金峯神社(きんぼうじんじゃ)は、山形県鶴岡市にある神社である。旧社格は県社。明治の神仏分離までは金峯山蔵王権現と称し、修験道場となっていた。
金峯山山頂に本殿があり、金峯山全域に社殿が点在する
金峯神社(鶴岡市)拝殿
祭神
現在は少彦名神・大国主神・事代主神・安閑天皇を祭神としている。
歴史
大同年間(806年 - 810年)、金峯山(金山、鎮山とも)の山頂にはじめて社殿が創建され、承暦年間(990年 - 995年)、大和国宇多郡の丹波守盛宗が出羽国に移る際に吉野の金峯山の神を勧請したと伝える。
奥州藤原氏はじめ歴代の領主が崇敬し、江戸時代には庄内藩の祈願所とされた。神仏習合の時代には真言宗の修験道場として栄えていた。金峯山の周囲の虚空蔵山、熊野長峰を含めた3山が熊野三所権現となった。さらに母狩山から摩耶山にいたる広大な山域は、逆峰修験の場となった。
明治の神仏分離に際し、明治3年(1870年)に御嶽神社、明治10年(1877年)に金峯神社に改称した。明治9年に県社に列した。神仏分離の際に、山麓の青龍寺は真言宗の寺院として金峯神社から分離した。
本殿
文化財
重要文化財
本殿
銅鉢
所在地 山形県鶴岡市大字青龍寺字金峯1
位置 北緯38度40分43.87秒 東経139度48分19.99秒
主祭神 少彦名神
大国主神
事代主神
安閑天皇
社格等 県社・別表神社
創建 大同年間
例祭 6月15日
2023年10月02日
2023年10月01日
旧下関英国領事館(きゅうしものせきえいこくりょうじかん)は山口県下関市唐戸町に現存する国内最古の領事館用途の建築
旧下関英国領事館(きゅうしものせきえいこくりょうじかん)は山口県下関市唐戸町に現存する国内最古の領事館用途の建築である。1906年(明治39年)12月に竣工した煉瓦造2階建。1999年(平成11年)5月に国の重要文化財に指定された。
歴史
日清戦争後、朝鮮半島の政治経済的重要性に鑑み、駐日英国公使アーネスト・サトウの本国への具申により、1901年(明治34年)9月13日、英国政府は下関赤間町26番地に領事館を開設した。管轄区域は山口、広島、福岡、大分の4県で、初代領事はフランク・ウィリアム・ウオルター・プレイフェア(Frank William Walter Playfair)。ほどなく西南部町の瓜生商会内へ移転、手狭になったため下関市から提供された敷地に建てられたのが現在の旧下関英国領事館である。
領事館建設にあたっては、英国工務局上海事務所の建築技師長ウィリアム・コーワン(William Cowan)が当地を訪れ、敷地調査の上、設計に取りかかった。工務局のロンドン本局は1903年の設計案を却下、1905年の案に対してはベランダやペディメントの変更を指示した。しかし、本局生え抜きの技師長だったコーワンは1905年案を押し通し、クィーン・アン様式[要出典]の設計を完成させた。日露戦争終戦後の1906年(明治39年)1月に神戸から[要出典]工事管理者を雇い着工、同年12月に竣工した。
大陸の権益に関わる日英同盟(1902年締結、1923年失効)と、大陸との交通の接点である下関に置かれた領事館の活動期間はほぼ一致する。1922年(大正11年)5月、下関英国領事館は長崎英国領事監督下の領事事務館になり、下関英国瓜生商会支配人のロバート・マッケンジー(Robert Mckenzie)が下関領事事務官、同商会のトーマス・キャンベル・ロバートソン(Thomas Campbell Robertson)が領事事務官不在中の領事事務官代理として執務した。1940年(昭和15年)11月には臨時在長崎英国領事館出張所となり事務を執る者を置かなくなった。
第二次世界大戦後の1954年(昭和29年)、建物は下関市に300万円で買収された。以降、下関警察署唐戸地区出張所(1958〜1968年)、下関市考古館(1970〜1986年)として使用された。1987年に下関市指定有形文化財(建造物)に指定、1989年から一般公開された。1999年5月13日には国の重要文化財の指定を受け、2008年からの保存修理に伴う休館を経て2014年7月の再オープン後は記念館・市民ギャラリー等、公共の施設として利用されている。
施設
本館
1階 - 展示スペース
2階 - ミーティングルーム、喫茶&パブ
屋根裏部屋
附属屋 - ギャラリー
利用情報
開館時間 - 本館1階:9時〜17時、2階喫茶&パブ:10時〜18時、附属屋ギャラリー:9時〜22時
休館日 - 火曜、年末年始、臨時休館あり
アクセス - JR山陽本線 下関駅から サンデン交通バスで7分、「唐戸」下車すぐ
情報
旧名称 下関英国領事館、下関市考古館
用途 記念館、ギャラリー、カフェ
旧用途 領事館
設計者 ウィリアム・コーワン(英国政府工務局上海事務所建築技師長)
建築主 イギリス帝国
管理運営 下関市
構造形式 レンガ造、桟瓦葺、本館2階建、附属屋平屋建
敷地面積 558.03 m2
建築面積 248.2(本館170.6、附属屋ギャラリー77.6) m2
延床面積 410.91(本館329.97、附属屋ギャラリー80.94) m2
着工 1906年(明治39年)1月
竣工 1906年(明治39年)8月9日上棟
所在地 〒750-0005
山口県下関市唐戸町4-11
座標 北緯33度57分25秒 東経130度56分35.5秒座標: 北緯33度57分25秒 東経130度56分35.5秒
文化財 国の重要文化財
指定・登録等日 1999年(平成11年)5月13日
歴史
日清戦争後、朝鮮半島の政治経済的重要性に鑑み、駐日英国公使アーネスト・サトウの本国への具申により、1901年(明治34年)9月13日、英国政府は下関赤間町26番地に領事館を開設した。管轄区域は山口、広島、福岡、大分の4県で、初代領事はフランク・ウィリアム・ウオルター・プレイフェア(Frank William Walter Playfair)。ほどなく西南部町の瓜生商会内へ移転、手狭になったため下関市から提供された敷地に建てられたのが現在の旧下関英国領事館である。
