2015年07月03日
過去に残した自分の言葉に気付かされること
自分が残した文章のアーカイブにふと目が留まった。読んでみると自分の考え方や興味の対象が一貫していることに改めて気付かされる。
ちょうど昨年の今頃、そこから遡ること8年前に残した文章をアーカイブから引っ張りだしていた。自分の思考を整理するために思いつくまま単語を書き連ねたものだ。物心付いた頃から追求し続けてきた「真理とはなんぞや」という問い、それに対して得られたのは「真理なんてものは無い」という答え。この回答を自分の中に得たあと、自然の摂理や物理的なことこそが真理だと思えた時期もあった。しかしそれだって全てが解明されているわけではない。大多数の人に認識されていることだけが「真理」らしく見えているだけのことだ。やはり「万人に共通する真理など無い」のだと思う。
「他人と比較してしまう自分」がデフォルトの自分なのだとしたら、それを修正しようとすることは不幸の始まりなわけで。
周囲に不快な思いをさせようが、どんなに迷惑をかけようが、自分を貫いている人がいた。私自身もこの人のことが苦手だったけれど、嫌われても疎まれても道理が通らなくても自身を正当化できる強さがその人にはあり、これこそが悟りに近い生き方であるように見えたのだ(悟りを得るのがいいことかどうかは今は疑問に思っているが)。当事者として嫌いな人と近い距離にいると、不快な思いに占領され、そこから逃れることばかり考えてしまう。でも波風を立てず無難に生きている人からは絶対に得られない刺激がそこにはある。それだけで充分その人たる役割をこなしているのではなかろうか。
「自分らしく」とか「ありのままの自分」という言葉は好きではない。それを意識している時点で「ありのままで」はない。自我に没入するのではなくて、俯瞰して自分を見て「こいつはバカだけどおもしろい奴だ」と客観的に観察できる自分を常在させることができていればもっと楽に生きてこられたんだろうなあ。
−− 2014年8月のアーカイブ −−
8年前に私はこんなしょうもないことを考えていました。
現在の考え方も当時と大差は無いけどね。
結局、人は産まれ持った自分の「役割」みたいなものは、どうあがいても変えることはできないわけで。それに素直に従うことが自分にとっての幸せなわけで。それこそ他人と比べるなんてことは論外なんだろうけれど、「他人と比較してしまう自分」がデフォルトの自分なのだとしたら、それを修正しようとすることは不幸の始まりなわけで。ということは、○○みたいな人こそ最も悟りに近い生き方なんじゃなかろうか。と思ったりする。
8年前に私はこんなしょうもないことを考えていました。
現在の考え方も当時と大差は無いけどね。
結局、人は産まれ持った自分の「役割」みたいなものは、どうあがいても変えることはできないわけで。それに素直に従うことが自分にとっての幸せなわけで。それこそ他人と比べるなんてことは論外なんだろうけれど、「他人と比較してしまう自分」がデフォルトの自分なのだとしたら、それを修正しようとすることは不幸の始まりなわけで。ということは、○○みたいな人こそ最も悟りに近い生き方なんじゃなかろうか。と思ったりする。
−− 2006年10月のアーカイブ −−
しばし考えにふける・・・。
人はなんのために生きるのか?生きる目的って何?なんで食事しなくちゃいけない体なんだろう?芸術って何?音楽って何?感性って何?どうして人によって感じ方が違うんだろう?余計なことを考える人とそうでない人の違いはどこにある?知らなくて済む人と余計ことを知ってしまったために苦しむ人の差は何?幸せって何だ?人生は学ぶことが目的だ?それじゃ学び終えたら次はどうするんだ?なぜ殺人はいけないのか?なぜ肉食がいけないのか?愛って何?なぜベジタリアンの意見は上からモノ申すみたいなのが多いんだ?ニューエイジな人たちから選民意識を感じるのは何故だ?自分がやったことが返ってくる?先のことばかり考えて今何もできなかったら意味ないやん!仕事って何?生活の糧であれば仕事に差別があるのはおかしくないか?何もしない時間があると持て余すから仕事するんじゃないの?生涯生きていけるだけのお金があったら人は何をする?ワタシなら何をする?平等ってどこにある?そんなもんもともと無いと思うが?あるとすれば「世の中何でもあり」だっていうことくらいか?法を犯して金を稼いでいる人たちをなぜ糾弾する?自分ができないひがみや羨望じゃないの?そもそも法などあって無いのと同然なものではないか!悪人といわれる人にも誰かしら守りたいと思う人がいて、末端の一般ピーポーも仙人じゃないんだから良いことばかりしてるわけじゃなし!ポストハーベスト、農薬、化学合成添加物、身体にイケナイ物しか食べてなくともピンピンして長生きしている人と、有機栽培、無農薬、断酒、禁煙してストイックな生活を送っているのに早死にする人はどう違うのか?そんなに長生きしたいのか?長生きはそんなにいいものなのか?ワタシはどうしてこんなにどーしようもないことばかり考えているのか?ワタシって一体何者なんだ??
