アフィリエイト広告を利用しています
アクセスカウンター
ファン
カテゴリアーカイブ
タグクラウド
<< 2015年10月 >>
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
最新記事
最新コメント
金剛界 一印会 尊像入れ 下絵完成 by ブログ主=eshi: (04/20)
金剛界 一印会 尊像入れ 下絵完成 by vajsm (04/19)
金剛界 四印会について by ブログ主=eshi: (04/18)
金剛界 四印会について by vajsm (04/18)
写真ギャラリー
日別アーカイブ

広告

posted by fanblog

2015年04月23日

金剛界 一印会 尊像入れ 下絵完成

一印会 下絵完成

なんとか毘盧遮那如来を描き入れ一印会下絵が完成しました。

_DSC5394-Edit.jpg
(一印会 下絵完成)
大きな尊像を細部まで描くのは楽しい

で、これはパーツを貼り付けた下絵製図と重なっているので、下絵のみにすると

_DSC5397-Edit.jpg
(一印会 下絵のみ)

一尊のみなので、ギャラリーというほどのこともできませんで、毘盧遮那如来のお顔と全身の写真だけあげて一印会下絵作図を終えます。
一印会下絵 毘盧遮那如来

_DSC5397-Edit-Edit-Edit.jpg
(一印会 毘盧遮那如来御尊顔)

_DSC5397-Edit-Edit.jpg
(一印会 毘盧遮那如来全身)

今回の一印会下絵を描くにあたって、西院本金剛界曼荼羅一印会 毘盧遮那如来を細部まで何度も目を通しました。

まだ胎蔵界曼荼羅を描いていないのでなんとも言えないが、この一印会 毘盧遮那如来を見る限り胎蔵界曼荼羅より金剛界曼荼羅のほうが劣っているとは思えない。

一印会 毘盧遮那如来は僕にとって、こころあらわれるおもいのする大変すばらしい御尊像である。
あれっ?

これどっかで見たことあるぞ?
『西院本曼荼羅』を見ている時はわからなかったけど今回描いた下絵をみたら似たような・・・というかほぼ同じ構図の絵を見たことがあることに気づきました。

で、探してみたらありました。 コレ
               ⇩
一字金輪像.jpg
(東京国立博物館蔵『一字金輪像』全体)

一字金輪像L2.jpg
(東京国立博物館蔵『一字金輪像』尊像拡大)

構図というか細部のデザインやバランスが似ている気がします。

ちなみにこの『一字金輪像』は菱田春草のたいへん秀逸な模写があってそちらの方を覚えていました。

他にも探してみたら金剛寺蔵『尊勝曼荼羅』や、金剛寺蔵『五秘密曼荼羅』、奈良国立博物館蔵『一字金輪曼荼羅』なんかもこの『一字金輪像』と同じ系統にあるように思います。

それぞれ華鬘や瓔珞のデザインが多少異なっていたりしますが、特に全体のバランスはよく似ていると思います。

で、スペキュレーションすると、これらの作品は
(1)作者が同じ
または、
(2)参考にした(模写した)元図が同じ
の可能性があるように思います。

そしてさらにスペキュレーションを逞しくすると、『西院本曼荼羅』を拡大模写した曼荼羅があって、それが『真言院曼荼羅』とかいうので、それを見て描いたのが『一字金輪像』他の系列のような気がします。

なんとなれば、『西院本曼荼羅』から直接『一字金輪像』他へと進んだのではなく、もうワンクッションあるように思えるからです。

『一字金輪像』ほかの系列の絵は『西院本曼荼羅』と構図が似ていますが、細部の筆致が精緻に、静かに描かれているように感じます。一方、『西院本曼荼羅』は細部に至るまで熱を帯び、その揺らめく力を抑えきれないかのようです。

また、細部で着目していることのひとつに臂釧(二の腕の装身具)のデザインがあります。今回描いた『西院本曼荼羅』一印会 毘盧遮那如来では月や太陽などを重ねた宿曜をモチーフにしていると思ったのですが、『一字金輪像』他ではその意味が薄れてデザイン化しているような気がします。

