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2023年10月28日
須佐神社(すさじんじゃ)は、島根県出雲市にある神社
須佐神社(すさじんじゃ)は、島根県出雲市にある神社である。須佐之男命の御魂を祀る古社。式内小社で、旧社格は国幣小社。出雲國神仏霊場第十八番。

須佐神社本殿
歴史
『出雲国風土記』に、須佐之男命が各地を開拓した後に当地に来て最後の開拓をし、「この国は良い国だから、自分の名前は岩木ではなく土地につけよう」と言って「須佐」と命名し、自らの御魂を鎮めたとの記述がある。古来須佐之男命の本宮とされた。社家の須佐氏は、大国主神の子の賀夜奈流美命を祖とすると伝える。
旧社地は神社の北方にある宮尾山にあったとされる。現社地は盆地のほぼ中央部にあり、中世の時点ではすでにこの地にあったと考えられる。
『出雲国風土記』に「須佐社」と記載されている。『延喜式神名帳』に「須佐神社」と記載され、小社に列している。中世には「十三所大明神」「大宮大明神」、近世には「須佐大宮」と称した。
明治4年(1871年)に延喜式に記載される「須佐神社」に改称し、明治5年(1872年)に郷社に列格し、翌明治6年(1873年)に県社に、明治33年(1900年)に国幣小社に昇格した。

境内入り口鳥居

拝殿

幣殿
祭神
主祭神
須佐之男命
配祀神
稲田比売命 - 須佐之男命の妻
足摩槌命 - 稲田比売命の親
手摩槌命 - 稲田比売命の親・須佐家の祖神
交通
出雲市駅から一畑バス「出雲須佐行き」に乗車し、須佐バス停で下車。徒歩3 km。
車利用の場合、境内横に駐車場十数台分あり。
所在地 島根県出雲市佐田町須佐730
主祭神 須佐之男命
社格等 式内社(小)
旧国幣小社
別表神社
本殿の様式 大社造
別名 須佐大宮
札所等 出雲國神仏霊場18番
例祭 4月18日
主な神事 念仏踊り
地図
北緯35度14分4.9秒 東経132度44分12.7秒

須佐神社本殿
歴史
『出雲国風土記』に、須佐之男命が各地を開拓した後に当地に来て最後の開拓をし、「この国は良い国だから、自分の名前は岩木ではなく土地につけよう」と言って「須佐」と命名し、自らの御魂を鎮めたとの記述がある。古来須佐之男命の本宮とされた。社家の須佐氏は、大国主神の子の賀夜奈流美命を祖とすると伝える。
旧社地は神社の北方にある宮尾山にあったとされる。現社地は盆地のほぼ中央部にあり、中世の時点ではすでにこの地にあったと考えられる。
『出雲国風土記』に「須佐社」と記載されている。『延喜式神名帳』に「須佐神社」と記載され、小社に列している。中世には「十三所大明神」「大宮大明神」、近世には「須佐大宮」と称した。
明治4年(1871年)に延喜式に記載される「須佐神社」に改称し、明治5年(1872年)に郷社に列格し、翌明治6年(1873年)に県社に、明治33年(1900年)に国幣小社に昇格した。

境内入り口鳥居

拝殿

幣殿
祭神
主祭神
須佐之男命
配祀神
稲田比売命 - 須佐之男命の妻
足摩槌命 - 稲田比売命の親
手摩槌命 - 稲田比売命の親・須佐家の祖神
交通
出雲市駅から一畑バス「出雲須佐行き」に乗車し、須佐バス停で下車。徒歩3 km。
車利用の場合、境内横に駐車場十数台分あり。
所在地 島根県出雲市佐田町須佐730
主祭神 須佐之男命
社格等 式内社(小)
旧国幣小社
別表神社
本殿の様式 大社造
別名 須佐大宮
札所等 出雲國神仏霊場18番
例祭 4月18日
主な神事 念仏踊り
地図
北緯35度14分4.9秒 東経132度44分12.7秒
2023年10月27日
観善寺(かんぜんじ)は、長崎県長崎市玉園町にある浄土真宗本願寺派の寺院
2023年10月26日
海龍王寺(かいりゅうおうじ)は、奈良県奈良市法華寺北町にある真言律宗の寺院
海龍王寺(かいりゅうおうじ)は、奈良県奈良市法華寺北町にある真言律宗の寺院。山号はなし。本尊は十一面観音。光明皇后の皇后宮(藤原不比等の邸宅跡)の北東隅に建てられたことから隅寺(すみでら)の別称がある。

本堂
歴史
海龍王寺は平城宮跡の東方、総国分尼寺として知られる法華寺の東北に隣接している。法華寺と海龍王寺のある一画は、かつては藤原不比等の邸宅であった。養老4年(720年)の不比等の死後、邸宅は娘の光明皇后が相続して皇后宮となり、天平17年(745年)にはこれが宮寺(のちの法華寺)となった。
海龍王寺は、『続日本紀』、正倉院文書などの奈良時代の記録では「隅寺」「隅院」「角寺」「角院」などと呼ばれている。正倉院文書では天平8年(736年)には「隅院」の存在が確認できる。「隅寺」とは、皇后宮(藤原不比等邸跡)の東北の隅にあったことから付けられた名称と言われている。「平城京の東北隅にあったため」と解説する資料が多いが、位置関係から見て妥当でない。

