康長に始まる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした。
1686年 貞享騒動(じょうきょうそうどう)が起きる。農不作のうえ過酷な年貢に多くの農民が苦しみ、身を挺して多田加助とその同志たちが郡奉行に訴え出た。やがて松本城を農民が万余りに取り囲む騒動に発展した。沈静化のために訴えを家老達が聞き入れたが、沈静化した後、家老が聞き入れた覚え書きを取り上げられ、加助とその同志の子弟も含め28名、翌年年明けに処刑されてしまう。
1727年(享保12年)には本丸御殿が焼失、以後の政務は二の丸で執られた。
構造
典型的な平城。本丸、二の丸、三の丸ともほぼ方形に整地されている。南西部に天守を置いた本丸を、北部を欠いた凹型の二の丸が囲み、さらにそれを四方から三の丸が囲むという、梯郭式に輪郭式を加えた縄張りである。これらは全て水堀により隔てられている。現存12天守の中では唯一の平城である。
天守
5重6階の天守を中心にし、大天守北面に乾小天守を渡櫓で連結し、東面に辰巳附櫓・月見櫓を複合した複合連結式天守である。大天守は、初重に袴形の石落としを付け、窓は突上窓、破風は2重目南北面と3重目東西面に千鳥破風、3重目南北面に向唐破風の出窓を付けている。辰巳附櫓・月見櫓は、第3代将軍徳川家光が長野の善光寺に参拝する途中で、松本に立ち寄るという内意を受けたため、当時の藩主松平直政が建てた。赤い欄干を配して、風雅な雰囲気を持つ。家光の善光寺参拝は中止になったが、天守に付属する月見櫓としては唯一の遺構となった。
大天守は構造的には望楼型天守から層塔型天守への過渡期的な性格が見られ、2重目の屋根は天守台の歪みを入母屋(大屋根)で調整する望楼型の内部構造を持ちながら、外見は入母屋を設けず強引に寄棟を形成している。ただ、強引とはいえ外見的には層塔型の形状を成立させているため、各重の屋根の隅は様々な方向を向いており、松本城天守の特徴の一つとなっている。3階の、低い天井に窓のない特殊な空間が生まれたのはこのためで、パンフレットなどでは「秘密の階」と説明されているが、構造上は2重の上に生じた大屋根構造の名残りともいえる屋根裏的な空間を階として用いたことによるものである。内部は最上階(6階)の他に4階を白壁造りにするなど、ある程度の居住性が考慮されている。外壁は初重から最上重まで黒塗の下見板が張られており、この黒の原料は1950年(昭和25年)の修理工事着工までは墨によるものであったが、解体修理の際に漆塗りの痕跡が見つかったことから、修理工事が竣工した1955年(昭和30年)以降は黒漆塗りとなっている。乾小天守も構造的特徴は大天守と同様であるが、最上階に華頭窓が開けられている。
現地情報
所在地
長野県松本市丸の内4-1
交通アクセス
徒歩
JR篠ノ井線・大糸線、アルピコ交通上高地線(通称・松本電鉄) 松本駅(東口(お城口))から約20分。
JR大糸線 北松本駅(東口(お城口))から約7分。
バス
松本駅バス停から、松本電鉄バスタウンスニーカー北コースで約10分、「松本城黒門」バス停下車。
松本バスターミナルから、松本電鉄バス浅間温泉行きなどで約10分、「大名町」バス停下車。
自動車
松本インターチェンジから車で15分。
別名 深志城
城郭構造 梯郭式+輪郭式平城
天守構造 連結式望楼型(1593年頃か)
複合連結式層塔型5重6階(1633年改)
築城主 小笠原貞朝、石川数正・康長父子
築城年 1504年(永正元年)
主な改修者 松平直政
主な城主 山川氏、石川氏、松平氏
堀田氏、水野氏、松平氏(戸田氏)
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 現存天守、石垣、土塁、堀、二の丸土蔵
指定文化財 国宝(天守)
国の史跡
再建造物 黒門、太鼓門
位置 北緯36度14分20.76秒 東経137度58分8.83秒
天守は安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された現存天守の一つとして国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されている。天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は姫路城、犬山城、彦根城、松江城)。
歴史
近世以前
戦国時代の永正年間(1504-1520年)に、信濃守護家小笠原氏(府中小笠原氏)が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりといわれている。
天文年間には甲斐国の武田氏による信濃侵攻が開始され、1550年8月27日(天文19年7月15日)には林城・深志城などが落城し、信濃守護・小笠原長時は追放された(『高白斎記』)。武田氏は林城を破却して深志城代として馬場信春を配置し、松本盆地を支配下に置いた。その後は信濃小県郡の村上義清、越後国の長尾景虎(上杉謙信)と抗争し、北信濃に至る信濃一帯を領国化した。
