おはようございます。あるへです。
本日はこちら「フェイブル2」および「フェイブル3」のレビューです。
最近、シリーズ物をまとめて紹介する記事が多くなっちゃってますが、その方が理解しやすい、比較しやすいだろうという意図を込めて書いています。
本作品は「物語の中で、君だけのヒーローを創ろう」というコンセプトが売りのRPGです。「物語」というのがミソで、フォールアウトやスカイリムのような茫漠とした自由度は無いながらも、次々と展開されていくエピソードの中で、プレイヤーがどのようなアクションを起こすかで、一つの人物像を作り上げていく作品です。
予め用意された物語に沿って進んで行きながらも、その時々のアクションで展開が分岐していく……かなりTRPGの本質(ゲームマスターとプレイヤー)に忠実でありながらも、ゲームの持つインタラクティブ性というものをきちんと取り入れている作品でして、そこに製作者のこだわりを感じます。
そういった意味で、この作品は世界に類を見ない斬新な作品に仕上がっていますが、個人的には後に述べる点がどうしても気になり、「FableII」を名作、「FableIII」を良作として見なしています。
フェイブル「3」公式サイト Fableに「物語」のルビが振ってあるように、本作品はこのゲームが一つのお話、おとぎ話であるということを意識しています。その上で、プレイヤーはあたかもこの世界の住人になりきれるようにと、様々な工夫が凝らされており、メインとなるストーリーへの没入感も非常に高いです。
IIとIIIではストーリーの方向性が違っているため、好き嫌いがわかれてしまうのですが、お話としてはどちらも綺麗にまとまっており、その質は高いです。
私はIIの方が好きですね。どちらもテレサという運命の代弁者が一定の枠(君は英雄になる。ただの夜盗に殺されてそれもまたストーリー、などという分岐はない。という感じの大きな枠)を与えるため、プレイヤーは安心してその枠内で自由に行動することができます。
IIはその枠の範囲がIIIと比べて大きく感じられ、プロローグは少年(少女)時代、青年時代を経て、またとあるイベントで投獄され大きく時間が流れたりと、「人生の長さ」を感じられ、冒険をしている感、というのがとても感じられた作品でした。
そして「時間」を感じられるからこそ、過去の記憶というものに感慨を持つようになり、「オルゴール」の音色に涙を流さずにはいられない、という構成になるわけです。
このストーリー作りが気持ちよく、私はIIが好きなんです。
IIのメインストーリーはいわば、自分の行いが自分に返ってくる、あくまで個人視点のフェイブル(物語)なわけです。
対してIIIは、自分の行いが社会にも影響し、行動の責任を負う、個としてだけでなく社会の中の自分も同時に変化していく……というもっと大きな変化を象徴していまして、これを意味深に捉えると、「自分→相手→社会→世界」という風にアイデンティティの捉え方がステップアップしていまして、これはそのまま「人間」本来の精神的成長の姿と言い替えることが出来ます。
子供は自分のことしか考えることができません。やがて成長して相手のことを考えられるようになり、大人になって自分と他人、そして自分の属する社会や世界のことも同時に慮ることができるようになるのです。
ちなみに途中の要素がすっぱ抜けて、「自分→世界」となっているのが「セカイ系」あるいは「厨二病」と呼ばれる現象です。
「世の中は嫌なことばかり、全部社会が悪いんだ」ですよね。
FableIIから時を経て大人になったFableIII、ということでしょうか。
私も含めてIIのストーリーが好き、という意見はもしかしたら自分自身の物事の捉え方に、まだまだ伸び代が残っているからかもしれませんね。
さてさて、このメインストーリーを彩り、主人公の人生に深みと可能性をもたらすのがサブクエストや住民との交流、そして愛犬の存在です。
主人公には常に相棒として犬がついて回ります。勿論、彼とコミュニケーションをとって遊ぶこともできますが、斬新なのは主人公の人生の軌跡によって、犬にも個性が現れるという点です。
自分(主人公)としては悪人として生きたいけど、相棒(犬)には誰彼構わず歯を剥きだして威嚇するような乱暴者にはなってほしくない……だから、善人プレイする! とか、そんな思いが脳裏を過ぎったプレイヤーもいるのではないでしょうか。
様々なNPCと交流を交わす際にも、「握手」を始め「踊」ったり、「くすぐ」ったり、あるいは「威嚇」したり、「おなら」をしたり……、様々なアクションで試みることができます。
この、YES/NOだけではないアクションの多様性が、物語内での自由によくマッチしており、広がりを感じるわけです。
それは良いのですが……おなら、って必要でしょうか?