飽くまでそんな気がするだけです。

専門家じゃないのでよく分からないのですが、どこかで『西院本曼荼羅』は縮小模写だというのが定説だという話を読んで、「そうなんだ〜、元の大きい方の曼荼羅もみてみたいなあ」と思ったりしたのですが、『西院本曼荼羅』をみながら描いてて感じるのは、模写するのに余程時間がなかったのか、かなり間の抜けた絵師が描いたのか、下絵の線や図像に間違いがみられ修正箇所が散見されます・・・四印会の三昧耶形で間違って書き直しているところがありますが・・・こういうところって模写してて間違うかな?両界曼荼羅の模写なんて当時の日本では一大プロジェクトだと思うのにそんな絵師を選んでそんな描き方するかなあというところです。

もっと言えば『西院本曼荼羅』を描くほどの画力をもった絵師(集団)だったら他にも同じようなエキゾチックで創造性豊かな絵を描いていてもいいのではないか。日本に残っていてもいいのではないか。絵そのものが残っていないとしても手記や記録に伝わっていたり、それこそ模写のような系列の絵がほかにあってもいいのにと思います。

で、結論としては下絵の修正や間違いは試行錯誤の後ではないかと考えらえて、『西院本曼荼羅』は模写ではなくオリジナルだと思います。

さらに、いままさに大地から起ち上がったかのような生々しく、多様で表情豊かな『西院本曼荼羅』の尊像が模写のはずがない。これが模写だとしたら、模写した絵師が稀代の天才絵師か、もしくは、元となる絵が恐ろしく生々しい絵であったかのどちらかとおもいますが、修正や間違いその他のことから考えてもその可能性は低いと思います。

『西院本金剛界曼荼羅』は少なくとも3人の異なる手が入っているように感じます。そのうちの一人は西域インドで、もしくは、西域の絵を学んだ絵師で、当時の中国で描いたのではなかったかと想像します。

西域の絵に精通している一流の腕を持った絵師と、その技能を継承しようとするお弟子さんと、その他にもほとんど意味も分からず描いているお弟子さん(もしくはお手伝いさん)がいるように感じます。

それぞれの会の色あいから、特に中下段の六会は分業体制で描いていると見受けられます。上段三会の尊像のほとんどは筆頭絵師が描いているようです。

揚州かどこかで、西域の絵に精通した絵師とそのお弟子さんたちが日本人に依頼されて限られた時間で急いで描くために、小さめで、しかし、絵の具などは高品質のものを用いて、はじめて描いた両界曼荼羅が『西院本曼荼羅』のように想像します。

すべて空想です。

そんなことを頭に思い浮かべながら描いていたりします。
これから

これで九会中上段三会の下絵終了。

ということは金剛界曼荼羅の3分の1の下絵作成が終わった計算になります。

でも、これからが大変で、中下段の六会は尊格が小さく一会あたりの尊格数も増えます。因みに尊像と三昧耶形を合わせて尊格っていってます。

小さいことで描きやすいのか。細部がわからなくて嫌になっちゃうのか。はたまた、数が多すぎて途中でわけがわからなくなったりするのだろうか?とワクワクしながら次に進みたいと思います。

どんなかんじかなあ

では、また〜ヾ(。・ω・。)ノ

この記事へのコメント
再びのコメントありがとうございます。
アクセス数が一気に伸びてます(笑)

それで…実は...今更ながら恥を忍んで申しますと、たった今は西院本金剛界曼荼羅は「空海の手になるもの」ではないかという感想と言いいますか、希望のようななんとも言えない状態にあります。

このブログを書いた時は「これでいいだろう。他の可能性は難しいだろう」と思っていたのですが、この後も西院本曼荼羅を見ながら何枚も描いているうちに「もしや空海なら…」という思いが沸き起こってきました。

調べてみると「空海説」という考えもあるらしいことがわかり、また、『東宝記』に弘法大師御筆伝の彩色曼荼羅の記事があるものの、伝承というか、空海信仰の結果のようなもので学術的根拠の乏しい伝説レベルの話という印象でした。

