円福寺(えんぷくじ)は、千葉県銚子市にある真言宗系単立の寺院。山号は飯沼山。本尊は十一面観世音菩薩。坂東三十三観音第27番札所となっており、飯沼観音(いいぬまかんのん)とも称される。隣接地には銚港神社がある。
千葉県銚子市馬場町1-1にある圓福寺(飯沼観音)
歴史
寺伝によれば、神亀元年(724年)、漁師が十一面観世音菩薩を網ですくい上げ、その後、弘仁年間(810年 - 824年)この地を訪れた空海(弘法大師)が開眼したという。鎌倉時代以降はこの地を治めた海上氏の帰依を受け、寺運は興隆した。天正19年(1591年)に徳川家康に朱印を賜わり諸堂を整備。
天正6年(1578年)には8間4方の観音堂を建てた。元禄15年(1702年)鐘楼、多宝塔を焼失。安永2年(1773年)には観音堂を10間4方に改築、ほかには仁王門・鐘楼・多宝塔などの諸堂を整備したが、昭和20年(1945年)に空襲で多宝塔以下観音堂、仁王門、鐘楼、太子堂、馬頭観音堂、二十三夜堂、荼枳尼天堂、龍蔵大権現堂(現・銚港神社)など諸堂を焼失した。
銚港神社と観音堂の間に古碑があり、慶長年間に近郷に住んでいた「早器居士」の墓と呼ばれていた。
2009年(平成21年)に五重塔を建立、高さ33.55m。
2014年(平成26年)から年2回、寺院が所蔵する古典籍を展示する寺宝展を、慶應義塾大学斯道文庫の協力によって開催している。2016年(平成28年)6月28日、テレビ東京「開運!なんでも鑑定団」に円福寺所有の嵯峨本『徒然草』が出品された。
境内
銚子大仏
交通アクセス
銚子電鉄鉄道線 観音駅より徒歩で約5分。
銚子駅よりちばこうバス:外川線・海鹿島線「陣屋町」停留所下車、川口線「銚子観音」停留所下車。
東京駅より高速バス:犬吠埼・銚子線「陣屋町」停留所下車。
所在地 千葉県銚子市馬場町293
位置 北緯35度43分55秒 東経140度50分26.2秒
山号 飯沼山
宗旨 真言宗
宗派 単立(智山派系)
本尊 十一面観世音菩薩
創建年 伝・弘仁年間(810年 - 824年)
開基 伝・空海
別称 飯沼観音
札所等 坂東三十三観音 第27番
文化財 鐃(国の重要文化財・奈良国立博物館寄託)
梵鐘・釈迦涅槃図(県文化財)
飯沼水準原標石(土木学会選奨土木遺産)
2023年09月12日
2023年09月11日
清水寺(きよみずでら)は、島根県安来市清水町にある天台宗の寺
清水寺(きよみずでら)は、島根県安来市清水町にある天台宗の寺。山号は瑞光山(ずいこうざん)。中国観音霊場第28番札所、出雲観音霊場第27番札所、出雲國神仏霊場第11番札所。開山は尊隆上人、本尊は十一面観世音菩薩。
歴史
寺伝では用明天皇2年(587年)、尊隆上人により開かれたというが、一時廃れ、大同元年(806年)平城天皇の勅旨を受け、盛縁上人により復興されたという。
その後承和14年(847年)、唐からの帰路立ち寄った円仁(慈覚大師)により光明真言会が創められ、天台宗に帰依したという。
その後幾度かの火災と復興を経て、明徳4年(1393年)にほぼ現在の寺域が定まったが、戦国時代兵火に襲われ根本堂以外の建物は焼失した。伽藍はその後毛利氏及び松平氏により復興され、加えて安政6年(1859年)には信徒の手により三重塔が建立され、現在の形となった。
三重塔
行事
1月1日〜1月5日 - 修正会
4月29日〜5月5日 - 還誕祭
5月第4日曜日 - 仏教文化講座
8月23日 - 萬燈会
10月第3日曜日 - 光明真言会
12月17日 - 大梵焼祭
12月31日 - 除夜祭
交通アクセス
JR安来駅からイエローバスで14分(運賃は大人200円)。
JR米子駅からイエローバスで18分(運賃は大人200円)。
根本堂
所在地 島根県安来市清水町528
位置 北緯35度24分8.1秒 東経133度16分54.8秒
山号 瑞光山
宗派 天台宗
本尊 十一面観世音菩薩
創建年 (伝)用明天皇2年(587年)
開基 尊隆上人
正式名 瑞光山清水寺
別称 安来清水寺
札所等 中国観音霊場28番、出雲観音霊場27番、出雲國神仏霊場11番
文化財 根本堂、木造十一面観音立像、木造阿弥陀如来両脇士坐像、木造阿弥陀如来坐像他
歴史
寺伝では用明天皇2年(587年)、尊隆上人により開かれたというが、一時廃れ、大同元年(806年)平城天皇の勅旨を受け、盛縁上人により復興されたという。
その後承和14年(847年)、唐からの帰路立ち寄った円仁(慈覚大師)により光明真言会が創められ、天台宗に帰依したという。
その後幾度かの火災と復興を経て、明徳4年(1393年)にほぼ現在の寺域が定まったが、戦国時代兵火に襲われ根本堂以外の建物は焼失した。伽藍はその後毛利氏及び松平氏により復興され、加えて安政6年(1859年)には信徒の手により三重塔が建立され、現在の形となった。
三重塔
行事
1月1日〜1月5日 - 修正会
4月29日〜5月5日 - 還誕祭
5月第4日曜日 - 仏教文化講座
8月23日 - 萬燈会
10月第3日曜日 - 光明真言会
12月17日 - 大梵焼祭
12月31日 - 除夜祭
交通アクセス
JR安来駅からイエローバスで14分(運賃は大人200円)。
JR米子駅からイエローバスで18分(運賃は大人200円)。
根本堂
所在地 島根県安来市清水町528
位置 北緯35度24分8.1秒 東経133度16分54.8秒
山号 瑞光山
宗派 天台宗
本尊 十一面観世音菩薩
創建年 (伝)用明天皇2年(587年)
開基 尊隆上人
正式名 瑞光山清水寺
別称 安来清水寺
札所等 中国観音霊場28番、出雲観音霊場27番、出雲國神仏霊場11番
文化財 根本堂、木造十一面観音立像、木造阿弥陀如来両脇士坐像、木造阿弥陀如来坐像他