江戸時代には寺領が100石あったが明治時代に入ると没収され、神仏分離令のなかで東金堂も失われ、境内の荒廃も進み、長らく無住の時期が続いた。しかし、1953年(昭和28年)に住職が着任し、堂宇の修理、境内の整備が行われた。長らく奈良国立博物館に寄託されていた五重小塔も本来の安置場所である西金堂に戻された。
五重小塔
国宝。昭和二十六年六月九日、国宝十八号として指定。西金堂内に安置。相輪を含む総高4.01メートル(相輪を除く高さは2.85メートル)の小塔だが、工芸品ではなく「建造物」として国宝に指定されている。当初から屋内に安置されていたもの。木箱入り法華経2巻と垂木木口金物2個が国宝の附(つけたり)として指定されている。奈良市・元興寺(極楽坊)の五重小塔が内部構造も省略せず、屋外にある塔と同様に1つ1つの部材を組み上げて造られているのに対し、海龍王寺の小塔は箱状の構造物を積み上げ、組物などの細かい部材は外側から貼り付けたものである。しかし、様式的には元興寺小塔より古い8世紀前半頃のもので、細部様式が薬師寺の三重塔に類似しており、遺例の少ない奈良時代建築の様式を知るうえで重要である。

海龍王寺 五重小塔
アクセス
JR大和路線奈良駅・近鉄奈良駅より奈良交通バス(西大寺駅・航空自衛隊行き)「法華寺」下車すぐ
近鉄大和西大寺駅より奈良交通バス(JR奈良駅・白土町行き)「法華寺」下車すぐ
所在地 奈良県奈良市法華寺北町897
位置 北緯34度41分34.43秒 東経135度48分19.99秒
山号 なし
宗派 真言律宗
本尊 十一面観音(重要文化財)
創建年 伝・天平3年(731年)
開山 伝・玄ム
開基 光明皇后
別称 隅寺
札所等 大和北部八十八ヶ所霊場第19番
文化財 五重小塔(国宝)
西金堂、経蔵、木造文殊菩薩立像ほか(重要文化財)
絹本著色仏涅槃図(県指定有形文化財)

本堂
歴史
海龍王寺は平城宮跡の東方、総国分尼寺として知られる法華寺の東北に隣接している。法華寺と海龍王寺のある一画は、かつては藤原不比等の邸宅であった。養老4年(720年)の不比等の死後、邸宅は娘の光明皇后が相続して皇后宮となり、天平17年(745年)にはこれが宮寺(のちの法華寺)となった。
海龍王寺は、『続日本紀』、正倉院文書などの奈良時代の記録では「隅寺」「隅院」「角寺」「角院」などと呼ばれている。正倉院文書では天平8年(736年)には「隅院」の存在が確認できる。「隅寺」とは、皇后宮(藤原不比等邸跡)の東北の隅にあったことから付けられた名称と言われている。「平城京の東北隅にあったため」と解説する資料が多いが、位置関係から見て妥当でない。

江戸時代には寺領が100石あったが明治時代に入ると没収され、神仏分離令のなかで東金堂も失われ、境内の荒廃も進み、長らく無住の時期が続いた。しかし、1953年(昭和28年)に住職が着任し、堂宇の修理、境内の整備が行われた。長らく奈良国立博物館に寄託されていた五重小塔も本来の安置場所である西金堂に戻された。
五重小塔
国宝。昭和二十六年六月九日、国宝十八号として指定。西金堂内に安置。相輪を含む総高4.01メートル(相輪を除く高さは2.85メートル)の小塔だが、工芸品ではなく「建造物」として国宝に指定されている。当初から屋内に安置されていたもの。木箱入り法華経2巻と垂木木口金物2個が国宝の附(つけたり)として指定されている。奈良市・元興寺(極楽坊)の五重小塔が内部構造も省略せず、屋外にある塔と同様に1つ1つの部材を組み上げて造られているのに対し、海龍王寺の小塔は箱状の構造物を積み上げ、組物などの細かい部材は外側から貼り付けたものである。しかし、様式的には元興寺小塔より古い8世紀前半頃のもので、細部様式が薬師寺の三重塔に類似しており、遺例の少ない奈良時代建築の様式を知るうえで重要である。

海龍王寺 五重小塔
アクセス
JR大和路線奈良駅・近鉄奈良駅より奈良交通バス(西大寺駅・航空自衛隊行き)「法華寺」下車すぐ
近鉄大和西大寺駅より奈良交通バス(JR奈良駅・白土町行き)「法華寺」下車すぐ
所在地 奈良県奈良市法華寺北町897
位置 北緯34度41分34.43秒 東経135度48分19.99秒
山号 なし
宗派 真言律宗
本尊 十一面観音(重要文化財)
創建年 伝・天平3年(731年)
開山 伝・玄ム
開基 光明皇后
別称 隅寺
札所等 大和北部八十八ヶ所霊場第19番
文化財 五重小塔(国宝)
西金堂、経蔵、木造文殊菩薩立像ほか(重要文化財)
絹本著色仏涅槃図(県指定有形文化財)
2023年10月25日
御前埼灯台(おまえさきとうだい)は、静岡県御前崎市御前崎に立つ灯台
御前埼灯台(おまえさきとうだい)は、静岡県御前崎市御前崎に立つ灯台。日本の近代化産業遺産、日本の灯台50選に選ばれているほか、歴史的・文化的価値の高さから、Aランクの保存灯台に指定されている。なお地名は「御前崎(おまえざき)」だが、灯台名は「御前埼(おまえさき)」である。

