旧山崎家別邸(きゅう やまざきけべってい)は、埼玉県川越市に所在する建築物である。大正末期から昭和初期にかけての日本における住宅の近代化の過程を示す歴史的価値を有するとして、2019年に母屋部分が重要文化財に指定された。
埼玉県川越市、旧山崎家別邸
建築
1925年(大正14年)、市内の菓子商亀屋の五代目の山崎嘉七の隠居所として建てられた。保岡勝也が設計を手掛け、2階建の洋館の母屋に平屋の和館と2階建の土蔵が接続した造りをもつ。母屋は木造モルタル仕上げ洋風屋根葺で、1階外壁は吹付モルタル仕上げ、2階は細い横目地の磨き壁に仕上げており、和館との調和が図られている。嘉七の隠居所としてだけでなく川越の私的迎賓館としての性格を持ち、陸軍の演習を観閲に訪れた皇族が宿泊することもあった。館内は和風・洋風の接客室が機能的な動線で結ばれている。色鮮やかなステンドグラスも特徴の一つで、2階へと続く階段には小川三知の作品である「泰山木とブルージェ」、階下には水辺の植物が描かれている。各客室の窓のステンドグラスは別府七郎による図案である。
保岡は、1928年に「茶室と茶庭」を著すほど日本庭園に造詣が深く、山崎家別邸でもその知識を発揮した。和室の畳廊下の南側には緩く高低差を付けた庭を見渡すことができ、石灯籠と四季の花がアクセントを添える。1924年の図面によると、母屋の東側には芝生の児童遊技場、その北側には温室と花壇があり、茶室の位置は、現在とは若干異なっていた。
川越伝統的建造物群保存地区の東側に位置し、2000年(平成12年)に主屋・茶室・腰掛待合が川越市指定有形文化財に指定された。2006年に、建物が市に寄贈される。2011年2月に庭園が国の登録記念物に登録され、2019年9月30日には母屋が国重要文化財に指定された。館内は母屋2階や土蔵など一部を除き一般公開されている。
旧山崎家別邸のステンドグラス。小川三知の「泰山木とブルージェ」
南側の庭園より、洋館のバルコニーを望む
所在地 埼玉県川越市松江町2-7-8
位置 北緯35度55分18.6秒 東経139度29分03.9秒
形式・構造 木造瓦葺き2階建
敷地面積 2300m2
延床面積 250m2
建築年 1925年
文化財 母屋:重要文化財
庭園:登録記念物
2023年10月22日
2023年10月21日
一條神社(いちじょうじんじゃ)は、高知県四万十市中村本町にある神社
一條神社(いちじょうじんじゃ)は、高知県四万十市中村本町にある神社。旧社格は県社。神紋は「下り藤」。
旧中村市中心部、小森山の山上の一条氏御所跡に鎮座する、土佐一条氏の祖先神と一族を祀る神社である。
天神社(左)・本社拝殿(右)
祭神
若藤男命
若藤女命
一条教房と土佐一条氏歴代当主及び連枝の霊
歴史
現在の社殿地には、戦国時代に当地を支配し中村市街地の基礎を築いた土佐一条氏の中村御所があった。一条氏の滅亡後に御所は荒廃したが、その跡に1607年(慶長12年)に一条氏遺臣により歴代当主の霊を祀る祠が建てられたのが当社の起源となる。
その後、1862年(文久2年)になって土佐藩の幡多郡奉行らにより幡多郡総鎮守として社殿が造営され、一條神社として改めて建立された。
現在の本殿は1944年(昭和19年)の建立である。
一條神社 鳥居
交通アクセス
鉄道:土佐くろしお鉄道中村線 中村駅(車で約5分)
バス:高知西南交通バスで「市役所前」バス停下車(下車後徒歩約3分)
所在地 高知県四万十市中村本町1-3
位置 北緯32度59分37.01秒 東経132度56分03.18秒
主祭神 若藤男命
若藤女命
一条教房と土佐一条氏歴代当主及び連枝の霊
社格等 旧県社
創建 文久2年(1862年)
別名 いちじょこさん
例祭 11月23日-11月25日(一條大祭)
旧中村市中心部、小森山の山上の一条氏御所跡に鎮座する、土佐一条氏の祖先神と一族を祀る神社である。
天神社(左)・本社拝殿(右)
祭神
若藤男命
若藤女命
一条教房と土佐一条氏歴代当主及び連枝の霊
歴史
現在の社殿地には、戦国時代に当地を支配し中村市街地の基礎を築いた土佐一条氏の中村御所があった。一条氏の滅亡後に御所は荒廃したが、その跡に1607年(慶長12年)に一条氏遺臣により歴代当主の霊を祀る祠が建てられたのが当社の起源となる。
その後、1862年(文久2年)になって土佐藩の幡多郡奉行らにより幡多郡総鎮守として社殿が造営され、一條神社として改めて建立された。
現在の本殿は1944年(昭和19年)の建立である。
一條神社 鳥居
交通アクセス
鉄道:土佐くろしお鉄道中村線 中村駅(車で約5分)
バス:高知西南交通バスで「市役所前」バス停下車(下車後徒歩約3分)
所在地 高知県四万十市中村本町1-3
位置 北緯32度59分37.01秒 東経132度56分03.18秒
主祭神 若藤男命
若藤女命
一条教房と土佐一条氏歴代当主及び連枝の霊
社格等 旧県社
創建 文久2年(1862年)
別名 いちじょこさん
例祭 11月23日-11月25日(一條大祭)
2023年10月20日
阿久沢家住宅(あくざわけじゅうたく)は、群馬県前橋市柏倉町にある古民家
阿久沢家住宅(あくざわけじゅうたく)は、群馬県前橋市柏倉町にある古民家。1970年(昭和45年)6月17日、国の重要文化財に指定。
概要
阿久沢家は安部宗任の後裔と伝え、当家の保存する文書には、永禄9年(1566年)11月15日に北条高広が三夜沢赤城神社神主奈良原紀伊守に宛てて「阿久澤源三郎」らに永代寄進させる内容の書状が存在する。当家周辺に多い阿久沢家の本家筋にあたり、江戸時代初期頃から名主を務めた。
建築年代を示す史料は見つかっていないが、赤城山南麓地域にみられる赤城型民家よりも古い形式で、建築手法から17世紀末の建造と推定できる。
構造
形式・規模
形式 平屋建、寄棟造、茅葺
桁行 15.3メートル
梁間 8.2メートル
正面(南面)土庇付
間取り
東半分を土間、西半分を床上とする。床上の東側を「ザシキ」、西側南を「コザ」、西側北を「ヘヤ」(ナンド、オク、オサンベヤ)とする「三間取広間型」を呈する。東・北・西面には一切開口部がなく、南面も戸袋を用いないため、開口部は狭く閉鎖的で、内部は非常に暗かった。
土間部分が床上部分に比べてかなり広い点、入口近くに「袖すり柱」を有する点、開口部が少ない点、柱が全て手斧仕上げである点等に古い特徴が見られる。
棟は、屋根上部を土葺としてノシバ・イチハツ(アヤメ類)・イワヒバ等の植物を植える「クレグシ」となっている。
所在地 群馬県前橋市柏倉町604-1
位置 北緯36度27分4.6秒 東経139度10分6.3秒
