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2023年07月30日
雲巌寺(うんがんじ)は、日本の北関東、栃木県大田原市雲岩寺に所在する臨済宗妙心寺派の寺院
雲巌寺(うんがんじ)は、日本の北関東、栃木県大田原市雲岩寺に所在する臨済宗妙心寺派の寺院である。山号は東山(とうざん)。本尊は釈迦牟尼仏(銅造釈迦如来坐像)。開山は高峰顕日(仏国国師)、開基(創立者)は叟元和尚(寺伝)。
禅宗寺院としての開山当時は、筑前の聖福寺(現・福岡県福岡市博多区に所在)、越前の永平寺(現・福井県吉田郡永平寺町に所在)、紀州の興国寺(現・和歌山県日高郡由良町に所在)とともに、日本の禅宗四大道場と呼ばれた。

歴史
雲巌寺は、平安時代後期の大治年間(1126年-1131年間)に初叟元(しょ そうげん)和尚によって那須12郷の一つである山田郷須佐木村の奥の霊気漂う理想的な場所に旧仏教系寺院として開山されたという。しかし寺は何時しか荒廃してしまった。
復興させたのは高峰顕日(仏国国師)で、弘安6年(1283年)、時の執権・北条時宗を大檀那とし、高梨勝願法印の寄進のもと、臨済宗寺院として改めて開山したといわれる。
無住妙徳禅師が住職となった天正6年(1578年)、雲巌寺は臨済宗妙心寺派へ改宗された。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では、烏山城の那須資晴が恭順せず、城攻めの際には付近の住民が雲巌寺に逃げ込む。豊臣方は、北条氏を大檀那とするこの寺を軍事要塞と見なし、火を放ったというが、数年後には再建されている。
当寺は俳人・松尾芭蕉が奥の細道紀行で立ち寄ったことでも知られる。寺域には当時の住職であった仏頂禅師と芭蕉の歌碑があり、以下の2句が刻まれている。
この歌碑は、享和3年(1803年)に建てられたものを、1879年(明治12年)になって再建したものと謂われる。
弘化4年(1847年)にも火災で堂宇を失ったが、嘉永2年(1849年)に再建された。
1912年(大正元年)、築300年を超えた仏堂の改築工事が始まり、1922年(大正11年)に竣工した。
2010年代のJR東日本は、趣深い日本国内の旅を謳うシリーズCM「大人の休日倶楽部」を吉永小百合主演で打ってきたが[3]、黒羽町にスポットを当てて雲巌寺を主題の一つとする新篇「栃木県:黒羽の芭蕉篇」が2018年(平成30年)3月から訴求され始めると、厳かな山寺の魅力が消費者に伝わったと見えて、当寺では観光客が急増した。本来的に山深い修行の場であって観光地ではない当寺と周辺地域は、観光客に対応する設備も基本的に無く、通信機器の電波状況も「圏外」であるが、観光客もおおかたはそのことを知ったうえでの来訪であり、大きな混乱は見られない。雲巌寺は、人が内なるものに心を置く道場であり、聖域の逍遥(散策)を楽しんでもらえるよう、静かな参拝を呼びかけている。

交通アクセス
バス
JR那須塩原駅(新幹線停車)東口から
大田原市営バス 雲巌寺線に乗車およそ1時間 「雲巌寺前」下車 (時刻表 H31.4.1現在)
JR西那須野駅(在来線のみ)東口から
関東自動車バス 黒羽・福祉大・五峰の湯線に乗車45分 「黒羽・黒羽出張所」または「黒羽支所」で大田原市営バス雲巌寺線または須賀川線に乗り換え25分 「雲巌寺」下車
車
東北自動車道矢板インターチェンジから
国道4号、国道461号、栃木県道321号南方須佐木線にて約1時間。
東北自動車道西那須野塩原インターチェンジから
国道400号、国道461号、栃木県道321号南方須佐木線にて約45分。
無料で自由拝観できるが、いわゆる観光寺院ではなく、修行道場であることに留意が必要である。

所在地 日本の旗 日本 栃木県大田原市雲岩寺27
位置 北緯36度51分10秒 東経140度12分34秒
山号 東山
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 釈迦牟尼仏(銅造釈迦如来坐像)
創建年 1126年-1131年間(大治年間)
開山 高峰顕日、(仏国国師)
開基 叟元和尚、北条時宗(大檀那)
正式名 東山 雲巌寺
文化財 仏国国師像(重文)、
仏応禅師像(重文)等
禅宗寺院としての開山当時は、筑前の聖福寺(現・福岡県福岡市博多区に所在)、越前の永平寺(現・福井県吉田郡永平寺町に所在)、紀州の興国寺(現・和歌山県日高郡由良町に所在)とともに、日本の禅宗四大道場と呼ばれた。