概要
昔から遠州灘は航海の難所で、この沖の岩礁で座礁、難破する船も多かった。1635年(寛永12年)には江戸幕府により、御前崎に「見尾火燈明堂(みおびとうみょうどう)」が作られた。しかし1871年(明治4年)4月8日、江戸幕府が建造した軍艦が、岬の沖合のセイゴ根に座礁する事故が発生。洋式灯台の建設が急がれることとなった。
「灯台の父」と呼ばれる英国人リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計により1872年(明治5年)に起工、2年もの工期と2万5千円余り(当時の金額)の巨費を投じ、1874年(明治7年)5月1日に完成した。回転式の第1等フレネル式レンズ(フランス製)が日本で初めて使用された灯台でもある。

構造
白亜の塔形をしたレンガ造の大型灯台である。
付属施設として、無線方位信号所(レーマークビーコン)と御前埼灯台資料館が設置されている。

観光
一般公開されている参観灯台で、小学生以下は無料、中学生以上は300円の参観寄付金を支払うことで上まで登ることができ、灯台上からは太平洋を一望することが出来る。周辺は御前崎遠州灘県立自然公園に指定されている。
灯台周辺には御前崎グランドホテル、旅館潮見荘、民宿みつる、おまえざきユースホステルなどの宿泊施設がある。

交通
公共交通機関でアクセスする場合、静岡駅方面からは相良営業所まで、菊川駅方面からは浜岡営業所までしずてつジャストラインのバスで向かい、両営業所を発着する御前崎市の「自主運行バス」に乗り換え、御前崎海洋センターバス停で下車、徒歩5分。
2006年度末まではしずてつジャストラインにより、静岡駅から御前埼灯台行き直通バスが運行されていたが、廃止された。
航路標識番号
[国際標識番号] 2495[M6228]
位置 北緯34度35分45.0秒 東経138度13分32.6秒
所在地 静岡県御前崎市御前崎1581
塗色・構造 白色、塔形、レンガ造
レンズ 第3等大型フレネル式
灯質 Fl W 10s(単閃白光 毎10秒に1閃光)
実効光度 56万カンデラcd
光達距離 19.5海里(約36km)
明弧 221度から104度まで
塔高 22.47 m (地上 - 塔頂)
灯火標高 54.00 m (平均海面 - 灯火)
初点灯 1874年(明治7年)5月1日
管轄 海上保安庁
第三管区海上保安本部
清水海上保安部

概要
昔から遠州灘は航海の難所で、この沖の岩礁で座礁、難破する船も多かった。1635年(寛永12年)には江戸幕府により、御前崎に「見尾火燈明堂(みおびとうみょうどう)」が作られた。しかし1871年(明治4年)4月8日、江戸幕府が建造した軍艦が、岬の沖合のセイゴ根に座礁する事故が発生。洋式灯台の建設が急がれることとなった。
「灯台の父」と呼ばれる英国人リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計により1872年(明治5年)に起工、2年もの工期と2万5千円余り(当時の金額)の巨費を投じ、1874年(明治7年)5月1日に完成した。回転式の第1等フレネル式レンズ(フランス製)が日本で初めて使用された灯台でもある。

構造
白亜の塔形をしたレンガ造の大型灯台である。
付属施設として、無線方位信号所(レーマークビーコン)と御前埼灯台資料館が設置されている。

観光
一般公開されている参観灯台で、小学生以下は無料、中学生以上は300円の参観寄付金を支払うことで上まで登ることができ、灯台上からは太平洋を一望することが出来る。周辺は御前崎遠州灘県立自然公園に指定されている。
灯台周辺には御前崎グランドホテル、旅館潮見荘、民宿みつる、おまえざきユースホステルなどの宿泊施設がある。

交通
公共交通機関でアクセスする場合、静岡駅方面からは相良営業所まで、菊川駅方面からは浜岡営業所までしずてつジャストラインのバスで向かい、両営業所を発着する御前崎市の「自主運行バス」に乗り換え、御前崎海洋センターバス停で下車、徒歩5分。
2006年度末まではしずてつジャストラインにより、静岡駅から御前埼灯台行き直通バスが運行されていたが、廃止された。
航路標識番号
[国際標識番号] 2495[M6228]
位置 北緯34度35分45.0秒 東経138度13分32.6秒
所在地 静岡県御前崎市御前崎1581
塗色・構造 白色、塔形、レンガ造
レンズ 第3等大型フレネル式
灯質 Fl W 10s(単閃白光 毎10秒に1閃光)
実効光度 56万カンデラcd
光達距離 19.5海里(約36km)
明弧 221度から104度まで
塔高 22.47 m (地上 - 塔頂)
灯火標高 54.00 m (平均海面 - 灯火)
初点灯 1874年(明治7年)5月1日
管轄 海上保安庁
第三管区海上保安本部
清水海上保安部
2023年10月24日
常楽寺(じょうらくじ)は、滋賀県湖南市西寺にある天台宗系単立の寺院
常楽寺(じょうらくじ)は、滋賀県湖南市西寺にある天台宗系単立の寺院。山号は阿星山(あぼしさん)。本尊は千手観音。
同じ湖南市に所在する長寿寺の「東寺(ひがしでら)」に対して、「西寺(にしでら)」と呼ばれている。長寿寺、善水寺とともに湖南三山の1つに数えられる。1月中旬には祭事の鬼ばしりが行われる。近江西国三十三箇所観音霊場第1番札所。

