栄山寺(えいさんじ、旧字体:榮山寺)は、奈良県五條市にある真言宗豊山派の寺院。藤原武智麻呂により創建された。山号は学晶山(がくしょうさん)。本尊は薬師如来。奈良時代の建築である八角堂(国宝)があることで知られる。
八角堂(国宝)
歴史
現代の五條市にあたる地域は古代には阿陀郷と呼ばれた。「阿陀」の地名は『万葉集』にも見え、式内社(『延喜式神名帳』に記載された神社)の阿陀比売神社(あだひめじんじゃ)があるなど早くから開けた地域であったと思われる。
栄山寺は古くは前山寺(さきやまでら)と呼ばれ、藤原不比等の長子である武智麻呂が養老3年(719年)に創建したと伝わる。その後、武智麻呂を祖とする藤原南家の菩提寺として鎌倉時代になるまで大いに栄えた。南北朝時代には南朝の後村上・長慶・後亀山天皇の行在所が置かれていた。そのため「栄山寺行宮跡」として国の史跡に指定されている。
現存する八角堂は、藤原武智麻呂の没後、子の藤原仲麻呂が父の菩提を弔うために建立したと伝える。武智麻呂の墓は当初は佐保山(奈良市街地北部の丘陵地)にあったが、天平宝字4年(760年)、栄山寺北側の山上に改葬された。八角堂の建立時期はこの年から仲麻呂の没した天平宝字8年(764年)までの5年間に絞られる。正倉院文書に天平宝字7年(763年)12月20日付けの「造円堂所牒」(ぞうえんどうしょちょう)という文書があり、この「円堂」は栄山寺八角堂を指すものと考証されている。
栄山寺は役小角の修行地とも伝えられ修験道にも関係があったが戦国時代末期には八角堂を除く堂坊を焼失した。その後、本堂、阿弥陀堂、塔ノ堂が再建され、さらに塔頭六宇が再建された。
寺は元来は興福寺の末寺であったが江戸時代初期に一時無住寺となり、その後泉涌寺別院雲龍院(京都市東山区)の末寺となり、さらに護国寺(東京都文京区)の末寺となった。現在では塔頭も梅室院のみが残っている。
本堂と石灯籠(重文)
文化財
国宝
八角堂(附:旧石露盤残欠)
梵鐘
銘文から延喜17年(917年)の製作とわかる。京都の神護寺、宇治の平等院の鐘と共に「平安三絶の鐘」として知られているもので、四面に菅原道真撰で、小野道風の書と伝えられる陽鋳の銘文が施されている。藤原武智麻呂の5世の孫である藤原道明と道明の伯父の橘澄清によって寄進されたもので、当初は山城道澄寺にあった。道澄寺は藤原道明と橘澄清の名の1字ずつを取って寺号としたもので、寺は京都市伏見区深草直違橋(すじかいばし)に現存する。
栄山寺梵鐘(国宝)
アクセス・拝観料
JR五条駅・五條バスセンターより奈良交通バス「西阿田」または「東八田」ゆきに乗り「栄山寺前」下車すぐ(但し便数は少なく平日のみ運行)。もしくは「八木駅」「近鉄高田駅」「大淀バスセンター」ゆきに乗り「栄山寺口」で下車し今井町交差点を南へ徒歩10分ほど
駐車場は入口(境内西端)、バス停付近に2台ほど駐車可能。または境内東端に公衆トイレと5台ほど駐車可能な駐車場あり
拝観料は500円(高校生以上)
所在地 奈良県五條市小島町503
位置 北緯34度21分21.4秒 東経135度43分14.4秒
山号 学晶山(學晶山)
宗旨 新義真言宗
宗派 真言宗豊山派
本尊 薬師如来
創建年 伝 養老3年(719年)
開基 伝 藤原武智麻呂
別称 前山寺
文化財 八角堂・梵鐘(国宝)
八角堂内陣装飾画・木造薬師如来坐像・木造十二神将立像・石灯篭・石塔婆(国の重要文化財)
栄山寺行宮跡(国の史跡
2023年07月24日
2023年07月23日
岩科学校(いわしながっこう)とは、静岡県賀茂郡松崎町岩科に残る伊豆地域最古の小学校校舎
岩科学校(いわしながっこう)とは、静岡県賀茂郡松崎町岩科に残る伊豆地域最古の小学校校舎である。
沿革
1879年4月に着工し、1880年(明治13年)9月に竣工。総工費2630円66銭のうち、4割余りを住民の寄付でまかなった。1975年に「旧岩科学校校舎」として国の重要文化財に指定され、1992年には竣工当時の状態に復元された。
敷地内には1875年(明治8年)に建設された岩科商社の建物が移築され、開花亭の名称で休憩所として利用されている。
建築概要
地元の大工棟梁・菊地丑太郎、高木久五郎の設計施工による擬洋風建築である。玄関上の唐破風など寺社建築の要素に加え、なまこ壁やアーチ窓、半円バルコニーが組み合わせられている。平面は、和風2階建の中央棟の左右から副舎一棟ずつがはりだしたコの時型をしている。正面玄関に掲げられた「岩科学校」の扁額は、太政大臣・三条実美の書である。
松崎町は左官の名工で工芸家であった入江長八の出身地で、2階の和室には代表作「千羽鶴」の鏝絵が残されている。扁額上の龍の彫刻も長八の作と伝えられている。また、開化亭の玄関天井や旧西座敷の天井に描かれた鏝絵は長八の高弟・佐藤甚三が制作したものである。
アクセス
松崎町自主運行バスW55松崎八木山線(運行委託先:東海バス松崎営業所)「重文岩科学校」停留所から徒歩約5分
旧用途 校舎
設計者 菊地丑太郎、高木久五郎
施工 菊地丑太郎、高木久五郎
構造形式 木造二階建、両翼一階建、背面下屋付、桟瓦葺
建築面積 436.2 m2
階数 2階
着工 1879年4月
竣工 1880年9月
所在地 〒410-3613
静岡県賀茂郡松崎町岩科北側442
座標 北緯34度44分11.4秒 東経138度47分10.4秒
文化財 重要文化財
沿革
1879年4月に着工し、1880年(明治13年)9月に竣工。総工費2630円66銭のうち、4割余りを住民の寄付でまかなった。1975年に「旧岩科学校校舎」として国の重要文化財に指定され、1992年には竣工当時の状態に復元された。
敷地内には1875年(明治8年)に建設された岩科商社の建物が移築され、開花亭の名称で休憩所として利用されている。
建築概要
地元の大工棟梁・菊地丑太郎、高木久五郎の設計施工による擬洋風建築である。玄関上の唐破風など寺社建築の要素に加え、なまこ壁やアーチ窓、半円バルコニーが組み合わせられている。平面は、和風2階建の中央棟の左右から副舎一棟ずつがはりだしたコの時型をしている。正面玄関に掲げられた「岩科学校」の扁額は、太政大臣・三条実美の書である。