歴史
雲巌寺は、平安時代後期の大治年間(1126年-1131年間)に初叟元(しょ そうげん)和尚によって那須12郷の一つである山田郷須佐木村の奥の霊気漂う理想的な場所に旧仏教系寺院として開山されたという。しかし寺は何時しか荒廃してしまった。
復興させたのは高峰顕日(仏国国師)で、弘安6年(1283年)、時の執権・北条時宗を大檀那とし、高梨勝願法印の寄進のもと、臨済宗寺院として改めて開山したといわれる。
無住妙徳禅師が住職となった天正6年(1578年)、雲巌寺は臨済宗妙心寺派へ改宗された。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では、烏山城の那須資晴が恭順せず、城攻めの際には付近の住民が雲巌寺に逃げ込む。豊臣方は、北条氏を大檀那とするこの寺を軍事要塞と見なし、火を放ったというが、数年後には再建されている。
当寺は俳人・松尾芭蕉が奥の細道紀行で立ち寄ったことでも知られる。寺域には当時の住職であった仏頂禅師と芭蕉の歌碑があり、以下の2句が刻まれている。
竪横(たてよこ)の 五尺(ごしやく)にたらぬ草(くさ)の庵(いほ )むすぶもくやし 雨(あめ)なかりせば 仏頂
木啄(きつつき)も 庵(いほ)はやぶらず 夏木立(なつこだち) 芭蕉
この歌碑は、享和3年(1803年)に建てられたものを、1879年(明治12年)になって再建したものと謂われる。
弘化4年(1847年)にも火災で堂宇を失ったが、嘉永2年(1849年)に再建された。
1912年(大正元年)、築300年を超えた仏堂の改築工事が始まり、1922年(大正11年)に竣工した。
2010年代のJR東日本は、趣深い日本国内の旅を謳うシリーズCM「大人の休日倶楽部」を吉永小百合主演で打ってきたが[3]、黒羽町にスポットを当てて雲巌寺を主題の一つとする新篇「栃木県:黒羽の芭蕉篇」が2018年(平成30年)3月から訴求され始めると、厳かな山寺の魅力が消費者に伝わったと見えて、当寺では観光客が急増した。本来的に山深い修行の場であって観光地ではない当寺と周辺地域は、観光客に対応する設備も基本的に無く、通信機器の電波状況も「圏外」であるが、観光客もおおかたはそのことを知ったうえでの来訪であり、大きな混乱は見られない。雲巌寺は、人が内なるものに心を置く道場であり、聖域の逍遥(散策)を楽しんでもらえるよう、静かな参拝を呼びかけている。

交通アクセス
バス
JR那須塩原駅(新幹線停車)東口から
大田原市営バス 雲巌寺線に乗車およそ1時間 「雲巌寺前」下車 (時刻表 H31.4.1現在)
JR西那須野駅(在来線のみ)東口から
関東自動車バス 黒羽・福祉大・五峰の湯線に乗車45分 「黒羽・黒羽出張所」または「黒羽支所」で大田原市営バス雲巌寺線または須賀川線に乗り換え25分 「雲巌寺」下車
車
東北自動車道矢板インターチェンジから
国道4号、国道461号、栃木県道321号南方須佐木線にて約1時間。
東北自動車道西那須野塩原インターチェンジから
国道400号、国道461号、栃木県道321号南方須佐木線にて約45分。
無料で自由拝観できるが、いわゆる観光寺院ではなく、修行道場であることに留意が必要である。

所在地 日本の旗 日本 栃木県大田原市雲岩寺27
位置 北緯36度51分10秒 東経140度12分34秒
山号 東山
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 釈迦牟尼仏(銅造釈迦如来坐像)
創建年 1126年-1131年間(大治年間)
開山 高峰顕日、(仏国国師)
開基 叟元和尚、北条時宗(大檀那)
正式名 東山 雲巌寺
文化財 仏国国師像(重文)、
仏応禅師像(重文)等
2023年07月29日
宇志比古神社(うしひこじんじゃ)は、徳島県鳴門市大麻町大谷に鎮座する神社
宇志比古神社(うしひこじんじゃ)は、徳島県鳴門市大麻町大谷に鎮座する神社である。

歴史
創建年は不詳。天正年間(1573年-1593年)に長宗我部元親の乱入により社殿、古記録、社宝を焼失したが、後に再興された。江戸時代には八幡宮と呼ばれ、明治以降に宇志比古神社を称している。
徳島県内で現存する神社本殿では最古にあたり、2000年(平成12年)12月4日に本殿が国の重要文化財に指定された。

祭神
宇志比古尊
応神天皇
仁徳天皇
神功皇后
交通
JR鳴門線阿波大谷駅より徒歩約10分。
所在地 徳島県鳴門市大麻町大谷字山田66
位置 北緯34度9分43.1秒 東経134度32分12.6秒
主祭神 宇志比古尊
応神天皇
仁徳天皇
神功皇后
社格等 式内社・郷社
創建 不詳

歴史
創建年は不詳。天正年間(1573年-1593年)に長宗我部元親の乱入により社殿、古記録、社宝を焼失したが、後に再興された。江戸時代には八幡宮と呼ばれ、明治以降に宇志比古神社を称している。
徳島県内で現存する神社本殿では最古にあたり、2000年(平成12年)12月4日に本殿が国の重要文化財に指定された。

祭神
宇志比古尊
応神天皇
仁徳天皇
神功皇后
交通
JR鳴門線阿波大谷駅より徒歩約10分。
所在地 徳島県鳴門市大麻町大谷字山田66
位置 北緯34度9分43.1秒 東経134度32分12.6秒
主祭神 宇志比古尊
応神天皇
仁徳天皇
神功皇后
社格等 式内社・郷社
創建 不詳
2023年07月28日
日枝神社(ひえじんじゃ)は、東京都千代田区永田町二丁目にある神社
日枝神社(ひえじんじゃ)は、東京都千代田区永田町二丁目にある神社。江戸三大祭の一つ、山王祭が行われる。旧社格は准勅祭社(東京十社)、官幣大社。