領事館建設にあたっては、英国工務局上海事務所の建築技師長ウィリアム・コーワン(William Cowan)が当地を訪れ、敷地調査の上、設計に取りかかった。工務局のロンドン本局は1903年の設計案を却下、1905年の案に対してはベランダやペディメントの変更を指示した。しかし、本局生え抜きの技師長だったコーワンは1905年案を押し通し、クィーン・アン様式[要出典]の設計を完成させた。日露戦争終戦後の1906年(明治39年)1月に神戸から[要出典]工事管理者を雇い着工、同年12月に竣工した。
大陸の権益に関わる日英同盟(1902年締結、1923年失効)と、大陸との交通の接点である下関に置かれた領事館の活動期間はほぼ一致する。1922年(大正11年)5月、下関英国領事館は長崎英国領事監督下の領事事務館になり、下関英国瓜生商会支配人のロバート・マッケンジー(Robert Mckenzie)が下関領事事務官、同商会のトーマス・キャンベル・ロバートソン(Thomas Campbell Robertson)が領事事務官不在中の領事事務官代理として執務した。1940年(昭和15年)11月には臨時在長崎英国領事館出張所となり事務を執る者を置かなくなった。
第二次世界大戦後の1954年(昭和29年)、建物は下関市に300万円で買収された。以降、下関警察署唐戸地区出張所(1958〜1968年)、下関市考古館(1970〜1986年)として使用された。1987年に下関市指定有形文化財(建造物)に指定、1989年から一般公開された。1999年5月13日には国の重要文化財の指定を受け、2008年からの保存修理に伴う休館を経て2014年7月の再オープン後は記念館・市民ギャラリー等、公共の施設として利用されている。
施設
本館
1階 - 展示スペース
2階 - ミーティングルーム、喫茶&パブ
屋根裏部屋
附属屋 - ギャラリー
利用情報
開館時間 - 本館1階:9時〜17時、2階喫茶&パブ:10時〜18時、附属屋ギャラリー:9時〜22時
休館日 - 火曜、年末年始、臨時休館あり
アクセス - JR山陽本線 下関駅から サンデン交通バスで7分、「唐戸」下車すぐ
情報
旧名称 下関英国領事館、下関市考古館
用途 記念館、ギャラリー、カフェ
旧用途 領事館
設計者 ウィリアム・コーワン(英国政府工務局上海事務所建築技師長)
建築主 イギリス帝国
管理運営 下関市
構造形式 レンガ造、桟瓦葺、本館2階建、附属屋平屋建
敷地面積 558.03 m2
建築面積 248.2(本館170.6、附属屋ギャラリー77.6) m2
延床面積 410.91(本館329.97、附属屋ギャラリー80.94) m2
着工 1906年(明治39年)1月
竣工 1906年(明治39年)8月9日上棟
所在地 〒750-0005
山口県下関市唐戸町4-11
座標 北緯33度57分25秒 東経130度56分35.5秒座標: 北緯33度57分25秒 東経130度56分35.5秒
文化財 国の重要文化財
指定・登録等日 1999年(平成11年)5月13日
2023年09月30日
小佐野家住宅(おさのけじゅうたく)は、山梨県富士吉田市上吉田、北口本宮冨士浅間神社の門前に建つ、江戸時代末期の住宅
小佐野家住宅(おさのけじゅうたく)は、山梨県富士吉田市上吉田、北口本宮冨士浅間神社の門前に建つ、江戸時代末期の住宅である。富士講の御師の住宅であり、重要文化財に指定されている。世界遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産に含まれる。
概要
江戸時代に86軒連なった富士山北口(富士吉田市)御師住宅[2]の一軒として、小佐野家が本住宅にて永らく御師を営んでいた。 御師住宅(小佐野家住宅)は単なる住宅ではなく、宿坊、御神前を備えている。 宿坊にて参拝者に宿を提供し、登山の世話を行い、御神前にて祈祷を行い、参詣者と神仏の仲立ちを行っていた。 小佐野家住宅は、個人宅のため、非公開。 富士吉田市歴史民俗博物館の敷地内に、復元された小佐野家復元住宅がある。
歴史
江戸時代末期、1861年(文久元年)に御師の小佐野家により建てられた[2]。主屋は保存状態が良く歴史的価値が高いため、1976年(昭和51年)5月、国の重要文化財に指定された。また2013年(平成25年)6月には、富士山が世界文化遺産に登録され、御師・小佐野家住宅はその構成遺産に認定された。
所在地 山梨県富士吉田市上吉田三丁目632番地
位置 北緯35度28分34秒 東経138度47分38秒
類型 御師住宅
形式・構造 切妻造、妻入
延床面積 291u
建築年 西暦1861年 江戸時代末期
文化財 国の重要文化財
概要
江戸時代に86軒連なった富士山北口(富士吉田市)御師住宅[2]の一軒として、小佐野家が本住宅にて永らく御師を営んでいた。 御師住宅(小佐野家住宅)は単なる住宅ではなく、宿坊、御神前を備えている。 宿坊にて参拝者に宿を提供し、登山の世話を行い、御神前にて祈祷を行い、参詣者と神仏の仲立ちを行っていた。 小佐野家住宅は、個人宅のため、非公開。 富士吉田市歴史民俗博物館の敷地内に、復元された小佐野家復元住宅がある。
歴史
江戸時代末期、1861年(文久元年)に御師の小佐野家により建てられた[2]。主屋は保存状態が良く歴史的価値が高いため、1976年(昭和51年)5月、国の重要文化財に指定された。また2013年(平成25年)6月には、富士山が世界文化遺産に登録され、御師・小佐野家住宅はその構成遺産に認定された。
所在地 山梨県富士吉田市上吉田三丁目632番地
位置 北緯35度28分34秒 東経138度47分38秒
類型 御師住宅
形式・構造 切妻造、妻入
延床面積 291u
建築年 西暦1861年 江戸時代末期
文化財 国の重要文化財
2023年09月29日
長保寺(ちょうほうじ)は、和歌山県海南市にある天台宗の寺院
長保寺(ちょうほうじ)は、和歌山県海南市にある天台宗の寺院。山号は慶徳山。本尊は釈迦如来。開山は性空(しょうくう)である。3棟の国宝建築と紀州藩主紀州徳川家歴代の墓所(国の史跡)がある寺として知られている。
長保寺 本堂(国宝)
歴史