松崎町は左官の名工で工芸家であった入江長八の出身地で、2階の和室には代表作「千羽鶴」の鏝絵が残されている。扁額上の龍の彫刻も長八の作と伝えられている。また、開化亭の玄関天井や旧西座敷の天井に描かれた鏝絵は長八の高弟・佐藤甚三が制作したものである。
アクセス
松崎町自主運行バスW55松崎八木山線(運行委託先:東海バス松崎営業所)「重文岩科学校」停留所から徒歩約5分
旧用途 校舎
設計者 菊地丑太郎、高木久五郎
施工 菊地丑太郎、高木久五郎
構造形式 木造二階建、両翼一階建、背面下屋付、桟瓦葺
建築面積 436.2 m2
階数 2階
着工 1879年4月
竣工 1880年9月
所在地 〒410-3613
静岡県賀茂郡松崎町岩科北側442
座標 北緯34度44分11.4秒 東経138度47分10.4秒
文化財 重要文化財
2023年07月22日
金剛輪寺(こんごうりんじ)は、滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺にある天台宗の寺院
金剛輪寺(こんごうりんじ)は、滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺にある天台宗の寺院。山号は松峯山(しょうほうざん)。本尊は聖観音菩薩(秘仏)。地名から松尾寺ともいう。開創は行基とされる。西明寺、百済寺(ひゃくさいじ)とともに湖東三山の1つに数えられる。現在は「血染めのもみじ」と呼ばれる有名な紅葉の名所となっている。
本堂(大悲閣、国宝)
歴史
琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する金剛輪寺は、寺伝によれば聖武天皇の勅願で奈良時代の僧・行基の開創とされ、創建は天平9年(737年)または天平13年(741年)と伝える。金剛輪寺の所在地は、昭和の市町村合併以前は秦川村といったことから、渡来系氏族の秦氏とも何らかの関係があったとする見方もある。
その後、平安時代前期の嘉承年間(848年 - 851年)には天台宗の僧・円仁(慈覚大師)によって再興されたと伝え、寺では円仁を中興の祖としている。以上の創建伝承を裏付ける確かな史料はないが、伝来する仏像の制作年代などから、平安時代後期には寺が存在したとみられる。平安時代から中世にかけての金剛輪寺の歴史は必ずしも明らかでないが、寺内には平安時代後期から鎌倉時代の仏像が多く残る。また、石垣で作られた多くの僧坊の跡も残っている。
本堂は、元寇の戦勝記念として近江守護佐々木頼綱(六角頼綱)によって建立されたとされる。本堂の須弥壇金具には弘安11年(1288年)の銘が残っている。しかし、現存する本堂は南北朝時代に再興されたものとみられる。
鎌倉時代末期には天台密教の一流派である西山流の本拠地となっている。
天正元年(1573年)、織田信長の兵火で湖東三山の1つである百済寺は全焼し、金剛輪寺も被害を受けるが、現存の本堂、三重塔は寺僧の尽力で焼失をまぬがれたという。当寺の本堂をはじめとする中心堂宇は総門や本坊のある地点から数百メートルの石段を上ったはるか奥にあるため、見落とされ、焼き討ちをまぬがれたのではないかという説もある。
江戸時代以降は次第に衰微し、楼門の2階部分が崩壊したり、三重塔の三重目部分が倒壊したりしている。
慶応4年(1868年)1月8日、薩摩藩の西郷隆盛や公家の岩倉具視の支援を得て当寺で赤報隊が結成された。
木造慈恵大師坐像 弘安9年(1286年)作
所在地
滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺874番地
交通アクセス
タクシー:JR稲枝駅から15分、JR彦根駅から25分
車:名神高速道路湖東三山スマートICより1分(ETC車)、八日市インターチェンジより国道307号線経由15分、彦根インターチェンジより20分(非ETC車)
路線バス:JR稲枝駅・近江鉄道愛知川駅・豊郷駅から「愛のりタクシーあいしょう」で12〜20分程度
紅葉シーズンのみ、JR河瀬駅よりシャトルバス運行
本堂(大悲閣、国宝)
歴史
琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する金剛輪寺は、寺伝によれば聖武天皇の勅願で奈良時代の僧・行基の開創とされ、創建は天平9年(737年)または天平13年(741年)と伝える。金剛輪寺の所在地は、昭和の市町村合併以前は秦川村といったことから、渡来系氏族の秦氏とも何らかの関係があったとする見方もある。
その後、平安時代前期の嘉承年間(848年 - 851年)には天台宗の僧・円仁(慈覚大師)によって再興されたと伝え、寺では円仁を中興の祖としている。以上の創建伝承を裏付ける確かな史料はないが、伝来する仏像の制作年代などから、平安時代後期には寺が存在したとみられる。平安時代から中世にかけての金剛輪寺の歴史は必ずしも明らかでないが、寺内には平安時代後期から鎌倉時代の仏像が多く残る。また、石垣で作られた多くの僧坊の跡も残っている。
本堂は、元寇の戦勝記念として近江守護佐々木頼綱(六角頼綱)によって建立されたとされる。本堂の須弥壇金具には弘安11年(1288年)の銘が残っている。しかし、現存する本堂は南北朝時代に再興されたものとみられる。
鎌倉時代末期には天台密教の一流派である西山流の本拠地となっている。
天正元年(1573年)、織田信長の兵火で湖東三山の1つである百済寺は全焼し、金剛輪寺も被害を受けるが、現存の本堂、三重塔は寺僧の尽力で焼失をまぬがれたという。当寺の本堂をはじめとする中心堂宇は総門や本坊のある地点から数百メートルの石段を上ったはるか奥にあるため、見落とされ、焼き討ちをまぬがれたのではないかという説もある。
江戸時代以降は次第に衰微し、楼門の2階部分が崩壊したり、三重塔の三重目部分が倒壊したりしている。
慶応4年(1868年)1月8日、薩摩藩の西郷隆盛や公家の岩倉具視の支援を得て当寺で赤報隊が結成された。
木造慈恵大師坐像 弘安9年(1286年)作
所在地
滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺874番地
交通アクセス
タクシー:JR稲枝駅から15分、JR彦根駅から25分
車:名神高速道路湖東三山スマートICより1分(ETC車)、八日市インターチェンジより国道307号線経由15分、彦根インターチェンジより20分(非ETC車)
路線バス:JR稲枝駅・近江鉄道愛知川駅・豊郷駅から「愛のりタクシーあいしょう」で12〜20分程度
紅葉シーズンのみ、JR河瀬駅よりシャトルバス運行
2023年07月21日
武雄温泉新館(たけおおんせんしんかん)は、佐賀県武雄市にある建築物
武雄温泉新館(たけおおんせんしんかん)は、佐賀県武雄市にある建築物。国の重要文化財。所在地は佐賀県武雄市武雄町大字武雄7425番地
沿革
設計者は辰野金吾。1914年11月20日に上棟、翌1915年4月12日に落成した。地上2階建ての入母屋造りで、延べ床面積は409.5平方メートル。正面中央に玄関車寄を備えた木造二階建の主体部を中心に,玄関に車寄せが設けられている。中心部から両翼に平屋部分が張り出す構造で、背面に八角形の大浴場や大正天皇のために作られた浴室がある。また、当時の建築界をリードしていた建築家の辰野金吾が関与した数少ない和風建築である。建築以来、公衆浴場として使われたものの、老朽化などを理由に1973年に休館した。1986年に県重要文化財に指定された。2000年、創建時の建築に忠実に復元することが決定。復元に向けた調査は地元の建築士グループ「まち研武雄」が担った。2003年、復元工事が完了。2005年7月22日に国の重要文化財に指定された。武雄温泉の資料館となっている。
アクセス
佐世保線武雄温泉駅より徒歩約10分。
用途 観光施設
設計者 辰野・葛西事務所
構造設計者 辰野金吾
施工 清水組
建築面積 409.53 m2
階数 地上2階
着工 1914年
所在地 武雄市武雄町大字武雄7425番地
座標 北緯33度11分47.5秒 東経130度0分51.2秒
文化財 国の重要文化財(建造物)
指定・登録等日 2005年7月22日
沿革
設計者は辰野金吾。1914年11月20日に上棟、翌1915年4月12日に落成した。地上2階建ての入母屋造りで、延べ床面積は409.5平方メートル。正面中央に玄関車寄を備えた木造二階建の主体部を中心に,玄関に車寄せが設けられている。中心部から両翼に平屋部分が張り出す構造で、背面に八角形の大浴場や大正天皇のために作られた浴室がある。また、当時の建築界をリードしていた建築家の辰野金吾が関与した数少ない和風建築である。建築以来、公衆浴場として使われたものの、老朽化などを理由に1973年に休館した。1986年に県重要文化財に指定された。2000年、創建時の建築に忠実に復元することが決定。復元に向けた調査は地元の建築士グループ「まち研武雄」が担った。2003年、復元工事が完了。2005年7月22日に国の重要文化財に指定された。武雄温泉の資料館となっている。
アクセス
佐世保線武雄温泉駅より徒歩約10分。
用途 観光施設
設計者 辰野・葛西事務所
構造設計者 辰野金吾
施工 清水組
建築面積 409.53 m2
階数 地上2階
着工 1914年
所在地 武雄市武雄町大字武雄7425番地
座標 北緯33度11分47.5秒 東経130度0分51.2秒
文化財 国の重要文化財(建造物)
指定・登録等日 2005年7月22日
2023年07月20日
喜多院(きたいん)は、埼玉県川越市にある天台宗の寺院
喜多院(きたいん)は、埼玉県川越市にある天台宗の寺院。山号は星野山(せいやさん)。良源(慈恵大師、元三大師とも)を祀り川越大師の別名で知られる。建物の多くが重要文化財に指定され、寺宝にも貴重な美術工芸品を多く有する。広大な境内は池や掘を廻らせた景勝地となっている。1月3日の初大師(だるま市)、節分、長月護摩講塔、七五三、菊祭りなど諸行事はむろん、四季折々の行楽客で賑わう。小江戸川越七福神めぐりの第3番で大黒天を祀る。境内にある五百羅漢の石像も有名である。毎年、正月三が日の初詣には埼玉県内の寺院の中では最も多い約40万人の参詣客が訪れる。
概略
喜多院はかつての小仙波村に属し、武蔵野台地の東端、川越城の南に位置する。
歴史
平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が天台宗の教えを東国に広めるため[注釈 2]に無量寿寺として開創したのが始まりとされる。当時の無量寿寺は阿弥陀如来を本尊として、不動明王・毘沙門天を脇侍として祀った。その後、平将門の乱や比企の乱によって、無量寿寺は衰退する。
その後、鎌倉時代後期の永仁4年(1296年)に、伏見天皇が天台宗の川田谷泉福寺の中興三世の僧侶であった尊海僧正に勅願寺無量寿寺の再興を命じる。関東天台宗の本山とした。上代文学研究者の山野清二郎は、二度の蒙古襲来によって北条執権に対する不満が高まっており、承久の乱以来失墜していた朝廷・公家の権威と存在感の回復を示すためと推測している。また尊海は成田氏の助力を受け、まず仏地院(中院)を再建し、天台の教えを広めるためとして、1301年(正安3年)後伏見天皇から関東天台宗580余りの寺すべての本山たる地位を与えられた。その後、仏蔵院(北院)、多聞院(南院)を建立した[5]。後奈良天皇からは「星野山(現在の山号)」の勅額を賜るが、戦国時代の後北条氏と扇谷上杉氏との間の河越夜戦をはじめとする約10年に及ぶ合戦において1537年 (天文6年)に炎上し、寺勢も衰退した。
慶長4年(1599年)、徳川家の尊崇が厚かった天海僧正が第27世住職として入寺し、寺号を喜多院と改めた。川越藩主となった老中・酒井忠利は喜多院の再興に当たった。慶長18年(1613年)には徳川秀忠の関東天台法度により関東天台総本山と定められ、500石の寺領を賜った。また、山号も東の比叡山を意味する「東叡山」に改められ、ますます隆盛を誇ることになる。なお、東叡山の山号はのちに上野寛永寺に移る。寛永15年(1638年)、川越大火で山門と経蔵以外の伽藍を焼失するが、翌年、徳川家光の命で、江戸城紅葉山御殿の一部を移築した。これが今に残る客殿、書院、庫裏であり、これらを運ぶために新河岸川の舟運が開かれた。川越藩主を経て幕閣で老中にあった堀田正盛は喜多院や仙波東照宮再建の奉行を命ぜられ、天海を助けた。4代将軍・徳川家綱は200石を加増し750石・寺域48,000坪の大寺となり、徳川家に厚く保護され隆盛した。
