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2017年08月08日

312.君は私を忘られるかい?

 今日ニコニコでとある動画を観ました。人気動画なんでぴんと来る人はいるかもしれない。もちろんゲーム動画です。

 で、その動画内でエミリア編のラストステージが「忘られし聖堂」と紹介されました。誤用かな、と思ったのですがメニュー画面に表示されたゲーム内テキストも「忘られし聖堂」だったので余計に気になりました。正しい日本語なのか、誤植なのか。

 ということで調べてみた結果。

 三省堂国語辞典には「忘られる」という項が存在しました。
 意味は、簡単に言うと「忘れることが出来る」という可能形の単語でした。
 項目が存在するということは、それが正しい言葉であれ、誤用であれ、辞書編纂者の耳に届くくらいには使われているということになります。

 しかしどうしたことでしょう。
 岩波国語辞典には「忘られる」という項目が存在しませんでした。

 三省堂国語辞典は割とフランクな辞典で、現代の口語や言い回しに視点を置く書物です。一方、岩波国語辞典は言葉の歴史、文章に使う文字として正しいかについて重きを置く辞典です。

 でも「忘られる」って会話ではあまり使いませんよね。どっちかっていうと文章表現っぽい言い方です。

 ただ、「忘れる」という単語は下一段活用なので、
「え、え、える、える、えれ、えろ」→「忘れない、忘れます、忘れる、忘れる時、忘れれば、忘れろ」
 となります(未然、連用、終止、連体、仮定、命令)。

 また、忘れるの概念は自分でどうこうできる現象ではないので他動詞となり、それについて可能かどうかを表す活用はあまり考えられません。
 上記二つの辞書にある「忘れる」という項目にも、「うっかりして気が付かない」など、自分の意思とは無関係な現象を強調していました。
 おやつの縛りプレイ(あ、言っちゃった)じゃないんですから「忘れずに忘れる」なんて器用なことは出来ませんので、「忘れる」という単語単体で可能・不可能を表す活用は本来は無いと見ていいと思います。

 ということで本来ならば未然の形をとって、「忘れ・られ・し・聖堂」となります。
(れる・られる、は動詞の未然形に付き、可能・尊敬・受け身や、他からの動作・作用をこうむる場合に使われますby岩波国辞
さらに、られしのしは文語助動詞きの連体形が残ったもので、過去の事柄を回想して言う感覚が含まれるby岩波国辞)

 そんな感じで、「忘られる」は誤用として広まったんじゃないでしょうか?
 「忘れれる」……なんてアホな使い方をしたくないと思った人が、「忘れられる」もなんかラ行が多くて不安になり、「忘られる」と言ったんじゃないでしょうか。

 したがって「忘られし聖堂」は「忘れる」と「られる」の接続がうまくいっておらず意味が通じていません。ら抜きとかれ抜きという以前に言葉として間違っています(れが入れば正しいですが笑)。

 でもでも「忘られる」あるいは「忘られし聖堂」とか、文語っぽい表現で、忘れられし聖堂、っていうよりもすっきりしてて、ちょっと格好いいな、素敵な表現だなって思いました(だからこそ気になりました。改めてよく考えれば、単に「れ」を入れ忘れた誤植の可能性が濃厚ですけどね)。
 これが「し」じゃなくて「た」だったら「忘られた聖堂」となり意味が一応繋がります。
 その時は、ストーリーの流れも鑑みて「エミリアがレンとの思い出を自分の意思で忘れ、新しい人生を、あるいは懐かしい過去を思い返す聖堂」という意味を込めて「忘れることが出来た聖堂」となるのでしょう。

 ちなみに「わすられる」と打っても変換は出来ません。

 以上、レポートでした。
 どこか間違ってることもあるかもしれないので、そんな時は優しく教えてください。
 超ひさしぶりに小説カテゴリあたりに入れようかな(笑)