それで一旦、空海説を離れようとしたのですが、ことあるごとに「あれはどうだ、これはどうだ」と勝手に空想が広がり今では空海説支持者となってしまいました(笑)

根拠というほどのものはないのですが、空解説支持理由を幾つかあげると

(1)いわゆる西院本曼荼羅に相当するものが『御請来目録』に見当たらない
唐から持ち帰った「西院本曼荼羅」を秘蔵するために『御請来目録』に載せていないということも考えらえなくはないが、いかに胆力ある空海といえども、自ら「闕期の罪」を認めている『御請来目録』で朝廷に虚偽あるいは不備の報告をするだろうか?
ならば、唐からではなく日本で描かれたとみるのが自然ではないだろうか。

(2)正系現図曼荼羅との相違から想像する西院本曼荼羅の目的
『御請来目録』に記載されている五幅の曼荼羅のうち、七副丈六の二つの両部曼荼羅が空海が請来した東寺正系の現図両部曼荼羅と思われます。一方の西院本曼荼羅は7分の3の大きさのしかありません。これは本堂よりも小さい部屋、例えば、空海の個人的な修行道場に掲げられるために作られたと考えることはできないだろうか。
西院本曼荼羅を常に身近に置き修行を続ける空海像が思い浮かびます。

(3)作成過程と時期と作画分担ーいつ頃どのように作られたのか
空海請来本が「年三六を過ぎて絹破れ彩落ちて尊容化しなんとす」となったため弘仁十二年に転写本を作成した。この時何を手本に弘仁転写本をを描いたのか?転写と言いつつも元本は「絹破れ彩落ちて…」おり、今に残る建久本(甲本)や永仁本に近い状態だったと想像される。そこで全体を把握しつつ細部を確認するために小下絵のようなものを作ったのではないか?それが西院本曼荼羅・・・ってそれはさすがに想像が行き過ぎですが、そんな気さえするのです。

そして、空海が絵師に描く内容を指示するとともに部分的には空海自らが描いたとしたら・・・ところどころに見られるデッサンのおかしな下絵(それでいてなんとも言えない味わいがある)や猿のようにしか見えない毘那夜迦の理由がなんとなく見えてくるような気さえしてきます。
特に金剛界曼荼羅では尊像の持物や印契に厳密さが要求され空海自ら細かく関わったのではないか。一方の胎蔵界曼荼羅はほぼ全てを絵師が描いたのではなかったか。

そう感じるようになりました。

考えが変わったのならブログを訂正するなり追記するなりすればよかったかもしれないのですが、またいつ考えが変わるかもしれず、また、誰も読んでいないみたいだしいいかなあという甘えもあってそのままにしておりました。
この機会に追記できてよかったです。

ありがとうございました。

では、また〜ヾ(。・ω・。)ノ
Posted by ブログ主=eshi: at 2016年04月20日 17:17
本日はこの頁までです。
あまり書き込みなんかする方ではないんで、その気もなかったのですが、ちょっと打ちのめされたもんで、その痕跡を残していきます。

私は、東寺のの宝物館等でなんどもこの曼荼羅を間近に見てるんですが、あまり観察力がなくって、その成立に関して深く考察するなんてことはありませんでした。
高田修さんや柳澤孝さんが縮尺制作説を説かれていることは以前から知ってましたが、どういうこと? とは思うもののそれ以上掘り下げることはしませんでした。

ですから、ここに書かれていることを読んで愕然としています。なんたる観察力!

じつは7.8年前でしょうか。
中国制作説を唱えられる研究者の論文を読んだことがありました。
その方は技法や様式の追求から中国制作を確信されたのですが、今日はその論文を読んだときに受けた衝撃と同様のものを感じた次第です。

最近、少しずつ中国制作を支持する方が増えている、という話を耳にしたこともありますが、曼荼羅を描きながらそのことに気づくって、すごくリアリティがありますね。
観察力というより、この曼荼羅を描いた絵師に同期されているのでしょうか。

今日も感動してしまいました。

失礼しました。
Posted by vajsm at 2016年04月19日 20:27
コメントを書く

お名前:

メールアドレス:


ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/3394989
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
検索
QRコード
プロフィール
画書屋
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。