なお、永禄年間(1558年 - 1570年)頃までは北院・中院・南院の3院が存在していたが、寛永10年(1633年)に中院のあった場所に仙波東照宮が建てられた為、中院はさらに200m南方に移動し、南院は明治の初めに廃院となり、その一角とされる場所には数十基の石の塔婆が残っている。
「日本三大羅漢」の1つ・五百羅漢は天明2年(1782年)から文政8年(1825年)の半世紀にわたって建立されたもので、538体の石仏が鎮座する。石仏はすべてが異なる表情・ポーズであるが、深夜、羅漢の頭を撫でると1つだけ温かいものが必ずあり、それは亡くなった親の顔に似ている、という伝承が残る。
越前松平家の流れを汲む松平大和守家の川越藩主(川越で逝去した松平朝矩から松平直侯まで5人)の廟もある。
喜多院ゆかりの人物
慈恵大師良源
912年(延喜12年)〜985年(永観3年) 喜多院の通称「川越のお大師さま」は、平安時代の僧侶「慈恵大師良源(じえだいしりょうげん)」のことをいう。
慈恵大師は、比叡山の復興、衆僧の指導、修学の奨励、規範の確立などに務められ、966年(康保3年)に55才の若さで、第18代天台座主に就任した。1月3日に亡くなったことから、「元三大師(がんざんだいし)」とも呼ばれている。
慈恵大師の母が、観音様に祈願をして大師を授かったことから、幼名を「観音丸」と言い、このことから後に、大師は観音さまの化身・生まれ変わりと信仰された。また、円融天皇の時代、修法中の慈恵大師の姿が、不動明王に見えたと伝えられており、このことから不動明王の化身とも云われている。
このように、慈恵大師良源は一人の高僧というだけではなく、仏様(観音様)として信仰されており、喜多院の本堂(慈恵大師堂)では中央に慈恵大師良源の尊像を如意輪観音として祀り、左右にお不動様を祀っている。なおこの喜多院の本堂だが、座って耳を澄ますと、何処からともなく波の音が聞こえるという言い伝えから「潮音殿」とも呼ばれている。
建築物
客殿(重要文化財) - 寛永15年(1638年)建立。「徳川家光誕生の間」がある。
書院(重要文化財) - 寛永16年(1639年)建立。「春日局化粧の間」がある。
庫裏(重要文化財) - 寛永15年(1638年)建立。
山門(重要文化財) - 寛永9年(1632年)、天海僧正により建立。喜多院で現存する最古の建物。
鐘楼門(附:銅鐘)(重要文化財) - 元禄15年(1702年)建立。
慈眼堂(重要文化財) - 正保2年(1645年)建立。慈眼大師天海を祀る。厨子に入った天海僧正の木像が安置されている。
仙波東照宮(重要文化財)
慈恵堂(県指定有形文化財(建造物)) 中央に慈恵大師をまつり、左右に不動明王をまつる。
多宝塔(県指定有形文化財(建造物))
所在地
埼玉県川越市小仙波町1-20-1
交通アクセス
東武東上線・JR川越線 川越駅下車 徒歩約20分
東武東上線 川越市駅下車 徒歩約18分
西武新宿線 本川越駅下車 徒歩約15分
概略
喜多院はかつての小仙波村に属し、武蔵野台地の東端、川越城の南に位置する。
歴史
平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が天台宗の教えを東国に広めるため[注釈 2]に無量寿寺として開創したのが始まりとされる。当時の無量寿寺は阿弥陀如来を本尊として、不動明王・毘沙門天を脇侍として祀った。その後、平将門の乱や比企の乱によって、無量寿寺は衰退する。
その後、鎌倉時代後期の永仁4年(1296年)に、伏見天皇が天台宗の川田谷泉福寺の中興三世の僧侶であった尊海僧正に勅願寺無量寿寺の再興を命じる。関東天台宗の本山とした。上代文学研究者の山野清二郎は、二度の蒙古襲来によって北条執権に対する不満が高まっており、承久の乱以来失墜していた朝廷・公家の権威と存在感の回復を示すためと推測している。また尊海は成田氏の助力を受け、まず仏地院(中院)を再建し、天台の教えを広めるためとして、1301年(正安3年)後伏見天皇から関東天台宗580余りの寺すべての本山たる地位を与えられた。その後、仏蔵院(北院)、多聞院(南院)を建立した[5]。後奈良天皇からは「星野山(現在の山号)」の勅額を賜るが、戦国時代の後北条氏と扇谷上杉氏との間の河越夜戦をはじめとする約10年に及ぶ合戦において1537年 (天文6年)に炎上し、寺勢も衰退した。
慶長4年(1599年)、徳川家の尊崇が厚かった天海僧正が第27世住職として入寺し、寺号を喜多院と改めた。川越藩主となった老中・酒井忠利は喜多院の再興に当たった。慶長18年(1613年)には徳川秀忠の関東天台法度により関東天台総本山と定められ、500石の寺領を賜った。また、山号も東の比叡山を意味する「東叡山」に改められ、ますます隆盛を誇ることになる。なお、東叡山の山号はのちに上野寛永寺に移る。寛永15年(1638年)、川越大火で山門と経蔵以外の伽藍を焼失するが、翌年、徳川家光の命で、江戸城紅葉山御殿の一部を移築した。これが今に残る客殿、書院、庫裏であり、これらを運ぶために新河岸川の舟運が開かれた。川越藩主を経て幕閣で老中にあった堀田正盛は喜多院や仙波東照宮再建の奉行を命ぜられ、天海を助けた。4代将軍・徳川家綱は200石を加増し750石・寺域48,000坪の大寺となり、徳川家に厚く保護され隆盛した。
なお、永禄年間(1558年 - 1570年)頃までは北院・中院・南院の3院が存在していたが、寛永10年(1633年)に中院のあった場所に仙波東照宮が建てられた為、中院はさらに200m南方に移動し、南院は明治の初めに廃院となり、その一角とされる場所には数十基の石の塔婆が残っている。
