安里八幡宮(あさとはちまんぐう)は、沖縄県那覇市安里にある神社。琉球八社の一つで、明治の近代社格制度では無格社。
拝殿兼本殿
祭神
八社の中で唯一の八幡宮で応神天皇、神功皇后、玉依姫命を祀る。
他の7社は全て熊野権現を祀っている。
歴史
康熙52年(1713年、和暦では正徳3年)に成立した『琉球国由来記 巻11 密門諸寺縁起』の〔八幡大菩薩〕の段にある「勧請由来」では、当社の開基を天順年間(1457年 - 1464年)であるとし、その創始について次のような伝承を記している。
第6代琉球国王尚徳王の御代、兵を遣わして喜界島を討伐することとした。喜界島は小島であったが、堅く護って王に従わないためである。この時、村の老人が「王が直々にお出向きになれば、有利になること疑いありません。何故なら猟犬は後ろに人があってこそ進みますが、兵も同じだからです」と奏上して言った。この話を聞いた王は戦旗を上げ出陣した。出陣の門出、城の麓に水鳥がいた。王は矢をつがえ、「今我軍が有利であるならば、この鳥をすみやかに射落とせ」と誓って言うと、一本の矢を地に立て、一本の矢を放った。矢は鳥を射止めたので、王は帆を上げ出航した。喜界島へ向かう海路を進むと、今度は小鐘が海面に浮いてきた。船人達がこれを得ようと欲すると遠ざかるが、船の傍らより離れることはなかった。また王が「この戦に利があるなら霊鐘わが手に入るべし。帰国の後は八幡大菩薩を崇めるべし」と誓って右手を出すと、鐘は簡単に手に入った。王は歓喜して輿を造って御座船に勧請し、祭祀をおこなった。王は本懐を遂げて帰国すると、矢を立てた場所に霊社を建て、浮鐘と神通矢を垂迹として八幡大菩薩と号し奉じた。
この『琉球国由来記』の創建伝承の最後には「神道記に見ゆ」と記されているが、慶安元年(1648年)に初版が開板された『琉球神道記 巻第5』の「八幡大菩薩事」では、これが第5代琉球国王尚泰久王御代の出来事であるとしている。
当社は真言宗8公寺の一つである神徳寺(現在も道路を挟んだ当社の南西側に位置)に併置の神社として、官社の制により琉球八社とされた。官社へは王府から神職の役俸並びに営繕費が支給されたが、当社へは神職として祝部・内侍・宮童が置かれた。また、祝部・内侍が神楽の際に着用する服装は全て王府の寺社座から支給を受けた。
鳥居
明治時代に入り、 琉球処分により琉球王国が廃され沖縄県が置かれると、当社は近代社格制度により無格社とされた。『琉球宗教史の研究』によれば、沖縄県行政府では当社を村社に列することを立案したが、経済的な理由から村社列格が出来ず、また社殿その他の設備においても不備な点が多々あって村社列格が事実上不可能であることから、とりあえず無格社として残置し、追々維持拡張整備して村社に引き直す根基を充実するよう努めることになったとしている。
さらに『琉球宗教史の研究』によれば、当時地元の民衆と信仰的に直接結合していたのは御嶽拝所であり、無格社となり日本政府の経済的保障がなかった当社は、その後経済的にも信仰的にも見るに耐えない無残な状態を呈することとなり、昭和14年度に沖縄県振興事業に取り上げられたときには、明治末頃まで美麗な姿を留めていた拝殿は倒壊消滅して礎石のみが残り、本殿は腐朽破損が甚だしくて東方に傾斜したのを4〜5本の支柱で支えている有様で、その支柱もシロアリの被害が甚大であり、屋根は数箇所は長年の暴風雨で破壊されて参拝者の生命に危険を及ぼす恐れがある状態となっていた。。
その後、昭和19年(1944年)10月に沖縄戦で被災全焼し、戦後に再建されたのが現在の社殿である。神社が位置する高地は沖縄戦の激戦であるシュガーローフの戦いの戦場だった。
所在地 沖縄県那覇市安里124
位置 北緯26度13分15.9秒 東経127度41分41.8秒
主祭神 応神天皇
神功皇后
玉依姫命
社格等 旧無格社
創建 天順年間(1457年 - 1464年)
本殿の様式 入母屋造
札所等 琉球八社
例祭 旧暦9月9日
2023年08月23日
2023年08月22日
宇美八幡宮(うみはちまんぐう)は、福岡県糟屋郡宇美町にある神社
宇美八幡宮(うみはちまんぐう)は、福岡県糟屋郡宇美町にある神社である。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。
安産の神として信仰される。
祭神
応神天皇・神功皇后・玉依姫命・住吉大神・伊弉諾尊を祀る。
歴史
社伝「伝子孫書」によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途に応神天皇を産んだ地に、敏達天皇3年に応神天皇を祀ったのに始まる。「宇美」の地名も「産み」に由来するものである。平安時代ごろから石清水八幡宮と本末関係となった。鎌倉時代初期から安産の神として信仰されるようになった。別当寺も宇美山誕生寺と称していた。
天保2年(1831年)、大宮司の神武斎宮之介は福岡藩により禁止された神道式祭祀を復活させるため筑前一之宮住吉神社や筥崎宮の大宮司らと上洛し、一般神社に影響力を持つ吉田司家に陳情したが無視されたため、朝廷に近い神社に影響力を持つ一条家に願書を提出し帰郷したところ、藩吏に逮捕され、1833年、座敷牢での謹慎を命じられ、怒りのあまり自決した。
明治5年に村社に列格し、明治24年に県社に昇格した。
施設
境内には、神功皇后が出産のときにすがりついたという「子安の木」、応神天皇の産湯に使ったと伝えられる「産湯の水」などがある。境内末社・湯方殿の前には「子安の石」と呼ばれる拳大の石が納められており、妊婦は安産を祈願してこの石を持ち帰り、出産後は別の新しい石を添えて返すという風習がある。
交通
JR九州香椎線 宇美駅より徒歩9分(約750m)。
博多バスターミナルより西鉄バス原田橋行、上宇美行に乗車し宇美八幡前バス停下車すぐ。
マイカーの場合、九州自動車道太宰府インターチェンジから約6.5km、もしくは須恵スマートインターチェンジから約3q。
駐車場あり
所在地 福岡県糟屋郡宇美町宇美二丁目1番1号
位置 北緯33度34分13秒 東経130度30分32秒
主祭神 応神天皇
神功皇后
玉依姫命
住吉大神
伊弉冉尊
社格等 旧県社・別表神社
創建 敏達天皇3年
例祭 1月5日(誕生祭)
安産の神として信仰される。
祭神
応神天皇・神功皇后・玉依姫命・住吉大神・伊弉諾尊を祀る。
歴史