2015年07月13日

096.コンセプトワーク

 何か新しいモノを作ろうとした時、必ずすることになるのがネタ出し、アイデア出しです。それが二次創作だろうと、作曲だろうと、折り紙だろうと、文房具だろうと、この世にない新しいモノを作るには、新しいナニカが当然必要になります。

 何か新しい切り口、別の視点、発想の転換、今のニーズに合った作り直し。
 我々はそれをオリジナリティと呼びます。

 なんてね。

 さて、このアイデア出しですがなかなかの曲者です。しかし同時にとても楽しい時間でもあります。
 今日は、考えたアイデアを効率良くまとめておくための方法、「コンセプトワーク」について紹介します。

 コンセプトワークとは、なんてことはない、ごく短い文章でまとめたコンセプトを量産する作業のことです。基本的には5W1H(どこで誰が何をどのようにどうした)を基準に、二三行でまとめますが、私は日頃物語の全体的な概要をまとめています。ルールなどないし、自分がやりやすいやり方、後で見返したときにしっくりくる仕方で続けるのが理想です。

 コンセプトワークの原則としては、「短くまとめること」「たくさん作ること」の二点です。
 たとえば、以下の三つのコンセプトを考えたとしましょう。


=====
・現代。主人公が転校した都会の学校でクラスの美少女に一目惚れし、なんとか告白しようとするが、恋敵はたくさんいた。そこで主人公はクラス中の誰も持ち得ない、地方に対する愛や知識、地域コミュニケーションを駆使してライバルを出し抜こうと画策する。

・モンスターたちが跋扈する中世ファンタジー世界。その国の王子と王女の兄妹は、世界に平和をもたらすため、城に20年繋がれていた世紀の大罪人を解放し共に旅をする。どこまでも自己中な罪人と高潔な兄妹の物語。

・ゲーム、ヒットマンLOVEの二次創作。エージェント47の知られざるもう一つの暗殺劇。ストーリーはまだ考えてない。
=====


 どれも、その時(というか今)適当に考えて書いたものです。これらを実際に物語として書き起こすつもりもありません。「今」役に立たなくても「後」で役に立つかもしれない。そんな理念のもと、どんな些細なアイデアだろうと書き留めておくこと、毎日少量でも作っておき、豊富な在庫を揃えておくことが肝要です。
 後になって、さあ物語を創ろう、となった時にこの大量のコンセプトワークがあなたの(私の)頭を刺激し、あるいはいつか遊びで作ったしょうもないアイデアが、今この時斬新なアイデアのきっかけになるかもしれません。すなわち財産です。

 短くと言いつつもいつも文章量が膨大になってしまう、とか、たった一言「カスタネット」とか「ハサミ」だけでも良いかも知れません。
 ただ、前者だとコンセプトワークではなくプロットですよね。プロットまで出来てしまったなら執筆してしまった方が良いです。努力を形にしましょう(面白い、面白くないは関係ありません)。しかし、大抵は納得のいく作品、および他人から評価される作品にはなり辛いです。
 後者の方は、あとで見返したときに意味が把握できなくなると思いますが、短い期間ならばその言葉から、その時連想したイメージがまだ残っているので短期間で作る人には有効かもしれません。

 しかし、コンセプトワークの真価はその時思いついた素敵なアイデアをコンパクトにまとめて収納しておくことではありません。
 毎日一つでも小説を書くためにしまっておく在庫でもありません。

 絶対とは言い切れないのが現実世界なので、言い出すのに勇気がいるのですが、思い切って言ってしまうと、集まったコンセプトワークの一つひとつをそれぞれ一つの物語に書き起こしたとしても、十中八九面白い作品にはなりません。

 その段階になってようやく、何故コンセプトワークは短くまとめる必要があるのか、何故たくさん作り置きしておく必要があるのか、という意味に繋がってきます。

 すなわちコンセプトワークの真価は、「組み合わせ」にあります。コンセプトワークの一つひとつは、いわゆるアイデアの塊です。アイデア同士を掛け合わせれば更にすごいアイデアが生まれる、というのは言われなくたってわかっているはずです。