形式・構造 茅葺寄棟造り
建築年 17世紀末
文化財 国の重要文化財
概要
阿久沢家は安部宗任の後裔と伝え、当家の保存する文書には、永禄9年(1566年)11月15日に北条高広が三夜沢赤城神社神主奈良原紀伊守に宛てて「阿久澤源三郎」らに永代寄進させる内容の書状が存在する。当家周辺に多い阿久沢家の本家筋にあたり、江戸時代初期頃から名主を務めた。
建築年代を示す史料は見つかっていないが、赤城山南麓地域にみられる赤城型民家よりも古い形式で、建築手法から17世紀末の建造と推定できる。
構造
形式・規模
形式 平屋建、寄棟造、茅葺
桁行 15.3メートル
梁間 8.2メートル
正面(南面)土庇付
間取り
東半分を土間、西半分を床上とする。床上の東側を「ザシキ」、西側南を「コザ」、西側北を「ヘヤ」(ナンド、オク、オサンベヤ)とする「三間取広間型」を呈する。東・北・西面には一切開口部がなく、南面も戸袋を用いないため、開口部は狭く閉鎖的で、内部は非常に暗かった。
土間部分が床上部分に比べてかなり広い点、入口近くに「袖すり柱」を有する点、開口部が少ない点、柱が全て手斧仕上げである点等に古い特徴が見られる。
棟は、屋根上部を土葺としてノシバ・イチハツ(アヤメ類)・イワヒバ等の植物を植える「クレグシ」となっている。
所在地 群馬県前橋市柏倉町604-1
位置 北緯36度27分4.6秒 東経139度10分6.3秒
形式・構造 茅葺寄棟造り
建築年 17世紀末
文化財 国の重要文化財
2023年10月19日
西巌殿寺(さいがんでんじ)は、熊本県阿蘇市黒川にある天台宗の寺院
西巌殿寺(さいがんでんじ)は、熊本県阿蘇市黒川にある天台宗の寺院。山号は阿蘇山。古くから阿蘇山修験道の拠点として機能し、九州の天台宗の中で最高位の寺格を持つ寺院のひとつである。
本堂は2001年に火災で焼失し礎石のみ残るが、山門をくぐり石段を登った本堂跡には阿蘇檜や公孫樹の古木が見られる。周辺には僧坊跡が点在し、多くの文化財が保管されている。
歴史
開基には二説ある。寺院が採る726年(神亀3年)説は、天竺毘舎衛国から渡来した僧・最栄が聖武天皇の勅願を受け、阿蘇山上に上り阿蘇明神・建磐龍命(たていわたつのみこと)を感得したとするものである。1144年(天養元年)説は、比叡山の慈恵大師良源の弟子・最栄が阿蘇神社大宮司友孝の許しを得て、阿蘇山上に上ったとする説である。どちらの説にも共通するのは、阿蘇山の火口の西の巌殿に十一面観音菩薩を安置して庵(山上本堂)を開き、絶えず法華経を読誦したため「最栄読師(さいえいとくし)」と呼ばれたとするものである。
阿蘇山上に最栄が庵を開いてから、多くの修行僧、修験者が阿蘇山上に集まった。それらの人々は現在の旧阿蘇山スキー場一帯の牧野に当たる地に坊舎を建て、厳しい環境の中で修行に励んだ。その数は三十六坊五十二庵と言われる。西巌殿寺とは、本堂に加えこれら坊や庵を加えた総称である。
しかしこの本堂や古坊中は、天正年間(1573年 – 1592年)に島津と大友の戦乱時に軍勢によって焼き払われてしまい、豊臣秀吉の九州統一時には宗徒や行者なども寺を去ったと伝わる。これを再興させたのが、肥後に入部した加藤清正だった。各地に散った僧侶たちを呼び戻し、山上本堂を修復するとともに麓の黒川村(現在の阿蘇市黒川)に三十六坊を復興させた。この黒川の坊は「麓(ふもと)坊中」と呼ばれ、地名も「坊中」と改められた。これに対応して、阿蘇山上の坊舎跡は「古坊中」と名称が改められた。さらに寺領も附されるなど、熊本藩の庇護は細川家時代になっても続いた。この再興には長善坊契雅という法師の尽力が功を奏したとも言われる。江戸時代には「阿蘇講」と呼ばれる観光・修験道体験が行われたり「牛王法印」の札販売などで賑わった。
明治政府が発した神仏分離令によって、西巌殿寺は廃寺が決まり、ほとんどの僧侶は還俗した。しかし1871年(明治4年)に山上本堂を麓坊中のひとつ学頭坊に移し、1874年(明治7年)には学頭坊を西巌殿寺(麓本堂)とすることで法灯は継承された。1890年(明治23年)には古跡保存のために山上本堂(奥の院)が再建された。2001年(平成13年)9月22日午後8時40分頃、不審火により麓本堂が焼失する事件が起きたが、僧坊などに保存された貴重な文化財とともに信仰を継承している。
アクセス
阿蘇登山道路坊中線を阿蘇五岳に向かい南下すると、道路沿い右手に位置する。
JR豊肥本線 阿蘇駅から徒歩5〜10分
九州産交バス、大分バス 阿蘇駅前バス停留所から徒歩5〜10分
所在地 熊本県阿蘇市黒川1114
位置 北緯32度55分53.8秒 東経131度4分45.3秒
山号 阿蘇山
宗派 天台宗
本尊 十一面観音菩薩
創建年 未詳(伝承では726年または1144年)
開基 最栄
正式名 阿蘇山西巌殿寺
別称 雲生山西巌殿寺
札所等 九州西国霊場13番
九州四十九院薬師霊場30番
肥後三十三ヵ所観音霊場1番
阿蘇西国三十三ヵ所霊場1番
本堂は2001年に火災で焼失し礎石のみ残るが、山門をくぐり石段を登った本堂跡には阿蘇檜や公孫樹の古木が見られる。周辺には僧坊跡が点在し、多くの文化財が保管されている。
歴史
開基には二説ある。寺院が採る726年(神亀3年)説は、天竺毘舎衛国から渡来した僧・最栄が聖武天皇の勅願を受け、阿蘇山上に上り阿蘇明神・建磐龍命(たていわたつのみこと)を感得したとするものである。1144年(天養元年)説は、比叡山の慈恵大師良源の弟子・最栄が阿蘇神社大宮司友孝の許しを得て、阿蘇山上に上ったとする説である。どちらの説にも共通するのは、阿蘇山の火口の西の巌殿に十一面観音菩薩を安置して庵(山上本堂)を開き、絶えず法華経を読誦したため「最栄読師(さいえいとくし)」と呼ばれたとするものである。
阿蘇山上に最栄が庵を開いてから、多くの修行僧、修験者が阿蘇山上に集まった。それらの人々は現在の旧阿蘇山スキー場一帯の牧野に当たる地に坊舎を建て、厳しい環境の中で修行に励んだ。その数は三十六坊五十二庵と言われる。西巌殿寺とは、本堂に加えこれら坊や庵を加えた総称である。
しかしこの本堂や古坊中は、天正年間(1573年 – 1592年)に島津と大友の戦乱時に軍勢によって焼き払われてしまい、豊臣秀吉の九州統一時には宗徒や行者なども寺を去ったと伝わる。これを再興させたのが、肥後に入部した加藤清正だった。各地に散った僧侶たちを呼び戻し、山上本堂を修復するとともに麓の黒川村(現在の阿蘇市黒川)に三十六坊を復興させた。この黒川の坊は「麓(ふもと)坊中」と呼ばれ、地名も「坊中」と改められた。これに対応して、阿蘇山上の坊舎跡は「古坊中」と名称が改められた。さらに寺領も附されるなど、熊本藩の庇護は細川家時代になっても続いた。この再興には長善坊契雅という法師の尽力が功を奏したとも言われる。江戸時代には「阿蘇講」と呼ばれる観光・修験道体験が行われたり「牛王法印」の札販売などで賑わった。