大山咋神(おおやまくいのかみ)を主祭神とし、相殿に国常立神(くにのとこたちのかみ)、伊弉冉神(いざなみのかみ)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を祀る。
所在地は正確には千代田区永田町であり、社殿は東向き、表参道も国会議事堂方面の東方へと伸びているが、港区赤坂地区の北東に隣接し、そちらの南西方面にも大きな鳥居と裏参道が設けられていることや、近くに赤坂氷川神社が鎮座していることもあって、赤坂(の)日枝神社と通称されることが多い。
歴史
創建の年代は不詳である。文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城築城にあたり、川越の無量寿寺(現在の喜多院・中院)の鎮守である川越日枝神社を勧請したのに始まるという。徳川家康が江戸に移封されたとき、城内の紅葉山に遷座し、江戸城の鎮守とした。
慶長9年(1604年)からの徳川秀忠による江戸城改築の際、社地を江戸城外の麹町隼町に遷座し、庶民が参拝できるようになった。社地は家康により5石、元和3年(1617年)に秀忠により100石、そして寛永12年(1635年)に徳川家光からの寄付を加えて600石となった。
明暦3年(1657年)、明暦の大火により社殿を焼失したため、万治2年(1659年)、将軍家綱が赤坂の溜池を望む松平忠房の邸地を官収して社地に当てる形で、現在地に遷座した。この地は江戸城から見て裏鬼門に位置する。
明治元年(1868年)11月の東京奠都の際に准勅祭社に指定された。その後明治3年(1871年)に神祇官直下から東京府管轄に移され、明治5年(1873年)の官国幣社の選定時にも漏れ、そのまま東京府の府社となった。1881年(明治14年)に、氷川神社宮司で日枝神社の祠官を兼ねていた平山省斎が、皇城鎮護の神社が府社であっていいはずがないので、官幣大社にしてほしいと願い出た。この時は官幣大社にならなかったが、東京府・内務省の賛成を得て1882年(明治15年)1月9日に官幣中社になった。大正元年(1912年)には官幣大社に昇格した。
昭和20年(1945年)の東京大空襲で社殿が焼失し、昭和33年(1958年)に再建された。

日枝神社 山王鳥居と表参道(山王男坂)
交通アクセス
東京メトロ千代田線 - 赤坂駅(出口2)から徒歩3分
東京メトロ南北線・銀座線 - 溜池山王駅(出口7)から徒歩3分
東京メトロ千代田線 - 国会議事堂前駅(出口5)から徒歩5分
東京メトロ銀座線・丸ノ内線 - 赤坂見附駅(出口11)から徒歩8分
所在地 東京都千代田区永田町2丁目10番5号
位置 北緯35度40分29秒 東経139度44分22.5秒
主祭神 大山咋神
社格等 官幣大社・別表神社
創建 不詳
別名 日吉山王社
日吉山王大権現社
江戸山王大権現
麹町山王
山王社
山王さま
山王さん
例祭 6月15日(山王祭)

大山咋神(おおやまくいのかみ)を主祭神とし、相殿に国常立神(くにのとこたちのかみ)、伊弉冉神(いざなみのかみ)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を祀る。
所在地は正確には千代田区永田町であり、社殿は東向き、表参道も国会議事堂方面の東方へと伸びているが、港区赤坂地区の北東に隣接し、そちらの南西方面にも大きな鳥居と裏参道が設けられていることや、近くに赤坂氷川神社が鎮座していることもあって、赤坂(の)日枝神社と通称されることが多い。
歴史
創建の年代は不詳である。文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城築城にあたり、川越の無量寿寺(現在の喜多院・中院)の鎮守である川越日枝神社を勧請したのに始まるという。徳川家康が江戸に移封されたとき、城内の紅葉山に遷座し、江戸城の鎮守とした。
慶長9年(1604年)からの徳川秀忠による江戸城改築の際、社地を江戸城外の麹町隼町に遷座し、庶民が参拝できるようになった。社地は家康により5石、元和3年(1617年)に秀忠により100石、そして寛永12年(1635年)に徳川家光からの寄付を加えて600石となった。
明暦3年(1657年)、明暦の大火により社殿を焼失したため、万治2年(1659年)、将軍家綱が赤坂の溜池を望む松平忠房の邸地を官収して社地に当てる形で、現在地に遷座した。この地は江戸城から見て裏鬼門に位置する。
明治元年(1868年)11月の東京奠都の際に准勅祭社に指定された。その後明治3年(1871年)に神祇官直下から東京府管轄に移され、明治5年(1873年)の官国幣社の選定時にも漏れ、そのまま東京府の府社となった。1881年(明治14年)に、氷川神社宮司で日枝神社の祠官を兼ねていた平山省斎が、皇城鎮護の神社が府社であっていいはずがないので、官幣大社にしてほしいと願い出た。この時は官幣大社にならなかったが、東京府・内務省の賛成を得て1882年(明治15年)1月9日に官幣中社になった。大正元年(1912年)には官幣大社に昇格した。
昭和20年(1945年)の東京大空襲で社殿が焼失し、昭和33年(1958年)に再建された。

日枝神社 山王鳥居と表参道(山王男坂)
交通アクセス
東京メトロ千代田線 - 赤坂駅(出口2)から徒歩3分
東京メトロ南北線・銀座線 - 溜池山王駅(出口7)から徒歩3分
東京メトロ千代田線 - 国会議事堂前駅(出口5)から徒歩5分
東京メトロ銀座線・丸ノ内線 - 赤坂見附駅(出口11)から徒歩8分
所在地 東京都千代田区永田町2丁目10番5号
位置 北緯35度40分29秒 東経139度44分22.5秒
主祭神 大山咋神
社格等 官幣大社・別表神社
創建 不詳
別名 日吉山王社
日吉山王大権現社
江戸山王大権現
麹町山王
山王社
山王さま
山王さん
例祭 6月15日(山王祭)
2023年07月27日
栄福寺(えいふくじ)は、千葉県印西市角田(つのだ)にある天台宗の寺院
栄福寺(えいふくじ)は、千葉県印西市角田(つのだ)にある天台宗の寺院。重要文化財の薬師堂がある。
奈良時代の聖武天皇の代の天平年間(729-749年)[2]に行基による開基と伝わる。
薬師堂は室町時代の文明4年(1472年)建立されたもので、建立年代が明らかな中では千葉県最古の建造物。
太平洋戦争後の昭和29年(1954年)9月17日に重要文化財に指定された。
市内小倉の宝珠院観音堂と構造や形式が類似することでも知られる。

栄福寺薬師堂(重要文化財)
文化財
重要文化財(国指定)
薬師堂 - 室町時代後期(1472年)の建立。桁行三間、梁間三間、一重、寄棟造、向拝一間、茅葺。昭和29年(1954年)09月17日指定。