「日本三大羅漢」の1つ・五百羅漢は天明2年(1782年)から文政8年(1825年)の半世紀にわたって建立されたもので、538体の石仏が鎮座する。石仏はすべてが異なる表情・ポーズであるが、深夜、羅漢の頭を撫でると1つだけ温かいものが必ずあり、それは亡くなった親の顔に似ている、という伝承が残る。
越前松平家の流れを汲む松平大和守家の川越藩主(川越で逝去した松平朝矩から松平直侯まで5人)の廟もある。
喜多院ゆかりの人物
慈恵大師良源
912年(延喜12年)〜985年(永観3年) 喜多院の通称「川越のお大師さま」は、平安時代の僧侶「慈恵大師良源(じえだいしりょうげん)」のことをいう。
慈恵大師は、比叡山の復興、衆僧の指導、修学の奨励、規範の確立などに務められ、966年(康保3年)に55才の若さで、第18代天台座主に就任した。1月3日に亡くなったことから、「元三大師(がんざんだいし)」とも呼ばれている。
慈恵大師の母が、観音様に祈願をして大師を授かったことから、幼名を「観音丸」と言い、このことから後に、大師は観音さまの化身・生まれ変わりと信仰された。また、円融天皇の時代、修法中の慈恵大師の姿が、不動明王に見えたと伝えられており、このことから不動明王の化身とも云われている。
このように、慈恵大師良源は一人の高僧というだけではなく、仏様(観音様)として信仰されており、喜多院の本堂(慈恵大師堂)では中央に慈恵大師良源の尊像を如意輪観音として祀り、左右にお不動様を祀っている。なおこの喜多院の本堂だが、座って耳を澄ますと、何処からともなく波の音が聞こえるという言い伝えから「潮音殿」とも呼ばれている。
建築物
客殿(重要文化財) - 寛永15年(1638年)建立。「徳川家光誕生の間」がある。
書院(重要文化財) - 寛永16年(1639年)建立。「春日局化粧の間」がある。
庫裏(重要文化財) - 寛永15年(1638年)建立。
山門(重要文化財) - 寛永9年(1632年)、天海僧正により建立。喜多院で現存する最古の建物。
鐘楼門(附:銅鐘)(重要文化財) - 元禄15年(1702年)建立。
慈眼堂(重要文化財) - 正保2年(1645年)建立。慈眼大師天海を祀る。厨子に入った天海僧正の木像が安置されている。
仙波東照宮(重要文化財)
慈恵堂(県指定有形文化財(建造物)) 中央に慈恵大師をまつり、左右に不動明王をまつる。
多宝塔(県指定有形文化財(建造物))
所在地
埼玉県川越市小仙波町1-20-1
交通アクセス
東武東上線・JR川越線 川越駅下車 徒歩約20分
東武東上線 川越市駅下車 徒歩約18分
西武新宿線 本川越駅下車 徒歩約15分
2023年07月19日
石見寺(いしみじ)は高知県四万十市安並に所在する寺院
石見寺(いしみじ)は高知県四万十市安並に所在する寺院である。真言宗豊山派 浄瑠璃山東光院。本尊は薬師如来。新四国曼荼羅霊場第五十六番札所である。
御詠歌:いくたびも まいるこころは 石見寺(いしみでら) 瑠璃の光も あらたなるらん
概要
縁起によれば、創建は大同年間と記されている。弘法大師開山とされ、往古は幡多郡真言宗の総本山で末寺が25もあり延光寺も末寺であった。一条氏の時代は、この寺を比叡山延暦寺にみたてた鎮守寺であった[2]。その一条氏の時代は四国八十八ケ所霊場の随一であり第39番札所であったが城下に遍路が入るのを嫌い札所を返上、平田村寺山延光寺に移したたと伝えられる。明治時代に入ると廃仏毀釈により明治4年(1871年)に廃寺となったが、明治27年(1894年)に安芸郡川北村の長正寺を移して寺号を改称することにで再興した。
旧中村市を一望出来る場所にあり、山内一帯にミニ八十八ケ所がある。また、桜の名所である。
境内
山門
本堂:本尊が拝顔できる。
大師堂:大師像が拝顔できる。脇に大日如来と興教大師
地蔵堂:ぼけ封じ地蔵堂と水子地蔵堂がある。
交互通行にて、信号機が設置されている車道を上がると10台ぐらいの駐車場があり、そこから少しの階段を上がると山門があり境内に至る。正面に本堂があり、右手に大師堂、左すぐに鐘楼がある。納経所は左に進んだ本坊脇にある。なお、一般の駐車場から境内へは、車道が急で細いため経験豊富なタクシーでのみ乗り入れは許可されている。
宿坊:なし
駐車場:15台
所在地 高知県四万十市安並4288
位置 北緯33度00分17.9秒 東経132度56分34.3秒
山号 浄瑠璃山
院号 東光院
宗旨 新義真言宗
宗派 真言宗豊山派
本尊 薬師如来
開基 (伝)弘法大師
札所等 四国八十八箇所番外
新四国曼荼羅56番
御詠歌:いくたびも まいるこころは 石見寺(いしみでら) 瑠璃の光も あらたなるらん
概要
縁起によれば、創建は大同年間と記されている。弘法大師開山とされ、往古は幡多郡真言宗の総本山で末寺が25もあり延光寺も末寺であった。一条氏の時代は、この寺を比叡山延暦寺にみたてた鎮守寺であった[2]。その一条氏の時代は四国八十八ケ所霊場の随一であり第39番札所であったが城下に遍路が入るのを嫌い札所を返上、平田村寺山延光寺に移したたと伝えられる。明治時代に入ると廃仏毀釈により明治4年(1871年)に廃寺となったが、明治27年(1894年)に安芸郡川北村の長正寺を移して寺号を改称することにで再興した。
旧中村市を一望出来る場所にあり、山内一帯にミニ八十八ケ所がある。また、桜の名所である。
境内
山門
本堂:本尊が拝顔できる。
大師堂:大師像が拝顔できる。脇に大日如来と興教大師
地蔵堂:ぼけ封じ地蔵堂と水子地蔵堂がある。
交互通行にて、信号機が設置されている車道を上がると10台ぐらいの駐車場があり、そこから少しの階段を上がると山門があり境内に至る。正面に本堂があり、右手に大師堂、左すぐに鐘楼がある。納経所は左に進んだ本坊脇にある。なお、一般の駐車場から境内へは、車道が急で細いため経験豊富なタクシーでのみ乗り入れは許可されている。
宿坊:なし
駐車場:15台
所在地 高知県四万十市安並4288
位置 北緯33度00分17.9秒 東経132度56分34.3秒
山号 浄瑠璃山
院号 東光院
宗旨 新義真言宗
宗派 真言宗豊山派
本尊 薬師如来
開基 (伝)弘法大師
札所等 四国八十八箇所番外
新四国曼荼羅56番
2023年07月18日
