淡路国分寺(あわじこくぶんじ)は、兵庫県南あわじ市八木国分にある律宗の寺院。山号は護国山。本尊は釈迦如来。
奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、淡路国国分僧寺の後継寺院にあたる。
旧本堂
概要
淡路島南部、三原川中流域右岸の河岸段丘上に位置する。聖武天皇の詔で創建された国分寺(金光明四天王護国之寺)の法燈を継ぐ寺院で、現在の境内は古代の国分寺跡と重複する。諸国国分寺に遅れ奈良時代後半頃に創建されて推移したが、室町時代頃に衰退し、大永5年(1525年)・寛文5年(1665年)の2度の再興を経て現在に至っている。付近では西方に淡路国府推定地が、他に大和大国魂神社(淡路国二宮)・神本駅も立地し、古くから政治的・文化的中心地であったことが知られる。
古代国分寺跡については、塔跡が1951年(昭和26年)に国の史跡に指定されたのち、1984年(昭和59年)以降に寺域の本格的な発掘調査が実施されているが、現在までに伽藍の詳細は明らかでない。また国分寺本来の本尊を踏襲する丈六の木造釈迦如来坐像が国の重要文化財に、飛天坐像が兵庫県指定重要有形文化財に指定されている。
現本堂
交通アクセス
洲本インターチェンジより福良方面へ約8.5km、西淡三原インターチェンジより洲本方面へ5km。兵庫県道126号松帆八木線・兵庫県道478号市八木線からは八木駐在所付近より南あわじ市道立石新庄線を南へ、国道28号からは立石交差点より南あわじ市道立石新庄線]を北へ。最寄りのバス停はらん・らんバス野原東バス停で、当バス停から南あわじ市道八木77号線を西へ。
大日堂
所在地 兵庫県南あわじ市八木国分331
位置 北緯34度17分54.73秒 東経134度46分57.55秒
山号 護国山
宗派 律宗
本尊 釈迦如来
中興年 寛文5年(1665年)
中興 照運
文化財 木造釈迦如来坐像(国の重要文化財)
飛天坐像(兵庫県指定文化財)
2023年10月12日
2023年10月11日
安国寺(あんこくじ)は、広島県福山市鞆町後地にある臨済宗妙心寺派の仏教寺院
安国寺(あんこくじ)は、広島県福山市鞆町後地にある臨済宗妙心寺派の仏教寺院。山号は瑞雲山。 釈迦堂は国の重要文化財に指定されている。
釈迦堂(重要文化財)正面
歴史
文永10年(1273年) - 無本覚心(法燈国師)を開山として金宝寺(安国寺の前身)創建、釈迦堂(仏殿)建立
文永11年(1274年) - 阿弥陀三尊像を造立
暦応2年(1339年) - 足利尊氏による再興
室町時代 - 寺号を「安国寺」と改める
安土桃山時代 - 毛利輝元、安国寺恵瓊(1579年)による再興
江戸時代初期 - 京都妙心寺の末寺となる
大正9年(1920年) - 法堂を焼失
昭和2年(1927年) - 釈迦堂が重要文化財(当時の国宝)に指定される
昭和17年(1942年) - 阿弥陀三尊像、法燈国師像が重要文化財(当時の国宝)に指定される
昭和30年(1955年) - 境内が広島県の史跡に指定される
利用情報
開門時間― 8 - 17時(冬期は8時30分〜16時30分)
交通アクセス― JR山陽本線および山陽新幹線 福山駅から鞆鉄バスで30分、「安国寺下」下車 徒歩5分
所在地 広島県福山市鞆町後地990-1
位置 北緯34度23分17.2秒 東経133度22分48.0秒
山号 瑞雲山
宗旨 臨済宗
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 阿弥陀三尊
創建年 文永10年(1273年)
開基 無本覚心
別称 備後安国寺
文化財 釈迦堂、木造阿弥陀三尊立像、木造法燈国師坐像(重要文化財)
石造地蔵菩薩坐像(重要美術品)
釈迦堂(重要文化財)正面
歴史
文永10年(1273年) - 無本覚心(法燈国師)を開山として金宝寺(安国寺の前身)創建、釈迦堂(仏殿)建立
文永11年(1274年) - 阿弥陀三尊像を造立
暦応2年(1339年) - 足利尊氏による再興
室町時代 - 寺号を「安国寺」と改める
安土桃山時代 - 毛利輝元、安国寺恵瓊(1579年)による再興
江戸時代初期 - 京都妙心寺の末寺となる
大正9年(1920年) - 法堂を焼失
昭和2年(1927年) - 釈迦堂が重要文化財(当時の国宝)に指定される
昭和17年(1942年) - 阿弥陀三尊像、法燈国師像が重要文化財(当時の国宝)に指定される
昭和30年(1955年) - 境内が広島県の史跡に指定される
利用情報
開門時間― 8 - 17時(冬期は8時30分〜16時30分)
交通アクセス― JR山陽本線および山陽新幹線 福山駅から鞆鉄バスで30分、「安国寺下」下車 徒歩5分
所在地 広島県福山市鞆町後地990-1
位置 北緯34度23分17.2秒 東経133度22分48.0秒
山号 瑞雲山
宗旨 臨済宗
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 阿弥陀三尊
創建年 文永10年(1273年)
開基 無本覚心