社伝「伝子孫書」によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途に応神天皇を産んだ地に、敏達天皇3年に応神天皇を祀ったのに始まる。「宇美」の地名も「産み」に由来するものである。平安時代ごろから石清水八幡宮と本末関係となった。鎌倉時代初期から安産の神として信仰されるようになった。別当寺も宇美山誕生寺と称していた。
天保2年(1831年)、大宮司の神武斎宮之介は福岡藩により禁止された神道式祭祀を復活させるため筑前一之宮住吉神社や筥崎宮の大宮司らと上洛し、一般神社に影響力を持つ吉田司家に陳情したが無視されたため、朝廷に近い神社に影響力を持つ一条家に願書を提出し帰郷したところ、藩吏に逮捕され、1833年、座敷牢での謹慎を命じられ、怒りのあまり自決した。
明治5年に村社に列格し、明治24年に県社に昇格した。
施設
境内には、神功皇后が出産のときにすがりついたという「子安の木」、応神天皇の産湯に使ったと伝えられる「産湯の水」などがある。境内末社・湯方殿の前には「子安の石」と呼ばれる拳大の石が納められており、妊婦は安産を祈願してこの石を持ち帰り、出産後は別の新しい石を添えて返すという風習がある。
交通
JR九州香椎線 宇美駅より徒歩9分(約750m)。
博多バスターミナルより西鉄バス原田橋行、上宇美行に乗車し宇美八幡前バス停下車すぐ。
マイカーの場合、九州自動車道太宰府インターチェンジから約6.5km、もしくは須恵スマートインターチェンジから約3q。
駐車場あり
所在地 福岡県糟屋郡宇美町宇美二丁目1番1号
位置 北緯33度34分13秒 東経130度30分32秒
主祭神 応神天皇
神功皇后
玉依姫命
住吉大神
伊弉冉尊
社格等 旧県社・別表神社
創建 敏達天皇3年
例祭 1月5日(誕生祭)
2023年08月21日
恵隆寺(えりゅうじ)は、福島県河沼郡会津坂下町にある真言宗豊山派の寺院
恵隆寺(えりゅうじ)は、福島県河沼郡会津坂下町にある真言宗豊山派の寺院。山号は金塔山。本尊は十一面千手観音菩薩。通称は立木観音。会津ころり三観音の一つである。
観音堂(重要文化財)
歴史
『会津温故拾要抄』等に伝える伝承によれば、欽明天皇元年(540年)に梁の僧・青岩が高寺山(寺の北西、会津坂下町と喜多方市の境にある山)に庵を結び、その後、舒明天皇6年(634年)に僧・恵隆が恵隆寺と名付けたという。また、『会津風土記』(寛文6年〈1666年〉成立)によれば、大同3年(808年)、空海の意を受けて坂上田村麻呂が創建したものという。いずれの伝承もにわかに史実とは認めがたいものであり、当寺の創建の正確な時期や経緯については不明と言わざるをえない。
一時は周辺地域を支配するほどの一大伽藍や36坊もの堂宇を擁していたが、現在は仁王門、本堂、観音堂(立木観音堂)のみが残されている。
文化財
重要文化財
観音堂
立木観音堂とも称され、鎌倉時代、建久年間(1190年〜1199年)の建立といわれている。その後、慶長16年(1611年)の会津地震で倒壊するが、元和3年(1617年)に修理・再建された。その後も江戸時代中期や大正5年(1916年)にも修理されている。桁行5間、梁間4間の寄棟造で屋根は茅葺きである。内部は巨大な円柱や豪壮な板壁などがあり、本尊の十一面千手観音菩薩と脇侍の二十八部衆像、風神・雷神像が安置されている。
木造千手観音立像
観音堂内に安置される42臂の千手観音像。一木造で総高8.5m、像高7.4mの大きさで、一木造としては日本最大級の仏像である。立木を刻んだとする伝承があり、長年「立木観音」と呼ばれて親しまれてきた。鎌倉時代の作といわれる。
アクセス
JR只見線塔寺駅から徒歩25分、会津坂下駅から車で5分。
磐越自動車道会津坂下インターチェンジから車で10分。
拝観について
9:00 - 16:00 拝観料 300円
所在地 福島県河沼郡会津坂下町大字塔寺字松原2944
位置 北緯37度34分29.8秒 東経139度47分57.8秒
山号 金塔山
宗派 真言宗豊山派
本尊 十一面千手観音菩薩
創建年 伝・欽明天皇元年(540年)
開基 伝・青岩
別称 立木観音
札所等 会津三十三観音三十一番
会津ころり三観音
会津六詣出
文化財 観音堂・木造千手観音立像(国の重要文化財)
観音堂(重要文化財)
歴史
『会津温故拾要抄』等に伝える伝承によれば、欽明天皇元年(540年)に梁の僧・青岩が高寺山(寺の北西、会津坂下町と喜多方市の境にある山)に庵を結び、その後、舒明天皇6年(634年)に僧・恵隆が恵隆寺と名付けたという。また、『会津風土記』(寛文6年〈1666年〉成立)によれば、大同3年(808年)、空海の意を受けて坂上田村麻呂が創建したものという。いずれの伝承もにわかに史実とは認めがたいものであり、当寺の創建の正確な時期や経緯については不明と言わざるをえない。
一時は周辺地域を支配するほどの一大伽藍や36坊もの堂宇を擁していたが、現在は仁王門、本堂、観音堂(立木観音堂)のみが残されている。
文化財
重要文化財
観音堂
立木観音堂とも称され、鎌倉時代、建久年間(1190年〜1199年)の建立といわれている。その後、慶長16年(1611年)の会津地震で倒壊するが、元和3年(1617年)に修理・再建された。その後も江戸時代中期や大正5年(1916年)にも修理されている。桁行5間、梁間4間の寄棟造で屋根は茅葺きである。内部は巨大な円柱や豪壮な板壁などがあり、本尊の十一面千手観音菩薩と脇侍の二十八部衆像、風神・雷神像が安置されている。
木造千手観音立像
観音堂内に安置される42臂の千手観音像。一木造で総高8.5m、像高7.4mの大きさで、一木造としては日本最大級の仏像である。立木を刻んだとする伝承があり、長年「立木観音」と呼ばれて親しまれてきた。鎌倉時代の作といわれる。
アクセス
JR只見線塔寺駅から徒歩25分、会津坂下駅から車で5分。
磐越自動車道会津坂下インターチェンジから車で10分。
拝観について
9:00 - 16:00 拝観料 300円
所在地 福島県河沼郡会津坂下町大字塔寺字松原2944
位置 北緯37度34分29.8秒 東経139度47分57.8秒
山号 金塔山
宗派 真言宗豊山派
本尊 十一面千手観音菩薩
創建年 伝・欽明天皇元年(540年)
開基 伝・青岩
別称 立木観音
札所等 会津三十三観音三十一番
会津ころり三観音
会津六詣出
文化財 観音堂・木造千手観音立像(国の重要文化財)
2023年08月20日