1582年(天正10年)、甲州征伐に伴う武田氏滅亡により城代馬場昌房から織田長益に明け渡された後、織田信長によって木曾義昌に安堵された。本能寺の変後の武田遺領を巡る天正壬午の乱において、同年6月には越後の上杉景勝に擁立され、小笠原旧臣の助力を得た小笠原洞雪斎が奪還。さらに徳川家康の麾下となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城と改名した。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、徳川家の関東移封が行われ、当時の松本城主小笠原秀政も下総国古河へと移った。代わりに石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行う。石川数正は徳川家を出奔して秀吉の下へ走った経緯があり、天守の築城は関東を領した家康に対する牽制・防衛のためだといわれている。
その後、家康が江戸幕府を創始。江戸時代初期には大久保長安事件により石川康長が改易となり、小笠原秀政が再び入城。大坂の陣以後は、松平康長や水野家などの松本藩の藩庁として機能した。水野家の後は松平康長に始まる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした。
1686年 貞享騒動(じょうきょうそうどう)が起きる。農不作のうえ過酷な年貢に多くの農民が苦しみ、身を挺して多田加助とその同志たちが郡奉行に訴え出た。やがて松本城を農民が万余りに取り囲む騒動に発展した。沈静化のために訴えを家老達が聞き入れたが、沈静化した後、家老が聞き入れた覚え書きを取り上げられ、加助とその同志の子弟も含め28名、翌年年明けに処刑されてしまう。
1727年(享保12年)には本丸御殿が焼失、以後の政務は二の丸で執られた。
構造
典型的な平城。本丸、二の丸、三の丸ともほぼ方形に整地されている。南西部に天守を置いた本丸を、北部を欠いた凹型の二の丸が囲み、さらにそれを四方から三の丸が囲むという、梯郭式に輪郭式を加えた縄張りである。これらは全て水堀により隔てられている。現存12天守の中では唯一の平城である。
天守
5重6階の天守を中心にし、大天守北面に乾小天守を渡櫓で連結し、東面に辰巳附櫓・月見櫓を複合した複合連結式天守である。大天守は、初重に袴形の石落としを付け、窓は突上窓、破風は2重目南北面と3重目東西面に千鳥破風、3重目南北面に向唐破風の出窓を付けている。辰巳附櫓・月見櫓は、第3代将軍徳川家光が長野の善光寺に参拝する途中で、松本に立ち寄るという内意を受けたため、当時の藩主松平直政が建てた。赤い欄干を配して、風雅な雰囲気を持つ。家光の善光寺参拝は中止になったが、天守に付属する月見櫓としては唯一の遺構となった。
大天守は構造的には望楼型天守から層塔型天守への過渡期的な性格が見られ、2重目の屋根は天守台の歪みを入母屋(大屋根)で調整する望楼型の内部構造を持ちながら、外見は入母屋を設けず強引に寄棟を形成している。ただ、強引とはいえ外見的には層塔型の形状を成立させているため、各重の屋根の隅は様々な方向を向いており、松本城天守の特徴の一つとなっている。3階の、低い天井に窓のない特殊な空間が生まれたのはこのためで、パンフレットなどでは「秘密の階」と説明されているが、構造上は2重の上に生じた大屋根構造の名残りともいえる屋根裏的な空間を階として用いたことによるものである。内部は最上階(6階)の他に4階を白壁造りにするなど、ある程度の居住性が考慮されている。外壁は初重から最上重まで黒塗の下見板が張られており、この黒の原料は1950年(昭和25年)の修理工事着工までは墨によるものであったが、解体修理の際に漆塗りの痕跡が見つかったことから、修理工事が竣工した1955年(昭和30年)以降は黒漆塗りとなっている。乾小天守も構造的特徴は大天守と同様であるが、最上階に華頭窓が開けられている。
現地情報
所在地
長野県松本市丸の内4-1
交通アクセス
徒歩
JR篠ノ井線・大糸線、アルピコ交通上高地線(通称・松本電鉄) 松本駅(東口(お城口))から約20分。
JR大糸線 北松本駅(東口(お城口))から約7分。
バス
松本駅バス停から、松本電鉄バスタウンスニーカー北コースで約10分、「松本城黒門」バス停下車。
松本バスターミナルから、松本電鉄バス浅間温泉行きなどで約10分、「大名町」バス停下車。
自動車
松本インターチェンジから車で15分。
別名 深志城
城郭構造 梯郭式+輪郭式平城
天守構造 連結式望楼型(1593年頃か)
複合連結式層塔型5重6階(1633年改)
築城主 小笠原貞朝、石川数正・康長父子
築城年 1504年(永正元年)
主な改修者 松平直政
主な城主 山川氏、石川氏、松平氏
堀田氏、水野氏、松平氏(戸田氏)
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 現存天守、石垣、土塁、堀、二の丸土蔵
指定文化財 国宝(天守)
国の史跡
再建造物 黒門、太鼓門
位置 北緯36度14分20.76秒 東経137度58分8.83秒
2023年08月01日
気多神社(けたじんじゃ)は、富山県高岡市伏木一宮にある神社
気多神社(けたじんじゃ)は、富山県高岡市伏木一宮にある神社。式内社(名神大社または小社)、越中国一宮。旧社格は県社。
所在地の高岡市伏木は、かつて国府や国分寺が存在した越中国の中心地で、当神社境内にも越中国総社跡の伝承地がある。越中国内で一宮を称する4社のうちで唯一、所在地名に「一宮」と言う銘号が入っている。
気多神社 (高岡市) 社殿
祭神
主祭神
大己貴命(おおなむちのみこと)
奴奈加波比売命(ぬなかわひめのみこと)
配神
菊理姫命(くくりひめのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)
境内入り口
境内