別称 備後安国寺
文化財 釈迦堂、木造阿弥陀三尊立像、木造法燈国師坐像(重要文化財)
石造地蔵菩薩坐像(重要美術品)
2023年10月10日
旧金毘羅大芝居(きゅうこんぴらおおしばい)は、香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮・門前町にある、現存する中では日本最古の芝居小屋
旧金毘羅大芝居(きゅうこんぴらおおしばい)は、香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮・門前町にある、現存する中では日本最古の芝居小屋。別名、金丸座(かなまるざ)とも呼ばれ、国の重要文化財の指定を受けている。
歴史
古くから信仰を集める金刀比羅宮は、江戸時代には金毘羅講など多く参拝者を集め、門前町は琴平が朱印地・天領であることで取締も寛大で、様々な芝居、相撲、操り人形などの興行が行われた。芝居の興行に仮り小屋がその都度建てられていた(年3回程度)が、当時の大坂道頓堀三座のひとつでもある大西芝居(一説には大阪にあった筑後座とも云われる)を参考にして、1835年(天保6年)に棟上げを行い、翌年完成する。この金毘羅大芝居には江戸、大坂などの千両役者が舞台を踏み、全国にも知られた芝居小屋であり、また富くじの開札場としても使用された。
明治以降、稲荷座、千歳座、金丸座と名称が変わり、また地回りの芝居小屋や映画館(この際にかけすじが外される)と利用も移り変わった。映画産業の斜陽に従い、廃館となったため長く廃屋のような状態となる。(場所は現在の位置より参道や金倉川に近かった。現在は琴平町立歴史民俗資料館が建てられている。)1953年(昭和28年)11月に香川県の重要文化財として指定されるものの、熱心な復元運動も空しく、1964年(昭和39年)には指定を解除された。しかし、芝居小屋として江戸末期の劇場建築を考える上で重要な建築物として再評価され、1970年(昭和45年)には国の重要文化財として指定を受けた。(この際に名称は旧金毘羅大芝居となった。)修復の必要性や火災などの恐れもあり、文化財として保存を図るために、1972年(昭和47年)には移築復元工事が開始され、1976年(昭和51年)3月に現在の位置(琴平町乙1241番地)へ竣工した。この移築復元後に、二代目中村吉右衛門、五代目中村勘九郎、二代目澤村藤十郎がテレビ番組「すばらしき仲間」で上演を熱望するなど、上演の機運が高まり、1985年(昭和60年)に第一回の「四国こんぴら歌舞伎大芝居」が公演された。これより年1回、春の定期公演が行われるようになる。
2002年(平成14年)に建物の保存状態と耐震性能を調査を行った際に江戸時代にあった2つの仕掛けの痕跡が発見された。これにより、2003年(平成15年)に開始されたこの「平成の大修復」では、2つの仕掛けの復元とともに、耐震補強に伴い4つの鉄柱が撤去され、天保時代の造りに近づく内装状態となった。2003年(平成15年)に工事は完了し、この工事で撤去された鉄柱は記念モニュメントとして生まれ変わった。
公演
年1回、春の定期公演「四国こんぴら歌舞伎大芝居」として歌舞伎が公演される。公演の際、演出に使用される廻り舞台、花道七三のスッポン、光を取る2階の高窓の開閉など、その動作はすべて人力で行う。
金刀比羅宮成功祈願祭として役者の面々が金刀比羅宮へ成功祈願の参拝と「お練り」行列(役者が人力車に乗り琴平町内を回る)を行い、初日から千穐楽に至るまでの公演では地元住民のボランティアも運営に力を沿え地域一体で取り組んで開催されている。
公演がない一般の開館日には、舞台や花道、客席(桝席や二階席)などにとどまらず、楽屋(女形部屋、大部屋、楽屋番控など)、舞台下の奈落、から井戸、花道七三のスッポン、果ては楽屋風呂まで、至る所を見学することが出来るようになっている。
2006年には、「旧金毘羅大芝居とシェイクスピア」と題して一般公募の参加者により「じゃじゃ馬ならし」が公演された。(第48回香川県芸術祭「香川芸術フェスティバル2006」主催)
アクセス
JR四国土讃線:琴平駅
ことでん琴平線:琴電琴平駅
通称 金丸座
完成 1835年
収容人員 740人
延床面積 1,161(1階:850平方メートル、2階:311平方メートル)m2
用途 歌舞伎
所在地 〒766-0001
香川県仲多度郡琴平町字川西乙1241番地
位置 北緯34度11分4.7秒 東経133度49分4.9秒
歴史
古くから信仰を集める金刀比羅宮は、江戸時代には金毘羅講など多く参拝者を集め、門前町は琴平が朱印地・天領であることで取締も寛大で、様々な芝居、相撲、操り人形などの興行が行われた。芝居の興行に仮り小屋がその都度建てられていた(年3回程度)が、当時の大坂道頓堀三座のひとつでもある大西芝居(一説には大阪にあった筑後座とも云われる)を参考にして、1835年(天保6年)に棟上げを行い、翌年完成する。この金毘羅大芝居には江戸、大坂などの千両役者が舞台を踏み、全国にも知られた芝居小屋であり、また富くじの開札場としても使用された。