2023年09月10日
亀岡神社(かめおかじんじゃ)は、長崎県平戸市に鎮座する神社
亀岡神社(かめおかじんじゃ)は、長崎県平戸市に鎮座する神社。平戸城本丸跡に鎮座する。旧県社。
祭神
源大夫判官久命(源久、松浦氏の祖)を初め、源藤次持(たもつ)命、松浦肥州定命、左衛門尉勝(すぐる)命の平戸松浦氏歴代当主の霊と、七郎氏広命、志自岐大明神(十城別(とおきわけ)命)、神島大明神(鴨一隼戸命)、天照皇大神、表筒男神、中筒男神、底筒男神、天児屋根命、和加宇加乃売(わかうかのめ)神、誉田別天皇、天御柱神国御柱(あめのみはしらくにのみはしら)神、倉稲魂命、弥都波乃売(みづはのめ)神を祀る。
源大夫判官久命以下4柱は下述する旧霊椿山(れいちんざん)神社の、七郎氏広命以下3柱は旧七郎神社の、天照皇大神以下6柱は旧乙宮(おとみや)神社の、誉田別天皇以下4柱は旧八幡神社の祭神である。
由緒
寛永8年(1631年)、平戸藩藩主松浦棟が祖霊4柱を平戸城内の霊椿山に祀ったのに創まり(霊椿山神社)、歴代藩主の崇敬を受け、社殿の修造等一切は藩費を以てなされる例であった。
七郎神社は社領20石を有していた。
明治になって霊椿山、七郎、乙宮、八幡の4神社を合祀する事となり、明治11年(1878年)に現社地に社殿を営み、翌々13年に各祭神を遷座、現社名に改称して県社に列し、平戸の産土神とされた。
祭祀
10月24日から27日の4日間行われる秋の大祭は「平戸くんち」と称され多彩な行事が行われる。
所在地 長崎県平戸市岩の上町1517番地ホ第2
位置 北緯33度22分5.4秒 東経129度33分25.0秒
主祭神 松浦氏の祖霊
七郎氏広命
天照皇大神
誉田別天皇
社格等 旧県社
創建 寛永8年(1631年)
本殿の様式 神明造
例祭 10月28日
主な神事 平戸くんち(10月24日 - 27日)
祭神
源大夫判官久命(源久、松浦氏の祖)を初め、源藤次持(たもつ)命、松浦肥州定命、左衛門尉勝(すぐる)命の平戸松浦氏歴代当主の霊と、七郎氏広命、志自岐大明神(十城別(とおきわけ)命)、神島大明神(鴨一隼戸命)、天照皇大神、表筒男神、中筒男神、底筒男神、天児屋根命、和加宇加乃売(わかうかのめ)神、誉田別天皇、天御柱神国御柱(あめのみはしらくにのみはしら)神、倉稲魂命、弥都波乃売(みづはのめ)神を祀る。
源大夫判官久命以下4柱は下述する旧霊椿山(れいちんざん)神社の、七郎氏広命以下3柱は旧七郎神社の、天照皇大神以下6柱は旧乙宮(おとみや)神社の、誉田別天皇以下4柱は旧八幡神社の祭神である。
由緒
寛永8年(1631年)、平戸藩藩主松浦棟が祖霊4柱を平戸城内の霊椿山に祀ったのに創まり(霊椿山神社)、歴代藩主の崇敬を受け、社殿の修造等一切は藩費を以てなされる例であった。
七郎神社は社領20石を有していた。
明治になって霊椿山、七郎、乙宮、八幡の4神社を合祀する事となり、明治11年(1878年)に現社地に社殿を営み、翌々13年に各祭神を遷座、現社名に改称して県社に列し、平戸の産土神とされた。
祭祀
10月24日から27日の4日間行われる秋の大祭は「平戸くんち」と称され多彩な行事が行われる。
所在地 長崎県平戸市岩の上町1517番地ホ第2
位置 北緯33度22分5.4秒 東経129度33分25.0秒
主祭神 松浦氏の祖霊
七郎氏広命
天照皇大神
誉田別天皇
社格等 旧県社
創建 寛永8年(1631年)
本殿の様式 神明造
例祭 10月28日
主な神事 平戸くんち(10月24日 - 27日)
2023年09月09日
円成寺(えんじょうじ)は、奈良県奈良市忍辱山町(にんにくせんちょう)にある真言宗御室派の寺院
円成寺(えんじょうじ)は、奈良県奈良市忍辱山町(にんにくせんちょう)にある真言宗御室派の寺院。山号は忍辱山(にんにくせん)。本尊は阿弥陀如来。奈良市街東方の柳生街道沿いに位置する古寺で、仏師・運慶のもっとも初期の作品である国宝・大日如来像を所蔵する。紅葉の名所としても知られる。
本堂(重要文化財)
歴史
円成寺について、『和州忍辱山円成寺縁起』(以下『円成寺縁起』と略称)は、奈良時代の創建を伝え、別の縁起には延喜年間(901年 - 923年)の創建を伝えるが、いずれも伝承の域を出ないものである。『円成寺縁起』によれば、この寺は、鑑真とともに渡日した唐僧の虚滝(ころう)が天平勝宝8歳(756年)に聖武天皇の勅願で創建したという。『和州忍辱山円成寺略言志』も同様の創建縁起を伝えるが、虚滝なる僧については、他に確認できる史料がない。一方、『忍辱山知恩院縁起』によれば、この寺は京都東山鹿ケ谷に円成寺を建立した益信という僧が、延喜年間に大和国忍辱山を訪れ、この地に寺を建てて円成寺と号したという。
春日堂(左)・白山堂(右)(国宝)
境内
正門にあたる楼門の前には平安時代の面影を残す、池を中心とした浄土式庭園(名勝)が広がる。楼門を入ると本堂を中心に鎮守社の春日堂、白山堂、宇賀神本殿、多宝塔などが建つ。
楼門(重要文化財)
国宝
春日堂・白山堂
木造大日如来坐像 - 解説は既出。
重要文化財
本堂(阿弥陀堂)
楼門
宇賀神本殿
石造五輪塔 - 元亨元年(1321年)在銘。寺の西南200メートルの共同墓地内に所在[16]。
木造阿弥陀如来坐像 - 本尊。平安時代。天永3年(1112年)南山城小田原の迎接上人経源が祀ったもの。坐高145.4cmで上品上生の定印を結んだ定朝様式藤原和様の半丈六坐像。宝相華唐草透彫の光背をもち、九重蓮台に安座されている。
木造四天王立像 - 鎌倉時代。鎌倉様式による木造彩色の神将像。なかでも持国天像の台座裏には「建保5年(1217年)4月4日ヨリ云々」の銘文があり、康勝(運慶の四男)の作ではないかといわれている。
国指定名勝
円成寺庭園