主要社殿のうち本殿は、三間社流造。木割りが大きく、虹梁・拳鼻・手挟[13]の手法が室町時代の特質を残しているとして、国の重要文化財に指定されている。
その他、本殿前方に拝殿、本殿横に大伴家持を祀る大伴神社、本殿から北東に越中総社跡伝承地などがある。
本殿(国の重要文化財)
主な祭事
毎年4月18日に気多神社奉賛会と春季例大祭(一宮青年団による)が行われている。春季例大祭では高岡市無形民俗文化財の「にらみ獅子」が奉納されるほか、2022年からは約30年ぶりに奉幣使出立(ほうへいししゅったつ)の儀の巡行が復活した。
文化財
重要文化財(国指定)
本殿(建造物) - 1931年(昭和6年)1月19日指定。
高岡市指定文化財
有形文化財
木造狛犬 1対(彫刻) - 1961年(昭和36年)3月27日指定。
無形民俗文化財
氣多神社のにらみ獅子 - 1996年(平成8年)12月4日指定。
拝殿
現地情報
所在地
富山県高岡市伏木一宮1-10-1
交通アクセス
最寄駅:JR西日本氷見線 越中国分駅(徒歩約15分)
高岡駅前(高岡駅古城公園口)4番のりばもしくは新高岡駅2番のりばより加越能バス(高岡ふしき病院経由氷見市民病院行き、東回り伏木循環、西回り伏木循環)に乗り、「伏木一の宮」下車(徒歩約8分)
所在地の高岡市伏木は、かつて国府や国分寺が存在した越中国の中心地で、当神社境内にも越中国総社跡の伝承地がある。越中国内で一宮を称する4社のうちで唯一、所在地名に「一宮」と言う銘号が入っている。
気多神社 (高岡市) 社殿
祭神
主祭神
大己貴命(おおなむちのみこと)
奴奈加波比売命(ぬなかわひめのみこと)
配神
菊理姫命(くくりひめのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)
境内入り口
境内
主要社殿のうち本殿は、三間社流造。木割りが大きく、虹梁・拳鼻・手挟[13]の手法が室町時代の特質を残しているとして、国の重要文化財に指定されている。
その他、本殿前方に拝殿、本殿横に大伴家持を祀る大伴神社、本殿から北東に越中総社跡伝承地などがある。
本殿(国の重要文化財)
主な祭事
毎年4月18日に気多神社奉賛会と春季例大祭(一宮青年団による)が行われている。春季例大祭では高岡市無形民俗文化財の「にらみ獅子」が奉納されるほか、2022年からは約30年ぶりに奉幣使出立(ほうへいししゅったつ)の儀の巡行が復活した。
文化財
重要文化財(国指定)
本殿(建造物) - 1931年(昭和6年)1月19日指定。
高岡市指定文化財
有形文化財
木造狛犬 1対(彫刻) - 1961年(昭和36年)3月27日指定。
無形民俗文化財
氣多神社のにらみ獅子 - 1996年(平成8年)12月4日指定。
拝殿
現地情報
所在地
富山県高岡市伏木一宮1-10-1
交通アクセス
最寄駅:JR西日本氷見線 越中国分駅(徒歩約15分)
高岡駅前(高岡駅古城公園口)4番のりばもしくは新高岡駅2番のりばより加越能バス(高岡ふしき病院経由氷見市民病院行き、東回り伏木循環、西回り伏木循環)に乗り、「伏木一の宮」下車(徒歩約8分)
2023年07月31日
河本家住宅(かわもとけじゅうたく)は鳥取県東伯郡琴浦町にある古民家
河本家住宅(かわもとけじゅうたく)は鳥取県東伯郡琴浦町にある古民家。
概要
江戸時代に伯耆国八橋郡の大庄屋であった河本家の屋敷として建てられた旧家。 1978年(昭和53年)の調査において、主屋(居室部)が建築されたのは1688年(貞享5年)、5代目河本弥三右衛門の時代であったことが判明した。
主屋は居室部と客間部に分かれる。居室部は寄棟造、茅葺で、東半を土間、西半を床上部とし、前述のとおり貞享5年(1688年)の建築である。その西に接続する客間部は宝永4年(1707年)の増築で、切妻造、瓦葺。客間部西端に位置する奥の間は床(とこ)、棚、付書院を設けた書院造風の座敷とする。敷地内には他にも江戸時代建立の土蔵等の付属建物が残り、近世の屋敷構えが良好に保存されている。主屋は17世紀にさかのぼり、山陰地方の民家建築で建築年代の明らかなものとしては最古に属する。付属建物もそれぞれ建立時期が明らかである。
1974年(昭和49年)3月29日に鳥取県の保護文化財、1996年(平成8年)に県民の建物100選に選定され、2010年(平成22年)12月24日に主屋など建造物5棟と宅地が国の重要文化財に指定された。
文化財指定
以下の建造物5棟及び土地が国の重要文化財に指定されている。
主屋 居室部 - 貞享5年(1688年)、客間部 - 宝永4年(1707年)
離れ 文政3年(1820年)
味噌蔵及び米蔵 文化3年(1820年)
新蔵 天保13年(1842年)
土蔵 安永8年(1779年)
宅地 6,325.47平方メートル
以下は重要文化財の附(つけたり)指定物件
門及び納屋 江戸末期
米蔵 明治8年(1875年)
大工小屋 明治16年(1883年)
家相図1枚 嘉永7年(1854年)
所在地 鳥取県東伯郡琴浦町篦津393
位置 北緯35度30分56.3秒 東経133度36分56.1秒
類型 庄屋家屋
形式・構造 (主屋)木造、寄棟造、茅葺
建築年 貞享5年(1688年)
文化財 国の重要文化財、県民の建物100選
概要
江戸時代に伯耆国八橋郡の大庄屋であった河本家の屋敷として建てられた旧家。 1978年(昭和53年)の調査において、主屋(居室部)が建築されたのは1688年(貞享5年)、5代目河本弥三右衛門の時代であったことが判明した。