明治以降、稲荷座、千歳座、金丸座と名称が変わり、また地回りの芝居小屋や映画館(この際にかけすじが外される)と利用も移り変わった。映画産業の斜陽に従い、廃館となったため長く廃屋のような状態となる。(場所は現在の位置より参道や金倉川に近かった。現在は琴平町立歴史民俗資料館が建てられている。)1953年(昭和28年)11月に香川県の重要文化財として指定されるものの、熱心な復元運動も空しく、1964年(昭和39年)には指定を解除された。しかし、芝居小屋として江戸末期の劇場建築を考える上で重要な建築物として再評価され、1970年(昭和45年)には国の重要文化財として指定を受けた。(この際に名称は旧金毘羅大芝居となった。)修復の必要性や火災などの恐れもあり、文化財として保存を図るために、1972年(昭和47年)には移築復元工事が開始され、1976年(昭和51年)3月に現在の位置(琴平町乙1241番地)へ竣工した。この移築復元後に、二代目中村吉右衛門、五代目中村勘九郎、二代目澤村藤十郎がテレビ番組「すばらしき仲間」で上演を熱望するなど、上演の機運が高まり、1985年(昭和60年)に第一回の「四国こんぴら歌舞伎大芝居」が公演された。これより年1回、春の定期公演が行われるようになる。
2002年(平成14年)に建物の保存状態と耐震性能を調査を行った際に江戸時代にあった2つの仕掛けの痕跡が発見された。これにより、2003年(平成15年)に開始されたこの「平成の大修復」では、2つの仕掛けの復元とともに、耐震補強に伴い4つの鉄柱が撤去され、天保時代の造りに近づく内装状態となった。2003年(平成15年)に工事は完了し、この工事で撤去された鉄柱は記念モニュメントとして生まれ変わった。
公演
年1回、春の定期公演「四国こんぴら歌舞伎大芝居」として歌舞伎が公演される。公演の際、演出に使用される廻り舞台、花道七三のスッポン、光を取る2階の高窓の開閉など、その動作はすべて人力で行う。
金刀比羅宮成功祈願祭として役者の面々が金刀比羅宮へ成功祈願の参拝と「お練り」行列(役者が人力車に乗り琴平町内を回る)を行い、初日から千穐楽に至るまでの公演では地元住民のボランティアも運営に力を沿え地域一体で取り組んで開催されている。
公演がない一般の開館日には、舞台や花道、客席(桝席や二階席)などにとどまらず、楽屋(女形部屋、大部屋、楽屋番控など)、舞台下の奈落、から井戸、花道七三のスッポン、果ては楽屋風呂まで、至る所を見学することが出来るようになっている。
2006年には、「旧金毘羅大芝居とシェイクスピア」と題して一般公募の参加者により「じゃじゃ馬ならし」が公演された。(第48回香川県芸術祭「香川芸術フェスティバル2006」主催)
アクセス
JR四国土讃線:琴平駅
ことでん琴平線:琴電琴平駅
通称 金丸座
完成 1835年
収容人員 740人
延床面積 1,161(1階:850平方メートル、2階:311平方メートル)m2
用途 歌舞伎
所在地 〒766-0001
香川県仲多度郡琴平町字川西乙1241番地
位置 北緯34度11分4.7秒 東経133度49分4.9秒
2023年10月09日
安国寺(あんこくじ)は、沖縄県那覇市首里寒川町にある臨済宗妙心寺派の寺院
2023年10月08日
戒壇院(かいだんいん)は、福岡県太宰府市にある臨済宗の寺院
戒壇院(かいだんいん)は、福岡県太宰府市にある臨済宗の寺院。奈良時代において、出家者が正式の僧尼となるために必要な戒律を授けるために設置された施設で、「筑紫戒壇院(ちくしかいだんいん)」とも称される。
古くは観世音寺の一部であった。西戒壇(さいかいだん)として、中央戒壇(奈良の東大寺)・東戒壇(栃木の下野薬師寺)とともに「天下三戒壇」の1つである。
戒壇院 本堂
歴史
奈良時代の半ばの天平勝宝5年(753年)12月20日に仏舎利を携え薩摩坊津で来日に成功した唐僧鑑真が、同じ年の12月26日に太宰府を訪れこの戒壇院の地で初の授戒を行った。開山は鑑真であり、戒壇院は現在も奈良時代以来同じ場所にあるとされている。宗派を超えて僧が集い学ぶという開山の精神から地元では八宗兼学寺とも呼ばれた。一方で日本書紀には天平宝字5年(761年)に聖武天皇の勅願により観世音寺の境内の西南部の一角に戒壇院が設置されたとあるが、鑑真は天平勝宝6年(754年)1月には平城京に至り、東大寺に住すこととなった。
以降西海道唯一の戒壇として興隆を続けるも、中世に至って衰退を重ね、寛文9(1669年)崇福寺の智玄和尚によって本尊の修理が施され、黒田光之の家臣、鎌田昌勝の諸堂宇再興を経て、元禄16年(1703年)に観世音寺から独立。現在は福岡県福岡市博多区にある臨済宗妙心寺派の聖福寺の末寺として存続している。現在の本堂は延宝8年(1680年)、光之の命により豪商、天王寺の了夢再建のものとされている。
山門
境内
本堂
本尊盧舎那仏坐像は平安時代末期の作で、国の重要文化財に指定されている。両脇侍像は江戸期の作。
本堂内の戒壇には天竺(インド)、唐(中国)、大和(奈良)三国の土が納められているとされる。