桐生明治館(きりゅうめいじかん)は、群馬県桐生市相生町にある、明治初期(1878年)の擬洋風建築
桐生明治館(きりゅうめいじかん)は、群馬県桐生市相生町にある、明治初期(1878年)の擬洋風建築である。「旧群馬県衛生所」の名称で、重要文化財に指定されている。
概要
館内には、明治期のピアノやオルガン、洋風建築に関する資料などが常設展示され、資料館として活用されている。 会議室や展示室は、会議・展示会場として利用が可能である。
利用情報
開館時間:午前9時から午後5時
休館日:毎週月曜日・祝日の翌日(月曜日と重なる時は翌日)・年末年始(12月28日から翌年1月4日まで)
観覧料:大人150円 小人50円 (団体:30人以上 大人110円 小人35円)
歴史
建築物としての歴史は、1878年(明治11年)に衛生所兼医学校として、前橋に新築されたことに始まる。その後、山田郡相生村に移転した際に大幅に改築されたが、重要文化財に指定された後、保存修理工事を行い、創建当初の姿に復元された。
交通
上毛電気鉄道
上毛線:天王宿駅より、徒歩約5分。
わたらせ渓谷鐵道・東武鉄道
わたらせ渓谷線・桐生線:相老駅より、徒歩約10分。
旧名称 群馬県衛生所
相生村役場
桐生市相生出張所
用途 資料館
旧用途 事務所
設計者 県の技師
構造形式 木造、桟瓦葺
建築面積 255.74 m2
延床面積 511.48 m2
階数 地上2階
竣工 1878年(明治11年)8月30日
所在地 〒376-0011
群馬県桐生市相生町二丁目414番地の6
座標 北緯36度24分43.7秒 東経139度18分34.3秒
文化財 重要文化財
指定・登録等日 1976年(昭和51年)2月3日
概要
館内には、明治期のピアノやオルガン、洋風建築に関する資料などが常設展示され、資料館として活用されている。 会議室や展示室は、会議・展示会場として利用が可能である。
利用情報
開館時間:午前9時から午後5時
休館日:毎週月曜日・祝日の翌日(月曜日と重なる時は翌日)・年末年始(12月28日から翌年1月4日まで)
観覧料:大人150円 小人50円 (団体:30人以上 大人110円 小人35円)
歴史
建築物としての歴史は、1878年(明治11年)に衛生所兼医学校として、前橋に新築されたことに始まる。その後、山田郡相生村に移転した際に大幅に改築されたが、重要文化財に指定された後、保存修理工事を行い、創建当初の姿に復元された。
交通
上毛電気鉄道
上毛線:天王宿駅より、徒歩約5分。
わたらせ渓谷鐵道・東武鉄道
わたらせ渓谷線・桐生線:相老駅より、徒歩約10分。
旧名称 群馬県衛生所
相生村役場
桐生市相生出張所
用途 資料館
旧用途 事務所
設計者 県の技師
構造形式 木造、桟瓦葺
建築面積 255.74 m2
延床面積 511.48 m2
階数 地上2階
竣工 1878年(明治11年)8月30日
所在地 〒376-0011
群馬県桐生市相生町二丁目414番地の6
座標 北緯36度24分43.7秒 東経139度18分34.3秒
文化財 重要文化財
指定・登録等日 1976年(昭和51年)2月3日
2023年07月17日
菊池神社(きくちじんじゃ)は、熊本県菊池市に鎮座する神社
菊池神社(きくちじんじゃ)は、熊本県菊池市に鎮座する神社である。南北朝時代に南朝側で戦った菊池氏の3代を祭る。建武中興十五社のうちの一社である。旧社格は別格官幣社で現在神社本庁の別表神社。
境内に菊池歴史館があり、菊池千本槍など菊池氏500年の歴史の遺物が展示されている。桜の名所としても知られている。
祭神
菊池氏は後醍醐天皇の倒幕戦争に加わり、南北朝時代には九州における南朝の主柱として奮戦した。当時の菊池家当主である菊池武時(第12代)、武重(第13代)、武光(第15代)の父子を主祭神に祀る他、菊池氏の一族26柱を配祀する。
歴史
慶応4年(1868年)に熊本藩から明治新政府の参与に出仕した長岡護美が、菊池氏と加藤清正のために神社を創建する案を建議した。同年7月18日、太政官政府はこの建言を採択し、熊本藩に両者の祭祀を執行するよう命じた。そこで熊本藩は、清正のために熊本城内に錦山神社を建て(現加藤神社)、菊池氏のために菊池城址に菊池神社を建てた。菊池神社の鎮座祭は明治3年(1870年)4月28日に行われ、この時に主祭神を菊池武時とし、武重と武光を配祀神とした。
明治6年(1873年)5月に郷社に列され、8年(1875年)7月には県社に昇格したが、その10月24日に楠木正成を祭る楠社(現湊川神社)が別格官幣社なのに菊池神社が県社では不公平だと白川県が教部省に願い出た。3年後の同11年(1878年)1月10日に名和神社とともに別格官幣社に列した。あわせて、その時まで配祀されていた武重、武士、武光、武政、武朝の5人に加え、菊池氏に従って戦った一族他家の将士も配祀することになった。同年6月3日に、菊池武時が戦死した元弘3年3月13日を太陽暦に換算した5月5日を例祭日に定めた。
大正12年(1923年)に配祀されていた武重と武光を主神に加えた。
昭和26年(1951年)に宗教法人法が公布されたのをうけ、昭和27年(1952年)9月13日に宗教法人菊池神社となった。
文化財
重要文化財(国指定)
絹本著色伝菊池能運像
菊池神社文書 4巻(41通)
交通アクセス
熊本桜町バスターミナルより熊本電鉄バス菊池温泉ゆきに乗車し終点「菊池温泉・市民広場前」下車、徒歩11分(860m)。
「菊池温泉・市民広場前」にはJR九州豊肥本線肥後大津駅より九州産交バス山鹿温泉ゆきに乗車しても向かうことができる。
九州自動車道植木インターチェンジより14q。
所在地 熊本県菊池市隈府1257
位置 北緯32度59分16.4秒 東経130度48分58.2秒
主祭神 菊池武時
菊池武重
菊池武光
社格等 旧別格官幣社・別表神社
創建 明治3年(1870年)
本殿の様式 三間社流造銅板葺
例祭 4月5日・10月15日
境内に菊池歴史館があり、菊池千本槍など菊池氏500年の歴史の遺物が展示されている。桜の名所としても知られている。
祭神