重要美術品
十三重石塔
宇賀神本殿(重要文化財)
交通アクセス
JR関西本線および近鉄 奈良駅より奈良交通バス柳生方面行で約40分、「忍辱山」バス停下車、徒歩すぐ
拝観案内
9:00 - 17:00 拝観料 400円
所在地 奈良県奈良市忍辱山町1273
位置 北緯34度41分44.98秒 東経135度54分55.42秒
山号 忍辱山
宗派 真言宗御室派
本尊 阿弥陀如来(重要文化財)
創建年 伝・天平勝宝8年(756年)
開山 伝・虚瀧
開基 聖武・孝謙両天皇(勅願)
中興年 万寿3年(1026年)
中興 命禅
正式名 忍辱山円成寺
札所等 大和十三仏霊場第12番
文化財 春日堂・白山堂、木造大日如来坐像(国宝)
本堂、楼門、宇賀神本殿ほか(重要文化財)
庭園(国の名勝)
公式サイト 忍辱山 円成寺
本堂(重要文化財)
歴史
円成寺について、『和州忍辱山円成寺縁起』(以下『円成寺縁起』と略称)は、奈良時代の創建を伝え、別の縁起には延喜年間(901年 - 923年)の創建を伝えるが、いずれも伝承の域を出ないものである。『円成寺縁起』によれば、この寺は、鑑真とともに渡日した唐僧の虚滝(ころう)が天平勝宝8歳(756年)に聖武天皇の勅願で創建したという。『和州忍辱山円成寺略言志』も同様の創建縁起を伝えるが、虚滝なる僧については、他に確認できる史料がない。一方、『忍辱山知恩院縁起』によれば、この寺は京都東山鹿ケ谷に円成寺を建立した益信という僧が、延喜年間に大和国忍辱山を訪れ、この地に寺を建てて円成寺と号したという。
春日堂(左)・白山堂(右)(国宝)
境内
正門にあたる楼門の前には平安時代の面影を残す、池を中心とした浄土式庭園(名勝)が広がる。楼門を入ると本堂を中心に鎮守社の春日堂、白山堂、宇賀神本殿、多宝塔などが建つ。
楼門(重要文化財)
国宝
春日堂・白山堂
木造大日如来坐像 - 解説は既出。
重要文化財
本堂(阿弥陀堂)
楼門
宇賀神本殿
石造五輪塔 - 元亨元年(1321年)在銘。寺の西南200メートルの共同墓地内に所在[16]。
木造阿弥陀如来坐像 - 本尊。平安時代。天永3年(1112年)南山城小田原の迎接上人経源が祀ったもの。坐高145.4cmで上品上生の定印を結んだ定朝様式藤原和様の半丈六坐像。宝相華唐草透彫の光背をもち、九重蓮台に安座されている。
木造四天王立像 - 鎌倉時代。鎌倉様式による木造彩色の神将像。なかでも持国天像の台座裏には「建保5年(1217年)4月4日ヨリ云々」の銘文があり、康勝(運慶の四男)の作ではないかといわれている。
国指定名勝
円成寺庭園
重要美術品
十三重石塔
宇賀神本殿(重要文化財)
交通アクセス
JR関西本線および近鉄 奈良駅より奈良交通バス柳生方面行で約40分、「忍辱山」バス停下車、徒歩すぐ
拝観案内
9:00 - 17:00 拝観料 400円
所在地 奈良県奈良市忍辱山町1273
位置 北緯34度41分44.98秒 東経135度54分55.42秒
山号 忍辱山
宗派 真言宗御室派
本尊 阿弥陀如来(重要文化財)
創建年 伝・天平勝宝8年(756年)
開山 伝・虚瀧
開基 聖武・孝謙両天皇(勅願)
中興年 万寿3年(1026年)
中興 命禅
正式名 忍辱山円成寺
札所等 大和十三仏霊場第12番
文化財 春日堂・白山堂、木造大日如来坐像(国宝)
本堂、楼門、宇賀神本殿ほか(重要文化財)
庭園(国の名勝)
公式サイト 忍辱山 円成寺
2023年09月08日
応声教院(おうしょうきょういん)は、静岡県菊川市にある浄土宗の寺院
応声教院(おうしょうきょういん)は、静岡県菊川市にある浄土宗の寺院。山号は松風霊山。本尊は阿弥陀如来。
歴史
この寺は、855年(斉衡2年)勅願により円仁が創建したと伝えられ、元は天台宗の寺院で天岳院と号したという。1175年(承安5年)浄土宗の僧法然がこの寺に入り浄土宗に改められたが、法然は師である皇円の菩提をこの寺で弔ったと伝えられる。
文化財
重要文化財(国指定)
山門 - 切妻造、本瓦葺き、正面3間、側面1間の門。江戸時代初期の建立で、元は静岡市の宝台院にあったものを1918年(大正7年)に移築した。寺院の八脚門は側面を2間とするのが通例だが、この門は側面を1間とする。太い角柱上に冠木を渡し、軒の出を腕木で支えるなど、全体の構造形式は城門に近い特異な門である。
所在地
静岡県菊川市中内田915
歴史
この寺は、855年(斉衡2年)勅願により円仁が創建したと伝えられ、元は天台宗の寺院で天岳院と号したという。1175年(承安5年)浄土宗の僧法然がこの寺に入り浄土宗に改められたが、法然は師である皇円の菩提をこの寺で弔ったと伝えられる。
文化財
重要文化財(国指定)
山門 - 切妻造、本瓦葺き、正面3間、側面1間の門。江戸時代初期の建立で、元は静岡市の宝台院にあったものを1918年(大正7年)に移築した。寺院の八脚門は側面を2間とするのが通例だが、この門は側面を1間とする。太い角柱上に冠木を渡し、軒の出を腕木で支えるなど、全体の構造形式は城門に近い特異な門である。
所在地
静岡県菊川市中内田915
2023年09月07日
西明寺(さいみょうじ)は、滋賀県犬上郡甲良町池寺にある天台宗の寺院
西明寺(さいみょうじ)は、滋賀県犬上郡甲良町池寺にある天台宗の寺院。山号は龍応山(りゅうおうざん)。本尊は薬師如来。開山は三修上人である。金剛輪寺、百済寺とともに「湖東三山」の1つに数えられる。西国薬師四十九霊場第32番札所。境内は紅葉の名所となっている。
西明寺 本堂は国宝, 滋賀県甲良町
境内
湖東三山の他の2寺と同様、総門は西に面し、そこから名神高速道路を越えて多くの僧坊があった跡地を左右に見ながら、長い参道を歩いた先に二天門が建つ。二天門を入ると、正面に本堂、右手に三重塔が建つ。参道の途中左側には池泉回遊式庭園をもつ本坊がある。