歴史
創建の時期および事情については、史料が乏しく定かでない。寺伝では、和銅年間(708年 - 715年)に元明天皇の勅願により良弁によって創建されたとする。また長寿寺同様に紫香楽宮の鬼門を封じていたともいう。
延暦年間(782年 - 806年)に天台宗に改められ、平安時代から鎌倉時代にかけては長寿寺とともに歴代天皇の尊崇が厚く、阿星山五千坊と呼ばれるほどの天台仏教園を形成した。
延文5年(1360年)に火災によって伽藍が全焼するが、同年のうちに観慶らによって再興される。
元亀2年(1571年)6月から9月にかけて織田信長に反抗して野洲郡金森(現・守山市)に一向一揆勢が集結した際には、信長配下の佐久間信盛が当寺に本陣を置いた。また、常楽寺にあった宝徳4年(1452年)に建てられた仁王門は、豊臣秀吉により伏見城へ移築され、次いで慶長6年(1601年)に徳川家康によって園城寺(三井寺)へ再び移築され、園城寺の大門(重要文化財)となっている。
明治時代の神仏分離によって当寺の鎮守社であった三聖神社が独立している。
2022年(令和4年)に天台宗より離脱し、単立寺院となる。

文化財
国宝
本堂 附:厨子 1基
三重塔 附:丸瓦及び平瓦 各1個

アクセス
公共交通機関
JR草津線石部駅より湖南市コミュニティバスで西寺停留所下車、徒歩4分。
自動車
名神高速道路栗東ICより約15分。
駐車場
普通車30台、大型車5台
拝観情報
開門時間 - 10時から16時(閉門30分前に受付終了。秋の特別公開時は9時から開門)
拝観料 - 大人600円 高校生・中学生300円(小学生以下は無料)
(※秋の特別公開時以外は事前予約が必要)
所在地 滋賀県湖南市西寺6丁目5-1
位置 北緯34度59分24.45秒 東経136度2分54.84秒
山号 阿星山(あぼしさん)
宗旨 天台宗
宗派 単立
本尊 千手観音(秘仏、重要文化財)
創建年 伝・和銅年間(708年 - 715年)
開山 伝・良弁
開基 伝・元明天皇(勅願)
正式名 阿星山常楽寺
別称 西寺(にしでら)
札所等 近江西国三十三観音霊場第1番
びわ湖百八霊場第95番
湖南三山
文化財 本堂、三重塔(国宝)
絹本著色浄土曼荼羅図、絹本著色仏涅槃図、木造釈迦如来坐像ほか(重要文化財)
公式サイト 常楽寺公式ホームページ
同じ湖南市に所在する長寿寺の「東寺(ひがしでら)」に対して、「西寺(にしでら)」と呼ばれている。長寿寺、善水寺とともに湖南三山の1つに数えられる。1月中旬には祭事の鬼ばしりが行われる。近江西国三十三箇所観音霊場第1番札所。

歴史
創建の時期および事情については、史料が乏しく定かでない。寺伝では、和銅年間(708年 - 715年)に元明天皇の勅願により良弁によって創建されたとする。また長寿寺同様に紫香楽宮の鬼門を封じていたともいう。
延暦年間(782年 - 806年)に天台宗に改められ、平安時代から鎌倉時代にかけては長寿寺とともに歴代天皇の尊崇が厚く、阿星山五千坊と呼ばれるほどの天台仏教園を形成した。
延文5年(1360年)に火災によって伽藍が全焼するが、同年のうちに観慶らによって再興される。
元亀2年(1571年)6月から9月にかけて織田信長に反抗して野洲郡金森(現・守山市)に一向一揆勢が集結した際には、信長配下の佐久間信盛が当寺に本陣を置いた。また、常楽寺にあった宝徳4年(1452年)に建てられた仁王門は、豊臣秀吉により伏見城へ移築され、次いで慶長6年(1601年)に徳川家康によって園城寺(三井寺)へ再び移築され、園城寺の大門(重要文化財)となっている。
明治時代の神仏分離によって当寺の鎮守社であった三聖神社が独立している。
2022年(令和4年)に天台宗より離脱し、単立寺院となる。

文化財
国宝
本堂 附:厨子 1基
三重塔 附:丸瓦及び平瓦 各1個

アクセス
公共交通機関
JR草津線石部駅より湖南市コミュニティバスで西寺停留所下車、徒歩4分。
自動車
名神高速道路栗東ICより約15分。
駐車場
普通車30台、大型車5台
拝観情報
開門時間 - 10時から16時(閉門30分前に受付終了。秋の特別公開時は9時から開門)
拝観料 - 大人600円 高校生・中学生300円(小学生以下は無料)
(※秋の特別公開時以外は事前予約が必要)
所在地 滋賀県湖南市西寺6丁目5-1
位置 北緯34度59分24.45秒 東経136度2分54.84秒
山号 阿星山(あぼしさん)
宗旨 天台宗
宗派 単立
本尊 千手観音(秘仏、重要文化財)
創建年 伝・和銅年間(708年 - 715年)
開山 伝・良弁
開基 伝・元明天皇(勅願)
正式名 阿星山常楽寺
別称 西寺(にしでら)
札所等 近江西国三十三観音霊場第1番
びわ湖百八霊場第95番
湖南三山
文化財 本堂、三重塔(国宝)
絹本著色浄土曼荼羅図、絹本著色仏涅槃図、木造釈迦如来坐像ほか(重要文化財)
公式サイト 常楽寺公式ホームページ
2023年10月23日
田島神社(たしまじんじゃ)は、佐賀県唐津市呼子町(旧肥前国松浦郡呼子)の加部島にある神社
田島神社(たしまじんじゃ)は、佐賀県唐津市呼子町(旧肥前国松浦郡呼子)の加部島にある神社。地域は魏志倭人伝の中で倭国本土の最初の地として登場する末盧国にあたる。大陸への最も安全な渡海ルートの要所であり、上代以来中央政府の重用を受けてきた。古代においては「田島坐神社(たじまにゐますかみのやしろ)」として記録されている。肥前国唯一の名神大社で、肥前国一之宮と見られた時代もあった。明治時代の改新による旧社格は国幣中社。現在は神社本庁の別表神社。社紋は「桜紋」。山上憶良が歌に詠んだ松浦佐用姫ゆかりの神社。