 もう一度、上記三つの(三番目だって立派なアイデアです)コンセプトワークを見つめ直し、組み合わせてみました。


=====
・様々な種族が存在する異世界。その学校に転校した主人公は、クラスの美少女に一目惚れする。しかし大勢の恋敵がおり、ただの人間である主人公は最弱だった。そこで主人公は暗殺、不意打ちなど人間らしい卑怯な手を使い、一人一人恋敵を消していく。
=====


 いや、まあ。正直に言っても良いですよ? つまんなそう、って(笑)。ただ、最初にあげたコンセプトワークよりも、より広く、より深い世界観が出来上がったのではないでしょうか。最初のコンセプトをベースに、世界観を二つ目から、美少女のハートを射止める手段として三番目のコンセプトからヒントを得た、という思考の流れです。

 不満があれば、拾いあげる箇所を変えればまったく違うものができますし、新しく出来たコンセプトワークは、また一つの新しいコンセプトワークとして使いまわすことが出来ます。
 このようにどこからアイデアを拾い上げるかはわからないので、さっきの「カスタネット」も、どうしてカスタネットが面白いと感じたのかをメモしておくほうが望ましいと思うわけです。

 コンセプトワークを作る時は、深く考える必要はありませんし、ぶっちゃけ物語の最初から最後まで考えなくてもオーケーです。「うん、面白そうだな」と思った要素を、文にして記録しておくのが目的です。むしろ後で様々な付け替えを楽しめるよう、芯の部分以外は取っ払ってしまった方がいいかもしれません。

 自由度が高すぎて逆に毎日書くのが辛い、とか、急に言われてもアイデアなんか出て来ないよ、という方は週毎や月毎にテーマを決めて書いてみるのも面白いです。
 今週は「恋愛」、来月は「魔王の一人勝ち」とかね。
 興味のないジャンルでも、二三行程度のコンセプトワークなら気軽に書けるんじゃないでしょうか。将来こんな話は絶対に書かないとしても(笑)。

 どうでしょう。コンセプトワーク、ちょっとやってみたくありませんか?
 この方法は詰まるところアイデアの書置きですので、何も小説だけでなく、様々な創作活動に活用出来ると思います。
 そうした中で、自分の知らない分野の話というのはネタの宝庫ですよね。

 もしあなたが、この記事を読んでコンセプトワークって面白そうと思ったのなら。
 試しにこのコメント欄に書いてみませんか?

 適当でいいです。自由に書いてください。
 そしてこの際、この記事にある4つのコンセプトと、コメントに書かれたコンセプトは著作権フリーにしましょう。
 何が誰の素敵なアイデアのきっかけになるかわかりません。

 偶然立ち寄った何人かの人が、適当にコメントを残していく。その後やってきた別の人が、それらのコンセプトを組み合わせて素敵なコンセプトを作る。
 またその後にやってきた悩んでいる作家(笑)が、それを見て衝撃を受ける……。そして創られた作品がベストセラーに……なんて夢の見すぎでしょうか、見すぎですよね(汗)。

 ともかく、たくさんのコメントお待ちしております。

2015年05月30日

059.GとNの見出しのはなし

 見出しってありますよね。新聞や実用書など、情報を扱う文章でよく扱われる手法です。私はこの見出しについて、このブログでも扱うかどうか悩みもしましたが、とりあえずは使わない方向でいきたいと考えています。

見出しは理解力を深める?

 見出しを使うことで得られる一番の効果は、読者の瞬間的な理解力を促進し、短い時間で記事の内容を把握してもらえることです。
 昨今、書かれた文章を、紙面、インターネットを問わずじっくり読む人は少なくなりました。情報が氾濫し、より早く、より効率的に取捨選択をするため、というのが一般的に言われる理由で、そのために情報の発信者も見出しを初めとする「目に訴える」様々な手法を取り入れ、「早い」「旨い(有用)」「安い(ページが軽い)」のサイクルを加速させているわけです。
 しかし、私は以下のようなことも考えてしまうわけです。