本堂 (国宝)
入母屋造、檜皮葺き。鎌倉時代前期の和様建築。中世天台仏堂の代表作として国宝に指定されている。内陣中央の厨子には本尊薬師如来立像(重要文化財、秘仏)を安置し、左右に日光・月光(がっこう)菩薩像、十二神将像、二天王像(重要文化財)などを安置する。現状は桁行(間口)梁間(奥行)ともに7間とする「七間堂」であるが、解体修理時の調査の結果、建立当初は桁行、梁間ともに5間の「五間堂」であり、南北朝時代に規模を拡張したとみられる。組物間の蟇股(かえるまた)には建立当初のものと南北朝時代の拡張期のものとがあり、後者の方がデザインが複雑になっている。建立当初の柱はその多くが位置を移動して再用されている。組物は出三斗(でみつと)。正面には3間の向拝を付し、内部は奥行7間のうち手前の3間分を外陣、その奥の2間分を内陣、もっとも奥の2間分を後陣および脇室とする。正面は7間の柱間すべてを蔀戸(しとみど)とし、頭貫(かしらぬき)以外の貫を用いず、軸部は内法長押(うちのりなげし)と切目長押[注釈 1]で固めるなど、典型的な和様建築の手法になる。
三重塔(国宝)
本堂の右(南)に建つ。檜皮葺きの和様の三重塔である。様式的に鎌倉時代後期の建築とされる。総高は20.1メートル。逓減率が小さいことと、二重目・三重目の塔身の立ちが低いことが本塔の特色である。相輪は日本の他の木造塔では銅製とすることが多いが、本塔のそれは鉄製である。初層内部には大日如来像を安置し、心柱は初層天井裏から立つ。初層内部は須弥壇と床面を除く全面に極彩色の絵画が描かれているが、現状ではかなり剥落している。絵画の主題は、内部の4本の柱(四天柱)には両界曼荼羅のうち金剛界曼荼羅成身会(じょうじんね)の三十二菩薩(四波羅蜜菩薩、十六大菩薩、八供養菩薩、四摂菩薩)を表し、四方の扉脇の壁面には計8面に法華経曼荼羅図(法華経二十八品(章)の説話の絵画)を表している。このほか、扉には八方天、須弥壇周りの長押には宝相華、牡丹、鳳凰などが描かれている。このうち柱4本と壁8枚は国宝建造物の一部であるとともに、「絵画」としても別途重要文化財に指定されている。
鐘楼
三修上人供養塔(重要文化財) - 石造宝塔。嘉元2年(1304年)の刻銘がある。
阿伽池 - 承和元年(834年)に薬師如来などが出現したとされる池。当寺の別称「池寺」の名の由来。
観林坊
二天門(重要文化財) - 桁行(間口)3間、梁間(奥行)2間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す建築用語。以下の本文においても同様)。入母屋造、杮(こけら)葺きの八脚門。部材の一つである巻斗に応永14年(1407年)の墨書があり、同年の建立とみられる。
龍神社
稲荷社
本坊 - 元は塔頭の本覚院。
庫裏
書院
庭園「蓬莱庭」(国の名勝) - 池泉回遊式庭園。延宝元年(1673年)に望月友閑が当寺復興の記念として築庭した。
表門
観正坊 - 塔頭。
塔頭の跡 - 参道の両側に石垣が残る。
総門 - 2015年(平成27年)再建。
三重塔
文化財
国宝
本堂
三重塔
重要文化財
二天門
石造宝塔(三修上人供養塔)
木造薬師如来立像 - 本尊。
木造二天王立像(多聞天・広目天)
木造釈迦如来立像(清凉寺式釈迦如来)
木造不動明王及び二童子像
絹本著色十二天]像
三重塔初層荘厳画 4本8面
錦幡 5旒(りゅう)
国の名勝
本坊庭園
二天門
所在地 滋賀県犬上郡甲良町大字池寺26
位置 北緯35度11分2.3秒 東経136度17分3.4秒
山号 龍応山(りゅうおうざん)
非略体: 龍應山
宗派 天台宗
本尊 薬師如来(秘仏、重要文化財)
創建年 伝・承和元年(834年)
開山 伝・三修上人
開基 伝・仁明天皇(勅願)
正式名 龍應山西明寺
別称 池寺
札所等 西国薬師四十九霊場第32番
神仏霊場巡拝の道第136番(滋賀第4番)
文化財 本堂、三重塔(国宝)
二天門、木造釈迦如来立像、木造不動明王及び二童子像ほか(重要文化財)
本坊庭園(国の名勝)
西明寺 本堂は国宝, 滋賀県甲良町
境内
湖東三山の他の2寺と同様、総門は西に面し、そこから名神高速道路を越えて多くの僧坊があった跡地を左右に見ながら、長い参道を歩いた先に二天門が建つ。二天門を入ると、正面に本堂、右手に三重塔が建つ。参道の途中左側には池泉回遊式庭園をもつ本坊がある。
本堂 (国宝)
入母屋造、檜皮葺き。鎌倉時代前期の和様建築。中世天台仏堂の代表作として国宝に指定されている。内陣中央の厨子には本尊薬師如来立像(重要文化財、秘仏)を安置し、左右に日光・月光(がっこう)菩薩像、十二神将像、二天王像(重要文化財)などを安置する。現状は桁行(間口)梁間(奥行)ともに7間とする「七間堂」であるが、解体修理時の調査の結果、建立当初は桁行、梁間ともに5間の「五間堂」であり、南北朝時代に規模を拡張したとみられる。組物間の蟇股(かえるまた)には建立当初のものと南北朝時代の拡張期のものとがあり、後者の方がデザインが複雑になっている。建立当初の柱はその多くが位置を移動して再用されている。組物は出三斗(でみつと)。正面には3間の向拝を付し、内部は奥行7間のうち手前の3間分を外陣、その奥の2間分を内陣、もっとも奥の2間分を後陣および脇室とする。正面は7間の柱間すべてを蔀戸(しとみど)とし、頭貫(かしらぬき)以外の貫を用いず、軸部は内法長押(うちのりなげし)と切目長押[注釈 1]で固めるなど、典型的な和様建築の手法になる。
三重塔(国宝)
