大塩八幡宮(おおしおはちまんぐう)は福井県越前市にある神社(八幡宮)である。旧社格は県社。
境内社に式内社の高岡神社、天八百萬比盗_社、天国津彦神社、天国津比盗_社の各論社がある。
一ノ鳥居
社号
当神社の鎮座する国兼は、中世期の大塩保(おおしおのほ)の中心集落であったことから、「大塩保八幡宮」と称され、近世以降に現社名で呼ばれるようになった。明治以降「八幡神社」を正式な社号としたが、昭和46年(1971年)、現社号に復称した。
祭神
帯中日子天皇
応神天皇
神功皇后
いわゆる八幡三神の他に、明治43年(1910年)に合祀された王子保区内の12神社16柱の神を祀る。因みに12の神社は(大神下前神社、宇佐神社、愛宕神社、若宮神社、日野神社、日吉神社、小白山神社、癒瘡神社、天神社、住吉神社、若宮神社、稲荷神社)である。
歴史
「社号」の節で見たように、大塩保に勧請された八幡宮で、寛正5年(1464年)の奥書を持つ当神社縁起によれば、仁和3年(887年)、讒言によって越前国の国府に配流された中納言紀友仲が、現社地に榊を植えて石清水の八幡神に帰洛を祈願したところ、寛平元年(889年)に勅許を得て京都へ戻ることができたため、同3年(891年)に社殿を造営して石清水八幡宮の神霊を勧請したのが当社の創祀であり、鎮座の際に旧南条郡の大塩保の鎮守として一帯を神領としたことから、郡内の「二宮」と称されたという。寿永2年(1183年)に木曾義仲が境内に本陣を築いて滞在し、鎌倉幕府からは田地を寄進され、建武年間(1334-38年)に斯波高経によって造営がなされて以後、斯波氏や朝倉氏の歴代守護職から田畑山林の寄進や社殿の造営修復が行われるなど武家の崇敬を集めて繁栄し、天正年間(1573-92年)の一揆や、太閤検地で社領を悉く失うなど、衰退に傾いた時期もあったが、慶長8年(1603年)に福井藩祖の結城秀康によって社領30石が寄進されるとともに、その家臣本多富正が武運長久を祈り、次いで元和9年(1623年)には秀康の子、松平忠直により20石が加増されたことで復興し、江戸時代を通じて福井藩主から崇敬された。
明治4年(1871年)郷社に、同7年県社に列し、戦後は神社本庁に属している。
社殿
本殿は流造瓦葺
拝殿は正面7間、側面4間の入母屋造杮(こけら)葺で、正面5間側面2間の身舎の4面に庇を付し、斗栱を舟肘木とするなど古風を存し、間仕切り、壁、縁等を設けない開放的な構造である。創建年代は不詳であるが、室町時代末期の建造とされ 、木割が太く、類種のものでも大規模な建築の数少ない遺構であることから、昭和53年に国の重要文化財に指定された。なお、屋根は近世以来寄棟造の桟瓦葺であったが、昭和56年の解体修理に際して旧に復された。
交通
北陸本線 王子保駅から徒歩30分
所在地 福井県越前市国兼22-2
位置 北緯35度50分56.8秒 東経136度10分16.1秒
主祭神 帯中日子天皇
応神天皇
神功皇后
社格等 旧県社
創建 寛平3年(891年)
本殿の様式 流造
例祭 9月25日
2023年07月14日
2023年07月13日
荒川家住宅(あらかわけじゅうたく)は岐阜県高山市丹生川町大谷にある飛騨地方屈指の歴史を有する古民家
荒川家住宅(あらかわけじゅうたく)は岐阜県高山市丹生川町大谷にある飛騨地方屈指の歴史を有する古民家で、主屋と土蔵が日本国により重要文化財に指定されている。
荒川家住宅主屋
荒川家は金森長近の飛彈入部に従って当地に移ったという旧家である。元禄年間以降江戸時代を通じて大谷村とその周辺を束ねる兼帯名主を務めた。現在残る荒川家住宅は棟札や住宅に残る資料から主屋が寛政8年(1794年)、土蔵はさらに古い延享4年(1747年)の建造で、飛彈屈指の歴史を誇る。昭和46年(1971年)に国により重要文化財に指定されるが、それ以降も昭和58年(1983年)に丹生川村が買い取るまで荒川家が所有し、住宅として用いられていた。所有が丹生川村に移った後保存修復工事を施された。丹生川町が合併し、高山市になった後も荒川家の所有していた歴史資料や生産用具等の資料と共に公開されている。
主屋は榑葺き平入り切妻造りの木造2階建てで、桁行11間、梁間8間で面積は約345平米である。木材は場所によって使い分けられ、土台は栗、柱は桧、梁には松が使われている。玄関は南東を向く。農家として用いられ、入口の土間にあたるドージの左側に馬を飼育したマヤを設け、2階は仕切りを設けず養蚕に使われていた。ドージに面した右側は居間であるオエで囲炉裏を備えた板の間であり、ドージの奥は同じく囲炉裏を持つ板の間であるダイドコで、さらにその奥が流し場となっている。ダイドコの左、マヤの奥にあたるのが作業場のニワである。オエの右手にナカノマと仏間、デエ(出居)、オクデエと呼ばれる座敷があり、寄り合いが開かれる際にはそれらの襖を外して大きな部屋を確保することができるようになっている。
所在地 岐阜県高山市丹生川町大谷141
位置 北緯36度10分16.1秒 東経137度20分51.3秒
類型 農家(名主・養蚕)
形式・構造 木造、平入切妻造2階建(主屋)、榑葺
延床面積 345m2
建築年 主屋:寛政8年(1794年)
土蔵:延享4年(1747年)
文化財 国の重要文化財:昭和46年(1971年)12月28日指定
荒川家住宅主屋
荒川家は金森長近の飛彈入部に従って当地に移ったという旧家である。元禄年間以降江戸時代を通じて大谷村とその周辺を束ねる兼帯名主を務めた。現在残る荒川家住宅は棟札や住宅に残る資料から主屋が寛政8年(1794年)、土蔵はさらに古い延享4年(1747年)の建造で、飛彈屈指の歴史を誇る。昭和46年(1971年)に国により重要文化財に指定されるが、それ以降も昭和58年(1983年)に丹生川村が買い取るまで荒川家が所有し、住宅として用いられていた。所有が丹生川村に移った後保存修復工事を施された。丹生川町が合併し、高山市になった後も荒川家の所有していた歴史資料や生産用具等の資料と共に公開されている。
主屋は榑葺き平入り切妻造りの木造2階建てで、桁行11間、梁間8間で面積は約345平米である。木材は場所によって使い分けられ、土台は栗、柱は桧、梁には松が使われている。玄関は南東を向く。農家として用いられ、入口の土間にあたるドージの左側に馬を飼育したマヤを設け、2階は仕切りを設けず養蚕に使われていた。ドージに面した右側は居間であるオエで囲炉裏を備えた板の間であり、ドージの奥は同じく囲炉裏を持つ板の間であるダイドコで、さらにその奥が流し場となっている。ダイドコの左、マヤの奥にあたるのが作業場のニワである。オエの右手にナカノマと仏間、デエ(出居)、オクデエと呼ばれる座敷があり、寄り合いが開かれる際にはそれらの襖を外して大きな部屋を確保することができるようになっている。
所在地 岐阜県高山市丹生川町大谷141
位置 北緯36度10分16.1秒 東経137度20分51.3秒
類型 農家(名主・養蚕)
形式・構造 木造、平入切妻造2階建(主屋)、榑葺
延床面積 345m2
建築年 主屋:寛政8年(1794年)
土蔵:延享4年(1747年)
文化財 国の重要文化財:昭和46年(1971年)12月28日指定
2023年07月12日
鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、神奈川県鎌倉市雪ノ下にある神社
鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、神奈川県鎌倉市雪ノ下にある神社。鎌倉八幡宮とも呼ばれる。11世紀後半に、源氏の守り神として創建された。以後、鎌倉武士の守護神となる。現代では全国の八幡宮の中で、鎌倉幕府の初代将軍源頼朝ゆかりの神社として関東方面で知名度が高い。境内は国の史跡に指定されている。旧社格は国幣中社で現在は神社本庁の別表神社。
本宮へと続く参道
祭神
現在の祭神は以下の3柱。「八幡神」と総称される。
応神天皇 (おうじんてんのう、おうじんてんのう) 第15代天皇
比売神 (ひめがみ)