アクセス
北総線の印旛日本医大駅から徒歩30分。
奈良時代の聖武天皇の代の天平年間(729-749年)[2]に行基による開基と伝わる。
薬師堂は室町時代の文明4年(1472年)建立されたもので、建立年代が明らかな中では千葉県最古の建造物。
太平洋戦争後の昭和29年(1954年)9月17日に重要文化財に指定された。
市内小倉の宝珠院観音堂と構造や形式が類似することでも知られる。

栄福寺薬師堂(重要文化財)
文化財
重要文化財(国指定)
薬師堂 - 室町時代後期(1472年)の建立。桁行三間、梁間三間、一重、寄棟造、向拝一間、茅葺。昭和29年(1954年)09月17日指定。

アクセス
北総線の印旛日本医大駅から徒歩30分。
2023年07月26日
神原神社(かんばらじんじゃ)は島根県雲南市加茂町にある神社
神原神社(かんばらじんじゃ)は島根県雲南市加茂町にある神社である。旧社地にあった古墳から「景初三年」の銘を有する三角縁神獣鏡が出土したことで知られる。

神原神社本殿
祭神
大国主神、磐筒男命、磐筒女命を祀る。
『出雲国風土記』大原郡条の神原郷の項に見えるのが初見である。当初は大国主神のみを祀ったものと見られるが、宝永5年(1708年)に三刀屋天満宮宮司の広沢漆拾がまとめた『神原神社縁起』では祭神が磐筒男命・磐筒女命とされている。
歴史
『出雲国風土記』には「神原社」と記され、神祇官に所属しているとある。また、『出雲国風土記』大原郡条の神原郷の項に「所造天下大神之御財 積置給處也(所造天下大神(大国主命)の宝が置かれた場所である)」とも記されている。延喜式神名帳には「神原神社」とある。慶長16年(1611年)の棟札には「神原松井大明神」、前述の『神原神社縁起』では「神原神社松井大明神」「松井神寶大神宮」、享保2年(1717年)に出された『雲陽誌』には「神寶明神」と記されている。
明治4年12月に村社に列せられた。現在の社殿は後述の赤川の改修工事に伴い昭和47年(1972年)に遷移されたものである。

神原神社古墳
旧社地は古墳の上にあった。この古墳は方墳で、復元した場合の規模は29m×25m、高さは5m程と推定される。島根県では最古に属する前期古墳である。
昭和47年(1972年)の赤川(斐伊川水系)の改修工事で社地が新堤防域に組み込まれるために神社を南西に50mほど遷移することになり、その際に古墳の発掘調査が行われた。竪穴式石室からの出土品の中に魏の「景初三年」(239年)の銘が鋳出された三角縁神獣鏡があった。この銅鏡を含めた出土品は一括して国の重要文化財に指定されている。出土品は国(文化庁)所有で、島根県立古代出雲歴史博物館に保管。石室は移築された社殿の東側に復元されていて自由に見学できる。

神原神社古墳の石室(復元)
祭礼
11月9日に行われる例祭には県指定無形民俗文化財の獅子舞が奉納される。神在祭の期間には神事が行われる。
所在地 島根県雲南市加茂町神原1436
位置 北緯35度20分46.5秒 東経132度53分44.8秒
主祭神 大国主神
社格等 式内社(小)
旧村社
創建 不詳
本殿の様式 大社造
別名 神宝大明神
例祭 11月9日
主な神事 神在祭
獅子舞

神原神社本殿
祭神
大国主神、磐筒男命、磐筒女命を祀る。
『出雲国風土記』大原郡条の神原郷の項に見えるのが初見である。当初は大国主神のみを祀ったものと見られるが、宝永5年(1708年)に三刀屋天満宮宮司の広沢漆拾がまとめた『神原神社縁起』では祭神が磐筒男命・磐筒女命とされている。
歴史
『出雲国風土記』には「神原社」と記され、神祇官に所属しているとある。また、『出雲国風土記』大原郡条の神原郷の項に「所造天下大神之御財 積置給處也(所造天下大神(大国主命)の宝が置かれた場所である)」とも記されている。延喜式神名帳には「神原神社」とある。慶長16年(1611年)の棟札には「神原松井大明神」、前述の『神原神社縁起』では「神原神社松井大明神」「松井神寶大神宮」、享保2年(1717年)に出された『雲陽誌』には「神寶明神」と記されている。
明治4年12月に村社に列せられた。現在の社殿は後述の赤川の改修工事に伴い昭和47年(1972年)に遷移されたものである。

神原神社古墳
旧社地は古墳の上にあった。この古墳は方墳で、復元した場合の規模は29m×25m、高さは5m程と推定される。島根県では最古に属する前期古墳である。
昭和47年(1972年)の赤川(斐伊川水系)の改修工事で社地が新堤防域に組み込まれるために神社を南西に50mほど遷移することになり、その際に古墳の発掘調査が行われた。竪穴式石室からの出土品の中に魏の「景初三年」(239年)の銘が鋳出された三角縁神獣鏡があった。この銅鏡を含めた出土品は一括して国の重要文化財に指定されている。出土品は国(文化庁)所有で、島根県立古代出雲歴史博物館に保管。石室は移築された社殿の東側に復元されていて自由に見学できる。
神原神社古墳の石室(復元)
祭礼
11月9日に行われる例祭には県指定無形民俗文化財の獅子舞が奉納される。神在祭の期間には神事が行われる。
所在地 島根県雲南市加茂町神原1436
位置 北緯35度20分46.5秒 東経132度53分44.8秒
主祭神 大国主神
社格等 式内社(小)
旧村社
創建 不詳
本殿の様式 大社造
別名 神宝大明神
例祭 11月9日
主な神事 神在祭
獅子舞
2023年07月25日
江上天主堂(えがみてんしゅどう)は、長崎県五島市の奈留島(旧南松浦郡奈留町)にあるキリスト教(カトリック教会)の聖堂
江上天主堂(えがみてんしゅどう)は、長崎県五島市の奈留島(旧南松浦郡奈留町)にあるキリスト教(カトリック教会)の聖堂である。国の重要文化財であり、ユネスコの世界遺産(文化遺産)候補で2018年に登録審査が決まり、同年6月30日に登録が決まった「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する「江上集落」に包括される教会である。
奈留島の西端近くに位置し、かつては中五島の中心的な存在であったが、過疎化による信徒の減少のため現在は主任司祭はおらず、島の中央部にある奈留教会の巡回教会となっており、普段は委任された教会守が管理している。内部見学は事前に連絡しておく必要がある。