主屋は居室部と客間部に分かれる。居室部は寄棟造、茅葺で、東半を土間、西半を床上部とし、前述のとおり貞享5年(1688年)の建築である。その西に接続する客間部は宝永4年(1707年)の増築で、切妻造、瓦葺。客間部西端に位置する奥の間は床(とこ)、棚、付書院を設けた書院造風の座敷とする。敷地内には他にも江戸時代建立の土蔵等の付属建物が残り、近世の屋敷構えが良好に保存されている。主屋は17世紀にさかのぼり、山陰地方の民家建築で建築年代の明らかなものとしては最古に属する。付属建物もそれぞれ建立時期が明らかである。
1974年(昭和49年)3月29日に鳥取県の保護文化財、1996年(平成8年)に県民の建物100選に選定され、2010年(平成22年)12月24日に主屋など建造物5棟と宅地が国の重要文化財に指定された。
文化財指定
以下の建造物5棟及び土地が国の重要文化財に指定されている。
主屋 居室部 - 貞享5年(1688年)、客間部 - 宝永4年(1707年)
離れ 文政3年(1820年)
味噌蔵及び米蔵 文化3年(1820年)
新蔵 天保13年(1842年)
土蔵 安永8年(1779年)
宅地 6,325.47平方メートル
以下は重要文化財の附(つけたり)指定物件
門及び納屋 江戸末期
米蔵 明治8年(1875年)
大工小屋 明治16年(1883年)
家相図1枚 嘉永7年(1854年)
所在地 鳥取県東伯郡琴浦町篦津393
位置 北緯35度30分56.3秒 東経133度36分56.1秒
類型 庄屋家屋
形式・構造 (主屋)木造、寄棟造、茅葺
建築年 貞享5年(1688年)
文化財 国の重要文化財、県民の建物100選
2023年07月30日
雲巌寺(うんがんじ)は、日本の北関東、栃木県大田原市雲岩寺に所在する臨済宗妙心寺派の寺院
雲巌寺(うんがんじ)は、日本の北関東、栃木県大田原市雲岩寺に所在する臨済宗妙心寺派の寺院である。山号は東山(とうざん)。本尊は釈迦牟尼仏(銅造釈迦如来坐像)。開山は高峰顕日(仏国国師)、開基(創立者)は叟元和尚(寺伝)。
禅宗寺院としての開山当時は、筑前の聖福寺(現・福岡県福岡市博多区に所在)、越前の永平寺(現・福井県吉田郡永平寺町に所在)、紀州の興国寺(現・和歌山県日高郡由良町に所在)とともに、日本の禅宗四大道場と呼ばれた。
歴史
雲巌寺は、平安時代後期の大治年間(1126年-1131年間)に初叟元(しょ そうげん)和尚によって那須12郷の一つである山田郷須佐木村の奥の霊気漂う理想的な場所に旧仏教系寺院として開山されたという。しかし寺は何時しか荒廃してしまった。
復興させたのは高峰顕日(仏国国師)で、弘安6年(1283年)、時の執権・北条時宗を大檀那とし、高梨勝願法印の寄進のもと、臨済宗寺院として改めて開山したといわれる。
無住妙徳禅師が住職となった天正6年(1578年)、雲巌寺は臨済宗妙心寺派へ改宗された。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では、烏山城の那須資晴が恭順せず、城攻めの際には付近の住民が雲巌寺に逃げ込む。豊臣方は、北条氏を大檀那とするこの寺を軍事要塞と見なし、火を放ったというが、数年後には再建されている。
当寺は俳人・松尾芭蕉が奥の細道紀行で立ち寄ったことでも知られる。寺域には当時の住職であった仏頂禅師と芭蕉の歌碑があり、以下の2句が刻まれている。
この歌碑は、享和3年(1803年)に建てられたものを、1879年(明治12年)になって再建したものと謂われる。
弘化4年(1847年)にも火災で堂宇を失ったが、嘉永2年(1849年)に再建された。
1912年(大正元年)、築300年を超えた仏堂の改築工事が始まり、1922年(大正11年)に竣工した。
2010年代のJR東日本は、趣深い日本国内の旅を謳うシリーズCM「大人の休日倶楽部」を吉永小百合主演で打ってきたが[3]、黒羽町にスポットを当てて雲巌寺を主題の一つとする新篇「栃木県:黒羽の芭蕉篇」が2018年(平成30年)3月から訴求され始めると、厳かな山寺の魅力が消費者に伝わったと見えて、当寺では観光客が急増した。本来的に山深い修行の場であって観光地ではない当寺と周辺地域は、観光客に対応する設備も基本的に無く、通信機器の電波状況も「圏外」であるが、観光客もおおかたはそのことを知ったうえでの来訪であり、大きな混乱は見られない。雲巌寺は、人が内なるものに心を置く道場であり、聖域の逍遥(散策)を楽しんでもらえるよう、静かな参拝を呼びかけている。
交通アクセス
バス
JR那須塩原駅(新幹線停車)東口から
大田原市営バス 雲巌寺線に乗車およそ1時間 「雲巌寺前」下車 (時刻表 H31.4.1現在)
JR西那須野駅(在来線のみ)東口から
関東自動車バス 黒羽・福祉大・五峰の湯線に乗車45分 「黒羽・黒羽出張所」または「黒羽支所」で大田原市営バス雲巌寺線または須賀川線に乗り換え25分 「雲巌寺」下車
車
東北自動車道矢板インターチェンジから
国道4号、国道461号、栃木県道321号南方須佐木線にて約1時間。
東北自動車道西那須野塩原インターチェンジから
国道400号、国道461号、栃木県道321号南方須佐木線にて約45分。
無料で自由拝観できるが、いわゆる観光寺院ではなく、修行道場であることに留意が必要である。
所在地 日本の旗 日本 栃木県大田原市雲岩寺27
位置 北緯36度51分10秒 東経140度12分34秒
山号 東山