神功皇后 (じんぐうこうごう) 第14代仲哀天皇の妃、応神天皇の母
歴史
概史
1063年 8月に河内国(大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現 材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが始まりである。1081年 2月には河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)が修復を加えた。
1180年10月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、12日に宮を現在の地である小林郷北山に遷す。以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備していった。1191年に、社殿の焼損を機に、上宮(本宮)と下宮(若宮)の体制とし、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請した。1208年には神宮寺が創建される。
源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、源義家が勧請した経緯もあり、武家の崇敬を集めた。鎌倉幕府衰退後は、25の僧坊の数も減少し、一時衰退する。戦国時代には里見氏により焼き討ちにあうも(鶴岡八幡宮の戦い)、北条氏綱が再建を果たす。江戸時代に入ると江戸幕府の庇護を受け大規模化が進み、仁王門、護摩堂、輪蔵、神楽殿、愛染堂、六角堂、観音堂 法華堂、弁天堂などを建築し、徳川家光の治世に薬師堂、鐘楼、楼門なども建てられた。また、境内には方五間の多宝大塔や、東照宮も存在した。
参道
鶴岡八幡宮の参道は若宮大路と呼ばれる。由比ヶ浜から八幡宮まで鎌倉の中心をほぼ南北に貫いており、京の朱雀大路を模して源頼朝が自らも加わり築いた。二の鳥居からは段葛(だんかずら)と呼ばれる車道より一段高い歩道がある。そこを抜けると三の鳥居があり、境内へと到る。
この段葛は、二の鳥居の辺りでは幅4メートルほどだが、三の鳥居では幅が約3メートル程度となっており、先に進むほど徐々に細くなっている。人間の目の錯覚を利用し、参道を実際より長く見せ、奥の本殿を厳かに見せるための設計との説がある。段葛は鶴岡八幡宮境内の敷地とみなされており、扱いとしては神社の私道である(若宮大路自体は神奈川県道21号横浜鎌倉線の一部)。
一の鳥居(重要文化財)
重要文化財
建造物
大鳥居(一の鳥居)- 徳川家慶建立
末社丸山稲荷社本殿
摂社若宮 本殿、幣殿及び拝殿(1棟)
上宮 3棟
本殿、幣殿及び拝殿(1棟)
回廊
末社武内社本殿
旧神奈川県立近代美術館。
末社武内社(左の小殿)と上宮本殿(右)
現地情報
所在地
神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目1番31号
交通アクセス
鉄道
最寄駅:JO JR横須賀線または EN 江ノ島電鉄線 鎌倉駅 (東口から徒歩10分)
JO JR横須賀線 北鎌倉駅 (徒歩約15分) - 駅を降りると円覚寺があり、途中には建長寺も所在
バス
江ノ島電鉄で「鎌倉八幡宮前」または「八幡宮裏」バス停下車 (徒歩すぐ)
京浜急行バスで「八幡宮」バス停下車 (徒歩すぐ)
車
E16 横浜横須賀道路朝比奈ICから、県道204号線で約20分
所在地 神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目1番31号
位置 北緯35度19分33.91秒 東経139度33分23.17秒
主祭神 応神天皇
比売神
神功皇后
社格等 旧国幣中社
別表神社
創建 康平6年(1063年)
別名 鎌倉八幡宮
札所等 鎌倉江の島七福神(弁財天)
西山国師遺跡霊場客番
例祭 9月15日
主な神事 流鏑馬
本宮へと続く参道
祭神
現在の祭神は以下の3柱。「八幡神」と総称される。
応神天皇 (おうじんてんのう、おうじんてんのう) 第15代天皇
比売神 (ひめがみ)
神功皇后 (じんぐうこうごう) 第14代仲哀天皇の妃、応神天皇の母
歴史
概史
1063年 8月に河内国(大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現 材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが始まりである。1081年 2月には河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)が修復を加えた。
1180年10月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、12日に宮を現在の地である小林郷北山に遷す。以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備していった。1191年に、社殿の焼損を機に、上宮(本宮)と下宮(若宮)の体制とし、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請した。1208年には神宮寺が創建される。
源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、源義家が勧請した経緯もあり、武家の崇敬を集めた。鎌倉幕府衰退後は、25の僧坊の数も減少し、一時衰退する。戦国時代には里見氏により焼き討ちにあうも(鶴岡八幡宮の戦い)、北条氏綱が再建を果たす。江戸時代に入ると江戸幕府の庇護を受け大規模化が進み、仁王門、護摩堂、輪蔵、神楽殿、愛染堂、六角堂、観音堂 法華堂、弁天堂などを建築し、徳川家光の治世に薬師堂、鐘楼、楼門なども建てられた。また、境内には方五間の多宝大塔や、東照宮も存在した。
参道
鶴岡八幡宮の参道は若宮大路と呼ばれる。由比ヶ浜から八幡宮まで鎌倉の中心をほぼ南北に貫いており、京の朱雀大路を模して源頼朝が自らも加わり築いた。二の鳥居からは段葛(だんかずら)と呼ばれる車道より一段高い歩道がある。そこを抜けると三の鳥居があり、境内へと到る。
この段葛は、二の鳥居の辺りでは幅4メートルほどだが、三の鳥居では幅が約3メートル程度となっており、先に進むほど徐々に細くなっている。人間の目の錯覚を利用し、参道を実際より長く見せ、奥の本殿を厳かに見せるための設計との説がある。段葛は鶴岡八幡宮境内の敷地とみなされており、扱いとしては神社の私道である(若宮大路自体は神奈川県道21号横浜鎌倉線の一部)。
一の鳥居(重要文化財)
重要文化財
建造物
大鳥居(一の鳥居)- 徳川家慶建立
末社丸山稲荷社本殿
摂社若宮 本殿、幣殿及び拝殿(1棟)
上宮 3棟
本殿、幣殿及び拝殿(1棟)
回廊
末社武内社本殿
旧神奈川県立近代美術館。
末社武内社(左の小殿)と上宮本殿(右)
現地情報
所在地
神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目1番31号
交通アクセス
鉄道
最寄駅:JO JR横須賀線または EN 江ノ島電鉄線 鎌倉駅 (東口から徒歩10分)
JO JR横須賀線 北鎌倉駅 (徒歩約15分) - 駅を降りると円覚寺があり、途中には建長寺も所在
バス
江ノ島電鉄で「鎌倉八幡宮前」または「八幡宮裏」バス停下車 (徒歩すぐ)
京浜急行バスで「八幡宮」バス停下車 (徒歩すぐ)
車
E16 横浜横須賀道路朝比奈ICから、県道204号線で約20分
所在地 神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目1番31号
位置 北緯35度19分33.91秒 東経139度33分23.17秒
主祭神 応神天皇
比売神
神功皇后
社格等 旧国幣中社
別表神社
創建 康平6年(1063年)
別名 鎌倉八幡宮
札所等 鎌倉江の島七福神(弁財天)
西山国師遺跡霊場客番
例祭 9月15日
主な神事 流鏑馬