明治政府が発した神仏分離令によって、西巌殿寺は廃寺が決まり、ほとんどの僧侶は還俗した。しかし1871年(明治4年)に山上本堂を麓坊中のひとつ学頭坊に移し、1874年(明治7年)には学頭坊を西巌殿寺(麓本堂)とすることで法灯は継承された。1890年(明治23年)には古跡保存のために山上本堂(奥の院)が再建された。2001年(平成13年)9月22日午後8時40分頃、不審火により麓本堂が焼失する事件が起きたが、僧坊などに保存された貴重な文化財とともに信仰を継承している。
アクセス
阿蘇登山道路坊中線を阿蘇五岳に向かい南下すると、道路沿い右手に位置する。
JR豊肥本線 阿蘇駅から徒歩5〜10分
九州産交バス、大分バス 阿蘇駅前バス停留所から徒歩5〜10分
所在地 熊本県阿蘇市黒川1114
位置 北緯32度55分53.8秒 東経131度4分45.3秒
山号 阿蘇山
宗派 天台宗
本尊 十一面観音菩薩
創建年 未詳(伝承では726年または1144年)
開基 最栄
正式名 阿蘇山西巌殿寺
別称 雲生山西巌殿寺
札所等 九州西国霊場13番
九州四十九院薬師霊場30番
肥後三十三ヵ所観音霊場1番
阿蘇西国三十三ヵ所霊場1番
2023年10月18日
賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)は、京都市左京区下鴨泉川町にある神社
賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)は、京都市左京区下鴨泉川町にある神社。通称は下鴨神社(しもがもじんじゃ)。式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
国際連合教育科学文化機関(UNESCO=ユネスコ)の世界遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されている。
賀茂御祖神社(下鴨神社) 楼門
概要
賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに賀茂県主氏の氏神を祀る神社であり、両社は賀茂神社(賀茂社)と総称される。両社で催す賀茂祭(通称 葵祭)で有名。
本殿には、右に賀茂別雷命(上賀茂神社祭神)の母の玉依姫命、左に玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀るため「賀茂御祖神社」と呼ばれる。金鵄および八咫烏は賀茂建角身命の化身である。
境内に糺の森(ただすのもり)、御手洗川、みたらし池がある。
神社は2つの川の合流点から一直線に伸びた参道と、その正面に神殿、という直線的な配置になっている。
御手洗社の水は葵祭の斎王代清めの聖水である。現存。飲料可。
御手洗社
祭神
東殿 - 玉依姫命(たまよりひめのみこと)。賀茂別雷命(上賀茂神社の祭神)の母。
西殿 - 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)。玉依姫命の父(賀茂別雷命の祖父)。
歴史
京都の社寺では最も古い部類に入る。社伝では、神武天皇の御代に御蔭山に祭神が降臨したという。また、崇神天皇7年に神社の瑞垣の修造の記録があるため、この頃の創建とする説がある。一説には、天平の頃に上賀茂神社から分置されたともされる。また一方、文献上の初見は『続日本後紀』承和15年(848)ともいう。
上賀茂神社とともに奈良時代以前から朝廷の崇敬を受けた。平安遷都の後はより一層の崇敬を受けるようになり、大同2年(807年)には最高位の正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。『延喜式神名帳』では「山城国愛宕郡 賀茂御祖神社二座」として名神大社に列し、名神・月次・相嘗・新嘗の各祭の幣帛に預ると記載される。弘仁元年(810年)以降約400年にわたり、斎院が置かれ、皇女が斎王として賀茂社に奉仕した。
明治の近代社格制度でも伊勢神宮に次いで、賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに官幣大社の筆頭とされ、1883年(明治16年)には勅祭社に定められた。1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列された。
1910年(明治43年)、旧制第三高等学校(京都大学の前身の1つ)の学生が、慶應義塾ラグビー部からラグビーの手ほどきを受け、糺の森馬場で練習が行われていた。日本で2番目となるラグビーチーム「第三高等学校嶽水会蹴球部」が創部され、後に京都大学ラグビー部となる。1969年(昭和44年)、それを記念する石碑「第一蹴の地」が京都大学ラグビー部OBによって雑太社(さわたしゃ)に建てられた。この石碑は「関西ラグビー発祥の地」であることも意味している。
1934年(昭和9年)9月21日、室戸台風の暴風雨により拝殿、楼門両脇の塀が倒壊する被害を受ける。
平安時代中期以降、21年毎に御神体を除く全ての建物を新しくする式年遷宮を行っていたが、本殿2棟が国宝に指定されたため、現在は一部を修復するのみである。
文化財
社殿のうち2棟が国宝、31棟が国の重要文化財に指定され、17棟が重要文化財の附(つけたり)指定となっている。
国宝
賀茂御祖神社 2棟(建造物)
東本殿。
西本殿。
東本殿 (国宝) (京都)
西本殿 (国宝) (京都)
本殿
交通アクセス
鉄道
最寄駅:京阪電鉄・叡山電鉄出町柳駅 (徒歩約10分)
バス
京都市営バス(1号・4号・205号系統)で、「下鴨神社前」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)
なお、「下鴨神社前」バス停は本殿に最寄りであるが、裏参道扱いの西参道からの参拝となる。糺の森を通る表参道からの参拝や、表参道入口近くの摂社・河合神社への参拝は、上記と同系統の「新葵橋」バス停が近い。
車
駐車場:有り
所在地 京都府京都市左京区下鴨泉川町59
位置 北緯35度2分20秒 東経135度46分21秒
主祭神 玉依姫命
賀茂建角身命
社格等 式内社(名神大)
山城国一宮
二十二社(上七社)
旧官幣大社
勅祭社
別表神社
創建 不詳
(崇神天皇7年頃?)