教会の保護者
聖ヨゼフ
概要
歴史
1918年(大正 7年) - 竣工
2001年(平成13年) - 外観改修(塗装)
2002年(平成14年)2月26日 - 長崎県指定有形文化財に指定される
2007年(平成19年) - 世界遺産の構成資産に選ばれる(信者は候補から除外するよう請願、後に合意)
2008年(平成20年)6月9日 - 国の重要文化財に指定される
2016年(平成28年) - 世界遺産としては「禁教期に焦点を絞るべき」との指摘をうけ推薦が一旦取り下げられ、対応を協議し再推薦は決まったが禁教期を象徴する「江上集落」に包括する扱いとなった
2018年(平成30年)6月30日 - 世界遺産登録が決定
建物
木造平屋、瓦葺きのロマネスク様式
リブ・ヴォールト天井
設計・施工:鉄川与助
特徴
谷口に建てられており、周囲は森に覆われている。そのため大雨が降ると建物周囲を水が流れるため、高床式構造になっている。内部の柱も腐食防止と虫除け効果から下地にベンガラを塗り、その上から木目を描いている。ステンドグラスも手描き塗装によるもの。

所在地
〒853-2202 長崎県五島市奈留町大串1131
アクセス
奈留島バス大串線「江上」停留所下車
奈留島港よりタクシー18分
奈留島の西端近くに位置し、かつては中五島の中心的な存在であったが、過疎化による信徒の減少のため現在は主任司祭はおらず、島の中央部にある奈留教会の巡回教会となっており、普段は委任された教会守が管理している。内部見学は事前に連絡しておく必要がある。

教会の保護者
聖ヨゼフ
概要
歴史
1918年(大正 7年) - 竣工
2001年(平成13年) - 外観改修(塗装)
2002年(平成14年)2月26日 - 長崎県指定有形文化財に指定される
2007年(平成19年) - 世界遺産の構成資産に選ばれる(信者は候補から除外するよう請願、後に合意)
2008年(平成20年)6月9日 - 国の重要文化財に指定される
2016年(平成28年) - 世界遺産としては「禁教期に焦点を絞るべき」との指摘をうけ推薦が一旦取り下げられ、対応を協議し再推薦は決まったが禁教期を象徴する「江上集落」に包括する扱いとなった
2018年(平成30年)6月30日 - 世界遺産登録が決定
建物
木造平屋、瓦葺きのロマネスク様式
リブ・ヴォールト天井
設計・施工:鉄川与助
特徴
谷口に建てられており、周囲は森に覆われている。そのため大雨が降ると建物周囲を水が流れるため、高床式構造になっている。内部の柱も腐食防止と虫除け効果から下地にベンガラを塗り、その上から木目を描いている。ステンドグラスも手描き塗装によるもの。

所在地
〒853-2202 長崎県五島市奈留町大串1131
アクセス
奈留島バス大串線「江上」停留所下車
奈留島港よりタクシー18分
2023年07月24日
栄山寺(えいさんじ、旧字体:榮山寺)は、奈良県五條市にある真言宗豊山派の寺院
栄山寺(えいさんじ、旧字体:榮山寺)は、奈良県五條市にある真言宗豊山派の寺院。藤原武智麻呂により創建された。山号は学晶山(がくしょうさん)。本尊は薬師如来。奈良時代の建築である八角堂(国宝)があることで知られる。

八角堂(国宝)
歴史
現代の五條市にあたる地域は古代には阿陀郷と呼ばれた。「阿陀」の地名は『万葉集』にも見え、式内社(『延喜式神名帳』に記載された神社)の阿陀比売神社(あだひめじんじゃ)があるなど早くから開けた地域であったと思われる。
栄山寺は古くは前山寺(さきやまでら)と呼ばれ、藤原不比等の長子である武智麻呂が養老3年(719年)に創建したと伝わる。その後、武智麻呂を祖とする藤原南家の菩提寺として鎌倉時代になるまで大いに栄えた。南北朝時代には南朝の後村上・長慶・後亀山天皇の行在所が置かれていた。そのため「栄山寺行宮跡」として国の史跡に指定されている。
現存する八角堂は、藤原武智麻呂の没後、子の藤原仲麻呂が父の菩提を弔うために建立したと伝える。武智麻呂の墓は当初は佐保山(奈良市街地北部の丘陵地)にあったが、天平宝字4年(760年)、栄山寺北側の山上に改葬された。八角堂の建立時期はこの年から仲麻呂の没した天平宝字8年(764年)までの5年間に絞られる。正倉院文書に天平宝字7年(763年)12月20日付けの「造円堂所牒」(ぞうえんどうしょちょう)という文書があり、この「円堂」は栄山寺八角堂を指すものと考証されている。
栄山寺は役小角の修行地とも伝えられ修験道にも関係があったが戦国時代末期には八角堂を除く堂坊を焼失した。その後、本堂、阿弥陀堂、塔ノ堂が再建され、さらに塔頭六宇が再建された。
寺は元来は興福寺の末寺であったが江戸時代初期に一時無住寺となり、その後泉涌寺別院雲龍院(京都市東山区)の末寺となり、さらに護国寺(東京都文京区)の末寺となった。現在では塔頭も梅室院のみが残っている。