「万物の仕組み」という真理はひとつだと思うが、それ以外の真理など人の数だけ存在するのだ。いや、もしかするとたったひとつの真理なんてものは最初から存在しないのかもしれない。万人に当てはまるような善悪の判断も存在しない。あるのは自分の感情と、それに基づく判断だけが正しいと言えるものなのではなかろうか。それは自分だけに当てはまるものであり、他人に強制するものではないし、他人の判断を批判するものでもない。人の数だけ真理が存在するのならばそれは当然のことではないか。他人の判断が自分に合わないからといってどうして自分を枠にはめようとするのか。そんなことをするから摩擦が起こり苦しむ。場を変えればす済むことではないか。自分に正直にいればいいことではないか。時代と場が違えば戦争という名の殺人すら善なのである。正当防衛であれば殺人であっても罪にはならないのである。カルマの解消だの、お詫びだの、懺悔だの、アセンションだの、魂の成長だの、そんなことは本当に必要なんだろうか。
こういう思考回路にはまるとエンドレスなので、この辺で止めておこう。
真理とは何ぞや?という答えを探し続けてきたが、「真理なんてものは無い」んだということ、「何でもアリの世界」なんだというのが現時点での答えだ。昨日買ったアイシスの「真理は無く全て許される〜Nothing is true, Everything is permitted.」という主張は実にその通りだと思う。今日はこのNothing is ...というフレーズが頭の中でぐるぐる回り続けていたのだった。そしてもうひとつ。「This will too pass.」というフレーズも。良いことも悪いことも楽しいことも辛いことも、すべては過ぎ去ってしまうものなのだから、過去に縛られず、未来に心はせることもせず、今この瞬間を大切に。だから、充電期間なのに罪悪感を抱いてる場合じゃないのだよ。
しばし考えにふける・・・。
人はなんのために生きるのか?生きる目的って何?なんで食事しなくちゃいけない体なんだろう?芸術って何?音楽って何?感性って何?どうして人によって感じ方が違うんだろう?余計なことを考える人とそうでない人の違いはどこにある?知らなくて済む人と余計ことを知ってしまったために苦しむ人の差は何?幸せって何だ?人生は学ぶことが目的だ?それじゃ学び終えたら次はどうするんだ?なぜ殺人はいけないのか?なぜ肉食がいけないのか?愛って何?なぜベジタリアンの意見は上からモノ申すみたいなのが多いんだ?ニューエイジな人たちから選民意識を感じるのは何故だ?自分がやったことが返ってくる?先のことばかり考えて今何もできなかったら意味ないやん!仕事って何?生活の糧であれば仕事に差別があるのはおかしくないか?何もしない時間があると持て余すから仕事するんじゃないの?生涯生きていけるだけのお金があったら人は何をする?ワタシなら何をする?平等ってどこにある?そんなもんもともと無いと思うが?あるとすれば「世の中何でもあり」だっていうことくらいか?法を犯して金を稼いでいる人たちをなぜ糾弾する?自分ができないひがみや羨望じゃないの?そもそも法などあって無いのと同然なものではないか!悪人といわれる人にも誰かしら守りたいと思う人がいて、末端の一般ピーポーも仙人じゃないんだから良いことばかりしてるわけじゃなし!ポストハーベスト、農薬、化学合成添加物、身体にイケナイ物しか食べてなくともピンピンして長生きしている人と、有機栽培、無農薬、断酒、禁煙してストイックな生活を送っているのに早死にする人はどう違うのか?そんなに長生きしたいのか?長生きはそんなにいいものなのか?ワタシはどうしてこんなにどーしようもないことばかり考えているのか?ワタシって一体何者なんだ??
「万物の仕組み」という真理はひとつだと思うが、それ以外の真理など人の数だけ存在するのだ。いや、もしかするとたったひとつの真理なんてものは最初から存在しないのかもしれない。万人に当てはまるような善悪の判断も存在しない。あるのは自分の感情と、それに基づく判断だけが正しいと言えるものなのではなかろうか。それは自分だけに当てはまるものであり、他人に強制するものではないし、他人の判断を批判するものでもない。人の数だけ真理が存在するのならばそれは当然のことではないか。他人の判断が自分に合わないからといってどうして自分を枠にはめようとするのか。そんなことをするから摩擦が起こり苦しむ。場を変えればす済むことではないか。自分に正直にいればいいことではないか。時代と場が違えば戦争という名の殺人すら善なのである。正当防衛であれば殺人であっても罪にはならないのである。カルマの解消だの、お詫びだの、懺悔だの、アセンションだの、魂の成長だの、そんなことは本当に必要なんだろうか。
こういう思考回路にはまるとエンドレスなので、この辺で止めておこう。
真理とは何ぞや?という答えを探し続けてきたが、「真理なんてものは無い」んだということ、「何でもアリの世界」なんだというのが現時点での答えだ。昨日買ったアイシスの「真理は無く全て許される〜Nothing is true, Everything is permitted.」という主張は実にその通りだと思う。今日はこのNothing is ...というフレーズが頭の中でぐるぐる回り続けていたのだった。そしてもうひとつ。「This will too pass.」というフレーズも。良いことも悪いことも楽しいことも辛いことも、すべては過ぎ去ってしまうものなのだから、過去に縛られず、未来に心はせることもせず、今この瞬間を大切に。だから、充電期間なのに罪悪感を抱いてる場合じゃないのだよ。
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