寺伝によれば、平安時代中期の長保2年(1000年)、一条天皇の勅願により、円仁(慈覚大師)の弟子の性空によって創建され、年号を取って「長保寺」と号したという。その後、寛仁元年(1017年)には七堂伽藍と子院十二ヶ坊が完成していたという。創建時は現在地より西方にあったが、鎌倉時代末期に現在地に移り、伽藍も整えられた。現存する本堂、多宝塔、大門(各国宝)はやや時代が下って鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての建築であるが、中世にさかのぼる仏教建築がまとまって残されている点で貴重である。
戦国時代には衰退していたため、江戸時代に紀州藩主となった浅野幸長より5石の寄進を受けた。
寛文6年(1666年)、当地を訪れた紀州藩主徳川頼宣は、山に囲まれた要害の地にある長保寺を紀州徳川家の菩提寺に定めた。寛文12年(1672年)には2代藩主徳川光貞によって500石を寄進されている。境内東斜面には約1万坪にも及ぶ広大な藩主廟所があり、頼宣以降の歴代藩主が眠っている。ただし、5代吉宗(後の8代将軍)と13代慶福(よしとみ、後の14代将軍家茂)の墓はそれぞれ東京の寛永寺と増上寺にある。宗派は、当初天台宗であったと思われるが、後に法相宗、さらに真言宗に改宗し、紀州徳川家の菩提寺となってから天台宗に復した。
鎌倉時代 - 南北朝時代建築の本堂・多宝塔・大門の3棟が国宝に指定されている。
境内(多宝塔と本堂)
紀州徳川家歴代墓所
和歌山藩主徳川家墓所(国の史跡) - 歴代紀州藩主の墓が並んでいるが、5代徳川吉宗と13代徳川慶福(家茂)は江戸幕府の征夷大将軍となっているため、ここに墓は設けられていない。なお、歴代藩主の墓地としては日本最大の規模である。
徳川頼宣の墓 - 初代藩主。
徳川光貞の墓 - 2代藩主。
徳川綱教の墓 - 3代藩主。
徳川頼職の墓 - 4代藩主。
徳川宗直の墓 - 6代藩主。
徳川宗将の墓 - 7代藩主。
伏見宮徳子の墓 - 7代藩主の正室。伏見宮貞建親王の養女(今出川公詮の娘)。
一条兼香の娘の墓 - 7代藩主の継室。
徳川重倫の墓 - 8代藩主。
徳川治貞の墓 - 9代藩主。
徳川治宝の墓 - 10代藩主。
徳川斉順の墓 - 11代藩主。
徳川斉彊の墓 - 12代藩主。
近衛豊子(観如院)の墓 - 12代藩主の正室。近衛忠熙の娘。
徳川茂承の墓 - 14代藩主。
徳川頼倫の墓 - 15代藩主。
大門
徳川頼宣の墓
徳川光貞の墓
徳川重倫の墓
文化財
国宝
本堂 附:厨子
多宝塔
大門 附:扁額
重要文化財
鎮守堂
国の史跡
紀州藩主徳川家墓所
所在地
〒649-0164 和歌山県海南市下津町上689
同地の歴史的な地名は紀伊国海部郡浜中荘上村。長保寺の塔頭・吉祥院は、仁和寺が荘園領家である浜中荘(濱中荘)の荘務を委任されていたことから、浜中荘がまとめた田数目録などの文献のなかには往事の長保寺の伽藍の規模を考察する上での貴重な資料となる記載も多い。浜中荘はこの長保寺を中心にして平安時代末から室町時代にかけて栄えていた 。
交通アクセス
JRきのくに線 下津駅よりタクシー、または徒歩30分
阪和自動車道海南インターチェンジから車で15分
長保寺 本堂(国宝)
歴史
寺伝によれば、平安時代中期の長保2年(1000年)、一条天皇の勅願により、円仁(慈覚大師)の弟子の性空によって創建され、年号を取って「長保寺」と号したという。その後、寛仁元年(1017年)には七堂伽藍と子院十二ヶ坊が完成していたという。創建時は現在地より西方にあったが、鎌倉時代末期に現在地に移り、伽藍も整えられた。現存する本堂、多宝塔、大門(各国宝)はやや時代が下って鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての建築であるが、中世にさかのぼる仏教建築がまとまって残されている点で貴重である。
戦国時代には衰退していたため、江戸時代に紀州藩主となった浅野幸長より5石の寄進を受けた。
寛文6年(1666年)、当地を訪れた紀州藩主徳川頼宣は、山に囲まれた要害の地にある長保寺を紀州徳川家の菩提寺に定めた。寛文12年(1672年)には2代藩主徳川光貞によって500石を寄進されている。境内東斜面には約1万坪にも及ぶ広大な藩主廟所があり、頼宣以降の歴代藩主が眠っている。ただし、5代吉宗(後の8代将軍)と13代慶福(よしとみ、後の14代将軍家茂)の墓はそれぞれ東京の寛永寺と増上寺にある。宗派は、当初天台宗であったと思われるが、後に法相宗、さらに真言宗に改宗し、紀州徳川家の菩提寺となってから天台宗に復した。
鎌倉時代 - 南北朝時代建築の本堂・多宝塔・大門の3棟が国宝に指定されている。
境内(多宝塔と本堂)
紀州徳川家歴代墓所
和歌山藩主徳川家墓所(国の史跡) - 歴代紀州藩主の墓が並んでいるが、5代徳川吉宗と13代徳川慶福(家茂)は江戸幕府の征夷大将軍となっているため、ここに墓は設けられていない。なお、歴代藩主の墓地としては日本最大の規模である。
徳川頼宣の墓 - 初代藩主。
徳川光貞の墓 - 2代藩主。
徳川綱教の墓 - 3代藩主。
徳川頼職の墓 - 4代藩主。
徳川宗直の墓 - 6代藩主。
徳川宗将の墓 - 7代藩主。
伏見宮徳子の墓 - 7代藩主の正室。伏見宮貞建親王の養女(今出川公詮の娘)。
一条兼香の娘の墓 - 7代藩主の継室。
徳川重倫の墓 - 8代藩主。
徳川治貞の墓 - 9代藩主。
徳川治宝の墓 - 10代藩主。
徳川斉順の墓 - 11代藩主。
徳川斉彊の墓 - 12代藩主。
近衛豊子(観如院)の墓 - 12代藩主の正室。近衛忠熙の娘。
徳川茂承の墓 - 14代藩主。
徳川頼倫の墓 - 15代藩主。
大門
徳川頼宣の墓
徳川光貞の墓
徳川重倫の墓
文化財
国宝
本堂 附:厨子
多宝塔
大門 附:扁額
重要文化財
鎮守堂
国の史跡
紀州藩主徳川家墓所
所在地
〒649-0164 和歌山県海南市下津町上689
同地の歴史的な地名は紀伊国海部郡浜中荘上村。長保寺の塔頭・吉祥院は、仁和寺が荘園領家である浜中荘(濱中荘)の荘務を委任されていたことから、浜中荘がまとめた田数目録などの文献のなかには往事の長保寺の伽藍の規模を考察する上での貴重な資料となる記載も多い。浜中荘はこの長保寺を中心にして平安時代末から室町時代にかけて栄えていた 。
交通アクセス
