2015年06月19日
本紹介 No. 022 中村 元 著『釈尊の生涯』
中村 元 著『釈尊の生涯』
前回の本紹介は水野弘元 著『釈尊の生涯』でした。
釈尊の生涯を多角的に捉えるためにほかの方の釈尊の生涯に関する著作を読みたいと思い、次にこの本を選びました。
中村 元 著『釈尊の生涯』(平凡社 2003)
タイトルが一緒。
構成
文庫本よりすこし大きめ(16 x 11 cm)、244ページ、図はない
構成は以下の通り。
序
問題の所在
第一章 誕生
第二章 若き日
第三章 求道
第四章 真理を悟る
第五章 真理を説く
第六章 有力信徒の帰依
第七章 晩年
解説 <道の人>としてのゴータマと中村先生 玄侑宗久
シンプル
内容
仏伝でも仏伝研究でもない。神話的要素や後世の付加をできるだけ排除して、歴史的人物としての釈尊を可能なかぎり事実に近いすがたで示そうと努めている。
本書ではパーリ語や漢訳の原始仏典だけでなく、梵語やチベット蔵経を含めた文献比較研究に加え、インド学やインド思想史上の検討、考古学的資料および実施踏査にもとづく風土的考察検討も行っているらしい。
厳密な文献学的研究により仏伝および仏教教義に対する純粋批判的な態度により、より始原的な釈尊の教えを抜きだそうとしている。
文章は大変読みやすく、理解しやすい。また、釈尊の生涯を釈尊のことばで語ることを基本としており、珠玉の名句が並ぶ。ただし、その出典がほとんど不明であるのは残念。
二つの『釈尊の生涯』から見えてくる釈尊の教えの成立は次の三つを基盤にしているように思う。
(1)新興王権勢力や貨幣経済の台頭
(2)形式化された因習や堕落したバラモンやへの不満
(3)同時期に発生した新興宗教の教義・思想への不満
これは、社会勢力の変化が伝統的社会基盤であるバラモンへの不満を増大させ、新しい宗教の到来を促したことを示す。
そのため、釈尊の教えは
(2)当時の因習を離れ、
(3)他の新興宗教の教義の不備を打破することで集団改宗を促し、
(1)王の帰依による国レベルでの帰化を可能にし、大教団を支持する経済的基盤を獲得した。
そもそもバラモンや新興宗教の教義に満足できたなら、釈尊は新しい教えを見出す必要はなく、王権や商人も釈尊を支持することもなかったかと思う。
このことから釈尊の教えは因習的バラモンへのアンチテーゼとして確立されており、開かれ、自由で、形式化された教義に囚われることがない。
釈尊は自然の摂理をありのままに見、すべては苦であると感じ、苦の連鎖を断ち切る術を確立した。それは新たな教えを渇望するものには誰にでも可能であり、個々に異なる苦へ対応するための基本的な実践的システムとして成立している。
一方で、対機説法といわれる釈尊の教えは個々人を教義に合わせるのではなく、各個人の苦を除くための実践的方法を教え、導いた。これら個々人への教えがのちに教義へと結実したものと考えられる。
本書には出典や参考文献が載っていないので参考資料としては使いにくく、さらに深く進むことが難しい。釈尊を理解するためには原始仏典に順にあたるしかないのかもしれない。
また、本書は水野弘元氏の『釈尊の生涯』とは必ずしも重ならない内容も多い。何を取捨選択して釈尊の生涯を浮かび上がらせるかは著者に依存しており、さらに他の釈尊伝に目を通す必要があると感じた。
曼荼羅作画とのかかわり
「私は身の行い・口の行い・心の行い・生活が完全に清まっている。」と釈尊が語ったとあり、このことは密教修行の身口意につながる思いがする。
原始仏教と密教ではその成立時期も社会的基盤も思想的背景も異なるものと考えられるが、それにもかかわらず、密教の世界観が『釈尊の生涯』から部分的にでも見出されうるのは、密教が釈尊の起こした仏教の流れの中に確固として位置していることをあらためて感じた。
一方で、密教は原始仏教の思想的発展のみによって形作られたのではなく、密教を形成した他の思想的基盤をさらに理解する必要性も同様に感じた。
話は変わるけど、本書の表紙の絵がうつくしい。
では、また〜ヾ(。・ω・。)ノ
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