2023年07月11日
郡山八幡神社(こおりやまはちまんじんじゃ)は鹿児島県伊佐市にある神社
郡山八幡神社(こおりやまはちまんじんじゃ)は鹿児島県伊佐市にある神社。正式名称は八幡神社。旧社格は郷社。本殿が国の重要文化財。
祭神
神功皇后を祀る。
歴史
建久5年(1194年)に菱刈氏の氏祖である菱刈重妙が神託により宇佐八幡宮より勧請した神社と伝えられる。
社殿
重要文化財の本殿は桁行3間梁間3間の入母屋造平入杮葺。解体修理の際、葺板の裏に「永正4年(1507年)再興」という墨書が発見され、それ以前に建てられたものと思われる。建築様式には琉球文化の影響も見られる。昭和24年(1949年)5月30日に国の重要文化財の指定を受けた。
また、解体修理時に発見された木片の墨書により永禄2年(1559年)8月頃に修理が行われたことが判明しているが、この木片は「焼酎」に言及した日本最古の資料としても知られる。
文化財
重要文化財
本殿 附:宮殿(厨子) - 室町時代後期(1559年)の建立。桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、向拝一間、こけら葺。昭和24年(1949年)05月30日指定。
所在地 鹿児島県伊佐市大口大田1549
位置 北緯32度4分59秒 東経130度35分53.4秒
主祭神 神功皇后
社格等 旧郷社
創建 建久5年(1194年)
本殿の様式 入母屋造杮葺
別名 郡山八幡神社
例祭 9月19日
祭神
神功皇后を祀る。
歴史
建久5年(1194年)に菱刈氏の氏祖である菱刈重妙が神託により宇佐八幡宮より勧請した神社と伝えられる。
社殿
重要文化財の本殿は桁行3間梁間3間の入母屋造平入杮葺。解体修理の際、葺板の裏に「永正4年(1507年)再興」という墨書が発見され、それ以前に建てられたものと思われる。建築様式には琉球文化の影響も見られる。昭和24年(1949年)5月30日に国の重要文化財の指定を受けた。
また、解体修理時に発見された木片の墨書により永禄2年(1559年)8月頃に修理が行われたことが判明しているが、この木片は「焼酎」に言及した日本最古の資料としても知られる。
文化財
重要文化財
本殿 附:宮殿(厨子) - 室町時代後期(1559年)の建立。桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、向拝一間、こけら葺。昭和24年(1949年)05月30日指定。
所在地 鹿児島県伊佐市大口大田1549
位置 北緯32度4分59秒 東経130度35分53.4秒
主祭神 神功皇后
社格等 旧郷社
創建 建久5年(1194年)
本殿の様式 入母屋造杮葺
別名 郡山八幡神社
例祭 9月19日
2023年07月10日
天津神社(あまつじんじゃ)は、兵庫県三木市吉川町前田にある神社
天津神社(あまつじんじゃ)は、兵庫県三木市吉川町前田にある神社。
入母屋造妻入りの本殿は延徳4年(1492年)に村人たちが創建したとされ、国の重要文化財に指定されている。2003年に改修工事が行われ、当時の彫刻や色調や屋根の桧皮葺(ひわだぶき)等が再現された。
本殿(重要文化財)
祭神
天穂日命
天津彦根命
活津彦根命
天忍穂耳命
熊野久須日命
祭礼
元旦祭
春祭
祈年祭
新嘗祭
秋祭
拝殿
文化財
重要文化財(国指定)
本殿 - 入母屋造妻入り。延徳4年(1492年)創建。
所在地
〒673-1103 兵庫県三木市吉川町前田字下馬場998
アクセス
鉄道:JR福知山線三田駅より神姫バス「北谷」下車
鳥居
所在地 兵庫県三木市吉川町前田字下馬場998
位置 北緯34度54分33.4秒 東経135度06分59.1秒
主祭神 天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、天忍穂耳命、熊野久須日命
本殿の様式 入母屋造妻入
入母屋造妻入りの本殿は延徳4年(1492年)に村人たちが創建したとされ、国の重要文化財に指定されている。2003年に改修工事が行われ、当時の彫刻や色調や屋根の桧皮葺(ひわだぶき)等が再現された。
本殿(重要文化財)
祭神
天穂日命
天津彦根命
活津彦根命
天忍穂耳命
熊野久須日命
祭礼
元旦祭
春祭
祈年祭
新嘗祭
秋祭
拝殿
文化財
重要文化財(国指定)
本殿 - 入母屋造妻入り。延徳4年(1492年)創建。
所在地
〒673-1103 兵庫県三木市吉川町前田字下馬場998
アクセス
鉄道:JR福知山線三田駅より神姫バス「北谷」下車
鳥居
所在地 兵庫県三木市吉川町前田字下馬場998
位置 北緯34度54分33.4秒 東経135度06分59.1秒
主祭神 天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、天忍穂耳命、熊野久須日命
本殿の様式 入母屋造妻入
2023年07月09日
明王院(みょうおういん)は、広島県福山市草戸町にある真言宗大覚寺派の仏教寺院
明王院(みょうおういん)は、広島県福山市草戸町にある真言宗大覚寺派の仏教寺院である。空海が開基と伝わる。本堂、五重塔が国宝に指定されている。
本堂
概要
明王院は、芦田川に面した愛宕山の麓にあり、隣接する草戸稲荷神社はかつて明王院の鎮守社であった。寺伝によると大同2年(807年)に空海が草戸山(愛宕山)の中腹に観世音を安置したのが開基と伝わる。元は、西光山理智院常福寺と称した律宗の寺院だったと伝わり、江戸時代に近隣にあった明王院と合併し、中道山円光寺明王院と改称し現在に至る。しかし開基から貞和4年(1348年)の五重塔建立に至るまでの約500年間の寺史を示す記録は発見されておらず全く不明である。
大同2年の草創期についての記録は江戸時代初期の元和7年(1621年)の本堂の棟札に記されているが、空海開基の記録は江戸時代中期の元禄3年の本堂棟札に記されているのが初見である。そのため草創期に関する寺伝は、近世によるもののみである。だが、本堂に安置されている国の重要文化財の十一面観音立像は平安時代作であり、開基が平安時代と推測させる貴重な資料となっている。また1962年(昭和37年)から行われた本堂解体修理において、現・本堂地下の発掘調査が行われ、現・本堂が建立された元応3年(1321年)よりも以前の掘立柱穴が点在する建築遺構が発見され、それは開基時期が現・本堂建立時期よりも前の時代であるとの確実な証拠になっている。
境内前を芦田川が流れるが、平安時代から江戸初期頃まで、この川一帯の地域に門前町として栄えた集落跡が発見され、草戸千軒とよばれ、草戸千軒町遺跡として発掘調査が行われている。草戸の名称は、南北朝時代の太平記には「草井地」、奈良・西大寺の明徳2年(1391年)の『末寺貼』には「草出(くさいず)」と記されているが、戦国時代には「草戸」と記されることが多くなっている。
墨書より、鎌倉時代・元応3年(1321年)に紀貞経、沙門頼秀の本願により本堂が再建され、27年後の貞和4年(1348年)に沙門頼秀勧進により五重塔が建立されたことが判明している。また現存する山門と江戸時代初期頃まで存在した阿弥陀堂も、五重塔建立時期と同時期に建立されたと推測されている。草土常福寺の名は、奈良・西大寺の明徳2年(1391年)の『末寺貼』、尾道・西国寺の文明3年(1471年)の『不断経行事』などの文献で見られ、南北朝時代から室町時代中頃には備後地方において有数の大寺だったと推測される。
国宝・五重塔と国宝・本堂。
江戸時代に入り、慶長19年(1614年)に山門を再建、慶長年間に閻魔堂(十王堂)も再建したことが棟札などに記録が残る。元和5年(1619年)に、福山藩に水野勝成が福山初代藩主として入府すると、勝成からの当寺への崇敬が篤く、水野家3代・勝貞時代に常福寺が明王院と改めてからは、当寺の記録は多数残るが、それ以前の記録は山門、閻魔堂の再建以外に沿革を示す資料は発見されていない。