祭神
祭神は次の5柱。主祭神の3柱は宗像大社祭神の宗像三女神に同じ姫神。宇佐神宮や久留米周辺、天山、背振山にも祀られるなど、有史以前からの北部九州土着の神とされる。田島神社では「田島三神」と総称し、中でも田心姫尊を中尊としている。
主祭神
田心姫尊
市杵島姫尊
湍津姫尊
配祀神
大山祇神
稚武王尊 - 日本武尊の子、仲哀天皇の弟。

文化財
重要文化財(国指定)
太刀 銘 備中国住人吉次(工芸品) - 鎌倉時代の作。1920年(大正9年)4月15日指定。
佐賀県指定文化財
天然記念物
加部島暖地性植物群落 - 田島神社社林を含む加部島一帯で指定。1974年(昭和49年)2月25日指定。


所在地 佐賀県唐津市呼子町加部島3965
位置 北緯33度33分21.0秒 東経129度53分26.0秒
主祭神 田心姫尊
市杵島姫尊
湍津姫尊
社格等 式内社(名神大)
旧国幣中社
別表神社

祭神
祭神は次の5柱。主祭神の3柱は宗像大社祭神の宗像三女神に同じ姫神。宇佐神宮や久留米周辺、天山、背振山にも祀られるなど、有史以前からの北部九州土着の神とされる。田島神社では「田島三神」と総称し、中でも田心姫尊を中尊としている。
主祭神
田心姫尊
市杵島姫尊
湍津姫尊
配祀神
大山祇神
稚武王尊 - 日本武尊の子、仲哀天皇の弟。

文化財
重要文化財(国指定)
太刀 銘 備中国住人吉次(工芸品) - 鎌倉時代の作。1920年(大正9年)4月15日指定。
佐賀県指定文化財
天然記念物
加部島暖地性植物群落 - 田島神社社林を含む加部島一帯で指定。1974年(昭和49年)2月25日指定。


所在地 佐賀県唐津市呼子町加部島3965
位置 北緯33度33分21.0秒 東経129度53分26.0秒
主祭神 田心姫尊
市杵島姫尊
湍津姫尊
社格等 式内社(名神大)
旧国幣中社
別表神社
2023年10月22日
旧山崎家別邸(きゅう やまざきけべってい)は、埼玉県川越市に所在する建築物
旧山崎家別邸(きゅう やまざきけべってい)は、埼玉県川越市に所在する建築物である。大正末期から昭和初期にかけての日本における住宅の近代化の過程を示す歴史的価値を有するとして、2019年に母屋部分が重要文化財に指定された。

埼玉県川越市、旧山崎家別邸
建築
1925年(大正14年)、市内の菓子商亀屋の五代目の山崎嘉七の隠居所として建てられた。保岡勝也が設計を手掛け、2階建の洋館の母屋に平屋の和館と2階建の土蔵が接続した造りをもつ。母屋は木造モルタル仕上げ洋風屋根葺で、1階外壁は吹付モルタル仕上げ、2階は細い横目地の磨き壁に仕上げており、和館との調和が図られている。嘉七の隠居所としてだけでなく川越の私的迎賓館としての性格を持ち、陸軍の演習を観閲に訪れた皇族が宿泊することもあった。館内は和風・洋風の接客室が機能的な動線で結ばれている。色鮮やかなステンドグラスも特徴の一つで、2階へと続く階段には小川三知の作品である「泰山木とブルージェ」、階下には水辺の植物が描かれている。各客室の窓のステンドグラスは別府七郎による図案である。
保岡は、1928年に「茶室と茶庭」を著すほど日本庭園に造詣が深く、山崎家別邸でもその知識を発揮した。和室の畳廊下の南側には緩く高低差を付けた庭を見渡すことができ、石灯籠と四季の花がアクセントを添える。1924年の図面によると、母屋の東側には芝生の児童遊技場、その北側には温室と花壇があり、茶室の位置は、現在とは若干異なっていた。
川越伝統的建造物群保存地区の東側に位置し、2000年(平成12年)に主屋・茶室・腰掛待合が川越市指定有形文化財に指定された。2006年に、建物が市に寄贈される。2011年2月に庭園が国の登録記念物に登録され、2019年9月30日には母屋が国重要文化財に指定された。館内は母屋2階や土蔵など一部を除き一般公開されている。

旧山崎家別邸のステンドグラス。小川三知の「泰山木とブルージェ」

南側の庭園より、洋館のバルコニーを望む
所在地 埼玉県川越市松江町2-7-8
位置 北緯35度55分18.6秒 東経139度29分03.9秒
形式・構造 木造瓦葺き2階建
敷地面積 2300m2
延床面積 250m2
建築年 1925年
文化財 母屋:重要文化財
庭園:登録記念物