国泰寺(こくたいじ)は、北海道厚岸郡厚岸町(創建時は釧路国)のバラサン岬に所在する臨済宗南禅寺派の仏教寺院
国泰寺(こくたいじ)は、北海道厚岸郡厚岸町(創建時は釧路国)のバラサン岬に所在する臨済宗南禅寺派の仏教寺院。山号は景運山。国の史跡に指定されている。
歴史
国泰寺 (北海道厚岸町)の位置(日本内)国泰寺 (北海道厚岸町)
国泰寺跡
文化元年(1804年)の建立。同年にかけて、享和2年(1802年)から、江戸幕府が蝦夷地政策(東蝦夷地の警備など)の目的で整備した蝦夷三官寺の一つ(他の二寺は胆振国有珠郡の善光寺、日高国様似郡の等澍院)。当時、中部千島以北にはロシア帝国が進出しており、現地のアイヌに対してキリスト教を布教していた。これを憂慮した江戸幕府は、将軍徳川家斉の命によって国泰寺の建立がなされることとなった[2]。アイヌへの仏教普及や、蝦夷地で死んだ和人の葬儀を担った。
寺は鎌倉の金地院の末で、記録によれば、その活動範囲は「トカチ、クスリ、アッケシ、ネモロ、クナシリ、エトロフ」の6箇所とされる。それぞれ、十勝、釧路、厚岸、根室、国後島、択捉島と考えられるが、当時の「厚岸」の範囲がどの程度のものであったかについては未詳である。初代住職には、相模国津久井郡青山村光明寺の文翁が任命された。
寺には、山門や東面する本堂のほか、天保6年(1835年)の観音石仏、天保13年(1842年)建立の仏舎利塔、歴代住職の墓所があるほか、東方の丘の上には竜王殿、馬頭観音堂、最上徳内建立の神明社跡(のちの厚岸神社)などがある。
1973年(昭和48年10月29日)、国の史跡に指定された。
現在はサクラの名所としても知られる。
アイヌ民族弔魂碑
弔魂碑は国泰寺入り口付近に建てられており、その裏には、次のように書かれている。
弔魂のことば
由来厚岸は美しい自然と資源に恵まれ あなた方の楽土であった。 然るにその後進出した和人支配勢力の飽くなき我欲により財宝を奪われ 加えて苛酷な労働のために一命を失うものさえ少なくなかったと聞く。けだし感無量である。
我等はいま先人に代わって 過去一切の非道を深くおわびすると共に その霊を慰めんがため このたび心ある人びとと相計り 東蝦夷発祥のこの地へ うら盆に弔魂の碑を建てる。
一九七七年八月一五日 アイヌ民族弔魂碑建立委員会
交通アクセス
くしろバス国泰寺線[8] 国泰寺前バス停下車
所在地 北海道厚岸郡厚岸町湾月町1丁目15
位置 北緯43度1分58秒 東経144度50分21秒
山号 景運山
宗派 臨済宗南禅寺派
開基 文翁知政
文化財 国泰寺跡(国の史跡)、蝦夷三官寺国泰寺関係資料(重要文化財)
歴史
国泰寺 (北海道厚岸町)の位置(日本内)国泰寺 (北海道厚岸町)
国泰寺跡
文化元年(1804年)の建立。同年にかけて、享和2年(1802年)から、江戸幕府が蝦夷地政策(東蝦夷地の警備など)の目的で整備した蝦夷三官寺の一つ(他の二寺は胆振国有珠郡の善光寺、日高国様似郡の等澍院)。当時、中部千島以北にはロシア帝国が進出しており、現地のアイヌに対してキリスト教を布教していた。これを憂慮した江戸幕府は、将軍徳川家斉の命によって国泰寺の建立がなされることとなった[2]。アイヌへの仏教普及や、蝦夷地で死んだ和人の葬儀を担った。
寺は鎌倉の金地院の末で、記録によれば、その活動範囲は「トカチ、クスリ、アッケシ、ネモロ、クナシリ、エトロフ」の6箇所とされる。それぞれ、十勝、釧路、厚岸、根室、国後島、択捉島と考えられるが、当時の「厚岸」の範囲がどの程度のものであったかについては未詳である。初代住職には、相模国津久井郡青山村光明寺の文翁が任命された。
寺には、山門や東面する本堂のほか、天保6年(1835年)の観音石仏、天保13年(1842年)建立の仏舎利塔、歴代住職の墓所があるほか、東方の丘の上には竜王殿、馬頭観音堂、最上徳内建立の神明社跡(のちの厚岸神社)などがある。
1973年(昭和48年10月29日)、国の史跡に指定された。
現在はサクラの名所としても知られる。
アイヌ民族弔魂碑
弔魂碑は国泰寺入り口付近に建てられており、その裏には、次のように書かれている。
弔魂のことば
由来厚岸は美しい自然と資源に恵まれ あなた方の楽土であった。 然るにその後進出した和人支配勢力の飽くなき我欲により財宝を奪われ 加えて苛酷な労働のために一命を失うものさえ少なくなかったと聞く。けだし感無量である。
我等はいま先人に代わって 過去一切の非道を深くおわびすると共に その霊を慰めんがため このたび心ある人びとと相計り 東蝦夷発祥のこの地へ うら盆に弔魂の碑を建てる。
一九七七年八月一五日 アイヌ民族弔魂碑建立委員会
交通アクセス
くしろバス国泰寺線[8] 国泰寺前バス停下車
所在地 北海道厚岸郡厚岸町湾月町1丁目15
位置 北緯43度1分58秒 東経144度50分21秒
山号 景運山
宗派 臨済宗南禅寺派
開基 文翁知政
文化財 国泰寺跡(国の史跡)、蝦夷三官寺国泰寺関係資料(重要文化財)
2023年08月19日
御城番屋敷(ごじょうばんやしき)は、三重県松阪市殿町にある江戸時代末期の武士の住宅
御城番屋敷(ごじょうばんやしき)は、三重県松阪市殿町にある江戸時代末期の武士の住宅。松坂御城番が居住した現存する組屋敷(長屋)遺構である。
御城番屋敷全景
概要
紀州藩家老田辺安藤家に紀州藩主徳川頼宣から遣わされていた与力衆の200-300石取り紀州藩士が、安藤家の陪臣となるよう命じられたことに抗議して、幕末の1856年(安政3年)与力衆20人が脱藩して浪人となった(田辺与力騒動)。脱藩から6年後、紀州藩主の直臣40石取りとして帰参を許され、松坂御城番職に就いた。1863年(文久3年)松坂城南東の三の丸に藩士とその家族の住居として新築されたのがこの組屋敷である。
武士の住宅建築である組屋敷が、ほぼ当時のまま住居として継続して使用・維持管理されている。2004年12月10日付けで「旧松坂御城番長屋」として国の重要文化財に指定されている。
構造
松坂城搦め手から続く小路を挟んで東西に、東棟10戸・西棟9戸が並び残る。東棟は桁行90.9メートルの平屋。南北の妻側は切妻造。西棟は桁行83.6メートルの平屋。北面は切妻造、南面は入母屋造。ともに瓦葺、裏面に角屋が付属している。各棟は1戸あたり間口5間・奥行き5間が基準となっている。建物を取り囲む槙の生垣や前庭、上り框のある玄関、畑地などと整然と建て並べられている。