判り易すぎるという弊害

 見出しは本来、瞬間的に記事の内容、押さえておくべきポイントやキーワードを把握させ、後に続く本文の内容を理解しやすくするために機能します。もっと言ってしまえば、見出しを読めば本文を読む必要はなくなるのではないでしょうか?
 あるいはそのインパクトを利用し、本文を読ませる訴求力として利用している文章もあります。
 このように、ぱっと目を惹き、本文を読まずともある程度の内容を把握できてしまう、そんな便利な見出しが世に氾濫すると、どうなるでしょうか。というか既に氾濫していますよね。

 だからこそ人は文字を読まなくなったのではないでしょうか?

文字好きの叫び

 私は文字を読むのが好きです。新聞だろうとチラシだろうと、そこに日本語が書かれていればついつい読まずにはいられません。そして書かれた本文をただ読み込むだけでなく、その文章を書いた人の味や雰囲気、ひいてはその記事が載せられている媒体の社風までをも感じようとします。あくまで文章から想像される作者の背景であって、実際に作者の人となりや、履歴を調べることはほとんどありません。

 私のようなマニアックな読み方はせずとも、ただ単に「文章を読む」という行為すら、最近では文章製作者の方が読者に対して遠慮しています。「長くならないように」「出来うる限り簡潔に」「とにかく読者に飽きないでいて欲しい。この文章を読みきるまでは」
 文章は、会話の延長線上にあったっていいじゃないですか。普段、口と声で行う会話は、無意味なものがほとんどじゃないですか。
(とか結構なことを言っていますが、私だって人間、面白くない長いだけの文章を読むことほど苦痛なことはありません。)

 文章にはどうしても、書かれている事の意味を変換して脳にしまうという、一手置いたプロセスが必要になります。
 理解力の差で、画像や動画に劣る部分があるわけです。この瞬発力が、現代の社会のニーズと合致しているのでしょうね。

 世界一特殊な日本語を、皆にもっと使いこなしてほしい、と思う今日この頃です。

見出しと脳の作用

 話が逸れてしまいましたが、詰まるところ本文にはそこに書かれている事以外にも様々な情報が隠されています。見出しをベースに本文から情報を抜き出す作業に慣れてしまうと、本文部分は情報以上の価値がなくなってしまうのです。
 そして、見出しと本文と合わせて情報を合致させ、即座に有用性のみを判断する、また次の情報へ……と忙しく駆け回っていると、古い情報のことなどすぐに忘れてしまうわけです。
 最初の見出しに「見出しは理解力を深める?」と?マークをつけました。
 このような情報の取捨選択をしていると、瞬間記憶の能力は高まっても、それが本来の記憶に定着せず、古い情報は思い出すことが困難になります。
 その時記事を読んで「わかりやすい!」と思っても、次の日には何だかぼんやりしてしまって、そこに書かれていた適当な一文さえ浮かんでこない、ということになります。
 家庭教師や学校の先生の中に、とても面白く分かりやすい授業をしてくれる先生はいませんでしたか? わからないことは何でも聞くと、打てば響くように的確に答えが返ってきてその時間はまるで魔法がかかったようにすらすらと問題を解くことができます。せっかく習ったその公式、解法を、後でもう一度復習しようと、自発的に机に向かったことはあるでしょうか?
「すごくわかりやすかった。実際わかったんだから、復習の必要はない」と、考えませんでしたか?

 見出しの効果は、これに似ていると思います。

主役は本分、見出しは脇役

 勿論、このブログ、特にレビュー記事はもっともっとより多くの人に読んでもらいたいです。そのため、普段文章を読まない人でもすらすらと読めるような、あるいは読みたくなるような見出しを使うのはとても効果的なのかもしれません。
 しかし、そもそもですよ?
 そもそも私の書く記事に、「ここは絶対押さえておくべきポイント」やら「今知っておきたい明日から役に立つキーワード」なんてものは皆無です(笑)。
 すべて駄文です。
 駄文をわざわざ飾り立てても、無意味ですからね。