本堂と石灯籠(重文)
文化財
国宝
八角堂(附:旧石露盤残欠)
梵鐘
銘文から延喜17年(917年)の製作とわかる。京都の神護寺、宇治の平等院の鐘と共に「平安三絶の鐘」として知られているもので、四面に菅原道真撰で、小野道風の書と伝えられる陽鋳の銘文が施されている。藤原武智麻呂の5世の孫である藤原道明と道明の伯父の橘澄清によって寄進されたもので、当初は山城道澄寺にあった。道澄寺は藤原道明と橘澄清の名の1字ずつを取って寺号としたもので、寺は京都市伏見区深草直違橋(すじかいばし)に現存する。

栄山寺梵鐘(国宝)
アクセス・拝観料
JR五条駅・五條バスセンターより奈良交通バス「西阿田」または「東八田」ゆきに乗り「栄山寺前」下車すぐ(但し便数は少なく平日のみ運行)。もしくは「八木駅」「近鉄高田駅」「大淀バスセンター」ゆきに乗り「栄山寺口」で下車し今井町交差点を南へ徒歩10分ほど
駐車場は入口(境内西端)、バス停付近に2台ほど駐車可能。または境内東端に公衆トイレと5台ほど駐車可能な駐車場あり
拝観料は500円(高校生以上)
所在地 奈良県五條市小島町503
位置 北緯34度21分21.4秒 東経135度43分14.4秒
山号 学晶山(學晶山)
宗旨 新義真言宗
宗派 真言宗豊山派
本尊 薬師如来
創建年 伝 養老3年(719年)
開基 伝 藤原武智麻呂
別称 前山寺
文化財 八角堂・梵鐘(国宝)
八角堂内陣装飾画・木造薬師如来坐像・木造十二神将立像・石灯篭・石塔婆(国の重要文化財)
栄山寺行宮跡(国の史跡

八角堂(国宝)
歴史
現代の五條市にあたる地域は古代には阿陀郷と呼ばれた。「阿陀」の地名は『万葉集』にも見え、式内社(『延喜式神名帳』に記載された神社)の阿陀比売神社(あだひめじんじゃ)があるなど早くから開けた地域であったと思われる。
栄山寺は古くは前山寺(さきやまでら)と呼ばれ、藤原不比等の長子である武智麻呂が養老3年(719年)に創建したと伝わる。その後、武智麻呂を祖とする藤原南家の菩提寺として鎌倉時代になるまで大いに栄えた。南北朝時代には南朝の後村上・長慶・後亀山天皇の行在所が置かれていた。そのため「栄山寺行宮跡」として国の史跡に指定されている。
現存する八角堂は、藤原武智麻呂の没後、子の藤原仲麻呂が父の菩提を弔うために建立したと伝える。武智麻呂の墓は当初は佐保山(奈良市街地北部の丘陵地)にあったが、天平宝字4年(760年)、栄山寺北側の山上に改葬された。八角堂の建立時期はこの年から仲麻呂の没した天平宝字8年(764年)までの5年間に絞られる。正倉院文書に天平宝字7年(763年)12月20日付けの「造円堂所牒」(ぞうえんどうしょちょう)という文書があり、この「円堂」は栄山寺八角堂を指すものと考証されている。
栄山寺は役小角の修行地とも伝えられ修験道にも関係があったが戦国時代末期には八角堂を除く堂坊を焼失した。その後、本堂、阿弥陀堂、塔ノ堂が再建され、さらに塔頭六宇が再建された。
寺は元来は興福寺の末寺であったが江戸時代初期に一時無住寺となり、その後泉涌寺別院雲龍院(京都市東山区)の末寺となり、さらに護国寺(東京都文京区)の末寺となった。現在では塔頭も梅室院のみが残っている。

本堂と石灯籠(重文)
文化財
国宝
八角堂(附:旧石露盤残欠)
梵鐘
銘文から延喜17年(917年)の製作とわかる。京都の神護寺、宇治の平等院の鐘と共に「平安三絶の鐘」として知られているもので、四面に菅原道真撰で、小野道風の書と伝えられる陽鋳の銘文が施されている。藤原武智麻呂の5世の孫である藤原道明と道明の伯父の橘澄清によって寄進されたもので、当初は山城道澄寺にあった。道澄寺は藤原道明と橘澄清の名の1字ずつを取って寺号としたもので、寺は京都市伏見区深草直違橋(すじかいばし)に現存する。

栄山寺梵鐘(国宝)
アクセス・拝観料
JR五条駅・五條バスセンターより奈良交通バス「西阿田」または「東八田」ゆきに乗り「栄山寺前」下車すぐ(但し便数は少なく平日のみ運行)。もしくは「八木駅」「近鉄高田駅」「大淀バスセンター」ゆきに乗り「栄山寺口」で下車し今井町交差点を南へ徒歩10分ほど
駐車場は入口(境内西端)、バス停付近に2台ほど駐車可能。または境内東端に公衆トイレと5台ほど駐車可能な駐車場あり
拝観料は500円(高校生以上)
所在地 奈良県五條市小島町503
位置 北緯34度21分21.4秒 東経135度43分14.4秒
山号 学晶山(學晶山)
宗旨 新義真言宗
宗派 真言宗豊山派
本尊 薬師如来
創建年 伝 養老3年(719年)
開基 伝 藤原武智麻呂
別称 前山寺
文化財 八角堂・梵鐘(国宝)
八角堂内陣装飾画・木造薬師如来坐像・木造十二神将立像・石灯篭・石塔婆(国の重要文化財)
栄山寺行宮跡(国の史跡
2023年07月23日
岩科学校(いわしながっこう)とは、静岡県賀茂郡松崎町岩科に残る伊豆地域最古の小学校校舎
岩科学校(いわしながっこう)とは、静岡県賀茂郡松崎町岩科に残る伊豆地域最古の小学校校舎である。

沿革
1879年4月に着工し、1880年(明治13年)9月に竣工。総工費2630円66銭のうち、4割余りを住民の寄付でまかなった。1975年に「旧岩科学校校舎」として国の重要文化財に指定され、1992年には竣工当時の状態に復元された。
敷地内には1875年(明治8年)に建設された岩科商社の建物が移築され、開花亭の名称で休憩所として利用されている。