本堂の右(南)に建つ。檜皮葺きの和様の三重塔である。様式的に鎌倉時代後期の建築とされる。総高は20.1メートル。逓減率が小さいことと、二重目・三重目の塔身の立ちが低いことが本塔の特色である。相輪は日本の他の木造塔では銅製とすることが多いが、本塔のそれは鉄製である。初層内部には大日如来像を安置し、心柱は初層天井裏から立つ。初層内部は須弥壇と床面を除く全面に極彩色の絵画が描かれているが、現状ではかなり剥落している。絵画の主題は、内部の4本の柱(四天柱)には両界曼荼羅のうち金剛界曼荼羅成身会(じょうじんね)の三十二菩薩(四波羅蜜菩薩、十六大菩薩、八供養菩薩、四摂菩薩)を表し、四方の扉脇の壁面には計8面に法華経曼荼羅図(法華経二十八品(章)の説話の絵画)を表している。このほか、扉には八方天、須弥壇周りの長押には宝相華、牡丹、鳳凰などが描かれている。このうち柱4本と壁8枚は国宝建造物の一部であるとともに、「絵画」としても別途重要文化財に指定されている。
鐘楼
三修上人供養塔(重要文化財) - 石造宝塔。嘉元2年(1304年)の刻銘がある。
阿伽池 - 承和元年(834年)に薬師如来などが出現したとされる池。当寺の別称「池寺」の名の由来。
観林坊
二天門(重要文化財) - 桁行(間口)3間、梁間(奥行)2間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す建築用語。以下の本文においても同様)。入母屋造、杮(こけら)葺きの八脚門。部材の一つである巻斗に応永14年(1407年)の墨書があり、同年の建立とみられる。
龍神社
稲荷社
本坊 - 元は塔頭の本覚院。
庫裏
書院
庭園「蓬莱庭」(国の名勝) - 池泉回遊式庭園。延宝元年(1673年)に望月友閑が当寺復興の記念として築庭した。
表門
観正坊 - 塔頭。
塔頭の跡 - 参道の両側に石垣が残る。
総門 - 2015年(平成27年)再建。
三重塔
文化財
国宝
本堂
三重塔
重要文化財
二天門
石造宝塔(三修上人供養塔)
木造薬師如来立像 - 本尊。
木造二天王立像(多聞天・広目天)
木造釈迦如来立像(清凉寺式釈迦如来)
木造不動明王及び二童子像
絹本著色十二天]像
三重塔初層荘厳画 4本8面
錦幡 5旒(りゅう)
国の名勝
本坊庭園
二天門
所在地 滋賀県犬上郡甲良町大字池寺26
位置 北緯35度11分2.3秒 東経136度17分3.4秒
山号 龍応山(りゅうおうざん)
非略体: 龍應山
宗派 天台宗
本尊 薬師如来(秘仏、重要文化財)
創建年 伝・承和元年(834年)
開山 伝・三修上人
開基 伝・仁明天皇(勅願)
正式名 龍應山西明寺
別称 池寺
札所等 西国薬師四十九霊場第32番
神仏霊場巡拝の道第136番(滋賀第4番)
文化財 本堂、三重塔(国宝)
二天門、木造釈迦如来立像、木造不動明王及び二童子像ほか(重要文化財)
本坊庭園(国の名勝)
2023年09月06日
武雄神社(たけおじんじゃ)は、佐賀県武雄市武雄町の御船山の山麓にある神社
武雄神社(たけおじんじゃ)は、佐賀県武雄市武雄町の御船山の山麓にある神社。樹齢3000年ともいわれる御神木の大楠があることでも知られる。
拝殿
歴史
『武雄神社本紀』によると、天平3年(735年)に初代神主伴行頼に神託があり、大宰府を通じ朝廷に奏上して武内宿禰を主神に以下4神を合祀して創建したとされる。
平安時代での旧社格は、九州地区の地方行政機関である「大宰府」の府社とされ、祭礼に国使が参向するなど、杵島郡鎮守としての役割があった。それらを裏付ける218通にもおよぶ武雄神社文書とよばれる古文書が現存する。
元永年間(1118〜20年頃)武雄二代領主 後藤資茂が、塚崎城を築城するために、朝廷に奏請して当社を舳嶽東麓(現在地)に遷した。
文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いでは平氏追討祈願を行い、平家を滅ぼした源頼朝は後鳥羽上皇の勅使と名代の御家人を赴かせ、御教書を送り、深く感謝した。この参詣を歓迎し、武雄四代領主の後藤宗明が流鏑馬を奉納し、それ以来、現在も流鏑馬神事が行われている。また、これを機に武雄神社と源氏との関係は密接となり、将軍家の祈祷を行う関東御祈祷所と、御家人の役割が与えられた[1]。これらの状況は武雄神社文書により記されている。
武雄神社社号標と参道
祭神
主祭神と相殿神の五柱の神を総じて武雄大明神と号す。
主祭神
武内宿禰(たけうちのすくね)
相殿神
武雄心命(たけおこころのみこと)
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
応神天皇(おうじんてんのう)
拝殿(右)、神輿庫(真中)、本殿(左)
アクセス
JR佐世保線 武雄温泉駅で下車し、祐徳バス 武雄保養センター行きに乗車し、武雄高校前バス停下車、徒歩3分
JR佐世保線 武雄温泉駅で下車し、徒歩で約1.4km
所在地 佐賀県武雄市武雄町大字武雄5335
位置 北緯33度11分5.26秒 東経130度01分23.42秒
主祭神 武内宿禰
創建 天平3年(735年)
別名 武雄大明神
例祭 10月23日
主な神事 元旦祭(1月1日)
歩射祭(2月17日)
例祭(10月23日)
お火たき祭(12月5日)
拝殿
歴史
『武雄神社本紀』によると、天平3年(735年)に初代神主伴行頼に神託があり、大宰府を通じ朝廷に奏上して武内宿禰を主神に以下4神を合祀して創建したとされる。
平安時代での旧社格は、九州地区の地方行政機関である「大宰府」の府社とされ、祭礼に国使が参向するなど、杵島郡鎮守としての役割があった。それらを裏付ける218通にもおよぶ武雄神社文書とよばれる古文書が現存する。
元永年間(1118〜20年頃)武雄二代領主 後藤資茂が、塚崎城を築城するために、朝廷に奏請して当社を舳嶽東麓(現在地)に遷した。