維持管理と景観整備
明治維新後に、士族授産で得た資産を元手に住民士族が合資会社苗秀社(びょうしゅうしゃ)を設立し、以来建物の維持管理にあたってきた。現存する19戸中12戸が借家として貸し出され、内1戸を1990年(平成2年)から松阪市が借用して内部を創建当時の姿に復元、苗秀社に運営を委託して一般公開している。松阪市はこの一般公開に先立つ1989年(平成元年)、電柱の移転・共同受信によるテレビアンテナの撤去・中央の小路の石畳化工事を行うなど景観整備を集中して行っている。
築140年を越える老朽建築物であり、近年シロアリの被害も見られるようになって修復工事が必要となった。2006年、松阪市は修復計画策定委員会を設置、耐震・防災も考慮した修復計画が策定され、2010年(平成22年)12月15日、修復整備工事が完了した。
文化財
国の重要文化財:旧松坂御城番長屋2棟(東棟・西棟) (2004年(平成16年)12月10日指定)
県指定文化財:土蔵 (2003年(平成15年)3月17日指定)
見学
開館時間:午前10時から午後4時
入館料:無料
休館日:月曜(月曜が休日の場合は翌日)・年末年始
御城番屋敷全景
概要
紀州藩家老田辺安藤家に紀州藩主徳川頼宣から遣わされていた与力衆の200-300石取り紀州藩士が、安藤家の陪臣となるよう命じられたことに抗議して、幕末の1856年(安政3年)与力衆20人が脱藩して浪人となった(田辺与力騒動)。脱藩から6年後、紀州藩主の直臣40石取りとして帰参を許され、松坂御城番職に就いた。1863年(文久3年)松坂城南東の三の丸に藩士とその家族の住居として新築されたのがこの組屋敷である。
武士の住宅建築である組屋敷が、ほぼ当時のまま住居として継続して使用・維持管理されている。2004年12月10日付けで「旧松坂御城番長屋」として国の重要文化財に指定されている。
構造
松坂城搦め手から続く小路を挟んで東西に、東棟10戸・西棟9戸が並び残る。東棟は桁行90.9メートルの平屋。南北の妻側は切妻造。西棟は桁行83.6メートルの平屋。北面は切妻造、南面は入母屋造。ともに瓦葺、裏面に角屋が付属している。各棟は1戸あたり間口5間・奥行き5間が基準となっている。建物を取り囲む槙の生垣や前庭、上り框のある玄関、畑地などと整然と建て並べられている。
維持管理と景観整備
明治維新後に、士族授産で得た資産を元手に住民士族が合資会社苗秀社(びょうしゅうしゃ)を設立し、以来建物の維持管理にあたってきた。現存する19戸中12戸が借家として貸し出され、内1戸を1990年(平成2年)から松阪市が借用して内部を創建当時の姿に復元、苗秀社に運営を委託して一般公開している。松阪市はこの一般公開に先立つ1989年(平成元年)、電柱の移転・共同受信によるテレビアンテナの撤去・中央の小路の石畳化工事を行うなど景観整備を集中して行っている。
築140年を越える老朽建築物であり、近年シロアリの被害も見られるようになって修復工事が必要となった。2006年、松阪市は修復計画策定委員会を設置、耐震・防災も考慮した修復計画が策定され、2010年(平成22年)12月15日、修復整備工事が完了した。
文化財
国の重要文化財:旧松坂御城番長屋2棟(東棟・西棟) (2004年(平成16年)12月10日指定)
県指定文化財:土蔵 (2003年(平成15年)3月17日指定)
見学
開館時間:午前10時から午後4時
入館料:無料
休館日:月曜(月曜が休日の場合は翌日)・年末年始
2023年08月18日
旧佐藤家住宅(きゅうさとうけじゅうたく)は宮城県角田市高倉字寺前50番地にある江戸時代中期の民家
旧佐藤家住宅(きゅうさとうけじゅうたく)は宮城県角田市高倉字寺前50番地にある江戸時代中期の民家。国の重要文化財に指定されている。
概要
木造平屋建ての直屋で、出入り口は平入であり、屋根は寄棟造の茅葺である。広間型三間取りの単純な間取りで、全体の約4割を土間が占めており、土間には6本の柱が立つ。これは江戸時代中期の農家の形式であり、建立の時期は18世紀中ごろから後半にかけてとみられている。
その後、江戸時代末期に北側および東側の拡張と物置部屋の設置が行われた。明治時代初めに土間の一部が床張りになり、広間に間仕切りが設置された。しかし、軸部・小屋組には変更が無く、建立当初の形式を残していた。
1971年(昭和46年)6月13日、所有者である佐藤氏が角田市に寄贈し、同年8月13日、文化財保護法により国の重要文化財の指定を受けた。1972年(昭和47年)12月31日に、高蔵寺の境内に移築され、建立当初の形式に復元された。
利用情報
開館時間:9:00〜17:00(予約不要)
公開日:年中無休
所在地 宮城県角田市高倉字寺前50
位置 北緯37度59分57.9秒 東経140度43分6秒
旧所在地 宮城県角田市高倉字新町222
類型 農家
形式・構造 木造平屋建て、一重寄棟造、茅葺、平入、直屋
建築年 江戸時代中期
文化財 国の重要文化財
概要
木造平屋建ての直屋で、出入り口は平入であり、屋根は寄棟造の茅葺である。広間型三間取りの単純な間取りで、全体の約4割を土間が占めており、土間には6本の柱が立つ。これは江戸時代中期の農家の形式であり、建立の時期は18世紀中ごろから後半にかけてとみられている。
その後、江戸時代末期に北側および東側の拡張と物置部屋の設置が行われた。明治時代初めに土間の一部が床張りになり、広間に間仕切りが設置された。しかし、軸部・小屋組には変更が無く、建立当初の形式を残していた。
1971年(昭和46年)6月13日、所有者である佐藤氏が角田市に寄贈し、同年8月13日、文化財保護法により国の重要文化財の指定を受けた。1972年(昭和47年)12月31日に、高蔵寺の境内に移築され、建立当初の形式に復元された。
利用情報
開館時間:9:00〜17:00(予約不要)
公開日:年中無休
所在地 宮城県角田市高倉字寺前50
位置 北緯37度59分57.9秒 東経140度43分6秒
旧所在地 宮城県角田市高倉字新町222
類型 農家
形式・構造 木造平屋建て、一重寄棟造、茅葺、平入、直屋
建築年 江戸時代中期
文化財 国の重要文化財
2023年08月17日
青島神社(あおしまじんじゃ)は、宮崎県宮崎市青島にある、青島のほぼ中央に鎮座する神社
青島神社(あおしまじんじゃ)は、宮崎県宮崎市青島にある、青島のほぼ中央に鎮座する神社で、周囲1.5kmの青島全島を境内地とする。旧社格は村社で、現在は神社本庁の別表神社。