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 釈迦牟尼仏(銅造釈迦如来坐像)
創建年 1126年-1131年間(大治年間)
開山 高峰顕日、(仏国国師)
開基 叟元和尚、北条時宗(大檀那)
正式名 東山 雲巌寺
文化財 仏国国師像(重文)、
仏応禅師像(重文)等
禅宗寺院としての開山当時は、筑前の聖福寺(現・福岡県福岡市博多区に所在)、越前の永平寺(現・福井県吉田郡永平寺町に所在)、紀州の興国寺(現・和歌山県日高郡由良町に所在)とともに、日本の禅宗四大道場と呼ばれた。
歴史
雲巌寺は、平安時代後期の大治年間(1126年-1131年間)に初叟元(しょ そうげん)和尚によって那須12郷の一つである山田郷須佐木村の奥の霊気漂う理想的な場所に旧仏教系寺院として開山されたという。しかし寺は何時しか荒廃してしまった。
復興させたのは高峰顕日(仏国国師)で、弘安6年(1283年)、時の執権・北条時宗を大檀那とし、高梨勝願法印の寄進のもと、臨済宗寺院として改めて開山したといわれる。
無住妙徳禅師が住職となった天正6年(1578年)、雲巌寺は臨済宗妙心寺派へ改宗された。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では、烏山城の那須資晴が恭順せず、城攻めの際には付近の住民が雲巌寺に逃げ込む。豊臣方は、北条氏を大檀那とするこの寺を軍事要塞と見なし、火を放ったというが、数年後には再建されている。
当寺は俳人・松尾芭蕉が奥の細道紀行で立ち寄ったことでも知られる。寺域には当時の住職であった仏頂禅師と芭蕉の歌碑があり、以下の2句が刻まれている。
竪横(たてよこ)の 五尺(ごしやく)にたらぬ草(くさ)の庵(いほ )むすぶもくやし 雨(あめ)なかりせば 仏頂
木啄(きつつき)も 庵(いほ)はやぶらず 夏木立(なつこだち) 芭蕉
この歌碑は、享和3年(1803年)に建てられたものを、1879年(明治12年)になって再建したものと謂われる。
弘化4年(1847年)にも火災で堂宇を失ったが、嘉永2年(1849年)に再建された。
1912年(大正元年)、築300年を超えた仏堂の改築工事が始まり、1922年(大正11年)に竣工した。
2010年代のJR東日本は、趣深い日本国内の旅を謳うシリーズCM「大人の休日倶楽部」を吉永小百合主演で打ってきたが[3]、黒羽町にスポットを当てて雲巌寺を主題の一つとする新篇「栃木県:黒羽の芭蕉篇」が2018年(平成30年)3月から訴求され始めると、厳かな山寺の魅力が消費者に伝わったと見えて、当寺では観光客が急増した。本来的に山深い修行の場であって観光地ではない当寺と周辺地域は、観光客に対応する設備も基本的に無く、通信機器の電波状況も「圏外」であるが、観光客もおおかたはそのことを知ったうえでの来訪であり、大きな混乱は見られない。雲巌寺は、人が内なるものに心を置く道場であり、聖域の逍遥(散策)を楽しんでもらえるよう、静かな参拝を呼びかけている。
交通アクセス
バス
JR那須塩原駅(新幹線停車)東口から
大田原市営バス 雲巌寺線に乗車およそ1時間 「雲巌寺前」下車 (時刻表 H31.4.1現在)
JR西那須野駅(在来線のみ)東口から
関東自動車バス 黒羽・福祉大・五峰の湯線に乗車45分 「黒羽・黒羽出張所」または「黒羽支所」で大田原市営バス雲巌寺線または須賀川線に乗り換え25分 「雲巌寺」下車
車
東北自動車道矢板インターチェンジから
国道4号、国道461号、栃木県道321号南方須佐木線にて約1時間。
東北自動車道西那須野塩原インターチェンジから
国道400号、国道461号、栃木県道321号南方須佐木線にて約45分。
無料で自由拝観できるが、いわゆる観光寺院ではなく、修行道場であることに留意が必要である。
所在地 日本の旗 日本 栃木県大田原市雲岩寺27
位置 北緯36度51分10秒 東経140度12分34秒
山号 東山
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 釈迦牟尼仏(銅造釈迦如来坐像)
創建年 1126年-1131年間(大治年間)
開山 高峰顕日、(仏国国師)
開基 叟元和尚、北条時宗(大檀那)
正式名 東山 雲巌寺
文化財 仏国国師像(重文)、
仏応禅師像(重文)等
2023年07月29日
宇志比古神社(うしひこじんじゃ)は、徳島県鳴門市大麻町大谷に鎮座する神社
宇志比古神社(うしひこじんじゃ)は、徳島県鳴門市大麻町大谷に鎮座する神社である。
歴史
創建年は不詳。天正年間(1573年-1593年)に長宗我部元親の乱入により社殿、古記録、社宝を焼失したが、後に再興された。江戸時代には八幡宮と呼ばれ、明治以降に宇志比古神社を称している。
徳島県内で現存する神社本殿では最古にあたり、2000年(平成12年)12月4日に本殿が国の重要文化財に指定された。
祭神
宇志比古尊
応神天皇
仁徳天皇
神功皇后
交通
JR鳴門線阿波大谷駅より徒歩約10分。
所在地 徳島県鳴門市大麻町大谷字山田66
位置 北緯34度9分43.1秒 東経134度32分12.6秒
主祭神 宇志比古尊
応神天皇
仁徳天皇
神功皇后
社格等 式内社・郷社
創建 不詳
歴史
創建年は不詳。天正年間(1573年-1593年)に長宗我部元親の乱入により社殿、古記録、社宝を焼失したが、後に再興された。江戸時代には八幡宮と呼ばれ、明治以降に宇志比古神社を称している。