元和6年(1620年)に大雨による山崩れにより堂宇が損壊するが、水野勝成により復旧されている。寛永4年(1627年)から正保4年(1647年)の間に鐘楼、護摩堂、庫裏、書院、役行者堂、弁財天社、天神宮社殿、竜王社、愛宕社、稲荷社などが再建、もしくは新たに建立されている。明暦元年(1655年)に水野勝貞が福山藩3代藩主になると、本庄村にあった明王院を常福寺に合併し、常福寺は明王院と改め、現・明王院の基が築かれる。合併前の旧・明王院の沿革などの詳細は記録に無いが、現・境内の東北約2 kmにある本庄村青木端にあり、若干の寺領を有していたが、領主・福島正則により没収され荒廃していた。しかし、水野勝成は、旧・明王院住持・宥将を寵愛し、福山城の築城のさいに地鎮の斎主を努めさせ、その後、明王院は城下の奈良屋町へ移転し、水野家の祈願寺になったと伝わる。合併時の時期についての詳細な記録はないが、文化2年(1805年)の『由緒書』では承応年中のころとあるが、水野勝貞は承応4年4月(1655年)に藩主になっている。明暦2年9月(1656年)の『草土記』には中道山円光寺や明王院と記されている。これらのことから合併は承応4年4月以降、明暦2年9月(1656年)までの間と推測される。これら移転や合併は、築城に伴う城下町の整理計画にも大いに関係があったとも考えられている。合併後の明王院は、末寺48寺を有する当地方有数の地位を占めた。江戸時代に堂宇が何度も修復されているが、元禄3年(1690年)には本堂の大修理が行われている。元禄のころに水野家が当寺に36石の寄進をしたとの記録が残り崇敬が篤いことが窺える。元禄11年(1698年)水野家が断絶するが、元禄13年(1670年)に松平忠雅が藩主になり、次いで正コ元年(1711年)には阿部家が藩主となるが、阿部家の祈願寺となり歴代藩主からの崇敬は篤く、積極的に庇護され、寛保2年(1742年)に五重塔の大修理が行われている。
明治になり神仏分離令により、天神宮、愛宕権現宮、稲荷社などの神社は明王院から離れる。明治12年(1879年)の『沼隈郡草戸村明王院什物帳』によると、明王院の伽藍の規模は大幅に縮小され、現在に残る伽藍だけとなっている[12]。
明治、大正、昭和前期にかけ、高野山金剛峯寺第389世座主、高野山管長を兼務した大僧正密雄が、明王院30世住職になっている。
1953年(昭和28年)に五重塔が国宝に指定される。1959年(昭和34年)3月から1962年(昭和37年)3月にかけ、五重塔建立以来初めての解体修理が行われた。1962年(昭和37年)4月から1964年(昭和39年)3月にかけ本堂が解体修理され、そのさいに、本堂直下の地下の発掘調査が行われ、五重塔付近までの範囲で約60ケ所の掘立柱穴などが見つかり、現・本堂が建立された時期よりも古い建築遺構と判明している。1964年(昭和39年)に本堂が国宝指定される。
山門
所在地 広島県福山市草戸町1473番地
位置 北緯34度28分43.4秒 東経133度20分45.5秒
山号 中道山
宗派 真言宗大覚寺派
本尊 十一面観音菩薩
創建年 (伝)大同2年(807年)
開基 (伝)空海
札所等 中国三十三観音8番
山陽花の寺18番
文化財 本堂、五重塔(国宝)
木造十一面観音立像(重要文化財)
本堂
概要
明王院は、芦田川に面した愛宕山の麓にあり、隣接する草戸稲荷神社はかつて明王院の鎮守社であった。寺伝によると大同2年(807年)に空海が草戸山(愛宕山)の中腹に観世音を安置したのが開基と伝わる。元は、西光山理智院常福寺と称した律宗の寺院だったと伝わり、江戸時代に近隣にあった明王院と合併し、中道山円光寺明王院と改称し現在に至る。しかし開基から貞和4年(1348年)の五重塔建立に至るまでの約500年間の寺史を示す記録は発見されておらず全く不明である。
大同2年の草創期についての記録は江戸時代初期の元和7年(1621年)の本堂の棟札に記されているが、空海開基の記録は江戸時代中期の元禄3年の本堂棟札に記されているのが初見である。そのため草創期に関する寺伝は、近世によるもののみである。だが、本堂に安置されている国の重要文化財の十一面観音立像は平安時代作であり、開基が平安時代と推測させる貴重な資料となっている。また1962年(昭和37年)から行われた本堂解体修理において、現・本堂地下の発掘調査が行われ、現・本堂が建立された元応3年(1321年)よりも以前の掘立柱穴が点在する建築遺構が発見され、それは開基時期が現・本堂建立時期よりも前の時代であるとの確実な証拠になっている。
境内前を芦田川が流れるが、平安時代から江戸初期頃まで、この川一帯の地域に門前町として栄えた集落跡が発見され、草戸千軒とよばれ、草戸千軒町遺跡として発掘調査が行われている。草戸の名称は、南北朝時代の太平記には「草井地」、奈良・西大寺の明徳2年(1391年)の『末寺貼』には「草出(くさいず)」と記されているが、戦国時代には「草戸」と記されることが多くなっている。
墨書より、鎌倉時代・元応3年(1321年)に紀貞経、沙門頼秀の本願により本堂が再建され、27年後の貞和4年(1348年)に沙門頼秀勧進により五重塔が建立されたことが判明している。また現存する山門と江戸時代初期頃まで存在した阿弥陀堂も、五重塔建立時期と同時期に建立されたと推測されている。草土常福寺の名は、奈良・西大寺の明徳2年(1391年)の『末寺貼』、尾道・西国寺の文明3年(1471年)の『不断経行事』などの文献で見られ、南北朝時代から室町時代中頃には備後地方において有数の大寺だったと推測される。
国宝・五重塔と国宝・本堂。
江戸時代に入り、慶長19年(1614年)に山門を再建、慶長年間に閻魔堂(十王堂)も再建したことが棟札などに記録が残る。元和5年(1619年)に、福山藩に水野勝成が福山初代藩主として入府すると、勝成からの当寺への崇敬が篤く、水野家3代・勝貞時代に常福寺が明王院と改めてからは、当寺の記録は多数残るが、それ以前の記録は山門、閻魔堂の再建以外に沿革を示す資料は発見されていない。
元和6年(1620年)に大雨による山崩れにより堂宇が損壊するが、水野勝成により復旧されている。寛永4年(1627年)から正保4年(1647年)の間に鐘楼、護摩堂、庫裏、書院、役行者堂、弁財天社、天神宮社殿、竜王社、愛宕社、稲荷社などが再建、もしくは新たに建立されている。明暦元年(1655年)に水野勝貞が福山藩3代藩主になると、本庄村にあった明王院を常福寺に合併し、常福寺は明王院と改め、現・明王院の基が築かれる。合併前の旧・明王院の沿革などの詳細は記録に無いが、現・境内の東北約2 kmにある本庄村青木端にあり、若干の寺領を有していたが、領主・福島正則により没収され荒廃していた。しかし、水野勝成は、旧・明王院住持・宥将を寵愛し、福山城の築城のさいに地鎮の斎主を努めさせ、その後、明王院は城下の奈良屋町へ移転し、水野家の祈願寺になったと伝わる。合併時の時期についての詳細な記録はないが、文化2年(1805年)の『由緒書』では承応年中のころとあるが、水野勝貞は承応4年4月(1655年)に藩主になっている。明暦2年9月(1656年)の『草土記』には中道山円光寺や明王院と記されている。これらのことから合併は承応4年4月以降、明暦2年9月(1656年)までの間と推測される。これら移転や合併は、築城に伴う城下町の整理計画にも大いに関係があったとも考えられている。合併後の明王院は、末寺48寺を有する当地方有数の地位を占めた。江戸時代に堂宇が何度も修復されているが、元禄3年(1690年)には本堂の大修理が行われている。元禄のころに水野家が当寺に36石の寄進をしたとの記録が残り崇敬が篤いことが窺える。元禄11年(1698年)水野家が断絶するが、元禄13年(1670年)に松平忠雅が藩主になり、次いで正コ元年(1711年)には阿部家が藩主となるが、阿部家の祈願寺となり歴代藩主からの崇敬は篤く、積極的に庇護され、寛保2年(1742年)に五重塔の大修理が行われている。
明治になり神仏分離令により、天神宮、愛宕権現宮、稲荷社などの神社は明王院から離れる。明治12年(1879年)の『沼隈郡草戸村明王院什物帳』によると、明王院の伽藍の規模は大幅に縮小され、現在に残る伽藍だけとなっている[12]。