文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いでは平氏追討祈願を行い、平家を滅ぼした源頼朝は後鳥羽上皇の勅使と名代の御家人を赴かせ、御教書を送り、深く感謝した。この参詣を歓迎し、武雄四代領主の後藤宗明が流鏑馬を奉納し、それ以来、現在も流鏑馬神事が行われている。また、これを機に武雄神社と源氏との関係は密接となり、将軍家の祈祷を行う関東御祈祷所と、御家人の役割が与えられた[1]。これらの状況は武雄神社文書により記されている。
武雄神社社号標と参道
祭神
主祭神と相殿神の五柱の神を総じて武雄大明神と号す。
主祭神
武内宿禰(たけうちのすくね)
相殿神
武雄心命(たけおこころのみこと)
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
応神天皇(おうじんてんのう)
拝殿(右)、神輿庫(真中)、本殿(左)
アクセス
JR佐世保線 武雄温泉駅で下車し、祐徳バス 武雄保養センター行きに乗車し、武雄高校前バス停下車、徒歩3分
JR佐世保線 武雄温泉駅で下車し、徒歩で約1.4km
所在地 佐賀県武雄市武雄町大字武雄5335
位置 北緯33度11分5.26秒 東経130度01分23.42秒
主祭神 武内宿禰
創建 天平3年(735年)
別名 武雄大明神
例祭 10月23日
主な神事 元旦祭(1月1日)
歩射祭(2月17日)
例祭(10月23日)
お火たき祭(12月5日)
2023年09月05日
旧田中家住宅(きゅうたなかけじゅうたく)は、埼玉県川口市にある歴史的建造物
旧田中家住宅(きゅうたなかけじゅうたく)は、埼玉県川口市にある歴史的建造物である。2018年(平成30年)12月25日に国の重要文化財に指定された。川口市内では初の重要文化財指定物件である。
旧田中家住宅(川口市末広)
概要
田中家は川口の旧家で、当主は代々徳兵衛を名乗った。江戸時代末期の初代徳兵衛は農業を営んだが、2代徳兵衛の時代、1871年(明治4年)からは麦味噌醸造と材木商を営んで繁栄した。現存する住宅は4代徳兵衛(1875 - 1947年)が建てたものである。同人は家業のほか、埼玉県議会議員や貴族院議員も務めた。洋館は1921年(大正10年)上棟、1923年竣工。設計監督は櫻井忍夫である。洋館の裏手に建つ和館は1934年(昭和9年)上棟。設計監督は府場陽二である。洋館の北側に建つ文庫蔵(旧仕込倉)は明治末年頃の建立である。
洋館、和館、文庫蔵(旧仕込倉)、煉瓦塀2基の3棟2基が2006年(平成18年)に国の登録有形文化財になった後、2018年(平成30年)12月25日には国の重要文化財に指定された。敷地内には上記建物のほか、茶室と池泉回遊式の日本庭園があり、川口市立文化財センター分館として一般公開されている。
この住宅は、地元の名士の住居として、接客空間が充実しているのが特色である。洋館は関東大震災以前に上棟した煉瓦造3階建ての住宅建築として貴重な存在である。
建造物
洋館は日光御成道に面して建つ、煉瓦造3階建ての建物。西を正面とし、北から蔵部、主体部、台所部の3つに分かれている。建築面積は蔵部16.73平方メートル、主体部93.41平方メートル、台所部64.43平方メートル、計174.57平方メートルである。主体部の一部が西側へ張り出して、ファサード(正面外観)に変化を与えている。外観は化粧煉瓦積みで、建物の角にあたる部分には柱形を造り出し、人造石洗い出しによる窓枠を1階から3階まで通して、縦方向の線を強調している。屋上は西側突出部の正面にはペディメント(破風)を設け、他は欄干風のパラペット(胸壁)を設け、これらを銅板張りとする。柱形の上部には銅板のメダイヨン(円形装飾)を設ける。1階には玄関、家人用の食堂、台所があり、西側突出部は洋間の応接室とする。2階には座敷、次の間があり、西側突出部は洋間の書斎とする。3階には洋間の大広間があり、西側突出部は洋間の「控えの間」とする。1階の玄関は天井が和式の格天井で、神棚を設けるなど、古い商家の帳場のような構えとする。以上のように、この建物は、3階の大広間などに西洋古典式の内装をほどこす一方で、和風の空間も混在している。
和館は木造一部2階建てで、寄棟造、桟瓦葺き。建築面積は160.05平方メートル。洋館の裏手(東)に接続する東西棟の建物である。1階は西から東へ仏間(10畳)、次の間(12畳半)、座敷(15畳)が並ぶ。間仕切りの襖を取り払うと、37畳半の広大な空間になる。仏間の上に2階を設け、8畳の和室と次の間(4畳半)がある。
文庫蔵(旧仕込倉)は木造平屋建て、切妻造、桟瓦葺き。建築面積は99.15平方メートル。この蔵は、洋館より先に建っていたことが古写真から明らかで、明治末年頃の建立である。
アクセス
徒歩
埼玉高速鉄道(埼玉スタジアム線)川口元郷駅より徒歩8分。
国際興業バス
川口駅東口、11 - 13系統
末広1丁目停留所より徒歩3分。
用途 川口市立文化財センター
旧用途 住居
設計者 櫻井忍夫(洋館)、府場陽二(和館)
建築主 田中徳兵衛
管理運営 川口市
構造形式 洋館、和館、文庫蔵、煉瓦(れんが)塀
建築面積
※洋館:174,57 m2、和館:160.05
竣工 洋館:大正12年(1923年)竣工、和館:昭和9年(1934年)上棟
所在地 埼玉県川口市末広1丁目796番地
座標 北緯35度48分16.3秒 東経139度43分59.4秒
文化財 国の重要文化財
指定・登録等日 2018年(平成30年)12月25日
旧田中家住宅(川口市末広)
概要