建築概要
地元の大工棟梁・菊地丑太郎、高木久五郎の設計施工による擬洋風建築である。玄関上の唐破風など寺社建築の要素に加え、なまこ壁やアーチ窓、半円バルコニーが組み合わせられている。平面は、和風2階建の中央棟の左右から副舎一棟ずつがはりだしたコの時型をしている。正面玄関に掲げられた「岩科学校」の扁額は、太政大臣・三条実美の書である。
松崎町は左官の名工で工芸家であった入江長八の出身地で、2階の和室には代表作「千羽鶴」の鏝絵が残されている。扁額上の龍の彫刻も長八の作と伝えられている。また、開化亭の玄関天井や旧西座敷の天井に描かれた鏝絵は長八の高弟・佐藤甚三が制作したものである。

アクセス
松崎町自主運行バスW55松崎八木山線(運行委託先:東海バス松崎営業所)「重文岩科学校」停留所から徒歩約5分
旧用途 校舎
設計者 菊地丑太郎、高木久五郎
施工 菊地丑太郎、高木久五郎
構造形式 木造二階建、両翼一階建、背面下屋付、桟瓦葺
建築面積 436.2 m2
階数 2階
着工 1879年4月
竣工 1880年9月
所在地 〒410-3613
静岡県賀茂郡松崎町岩科北側442
座標 北緯34度44分11.4秒 東経138度47分10.4秒
文化財 重要文化財

沿革
1879年4月に着工し、1880年(明治13年)9月に竣工。総工費2630円66銭のうち、4割余りを住民の寄付でまかなった。1975年に「旧岩科学校校舎」として国の重要文化財に指定され、1992年には竣工当時の状態に復元された。
敷地内には1875年(明治8年)に建設された岩科商社の建物が移築され、開花亭の名称で休憩所として利用されている。

建築概要
地元の大工棟梁・菊地丑太郎、高木久五郎の設計施工による擬洋風建築である。玄関上の唐破風など寺社建築の要素に加え、なまこ壁やアーチ窓、半円バルコニーが組み合わせられている。平面は、和風2階建の中央棟の左右から副舎一棟ずつがはりだしたコの時型をしている。正面玄関に掲げられた「岩科学校」の扁額は、太政大臣・三条実美の書である。
松崎町は左官の名工で工芸家であった入江長八の出身地で、2階の和室には代表作「千羽鶴」の鏝絵が残されている。扁額上の龍の彫刻も長八の作と伝えられている。また、開化亭の玄関天井や旧西座敷の天井に描かれた鏝絵は長八の高弟・佐藤甚三が制作したものである。

アクセス
松崎町自主運行バスW55松崎八木山線(運行委託先:東海バス松崎営業所)「重文岩科学校」停留所から徒歩約5分
旧用途 校舎
設計者 菊地丑太郎、高木久五郎
施工 菊地丑太郎、高木久五郎
構造形式 木造二階建、両翼一階建、背面下屋付、桟瓦葺
建築面積 436.2 m2
階数 2階
着工 1879年4月
竣工 1880年9月
所在地 〒410-3613
静岡県賀茂郡松崎町岩科北側442
座標 北緯34度44分11.4秒 東経138度47分10.4秒
文化財 重要文化財
2023年07月22日
金剛輪寺(こんごうりんじ)は、滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺にある天台宗の寺院
金剛輪寺(こんごうりんじ)は、滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺にある天台宗の寺院。山号は松峯山(しょうほうざん)。本尊は聖観音菩薩(秘仏)。地名から松尾寺ともいう。開創は行基とされる。西明寺、百済寺(ひゃくさいじ)とともに湖東三山の1つに数えられる。現在は「血染めのもみじ」と呼ばれる有名な紅葉の名所となっている。

本堂(大悲閣、国宝)
歴史
琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する金剛輪寺は、寺伝によれば聖武天皇の勅願で奈良時代の僧・行基の開創とされ、創建は天平9年(737年)または天平13年(741年)と伝える。金剛輪寺の所在地は、昭和の市町村合併以前は秦川村といったことから、渡来系氏族の秦氏とも何らかの関係があったとする見方もある。
その後、平安時代前期の嘉承年間(848年 - 851年)には天台宗の僧・円仁(慈覚大師)によって再興されたと伝え、寺では円仁を中興の祖としている。以上の創建伝承を裏付ける確かな史料はないが、伝来する仏像の制作年代などから、平安時代後期には寺が存在したとみられる。平安時代から中世にかけての金剛輪寺の歴史は必ずしも明らかでないが、寺内には平安時代後期から鎌倉時代の仏像が多く残る。また、石垣で作られた多くの僧坊の跡も残っている。
本堂は、元寇の戦勝記念として近江守護佐々木頼綱(六角頼綱)によって建立されたとされる。本堂の須弥壇金具には弘安11年(1288年)の銘が残っている。しかし、現存する本堂は南北朝時代に再興されたものとみられる。
鎌倉時代末期には天台密教の一流派である西山流の本拠地となっている。
天正元年(1573年)、織田信長の兵火で湖東三山の1つである百済寺は全焼し、金剛輪寺も被害を受けるが、現存の本堂、三重塔は寺僧の尽力で焼失をまぬがれたという。当寺の本堂をはじめとする中心堂宇は総門や本坊のある地点から数百メートルの石段を上ったはるか奥にあるため、見落とされ、焼き討ちをまぬがれたのではないかという説もある。
江戸時代以降は次第に衰微し、楼門の2階部分が崩壊したり、三重塔の三重目部分が倒壊したりしている。
慶応4年(1868年)1月8日、薩摩藩の西郷隆盛や公家の岩倉具視の支援を得て当寺で赤報隊が結成された。


