2015年09月21日
「ありのまま」っていうのはありえない by タモリさん
はじまりは何かの終わりでもあり、
終わりはまた何かのはじまりでもある。
始点・終点は実は無いのかもしれない。
大好きだった「ヨルタモリ」が20日の放映で最終回を迎えてしまいました。
最終回にふさわしい・・・というべきなのかどうか迷うところですけど、今回はとにかく深いエピソードが満載です。いやほんとに・・・番組が終わってしまってとても寂しいです。
中でも特に印象に残ったのが以下の部分です。
タモリさん: 自分が「これが始めだ」と思ったのが、実はそうじゃなかったことがあるんだよね。人間は。前のやつがきてただけで別にそんなものはないんだ、と思うときに、「ありのまま」ってありえないなと思うんだよね。ありのままっていうのはある点があるからそう言ってるだけの話で。実はよく見てみると、自分の中の始点ていうものは無いよね。
りえママ: そうですよね。だって昨日の自分と、今日この時間を過ごした明日の自分は違いますよね。
タモリさん: そこでありのままっていうのはないよね。
りえママ: だから変化していくこともひっくるめてありのままでいいんだったらいいんだけど。
りえママ: そうですよね。だって昨日の自分と、今日この時間を過ごした明日の自分は違いますよね。
タモリさん: そこでありのままっていうのはないよね。
りえママ: だから変化していくこともひっくるめてありのままでいいんだったらいいんだけど。
その人の本質的なもの、例えば考え方や嗜好といったものはそうそう変えられるものではなく、そういう意味では自分の中に「始点」はなくて。
だけど、置いている環境や状況によって得られる経験や感情はその時によって違うわけで。その感情や価値観は比較対象するものがあって初めて得られるわけで。変化したかどうかも価値基準があるからわかるわけで。その瞬間に没頭していれば「ありのまま」っていうのはありえない、っていうことかなと思います。
この「ありのまま」という言葉に対して、某大御所タレントは以前、某番組内でこんなようなことを言っていました。
『ありのままの私を愛してなんて、なんぼのもんじゃ。畑から抜いたままの大根をそのまま食えといっているようなもんじゃないか。』
自分を磨く努力もしないでずうずうしい、ってことなんですけど。
その通りだ!と最初のうちは感心していましたが、時間が経つにつれ違和感がどんどん大きく膨らんでいき、愛のある言葉だとはどうしても思えなくなってしまいました。だってこれって自己否定ですから。自分を大切にし尊重できないと他人のことも大切にはできない。ありのままの私を愛して欲しいと求める前に、あなたはありのままの相手を愛せるのですか?という問いかけであればよかったのになあと思っています。
なので、今回のタモリさんとりえママのエピソードは私にはとてもしっくりくるのです。
タグ:ヨルタモリ
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