 私は所詮、本の一冊も出したことのない「自称」作家ですから、読者に教え諭し、人生の行く末を指し示すような大層なことは書けません。
 ですから小説・創作カテゴリに、「作家を目指すならやるべき10のこと」とか「○○大賞攻略講座〜これを守れば二次選考突破は確実〜」なんていう記事は絶対に出てきませんよ(笑)。
 しかし同時に一介の物書きとしての矜持を持っています。どのようなジャンルにせよ、クリエイターというのは、自分の作品の隅々まで、そして書かれていない空白部分にも自分の思いを汲み取ってもらいたいという願望を持っています。

 分かりやすく言うと、私の書いた文章を全部読んでもらいたいのです(笑)。

 そして読んでもらうために、記事内でのエピソードの順番や表現の仕方、起承転結、段落や行空け等々、自称作家なりの小さなプライドと拙い技術で計算して演出しているつもりです。
 それならもっと簡潔に書けるのでは? ということも言えそうですが、そこはそれ。
 文章が長いのは ですから(笑)。
 文字がぎゅうぎゅう詰まっていて、長い文章を読むのが、その流れを、リズムを感じながら読むのが好きなんです。
 と、サービスとエゴのバランスにも自分なりのこだわりを持ちつつ、このような思考プロセスを経まして、このような結果に落ち着いたわけです。

見出しは使いません。

 が、これもケースバイケース。より良い文章を演出するためには考えるべきものでもあります。
 ほら、普通の小説にだって見出しの効果は出ているんですよ。目次とか、副題とか、第三章〜真実の愛〜とか、ね。
 使わないったら使わない。ではなく、もしも使うならベストな方法を、という感じで柔軟に考えていきたいです。

 はふぅ。

2015年05月09日

031.伏字について

 おはようございます。あるへです。
 少し前からずっと気になっていることがあります。「伏字」についてです。
 ディズ○ーランドとか、ワ○ミとか、f○○kとかのあれです。

 これらの語句を発言する時、みなさんは当然のように○をつけて、どうしてそれが伏字でなければならないのか、深く考えたことがありますか?
 特定の商品名だから、特定の会社名だからこういう公共の場では伏せなければならない、そういう感じでしょうか。

 私は以前、校正についてほんの少しだけかじり、勉強したことがあります。個人的には、上記の考え方は神経質、あるいは無神経すぎる、とも言えるかと思います。
 私が、動画のコメントなどで、あるいはブログやSNSで、伏字を使うことは問題ないと考えている理由は以下になります。

1・商用利用を目的とした作品ではないから。
 動画のコメントもブログもSNSも、基本的には人がお金を払って購入するものではないし、発言者の著作権が発生するような「作品」ではないと判断します。

 しかし、動画コメントはまだしも、ブログやSNSには素直に頷けない部分もありますよね。広告商品を紹介するアフィリエイトはどうなのでしょうか。私自身、よくわかりませんが、次の理由で説明できます。

2・その使用法が、その企業、団体に不利益を与えるかどうか。
 その言葉に伏字を使うかどうかは、実のところ全てこれにかかっていると思います。どのような意図でその言葉を発したのか。その言葉が、明らかにその企業、団体を貶めたり、何らかの不利益を被ると予想される場合はもちろん伏せるべき……というか使わないのが一番ですが、ちょっとした感想、自身の意見などで特に相手のイメージダウンに繋がるような用法でなければ伏せる必要はないのではないかと思います。

 たとえば、あなたが作っているお話の舞台が現代で、恋人たちが仲睦まじく遊園地に行き、目一杯楽しんで帰ってきたというのなら、その遊園地が「ディズニーランド」であると明記しても問題ないのではないかと考えています。
 もしその遊園地に凶悪犯罪者が紛れ込んで大虐殺を行ったというのでしたら、それは実際のディズニーランドのブランドイメージを崩すかもしれないので別の名前に変えるべきかもしれません。