JRきのくに線 下津駅よりタクシー、または徒歩30分
阪和自動車道海南インターチェンジから車で15分
2023年09月28日
弘法寺(こうぼうじ)は岡山県瀬戸内市牛窓町に所在する寺院
弘法寺(こうぼうじ)は岡山県瀬戸内市牛窓町に所在する寺院。宗派は高野山真言宗。山号は千手山(せんずさん)。本尊は千手観音であったが本堂の焼失により現在は遍明院が管理している。塔頭は遍明院と東壽院の2院が現存する。遍明院は山陽花の寺二十四か寺第十五番札所となっている。
山門と弘法寺境内
塔頭・鎮守社
遍明院
本坊遍明院(ほんぼう へんみょういん)と称する。本尊は五智如来(国の重要文化財)と前仏不動明王。弘法寺の塔頭の中で以前より中心的役割を果たしてきた。山陽花の寺二十四か寺第十五番札所となっている。
御詠歌:わきて世に 誓もふかき 心かな たのむ千手の 山の月影(池田綱政/作)
東壽院
東門坊東壽院(とうもんぼう とうじゅいん)と称する。本尊は阿弥陀如来(国の重要文化財)。岡山県道28号岡山牛窓線沿いにある。
山王社
山王社(さんのうしゃ)は、当寺院の鎮守社として境内の南側に鎮座している。日吉神社(ひえじんじゃ)と千次神社(せんじじんじゃ)が並立している。岡山藩12代藩主池田章政の揮毫による「山王社」の扁額がある。
遍明院
東壽院
山王社
所在地 岡山県瀬戸内市牛窓町千手239
位置 北緯34度36分55.1秒 東経134度6分54.2秒
山号 千手山
宗派 高野山真言宗
本尊 (本堂:千手観音)
遍明院:五智如来・前仏不動明王
東壽院:阿弥陀如来
創建年 伝・天智天皇元年(662年)
開基 伝・天智天皇(勅願)
札所等 山陽花の寺15番(遍明院)
文化財 木造五智如来坐像、阿弥陀如来立像、木造彩色菊牡丹透華鬘、絹本着色仏涅槃図、他(重要文化財)
山門、被仏、足利尊氏御教書、太鼓形酒筒、他(県重要文化財)
山門と弘法寺境内
塔頭・鎮守社
遍明院
本坊遍明院(ほんぼう へんみょういん)と称する。本尊は五智如来(国の重要文化財)と前仏不動明王。弘法寺の塔頭の中で以前より中心的役割を果たしてきた。山陽花の寺二十四か寺第十五番札所となっている。
御詠歌:わきて世に 誓もふかき 心かな たのむ千手の 山の月影(池田綱政/作)
東壽院
東門坊東壽院(とうもんぼう とうじゅいん)と称する。本尊は阿弥陀如来(国の重要文化財)。岡山県道28号岡山牛窓線沿いにある。
山王社
山王社(さんのうしゃ)は、当寺院の鎮守社として境内の南側に鎮座している。日吉神社(ひえじんじゃ)と千次神社(せんじじんじゃ)が並立している。岡山藩12代藩主池田章政の揮毫による「山王社」の扁額がある。
遍明院
東壽院
山王社
所在地 岡山県瀬戸内市牛窓町千手239
位置 北緯34度36分55.1秒 東経134度6分54.2秒
山号 千手山
宗派 高野山真言宗
本尊 (本堂:千手観音)
遍明院:五智如来・前仏不動明王
東壽院:阿弥陀如来
創建年 伝・天智天皇元年(662年)
開基 伝・天智天皇(勅願)
札所等 山陽花の寺15番(遍明院)
文化財 木造五智如来坐像、阿弥陀如来立像、木造彩色菊牡丹透華鬘、絹本着色仏涅槃図、他(重要文化財)
山門、被仏、足利尊氏御教書、太鼓形酒筒、他(県重要文化財)
2023年09月27日
四天王寺(してんのうじ)は、大阪市天王寺区四天王寺にある和宗の総本山の寺院
四天王寺(してんのうじ)は、大阪市天王寺区四天王寺にある和宗の総本山の寺院。山号は荒陵山(あらはかさん)。本尊は救世観音(ぐぜかんのん)。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。新西国三十三箇所第1番札所のほか多数の霊場の札所となっている。
中心伽藍回廊
『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている。
宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった。日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年(昭和21年)に「和宗」の総本山として独立している。
金堂
伽藍
境内配置図 A.中心伽藍(a.中門、b.五重塔、c.金堂、d.講堂)、B.本坊庭園、C.霊苑、S.四天王寺学園(中学・高校)、M.宝物館、1.石鳥居(重文)、2.西大門、3.南鐘堂、4.南大門、5.石舞台(重文)、6.六時堂(重文)、7.聖霊院前殿、8.聖霊院奥殿、9.北鐘堂、10.本坊方丈(重文)、11.五智光院(重文)、12.元三大師堂(重文)、13.東大門、14.本坊西通用門(重文)
境内中央南寄りに回廊に囲まれた中心伽藍があり、その北に六時堂(六時礼讃堂)、東に聖徳太子を祀る聖霊院(しょうりょういん)がある。境内西部の一画は四天王寺中学校・高等学校の校地となっている。境内の北側は、東方が庭園のある本坊、西方が墓地となっている。境内南端と東端の入口にはそれぞれ南大門、東大門が建つが、西の入口には門ではなく石鳥居が建ち、西大門はその鳥居をくぐった先(東)に建つ。南大門が本来の正門であるが、「極楽浄土の入口に通じる」と信じられた石鳥居からの参拝者も多い。
中心伽藍は南から北へ中門(仁王門)、五重塔、金堂、講堂を一直線に配置し、中門の左右から出た回廊が講堂の左右に達する「四天王寺式伽藍配置」を踏襲したものとなっている。これらは第二次世界大戦後に再建され、1963年(昭和38年)に落慶法要が営まれた鉄筋コンクリート造建築だが、日本の飛鳥時代、高句麗、六朝などの建築様式を加味して創建当時(6世紀末)の様式に近付けようとしたものである。設計は建築史家藤島亥治郎。
中門(仁王門)
行事
経木流し - 死者の供養として経木に戒名を書き、亀井堂の亀形石の水に流す。
万灯供養 - 同じく、死者の供養(先祖供養)として、ろうそくに戒名を書き、夕方から一斉に灯す。お盆の行事。
彼岸香
四天王寺境内亀井水の白石玉手の霊水で練り上げ精製された線香。登録商標。
五重塔
交通
地下鉄谷町線 四天王寺前夕陽ヶ丘駅 - 南へ徒歩約5分
JR西日本・Osaka Metro 天王寺駅 - 北へ徒歩約12分