鐘楼
梵鐘は博多の鋳物師礒野七平の手による元禄14年(1701年)の作品である。江戸時代に博多の萬町で酒醸造業で財をなした楠屋白木玄流の臨終の遺言により寄進された。梵鐘の塔の前に白木玄流氏寄贈と記載されている木札が立てられている。玄流は黒田騒動の栗山利章(栗山大膳)の甥である白木孫右衛門の子である。大膳が主君を幕府に訴えた罪で津軽に配流されたために、孫右衛門も糟屋郡で牢人となり病死した。一歳で孤児となった玄流は宗像で慈愛に満ちた百姓の夫婦に引き取られ成長した。志を立て福岡に戻り、薬院の楠屋の援助を得て、酒醸造業にて成功した。育ててくれた養父、養母に感謝して、臨終の際に念願であった戒壇院の梵鐘を寄進を遺言した。
鐘楼(福岡県指定文化財)
木造盧舎那仏坐像(中央)国の重要文化財
現地情報
所在地
福岡県太宰府市観世音寺5-6-1
境内は観世音寺の西南隅に位置しており、配置は奈良時代から動いていないとされる。
交通アクセス
鉄道
西日本鉄道(西鉄)太宰府線 西鉄五条駅 から徒歩約10分(800m)
西日本鉄道(西鉄)太宰府線 太宰府駅から徒歩約16分 (1300m)
西日本鉄道(西鉄)天神大牟田線 都府楼前駅 から徒歩約15分(1500m)
バス
都府楼前駅、太宰府駅、西鉄五条駅からまほろば号北谷回りに乗車し「観世音寺前」バス停下車徒歩すぐ
博多駅から西鉄バス(400系統)で「筑陽学園前」バス停下車、徒歩8分(700m)
自家用車
九州自動車道太宰府インターチェンジから3.8q
古くは観世音寺の一部であった。西戒壇(さいかいだん)として、中央戒壇(奈良の東大寺)・東戒壇(栃木の下野薬師寺)とともに「天下三戒壇」の1つである。
戒壇院 本堂
歴史
奈良時代の半ばの天平勝宝5年(753年)12月20日に仏舎利を携え薩摩坊津で来日に成功した唐僧鑑真が、同じ年の12月26日に太宰府を訪れこの戒壇院の地で初の授戒を行った。開山は鑑真であり、戒壇院は現在も奈良時代以来同じ場所にあるとされている。宗派を超えて僧が集い学ぶという開山の精神から地元では八宗兼学寺とも呼ばれた。一方で日本書紀には天平宝字5年(761年)に聖武天皇の勅願により観世音寺の境内の西南部の一角に戒壇院が設置されたとあるが、鑑真は天平勝宝6年(754年)1月には平城京に至り、東大寺に住すこととなった。
以降西海道唯一の戒壇として興隆を続けるも、中世に至って衰退を重ね、寛文9(1669年)崇福寺の智玄和尚によって本尊の修理が施され、黒田光之の家臣、鎌田昌勝の諸堂宇再興を経て、元禄16年(1703年)に観世音寺から独立。現在は福岡県福岡市博多区にある臨済宗妙心寺派の聖福寺の末寺として存続している。現在の本堂は延宝8年(1680年)、光之の命により豪商、天王寺の了夢再建のものとされている。
山門
境内
本堂
本尊盧舎那仏坐像は平安時代末期の作で、国の重要文化財に指定されている。両脇侍像は江戸期の作。
本堂内の戒壇には天竺(インド)、唐(中国)、大和(奈良)三国の土が納められているとされる。
鐘楼
梵鐘は博多の鋳物師礒野七平の手による元禄14年(1701年)の作品である。江戸時代に博多の萬町で酒醸造業で財をなした楠屋白木玄流の臨終の遺言により寄進された。梵鐘の塔の前に白木玄流氏寄贈と記載されている木札が立てられている。玄流は黒田騒動の栗山利章(栗山大膳)の甥である白木孫右衛門の子である。大膳が主君を幕府に訴えた罪で津軽に配流されたために、孫右衛門も糟屋郡で牢人となり病死した。一歳で孤児となった玄流は宗像で慈愛に満ちた百姓の夫婦に引き取られ成長した。志を立て福岡に戻り、薬院の楠屋の援助を得て、酒醸造業にて成功した。育ててくれた養父、養母に感謝して、臨終の際に念願であった戒壇院の梵鐘を寄進を遺言した。
鐘楼(福岡県指定文化財)
木造盧舎那仏坐像(中央)国の重要文化財
現地情報
所在地
福岡県太宰府市観世音寺5-6-1
境内は観世音寺の西南隅に位置しており、配置は奈良時代から動いていないとされる。
交通アクセス
鉄道
西日本鉄道(西鉄)太宰府線 西鉄五条駅 から徒歩約10分(800m)
西日本鉄道(西鉄)太宰府線 太宰府駅から徒歩約16分 (1300m)
西日本鉄道(西鉄)天神大牟田線 都府楼前駅 から徒歩約15分(1500m)
バス
都府楼前駅、太宰府駅、西鉄五条駅からまほろば号北谷回りに乗車し「観世音寺前」バス停下車徒歩すぐ
博多駅から西鉄バス(400系統)で「筑陽学園前」バス停下車、徒歩8分(700m)
自家用車
九州自動車道太宰府インターチェンジから3.8q
2023年10月07日
延命寺(えんめいじ)は、福島県会津若松市にある真言宗豊山派の寺院
延命寺(えんめいじ)は、福島県会津若松市にある真言宗豊山派の寺院。山号は伽羅陀山、迦羅陀山。境内にある延命寺地蔵堂(えんめいじじぞうどう)は、国の重要文化財で、藤倉二階堂(ふじくらにかいどう)ともよばれる。
延命寺地蔵堂(重要文化財)
歴史
大同2年(807年)に徳一によって慧日寺の塔頭寺として建立されたと伝えられる。その後、延久元年(1069年)に承恵によって中興されたが、慧日寺の隆盛、衰退とともにそれを繰り返した。