木造慈恵大師坐像 弘安9年(1286年)作
所在地
滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺874番地
交通アクセス
タクシー:JR稲枝駅から15分、JR彦根駅から25分
車:名神高速道路湖東三山スマートICより1分(ETC車)、八日市インターチェンジより国道307号線経由15分、彦根インターチェンジより20分(非ETC車)
路線バス:JR稲枝駅・近江鉄道愛知川駅・豊郷駅から「愛のりタクシーあいしょう」で12〜20分程度
紅葉シーズンのみ、JR河瀬駅よりシャトルバス運行

本堂(大悲閣、国宝)
歴史
琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する金剛輪寺は、寺伝によれば聖武天皇の勅願で奈良時代の僧・行基の開創とされ、創建は天平9年(737年)または天平13年(741年)と伝える。金剛輪寺の所在地は、昭和の市町村合併以前は秦川村といったことから、渡来系氏族の秦氏とも何らかの関係があったとする見方もある。
その後、平安時代前期の嘉承年間(848年 - 851年)には天台宗の僧・円仁(慈覚大師)によって再興されたと伝え、寺では円仁を中興の祖としている。以上の創建伝承を裏付ける確かな史料はないが、伝来する仏像の制作年代などから、平安時代後期には寺が存在したとみられる。平安時代から中世にかけての金剛輪寺の歴史は必ずしも明らかでないが、寺内には平安時代後期から鎌倉時代の仏像が多く残る。また、石垣で作られた多くの僧坊の跡も残っている。
本堂は、元寇の戦勝記念として近江守護佐々木頼綱(六角頼綱)によって建立されたとされる。本堂の須弥壇金具には弘安11年(1288年)の銘が残っている。しかし、現存する本堂は南北朝時代に再興されたものとみられる。
鎌倉時代末期には天台密教の一流派である西山流の本拠地となっている。
天正元年(1573年)、織田信長の兵火で湖東三山の1つである百済寺は全焼し、金剛輪寺も被害を受けるが、現存の本堂、三重塔は寺僧の尽力で焼失をまぬがれたという。当寺の本堂をはじめとする中心堂宇は総門や本坊のある地点から数百メートルの石段を上ったはるか奥にあるため、見落とされ、焼き討ちをまぬがれたのではないかという説もある。
江戸時代以降は次第に衰微し、楼門の2階部分が崩壊したり、三重塔の三重目部分が倒壊したりしている。
慶応4年(1868年)1月8日、薩摩藩の西郷隆盛や公家の岩倉具視の支援を得て当寺で赤報隊が結成された。


木造慈恵大師坐像 弘安9年(1286年)作
所在地
滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺874番地
交通アクセス
タクシー:JR稲枝駅から15分、JR彦根駅から25分
車:名神高速道路湖東三山スマートICより1分(ETC車)、八日市インターチェンジより国道307号線経由15分、彦根インターチェンジより20分(非ETC車)
路線バス:JR稲枝駅・近江鉄道愛知川駅・豊郷駅から「愛のりタクシーあいしょう」で12〜20分程度
紅葉シーズンのみ、JR河瀬駅よりシャトルバス運行
2023年07月21日
武雄温泉新館(たけおおんせんしんかん)は、佐賀県武雄市にある建築物
武雄温泉新館(たけおおんせんしんかん)は、佐賀県武雄市にある建築物。国の重要文化財。所在地は佐賀県武雄市武雄町大字武雄7425番地

沿革
設計者は辰野金吾。1914年11月20日に上棟、翌1915年4月12日に落成した。地上2階建ての入母屋造りで、延べ床面積は409.5平方メートル。正面中央に玄関車寄を備えた木造二階建の主体部を中心に,玄関に車寄せが設けられている。中心部から両翼に平屋部分が張り出す構造で、背面に八角形の大浴場や大正天皇のために作られた浴室がある。また、当時の建築界をリードしていた建築家の辰野金吾が関与した数少ない和風建築である。建築以来、公衆浴場として使われたものの、老朽化などを理由に1973年に休館した。1986年に県重要文化財に指定された。2000年、創建時の建築に忠実に復元することが決定。復元に向けた調査は地元の建築士グループ「まち研武雄」が担った。2003年、復元工事が完了。2005年7月22日に国の重要文化財に指定された。武雄温泉の資料館となっている。


アクセス
佐世保線武雄温泉駅より徒歩約10分。
用途 観光施設
設計者 辰野・葛西事務所
構造設計者 辰野金吾
施工 清水組
建築面積 409.53 m2
階数 地上2階
着工 1914年
所在地 武雄市武雄町大字武雄7425番地
座標 北緯33度11分47.5秒 東経130度0分51.2秒
文化財 国の重要文化財(建造物)
指定・登録等日 2005年7月22日

沿革
設計者は辰野金吾。1914年11月20日に上棟、翌1915年4月12日に落成した。地上2階建ての入母屋造りで、延べ床面積は409.5平方メートル。正面中央に玄関車寄を備えた木造二階建の主体部を中心に,玄関に車寄せが設けられている。中心部から両翼に平屋部分が張り出す構造で、背面に八角形の大浴場や大正天皇のために作られた浴室がある。また、当時の建築界をリードしていた建築家の辰野金吾が関与した数少ない和風建築である。建築以来、公衆浴場として使われたものの、老朽化などを理由に1973年に休館した。1986年に県重要文化財に指定された。2000年、創建時の建築に忠実に復元することが決定。復元に向けた調査は地元の建築士グループ「まち研武雄」が担った。2003年、復元工事が完了。2005年7月22日に国の重要文化財に指定された。武雄温泉の資料館となっている。


アクセス
佐世保線武雄温泉駅より徒歩約10分。
用途 観光施設
設計者 辰野・葛西事務所
構造設計者 辰野金吾
施工 清水組
建築面積 409.53 m2
階数 地上2階
着工 1914年
所在地 武雄市武雄町大字武雄7425番地
座標 北緯33度11分47.5秒 東経130度0分51.2秒
文化財 国の重要文化財(建造物)
指定・登録等日 2005年7月22日