近鉄南大阪線 大阪阿部野橋駅 - 北へ徒歩約14分
所在地 大阪府大阪市天王寺区四天王寺1丁目11-18
位置 北緯34度39分14.04秒 東経135度30分59.22秒
山号 荒陵山(あらはかさん、こうりょうざん)
宗旨 天台宗
宗派 和宗
寺格 総本山
本尊 救世観音
創建年 推古天皇元年(593年)
(『日本書紀』による)
開基 聖徳太子
正式名 荒陵山金光明四天王大護國寺
別称 荒陵寺
難波大寺
御津寺(みとでら)
堀江寺
札所等 新西国三十三箇所第1番
西国三十三所番外霊場
西国薬師四十九霊場第16番
近畿三十六不動尊霊場第1番
摂津国八十八箇所第25番
摂津国三十三ヶ所第33番
おおさか十三仏霊場第4番
大阪七福神(布袋尊)
河内飛鳥古寺霊場第1番
なにわ七幸めぐり
大坂三十三所観音めぐり第20番 - 24番
聖徳太子霊跡第1番
法然上人二十五霊場第6番
西山国師遺跡霊場客番札所
四国八十八箇所番外霊場
役行者めぐり
神仏霊場巡拝の道第43番(大阪第2番)
文化財 紙本著色扇面法華経冊子5帖、七星剣、四天王寺縁起ほか(国宝)
六時堂、元三大師堂、絹本著色両界曼荼羅図ほか(重要文化財)
中心伽藍回廊
『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている。
宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった。日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年(昭和21年)に「和宗」の総本山として独立している。
金堂
伽藍
境内配置図 A.中心伽藍(a.中門、b.五重塔、c.金堂、d.講堂)、B.本坊庭園、C.霊苑、S.四天王寺学園(中学・高校)、M.宝物館、1.石鳥居(重文)、2.西大門、3.南鐘堂、4.南大門、5.石舞台(重文)、6.六時堂(重文)、7.聖霊院前殿、8.聖霊院奥殿、9.北鐘堂、10.本坊方丈(重文)、11.五智光院(重文)、12.元三大師堂(重文)、13.東大門、14.本坊西通用門(重文)
境内中央南寄りに回廊に囲まれた中心伽藍があり、その北に六時堂(六時礼讃堂)、東に聖徳太子を祀る聖霊院(しょうりょういん)がある。境内西部の一画は四天王寺中学校・高等学校の校地となっている。境内の北側は、東方が庭園のある本坊、西方が墓地となっている。境内南端と東端の入口にはそれぞれ南大門、東大門が建つが、西の入口には門ではなく石鳥居が建ち、西大門はその鳥居をくぐった先(東)に建つ。南大門が本来の正門であるが、「極楽浄土の入口に通じる」と信じられた石鳥居からの参拝者も多い。
中心伽藍は南から北へ中門(仁王門)、五重塔、金堂、講堂を一直線に配置し、中門の左右から出た回廊が講堂の左右に達する「四天王寺式伽藍配置」を踏襲したものとなっている。これらは第二次世界大戦後に再建され、1963年(昭和38年)に落慶法要が営まれた鉄筋コンクリート造建築だが、日本の飛鳥時代、高句麗、六朝などの建築様式を加味して創建当時(6世紀末)の様式に近付けようとしたものである。設計は建築史家藤島亥治郎。
中門(仁王門)
行事
経木流し - 死者の供養として経木に戒名を書き、亀井堂の亀形石の水に流す。
万灯供養 - 同じく、死者の供養(先祖供養)として、ろうそくに戒名を書き、夕方から一斉に灯す。お盆の行事。
彼岸香
四天王寺境内亀井水の白石玉手の霊水で練り上げ精製された線香。登録商標。
五重塔
交通
地下鉄谷町線 四天王寺前夕陽ヶ丘駅 - 南へ徒歩約5分
JR西日本・Osaka Metro 天王寺駅 - 北へ徒歩約12分
近鉄南大阪線 大阪阿部野橋駅 - 北へ徒歩約14分
所在地 大阪府大阪市天王寺区四天王寺1丁目11-18
位置 北緯34度39分14.04秒 東経135度30分59.22秒
山号 荒陵山(あらはかさん、こうりょうざん)
宗旨 天台宗
宗派 和宗
寺格 総本山
本尊 救世観音
創建年 推古天皇元年(593年)
(『日本書紀』による)
開基 聖徳太子
正式名 荒陵山金光明四天王大護國寺
別称 荒陵寺
難波大寺
御津寺(みとでら)
堀江寺
札所等 新西国三十三箇所第1番
西国三十三所番外霊場
西国薬師四十九霊場第16番
近畿三十六不動尊霊場第1番
摂津国八十八箇所第25番
摂津国三十三ヶ所第33番
おおさか十三仏霊場第4番
大阪七福神(布袋尊)
河内飛鳥古寺霊場第1番
なにわ七幸めぐり
大坂三十三所観音めぐり第20番 - 24番
聖徳太子霊跡第1番
法然上人二十五霊場第6番
西山国師遺跡霊場客番札所
四国八十八箇所番外霊場
役行者めぐり
神仏霊場巡拝の道第43番(大阪第2番)
文化財 紙本著色扇面法華経冊子5帖、七星剣、四天王寺縁起ほか(国宝)
六時堂、元三大師堂、絹本著色両界曼荼羅図ほか(重要文化財)
2023年09月26日
国東塔(くにさきとう)は、大分県国東半島を中心に分布する宝塔の一種
国東塔(くにさきとう)は、大分県国東半島を中心に分布する宝塔の一種。一般の宝塔が台座を有さないのに対して、国東塔は基礎と塔身の間に反花または蓮華座、ものによっては双方からなる台座を有するのが外観上の最大の特徴である。
長木家(ちょうきけ)宝塔
国東塔とは「宝塔」の塔身に蓮華座が備えられたものをいい、すらりと縦に長い姿が美しい、国東半島独自の発展を遂げた石塔です。古い国東塔は単なる墓標ではなく、生前供養・追善供養・一族や寺門の繁栄のためにつくられたものも多く、数百年単位で位置の変更が無いものもあることから、仏の里・豊後高田市の歴史や文化を直接語ってくれる存在として貴重なものです。
概要
国東塔の総数は約500基といわれ、その分布は大分県内北部から西部にも及ぶが、約9割が国東半島に集中している。国東塔が造られた目的は、納経、家門の繁栄祈願、墓標、逆修(死後の冥福を祈って生前に仏事を行うこと)などのためとされる。
鎌倉時代後期の弘安6年(1283年)の銘がある岩戸寺の国東塔が在銘最古のものであり[3]、以降、南北朝時代、室町時代を経て、江戸時代に至るまでの様々な時代の国東塔が確認されている。