天文年間(1532年- 1554年)に賢長によって修補されたが、寛文年間(1661年- 1672年)に本堂が焼失し、再建されるも戊辰戦争で新政府軍によって村ごと焼き払われた。この兵火によって地蔵堂以外の本堂、客殿、庫裏等の建造物は焼失したが、本尊と数体の仏像、過去帳は持ち出され、焼失をまぬがれた。平成3年(1991年)、本堂、庫裏、鐘楼が再建された。
延命寺地蔵堂
延命寺境内にあり、室町時代中期の建立とされる。地蔵堂は、桁行3間、梁間3間、屋根は本瓦葺、一重裳階(もこし)付きで寄棟造の禅宗様建築である。屋根が重層になっているため、俗に二階堂とよばれる。明治36年(1903年)4月15日、旧古社寺保存法によって特別保護建造物(後の国宝保存法による旧国宝)に指定され、現在は国の重要文化財に指定されている。
明治期の指定時は茅葺屋根であったが、大正2年(1913年)の解体修理の際に本瓦葺に葺き替えられた。
所在地 福島県会津若松市河東町倉橋字藤倉160番地の2
位置 北緯37度32分01秒 東経139度55分54秒
山号 伽羅陀山
宗派 真言宗豊山派
本尊 大日如来
創建年 伝・ 大同2年(807年)
開基 伝・徳一
中興年 延久元年(1069年)
中興 承恵
正式名 伽羅陀山地蔵院延命寺
文化財 延命寺地蔵堂(国の重要文化財)
延命寺地蔵堂(重要文化財)
歴史
大同2年(807年)に徳一によって慧日寺の塔頭寺として建立されたと伝えられる。その後、延久元年(1069年)に承恵によって中興されたが、慧日寺の隆盛、衰退とともにそれを繰り返した。
天文年間(1532年- 1554年)に賢長によって修補されたが、寛文年間(1661年- 1672年)に本堂が焼失し、再建されるも戊辰戦争で新政府軍によって村ごと焼き払われた。この兵火によって地蔵堂以外の本堂、客殿、庫裏等の建造物は焼失したが、本尊と数体の仏像、過去帳は持ち出され、焼失をまぬがれた。平成3年(1991年)、本堂、庫裏、鐘楼が再建された。
延命寺地蔵堂
延命寺境内にあり、室町時代中期の建立とされる。地蔵堂は、桁行3間、梁間3間、屋根は本瓦葺、一重裳階(もこし)付きで寄棟造の禅宗様建築である。屋根が重層になっているため、俗に二階堂とよばれる。明治36年(1903年)4月15日、旧古社寺保存法によって特別保護建造物(後の国宝保存法による旧国宝)に指定され、現在は国の重要文化財に指定されている。
明治期の指定時は茅葺屋根であったが、大正2年(1913年)の解体修理の際に本瓦葺に葺き替えられた。
所在地 福島県会津若松市河東町倉橋字藤倉160番地の2
位置 北緯37度32分01秒 東経139度55分54秒
山号 伽羅陀山
宗派 真言宗豊山派
本尊 大日如来
創建年 伝・ 大同2年(807年)
開基 伝・徳一
中興年 延久元年(1069年)
中興 承恵
正式名 伽羅陀山地蔵院延命寺
文化財 延命寺地蔵堂(国の重要文化財)
2023年10月06日
札幌市時計台(さっぽろしとけいだい)は、北海道札幌市中央区北1条西2丁目にある歴史的建造物
札幌市時計台(さっぽろしとけいだい)は、北海道札幌市中央区北1条西2丁目にある歴史的建造物である。重要文化財(1970年6月17日指定)。
正式名称を「旧札幌農学校演武場」(きゅう-さっぽろのうがっこう-えんぶじょう)と称する。現在の通称は「札幌時計台」、もしくは単に「時計台」と呼ばれ、多くの観光客が訪れる名所になった。
概要
三角屋根の上に大時計を載せた特徴的な外観の建築物であり、時計台としては日本最古である。
計画者は札幌農学校の2代目教頭であったウィリアム・ホイーラーであり、北辺警備に備えた訓練を目的として、安達喜幸をはじめとする北海道開拓使工業局による設計・監督の下建造された、バルーンフレーム構造の木造2階建(時計部分の塔屋を除く)である。屋根は鉄板葺き、高さは19.825m、延面積は約760m2である。
北海道大学の発祥の地であるため、同大学とは密接な関係にあり、1階の展示室では北海道大学附属図書館に所蔵されている資料が多く展示されている。この他、同大学のイベント会場としても使用されることが多く、現在でも「時計台サロン」などの市民公開セミナーなどが開催されている。また、1階売店では北大関連グッズも販売されている。
2階は貸ホールとしての機能も有しており、コンサートなどのイベントが頻繁に開催されている。
かつては札幌市の図書館として使われていたこともある。2008年(平成20年)から指定管理者制度を導入。
北海道庁旧本庁舎(赤レンガ庁舎)と並び、札幌市中心部の有名観光スポットであり、札幌市のカントリーサインのデザインとしても使用される札幌市の象徴的建物である。また道外では札幌ラーメンの店の看板や北海道観光のポスターに多用されるなど、札幌のみならず北海道の象徴とされる例も多いほか、北海道日本ハムファイターズの応援歌の歌詞にも使われている。