埼玉県川越市、旧山崎家別邸
建築
1925年(大正14年)、市内の菓子商亀屋の五代目の山崎嘉七の隠居所として建てられた。保岡勝也が設計を手掛け、2階建の洋館の母屋に平屋の和館と2階建の土蔵が接続した造りをもつ。母屋は木造モルタル仕上げ洋風屋根葺で、1階外壁は吹付モルタル仕上げ、2階は細い横目地の磨き壁に仕上げており、和館との調和が図られている。嘉七の隠居所としてだけでなく川越の私的迎賓館としての性格を持ち、陸軍の演習を観閲に訪れた皇族が宿泊することもあった。館内は和風・洋風の接客室が機能的な動線で結ばれている。色鮮やかなステンドグラスも特徴の一つで、2階へと続く階段には小川三知の作品である「泰山木とブルージェ」、階下には水辺の植物が描かれている。各客室の窓のステンドグラスは別府七郎による図案である。
保岡は、1928年に「茶室と茶庭」を著すほど日本庭園に造詣が深く、山崎家別邸でもその知識を発揮した。和室の畳廊下の南側には緩く高低差を付けた庭を見渡すことができ、石灯籠と四季の花がアクセントを添える。1924年の図面によると、母屋の東側には芝生の児童遊技場、その北側には温室と花壇があり、茶室の位置は、現在とは若干異なっていた。
川越伝統的建造物群保存地区の東側に位置し、2000年(平成12年)に主屋・茶室・腰掛待合が川越市指定有形文化財に指定された。2006年に、建物が市に寄贈される。2011年2月に庭園が国の登録記念物に登録され、2019年9月30日には母屋が国重要文化財に指定された。館内は母屋2階や土蔵など一部を除き一般公開されている。

旧山崎家別邸のステンドグラス。小川三知の「泰山木とブルージェ」

南側の庭園より、洋館のバルコニーを望む
所在地 埼玉県川越市松江町2-7-8
位置 北緯35度55分18.6秒 東経139度29分03.9秒
形式・構造 木造瓦葺き2階建
敷地面積 2300m2
延床面積 250m2
建築年 1925年
文化財 母屋:重要文化財
庭園:登録記念物
2023年10月21日
一條神社(いちじょうじんじゃ)は、高知県四万十市中村本町にある神社
一條神社(いちじょうじんじゃ)は、高知県四万十市中村本町にある神社。旧社格は県社。神紋は「下り藤」。
旧中村市中心部、小森山の山上の一条氏御所跡に鎮座する、土佐一条氏の祖先神と一族を祀る神社である。

天神社(左)・本社拝殿(右)
祭神
若藤男命
若藤女命
一条教房と土佐一条氏歴代当主及び連枝の霊
歴史
現在の社殿地には、戦国時代に当地を支配し中村市街地の基礎を築いた土佐一条氏の中村御所があった。一条氏の滅亡後に御所は荒廃したが、その跡に1607年(慶長12年)に一条氏遺臣により歴代当主の霊を祀る祠が建てられたのが当社の起源となる。
その後、1862年(文久2年)になって土佐藩の幡多郡奉行らにより幡多郡総鎮守として社殿が造営され、一條神社として改めて建立された。
現在の本殿は1944年(昭和19年)の建立である。

一條神社 鳥居
交通アクセス
鉄道:土佐くろしお鉄道中村線 中村駅(車で約5分)
バス:高知西南交通バスで「市役所前」バス停下車(下車後徒歩約3分)
所在地 高知県四万十市中村本町1-3
位置 北緯32度59分37.01秒 東経132度56分03.18秒
主祭神 若藤男命
若藤女命
一条教房と土佐一条氏歴代当主及び連枝の霊
社格等 旧県社
創建 文久2年(1862年)
別名 いちじょこさん
例祭 11月23日-11月25日(一條大祭)
旧中村市中心部、小森山の山上の一条氏御所跡に鎮座する、土佐一条氏の祖先神と一族を祀る神社である。

天神社(左)・本社拝殿(右)
祭神
若藤男命
若藤女命
一条教房と土佐一条氏歴代当主及び連枝の霊
歴史
現在の社殿地には、戦国時代に当地を支配し中村市街地の基礎を築いた土佐一条氏の中村御所があった。一条氏の滅亡後に御所は荒廃したが、その跡に1607年(慶長12年)に一条氏遺臣により歴代当主の霊を祀る祠が建てられたのが当社の起源となる。
その後、1862年(文久2年)になって土佐藩の幡多郡奉行らにより幡多郡総鎮守として社殿が造営され、一條神社として改めて建立された。
現在の本殿は1944年(昭和19年)の建立である。

一條神社 鳥居
交通アクセス
鉄道:土佐くろしお鉄道中村線 中村駅(車で約5分)
バス:高知西南交通バスで「市役所前」バス停下車(下車後徒歩約3分)
所在地 高知県四万十市中村本町1-3
位置 北緯32度59分37.01秒 東経132度56分03.18秒
主祭神 若藤男命
若藤女命
一条教房と土佐一条氏歴代当主及び連枝の霊
社格等 旧県社
創建 文久2年(1862年)
別名 いちじょこさん
例祭 11月23日-11月25日(一條大祭)
2023年10月20日
阿久沢家住宅(あくざわけじゅうたく)は、群馬県前橋市柏倉町にある古民家
阿久沢家住宅(あくざわけじゅうたく)は、群馬県前橋市柏倉町にある古民家。1970年(昭和45年)6月17日、国の重要文化財に指定。