 このように、伏字と言うのは意図があってなされるものですから、私たち一般人が躍起になって文字を伏せるのは少しおかしいのではと思うのです。
 文字を伏せることによってメタ効果が発生しますから、その効果が面白いというのであれば勿論使って構わないです。

 もしあなたが小説を書いていて、これを応募しようと思っていても、やはり今の段階では特に気にしなくていいと思います。その作品が認められて、いざ出版となれば、必ず手直しが必要になりますし、必ず校正の目が入ります。
 そしてあなたの作品を文字通り、本当に穴の開くほど読み込んでくれた校正さんが、必ず登録商標については「表現はよろしいですか?」と指摘してくれます。
 「ボンド」「キャタピラ」のように、もしかしたら普段私たちが何気なく使っている言葉にも、特定の商品名を表すような登録商標が紛れているとも限りませんから。
 そこでようやく、じっくりとその言葉について考え、伏せるべきか、あるいは名前を変えるべきか、それとも、あえて伏せないでおくか、作者であるあなたの責任を以って決断し、書籍として世に出ます。

 世の中のあらゆる印刷物の99.9%はそうやって出版されています。
タグ:伏字

2015年04月25日

002.涙の公式

 小説・創作カテゴリを作っておきながらいきなりネタに困るという不始末。本当はもう小説なんか書きたくないんじゃないかと思い始めてるあるへです。

 タイトルにある「涙の公式」という言葉を見て、何かぴんときた方はいるでしょうか。これは私が専門学校に通っていた頃に師事していた先生の言葉でして、何年も経った今でもこの言葉は私の中で印象強く残っています。

 私は鬱を患っていて、まだ自分でなんとか対処できる程度の比較的軽いものなのですが、扱いを間違えると非常に苦しい思いをすることになります。

 で、はじめにの項でも書きましたが先日またアルバイトの面接に落っこちまして、面接に際してイメージトレーニングや前向きな想像、面接中にも未だに何が悪かったのか検討がつかないくらいに努力したつもりでしたが、今後の明るい将来を期待していただけにショックを受けまして、鬱状態になってしまいました。

 布団に横になって、虚空を見つめながら自虐の渦に身を任せているとそのうち妄想をしだすんですよね。何もかもどうでもよくなってヤケクソになって、妄想の中で道を歩いていると暴漢にからまれて逆に殺してやろうとか、とにかくどこか遠くへ行きたくて着の身着のまま道をまっすぐ歩いていこうとか。
 そしてこれはもしかしたら私の癖なのかもしれませんが、自虐と衝動のままに始まった妄想は物語仕立てになっていくんです。
 ずっと道を歩いていたら当然腹が減って、目が回り、倒れます。そこへ偶然通りかかった見知らぬ人が介抱してくれたり、その時にもらったおにぎりのなんと旨いことか。
 あるいは警察に職質されて家に送り返され、そこで「ああ、やっぱりまたここに戻ってきたんだな」と、いくら努力しても振り出しに戻される失望と絶望を仮想の中でも感じ、想像の中で両親に優しく迎えられ、暖かい夕食の場面に移ります。そこで飲んだ味噌汁のなんと優しいことか。ああ、おいしい、とお話が作れたところで、そんな妄想をしている自分の中にも何かこみ上げるものが出てきます。

 頭の中だけで勝手に妄想して、自分の都合のいいようにお話を作って、そして勝手に感動するんです。
 これは、ある意味精神的な自衛機能だと思います。

 さて、長々と私の恥ずかしい体験を暴露してしまいましたが、この過程を経てちょっと気付いたことがあるんです。

 食べ物って意外と破壊力があるんだなぁと。

 人が希望を失ったり、逆境に陥った時に食べたものは、特別な食べ物になるんじゃないでしょうか。

 苦境+食べ物=涙 です。つまりこれが涙の公式です。

 千と千尋の神隠し、ご存知ですか? 今の話に合致しそうなシーン、ありましたよね?
 この公式は人の数だけあると思います。また何か見つけたらお話しますね。
タグ:創作 小説

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