壁面は白く塗られているが、1995年(平成7年)から実施された保存修理時の調査で、創建当初は壁が灰色、柱や窓枠が茶色に塗られていたことが判明した。壁は緑色に塗られていた時期もあり、白の塗装となったのは1953年(昭和28年)からである。上述の保存修理に際して、壁の色は創建時の灰色に戻すことはせず、長年親しまれた白色としている。
観光名所としての時計台
現在は、高層ビル群に囲まれている。
鐘の音も高層ビルに阻まれて、現在は時計台周辺でしか聞こえないが、市内の小学校などでは、時刻によって録音された鐘の音を鳴らしている。
周囲をビルに囲まれており、その景観などの理由から「日本三大がっかりスポット」と称されることもあり、過去に中島公園や円山公園への移転案が具体化されたことがあったが、市民からは「時計台は立ちはだかるビルの間にあってこそ生きた歴史である」等の反対意見が多数を占め、結局札幌市議会の可決により、1966年に永久保存が決定された。
時計台を擬人化したデザインの非公式キャラクターとして札幌市の土産品企業・小六による2004年制定の「とっけ」と、2005年に時計台とさっぽろテレビ塔の共通入場券発売を機に制定された「時計大臣」があり、後者はさっぽろテレビ塔の非公式キャラクター「テレビ父さん」と同じく工房アルティスタが製作している。
時計台に足を踏み入れると、1階部分ではこうした農学校や演武場にまつわる歴史を学ぶことができます。当時の貴重な資料や写真が数多く展示されているので、なかなかおもしろいです
平成30(2018)年に塗装の塗り替えなど改修工事をしていたことも記憶に新しいですが、これまで実はどんどん塗装の色が変化していたって知ってましたか? 展示では、そんな意外な事実も知ることができます
2階に上がると、演武場だった時代を再現した空間が広がっています。昔の生徒たちは、こうした長椅子に並んで式典に参加していたのかな……なんて、妄想も広がります
そして札幌農学校といえばやはり、クラーク博士! 実は演武場も、クラーク博士の構想に基づいて建てられたのだとか。2階には、クラーク博士と2ショット写真を撮れるこんなスペースもあります
ハワード社の振子式塔時計は、今もなお現役で動き続けています。近年、国内で稼働している塔時計の中で、もっとも古いものであることが確認されました
交通
札幌市営地下鉄大通駅から徒歩5分(通りを挟んだ南向かい側には市役所本庁舎が所在している)。
旧名称 札幌農学校演武場
旧用途 演武場
設計者 北海道開拓使工業局
建築主 中央区
事業主体 札幌市
管理運営 エムエムエスマンションマネージメントサービス(指定管理者)
構造形式 木造
延床面積 759.811 m2
階数 2階
高さ 19.825m
着工 1878年6月
竣工 1878年10月16日
所在地 〒060-0001
北海道札幌市中央区北1条西2丁目
座標 北緯43度03分45秒 東経141度21分13秒
文化財 重要文化財
指定・登録等日 1970年6月17日
正式名称を「旧札幌農学校演武場」(きゅう-さっぽろのうがっこう-えんぶじょう)と称する。現在の通称は「札幌時計台」、もしくは単に「時計台」と呼ばれ、多くの観光客が訪れる名所になった。
概要
三角屋根の上に大時計を載せた特徴的な外観の建築物であり、時計台としては日本最古である。
計画者は札幌農学校の2代目教頭であったウィリアム・ホイーラーであり、北辺警備に備えた訓練を目的として、安達喜幸をはじめとする北海道開拓使工業局による設計・監督の下建造された、バルーンフレーム構造の木造2階建(時計部分の塔屋を除く)である。屋根は鉄板葺き、高さは19.825m、延面積は約760m2である。
北海道大学の発祥の地であるため、同大学とは密接な関係にあり、1階の展示室では北海道大学附属図書館に所蔵されている資料が多く展示されている。この他、同大学のイベント会場としても使用されることが多く、現在でも「時計台サロン」などの市民公開セミナーなどが開催されている。また、1階売店では北大関連グッズも販売されている。
2階は貸ホールとしての機能も有しており、コンサートなどのイベントが頻繁に開催されている。
かつては札幌市の図書館として使われていたこともある。2008年(平成20年)から指定管理者制度を導入。
北海道庁旧本庁舎(赤レンガ庁舎)と並び、札幌市中心部の有名観光スポットであり、札幌市のカントリーサインのデザインとしても使用される札幌市の象徴的建物である。また道外では札幌ラーメンの店の看板や北海道観光のポスターに多用されるなど、札幌のみならず北海道の象徴とされる例も多いほか、北海道日本ハムファイターズの応援歌の歌詞にも使われている。
壁面は白く塗られているが、1995年(平成7年)から実施された保存修理時の調査で、創建当初は壁が灰色、柱や窓枠が茶色に塗られていたことが判明した。壁は緑色に塗られていた時期もあり、白の塗装となったのは1953年(昭和28年)からである。上述の保存修理に際して、壁の色は創建時の灰色に戻すことはせず、長年親しまれた白色としている。
観光名所としての時計台