概要
阿久沢家は安部宗任の後裔と伝え、当家の保存する文書には、永禄9年(1566年)11月15日に北条高広が三夜沢赤城神社神主奈良原紀伊守に宛てて「阿久澤源三郎」らに永代寄進させる内容の書状が存在する。当家周辺に多い阿久沢家の本家筋にあたり、江戸時代初期頃から名主を務めた。
建築年代を示す史料は見つかっていないが、赤城山南麓地域にみられる赤城型民家よりも古い形式で、建築手法から17世紀末の建造と推定できる。

構造
形式・規模
形式 平屋建、寄棟造、茅葺
桁行 15.3メートル
梁間 8.2メートル
正面(南面)土庇付
間取り
東半分を土間、西半分を床上とする。床上の東側を「ザシキ」、西側南を「コザ」、西側北を「ヘヤ」(ナンド、オク、オサンベヤ)とする「三間取広間型」を呈する。東・北・西面には一切開口部がなく、南面も戸袋を用いないため、開口部は狭く閉鎖的で、内部は非常に暗かった。
土間部分が床上部分に比べてかなり広い点、入口近くに「袖すり柱」を有する点、開口部が少ない点、柱が全て手斧仕上げである点等に古い特徴が見られる。
棟は、屋根上部を土葺としてノシバ・イチハツ(アヤメ類)・イワヒバ等の植物を植える「クレグシ」となっている。

所在地 群馬県前橋市柏倉町604-1
位置 北緯36度27分4.6秒 東経139度10分6.3秒
形式・構造 茅葺寄棟造り
建築年 17世紀末
文化財 国の重要文化財

概要
阿久沢家は安部宗任の後裔と伝え、当家の保存する文書には、永禄9年(1566年)11月15日に北条高広が三夜沢赤城神社神主奈良原紀伊守に宛てて「阿久澤源三郎」らに永代寄進させる内容の書状が存在する。当家周辺に多い阿久沢家の本家筋にあたり、江戸時代初期頃から名主を務めた。
建築年代を示す史料は見つかっていないが、赤城山南麓地域にみられる赤城型民家よりも古い形式で、建築手法から17世紀末の建造と推定できる。

構造
形式・規模
形式 平屋建、寄棟造、茅葺
桁行 15.3メートル
梁間 8.2メートル
正面(南面)土庇付
間取り
東半分を土間、西半分を床上とする。床上の東側を「ザシキ」、西側南を「コザ」、西側北を「ヘヤ」(ナンド、オク、オサンベヤ)とする「三間取広間型」を呈する。東・北・西面には一切開口部がなく、南面も戸袋を用いないため、開口部は狭く閉鎖的で、内部は非常に暗かった。
土間部分が床上部分に比べてかなり広い点、入口近くに「袖すり柱」を有する点、開口部が少ない点、柱が全て手斧仕上げである点等に古い特徴が見られる。
棟は、屋根上部を土葺としてノシバ・イチハツ(アヤメ類)・イワヒバ等の植物を植える「クレグシ」となっている。

所在地 群馬県前橋市柏倉町604-1
位置 北緯36度27分4.6秒 東経139度10分6.3秒
形式・構造 茅葺寄棟造り
建築年 17世紀末
文化財 国の重要文化財
2023年10月19日
西巌殿寺(さいがんでんじ)は、熊本県阿蘇市黒川にある天台宗の寺院
西巌殿寺(さいがんでんじ)は、熊本県阿蘇市黒川にある天台宗の寺院。山号は阿蘇山。古くから阿蘇山修験道の拠点として機能し、九州の天台宗の中で最高位の寺格を持つ寺院のひとつである。
本堂は2001年に火災で焼失し礎石のみ残るが、山門をくぐり石段を登った本堂跡には阿蘇檜や公孫樹の古木が見られる。周辺には僧坊跡が点在し、多くの文化財が保管されている。

歴史
開基には二説ある。寺院が採る726年(神亀3年)説は、天竺毘舎衛国から渡来した僧・最栄が聖武天皇の勅願を受け、阿蘇山上に上り阿蘇明神・建磐龍命(たていわたつのみこと)を感得したとするものである。1144年(天養元年)説は、比叡山の慈恵大師良源の弟子・最栄が阿蘇神社大宮司友孝の許しを得て、阿蘇山上に上ったとする説である。どちらの説にも共通するのは、阿蘇山の火口の西の巌殿に十一面観音菩薩を安置して庵(山上本堂)を開き、絶えず法華経を読誦したため「最栄読師(さいえいとくし)」と呼ばれたとするものである。
阿蘇山上に最栄が庵を開いてから、多くの修行僧、修験者が阿蘇山上に集まった。それらの人々は現在の旧阿蘇山スキー場一帯の牧野に当たる地に坊舎を建て、厳しい環境の中で修行に励んだ。その数は三十六坊五十二庵と言われる。西巌殿寺とは、本堂に加えこれら坊や庵を加えた総称である。
しかしこの本堂や古坊中は、天正年間(1573年 – 1592年)に島津と大友の戦乱時に軍勢によって焼き払われてしまい、豊臣秀吉の九州統一時には宗徒や行者なども寺を去ったと伝わる。これを再興させたのが、肥後に入部した加藤清正だった。各地に散った僧侶たちを呼び戻し、山上本堂を修復するとともに麓の黒川村(現在の阿蘇市黒川)に三十六坊を復興させた。この黒川の坊は「麓(ふもと)坊中」と呼ばれ、地名も「坊中」と改められた。これに対応して、阿蘇山上の坊舎跡は「古坊中」と名称が改められた。さらに寺領も附されるなど、熊本藩の庇護は細川家時代になっても続いた。この再興には長善坊契雅という法師の尽力が功を奏したとも言われる。江戸時代には「阿蘇講」と呼ばれる観光・修験道体験が行われたり「牛王法印」の札販売などで賑わった。
明治政府が発した神仏分離令によって、西巌殿寺は廃寺が決まり、ほとんどの僧侶は還俗した。しかし1871年(明治4年)に山上本堂を麓坊中のひとつ学頭坊に移し、1874年(明治7年)には学頭坊を西巌殿寺(麓本堂)とすることで法灯は継承された。1890年(明治23年)には古跡保存のために山上本堂(奥の院)が再建された。2001年(平成13年)9月22日午後8時40分頃、不審火により麓本堂が焼失する事件が起きたが、僧坊などに保存された貴重な文化財とともに信仰を継承している。