青島は全島が熱帯・亜熱帯植物の群生地として、国の特別天然記念物に指定されている。
宮崎県宮崎市青島にある青島神社。拝殿
祭神
天津日高彦火火出見命(あまつひだかひこほほでみのみこと。彦火火出見命とも)とその妃神 豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、そして塩筒大神(しおづつのおおかみ)を祀る。
いずれも山幸海幸神話に因む神で、縁結び、安産、航海安全の神として信仰を集めている。
文化財
国の特別記念物
青島亜熱帯性植物群落 - 1921年(大正10年)3月3日指定。
1921年に国の天然記念物に指定され、1952年(昭和27年)3月29日に種別が特別天然記念物に変更された。
青島の近海に黒潮が流れ、温暖な気候で多雨である。また青島は全島が青島神社の境内地(神域)として保護されていたため、植物が自然のまま残り、自生植物は約200種で、そのうち熱帯、亜熱帯性植物は27種が繁茂し、北半球最北のヤシ科植物の群生地となっている。青島の亜熱帯性植物で多いのが被子植物類ヤシ科のビロウで、約4300本の成木があり、全群落の80%を占める。その中の最高樹齢は約300年と推定されている。その他の島内亜熱帯性植物には、アオノクマタケラン、ダンチク、ハマナタマメ、オオハマグルマ、オオイワヒトデ、シャリンパイ、フウトウカズラ、タケラン、モクタチバナ、ムサシアブミ、クワズイモ、ハカマカズラ、ヒゲスゲ、クマシダ、ノアサガオ、などがある。
ビロウ林が繁茂する要因には二説あり、一つは、第三紀以前に日本で広く繁茂していた高温に適する植物が気候が変化したあとも温暖で環境に恵まれたこの島に残存したとする遺存説、も一つは、フィリピンや沖縄方面の南方から黒潮に乗って漂着した種子や生木が漂着し繁茂したとする漂着帰化植物説があるが、現在では前者の遺存説が有力視されている。
国の天然記念物
青島の隆起海床と奇形波蝕痕 - 1934年(昭和9年)5月1日指定。
青島周辺から日南海岸のいるか岬に至る海岸に見られる波食台で、干潮時に現れ、かつて洗濯する際に使用した洗濯板のような凹凸があることから、地元では「鬼の洗濯板」ともよばれている。
2400万年前から200万年前にかけ砂岩と泥岩とが規則正しく互層をなした宮崎層群とよばれる層状になった岩盤が地殻の変動や隆起で少し傾いた状態で海上に露出している。その露出部分の、泥岩部が柔らかく海の侵食に弱いために削られ、泥岩層よりも硬い砂岩層が凸状に残ることで、洗濯板状の模様が形成されている。
隆起海床と奇形波蝕痕
交通
JR日南線青島駅から徒歩約10分
所在地 宮崎県宮崎市青島2丁目13-1
位置 北緯31度48分16.8秒 東経131度28分29.5秒
主祭神 天津日高彦火火出見命
豊玉姫命
塩筒大神
社格等 旧村社・別表神社
創建 不明
本殿の様式 流造銅板葺
札所等 日向之国七福神霊場
例祭 10月18日
主な神事 島開祭(旧暦3月16日)
夏祭(海を渡る祭礼)(旧暦6月17日)
裸参り(成人の日)
青島は全島が熱帯・亜熱帯植物の群生地として、国の特別天然記念物に指定されている。
宮崎県宮崎市青島にある青島神社。拝殿
祭神
天津日高彦火火出見命(あまつひだかひこほほでみのみこと。彦火火出見命とも)とその妃神 豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、そして塩筒大神(しおづつのおおかみ)を祀る。
いずれも山幸海幸神話に因む神で、縁結び、安産、航海安全の神として信仰を集めている。
文化財
国の特別記念物
青島亜熱帯性植物群落 - 1921年(大正10年)3月3日指定。
1921年に国の天然記念物に指定され、1952年(昭和27年)3月29日に種別が特別天然記念物に変更された。
青島の近海に黒潮が流れ、温暖な気候で多雨である。また青島は全島が青島神社の境内地(神域)として保護されていたため、植物が自然のまま残り、自生植物は約200種で、そのうち熱帯、亜熱帯性植物は27種が繁茂し、北半球最北のヤシ科植物の群生地となっている。青島の亜熱帯性植物で多いのが被子植物類ヤシ科のビロウで、約4300本の成木があり、全群落の80%を占める。その中の最高樹齢は約300年と推定されている。その他の島内亜熱帯性植物には、アオノクマタケラン、ダンチク、ハマナタマメ、オオハマグルマ、オオイワヒトデ、シャリンパイ、フウトウカズラ、タケラン、モクタチバナ、ムサシアブミ、クワズイモ、ハカマカズラ、ヒゲスゲ、クマシダ、ノアサガオ、などがある。
ビロウ林が繁茂する要因には二説あり、一つは、第三紀以前に日本で広く繁茂していた高温に適する植物が気候が変化したあとも温暖で環境に恵まれたこの島に残存したとする遺存説、も一つは、フィリピンや沖縄方面の南方から黒潮に乗って漂着した種子や生木が漂着し繁茂したとする漂着帰化植物説があるが、現在では前者の遺存説が有力視されている。
国の天然記念物
青島の隆起海床と奇形波蝕痕 - 1934年(昭和9年)5月1日指定。
青島周辺から日南海岸のいるか岬に至る海岸に見られる波食台で、干潮時に現れ、かつて洗濯する際に使用した洗濯板のような凹凸があることから、地元では「鬼の洗濯板」ともよばれている。
2400万年前から200万年前にかけ砂岩と泥岩とが規則正しく互層をなした宮崎層群とよばれる層状になった岩盤が地殻の変動や隆起で少し傾いた状態で海上に露出している。その露出部分の、泥岩部が柔らかく海の侵食に弱いために削られ、泥岩層よりも硬い砂岩層が凸状に残ることで、洗濯板状の模様が形成されている。
隆起海床と奇形波蝕痕
交通
JR日南線青島駅から徒歩約10分
所在地 宮崎県宮崎市青島2丁目13-1
位置 北緯31度48分16.8秒 東経131度28分29.5秒
主祭神 天津日高彦火火出見命
豊玉姫命
塩筒大神
社格等 旧村社・別表神社
創建 不明
本殿の様式 流造銅板葺
札所等 日向之国七福神霊場
例祭 10月18日
主な神事 島開祭(旧暦3月16日)
夏祭(海を渡る祭礼)(旧暦6月17日)
裸参り(成人の日)
2023年08月16日
旧柏倉家住宅(きゅうかしわくらけじゅうたく)は、山形県東村山郡中山町岡南8番地にある。重要文化財
旧柏倉家住宅(きゅうかしわくらけじゅうたく)は、山形県東村山郡中山町岡南8番地にある。重要文化財である。