明治、大正、昭和前期にかけ、高野山金剛峯寺第389世座主、高野山管長を兼務した大僧正密雄が、明王院30世住職になっている。
1953年(昭和28年)に五重塔が国宝に指定される。1959年(昭和34年)3月から1962年(昭和37年)3月にかけ、五重塔建立以来初めての解体修理が行われた。1962年(昭和37年)4月から1964年(昭和39年)3月にかけ本堂が解体修理され、そのさいに、本堂直下の地下の発掘調査が行われ、五重塔付近までの範囲で約60ケ所の掘立柱穴などが見つかり、現・本堂が建立された時期よりも古い建築遺構と判明している。1964年(昭和39年)に本堂が国宝指定される。
山門
所在地 広島県福山市草戸町1473番地
位置 北緯34度28分43.4秒 東経133度20分45.5秒
山号 中道山
宗派 真言宗大覚寺派
本尊 十一面観音菩薩
創建年 (伝)大同2年(807年)
開基 (伝)空海
札所等 中国三十三観音8番
山陽花の寺18番
文化財 本堂、五重塔(国宝)
木造十一面観音立像(重要文化財)
2023年07月08日
観音寺(かんのんじ)は、香川県観音寺市(かんおんじし)にある真言宗大覚寺派の寺院
観音寺(かんのんじ)は、香川県観音寺市(かんおんじし)にある真言宗大覚寺派の寺院。四国八十八箇所霊場の第六十九番札所。山号は七宝山。本尊は聖観音。六十八番札所神恵院(じんねいん)と同じ境内にある。なお、市名は「かんおんじし」であるが、寺名は「かんのんじ」である。
本尊真言 : おん あろりきゃ そわか
ご詠歌 : 観音の大悲の力強ければ おもき罪をも引きあげてたべ
納経印:当寺本尊、愛染明王
本堂(国の重要文化財)
歴史
伝承によれば、大宝年間(701年 - 704年)に、法相宗の日証が琴弾山で修行をしていたところ、琴を弾く老人が乗る舟を海上に見た。この老人が八幡大明神であることを知った上人は、その琴と舟を祀り琴弾八幡宮と名付けた。その神宮寺として当寺は建立され神宮寺宝光院と称していた。
寺伝によれば、行基が養老6年(722年)に訪れた後、大同2年 (807)空海(弘法大師)が第7世住職として入山し、奈良の興福寺を模して、中金堂(ちゅうこんどう)に聖観世音菩薩像を刻み本尊とし、丈六の薬師如来を納めた西金堂(さいこんどう)や弥勒菩薩を納めた東金堂(とうこんどう)など七堂伽藍を整備し、さらに、この地に仏塔を建てて瑠璃・珊瑚・瑪瑙などの七宝を埋め地鎮したことから、名称も七宝山観音寺と改めたという。その後、院号は神恵院に改められている。 そして、桓武天皇はじめ三代の天皇の勅願所となり、室町時代には足利尊氏の子・道尊大政大僧正が45年間住職を務めるなど隆盛を誇った。
境内にたたずむ石像
伽藍
山門(仁王門):日本遺産の石碑が当山門には日本で唯一両脇に2つ設置されている。
本堂:中金堂で本堂。本尊は秘仏で、文化財調査の時でも住職はわざに外出していた程の秘仏であったが、2014年記録の無い初めての開帳がされた。
大師堂:大師像を拝顔できる。
愛染堂:愛染明王は修復され2017年5月14日開眼法要が行われた。真言は「うんたきうんじゃく うんしっち」。
薬師堂:元神恵院本堂で、西金堂である薬師堂。本尊は大きな薬師如来坐像、向かって右脇には胎蔵大日如来坐像。
心経殿:コンクリート製の多宝塔で、本尊は金剛界大日如来坐像
五智如来石像
開山堂(東金堂):弥勒菩薩が祀られている。
大日堂:開山堂の向かって右にある。
経塚堂:薬師堂の向かって右にあり。文化財級であるが指定はされていない。
宝物館:重文の涅槃釈迦涅槃像が収められている。
鐘楼堂:天井裏に細かな彫物がされている。
西国三十三所の写し石仏:天保11年(1840年)建立。本堂の向かって右より本堂背後の上の壇から薬師堂の左までにかけて配置されている。
仁王門をくぐり参道を進み石段を上りきると正面に愛染堂、その左に大師堂、右手に鐘楼堂、さらに右奥に本堂がある。愛染堂の右の五智如来石像の右の石段を上ると正面に薬師堂がある。
梧桐庵:Cafe&遍路グッズ販売
宿坊:なし
駐車場:山門前に無料であり。
山門
交通アクセス
鉄道
四国旅客鉄道(JR四国) 予讃線 - 観音寺駅 (1.6km)
バス
観音寺市のりあいバス 琴弾公園バス停 (0.2km)
道路
一般道:香川県道21号丸亀詫間豊浜線 三架橋北詰 (0.4km)
自動車道:高松自動車道 大野原IC (5.2km)
愛染堂
所在地 香川県観音寺市八幡町一丁目2番7号
位置 北緯34度8分4.2秒 東経133度38分51.1秒
山号 七宝山
宗派 真言宗大覚寺派
本尊 聖観音菩薩
創建年 (伝)大宝3年(703年)
開基 (伝)日証上人
正式名 七宝山 観音寺
別称
札所等 四国八十八箇所69番
文化財 本堂、木造涅槃仏像ほか(国の重要文化財)
木造大日如来坐像(伝・聖観音)・薬師如来坐像・釈迦如来坐像・絹本著色両界曼荼羅図(県文化財)
本尊真言 : おん あろりきゃ そわか
ご詠歌 : 観音の大悲の力強ければ おもき罪をも引きあげてたべ
納経印:当寺本尊、愛染明王
本堂(国の重要文化財)
歴史
伝承によれば、大宝年間(701年 - 704年)に、法相宗の日証が琴弾山で修行をしていたところ、琴を弾く老人が乗る舟を海上に見た。この老人が八幡大明神であることを知った上人は、その琴と舟を祀り琴弾八幡宮と名付けた。その神宮寺として当寺は建立され神宮寺宝光院と称していた。
寺伝によれば、行基が養老6年(722年)に訪れた後、大同2年 (807)空海(弘法大師)が第7世住職として入山し、奈良の興福寺を模して、中金堂(ちゅうこんどう)に聖観世音菩薩像を刻み本尊とし、丈六の薬師如来を納めた西金堂(さいこんどう)や弥勒菩薩を納めた東金堂(とうこんどう)など七堂伽藍を整備し、さらに、この地に仏塔を建てて瑠璃・珊瑚・瑪瑙などの七宝を埋め地鎮したことから、名称も七宝山観音寺と改めたという。その後、院号は神恵院に改められている。 そして、桓武天皇はじめ三代の天皇の勅願所となり、室町時代には足利尊氏の子・道尊大政大僧正が45年間住職を務めるなど隆盛を誇った。
境内にたたずむ石像
伽藍
山門(仁王門):日本遺産の石碑が当山門には日本で唯一両脇に2つ設置されている。
本堂:中金堂で本堂。本尊は秘仏で、文化財調査の時でも住職はわざに外出していた程の秘仏であったが、2014年記録の無い初めての開帳がされた。
大師堂:大師像を拝顔できる。
愛染堂:愛染明王は修復され2017年5月14日開眼法要が行われた。真言は「うんたきうんじゃく うんしっち」。
薬師堂:元神恵院本堂で、西金堂である薬師堂。本尊は大きな薬師如来坐像、向かって右脇には胎蔵大日如来坐像。
心経殿:コンクリート製の多宝塔で、本尊は金剛界大日如来坐像
五智如来石像
開山堂(東金堂):弥勒菩薩が祀られている。
大日堂:開山堂の向かって右にある。
経塚堂:薬師堂の向かって右にあり。文化財級であるが指定はされていない。
宝物館:重文の涅槃釈迦涅槃像が収められている。
鐘楼堂:天井裏に細かな彫物がされている。
西国三十三所の写し石仏:天保11年(1840年)建立。本堂の向かって右より本堂背後の上の壇から薬師堂の左までにかけて配置されている。
仁王門をくぐり参道を進み石段を上りきると正面に愛染堂、その左に大師堂、右手に鐘楼堂、さらに右奥に本堂がある。愛染堂の右の五智如来石像の右の石段を上ると正面に薬師堂がある。
梧桐庵:Cafe&遍路グッズ販売
宿坊:なし
駐車場:山門前に無料であり。
山門
交通アクセス
鉄道
四国旅客鉄道(JR四国) 予讃線 - 観音寺駅 (1.6km)
バス
観音寺市のりあいバス 琴弾公園バス停 (0.2km)
道路
一般道:香川県道21号丸亀詫間豊浜線 三架橋北詰 (0.4km)
自動車道:高松自動車道 大野原IC (5.2km)
愛染堂
所在地 香川県観音寺市八幡町一丁目2番7号
位置 北緯34度8分4.2秒 東経133度38分51.1秒
山号 七宝山
宗派 真言宗大覚寺派
本尊 聖観音菩薩
創建年 (伝)大宝3年(703年)