徳島県内で現存する神社本殿では最古にあたり、2000年(平成12年)12月4日に本殿が国の重要文化財に指定された。
祭神
宇志比古尊
応神天皇
仁徳天皇
神功皇后
交通
JR鳴門線阿波大谷駅より徒歩約10分。
所在地 徳島県鳴門市大麻町大谷字山田66
位置 北緯34度9分43.1秒 東経134度32分12.6秒
主祭神 宇志比古尊
応神天皇
仁徳天皇
神功皇后
社格等 式内社・郷社
創建 不詳
2023年07月28日
日枝神社(ひえじんじゃ)は、東京都千代田区永田町二丁目にある神社
日枝神社(ひえじんじゃ)は、東京都千代田区永田町二丁目にある神社。江戸三大祭の一つ、山王祭が行われる。旧社格は准勅祭社(東京十社)、官幣大社。
大山咋神(おおやまくいのかみ)を主祭神とし、相殿に国常立神(くにのとこたちのかみ)、伊弉冉神(いざなみのかみ)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を祀る。
所在地は正確には千代田区永田町であり、社殿は東向き、表参道も国会議事堂方面の東方へと伸びているが、港区赤坂地区の北東に隣接し、そちらの南西方面にも大きな鳥居と裏参道が設けられていることや、近くに赤坂氷川神社が鎮座していることもあって、赤坂(の)日枝神社と通称されることが多い。
歴史
創建の年代は不詳である。文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城築城にあたり、川越の無量寿寺(現在の喜多院・中院)の鎮守である川越日枝神社を勧請したのに始まるという。徳川家康が江戸に移封されたとき、城内の紅葉山に遷座し、江戸城の鎮守とした。
慶長9年(1604年)からの徳川秀忠による江戸城改築の際、社地を江戸城外の麹町隼町に遷座し、庶民が参拝できるようになった。社地は家康により5石、元和3年(1617年)に秀忠により100石、そして寛永12年(1635年)に徳川家光からの寄付を加えて600石となった。
明暦3年(1657年)、明暦の大火により社殿を焼失したため、万治2年(1659年)、将軍家綱が赤坂の溜池を望む松平忠房の邸地を官収して社地に当てる形で、現在地に遷座した。この地は江戸城から見て裏鬼門に位置する。
明治元年(1868年)11月の東京奠都の際に准勅祭社に指定された。その後明治3年(1871年)に神祇官直下から東京府管轄に移され、明治5年(1873年)の官国幣社の選定時にも漏れ、そのまま東京府の府社となった。1881年(明治14年)に、氷川神社宮司で日枝神社の祠官を兼ねていた平山省斎が、皇城鎮護の神社が府社であっていいはずがないので、官幣大社にしてほしいと願い出た。この時は官幣大社にならなかったが、東京府・内務省の賛成を得て1882年(明治15年)1月9日に官幣中社になった。大正元年(1912年)には官幣大社に昇格した。
昭和20年(1945年)の東京大空襲で社殿が焼失し、昭和33年(1958年)に再建された。
日枝神社 山王鳥居と表参道(山王男坂)
交通アクセス
東京メトロ千代田線 - 赤坂駅(出口2)から徒歩3分
東京メトロ南北線・銀座線 - 溜池山王駅(出口7)から徒歩3分
東京メトロ千代田線 - 国会議事堂前駅(出口5)から徒歩5分
東京メトロ銀座線・丸ノ内線 - 赤坂見附駅(出口11)から徒歩8分
所在地 東京都千代田区永田町2丁目10番5号
位置 北緯35度40分29秒 東経139度44分22.5秒
主祭神 大山咋神
社格等 官幣大社・別表神社
創建 不詳
別名 日吉山王社
日吉山王大権現社
江戸山王大権現
麹町山王
山王社
山王さま
山王さん
例祭 6月15日(山王祭)
大山咋神(おおやまくいのかみ)を主祭神とし、相殿に国常立神(くにのとこたちのかみ)、伊弉冉神(いざなみのかみ)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を祀る。
所在地は正確には千代田区永田町であり、社殿は東向き、表参道も国会議事堂方面の東方へと伸びているが、港区赤坂地区の北東に隣接し、そちらの南西方面にも大きな鳥居と裏参道が設けられていることや、近くに赤坂氷川神社が鎮座していることもあって、赤坂(の)日枝神社と通称されることが多い。
歴史
創建の年代は不詳である。文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城築城にあたり、川越の無量寿寺(現在の喜多院・中院)の鎮守である川越日枝神社を勧請したのに始まるという。徳川家康が江戸に移封されたとき、城内の紅葉山に遷座し、江戸城の鎮守とした。
慶長9年(1604年)からの徳川秀忠による江戸城改築の際、社地を江戸城外の麹町隼町に遷座し、庶民が参拝できるようになった。社地は家康により5石、元和3年(1617年)に秀忠により100石、そして寛永12年(1635年)に徳川家光からの寄付を加えて600石となった。
明暦3年(1657年)、明暦の大火により社殿を焼失したため、万治2年(1659年)、将軍家綱が赤坂の溜池を望む松平忠房の邸地を官収して社地に当てる形で、現在地に遷座した。この地は江戸城から見て裏鬼門に位置する。
明治元年(1868年)11月の東京奠都の際に准勅祭社に指定された。その後明治3年(1871年)に神祇官直下から東京府管轄に移され、明治5年(1873年)の官国幣社の選定時にも漏れ、そのまま東京府の府社となった。1881年(明治14年)に、氷川神社宮司で日枝神社の祠官を兼ねていた平山省斎が、皇城鎮護の神社が府社であっていいはずがないので、官幣大社にしてほしいと願い出た。この時は官幣大社にならなかったが、東京府・内務省の賛成を得て1882年(明治15年)1月9日に官幣中社になった。大正元年(1912年)には官幣大社に昇格した。