田中家は川口の旧家で、当主は代々徳兵衛を名乗った。江戸時代末期の初代徳兵衛は農業を営んだが、2代徳兵衛の時代、1871年(明治4年)からは麦味噌醸造と材木商を営んで繁栄した。現存する住宅は4代徳兵衛(1875 - 1947年)が建てたものである。同人は家業のほか、埼玉県議会議員や貴族院議員も務めた。洋館は1921年(大正10年)上棟、1923年竣工。設計監督は櫻井忍夫である。洋館の裏手に建つ和館は1934年(昭和9年)上棟。設計監督は府場陽二である。洋館の北側に建つ文庫蔵(旧仕込倉)は明治末年頃の建立である。
洋館、和館、文庫蔵(旧仕込倉)、煉瓦塀2基の3棟2基が2006年(平成18年)に国の登録有形文化財になった後、2018年(平成30年)12月25日には国の重要文化財に指定された。敷地内には上記建物のほか、茶室と池泉回遊式の日本庭園があり、川口市立文化財センター分館として一般公開されている。
この住宅は、地元の名士の住居として、接客空間が充実しているのが特色である。洋館は関東大震災以前に上棟した煉瓦造3階建ての住宅建築として貴重な存在である。
建造物
洋館は日光御成道に面して建つ、煉瓦造3階建ての建物。西を正面とし、北から蔵部、主体部、台所部の3つに分かれている。建築面積は蔵部16.73平方メートル、主体部93.41平方メートル、台所部64.43平方メートル、計174.57平方メートルである。主体部の一部が西側へ張り出して、ファサード(正面外観)に変化を与えている。外観は化粧煉瓦積みで、建物の角にあたる部分には柱形を造り出し、人造石洗い出しによる窓枠を1階から3階まで通して、縦方向の線を強調している。屋上は西側突出部の正面にはペディメント(破風)を設け、他は欄干風のパラペット(胸壁)を設け、これらを銅板張りとする。柱形の上部には銅板のメダイヨン(円形装飾)を設ける。1階には玄関、家人用の食堂、台所があり、西側突出部は洋間の応接室とする。2階には座敷、次の間があり、西側突出部は洋間の書斎とする。3階には洋間の大広間があり、西側突出部は洋間の「控えの間」とする。1階の玄関は天井が和式の格天井で、神棚を設けるなど、古い商家の帳場のような構えとする。以上のように、この建物は、3階の大広間などに西洋古典式の内装をほどこす一方で、和風の空間も混在している。
和館は木造一部2階建てで、寄棟造、桟瓦葺き。建築面積は160.05平方メートル。洋館の裏手(東)に接続する東西棟の建物である。1階は西から東へ仏間(10畳)、次の間(12畳半)、座敷(15畳)が並ぶ。間仕切りの襖を取り払うと、37畳半の広大な空間になる。仏間の上に2階を設け、8畳の和室と次の間(4畳半)がある。
文庫蔵(旧仕込倉)は木造平屋建て、切妻造、桟瓦葺き。建築面積は99.15平方メートル。この蔵は、洋館より先に建っていたことが古写真から明らかで、明治末年頃の建立である。
アクセス
徒歩
埼玉高速鉄道(埼玉スタジアム線)川口元郷駅より徒歩8分。
国際興業バス
川口駅東口、11 - 13系統
末広1丁目停留所より徒歩3分。
用途 川口市立文化財センター
旧用途 住居
設計者 櫻井忍夫(洋館)、府場陽二(和館)
建築主 田中徳兵衛
管理運営 川口市
構造形式 洋館、和館、文庫蔵、煉瓦(れんが)塀
建築面積
※洋館:174,57 m2、和館:160.05
竣工 洋館:大正12年(1923年)竣工、和館:昭和9年(1934年)上棟
所在地 埼玉県川口市末広1丁目796番地
座標 北緯35度48分16.3秒 東経139度43分59.4秒
文化財 国の重要文化財
指定・登録等日 2018年(平成30年)12月25日
2023年09月04日
一木神社(いちきじんじゃ)は、高知県室戸市にある神社
一木神社(いちきじんじゃ)は、高知県室戸市にある神社で、四国八十八ヶ所第25番札所である津照寺の上り口の左上に鎮座する。
室戸市 一木神社
祭神
一木政利(一木権兵衛政利)
政利は土佐藩の普請奉行であった。
由緒
普請奉行として室津港改修工事を担当した政利は、工事が難行したために、一身を海神にささげることを約して竣工を祈願し、改修が終わると約を違えず人柱となったといい、地元町民がその死を悼んで、延宝7年(1679年)に港を見下ろす山の中腹に神として祀るようになったという。
奥殿
神事
毎年、5月中旬には漁業殉職者慰霊祭と共に盛大な大祭が催されている、主催者である室戸漁業協同組合が時代の流れと共に高知県漁業協同組合に統合され室戸支所になっても祭りは変わらず連綿として受け継がれている。
交通アクセス
奈半利駅からバスで40分、室戸で下車して徒歩で10分。
所在地 高知県室戸市室津
位置 北緯33度17分17.26秒 東経134度8分52.69秒
主祭神 一木政利
創建 延宝7年(1679年)
例祭 5月中旬
室戸市 一木神社
祭神
一木政利(一木権兵衛政利)
政利は土佐藩の普請奉行であった。
由緒
普請奉行として室津港改修工事を担当した政利は、工事が難行したために、一身を海神にささげることを約して竣工を祈願し、改修が終わると約を違えず人柱となったといい、地元町民がその死を悼んで、延宝7年(1679年)に港を見下ろす山の中腹に神として祀るようになったという。
奥殿
神事
毎年、5月中旬には漁業殉職者慰霊祭と共に盛大な大祭が催されている、主催者である室戸漁業協同組合が時代の流れと共に高知県漁業協同組合に統合され室戸支所になっても祭りは変わらず連綿として受け継がれている。
交通アクセス
奈半利駅からバスで40分、室戸で下車して徒歩で10分。
所在地 高知県室戸市室津
位置 北緯33度17分17.26秒 東経134度8分52.69秒
主祭神 一木政利
創建 延宝7年(1679年)
例祭 5月中旬
2023年09月03日