本殿の様式 流造
札所等 神仏霊場巡拝の道第101番(京都第21番)
例祭 5月15日(賀茂祭、葵祭)
国際連合教育科学文化機関(UNESCO=ユネスコ)の世界遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されている。
賀茂御祖神社(下鴨神社) 楼門
概要
賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに賀茂県主氏の氏神を祀る神社であり、両社は賀茂神社(賀茂社)と総称される。両社で催す賀茂祭(通称 葵祭)で有名。
本殿には、右に賀茂別雷命(上賀茂神社祭神)の母の玉依姫命、左に玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀るため「賀茂御祖神社」と呼ばれる。金鵄および八咫烏は賀茂建角身命の化身である。
境内に糺の森(ただすのもり)、御手洗川、みたらし池がある。
神社は2つの川の合流点から一直線に伸びた参道と、その正面に神殿、という直線的な配置になっている。
御手洗社の水は葵祭の斎王代清めの聖水である。現存。飲料可。
御手洗社
祭神
東殿 - 玉依姫命(たまよりひめのみこと)。賀茂別雷命(上賀茂神社の祭神)の母。
西殿 - 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)。玉依姫命の父(賀茂別雷命の祖父)。
歴史
京都の社寺では最も古い部類に入る。社伝では、神武天皇の御代に御蔭山に祭神が降臨したという。また、崇神天皇7年に神社の瑞垣の修造の記録があるため、この頃の創建とする説がある。一説には、天平の頃に上賀茂神社から分置されたともされる。また一方、文献上の初見は『続日本後紀』承和15年(848)ともいう。
上賀茂神社とともに奈良時代以前から朝廷の崇敬を受けた。平安遷都の後はより一層の崇敬を受けるようになり、大同2年(807年)には最高位の正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。『延喜式神名帳』では「山城国愛宕郡 賀茂御祖神社二座」として名神大社に列し、名神・月次・相嘗・新嘗の各祭の幣帛に預ると記載される。弘仁元年(810年)以降約400年にわたり、斎院が置かれ、皇女が斎王として賀茂社に奉仕した。
明治の近代社格制度でも伊勢神宮に次いで、賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに官幣大社の筆頭とされ、1883年(明治16年)には勅祭社に定められた。1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列された。
1910年(明治43年)、旧制第三高等学校(京都大学の前身の1つ)の学生が、慶應義塾ラグビー部からラグビーの手ほどきを受け、糺の森馬場で練習が行われていた。日本で2番目となるラグビーチーム「第三高等学校嶽水会蹴球部」が創部され、後に京都大学ラグビー部となる。1969年(昭和44年)、それを記念する石碑「第一蹴の地」が京都大学ラグビー部OBによって雑太社(さわたしゃ)に建てられた。この石碑は「関西ラグビー発祥の地」であることも意味している。
1934年(昭和9年)9月21日、室戸台風の暴風雨により拝殿、楼門両脇の塀が倒壊する被害を受ける。
平安時代中期以降、21年毎に御神体を除く全ての建物を新しくする式年遷宮を行っていたが、本殿2棟が国宝に指定されたため、現在は一部を修復するのみである。
文化財
社殿のうち2棟が国宝、31棟が国の重要文化財に指定され、17棟が重要文化財の附(つけたり)指定となっている。
国宝
賀茂御祖神社 2棟(建造物)
東本殿。
西本殿。
東本殿 (国宝) (京都)
西本殿 (国宝) (京都)
本殿
交通アクセス
鉄道
最寄駅:京阪電鉄・叡山電鉄出町柳駅 (徒歩約10分)
バス
京都市営バス(1号・4号・205号系統)で、「下鴨神社前」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)
なお、「下鴨神社前」バス停は本殿に最寄りであるが、裏参道扱いの西参道からの参拝となる。糺の森を通る表参道からの参拝や、表参道入口近くの摂社・河合神社への参拝は、上記と同系統の「新葵橋」バス停が近い。
車
駐車場:有り
所在地 京都府京都市左京区下鴨泉川町59
位置 北緯35度2分20秒 東経135度46分21秒
主祭神 玉依姫命
賀茂建角身命
社格等 式内社(名神大)
山城国一宮
二十二社(上七社)
旧官幣大社
勅祭社
別表神社
創建 不詳
(崇神天皇7年頃?)