開基 (伝)日証上人
正式名 七宝山 観音寺
別称
札所等 四国八十八箇所69番
文化財 本堂、木造涅槃仏像ほか(国の重要文化財)
木造大日如来坐像(伝・聖観音)・薬師如来坐像・釈迦如来坐像・絹本著色両界曼荼羅図(県文化財)
2023年07月07日
中村家住宅(なかむらけじゅうたく)は、沖縄県中頭郡北中城村にある歴史的建造物(民家)
中村家住宅(なかむらけじゅうたく)は、沖縄県中頭郡北中城村にある歴史的建造物(民家)。国の重要文化財に指定されている。
概要
中村家の祖先に当たる賀氏(がうじ)は豪農であり、琉球王国の官人である護佐丸が首里王府の命に従い1440年に読谷から中城城に移った時に共に移り、その近くに居を構えた。護佐丸が阿麻和利に滅ぼされた後は不遇を託つ時代が続いたが、1720年頃には地頭代(本土で言うところの庄屋)に任ぜられるまでになった。現在の屋敷は主屋(ウフヤ(母屋)・トゥングワ(台所))・アシャギ(離れ座敷)・高倉(籾倉)・フール(豚小屋兼便所)・メーヌヤー(前の屋・家畜小屋兼納屋)・ヒンプン(目隠し塀)・カー(井戸)で構成されており、周囲はフクギと石垣で囲まれている。
屋根の上には魔除けのシーサーが鎮座している。瓦は赤瓦が使用されており、漆喰でしっかりと固められている。なお、明治以前は竹瓦が葺かれていた(琉球王国の時代には、瓦は士族階級以上しか認められていなかったため。農民階級である中村家が瓦を用いるのを認められたのは明治も中頃になってからである)。琉球石灰岩で出来た石垣や防風林としてのフクギ、漆喰で塗り固められた重い瓦はいずれも台風に備えるための工夫である。また、屋根はアマハジ(雨端)という、屋根が庇のように出張った構造になっている。これは強い日差しと雨を避けるためのものである。
沖縄戦の戦禍を免れた貴重な家屋であることから、沖縄がアメリカ合衆国から日本に返還(沖縄返還)された当日の1972年(昭和47年)5月15日に、主屋(ウフヤ及びトゥングワ)、アシャギ、高倉(籾蔵)、メーヌヤー(前の屋)、フールが、沖縄本島の民家では初めて国の重要文化財に指定された。なお、返還以前の1956年(昭和31年)には琉球政府から重要文化財の指定がなされている。
建築概要
主屋は18世紀中頃の建築とされ、鎌倉・室町の日本建築の様式が取り入れられているとされるが、随所に独自の手法が加えられている。木材にはイヌマキやモッコクが使用されている。これらの樹種は高級木材とされており、一般の使用は禁じられていた。
主屋(ウフヤ及びトゥングワ)、アシャギ〔あさぎ〕、高倉〔籾蔵〕、メーヌヤー〔前の屋〕、フール〔豚便所〕の5棟と宅地が重要文化財に指定されており(〔 〕内の建物名は重要文化財指定名称)、ほかに石牆(せきしょう)2棟とヒンプン(目隠し塀)が重要文化財の附(つけたり)指定となっている(宅地は1981年追加指定)。
宅地 (1,560.67m2)。
主屋 (174.5m2)
ウフヤ(母屋)
建築年代:江戸時代後期
桁行10.7m、梁間9.6m・寄棟造・本瓦葺き。ウフヤは東から順に一番座(客間)・二番座(仏間)・三番座(居間)がある。先祖崇拝が中心的な沖縄県では、仏壇がある二番座が家の中心となるように配置された。その北側にはそれぞれの部屋に対応する裏座と呼ばれる小さな部屋が三間あり、ここは主に寝室、産室に使われた。
トゥングワ(台所)
建築年代:明治時代
桁行8.5m・梁間8.7m・寄棟造・本瓦葺き・東側がウフヤと隣接。独自の信仰であるヒヌカン(火の神)が祀られており、毎月1日と15日に拝む習慣がある。ヒヌカンは女性の神であるという。また、屋根裏を物置として使用していたため、屋根は低くなっている。
アシャギ(アサギ) (62.0m2)
建築年代:明治時代
桁行8.6m・梁間7.5m・寄棟造・本瓦葺き。首里王府の役人が巡視に訪れた際、その宿泊に供するために使われた。
高倉(籾倉) (19.0m2)
建築年代:明治時代
桁行4.8m・梁間3.9m・2階建て・寄棟造・本瓦葺き。1階は板間と土間があり物置に、2階は穀倉として使われた。沖縄本島で倉の造りに通常用いられる丸柱ではなく、住居に用いられるのと同じ角柱を使用し、壁や床が板張りとなっているのが特徴。また、屋根裏にはネズミの侵入を防ぐために傾斜が施してある(ネズミ返しという)。
メーヌヤー(前の屋) (64.8m2)
建築年代:明治時代
桁行10.4m・梁間5.9m・2階建て・寄棟造・本瓦葺き。1階は羊・牛・馬が飼育され、2階は黒糖の製造に利用する薪置き場であった。
フール
建築年代:明治時代
間口6.4m・奥行4.7m。3基のアーチ型をした石囲いとなっており、豚の飼育に使われた。人間の便所としても使用され、豚にその排泄物を食べさせた。
ヒンプン
屋敷の入り口には門が無く、代わりに屋敷の外から内部を見通せなくするための目隠し塀である、ヒンプンという仕切り壁を配置した。中国の塀風門(ピンフォンメン)という、悪鬼の進入を防ぐ門に由来するという。入口は風水によって良いとされる南側に配置され、その正面に二番座(仏間)が位置している。これは風水において、入口から入った良い「気」が直接仏壇に向かっていくようにとの配慮である。また、仏壇も南側を向いている。
沖縄県における風水
前述の通り、伝統的な家屋では、風水が重要視されている。これは中国の影響を強く受けているためである。18世紀には中国で多くの人物に風水を学ばせた。またそれらの者をフンシミー(風水見)と呼んだ。首里城とその城下も四神相応の理想型を追求した配置となっている。
かつては、家を建てる際にフンシミーに良い方角・地形を見定めさせた。良い方角とは日が昇る方角である東(アガリ)であり、西(イリ)は悪いとされている。また、良い地形とは前方が低く、後方が高く傾斜している地形で、かつ前方(門に当たる部分)が南であることであるとされている。部屋割りとしては南東が最も良い位置であり、逆に北西が最も悪い位置である。中村家住宅もこのような配置となっている。具体的にはアサギや一番座(客間)が南東に配され、フール(豚小屋兼便所)が北西に配されている。
施設情報
住宅は、北中城村が観光施設として有料で公開している。
所在地 - 沖縄県中頭郡北中城村字大城106
公開日と時間 - 9時から17時30分、年中無休
交通 - 沖縄自動車道那覇インターチェンジから自動車で約15分。
概要
中村家の祖先に当たる賀氏(がうじ)は豪農であり、琉球王国の官人である護佐丸が首里王府の命に従い1440年に読谷から中城城に移った時に共に移り、その近くに居を構えた。護佐丸が阿麻和利に滅ぼされた後は不遇を託つ時代が続いたが、1720年頃には地頭代(本土で言うところの庄屋)に任ぜられるまでになった。現在の屋敷は主屋(ウフヤ(母屋)・トゥングワ(台所))・アシャギ(離れ座敷)・高倉(籾倉)・フール(豚小屋兼便所)・メーヌヤー(前の屋・家畜小屋兼納屋)・ヒンプン(目隠し塀)・カー(井戸)で構成されており、周囲はフクギと石垣で囲まれている。
屋根の上には魔除けのシーサーが鎮座している。瓦は赤瓦が使用されており、漆喰でしっかりと固められている。なお、明治以前は竹瓦が葺かれていた(琉球王国の時代には、瓦は士族階級以上しか認められていなかったため。農民階級である中村家が瓦を用いるのを認められたのは明治も中頃になってからである)。琉球石灰岩で出来た石垣や防風林としてのフクギ、漆喰で塗り固められた重い瓦はいずれも台風に備えるための工夫である。また、屋根はアマハジ(雨端)という、屋根が庇のように出張った構造になっている。これは強い日差しと雨を避けるためのものである。
沖縄戦の戦禍を免れた貴重な家屋であることから、沖縄がアメリカ合衆国から日本に返還(沖縄返還)された当日の1972年(昭和47年)5月15日に、主屋(ウフヤ及びトゥングワ)、アシャギ、高倉(籾蔵)、メーヌヤー(前の屋)、フールが、沖縄本島の民家では初めて国の重要文化財に指定された。なお、返還以前の1956年(昭和31年)には琉球政府から重要文化財の指定がなされている。
建築概要