菊池氏は後醍醐天皇の倒幕戦争に加わり、南北朝時代には九州における南朝の主柱として奮戦した。当時の菊池家当主である菊池武時(第12代)、武重(第13代)、武光(第15代)の父子を主祭神に祀る他、菊池氏の一族26柱を配祀する。
歴史
慶応4年(1868年)に熊本藩から明治新政府の参与に出仕した長岡護美が、菊池氏と加藤清正のために神社を創建する案を建議した。同年7月18日、太政官政府はこの建言を採択し、熊本藩に両者の祭祀を執行するよう命じた。そこで熊本藩は、清正のために熊本城内に錦山神社を建て(現加藤神社)、菊池氏のために菊池城址に菊池神社を建てた。菊池神社の鎮座祭は明治3年(1870年)4月28日に行われ、この時に主祭神を菊池武時とし、武重と武光を配祀神とした。
明治6年(1873年)5月に郷社に列され、8年(1875年)7月には県社に昇格したが、その10月24日に楠木正成を祭る楠社(現湊川神社)が別格官幣社なのに菊池神社が県社では不公平だと白川県が教部省に願い出た。3年後の同11年(1878年)1月10日に名和神社とともに別格官幣社に列した。あわせて、その時まで配祀されていた武重、武士、武光、武政、武朝の5人に加え、菊池氏に従って戦った一族他家の将士も配祀することになった。同年6月3日に、菊池武時が戦死した元弘3年3月13日を太陽暦に換算した5月5日を例祭日に定めた。
大正12年(1923年)に配祀されていた武重と武光を主神に加えた。
昭和26年(1951年)に宗教法人法が公布されたのをうけ、昭和27年(1952年)9月13日に宗教法人菊池神社となった。
文化財
重要文化財(国指定)
絹本著色伝菊池能運像
菊池神社文書 4巻(41通)
交通アクセス
熊本桜町バスターミナルより熊本電鉄バス菊池温泉ゆきに乗車し終点「菊池温泉・市民広場前」下車、徒歩11分(860m)。
「菊池温泉・市民広場前」にはJR九州豊肥本線肥後大津駅より九州産交バス山鹿温泉ゆきに乗車しても向かうことができる。
九州自動車道植木インターチェンジより14q。
所在地 熊本県菊池市隈府1257
位置 北緯32度59分16.4秒 東経130度48分58.2秒
主祭神 菊池武時
菊池武重
菊池武光
社格等 旧別格官幣社・別表神社
創建 明治3年(1870年)
本殿の様式 三間社流造銅板葺
例祭 4月5日・10月15日
2023年07月16日
蟹満寺(かにまんじ)は、京都府木津川市山城町綺田(かばた)にある真言宗智山派の寺院
蟹満寺(かにまんじ)は、京都府木津川市山城町綺田(かばた)にある真言宗智山派の寺院。山号は普門山。本尊は釈迦如来。
歴史
この寺の創建年代や由緒については不詳であるが、周辺の発掘調査から飛鳥時代後期(7世紀末)の創建と推定されている。その後、江戸時代の正徳元年(1711年)智積院の僧・亮範が入寺し再興された。今昔物語集等に記載がある蟹の恩返しの伝承で有名である。
寺の所在地の地名綺田(かばた)は、古くは「カニハタ」「カムハタ」と読まれ、「蟹幡」「加波多」などと表記された。寺号についてもかつては加波多寺、紙幡寺などと表記されたものが蟹満寺と表記されるようになり、蟹の恩返しの伝説と結びつくようになったとする。この伝説が『今昔物語集』に収録されていることから、蟹満寺の寺号と蟹の報恩潭との結びつきは平安時代後期以前にさかのぼることがわかる。
上記の蟹の報恩潭は観音霊験説話であり、当寺の山号の普門山も法華経の観世音菩薩普門品に因むものであることから、当寺の本来の本尊は観音菩薩であったとみられる。以前寺の入口付近に観音堂が存在していたが、本尊は釈迦如来に変わっていた。本尊の銅造釈迦如来坐像(像高240p)は飛鳥時代後期(白鳳期)の作であるが、造像の由緒は不明で当初から蟹満寺にあったものか、他の寺院から移されたものかについては諸説ある。
発掘調査によると飛鳥時代後期(7世紀末)の創建とみられるが、宝暦9年(1759年)に建立された本堂が2010年(平成22年)に改築されたために古い建物は残っていない。
境内のあちこちに蟹の彫刻物がある。
文化財
国宝
銅造釈迦如来坐像
像高240.0p。本来は鍍金がほどこされていたが、頬のあたりに鍍金の痕跡を残すのみで像表面は黒色を呈する。右手は胸の辺に上げ第一指と第二指で輪をつくり、左手は掌を上にして膝上に置き、第三指を軽く曲げる(ただし、第三指の半ばから先は木製の後補)。材質、像高、前述の両手の印相などの図像的特色を含め、奈良市・薬師寺金堂薬師三尊像の中尊薬師如来像との類似が指摘される(薬師寺像の像高は254.7cm)。様式的には興福寺仏頭(もと山田寺講堂本尊、天武天皇14年(685年)開眼)と薬師寺像の中間に蟹満寺像を位置付けるのが通例であるが、天平期(8世紀)に入っての作とみなす説もある。
本像の伝来については記録がなく、当初から現在地に安置されていたのか、他所から移座されたのかを含め、確かなことは不明である。寺伝では本像は綺田の東方山中にあった浄土宗の大寺院・光明山寺から移されたものとする。これに対し、足立康は、本像は井堤寺(いでじ)にあったものとした。井堤寺は現在の綴喜郡井手町にあり、同地にあった橘諸兄の別業に付属した寺院である。足立説ではこの井堤寺を光明寺とも号したことから、前述の光明山寺と混同されたのではないかとする。他に蟹満寺像の旧所在については、山城国分寺にあったとする説(杉山二郎)、高麗寺(木津川市山城町上狛に跡がある)にあったとする説(角田文衛)などがある。2005年(平成17年)に実施された蟹満寺境内の発掘調査では本像の台座は創建時から動いていないとされ、本像は1,300年間動いていないとされた。しかし、2008年(平成20年)の木津川市教育委員会による再調査で、台座下には江戸時代の地層があり、台座も江戸時代の墓石を転用したものであることが判明した。
上記の本堂改築に伴い、本像も詳細な学術調査が行われ幾つかの発見があった。まず、本像の重量はは2172kgで、薬師寺像の4947kg(袈裟を含む)と比べてずっと軽く、銅厚が主要体部で2 - 3mmと非常に薄い。また、鋳掛けにより顔立ちを修整しているのも新知見である。また本像の制作方法は、分割型鋳造法か分割しない蝋型鋳造法か議論があったが、本調査により土型で作られた可能性が浮上している。