本殿の様式 流造
札所等 神仏霊場巡拝の道第101番(京都第21番)
例祭 5月15日(賀茂祭、葵祭)
2023年10月17日
新発田城(しばたじょう)は、越後国蒲原郡新発田(現在の新潟県新発田市大手町)にあった日本の城
新発田城(しばたじょう)は、越後国蒲原郡新発田(現在の新潟県新発田市大手町)にあった日本の城。別名、菖蒲城(あやめじょう)。新発田藩の藩庁が置かれていた。
二の丸隅櫓(国の重要文化財)と石垣、堀
概要
城の北部を流れる加治川を外堀に利用した平城であり、本丸を中心に北の古丸と南の二の丸で囲い、その南側に三の丸を配する構造であった。現在は本丸の一部を除く全域と古丸全域、二の丸の一部が自衛隊駐屯地として利用され、本丸南側の石垣と堀、櫓門の本丸表門と二重櫓の二の丸隅櫓が現存。現存建築がある城跡としては新潟県内では唯一である。ほかに三階櫓や二重櫓の復元建築がある。また、石垣は本丸の表門側のみに前面乱積みの石垣がもちいられ、他は腰巻石垣や土居であったと考えられている。しかし寛文9(1669)年の大地震により、石垣が崩落しその復旧工事で、切込接布積に改められたとされる。
本丸表門(国の重要文化財)
建築
櫓の外壁には冬季の積雪への対策の意味もあり、海鼠壁(なまこかべ)が用いられていた。その他の塀や一部の櫓門には、下見板が張られていた。『正保城絵図』では屋根は茅葺となっている。
三階櫓
天守はなく、本丸の北西隅に三重櫓を上げて「三階櫓」と呼んでいた。幕府に遠慮し天守を公称しなかったが、三階櫓は新発田城における実質的な天守であった。承応3年(1654年)に創建されたものは、寛文8年(1668年)の火災により焼失し、現在復元されている姿のものは延宝7年(1679年)に再建されたものである。『正保城絵図』では二重櫓だが、他の櫓よりも大きく描かれている。
明治初期に撮影された写真によれば、続櫓(付櫓)を伴った複合式層塔型3重3階で、1重目の西面と南面に切妻破風を持った石落としを兼ねる出窓があり、3重目屋根の棟は丁字型に造られ、棟上には3匹の鯱が載せられている。1874年(明治7年)に破却された。
本丸表門
1732年に再建された現存の櫓門。2階に格子窓を設け、門の真上の床を外して石落としとする構造となっている。国の重要文化財。
旧二の丸隅櫓
層塔型2重2階の移築現存の二重櫓。1668年の大火後の建築。現在は、本丸鉄砲櫓の跡に移築されている。国の重要文化財。
本丸辰巳櫓
本丸の南東に建つ層塔型2重2階の二重櫓。三階櫓とともに木造で復元された。
近隣施設・関連建造物
清水谷御殿 - 新発田藩・溝口家の江戸屋敷(下屋敷)。1693年(元禄6年)、4代藩主・重雄のときに完成。
宝光寺 - 同じく溝口家の菩提寺。山門は新発田市の有形文化財に指定されており、他にも市の有形文化財に指定された絵画、仏像等を有する。 境内には推定樹齢350年のしだれ桜がある。
新発田藩足軽長屋 - 新発田市諏訪町3丁目3番3号に所在。1969年12月18日に国の重要文化財に指定[12]。
堀部安兵衛武庸像 - 有志により1984年に建立。浪人後に高田馬場の決闘の主要人物、のち赤穂浪士となる。中山安兵衛の名でも知られる。武庸は元禄赤穂事件では「吉良家臣に罪はない」として吉良方を一人も斬殺していない 。
復元された三階櫓
辰巳櫓(復元)
現地情報
城郭跡の大部分は日本軍解体まで陸軍が置かれていたこともあり、現在も陸上自衛隊の駐屯地(新発田駐屯地)となっている。その関係により、城内の建築のうち建物の内部を観覧できるものは、二の丸隅櫓・本丸表門・辰巳櫓である。自衛隊の敷地内にある三階櫓の内部は公開されていない。
新発田城周辺は新発田城址公園として整備されており、憩いの場となっている。また城郭跡には、初代藩主・溝口秀勝の銅像が建っている。
下屋敷であった清水園(清水谷御殿)は国の名勝、同園内にある足軽長屋は国の重要文化財に指定されている。溝口家の茶寮であった五十公野御茶屋は国の名勝、新潟県の文化財に指定されている。
所在地
新潟県新発田市大手町6
アクセス
JR羽越本線「新発田駅」から北西へ徒歩約20分
新発田駅前のイクネスしばたMINTO館にレンタサイクルあり(営業期間:4月1日〜11月30日)
新発田市街を廻る「あやめバス」が運行されており、「新発田城址公園」バス停がある。
日本海東北自動車道・聖籠新発田ICより車で約10分
駐車場は無料で、辰巳櫓近くと公園南側にそれぞれ十数台程度のものがあるほか、隣接する防災公園「アイネスしばた」に100台程度のものが整備されている。
別名 菖蒲城・舟形城
城郭構造 平城
天守構造 御三階櫓複合式層塔型3重3階(1679年(延宝7年) 再・非現存)
(木造復元・2004年(平成16年) 再)
築城主 (新発田氏)
主な改修者 溝口秀勝
主な城主 新発田氏 溝口氏
廃城年 1873年(明治6年)
遺構 櫓・長屋・門、石垣、土塁、堀
指定文化財 国の重要文化財(表門、二の丸隅櫓)
再建造物 三階櫓、辰巳櫓
位置 北緯37度57分19.68秒 東経139度19分31.47秒
二の丸隅櫓(国の重要文化財)と石垣、堀
概要
城の北部を流れる加治川を外堀に利用した平城であり、本丸を中心に北の古丸と南の二の丸で囲い、その南側に三の丸を配する構造であった。現在は本丸の一部を除く全域と古丸全域、二の丸の一部が自衛隊駐屯地として利用され、本丸南側の石垣と堀、櫓門の本丸表門と二重櫓の二の丸隅櫓が現存。現存建築がある城跡としては新潟県内では唯一である。ほかに三階櫓や二重櫓の復元建築がある。また、石垣は本丸の表門側のみに前面乱積みの石垣がもちいられ、他は腰巻石垣や土居であったと考えられている。しかし寛文9(1669)年の大地震により、石垣が崩落しその復旧工事で、切込接布積に改められたとされる。
本丸表門(国の重要文化財)
建築
櫓の外壁には冬季の積雪への対策の意味もあり、海鼠壁(なまこかべ)が用いられていた。その他の塀や一部の櫓門には、下見板が張られていた。『正保城絵図』では屋根は茅葺となっている。
三階櫓