構成・構造・形式
・主屋
木造、建築面積412.1u、一部二階建て、茅葺(一部金属板葺き)。東面渡り廊下および上便所附属、金属板葺き。
・内蔵
土蔵造、建築面積96.13u、二階建て、銅板葺き。
・仏間
土蔵造、建築面積108.71u、銅板葺き。南面上湯殿および渡り廊下附属、金属板葺き。仏壇一基附属。
・前蔵
土蔵造、建築面積109.76u、二階建て、金属板葺き。板図二枚附属。
・北蔵
土蔵造、建築面積115.75u、金属板葺き。西面下屋、南面渡り廊下附属、鉄板葺き。
・大工小屋
木造、建築面積128.31u、鉄板葺き。
・長屋門
木造、建築面積101.2.u、銅板葺き。
・裏門
木造、建築面積3.21u、二階建て、鉄板葺き。籾堂一棟附属。
・その他
下便所、堆肥小屋、穴蔵、洗場三か所、内塀およびその門、外塀およびその門、堀、石垣およびその門を含む。
柏倉家の略史
江戸時代以前
柏倉家の出自や系譜については諸説ある。家伝では山伏説や京都から布教のため派遣された者という口碑もある。山形市柏倉・門伝に定着したと思われる。
戦国時代には在地武士的な存在であった可能性が考えられる。同家には「大先祖様御召物」と書かれた木札とともに鎧櫃に納められた甲冑が残されており、永禄〜慶長年間(1558〜1614)の当世具足で中級程度の武士が着用した甲冑と鑑定された。
江戸時代
江戸時代を通じた経営の基本は地主(貸付地経営による小作料取得)と金融(利貸)である。九左衛門家は地主経営の一方で自作農業にも力を入れる篤農家であった。江戸時代には米・大麦・小麦・大豆・菜種・荏油・蕎麦・漆・楮・紅花・青苧・葦・萱・芦等、多品種の生産をおこなっている。とくに紅花については、連作障害を防ぐために隔年で栽培する畑を変える換地法を長年実施し質の良い紅花づくりに励んだ。
・1600年代半ばから、柏倉・門伝から出羽国村山郡岡村へ移り姓を柏倉とした。その後、現在につながる九郎兵衛家の初代(元祖)とされる人物は、万治 4(寛文元・1661)年に東本願寺の琢如上人から授かった法名「明了」を名乗り、1668(寛文8)年に四男西了を連れて隠居別家し九郎兵衛家を創設した。自ら名前(法名ではなく俗名)を九郎兵衛に改め同家初代となる。九郎兵衛家の敷地は九左衛門家長屋から北東隣の向いの地に設けられた。九郎兵衛明了は1678(延宝6)年に享年70で没した。
明治時代
・1872(明治5)年、運吉(のち13代了信)が山形県より博覧会物品取調世話役に任命される。
・1873(明治6)年、地租改正時に村山郡第3位の大地主となる。山形県より長崎小学校の事務取扱に任命される。長崎小学校の資金として柏倉家一類などで合計300両を献納する。岡村など6ヶ村の貧民・小作人へ桑苗木 5000 本を無償分配する。運吉は岡村分校の事務取扱に任命される。岡村分校の開校にあたり柏倉家一類の4家で30両の書物代金(学問ノススメなど)を献納する。
・1874(明治7)年、済生館の建設につき資金400円を山形県に献納する。
大正時代
大正期以降は不動産収入を配当利子収入が上回る年もみられた。
・1913(大正2)年、米価異常騰貴につき岡地区の細民73戸へ歳暮米を出す(白米3〜5升ずつ)。同じく豊田村の細民約500人へ施米・安米代を寄附する。洪水につき羅災者へ義捐金200円を出す。
・1914(大正3)年、不動産収入を配当利子収入が上回るようになる(昭和16年(1941)までの多くの年で上回る)。豊田村農会稲作立毛品評会で小作人2 名が3年間それぞれ一等ないし二等賞以上を受領する。
昭和時代(戦前)
土地集積も拡大させたものの昭和戦前期の所有地面積は150町歩前後にとどまり、村山地方でみられた500町歩地主などの巨大地主化の道はとらなかったことが同家の特 徴である。
昭和時代(戦後)
・1946(昭和21)年、山形中学校父母会へ職員待遇および燃料代として500円を寄附する。豊田村役場改築につき616円余を寄附する。山形第二女学校拡声器設備資金として1000円を寄附する。
・1947(昭和22)年、豊田国民学校の学校修繕費として810円余を寄附する。農地改革が始まる。
・1950(昭和25)年、15代九左衛門了雲没(52歳)。14代が再び当主を務める。
・1962(昭和37)年、14代九左衛門了真没(85歳)。
・1980(昭和55)年、柏倉家住宅が山形県指定有形文化財(建造物)に指定される。
・1990(平成2)年、柏倉家住宅の保存修理工事をおこなう(1993(平成5)年まで。
・2005(平成17)年、中山町教育委員会「県指定文化財柏倉家住宅保存活用計画」策定。
・2006(平成18)年、NPO法人柏倉家文化村設立。
・2017(平成29)年、柏倉家住宅が中山町へ寄贈される。中山町が「柏倉家住宅保存・利活用検討会議」を設置する。
旧柏倉家住宅
所在地
日本
山形県東村山郡中山町岡南8番地
面積 約7,600u(約2,300坪)
運営者 中山町
駐車場 駐車場15台無料
バリアフリー 重要文化財に指定されている為、構造上バリアフリー化が不可。
公式サイト https://kashiwakurake.jp/wp/
構成・構造・形式
・主屋
木造、建築面積412.1u、一部二階建て、茅葺(一部金属板葺き)。東面渡り廊下および上便所附属、金属板葺き。
・内蔵
土蔵造、建築面積96.13u、二階建て、銅板葺き。
・仏間
土蔵造、建築面積108.71u、銅板葺き。南面上湯殿および渡り廊下附属、金属板葺き。仏壇一基附属。
・前蔵
土蔵造、建築面積109.76u、二階建て、金属板葺き。板図二枚附属。
・北蔵
土蔵造、建築面積115.75u、金属板葺き。西面下屋、南面渡り廊下附属、鉄板葺き。
・大工小屋
木造、建築面積128.31u、鉄板葺き。
・長屋門
木造、建築面積101.2.u、銅板葺き。
・裏門
木造、建築面積3.21u、二階建て、鉄板葺き。籾堂一棟附属。
・その他
下便所、堆肥小屋、穴蔵、洗場三か所、内塀およびその門、外塀およびその門、堀、石垣およびその門を含む。
柏倉家の略史
江戸時代以前
柏倉家の出自や系譜については諸説ある。家伝では山伏説や京都から布教のため派遣された者という口碑もある。山形市柏倉・門伝に定着したと思われる。