主屋は18世紀中頃の建築とされ、鎌倉・室町の日本建築の様式が取り入れられているとされるが、随所に独自の手法が加えられている。木材にはイヌマキやモッコクが使用されている。これらの樹種は高級木材とされており、一般の使用は禁じられていた。
主屋(ウフヤ及びトゥングワ)、アシャギ〔あさぎ〕、高倉〔籾蔵〕、メーヌヤー〔前の屋〕、フール〔豚便所〕の5棟と宅地が重要文化財に指定されており(〔 〕内の建物名は重要文化財指定名称)、ほかに石牆(せきしょう)2棟とヒンプン(目隠し塀)が重要文化財の附(つけたり)指定となっている(宅地は1981年追加指定)。
宅地 (1,560.67m2)。
主屋 (174.5m2)
ウフヤ(母屋)
建築年代:江戸時代後期
桁行10.7m、梁間9.6m・寄棟造・本瓦葺き。ウフヤは東から順に一番座(客間)・二番座(仏間)・三番座(居間)がある。先祖崇拝が中心的な沖縄県では、仏壇がある二番座が家の中心となるように配置された。その北側にはそれぞれの部屋に対応する裏座と呼ばれる小さな部屋が三間あり、ここは主に寝室、産室に使われた。
トゥングワ(台所)
建築年代:明治時代
桁行8.5m・梁間8.7m・寄棟造・本瓦葺き・東側がウフヤと隣接。独自の信仰であるヒヌカン(火の神)が祀られており、毎月1日と15日に拝む習慣がある。ヒヌカンは女性の神であるという。また、屋根裏を物置として使用していたため、屋根は低くなっている。
アシャギ(アサギ) (62.0m2)
建築年代:明治時代
桁行8.6m・梁間7.5m・寄棟造・本瓦葺き。首里王府の役人が巡視に訪れた際、その宿泊に供するために使われた。
高倉(籾倉) (19.0m2)
建築年代:明治時代
桁行4.8m・梁間3.9m・2階建て・寄棟造・本瓦葺き。1階は板間と土間があり物置に、2階は穀倉として使われた。沖縄本島で倉の造りに通常用いられる丸柱ではなく、住居に用いられるのと同じ角柱を使用し、壁や床が板張りとなっているのが特徴。また、屋根裏にはネズミの侵入を防ぐために傾斜が施してある(ネズミ返しという)。
メーヌヤー(前の屋) (64.8m2)
建築年代:明治時代
桁行10.4m・梁間5.9m・2階建て・寄棟造・本瓦葺き。1階は羊・牛・馬が飼育され、2階は黒糖の製造に利用する薪置き場であった。
フール
建築年代:明治時代
間口6.4m・奥行4.7m。3基のアーチ型をした石囲いとなっており、豚の飼育に使われた。人間の便所としても使用され、豚にその排泄物を食べさせた。
ヒンプン
屋敷の入り口には門が無く、代わりに屋敷の外から内部を見通せなくするための目隠し塀である、ヒンプンという仕切り壁を配置した。中国の塀風門(ピンフォンメン)という、悪鬼の進入を防ぐ門に由来するという。入口は風水によって良いとされる南側に配置され、その正面に二番座(仏間)が位置している。これは風水において、入口から入った良い「気」が直接仏壇に向かっていくようにとの配慮である。また、仏壇も南側を向いている。
沖縄県における風水
前述の通り、伝統的な家屋では、風水が重要視されている。これは中国の影響を強く受けているためである。18世紀には中国で多くの人物に風水を学ばせた。またそれらの者をフンシミー(風水見)と呼んだ。首里城とその城下も四神相応の理想型を追求した配置となっている。
かつては、家を建てる際にフンシミーに良い方角・地形を見定めさせた。良い方角とは日が昇る方角である東(アガリ)であり、西(イリ)は悪いとされている。また、良い地形とは前方が低く、後方が高く傾斜している地形で、かつ前方(門に当たる部分)が南であることであるとされている。部屋割りとしては南東が最も良い位置であり、逆に北西が最も悪い位置である。中村家住宅もこのような配置となっている。具体的にはアサギや一番座(客間)が南東に配され、フール(豚小屋兼便所)が北西に配されている。
施設情報
住宅は、北中城村が観光施設として有料で公開している。
所在地 - 沖縄県中頭郡北中城村字大城106
公開日と時間 - 9時から17時30分、年中無休
交通 - 沖縄自動車道那覇インターチェンジから自動車で約15分。
2023年07月06日
求菩提山(くぼてさん)は、福岡県豊前市求菩提と築上郡築上町寒田の境界に位置する筑紫山地に属する標高782メートルの山
求菩提山(くぼてさん)は、福岡県豊前市求菩提と築上郡築上町寒田の境界に位置する筑紫山地に属する標高782メートルの山である。麓の豊前市のシンボル的な山であり、かつては英彦山、犬ヶ岳と共に修験道の山だった。
概要
古くから修験道の霊山として修行が行われ、1870年頃の明治時代前期まで山岳信仰が行われていた。中世初期までは英彦山の影響下にあったが、中世末期には聖護院に属し、座主の格式を得て近世までは約180坊を有する勢力を持った。その後、幕末期には54坊を数える程度まで衰微し、明治時代の神仏分離によって求菩提山護国寺は国玉神社となった。
山頂付近では修験道に関係する「求菩提五窟」と称される普賢窟・多聞窟・迦陵頻伽の彫られた岩洞窟など遺跡や遺物が存在しており、国宝や重要文化財に指定されたものもある。こうした歴史的背景から昭和25年(1950年)に耶馬日田英彦山国定公園の一部に指定され、2001年には史跡名勝天然記念物に、さらに2012年には「求菩提の農村景観」として日本の重要文化的景観にも選定されている。
山頂には国玉神社上宮があり、麓には資料館やキャンプ場がある。周辺には湧き水も多い。山頂の神社に至る850段の石段は「鬼のあぶみ」とも呼ばれ、山中を荒らし回っていた鬼が求菩提権現との誓約により一晩で築いたという伝説が伝わる。
周辺には英彦山や耶馬渓などがあり、求菩提山も耶馬日田英彦山国定公園に含まれる。
また、求菩堤山には鴉天狗の伝説が伝えられており、豊前市のマスコットキャラクターである「くぼてん」はカラス天狗にちなんだマスコットキャラクターである。
頂上からは南に英彦山・犬ヶ岳など、東に豊前市街地、周防灘の眺めがよい。
豊前市内や築上町、みやこ町犀川から福岡県道32号犀川豊前線を使って山頂付近まで車で行くことも可能である。また標高が高いため冬場は路面凍結や積雪などに注意が必要である。
文化財
史跡
求菩提山
国宝
銅板法華経 銅筥
重要文化財
豊前求菩提山経塚出土品
重要文化的景観
求菩提の農村景観
福岡県指定有形文化財
求菩提山文書
福岡県指定有形民俗文化財
求菩提山修験道遺品
福岡県指定無形民俗文化財
求菩提山のお田植祭
福岡県指定天然記念物
求菩提のボダイジュ
求菩提のヒメシャガ
豊前市指定有形文化財
覚魔社社殿
豊前市指定天然記念物
求菩提のクワ(桑)
交通アクセス
JR九州日豊本線宇島駅から豊前市バス岩屋線に乗車し「求菩提登山口」下車。
東九州自動車道豊前インターチェンジから山頂まで約15q。
求菩提山山頂の国玉神社上宮
標高 782 m
所在地 福岡県豊前市・築上郡築上町
位置 北緯33度32分24秒 東経131度00分42秒
山系 筑紫山地
概要
古くから修験道の霊山として修行が行われ、1870年頃の明治時代前期まで山岳信仰が行われていた。中世初期までは英彦山の影響下にあったが、中世末期には聖護院に属し、座主の格式を得て近世までは約180坊を有する勢力を持った。その後、幕末期には54坊を数える程度まで衰微し、明治時代の神仏分離によって求菩提山護国寺は国玉神社となった。
山頂付近では修験道に関係する「求菩提五窟」と称される普賢窟・多聞窟・迦陵頻伽の彫られた岩洞窟など遺跡や遺物が存在しており、国宝や重要文化財に指定されたものもある。こうした歴史的背景から昭和25年(1950年)に耶馬日田英彦山国定公園の一部に指定され、2001年には史跡名勝天然記念物に、さらに2012年には「求菩提の農村景観」として日本の重要文化的景観にも選定されている。
山頂には国玉神社上宮があり、麓には資料館やキャンプ場がある。周辺には湧き水も多い。山頂の神社に至る850段の石段は「鬼のあぶみ」とも呼ばれ、山中を荒らし回っていた鬼が求菩提権現との誓約により一晩で築いたという伝説が伝わる。