天守はなく、本丸の北西隅に三重櫓を上げて「三階櫓」と呼んでいた。幕府に遠慮し天守を公称しなかったが、三階櫓は新発田城における実質的な天守であった。承応3年(1654年)に創建されたものは、寛文8年(1668年)の火災により焼失し、現在復元されている姿のものは延宝7年(1679年)に再建されたものである。『正保城絵図』では二重櫓だが、他の櫓よりも大きく描かれている。
明治初期に撮影された写真によれば、続櫓(付櫓)を伴った複合式層塔型3重3階で、1重目の西面と南面に切妻破風を持った石落としを兼ねる出窓があり、3重目屋根の棟は丁字型に造られ、棟上には3匹の鯱が載せられている。1874年(明治7年)に破却された。
本丸表門
1732年に再建された現存の櫓門。2階に格子窓を設け、門の真上の床を外して石落としとする構造となっている。国の重要文化財。
旧二の丸隅櫓
層塔型2重2階の移築現存の二重櫓。1668年の大火後の建築。現在は、本丸鉄砲櫓の跡に移築されている。国の重要文化財。
本丸辰巳櫓
本丸の南東に建つ層塔型2重2階の二重櫓。三階櫓とともに木造で復元された。
近隣施設・関連建造物
清水谷御殿 - 新発田藩・溝口家の江戸屋敷(下屋敷)。1693年(元禄6年)、4代藩主・重雄のときに完成。
宝光寺 - 同じく溝口家の菩提寺。山門は新発田市の有形文化財に指定されており、他にも市の有形文化財に指定された絵画、仏像等を有する。 境内には推定樹齢350年のしだれ桜がある。
新発田藩足軽長屋 - 新発田市諏訪町3丁目3番3号に所在。1969年12月18日に国の重要文化財に指定[12]。
堀部安兵衛武庸像 - 有志により1984年に建立。浪人後に高田馬場の決闘の主要人物、のち赤穂浪士となる。中山安兵衛の名でも知られる。武庸は元禄赤穂事件では「吉良家臣に罪はない」として吉良方を一人も斬殺していない 。
復元された三階櫓
辰巳櫓(復元)
現地情報
城郭跡の大部分は日本軍解体まで陸軍が置かれていたこともあり、現在も陸上自衛隊の駐屯地(新発田駐屯地)となっている。その関係により、城内の建築のうち建物の内部を観覧できるものは、二の丸隅櫓・本丸表門・辰巳櫓である。自衛隊の敷地内にある三階櫓の内部は公開されていない。
新発田城周辺は新発田城址公園として整備されており、憩いの場となっている。また城郭跡には、初代藩主・溝口秀勝の銅像が建っている。
下屋敷であった清水園(清水谷御殿)は国の名勝、同園内にある足軽長屋は国の重要文化財に指定されている。溝口家の茶寮であった五十公野御茶屋は国の名勝、新潟県の文化財に指定されている。
所在地
新潟県新発田市大手町6
アクセス
JR羽越本線「新発田駅」から北西へ徒歩約20分
新発田駅前のイクネスしばたMINTO館にレンタサイクルあり(営業期間:4月1日〜11月30日)
新発田市街を廻る「あやめバス」が運行されており、「新発田城址公園」バス停がある。
日本海東北自動車道・聖籠新発田ICより車で約10分
駐車場は無料で、辰巳櫓近くと公園南側にそれぞれ十数台程度のものがあるほか、隣接する防災公園「アイネスしばた」に100台程度のものが整備されている。
別名 菖蒲城・舟形城
城郭構造 平城
天守構造 御三階櫓複合式層塔型3重3階(1679年(延宝7年) 再・非現存)
(木造復元・2004年(平成16年) 再)
築城主 (新発田氏)
主な改修者 溝口秀勝
主な城主 新発田氏 溝口氏
廃城年 1873年(明治6年)
遺構 櫓・長屋・門、石垣、土塁、堀
指定文化財 国の重要文化財(表門、二の丸隅櫓)
再建造物 三階櫓、辰巳櫓
位置 北緯37度57分19.68秒 東経139度19分31.47秒
2023年10月16日
大谷寺(おおたんじ)は、福井県丹生郡越前町にある天台宗の寺院
大谷寺(おおたんじ)は、福井県丹生郡越前町にある天台宗の寺院。山号は越知山。本尊は十一面観音、阿弥陀如来および聖観音(越知大権現の本地仏)。
歴史
この寺の創建年代等については不詳であるが、越知山三所大権現の別当寺として金毘羅山のふもとに建立されたと見られ、白山中宮平泉寺(福井県勝山市平泉寺)とともに山岳信仰(白山修験)の寺であった。明治元年(1868年)の神仏分離に伴い越知神社と大谷寺に分離された。
文化財
重要文化財
石造九重塔 - 元亨3年(1323年)建立
大谷寺旧蔵の重要文化財
以下2件は2009年文化庁が購入。
木造不動明王立像
木造泰澄及び二行者坐像
泰澄は奈良時代の修験者で白山を開いたとされる、半ば伝説化された人物である。仏像の三尊形式のように中央に泰澄像、左右に浄定行者(きよさだぎょうじゃ)像と臥行者(ふせぎょうじゃ)像を配する。泰澄像は像高44cm、浄定行者像と臥行者像はそれぞれ28cmと26cmの小像だが、泰澄像の古例として貴重である。泰澄像の胎内に明応2年(1493年)の墨書銘がある。
所在地 福井県丹生郡越前町大谷寺42-4-1
位置 北緯36度0分20.3秒 東経136度5分25.6秒
山号 越知山
宗派 天台宗
本尊 十一面観音、阿弥陀如来、聖観音
歴史
この寺の創建年代等については不詳であるが、越知山三所大権現の別当寺として金毘羅山のふもとに建立されたと見られ、白山中宮平泉寺(福井県勝山市平泉寺)とともに山岳信仰(白山修験)の寺であった。明治元年(1868年)の神仏分離に伴い越知神社と大谷寺に分離された。
文化財
重要文化財
石造九重塔 - 元亨3年(1323年)建立
大谷寺旧蔵の重要文化財
以下2件は2009年文化庁が購入。
木造不動明王立像
木造泰澄及び二行者坐像
泰澄は奈良時代の修験者で白山を開いたとされる、半ば伝説化された人物である。仏像の三尊形式のように中央に泰澄像、左右に浄定行者(きよさだぎょうじゃ)像と臥行者(ふせぎょうじゃ)像を配する。泰澄像は像高44cm、浄定行者像と臥行者像はそれぞれ28cmと26cmの小像だが、泰澄像の古例として貴重である。泰澄像の胎内に明応2年(1493年)の墨書銘がある。
所在地 福井県丹生郡越前町大谷寺42-4-1
位置 北緯36度0分20.3秒 東経136度5分25.6秒
山号 越知山
宗派 天台宗
本尊 十一面観音、阿弥陀如来、聖観音
2023年10月15日
永泉寺(えいせんじ)は岐阜県多治見市池田町にある聖観音菩薩を本尊とする曹洞宗の寺院