国東塔という名は、京都帝国大学の天沼俊一が1912年(明治45年)に富貴寺大堂の修理に国東半島を訪れた際に、一帯に特異な形式の宝塔が分布していることを知り、地名に因んで名づけたものである。
地元古老には『いぐりんさん』と呼ばれている。
岩戸寺(いわとじ)宝塔
財前家(ざいぜんけ)宝塔(国東塔)
照恩寺(しょうおんじ)宝塔
主要な国東塔
重要文化財(国指定)
照恩寺(しょうおんじ)宝塔 - 正和5年(1316年) 国東市武蔵町三井寺(昭和8年1月23日指定)
岩戸寺(いわとじ)宝塔 - 弘安6年(1283年) 国東市国東町岩戸寺(昭和8年1月23日指定)
長木家(ちょうきけ)宝塔 - 元亨元年(1321年) 国東市国東町東堅来(昭和29年3月20日指定)
宝塔(国東塔) - 元徳2年(1330年) 杵築市大田石丸(昭和29年3月20日指定)
財前家(ざいぜんけ)宝塔(国東塔) - 元応3年(1321年) 杵築市大田小野(昭和29年3月20日指定)
宝塔(国東塔) - 建武2年(1335年) 国東市安岐町朝来(昭和29年3月20日指定)
長木家(ちょうきけ)宝塔
国東塔とは「宝塔」の塔身に蓮華座が備えられたものをいい、すらりと縦に長い姿が美しい、国東半島独自の発展を遂げた石塔です。古い国東塔は単なる墓標ではなく、生前供養・追善供養・一族や寺門の繁栄のためにつくられたものも多く、数百年単位で位置の変更が無いものもあることから、仏の里・豊後高田市の歴史や文化を直接語ってくれる存在として貴重なものです。
概要
国東塔の総数は約500基といわれ、その分布は大分県内北部から西部にも及ぶが、約9割が国東半島に集中している。国東塔が造られた目的は、納経、家門の繁栄祈願、墓標、逆修(死後の冥福を祈って生前に仏事を行うこと)などのためとされる。
鎌倉時代後期の弘安6年(1283年)の銘がある岩戸寺の国東塔が在銘最古のものであり[3]、以降、南北朝時代、室町時代を経て、江戸時代に至るまでの様々な時代の国東塔が確認されている。
国東塔という名は、京都帝国大学の天沼俊一が1912年(明治45年)に富貴寺大堂の修理に国東半島を訪れた際に、一帯に特異な形式の宝塔が分布していることを知り、地名に因んで名づけたものである。
地元古老には『いぐりんさん』と呼ばれている。
岩戸寺(いわとじ)宝塔
財前家(ざいぜんけ)宝塔(国東塔)
照恩寺(しょうおんじ)宝塔
主要な国東塔
重要文化財(国指定)
照恩寺(しょうおんじ)宝塔 - 正和5年(1316年) 国東市武蔵町三井寺(昭和8年1月23日指定)
岩戸寺(いわとじ)宝塔 - 弘安6年(1283年) 国東市国東町岩戸寺(昭和8年1月23日指定)
長木家(ちょうきけ)宝塔 - 元亨元年(1321年) 国東市国東町東堅来(昭和29年3月20日指定)
宝塔(国東塔) - 元徳2年(1330年) 杵築市大田石丸(昭和29年3月20日指定)
財前家(ざいぜんけ)宝塔(国東塔) - 元応3年(1321年) 杵築市大田小野(昭和29年3月20日指定)
宝塔(国東塔) - 建武2年(1335年) 国東市安岐町朝来(昭和29年3月20日指定)
2023年09月25日
大洲城(おおずじょう)は、四国の伊予国喜多郡大洲(現・愛媛県大洲市大洲)にあった日本の城
大洲城(おおずじょう)は、四国の伊予国喜多郡大洲(現・愛媛県大洲市大洲)にあった日本の城である。別名としては地蔵ヶ嶽城、比志城、大津城(大洲の旧称)などがある。
概要
大洲の地は、伊予を南北につなぐ大洲街道・宇和島街道の結節点にあり、また東には四国山脈を抜けて土佐国に出る街道がある。また、すぐ西には大洲の外港とも言える八幡浜(現・八幡浜市)があり、大洲は歴史的にはやや鄙びた立地ながらも交通の要衝と言える場所にあった。伊予宇都宮氏が創建した当初は、肱川と久米川の合流点にあたる地蔵ヶ岳に築城したことから地蔵ヶ岳城と呼ばれた。
江戸時代初期、藤堂高虎らによって大規模に修築がなされ、近世城郭としての体裁を整えた。伊予大洲藩の政治と経済の中心地として城下町は繁栄していた。また、明治維新後から現在に至る地元住民の城郭への保護活動と、平成16年(2004年)に主に市民による寄付によって完成往時を忠実に復元した4重4階の天守も特筆すべき点である。江戸時代から残る台所櫓・南隅櫓など4棟の櫓が国の重要文化財、城跡一帯が県指定史跡に指定されている。
歴史・沿革
この地に初めて築城したのは、鎌倉時代末期に守護として国入りした伊予宇都宮氏の宇都宮豊房で、元徳3年/元弘元年(1331年)のことであると伝わる。
豊房には子がなく筑後宇都宮氏の宇都宮貞泰の子の宇都宮宗泰を養子に迎えた。伊予宇都宮氏はその後、国人として二百数十年間にわたって南伊予を中心に支配を行うが、永禄の末期に毛利氏の伊予出兵によって降伏した。天正初年に土佐の長宗我部元親と通じた家臣の大野直之によって大洲城を追われた。しかし天正13年(1585年)にはその大野直之も豊臣秀吉の意を受けた小早川隆景によって攻め滅ぼされ、その小早川隆景が35万石で伊予に入封し、大洲城は一支城となった。
その後は戸田勝隆が城主として入ったが、文禄4年(1595年)に藤堂高虎が入城すると近世の城郭として整備された。江戸時代初期の慶長14年(1609年)には淡路の洲本から脇坂安治が転封され、この2人の時代に天守をはじめとする建造物が造営された。
また脇坂安治の時代に従来の「大津」から現在の「大洲」に城名が変更(異説あり)された。元和3年(1617年)に伯耆米子から6万石で加藤貞泰が入り、以後は加藤氏が12代に亘り大洲藩主として治め、明治維新を迎えた。
現地情報
アクセス
JR予讃線: 伊予大洲駅から徒歩約20分
伊予大洲駅観光案内所にレンタサイクルあり
同・伊予大洲駅から市内循環バス(ぐるりんおおず)「市立大津病院行き」に乗り「大洲城前」バス停下車、本丸まで徒歩5分
松山自動車道・大洲ICから約10分
天守観覧
開館時間: 9時〜17時
休館日: 12月29日〜31日
観覧料: 大人500円、小人(中学生以下)200円
臥龍山荘との共通観覧券: 大人800円、小人300円
5歳以下の幼児、高齢者手帳もしくは身体障害者手帳の所持者とその付添いは無料。団体割引あり。