現在は、高層ビル群に囲まれている。
鐘の音も高層ビルに阻まれて、現在は時計台周辺でしか聞こえないが、市内の小学校などでは、時刻によって録音された鐘の音を鳴らしている。
周囲をビルに囲まれており、その景観などの理由から「日本三大がっかりスポット」と称されることもあり、過去に中島公園や円山公園への移転案が具体化されたことがあったが、市民からは「時計台は立ちはだかるビルの間にあってこそ生きた歴史である」等の反対意見が多数を占め、結局札幌市議会の可決により、1966年に永久保存が決定された。
時計台を擬人化したデザインの非公式キャラクターとして札幌市の土産品企業・小六による2004年制定の「とっけ」と、2005年に時計台とさっぽろテレビ塔の共通入場券発売を機に制定された「時計大臣」があり、後者はさっぽろテレビ塔の非公式キャラクター「テレビ父さん」と同じく工房アルティスタが製作している。
時計台に足を踏み入れると、1階部分ではこうした農学校や演武場にまつわる歴史を学ぶことができます。当時の貴重な資料や写真が数多く展示されているので、なかなかおもしろいです
平成30(2018)年に塗装の塗り替えなど改修工事をしていたことも記憶に新しいですが、これまで実はどんどん塗装の色が変化していたって知ってましたか? 展示では、そんな意外な事実も知ることができます
2階に上がると、演武場だった時代を再現した空間が広がっています。昔の生徒たちは、こうした長椅子に並んで式典に参加していたのかな……なんて、妄想も広がります
そして札幌農学校といえばやはり、クラーク博士! 実は演武場も、クラーク博士の構想に基づいて建てられたのだとか。2階には、クラーク博士と2ショット写真を撮れるこんなスペースもあります
ハワード社の振子式塔時計は、今もなお現役で動き続けています。近年、国内で稼働している塔時計の中で、もっとも古いものであることが確認されました
交通
札幌市営地下鉄大通駅から徒歩5分(通りを挟んだ南向かい側には市役所本庁舎が所在している)。
旧名称 札幌農学校演武場
旧用途 演武場
設計者 北海道開拓使工業局
建築主 中央区
事業主体 札幌市
管理運営 エムエムエスマンションマネージメントサービス(指定管理者)
構造形式 木造
延床面積 759.811 m2
階数 2階
高さ 19.825m
着工 1878年6月
竣工 1878年10月16日
所在地 〒060-0001
北海道札幌市中央区北1条西2丁目
座標 北緯43度03分45秒 東経141度21分13秒
文化財 重要文化財
指定・登録等日 1970年6月17日
2023年10月05日
西蓮寺(さいれんじ)は、三重県伊賀市にある天台真盛宗の別格中本山
西蓮寺(さいれんじ)は、三重県伊賀市にある天台真盛宗の別格中本山。山号は医王山。本尊は阿弥陀如来。
西蓮寺(三重県伊賀市長田)。本堂。
歴史
この寺は、創建年代については不詳であるが、もと補陀落寺の一堂として建立されたもので、室町時代後期の延徳年間(1489年 - 1492年)天台宗真盛派の祖真盛がこの堂を寺に改めて西蓮寺と号した。真盛はこの寺で別時念仏を修したが、この寺で没している。江戸時代には藤堂氏の帰依を得た。
所在地 三重県伊賀市長田1931
位置 北緯34度45分35.1秒 東経136度6分22.1秒
山号 医王山
宗旨 天台真盛宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 不詳
開基 不詳
正式名 医王山無量寿院西蓮寺
札所等 東海近畿地蔵霊場 第6番
真盛上人二十五霊場 第25番
西蓮寺(三重県伊賀市長田)。本堂。
歴史
この寺は、創建年代については不詳であるが、もと補陀落寺の一堂として建立されたもので、室町時代後期の延徳年間(1489年 - 1492年)天台宗真盛派の祖真盛がこの堂を寺に改めて西蓮寺と号した。真盛はこの寺で別時念仏を修したが、この寺で没している。江戸時代には藤堂氏の帰依を得た。
所在地 三重県伊賀市長田1931
位置 北緯34度45分35.1秒 東経136度6分22.1秒
山号 医王山
宗旨 天台真盛宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 不詳
開基 不詳
正式名 医王山無量寿院西蓮寺
札所等 東海近畿地蔵霊場 第6番
真盛上人二十五霊場 第25番
2023年10月04日
旧登米高等尋常小学校校舎(きゅうとよまじんじょうしょうがっこうこうしゃ)は、宮城県登米市(旧登米町)にある歴史的建造物
旧登米高等尋常小学校校舎(きゅうとよまじんじょうしょうがっこうこうしゃ)は、宮城県登米市(旧登米町)にある歴史的建造物。国の重要文化財に指定されている。
旧登米高等尋常小学校校舎(教育資料館)
概要
1888年に建てられたコの字形をした二階建ての木造建築で、コの字の内側に吹き抜けの片廊下があり、正面玄関上がバルコニーとなっている。下見板張りの外壁に寄棟造の屋根を瓦で葺き、1870年代の擬洋風建築とは異なる和洋折衷で、当時の洋風学校建築の変遷を知ることができる建物である。