昭和20年(1945年)の東京大空襲で社殿が焼失し、昭和33年(1958年)に再建された。
日枝神社 山王鳥居と表参道(山王男坂)
交通アクセス
東京メトロ千代田線 - 赤坂駅(出口2)から徒歩3分
東京メトロ南北線・銀座線 - 溜池山王駅(出口7)から徒歩3分
東京メトロ千代田線 - 国会議事堂前駅(出口5)から徒歩5分
東京メトロ銀座線・丸ノ内線 - 赤坂見附駅(出口11)から徒歩8分
所在地 東京都千代田区永田町2丁目10番5号
位置 北緯35度40分29秒 東経139度44分22.5秒
主祭神 大山咋神
社格等 官幣大社・別表神社
創建 不詳
別名 日吉山王社
日吉山王大権現社
江戸山王大権現
麹町山王
山王社
山王さま
山王さん
例祭 6月15日(山王祭)
2023年07月27日
栄福寺(えいふくじ)は、千葉県印西市角田(つのだ)にある天台宗の寺院
栄福寺(えいふくじ)は、千葉県印西市角田(つのだ)にある天台宗の寺院。重要文化財の薬師堂がある。
奈良時代の聖武天皇の代の天平年間(729-749年)[2]に行基による開基と伝わる。
薬師堂は室町時代の文明4年(1472年)建立されたもので、建立年代が明らかな中では千葉県最古の建造物。
太平洋戦争後の昭和29年(1954年)9月17日に重要文化財に指定された。
市内小倉の宝珠院観音堂と構造や形式が類似することでも知られる。
栄福寺薬師堂(重要文化財)
文化財
重要文化財(国指定)
薬師堂 - 室町時代後期(1472年)の建立。桁行三間、梁間三間、一重、寄棟造、向拝一間、茅葺。昭和29年(1954年)09月17日指定。
アクセス
北総線の印旛日本医大駅から徒歩30分。
奈良時代の聖武天皇の代の天平年間(729-749年)[2]に行基による開基と伝わる。
薬師堂は室町時代の文明4年(1472年)建立されたもので、建立年代が明らかな中では千葉県最古の建造物。
太平洋戦争後の昭和29年(1954年)9月17日に重要文化財に指定された。
市内小倉の宝珠院観音堂と構造や形式が類似することでも知られる。
栄福寺薬師堂(重要文化財)
文化財
重要文化財(国指定)
薬師堂 - 室町時代後期(1472年)の建立。桁行三間、梁間三間、一重、寄棟造、向拝一間、茅葺。昭和29年(1954年)09月17日指定。
アクセス
北総線の印旛日本医大駅から徒歩30分。
2023年07月26日
神原神社(かんばらじんじゃ)は島根県雲南市加茂町にある神社
神原神社(かんばらじんじゃ)は島根県雲南市加茂町にある神社である。旧社地にあった古墳から「景初三年」の銘を有する三角縁神獣鏡が出土したことで知られる。
神原神社本殿
祭神
大国主神、磐筒男命、磐筒女命を祀る。
『出雲国風土記』大原郡条の神原郷の項に見えるのが初見である。当初は大国主神のみを祀ったものと見られるが、宝永5年(1708年)に三刀屋天満宮宮司の広沢漆拾がまとめた『神原神社縁起』では祭神が磐筒男命・磐筒女命とされている。
歴史
『出雲国風土記』には「神原社」と記され、神祇官に所属しているとある。また、『出雲国風土記』大原郡条の神原郷の項に「所造天下大神之御財 積置給處也(所造天下大神(大国主命)の宝が置かれた場所である)」とも記されている。延喜式神名帳には「神原神社」とある。慶長16年(1611年)の棟札には「神原松井大明神」、前述の『神原神社縁起』では「神原神社松井大明神」「松井神寶大神宮」、享保2年(1717年)に出された『雲陽誌』には「神寶明神」と記されている。
明治4年12月に村社に列せられた。現在の社殿は後述の赤川の改修工事に伴い昭和47年(1972年)に遷移されたものである。
神原神社古墳
旧社地は古墳の上にあった。この古墳は方墳で、復元した場合の規模は29m×25m、高さは5m程と推定される。島根県では最古に属する前期古墳である。
昭和47年(1972年)の赤川(斐伊川水系)の改修工事で社地が新堤防域に組み込まれるために神社を南西に50mほど遷移することになり、その際に古墳の発掘調査が行われた。竪穴式石室からの出土品の中に魏の「景初三年」(239年)の銘が鋳出された三角縁神獣鏡があった。この銅鏡を含めた出土品は一括して国の重要文化財に指定されている。出土品は国(文化庁)所有で、島根県立古代出雲歴史博物館に保管。石室は移築された社殿の東側に復元されていて自由に見学できる。
神原神社古墳の石室(復元)
祭礼
11月9日に行われる例祭には県指定無形民俗文化財の獅子舞が奉納される。神在祭の期間には神事が行われる。
所在地 島根県雲南市加茂町神原1436
位置 北緯35度20分46.5秒 東経132度53分44.8秒
主祭神 大国主神
社格等 式内社(小)
旧村社
創建 不詳
本殿の様式 大社造
別名 神宝大明神
例祭 11月9日
主な神事 神在祭
獅子舞
神原神社本殿
祭神
大国主神、磐筒男命、磐筒女命を祀る。
『出雲国風土記』大原郡条の神原郷の項に見えるのが初見である。当初は大国主神のみを祀ったものと見られるが、宝永5年(1708年)に三刀屋天満宮宮司の広沢漆拾がまとめた『神原神社縁起』では祭神が磐筒男命・磐筒女命とされている。
歴史