永泉寺(えいせんじ)は岐阜県多治見市池田町にある聖観音菩薩を本尊とする曹洞宗の寺院で、山号は石堂山。本尊は重要文化財に指定されている。
伝承では奈良時代に行基が華厳宗の寺院として開いたと伝わる。その後、当寺は地蔵院を筆頭として蓮華院、仏光院、明円寺及び観音院の5つの寺院が立ち並び池田五山と称して寺運は隆盛していたが、やがて庇護者を失い衰微した。鎌倉時代には真言宗に改宗している。
江戸時代に入って後も寺は次第に衰退していったが、その中で蓮華寺は江戸時代の寛文年間に名古屋善篤寺の雲山によって中興され曹洞宗の寺院となった。その後廃絶した池田五山の仏像は永泉寺に移され現在に伝えられている。天保14年(1843年)、総門が建立されている。
それらの仏像の中で永泉寺の本尊である聖観音像は室町時代初期の作で、大正3年(1915年)に国の重要文化財に指定されている。また、十一面観音坐像(鎌倉時代)、千手千眼観世音菩薩立像(鎌倉時代)及び愛染明王坐像(室町時代)は昭和33年(1958年)多治見市の文化財に指定された。これらの仏像は廃絶した池田五山の本尊として祀られていたと伝わる。境内のイチョウの木は雲山和尚が植えたものといわれる巨木で多治見市の天然記念物に指定されている。
所在地 岐阜県多治見市池田町7-3
位置 北緯35度19分55.8秒 東経137度06分16.0秒
山号 石堂山
宗派 曹洞宗
本尊 聖観音菩薩
創建年 奈良時代
開基 伝 行基
中興年 寛文年間
中興 雲山
文化財 国指定:木造聖観音菩薩立像
市指定:十一面観音坐像、千手千眼観世音菩薩立像、愛染明王坐像
伝承では奈良時代に行基が華厳宗の寺院として開いたと伝わる。その後、当寺は地蔵院を筆頭として蓮華院、仏光院、明円寺及び観音院の5つの寺院が立ち並び池田五山と称して寺運は隆盛していたが、やがて庇護者を失い衰微した。鎌倉時代には真言宗に改宗している。
江戸時代に入って後も寺は次第に衰退していったが、その中で蓮華寺は江戸時代の寛文年間に名古屋善篤寺の雲山によって中興され曹洞宗の寺院となった。その後廃絶した池田五山の仏像は永泉寺に移され現在に伝えられている。天保14年(1843年)、総門が建立されている。
それらの仏像の中で永泉寺の本尊である聖観音像は室町時代初期の作で、大正3年(1915年)に国の重要文化財に指定されている。また、十一面観音坐像(鎌倉時代)、千手千眼観世音菩薩立像(鎌倉時代)及び愛染明王坐像(室町時代)は昭和33年(1958年)多治見市の文化財に指定された。これらの仏像は廃絶した池田五山の本尊として祀られていたと伝わる。境内のイチョウの木は雲山和尚が植えたものといわれる巨木で多治見市の天然記念物に指定されている。
所在地 岐阜県多治見市池田町7-3
位置 北緯35度19分55.8秒 東経137度06分16.0秒
山号 石堂山
宗派 曹洞宗
本尊 聖観音菩薩
創建年 奈良時代
開基 伝 行基
中興年 寛文年間
中興 雲山
文化財 国指定:木造聖観音菩薩立像
市指定:十一面観音坐像、千手千眼観世音菩薩立像、愛染明王坐像
2023年10月14日
大山寺(おおやまでら)は、神奈川県伊勢原市にある真言宗大覚寺派の寺院
大山寺(おおやまでら)は、神奈川県伊勢原市にある真言宗大覚寺派の寺院である。大山不動の通称で知られる。山号は雨降山(あぶりさん)。本尊は不動明王。開基(創立者)は良弁と伝える。
高幡山金剛寺、成田山新勝寺と共にしばしば「関東の三大不動」に数えられ、江戸期には江戸近郊の観光地として賑わい、落語にも「大山詣り」として題材に取り上げられるほど、広く一般に浸透した。
歴史
大山寺開山
古代に不動明王像を本尊とする大山寺が建立され、大山山頂の磐座への「石尊権現」信仰(十一面観音菩薩)と大山全体を不動明王の霊場(修験道)とする信仰とが一体化していったとされる。『続群書類従』所載の『大山寺縁起』(内閣文庫本ほかでは一般に『大山縁起』)によれば、大山寺は天平勝宝7年(755年)、東大寺初代別当(住職の最高位)の良弁が自刻の木造不動明王像を本尊に聖武天皇の勅願寺として開創したという。天平宝字5年(762年)には行基の命により、光増が不動明王像を製作して本堂に奉納したとされる。寺伝では空海(弘法大師)を3世住持とし。元慶2年(878年)に地震に伴う火災で焼失したが、同8年(884年)安然が再興したなどの伝承から、顕密系山岳寺院として栄えていったと考えられる。
平安時代の末に、大山は糟屋氏が支配する糟屋荘に編入されたが、久寿元年(1154年)12月に糟屋荘は安楽寿院に寄進された。その後、大山は藤原得子(ふじわらのなりこ、鳥羽天皇の皇后、美福門院)の領地となり、さらに、得子の子であるワ子内親王(あきこないしんのう、八条院)の領地とされた。
文化財
鉄造不動明王二童子像(舊國寳→重要文化財) - 日本では鉄造の仏像は鎌倉時代を中心に制作されているが、鉄は銅に比べて衣文などの細部の鋳造がむずかしく、鋳造後の表面の仕上げも困難なため、優れた作品は比較的少ない。本作は、鎌倉時代の鉄仏のなかでも秀作の1つに数えられるものである。不動明王像に比べ、左右の二童子像は鋳型のずれが見られるなど、やや技法的に難がある。毎月8・18・28日に開帳。
交通アクセス
公共交通
小田急小田原線「伊勢原駅」北口(バス4番のりば)
神奈川中央交通西バス 伊10系統「大山ケーブル」行きに乗車、終点下車(約25分)
↓(下記の「大山ケーブル駅」まで徒歩約15分〈約600m〉)
大山ケーブルカー「大山ケーブル駅」〜「大山寺駅」(約2分)、下車後徒歩約3分(約200m)
車
東名厚木インターより国道246号経由伊勢原大山方面(約40分)、市営駐車場あり(駐車場からは上記の「大山ケーブル駅」まで徒歩約15分)
所在地 神奈川県伊勢原市大山724
位置 北緯35度25分45.4秒 東経139度14分21.7秒
山号 雨降山(あぶりさん)
宗旨 古義真言宗
宗派 真言宗大覚寺派
寺格 石尊大権現の神宮寺・別当寺
本尊 鉄造不動明王(重要文化財)
創建年 伝・天平勝宝7年(755年)
開基 伝・良弁
中興年 明治18年(1885年)(明王院として)