アクセス
阿蘇登山道路坊中線を阿蘇五岳に向かい南下すると、道路沿い右手に位置する。
JR豊肥本線 阿蘇駅から徒歩5〜10分
九州産交バス、大分バス 阿蘇駅前バス停留所から徒歩5〜10分

所在地 熊本県阿蘇市黒川1114
位置 北緯32度55分53.8秒 東経131度4分45.3秒
山号 阿蘇山
宗派 天台宗
本尊 十一面観音菩薩
創建年 未詳(伝承では726年または1144年)
開基 最栄
正式名 阿蘇山西巌殿寺
別称 雲生山西巌殿寺
札所等 九州西国霊場13番
九州四十九院薬師霊場30番
肥後三十三ヵ所観音霊場1番
阿蘇西国三十三ヵ所霊場1番
本堂は2001年に火災で焼失し礎石のみ残るが、山門をくぐり石段を登った本堂跡には阿蘇檜や公孫樹の古木が見られる。周辺には僧坊跡が点在し、多くの文化財が保管されている。

歴史
開基には二説ある。寺院が採る726年(神亀3年)説は、天竺毘舎衛国から渡来した僧・最栄が聖武天皇の勅願を受け、阿蘇山上に上り阿蘇明神・建磐龍命(たていわたつのみこと)を感得したとするものである。1144年(天養元年)説は、比叡山の慈恵大師良源の弟子・最栄が阿蘇神社大宮司友孝の許しを得て、阿蘇山上に上ったとする説である。どちらの説にも共通するのは、阿蘇山の火口の西の巌殿に十一面観音菩薩を安置して庵(山上本堂)を開き、絶えず法華経を読誦したため「最栄読師(さいえいとくし)」と呼ばれたとするものである。
阿蘇山上に最栄が庵を開いてから、多くの修行僧、修験者が阿蘇山上に集まった。それらの人々は現在の旧阿蘇山スキー場一帯の牧野に当たる地に坊舎を建て、厳しい環境の中で修行に励んだ。その数は三十六坊五十二庵と言われる。西巌殿寺とは、本堂に加えこれら坊や庵を加えた総称である。
しかしこの本堂や古坊中は、天正年間(1573年 – 1592年)に島津と大友の戦乱時に軍勢によって焼き払われてしまい、豊臣秀吉の九州統一時には宗徒や行者なども寺を去ったと伝わる。これを再興させたのが、肥後に入部した加藤清正だった。各地に散った僧侶たちを呼び戻し、山上本堂を修復するとともに麓の黒川村(現在の阿蘇市黒川)に三十六坊を復興させた。この黒川の坊は「麓(ふもと)坊中」と呼ばれ、地名も「坊中」と改められた。これに対応して、阿蘇山上の坊舎跡は「古坊中」と名称が改められた。さらに寺領も附されるなど、熊本藩の庇護は細川家時代になっても続いた。この再興には長善坊契雅という法師の尽力が功を奏したとも言われる。江戸時代には「阿蘇講」と呼ばれる観光・修験道体験が行われたり「牛王法印」の札販売などで賑わった。
明治政府が発した神仏分離令によって、西巌殿寺は廃寺が決まり、ほとんどの僧侶は還俗した。しかし1871年(明治4年)に山上本堂を麓坊中のひとつ学頭坊に移し、1874年(明治7年)には学頭坊を西巌殿寺(麓本堂)とすることで法灯は継承された。1890年(明治23年)には古跡保存のために山上本堂(奥の院)が再建された。2001年(平成13年)9月22日午後8時40分頃、不審火により麓本堂が焼失する事件が起きたが、僧坊などに保存された貴重な文化財とともに信仰を継承している。

アクセス
阿蘇登山道路坊中線を阿蘇五岳に向かい南下すると、道路沿い右手に位置する。
JR豊肥本線 阿蘇駅から徒歩5〜10分
九州産交バス、大分バス 阿蘇駅前バス停留所から徒歩5〜10分

所在地 熊本県阿蘇市黒川1114
位置 北緯32度55分53.8秒 東経131度4分45.3秒
山号 阿蘇山
宗派 天台宗
本尊 十一面観音菩薩
創建年 未詳(伝承では726年または1144年)
開基 最栄
正式名 阿蘇山西巌殿寺
別称 雲生山西巌殿寺
札所等 九州西国霊場13番
九州四十九院薬師霊場30番
肥後三十三ヵ所観音霊場1番
阿蘇西国三十三ヵ所霊場1番