戦国時代には在地武士的な存在であった可能性が考えられる。同家には「大先祖様御召物」と書かれた木札とともに鎧櫃に納められた甲冑が残されており、永禄〜慶長年間(1558〜1614)の当世具足で中級程度の武士が着用した甲冑と鑑定された。
江戸時代
江戸時代を通じた経営の基本は地主(貸付地経営による小作料取得)と金融(利貸)である。九左衛門家は地主経営の一方で自作農業にも力を入れる篤農家であった。江戸時代には米・大麦・小麦・大豆・菜種・荏油・蕎麦・漆・楮・紅花・青苧・葦・萱・芦等、多品種の生産をおこなっている。とくに紅花については、連作障害を防ぐために隔年で栽培する畑を変える換地法を長年実施し質の良い紅花づくりに励んだ。
・1600年代半ばから、柏倉・門伝から出羽国村山郡岡村へ移り姓を柏倉とした。その後、現在につながる九郎兵衛家の初代(元祖)とされる人物は、万治 4(寛文元・1661)年に東本願寺の琢如上人から授かった法名「明了」を名乗り、1668(寛文8)年に四男西了を連れて隠居別家し九郎兵衛家を創設した。自ら名前(法名ではなく俗名)を九郎兵衛に改め同家初代となる。九郎兵衛家の敷地は九左衛門家長屋から北東隣の向いの地に設けられた。九郎兵衛明了は1678(延宝6)年に享年70で没した。
明治時代
・1872(明治5)年、運吉(のち13代了信)が山形県より博覧会物品取調世話役に任命される。
・1873(明治6)年、地租改正時に村山郡第3位の大地主となる。山形県より長崎小学校の事務取扱に任命される。長崎小学校の資金として柏倉家一類などで合計300両を献納する。岡村など6ヶ村の貧民・小作人へ桑苗木 5000 本を無償分配する。運吉は岡村分校の事務取扱に任命される。岡村分校の開校にあたり柏倉家一類の4家で30両の書物代金(学問ノススメなど)を献納する。
・1874(明治7)年、済生館の建設につき資金400円を山形県に献納する。
大正時代
大正期以降は不動産収入を配当利子収入が上回る年もみられた。
・1913(大正2)年、米価異常騰貴につき岡地区の細民73戸へ歳暮米を出す(白米3〜5升ずつ)。同じく豊田村の細民約500人へ施米・安米代を寄附する。洪水につき羅災者へ義捐金200円を出す。
・1914(大正3)年、不動産収入を配当利子収入が上回るようになる(昭和16年(1941)までの多くの年で上回る)。豊田村農会稲作立毛品評会で小作人2 名が3年間それぞれ一等ないし二等賞以上を受領する。
昭和時代(戦前)
土地集積も拡大させたものの昭和戦前期の所有地面積は150町歩前後にとどまり、村山地方でみられた500町歩地主などの巨大地主化の道はとらなかったことが同家の特 徴である。
昭和時代(戦後)
・1946(昭和21)年、山形中学校父母会へ職員待遇および燃料代として500円を寄附する。豊田村役場改築につき616円余を寄附する。山形第二女学校拡声器設備資金として1000円を寄附する。
・1947(昭和22)年、豊田国民学校の学校修繕費として810円余を寄附する。農地改革が始まる。
・1950(昭和25)年、15代九左衛門了雲没(52歳)。14代が再び当主を務める。
・1962(昭和37)年、14代九左衛門了真没(85歳)。
・1980(昭和55)年、柏倉家住宅が山形県指定有形文化財(建造物)に指定される。
・1990(平成2)年、柏倉家住宅の保存修理工事をおこなう(1993(平成5)年まで。
・2005(平成17)年、中山町教育委員会「県指定文化財柏倉家住宅保存活用計画」策定。
・2006(平成18)年、NPO法人柏倉家文化村設立。
・2017(平成29)年、柏倉家住宅が中山町へ寄贈される。中山町が「柏倉家住宅保存・利活用検討会議」を設置する。
旧柏倉家住宅
所在地
日本
山形県東村山郡中山町岡南8番地
面積 約7,600u(約2,300坪)
運営者 中山町
駐車場 駐車場15台無料
バリアフリー 重要文化財に指定されている為、構造上バリアフリー化が不可。
公式サイト https://kashiwakurake.jp/wp/
2023年08月15日
石城神社(いわきじんじゃ)は、山口県光市大字塩田にある神社
石城神社(いわきじんじゃ)は、山口県光市大字塩田にある神社。式内社で、旧社格は県社。
古代山城の石城山神籠石(国の史跡)で知られる石城山(標高362メートル)の山頂部に鎮座する。
石城神社 社殿
祭神
現在の祭神は次の3柱。
大山祇神(おおやまつみのかみ) - 主神。
雷神(いかづちのかみ)
高龗神(たかおかみのかみ)
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳における祭神の記載は1座。かつては祭神の本地仏として、大山祇神には釈迦如来、雷神には普賢菩薩、高龗神には文殊菩薩があてられていた。
境内
現在の本殿は、室町時代後期の文明元年(1469年)の造営。大型の隅木入春日造の建築である。形式は桁行三間、梁間は正面一間、背面二間、妻入で、屋根はこけら葺とする。蟇股など随所に室町時代の特色が見られる。建物内部は後一間を内陣、前面二間を外陣とし、内陣は一段高くする。この本殿は、附指定の宮殿1基・棟札2枚と併せて国の重要文化財に指定されている。なお、本殿の建築形式について、「隅木入春日造」とする資料と、「正面入母屋造、背面切妻造、妻入」とする資料とがあるが、両者は実質的に同じ形式を指している。「隅木入春日造」とは、春日造(切妻造平入の社殿の正面に庇を付した形式)の一種で、身舎と庇との間に隅木(身舎に対して45度方向に入る部材)が入るものである。
境内の西方には、かつて別当寺の神護寺があった。幕末にはこの神護寺に第二奇兵隊の本陣も置かれていたが、神護寺は明治3年(1870年)に廃寺となって堂宇は失われ、残る参道の仁王門は現在では石城神社の随身門として使用されている。
本殿(国の重要文化財)
山麓の鳥居
文化財
重要文化財(国指定)
本殿(附 宮殿1基、棟札2枚)(建造物)
明治40年(1907年)5月27日に古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定、昭和25年(1950年)の文化財保護法施行により国の重要文化財に指定。附(つけたり)指定物件は昭和54年(1979年)2月3日に追加指定。
所在地 山口県光市大字塩田2233
位置 北緯33度59分14.55秒 東経132度2分8.41秒
主祭神 大山祇神
雷神
高龗神
社格等 式内社(小)
旧県社
創建 (伝)敏達天皇3年(574年?)