別名 比志城、地蔵ヶ嶽城、大津城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 複合連結式層塔型(1609年・非現存)(2004年・木造復元)
築城主 宇都宮豊房
築城年 元徳3年(1331年)
主な改修者 藤堂高虎、脇坂安治、加藤貞泰
主な城主 宇都宮氏、藤堂氏、脇坂氏
加藤氏
廃城年 明治3年(1871年)
遺構 櫓、石垣、堀、台所
指定文化財 重要文化財(台所櫓・南隅櫓・
高欄櫓・苧綿櫓)、県指定有形文化財(下台所)、県史跡
再建造物 天守・多聞
位置 北緯33度30分34.34秒 東経132度32分28.07秒
概要
大洲の地は、伊予を南北につなぐ大洲街道・宇和島街道の結節点にあり、また東には四国山脈を抜けて土佐国に出る街道がある。また、すぐ西には大洲の外港とも言える八幡浜(現・八幡浜市)があり、大洲は歴史的にはやや鄙びた立地ながらも交通の要衝と言える場所にあった。伊予宇都宮氏が創建した当初は、肱川と久米川の合流点にあたる地蔵ヶ岳に築城したことから地蔵ヶ岳城と呼ばれた。
江戸時代初期、藤堂高虎らによって大規模に修築がなされ、近世城郭としての体裁を整えた。伊予大洲藩の政治と経済の中心地として城下町は繁栄していた。また、明治維新後から現在に至る地元住民の城郭への保護活動と、平成16年(2004年)に主に市民による寄付によって完成往時を忠実に復元した4重4階の天守も特筆すべき点である。江戸時代から残る台所櫓・南隅櫓など4棟の櫓が国の重要文化財、城跡一帯が県指定史跡に指定されている。
歴史・沿革
この地に初めて築城したのは、鎌倉時代末期に守護として国入りした伊予宇都宮氏の宇都宮豊房で、元徳3年/元弘元年(1331年)のことであると伝わる。
豊房には子がなく筑後宇都宮氏の宇都宮貞泰の子の宇都宮宗泰を養子に迎えた。伊予宇都宮氏はその後、国人として二百数十年間にわたって南伊予を中心に支配を行うが、永禄の末期に毛利氏の伊予出兵によって降伏した。天正初年に土佐の長宗我部元親と通じた家臣の大野直之によって大洲城を追われた。しかし天正13年(1585年)にはその大野直之も豊臣秀吉の意を受けた小早川隆景によって攻め滅ぼされ、その小早川隆景が35万石で伊予に入封し、大洲城は一支城となった。
その後は戸田勝隆が城主として入ったが、文禄4年(1595年)に藤堂高虎が入城すると近世の城郭として整備された。江戸時代初期の慶長14年(1609年)には淡路の洲本から脇坂安治が転封され、この2人の時代に天守をはじめとする建造物が造営された。
また脇坂安治の時代に従来の「大津」から現在の「大洲」に城名が変更(異説あり)された。元和3年(1617年)に伯耆米子から6万石で加藤貞泰が入り、以後は加藤氏が12代に亘り大洲藩主として治め、明治維新を迎えた。
現地情報
アクセス
JR予讃線: 伊予大洲駅から徒歩約20分
伊予大洲駅観光案内所にレンタサイクルあり
同・伊予大洲駅から市内循環バス(ぐるりんおおず)「市立大津病院行き」に乗り「大洲城前」バス停下車、本丸まで徒歩5分
松山自動車道・大洲ICから約10分
天守観覧
開館時間: 9時〜17時
休館日: 12月29日〜31日
観覧料: 大人500円、小人(中学生以下)200円
臥龍山荘との共通観覧券: 大人800円、小人300円
5歳以下の幼児、高齢者手帳もしくは身体障害者手帳の所持者とその付添いは無料。団体割引あり。
別名 比志城、地蔵ヶ嶽城、大津城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 複合連結式層塔型(1609年・非現存)(2004年・木造復元)
築城主 宇都宮豊房
築城年 元徳3年(1331年)
主な改修者 藤堂高虎、脇坂安治、加藤貞泰
主な城主 宇都宮氏、藤堂氏、脇坂氏
加藤氏
廃城年 明治3年(1871年)
遺構 櫓、石垣、堀、台所
指定文化財 重要文化財(台所櫓・南隅櫓・
高欄櫓・苧綿櫓)、県指定有形文化財(下台所)、県史跡
再建造物 天守・多聞
位置 北緯33度30分34.34秒 東経132度32分28.07秒
2023年09月24日
岩屋寺(いわやでら)は、愛知県知多郡南知多町にある寺院
岩屋寺(いわやでら)は、愛知県知多郡南知多町にある寺院。尾張高野山宗の総本山である。山号は大慈山。別名岩屋観音。本尊は千手観音菩薩。知多西国三十三所霊場第1番・知多四国霊場第43番札所。
本堂
歴史
伝承によれば、霊亀元年(715年)元正天皇の勅願所として、行基菩薩によって創建されたとされ、かつては千眼光寺とも号したという。大同3年(808年)に弘法大師空海がこの寺の「奥之院」を開いたともされる。本堂はたびたび火災で焼失し、文化年間(1804年 - 1818年)に尾張藩主・徳川斉朝の依頼により、天台宗の密教僧である豪潮律師によって再興された。
寺所は「大本堂」、「奥之院」の二ヶ寺に加え、裏山の山頂にある空海の修行大師大仏と不動明王などの五仏の霊所からなる。裏山の大師ヶ嶽の参道には、豪潮律師が開眼したと伝える石仏群の八十八大師像と五百羅漢像があり、これにより地元には空海への大師信仰が興ったとされる。
昭和26年(1951年)には天台宗から独立して一派をなし、尾張高野山宗を称した。
岩屋寺境内
文化財
重要文化財(国指定)
金銅法具類(五鈷杵:1、五鈷鈴:1、金剛盤:1、火舎:1、花瓶(けびょう):2、灑水器(しゃすいき):1、塗香器(ずこうき):1、飲食器(おんじきき):1、六器:6)
大蔵経:5,463帖(宋版:5,157帖、和版:111帖、写本:195帖) - 宝徳3年(1451年)、大野城主佐治盛光の寄進。
附 宝徳三年目録:2帖、目録残巻:1巻、千賀重親筆書状:1通、智鋒筆修補大蔵経願文:1通
奥之院
アクセス
名鉄知多新線 内海駅と師崎港を結ぶ知多バス西海岸線の路線バスの本数が少なく、特定日のみ内海駅からの直行バスが運行されていたが、2010年(平成22年)秋に知多乗合が内海地区から撤退し、直行バスは廃止。路線バスは地元のコミュニティバス(海っ子バス)に引き継がれている。岩屋寺経由は2017年(平成29年)秋のダイヤ改正で土休日のみの運行で、上り下り各5便となった。
弘法大師像