周辺には英彦山や耶馬渓などがあり、求菩提山も耶馬日田英彦山国定公園に含まれる。
また、求菩堤山には鴉天狗の伝説が伝えられており、豊前市のマスコットキャラクターである「くぼてん」はカラス天狗にちなんだマスコットキャラクターである。
頂上からは南に英彦山・犬ヶ岳など、東に豊前市街地、周防灘の眺めがよい。
豊前市内や築上町、みやこ町犀川から福岡県道32号犀川豊前線を使って山頂付近まで車で行くことも可能である。また標高が高いため冬場は路面凍結や積雪などに注意が必要である。
文化財
史跡
求菩提山
国宝
銅板法華経 銅筥
重要文化財
豊前求菩提山経塚出土品
重要文化的景観
求菩提の農村景観
福岡県指定有形文化財
求菩提山文書
福岡県指定有形民俗文化財
求菩提山修験道遺品
福岡県指定無形民俗文化財
求菩提山のお田植祭
福岡県指定天然記念物
求菩提のボダイジュ
求菩提のヒメシャガ
豊前市指定有形文化財
覚魔社社殿
豊前市指定天然記念物
求菩提のクワ(桑)
交通アクセス
JR九州日豊本線宇島駅から豊前市バス岩屋線に乗車し「求菩提登山口」下車。
東九州自動車道豊前インターチェンジから山頂まで約15q。
求菩提山山頂の国玉神社上宮
標高 782 m
所在地 福岡県豊前市・築上郡築上町
位置 北緯33度32分24秒 東経131度00分42秒
山系 筑紫山地
2023年07月05日
恵日寺(えにちじ)は、福島県耶麻郡磐梯町にある真言宗豊山派の仏教寺院
恵日寺(えにちじ)は、福島県耶麻郡磐梯町にある真言宗豊山派の仏教寺院。かつては慧日寺(えにちじ)と称し、明治の廃仏毀釈で一旦廃寺になったが、1904年(明治37年)に復興され、現在の寺号となった。平安時代初期からの寺院の遺構は、慧日寺跡(えにちじあと)として国の史跡に指定されている。
歴史
慧日寺は平安時代初め、807年(大同2年)に法相宗の僧・徳一によって開かれた。徳一はもともとは南都(奈良)の学僧で、布教活動のため会津へ下って勝常寺や円蔵寺(柳津虚空蔵尊)を建立し、会津地方に仏教文化を広めていた。また、徳一は会津の地から当時の新興仏教勢力であった天台宗の最澄と「三一権実諍論」と呼ばれる大論争を繰り広げたり、真言宗の空海に「真言宗未決文」を送ったりするなどをしていた。徳一は842年(承和9年)に死去し、今与(金耀)が跡を継いだ。この頃の慧日寺は寺僧300、僧兵数千、子院3,800を数えるほどの隆盛を誇っていたと言われる。「国王神社縁起」及び「元享釈書」によると、平将門の最後の合戦の時に、三女が恵日寺に逃れ、出家して如蔵尼と称して留まり、将門の死後33年目に郷里(茨城県坂東市)に帰ったと伝わる。 平安時代後期になると慧日寺は越後から会津にかけて勢力を張っていた城氏との関係が深くなり、1172年(承安2年)には城資永より越後国東蒲原郡小川庄75ヶ村を寄進されている。その影響で、源平合戦が始まると、平家方に付いた城助職が木曾義仲と信濃国横田河原で戦った際には、慧日寺衆徒頭の乗丹坊が会津四郡の兵を引き連れて助職への援軍として駆けつけている。しかし、この横田河原の戦いで助職は敗れ、乗丹坊も戦死し、慧日寺は一時的に衰退した。
その後、中世に入ると領主の庇護などもあり伽藍の復興が進み、『絹本著色恵日寺絵図』から室町時代には複数の伽藍とともに門前町が形成されていたことがわかる。しかし、1589年(天正17年)の摺上原の戦いに勝利した伊達政宗が会津へ侵入した際にその戦火に巻き込まれ、金堂を残して全て焼失してしまった。その金堂も江戸時代初期の1626年(寛永3年)に焼失し、その後は再建されたものの、かつての大伽藍にはほど遠く、1869年(明治2年)の廃仏毀釈によって廃寺となった。その後、多くの人の復興運動の成果が実を結び、1904年(明治37年)に寺号使用が許可され、「恵日寺」という寺号で復興された。なお、現在は真言宗に属している。
山岳信仰
慧日寺は北東に磐梯山、北に厩岳山、さらに磐梯山の北に吾妻山という山岳信仰の盛んな山を抱えており、その立地的な面から山岳信仰に大きな役割を果たしてきた。そもそも慧日寺の開基は806年(大同元年)に磐梯山が噴火した翌年のことであり、噴火と慧日寺開基との間に山岳信仰上の関連があるのではないかとする見方もある。吾妻山神社への参拝ルートは慧日寺門前町の本寺を始点としたいくつかのルートが開拓されている。
復元された薬師如来坐像
交通アクセス
JR磐越西線磐梯町駅より徒歩30分
磐越自動車道磐梯河東ICより車で5分
磐梯東都バスで磐梯町駅前より約8分、JR磐越西線猪苗代駅前よりバス35分
所在地 福島県耶麻郡磐梯町大字磐梯本寺上4950
位置 北緯37度34分2.7秒 東経139度59分12.7秒
宗旨 豊山派法相宗として創建、真言宗として再建
宗派 豊山派
創建年 807年(大同2年)
開山 徳一
中興年 1904年(明治37年)
別称 慧日寺
文化財 白銅三鈷杵(重要文化財)
慧日寺跡(史跡)
歴史
慧日寺は平安時代初め、807年(大同2年)に法相宗の僧・徳一によって開かれた。徳一はもともとは南都(奈良)の学僧で、布教活動のため会津へ下って勝常寺や円蔵寺(柳津虚空蔵尊)を建立し、会津地方に仏教文化を広めていた。また、徳一は会津の地から当時の新興仏教勢力であった天台宗の最澄と「三一権実諍論」と呼ばれる大論争を繰り広げたり、真言宗の空海に「真言宗未決文」を送ったりするなどをしていた。徳一は842年(承和9年)に死去し、今与(金耀)が跡を継いだ。この頃の慧日寺は寺僧300、僧兵数千、子院3,800を数えるほどの隆盛を誇っていたと言われる。「国王神社縁起」及び「元享釈書」によると、平将門の最後の合戦の時に、三女が恵日寺に逃れ、出家して如蔵尼と称して留まり、将門の死後33年目に郷里(茨城県坂東市)に帰ったと伝わる。 平安時代後期になると慧日寺は越後から会津にかけて勢力を張っていた城氏との関係が深くなり、1172年(承安2年)には城資永より越後国東蒲原郡小川庄75ヶ村を寄進されている。その影響で、源平合戦が始まると、平家方に付いた城助職が木曾義仲と信濃国横田河原で戦った際には、慧日寺衆徒頭の乗丹坊が会津四郡の兵を引き連れて助職への援軍として駆けつけている。しかし、この横田河原の戦いで助職は敗れ、乗丹坊も戦死し、慧日寺は一時的に衰退した。
その後、中世に入ると領主の庇護などもあり伽藍の復興が進み、『絹本著色恵日寺絵図』から室町時代には複数の伽藍とともに門前町が形成されていたことがわかる。しかし、1589年(天正17年)の摺上原の戦いに勝利した伊達政宗が会津へ侵入した際にその戦火に巻き込まれ、金堂を残して全て焼失してしまった。その金堂も江戸時代初期の1626年(寛永3年)に焼失し、その後は再建されたものの、かつての大伽藍にはほど遠く、1869年(明治2年)の廃仏毀釈によって廃寺となった。その後、多くの人の復興運動の成果が実を結び、1904年(明治37年)に寺号使用が許可され、「恵日寺」という寺号で復興された。なお、現在は真言宗に属している。
山岳信仰
慧日寺は北東に磐梯山、北に厩岳山、さらに磐梯山の北に吾妻山という山岳信仰の盛んな山を抱えており、その立地的な面から山岳信仰に大きな役割を果たしてきた。そもそも慧日寺の開基は806年(大同元年)に磐梯山が噴火した翌年のことであり、噴火と慧日寺開基との間に山岳信仰上の関連があるのではないかとする見方もある。吾妻山神社への参拝ルートは慧日寺門前町の本寺を始点としたいくつかのルートが開拓されている。
復元された薬師如来坐像
交通アクセス
JR磐越西線磐梯町駅より徒歩30分
磐越自動車道磐梯河東ICより車で5分
磐梯東都バスで磐梯町駅前より約8分、JR磐越西線猪苗代駅前よりバス35分
所在地 福島県耶麻郡磐梯町大字磐梯本寺上4950
位置 北緯37度34分2.7秒 東経139度59分12.7秒
宗旨 豊山派法相宗として創建、真言宗として再建
宗派 豊山派
創建年 807年(大同2年)
開山 徳一
中興年 1904年(明治37年)
別称 慧日寺
文化財 白銅三鈷杵(重要文化財)
慧日寺跡(史跡)