大正4年(1915年)(大山寺として)
正式名 雨降山大山寺
別称 大山不動、大山不動尊
札所等 関東三大不動
関東三十六不動 第1番
関東八十八箇所 第60番
文化財 鉄造不動明王二童子像(重要文化財)
高幡山金剛寺、成田山新勝寺と共にしばしば「関東の三大不動」に数えられ、江戸期には江戸近郊の観光地として賑わい、落語にも「大山詣り」として題材に取り上げられるほど、広く一般に浸透した。
歴史
大山寺開山
古代に不動明王像を本尊とする大山寺が建立され、大山山頂の磐座への「石尊権現」信仰(十一面観音菩薩)と大山全体を不動明王の霊場(修験道)とする信仰とが一体化していったとされる。『続群書類従』所載の『大山寺縁起』(内閣文庫本ほかでは一般に『大山縁起』)によれば、大山寺は天平勝宝7年(755年)、東大寺初代別当(住職の最高位)の良弁が自刻の木造不動明王像を本尊に聖武天皇の勅願寺として開創したという。天平宝字5年(762年)には行基の命により、光増が不動明王像を製作して本堂に奉納したとされる。寺伝では空海(弘法大師)を3世住持とし。元慶2年(878年)に地震に伴う火災で焼失したが、同8年(884年)安然が再興したなどの伝承から、顕密系山岳寺院として栄えていったと考えられる。
平安時代の末に、大山は糟屋氏が支配する糟屋荘に編入されたが、久寿元年(1154年)12月に糟屋荘は安楽寿院に寄進された。その後、大山は藤原得子(ふじわらのなりこ、鳥羽天皇の皇后、美福門院)の領地となり、さらに、得子の子であるワ子内親王(あきこないしんのう、八条院)の領地とされた。
文化財
鉄造不動明王二童子像(舊國寳→重要文化財) - 日本では鉄造の仏像は鎌倉時代を中心に制作されているが、鉄は銅に比べて衣文などの細部の鋳造がむずかしく、鋳造後の表面の仕上げも困難なため、優れた作品は比較的少ない。本作は、鎌倉時代の鉄仏のなかでも秀作の1つに数えられるものである。不動明王像に比べ、左右の二童子像は鋳型のずれが見られるなど、やや技法的に難がある。毎月8・18・28日に開帳。
交通アクセス
公共交通
小田急小田原線「伊勢原駅」北口(バス4番のりば)
神奈川中央交通西バス 伊10系統「大山ケーブル」行きに乗車、終点下車(約25分)
↓(下記の「大山ケーブル駅」まで徒歩約15分〈約600m〉)
大山ケーブルカー「大山ケーブル駅」〜「大山寺駅」(約2分)、下車後徒歩約3分(約200m)
車
東名厚木インターより国道246号経由伊勢原大山方面(約40分)、市営駐車場あり(駐車場からは上記の「大山ケーブル駅」まで徒歩約15分)
所在地 神奈川県伊勢原市大山724
位置 北緯35度25分45.4秒 東経139度14分21.7秒
山号 雨降山(あぶりさん)
宗旨 古義真言宗
宗派 真言宗大覚寺派
寺格 石尊大権現の神宮寺・別当寺
本尊 鉄造不動明王(重要文化財)
創建年 伝・天平勝宝7年(755年)
開基 伝・良弁
中興年 明治18年(1885年)(明王院として)
大正4年(1915年)(大山寺として)
正式名 雨降山大山寺
別称 大山不動、大山不動尊
札所等 関東三大不動
関東三十六不動 第1番
関東八十八箇所 第60番
文化財 鉄造不動明王二童子像(重要文化財)
2023年10月13日
二階堂家住宅(にかいどうけじゅうたく)は鹿児島県肝属郡肝付町新富(にいとみ)5595番地にある江戸時代の民家
二階堂家住宅(にかいどうけじゅうたく)は鹿児島県肝属郡肝付町新富(にいとみ)5595番地にある江戸時代の民家。国の重要文化財。
概要
建立は文化7年(1810年)頃と思われ、木造茅葺き屋根寄棟造り平屋の建物が2軒屋根をつなげて雁行型に連なっているように見える形式である。これは鹿児島県でも南部の民家にのみ見られる特徴であり、客間とおぼしき「オモテ」と日常の空間である「ナカエ」の建物から構成される。武家の屋敷らしく造りがしっかりしており、保存状況が良いことから昭和50年(1975年)6月23日に重要文化財に指定された。
1985年8月31日の昭和60年台風第13号により被災したため、1986年4月より保存修理事業を実施。南西約30メートルの位置に移築し、1987年6月30日に完了した。
この住宅の持ち主であった二階堂氏は鎌倉幕府の御家人発祥の薩摩国北部の豪族であったが島津氏配下となりこの地に移住させられた。最後の住人は衆議院議員で内閣官房長官などを歴任した二階堂進である。進の長男で、東京理科大学非常勤講師の二階堂行海が現在の所有者だが、行海は東京に在住しており、同住宅は有料で一般公開されている。
所在地 鹿児島県肝属郡肝付町新富5595
位置 北緯31度20分26秒 東経130度56分46秒
旧所在地 現在地の北東約30m
類型 武家屋敷
形式・構造 木造平屋二棟造、寄棟造、茅葺
建築年 文化7年(1810年)頃
文化財 国の重要文化財
概要
建立は文化7年(1810年)頃と思われ、木造茅葺き屋根寄棟造り平屋の建物が2軒屋根をつなげて雁行型に連なっているように見える形式である。これは鹿児島県でも南部の民家にのみ見られる特徴であり、客間とおぼしき「オモテ」と日常の空間である「ナカエ」の建物から構成される。武家の屋敷らしく造りがしっかりしており、保存状況が良いことから昭和50年(1975年)6月23日に重要文化財に指定された。
1985年8月31日の昭和60年台風第13号により被災したため、1986年4月より保存修理事業を実施。南西約30メートルの位置に移築し、1987年6月30日に完了した。
この住宅の持ち主であった二階堂氏は鎌倉幕府の御家人発祥の薩摩国北部の豪族であったが島津氏配下となりこの地に移住させられた。最後の住人は衆議院議員で内閣官房長官などを歴任した二階堂進である。進の長男で、東京理科大学非常勤講師の二階堂行海が現在の所有者だが、行海は東京に在住しており、同住宅は有料で一般公開されている。
所在地 鹿児島県肝属郡肝付町新富5595
位置 北緯31度20分26秒 東経130度56分46秒
旧所在地 現在地の北東約30m
類型 武家屋敷
形式・構造 木造平屋二棟造、寄棟造、茅葺
建築年 文化7年(1810年)頃
文化財 国の重要文化財