相川考古館(あいかわこうこかん)は、群馬県伊勢崎市三光町にある私立の歴史博物館
相川考古館(あいかわこうこかん)は、群馬県伊勢崎市三光町にある私立の歴史博物館。人類学者の相川之賀(あいかわ しが)が収集した歴史資料・民俗資料・考古資料を収蔵・展示しており、国の重要文化財に指定された埴輪4点なども所蔵している。
相川考古館
概要
相川家は、江戸時代から続く伊勢崎の商家で、その屋敷は当時脇本陣として使用される名家だった。現在も母屋や土蔵、茶室等が残る。
相川家長男の相川之賀(1866年 - 1950年)は、西洋学問を修めることを志して1885年(明治18年)に19歳でアメリカに渡り、学問の過程でカナダ先住民関連資料など多くの人類学的資料を収集した。一時帰国の際には、収集品を東京帝国大学に寄贈するなどし、また地元の伊勢崎町(当時)周辺で出土した考古資料も収集していた。
1914年(大正3年)の帰国後は、町会議員など町の要職を歴任しながら県の文化財調査に携わった。晩年、私有地の一角に博物館を建てることを志したが、第二次世界大戦の影響で果たせず、1950年(昭和25年)に死去した。しかし、その遺志を継いだ長女らにより同年「相川郷土館」の名で創設された(後に「考古館」に改称)。1993年(平成5年)には財団法人による運営に移行し、公益法人制度の発足後は公益財団法人による運営となっている。
考古館は、相川家の旧母屋や土蔵を展示室に利用しており、土蔵では県内出土の考古資料などを中心に展示している。そのほかにも近世の人形や伊勢崎銘仙など歴史・民俗資料もある。
所蔵文化財
重要文化財(国指定)
以下の埴輪4件が重要文化財(考古資料)に指定されている。〔 〕内は相川考古館ウェブサイトにおける呼称。
埴輪男子倚像〔弾琴男子像〕-群馬県前橋市朝倉町出土。琴を弾く人物埴輪[2]。館のシンボルマークにもなっており、公式Facebookや公式Twitterでは「ことはにくん」としてキャラクター化している。
埴輪武装男子立像〔武装男子像〕-群馬県太田市(旧新田郡強戸村成塚)出土。甲冑をまとい武器を携えた人物埴輪。東京国立博物館所蔵の国宝「埴輪 挂甲武人」によく似た武人埴輪の1つ。
埴輪男子立像〔盛装男子像〕-群馬県伊勢崎市豊城町出土。
埴輪男子立像〔広帯男子像〕-群馬県邑楽郡大泉町出土。
弾琴男子像
武装男子像
盛装男子像
広帯男子像
利用案内
入場料:一般500円・小中学生200円(茶室「觴華庵」での抹茶400円)
開館時間:午前9時30分から午後4時30分まで
休館日:月曜日(祝祭日除く)、年末・年始(12月30日から1月3日まで)
アクセス
JR両毛線伊勢崎駅より徒歩12分
東武伊勢崎線新伊勢崎駅より徒歩10分
北関東自動車道駒形ICから車で10分
駐車場あり
正式名称 相川考古館
前身 相川郷土館
専門分野 歴史学・考古学・伊勢崎市の民俗・郷土史
事業主体 公益財団法人相川考古館
開館 1950年(昭和25年)10月15日
所在地
〒372-0046
群馬県伊勢崎市三光町6-10
相川考古館
概要
相川家は、江戸時代から続く伊勢崎の商家で、その屋敷は当時脇本陣として使用される名家だった。現在も母屋や土蔵、茶室等が残る。
相川家長男の相川之賀(1866年 - 1950年)は、西洋学問を修めることを志して1885年(明治18年)に19歳でアメリカに渡り、学問の過程でカナダ先住民関連資料など多くの人類学的資料を収集した。一時帰国の際には、収集品を東京帝国大学に寄贈するなどし、また地元の伊勢崎町(当時)周辺で出土した考古資料も収集していた。
1914年(大正3年)の帰国後は、町会議員など町の要職を歴任しながら県の文化財調査に携わった。晩年、私有地の一角に博物館を建てることを志したが、第二次世界大戦の影響で果たせず、1950年(昭和25年)に死去した。しかし、その遺志を継いだ長女らにより同年「相川郷土館」の名で創設された(後に「考古館」に改称)。1993年(平成5年)には財団法人による運営に移行し、公益法人制度の発足後は公益財団法人による運営となっている。
考古館は、相川家の旧母屋や土蔵を展示室に利用しており、土蔵では県内出土の考古資料などを中心に展示している。そのほかにも近世の人形や伊勢崎銘仙など歴史・民俗資料もある。
所蔵文化財
重要文化財(国指定)
以下の埴輪4件が重要文化財(考古資料)に指定されている。〔 〕内は相川考古館ウェブサイトにおける呼称。
埴輪男子倚像〔弾琴男子像〕-群馬県前橋市朝倉町出土。琴を弾く人物埴輪[2]。館のシンボルマークにもなっており、公式Facebookや公式Twitterでは「ことはにくん」としてキャラクター化している。
埴輪武装男子立像〔武装男子像〕-群馬県太田市(旧新田郡強戸村成塚)出土。甲冑をまとい武器を携えた人物埴輪。東京国立博物館所蔵の国宝「埴輪 挂甲武人」によく似た武人埴輪の1つ。
埴輪男子立像〔盛装男子像〕-群馬県伊勢崎市豊城町出土。
埴輪男子立像〔広帯男子像〕-群馬県邑楽郡大泉町出土。
弾琴男子像
武装男子像
盛装男子像
広帯男子像
利用案内
入場料:一般500円・小中学生200円(茶室「觴華庵」での抹茶400円)
開館時間:午前9時30分から午後4時30分まで
休館日:月曜日(祝祭日除く)、年末・年始(12月30日から1月3日まで)
アクセス
JR両毛線伊勢崎駅より徒歩12分
東武伊勢崎線新伊勢崎駅より徒歩10分
北関東自動車道駒形ICから車で10分
駐車場あり
正式名称 相川考古館
前身 相川郷土館
専門分野 歴史学・考古学・伊勢崎市の民俗・郷土史
事業主体 公益財団法人相川考古館
開館 1950年(昭和25年)10月15日
所在地
〒372-0046
群馬県伊勢崎市三光町6-10