1980年代の半ば頃、地元の登米中学校建て替えの際に仮の校舎として使用されていた時期があった。
1989年から教育資料館として開放され、建物の中は当時の学校を再現した教室や、戦前の教育に関する資料を展示している。また映画のロケ地としても利用されている。
後身の登米市立登米小学校校舎(鉄筋コンクリート造、4階建、陸屋根)も地続きにある。
周囲には警察資料館、蔵の資料館、水沢県庁記念館など明治期の建造物が多く現存しており、一帯は「みやぎの明治村」とも呼ばれている。
建築概要
所在地:宮城県登米市登米町寺池桜小路6
構造形式:木造、建築面積841.7m2、二階建、桟瓦葺
建築年代:1888年
重要文化財指定年月日:1981年6月5日
アクセス
JR仙台駅前から東日本急行・仙台 - とよま線高速バスで「とよま明治村」下車。
旧登米高等尋常小学校校舎(教育資料館)
概要
1888年に建てられたコの字形をした二階建ての木造建築で、コの字の内側に吹き抜けの片廊下があり、正面玄関上がバルコニーとなっている。下見板張りの外壁に寄棟造の屋根を瓦で葺き、1870年代の擬洋風建築とは異なる和洋折衷で、当時の洋風学校建築の変遷を知ることができる建物である。
1980年代の半ば頃、地元の登米中学校建て替えの際に仮の校舎として使用されていた時期があった。
1989年から教育資料館として開放され、建物の中は当時の学校を再現した教室や、戦前の教育に関する資料を展示している。また映画のロケ地としても利用されている。
後身の登米市立登米小学校校舎(鉄筋コンクリート造、4階建、陸屋根)も地続きにある。
周囲には警察資料館、蔵の資料館、水沢県庁記念館など明治期の建造物が多く現存しており、一帯は「みやぎの明治村」とも呼ばれている。
建築概要
所在地:宮城県登米市登米町寺池桜小路6
構造形式:木造、建築面積841.7m2、二階建、桟瓦葺
建築年代:1888年
重要文化財指定年月日:1981年6月5日
アクセス
JR仙台駅前から東日本急行・仙台 - とよま線高速バスで「とよま明治村」下車。
2023年10月03日
三福寺(さんふくじ)は、宮崎県延岡市北町にある浄土宗寺院
三福寺(さんふくじ)は、宮崎県延岡市北町にある浄土宗寺院。山号は九品山。五ヶ瀬川の南方に所在する。所蔵の鍍銀蓮池文華鬘は宮崎県指定有形文化財。等級は15等。
三福寺(宮崎県延岡市)
歴史
肥前国高来郡有馬荘日野江(長崎県南島原市北有馬町日野江町(日之江)に有馬直純が創建した有馬山(満字山)観三寺の末寺で、慶長19年(1614年)創建とされる。直純が延岡藩に転封されるとこれに同行する。初めは臼杵郡(東臼杵郡)大貫村(延岡市大貫町)にあったが、有馬家が糸魚川藩に転封されると随行せず延岡藩に留まり、有馬家とともに糸魚川藩に移った白道寺の跡地である現在地に移転する。
三浦家時代の「御先代除高覚」に寺領100石とある。また牧野貞通の常陸国笠間藩転封直前の「寺社領境内御除地覚」(延享4年(1747年))に4反1畝とある。寺の広間の扉に牧野家定紋が残る。
延享4年(1747年)に牧野貞通に代わって内藤政樹が延岡藩に転封してくると、延岡藩主家内藤家の国元の菩提寺となる。寺には内藤家累代の墓碑がある他、有馬直純や有馬氏家臣の墓碑がある。
所在地 宮崎県延岡市北町2丁目1番3号
位置 北緯32度34分58.4秒 東経131度39分56.5秒
山号 九品山
院号 月光院(月光院殿金吾身誉崇出大居士、有馬直純の法名)
宗旨 浄土宗
寺格 浄土宗15等寺院
創建年 慶長19年(1614年)
開山 幡随意白道(円蓮社智誉向阿白道)
正式名 九品山月光院三福寺
文化財 鍍銀蓮池文華鬘(宮崎県指定有形文化財)
三福寺(宮崎県延岡市)
歴史
肥前国高来郡有馬荘日野江(長崎県南島原市北有馬町日野江町(日之江)に有馬直純が創建した有馬山(満字山)観三寺の末寺で、慶長19年(1614年)創建とされる。直純が延岡藩に転封されるとこれに同行する。初めは臼杵郡(東臼杵郡)大貫村(延岡市大貫町)にあったが、有馬家が糸魚川藩に転封されると随行せず延岡藩に留まり、有馬家とともに糸魚川藩に移った白道寺の跡地である現在地に移転する。
三浦家時代の「御先代除高覚」に寺領100石とある。また牧野貞通の常陸国笠間藩転封直前の「寺社領境内御除地覚」(延享4年(1747年))に4反1畝とある。寺の広間の扉に牧野家定紋が残る。
延享4年(1747年)に牧野貞通に代わって内藤政樹が延岡藩に転封してくると、延岡藩主家内藤家の国元の菩提寺となる。寺には内藤家累代の墓碑がある他、有馬直純や有馬氏家臣の墓碑がある。
所在地 宮崎県延岡市北町2丁目1番3号
位置 北緯32度34分58.4秒 東経131度39分56.5秒
山号 九品山
院号 月光院(月光院殿金吾身誉崇出大居士、有馬直純の法名)
宗旨 浄土宗
寺格 浄土宗15等寺院
創建年 慶長19年(1614年)
開山 幡随意白道(円蓮社智誉向阿白道)
正式名 九品山月光院三福寺
文化財 鍍銀蓮池文華鬘(宮崎県指定有形文化財)