本殿の様式 隅木入春日造
例祭 10月7日
古代山城の石城山神籠石(国の史跡)で知られる石城山(標高362メートル)の山頂部に鎮座する。
石城神社 社殿
祭神
現在の祭神は次の3柱。
大山祇神(おおやまつみのかみ) - 主神。
雷神(いかづちのかみ)
高龗神(たかおかみのかみ)
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳における祭神の記載は1座。かつては祭神の本地仏として、大山祇神には釈迦如来、雷神には普賢菩薩、高龗神には文殊菩薩があてられていた。
境内
現在の本殿は、室町時代後期の文明元年(1469年)の造営。大型の隅木入春日造の建築である。形式は桁行三間、梁間は正面一間、背面二間、妻入で、屋根はこけら葺とする。蟇股など随所に室町時代の特色が見られる。建物内部は後一間を内陣、前面二間を外陣とし、内陣は一段高くする。この本殿は、附指定の宮殿1基・棟札2枚と併せて国の重要文化財に指定されている。なお、本殿の建築形式について、「隅木入春日造」とする資料と、「正面入母屋造、背面切妻造、妻入」とする資料とがあるが、両者は実質的に同じ形式を指している。「隅木入春日造」とは、春日造(切妻造平入の社殿の正面に庇を付した形式)の一種で、身舎と庇との間に隅木(身舎に対して45度方向に入る部材)が入るものである。
境内の西方には、かつて別当寺の神護寺があった。幕末にはこの神護寺に第二奇兵隊の本陣も置かれていたが、神護寺は明治3年(1870年)に廃寺となって堂宇は失われ、残る参道の仁王門は現在では石城神社の随身門として使用されている。
本殿(国の重要文化財)
山麓の鳥居
文化財
重要文化財(国指定)
本殿(附 宮殿1基、棟札2枚)(建造物)
明治40年(1907年)5月27日に古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定、昭和25年(1950年)の文化財保護法施行により国の重要文化財に指定。附(つけたり)指定物件は昭和54年(1979年)2月3日に追加指定。
所在地 山口県光市大字塩田2233
位置 北緯33度59分14.55秒 東経132度2分8.41秒
主祭神 大山祇神
雷神
高龗神
社格等 式内社(小)
旧県社
創建 (伝)敏達天皇3年(574年?)
本殿の様式 隅木入春日造
例祭 10月7日
2023年08月14日
大井俣窪八幡神社(おおいまたくぼはちまんじんじゃ)は、山梨県山梨市にある神社
大井俣窪八幡神社(おおいまたくぼはちまんじんじゃ)は、山梨県山梨市にある神社。通称窪八幡神社。
大井俣窪八幡神社拝殿(山梨県山梨市)
沿革
創建当初は大井俣神社と称していたが、後に現在の窪の地に移したため大井俣窪八幡神社、窪八幡神社といわれるようになった。別当寺に普賢寺がある。
由緒に拠れば清和天皇の勅願により、貞観元年(859年)に宇佐八幡宮が勧請されたのが始まりといわれている。当初は笛吹川の中島の大井俣の地に建立され、後に現在地に遷座した。
一帯は中世に八幡郷が成立。戦国期には甲斐国守護武田氏の崇敬を集め、現在の本殿は応永17年(1410年)に甲斐守護武田信満が再建したものである。永正13年(1516年)には駿河国の今川氏が甲斐西郡の国衆大井氏に加担し甲斐国内に侵攻し、この際の兵火により社殿の多くを消失し、現存する建造物の多くはこの後に再建されたものが多い。
窪八幡神社本殿は永正16年(1519年)に甲斐守護・武田信虎により造営された。これは大永2年(1522年)に造営された山梨市大工の天神社本殿と一連のもので、両社は古代条里制を利用した東西中軸線によって結ばれ、建築様式にも共通性が見られる。
『王代記』によれば、天文12年(1543年)・天文20年(1551年)には「一ノ堰」から用水の引き入れが行われている。「一ノ堰」は窪八幡神社境内のみならず、近世には八幡北村・八幡南村を灌漑している。
大井俣窪八幡神社 本殿
鳥居
所在地 山梨県山梨市北654
位置 北緯35度42分17.2秒 東経138度41分23.8秒
主祭神 誉田別尊
足仲彦尊
息長足姫尊
社格等 式内社(小)論社
旧県社
創建 貞観元年(859年)
本殿の様式 流造
別名 窪八幡神社
例祭 10月15日
大井俣窪八幡神社拝殿(山梨県山梨市)
沿革
創建当初は大井俣神社と称していたが、後に現在の窪の地に移したため大井俣窪八幡神社、窪八幡神社といわれるようになった。別当寺に普賢寺がある。
由緒に拠れば清和天皇の勅願により、貞観元年(859年)に宇佐八幡宮が勧請されたのが始まりといわれている。当初は笛吹川の中島の大井俣の地に建立され、後に現在地に遷座した。
一帯は中世に八幡郷が成立。戦国期には甲斐国守護武田氏の崇敬を集め、現在の本殿は応永17年(1410年)に甲斐守護武田信満が再建したものである。永正13年(1516年)には駿河国の今川氏が甲斐西郡の国衆大井氏に加担し甲斐国内に侵攻し、この際の兵火により社殿の多くを消失し、現存する建造物の多くはこの後に再建されたものが多い。
窪八幡神社本殿は永正16年(1519年)に甲斐守護・武田信虎により造営された。これは大永2年(1522年)に造営された山梨市大工の天神社本殿と一連のもので、両社は古代条里制を利用した東西中軸線によって結ばれ、建築様式にも共通性が見られる。
『王代記』によれば、天文12年(1543年)・天文20年(1551年)には「一ノ堰」から用水の引き入れが行われている。「一ノ堰」は窪八幡神社境内のみならず、近世には八幡北村・八幡南村を灌漑している。
大井俣窪八幡神社 本殿
鳥居
所在地 山梨県山梨市北654
位置 北緯35度42分17.2秒 東経138度41分23.8秒
主祭神 誉田別尊
足仲彦尊
息長足姫尊
社格等 式内社(小)論社
旧県社
創建 貞観元年(859年)
本殿の様式 流造
別名 窪八幡神社
例祭 10月15日