つまり、私がこのゲームに不快を感じる部分です。
このゲームには善悪の基準と共に、快不快の要素も組み込まれています。おとぎ話、それもゲームなのだから普段出来ないこともやっちゃおう、というコンセプトなのでしょうが、とりわけ他者との接し方、距離感に気を遣う我々日本人(少なくとも私)にとって、相手の嫌がることをするというのは、ぶっちゃけ(ゲームだからこそ)いきなり住民たちに斬りかかって大虐殺を行うよりもよっぽど気分が悪いです。
げっぷやおなら、卑猥なポーズ、むしろリアルっぽくないキャラ造詣だからこそ何人もの異性をベッドに連れ込んであんなことやこんなこと(もちろんその間ブラックアウトします)、更にはその際避妊具の使用を尋ねてくるとか、こういう下品さが私には受け入れられませんでした。
それでもFableIIに好感が持てたのは、こういったアクションは避けてもいいこと、その機会は思ったよりも少なかったことでした。
夢や想像を大切にする姿勢は、ディズニーのそれとよく似ています。だからこそ、ブラックなジョークやあえて下品さを取り入れることで、ゲームとしての可能性を模索したのでしょう。
しかしIIIになると、必然的にそのブラックジョーク、ブラックユーモアに接する機会が増えてしまいました。私がIIIを名作ではなく良作へと下げた理由です。
IIIでは経験値という概念がなくなり、NPCたちと交流をすることでステータスアップの源を得る、という流れに修正されました。
これによって、IIではやや希薄だったゲーム内世界での住人との交流に積極性が出、上記したIIIのストーリーの方向性のためにも、その狙い自体は大変うまくいっていると思うのですが、交流の必然性が出てきたことにより、これら下品なアクションも自ら行わなくてはならない、という状況が生まれてきてしまいまして……極めつけは「武器強化」でしょうね。
武器強化は単純に素材を集めて鍛冶屋に持っていく、とかそんな簡単な話ではなくて、各武器ごとに設定された条件を満たすことでレベルアップする、というものです。
これだけ聞くと素材が不要な分鍛冶屋より楽かと思いきや、「○○という敵をXX匹倒す」なら全然余裕ですが、「村人をXX人殺す」とか、「○○人の異性(あるいは同性!!)と寝る」とか、「○○人の人に嫌がることをする」とか、……本当に嫌でした。
またIIIの悪口になってしまいますが、実績の中に「ヘンリー8世」というものが存在します。ごく普通の幸せを築き、皆から好かれる王を目指したいのに、「実績を取りたい」ただそれだけのために6人もの女性と重婚し、うち二人を殺害する羽目になりました。こういう実績ってどうなのよ、と。自分の望むキャラクターを創っていくのがこのゲームの醍醐味なのに、それを強制的に指定されるって、まるで実績がゲームコンセプトを否定しているようで腹立たしく思ったりもしました。
他に「大罪人」の実績もありますから、もう早々に割り切って暴れました(笑)。それからすぐに善人に戻しましたが、あまりゲームに感情移入は出来ず、ちょっとでもイラっとする挙動をとったNPCは王様権限(笑)で即刻打ち首にしたり。
そんなキレ易いキャラクターとしてプレイしたものですから、まあ住人の罵倒の酷いこと。住民のためになる良い政策を敷き、彼らのために献身的に働き、革命を起こそうとしているのに、彼らに寄れば触れば罵倒の嵐です。
そんな記憶があって、IIIは個人的にあまり良い印象を持っていないのです。
実績の話ついでにもう一つ。
IIでのコレクタブル要素の一つ、ガーゴイル像です。私はこのガーゴイル像の最後の一つがバグにより取れていないことに、終盤で気付きました。とあるクエストがバグによって会話が進まず、そのせいで永遠に入れないエリアができてしまったこと、運の悪いことにそのエリアに最後の一匹が置かれていたからです。
どうやっても入れないので、諦めてまた一からやり直しました。
そんなこともあって、FableはIIもIIIも印象に残っているゲームです(ゲーム本来の狙いとは違う印象の残り方ですが)。
バグが多く、キャラモデルはどうにも受け入れにくく、こちらが気後れするほど変なところにこだわりを持ち、我々には出せない非常に豪快な規模でむっとするほど濃い世界を創り上げる。
とても洋ゲーらしい作品です。これまた世界から絶賛された作品ですが、どうも私は一歩退いて見てしまいます。
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