所在地 京都府木津川市山城町綺田36
位置 北緯34度47分11.16秒 東経135度48分57.09秒
山号 普門山
宗派 真言宗智山派
本尊 釈迦如来(国宝)
創建年 飛鳥時代
開基 伝・秦和賀
中興年 正徳元年(1711年)
中興 亮範
文化財 銅造釈迦如来坐像(国宝)、木造如来形坐像(市指定有形文化財
歴史
この寺の創建年代や由緒については不詳であるが、周辺の発掘調査から飛鳥時代後期(7世紀末)の創建と推定されている。その後、江戸時代の正徳元年(1711年)智積院の僧・亮範が入寺し再興された。今昔物語集等に記載がある蟹の恩返しの伝承で有名である。
寺の所在地の地名綺田(かばた)は、古くは「カニハタ」「カムハタ」と読まれ、「蟹幡」「加波多」などと表記された。寺号についてもかつては加波多寺、紙幡寺などと表記されたものが蟹満寺と表記されるようになり、蟹の恩返しの伝説と結びつくようになったとする。この伝説が『今昔物語集』に収録されていることから、蟹満寺の寺号と蟹の報恩潭との結びつきは平安時代後期以前にさかのぼることがわかる。
上記の蟹の報恩潭は観音霊験説話であり、当寺の山号の普門山も法華経の観世音菩薩普門品に因むものであることから、当寺の本来の本尊は観音菩薩であったとみられる。以前寺の入口付近に観音堂が存在していたが、本尊は釈迦如来に変わっていた。本尊の銅造釈迦如来坐像(像高240p)は飛鳥時代後期(白鳳期)の作であるが、造像の由緒は不明で当初から蟹満寺にあったものか、他の寺院から移されたものかについては諸説ある。
発掘調査によると飛鳥時代後期(7世紀末)の創建とみられるが、宝暦9年(1759年)に建立された本堂が2010年(平成22年)に改築されたために古い建物は残っていない。
境内のあちこちに蟹の彫刻物がある。
文化財
国宝
銅造釈迦如来坐像
像高240.0p。本来は鍍金がほどこされていたが、頬のあたりに鍍金の痕跡を残すのみで像表面は黒色を呈する。右手は胸の辺に上げ第一指と第二指で輪をつくり、左手は掌を上にして膝上に置き、第三指を軽く曲げる(ただし、第三指の半ばから先は木製の後補)。材質、像高、前述の両手の印相などの図像的特色を含め、奈良市・薬師寺金堂薬師三尊像の中尊薬師如来像との類似が指摘される(薬師寺像の像高は254.7cm)。様式的には興福寺仏頭(もと山田寺講堂本尊、天武天皇14年(685年)開眼)と薬師寺像の中間に蟹満寺像を位置付けるのが通例であるが、天平期(8世紀)に入っての作とみなす説もある。
本像の伝来については記録がなく、当初から現在地に安置されていたのか、他所から移座されたのかを含め、確かなことは不明である。寺伝では本像は綺田の東方山中にあった浄土宗の大寺院・光明山寺から移されたものとする。これに対し、足立康は、本像は井堤寺(いでじ)にあったものとした。井堤寺は現在の綴喜郡井手町にあり、同地にあった橘諸兄の別業に付属した寺院である。足立説ではこの井堤寺を光明寺とも号したことから、前述の光明山寺と混同されたのではないかとする。他に蟹満寺像の旧所在については、山城国分寺にあったとする説(杉山二郎)、高麗寺(木津川市山城町上狛に跡がある)にあったとする説(角田文衛)などがある。2005年(平成17年)に実施された蟹満寺境内の発掘調査では本像の台座は創建時から動いていないとされ、本像は1,300年間動いていないとされた。しかし、2008年(平成20年)の木津川市教育委員会による再調査で、台座下には江戸時代の地層があり、台座も江戸時代の墓石を転用したものであることが判明した。
上記の本堂改築に伴い、本像も詳細な学術調査が行われ幾つかの発見があった。まず、本像の重量はは2172kgで、薬師寺像の4947kg(袈裟を含む)と比べてずっと軽く、銅厚が主要体部で2 - 3mmと非常に薄い。また、鋳掛けにより顔立ちを修整しているのも新知見である。また本像の制作方法は、分割型鋳造法か分割しない蝋型鋳造法か議論があったが、本調査により土型で作られた可能性が浮上している。
所在地 京都府木津川市山城町綺田36
位置 北緯34度47分11.16秒 東経135度48分57.09秒
山号 普門山
宗派 真言宗智山派
本尊 釈迦如来(国宝)
創建年 飛鳥時代
開基 伝・秦和賀
中興年 正徳元年(1711年)
中興 亮範
文化財 銅造釈迦如来坐像(国宝)、木造如来形坐像(市指定有形文化財
2023年07月15日
護徳寺(ごとくじ)は新潟県東蒲原郡阿賀町日出谷にある寺院
護徳寺(ごとくじ)は新潟県東蒲原郡阿賀町日出谷にある寺院。宗派は真言宗豊山派。
歴史
室町時代の永正年間(1504年から1521年)に当時の領主・蘆名氏が自身の念持仏を祀り創建された。その後、荒廃し蘆名盛滋の代になって宥円に命じ再興されたが、天正17年(1589年)伊達政宗の蘆名領侵攻により衰退した。江戸時代になると会津藩主となった松平氏の庇護下で数回にわたって修理が行われた。
文化財
建築
観音堂 室町時代の弘治3年(1557年)の建立。昭和38年(1963年)重要文化財に指定された。
彫刻
木造地蔵菩薩(室町時代、町指定文化財)
木造聖観音菩薩(室町時代、町指定文化財)
所在地 新潟県東蒲原郡阿賀町日出谷甲3709
宗派 真言宗豊山派
創建年 永正年間(1504年から1521年)
開基 蘆名氏
歴史
室町時代の永正年間(1504年から1521年)に当時の領主・蘆名氏が自身の念持仏を祀り創建された。その後、荒廃し蘆名盛滋の代になって宥円に命じ再興されたが、天正17年(1589年)伊達政宗の蘆名領侵攻により衰退した。江戸時代になると会津藩主となった松平氏の庇護下で数回にわたって修理が行われた。
文化財
建築
観音堂 室町時代の弘治3年(1557年)の建立。昭和38年(1963年)重要文化財に指定された。
彫刻
木造地蔵菩薩(室町時代、町指定文化財)
木造聖観音菩薩(室町時代、町指定文化財)
所在地 新潟県東蒲原郡阿賀町日出谷甲3709
宗派 真言宗豊山派
創建年 永正年間(1504年から1521年)
開基 蘆名氏