所在地 愛知県知多郡南知多町山海字間草109番地
位置 北緯34度43分48.47秒 東経136度54分45.79秒
山号 大慈山
宗旨 尾張高野山宗
寺格 総本山
本尊 千手観世音菩薩
創建年 (伝)霊亀元年(715年)
開基 (伝)行基
中興年 文化年間(1804年 - 1818年)
中興 豪潮
別称 巌窟寺、岩屋観音
札所等 知多西国三十三所霊場1番
知多四国霊場43番
東海西国三十三ヶ所霊場10番
文化財 大蔵経、金銅法具類(重要文化財)
公式サイト 尾張高野山宗大本山 岩屋寺
本堂
歴史
伝承によれば、霊亀元年(715年)元正天皇の勅願所として、行基菩薩によって創建されたとされ、かつては千眼光寺とも号したという。大同3年(808年)に弘法大師空海がこの寺の「奥之院」を開いたともされる。本堂はたびたび火災で焼失し、文化年間(1804年 - 1818年)に尾張藩主・徳川斉朝の依頼により、天台宗の密教僧である豪潮律師によって再興された。
寺所は「大本堂」、「奥之院」の二ヶ寺に加え、裏山の山頂にある空海の修行大師大仏と不動明王などの五仏の霊所からなる。裏山の大師ヶ嶽の参道には、豪潮律師が開眼したと伝える石仏群の八十八大師像と五百羅漢像があり、これにより地元には空海への大師信仰が興ったとされる。
昭和26年(1951年)には天台宗から独立して一派をなし、尾張高野山宗を称した。
岩屋寺境内
文化財
重要文化財(国指定)
金銅法具類(五鈷杵:1、五鈷鈴:1、金剛盤:1、火舎:1、花瓶(けびょう):2、灑水器(しゃすいき):1、塗香器(ずこうき):1、飲食器(おんじきき):1、六器:6)
大蔵経:5,463帖(宋版:5,157帖、和版:111帖、写本:195帖) - 宝徳3年(1451年)、大野城主佐治盛光の寄進。
附 宝徳三年目録:2帖、目録残巻:1巻、千賀重親筆書状:1通、智鋒筆修補大蔵経願文:1通
奥之院
アクセス
名鉄知多新線 内海駅と師崎港を結ぶ知多バス西海岸線の路線バスの本数が少なく、特定日のみ内海駅からの直行バスが運行されていたが、2010年(平成22年)秋に知多乗合が内海地区から撤退し、直行バスは廃止。路線バスは地元のコミュニティバス(海っ子バス)に引き継がれている。岩屋寺経由は2017年(平成29年)秋のダイヤ改正で土休日のみの運行で、上り下り各5便となった。
弘法大師像
所在地 愛知県知多郡南知多町山海字間草109番地
位置 北緯34度43分48.47秒 東経136度54分45.79秒
山号 大慈山
宗旨 尾張高野山宗
寺格 総本山
本尊 千手観世音菩薩
創建年 (伝)霊亀元年(715年)
開基 (伝)行基
中興年 文化年間(1804年 - 1818年)
中興 豪潮
別称 巌窟寺、岩屋観音
札所等 知多西国三十三所霊場1番
知多四国霊場43番
東海西国三十三ヶ所霊場10番
文化財 大蔵経、金銅法具類(重要文化財)
公式サイト 尾張高野山宗大本山 岩屋寺
2023年09月23日
旧朴舘家住宅(きゅうほおのきだてけじゅうたく)は、岩手県二戸郡一戸町小鳥谷にある歴史的建造物(民家)
旧朴舘家住宅(きゅうほおのきだてけじゅうたく)は、岩手県二戸郡一戸町小鳥谷にある歴史的建造物(民家)。
概要
朴舘家の由来については判然としない。主屋は文久2年(1862年)に建てられたとされる、桁行(間口)29.9メートル、梁間(奥行き)16.4メートル、総面積150坪の岩手県内最大規模の茅葺き民家である。南部藩領域内の特徴的な民家曲屋と同じく建物内に住居部分と馬屋部分を併せ持つが、曲屋とは異なり馬屋部分が突出しない長方形平面の直屋(すごや)である。平成2年5月1日に岩手県の有形文化財に指定され、平成23年11月29日、国の重要文化財に指定された。
主屋は寄棟造、茅葺きで東を正面として建つ。下手(北側)をニワ(土間)、上手(南側)を床上部とし、全体の約4割をニワが占める。ニワの一部を壁で仕切ってマヤ(馬屋)とする。床上部は3列に部屋を並べる。ニワに接した列は「ダイドコ」と「ハシリ」、その次の列には「ジョイ」(常居)と「ナンド」と称する部屋がある。「ジョイ」は手前寄りの一部を板敷きとするほか畳敷き、「ダイドコ」「ハシリ」「ナンド」の3室は板敷きである。「ダイドコ」前面には式台を設ける。これらの上手には手前から「シタザシキ」「ナカザシキ」「オクザシキ」と称する3室続きの座敷を設ける。この建物は規模が大きい、幕末の上層農家の主屋の遺例として貴重である。
主屋の西側に建つ土蔵は、墨書から明治16年(1883年)頃の建築とみられる。主屋、土蔵の2棟と土地が重要文化財に指定されている。
交通アクセス
IGRいわて銀河鉄道小鳥谷駅から盛岡方面に車で5分
概要
朴舘家の由来については判然としない。主屋は文久2年(1862年)に建てられたとされる、桁行(間口)29.9メートル、梁間(奥行き)16.4メートル、総面積150坪の岩手県内最大規模の茅葺き民家である。南部藩領域内の特徴的な民家曲屋と同じく建物内に住居部分と馬屋部分を併せ持つが、曲屋とは異なり馬屋部分が突出しない長方形平面の直屋(すごや)である。平成2年5月1日に岩手県の有形文化財に指定され、平成23年11月29日、国の重要文化財に指定された。
主屋は寄棟造、茅葺きで東を正面として建つ。下手(北側)をニワ(土間)、上手(南側)を床上部とし、全体の約4割をニワが占める。ニワの一部を壁で仕切ってマヤ(馬屋)とする。床上部は3列に部屋を並べる。ニワに接した列は「ダイドコ」と「ハシリ」、その次の列には「ジョイ」(常居)と「ナンド」と称する部屋がある。「ジョイ」は手前寄りの一部を板敷きとするほか畳敷き、「ダイドコ」「ハシリ」「ナンド」の3室は板敷きである。「ダイドコ」前面には式台を設ける。これらの上手には手前から「シタザシキ」「ナカザシキ」「オクザシキ」と称する3室続きの座敷を設ける。この建物は規模が大きい、幕末の上層農家の主屋の遺例として貴重である。
主屋の西側に建つ土蔵は、墨書から明治16年(1883年)頃の建築とみられる。主屋、土蔵の2棟と土地が重要文化財に指定されている。
交通アクセス
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