『出雲国風土記』には「神原社」と記され、神祇官に所属しているとある。また、『出雲国風土記』大原郡条の神原郷の項に「所造天下大神之御財 積置給處也(所造天下大神(大国主命)の宝が置かれた場所である)」とも記されている。延喜式神名帳には「神原神社」とある。慶長16年(1611年)の棟札には「神原松井大明神」、前述の『神原神社縁起』では「神原神社松井大明神」「松井神寶大神宮」、享保2年(1717年)に出された『雲陽誌』には「神寶明神」と記されている。
明治4年12月に村社に列せられた。現在の社殿は後述の赤川の改修工事に伴い昭和47年(1972年)に遷移されたものである。
神原神社古墳
旧社地は古墳の上にあった。この古墳は方墳で、復元した場合の規模は29m×25m、高さは5m程と推定される。島根県では最古に属する前期古墳である。
昭和47年(1972年)の赤川(斐伊川水系)の改修工事で社地が新堤防域に組み込まれるために神社を南西に50mほど遷移することになり、その際に古墳の発掘調査が行われた。竪穴式石室からの出土品の中に魏の「景初三年」(239年)の銘が鋳出された三角縁神獣鏡があった。この銅鏡を含めた出土品は一括して国の重要文化財に指定されている。出土品は国(文化庁)所有で、島根県立古代出雲歴史博物館に保管。石室は移築された社殿の東側に復元されていて自由に見学できる。
神原神社古墳の石室(復元)
祭礼
11月9日に行われる例祭には県指定無形民俗文化財の獅子舞が奉納される。神在祭の期間には神事が行われる。
所在地 島根県雲南市加茂町神原1436
位置 北緯35度20分46.5秒 東経132度53分44.8秒
主祭神 大国主神
社格等 式内社(小)
旧村社
創建 不詳
本殿の様式 大社造
別名 神宝大明神
例祭 11月9日
主な神事 神在祭
獅子舞
2023年07月25日
江上天主堂(えがみてんしゅどう)は、長崎県五島市の奈留島(旧南松浦郡奈留町)にあるキリスト教(カトリック教会)の聖堂
江上天主堂(えがみてんしゅどう)は、長崎県五島市の奈留島(旧南松浦郡奈留町)にあるキリスト教(カトリック教会)の聖堂である。国の重要文化財であり、ユネスコの世界遺産(文化遺産)候補で2018年に登録審査が決まり、同年6月30日に登録が決まった「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する「江上集落」に包括される教会である。
奈留島の西端近くに位置し、かつては中五島の中心的な存在であったが、過疎化による信徒の減少のため現在は主任司祭はおらず、島の中央部にある奈留教会の巡回教会となっており、普段は委任された教会守が管理している。内部見学は事前に連絡しておく必要がある。
教会の保護者
聖ヨゼフ
概要
歴史
1918年(大正 7年) - 竣工
2001年(平成13年) - 外観改修(塗装)
2002年(平成14年)2月26日 - 長崎県指定有形文化財に指定される
2007年(平成19年) - 世界遺産の構成資産に選ばれる(信者は候補から除外するよう請願、後に合意)
2008年(平成20年)6月9日 - 国の重要文化財に指定される
2016年(平成28年) - 世界遺産としては「禁教期に焦点を絞るべき」との指摘をうけ推薦が一旦取り下げられ、対応を協議し再推薦は決まったが禁教期を象徴する「江上集落」に包括する扱いとなった
2018年(平成30年)6月30日 - 世界遺産登録が決定
建物
木造平屋、瓦葺きのロマネスク様式
リブ・ヴォールト天井
設計・施工:鉄川与助
特徴
谷口に建てられており、周囲は森に覆われている。そのため大雨が降ると建物周囲を水が流れるため、高床式構造になっている。内部の柱も腐食防止と虫除け効果から下地にベンガラを塗り、その上から木目を描いている。ステンドグラスも手描き塗装によるもの。
所在地
〒853-2202 長崎県五島市奈留町大串1131
アクセス
奈留島バス大串線「江上」停留所下車
奈留島港よりタクシー18分
奈留島の西端近くに位置し、かつては中五島の中心的な存在であったが、過疎化による信徒の減少のため現在は主任司祭はおらず、島の中央部にある奈留教会の巡回教会となっており、普段は委任された教会守が管理している。内部見学は事前に連絡しておく必要がある。
教会の保護者
聖ヨゼフ
概要
歴史
1918年(大正 7年) - 竣工
2001年(平成13年) - 外観改修(塗装)
2002年(平成14年)2月26日 - 長崎県指定有形文化財に指定される
2007年(平成19年) - 世界遺産の構成資産に選ばれる(信者は候補から除外するよう請願、後に合意)
2008年(平成20年)6月9日 - 国の重要文化財に指定される
2016年(平成28年) - 世界遺産としては「禁教期に焦点を絞るべき」との指摘をうけ推薦が一旦取り下げられ、対応を協議し再推薦は決まったが禁教期を象徴する「江上集落」に包括する扱いとなった
2018年(平成30年)6月30日 - 世界遺産登録が決定
建物
木造平屋、瓦葺きのロマネスク様式
リブ・ヴォールト天井
設計・施工:鉄川与助
特徴
谷口に建てられており、周囲は森に覆われている。そのため大雨が降ると建物周囲を水が流れるため、高床式構造になっている。内部の柱も腐食防止と虫除け効果から下地にベンガラを塗り、その上から木目を描いている。ステンドグラスも手描き塗装によるもの。
所在地
〒853-2202 長崎県五島市奈留町大串1131
アクセス
奈留島バス大串線「江上」停留所下車
奈留島港よりタクシー18分