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 屋根裏に子供部屋が、小さい頃の思い出・・・ 沢山の思い出が、大冒険の始まりの予感が!
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2009年10月11日
Myラジオ
 おはようございます。

今日は、Myラジオです。

学生生活の中で様々なものを作成してきたように思います。

幼稚園・保育園から始まり小学校、中学・高校、中には専門学校・大学と

誰もが進む道の中で幾つもの作品がある、今日は、その中のラジオです。

今では、見かけることも聞く事もなくなりましたが私の頃は技術家庭の

授業があったのです。

女の子は家庭科、小学校でも授業にあった縫製、ミシンも使いかなり本格的な

事まで習う、代わりに男子は、技術、旋盤やいろいろな専門機器を使う

かなり本格的な授業が当時はまだあったのです。

今、思うとハローワークで取り入れている職業訓練。

中学でも馬鹿にできないくらい設備もあり

本格的な授業だったと今では思うのです。

中学3年間でいろいろなものを作成してきた中に、ラジオがあるのです。

ラジオ作成のキットと言ってしまえばそれまでなのかも知れません。

しかし、実際に作ってみると知らなければ作成できないことが

数多くあったのです。

炭素皮膜固定抵抗器、当時ではヒューズと呼んだように記憶にあります。

赤や黄色、茶など色分けをされたもので色を見ながら計算をするのです。

抵抗器の容量によってはクリップを使いはんだ付けをしなければ

ならないものもあり、当時ではかなり難しい電気の基礎知識が

必要だったのです。

一つ一つ計算をして基盤にはんだ付けされてゆく小さな部品、

はんだ付けも松ヤニを使い誰もが懸命に作成をしていたのです。

それは当然、スピーカーから流れるラジオ放送を夢見て懸命に・・・・

可変抵抗器、いわゆるボリュームを最後に取り付けカバーをかぶせると

立派なラジオです。

当時の流行りの型で短波放送のメモリもある人気のタイプ。

作成できた順に電源を入れる。

まだ仕上がっていない人の周りから一つまた一つとスピーカーから流れる

ラジオ放送に歓喜の声が聞こえてくるのです。

中には作成段階のミスで放送の流れないラジオもいくつかあり、

技術室は、賑やかさを増してゆくのです。

放送の流れないラジオを技術の先生に持ってゆく生徒、その前にはテスターを

手に検査に予断のない先生、誰もが懸命にならざるを得ない。

当然、やり直しもあり数日間は、ラジオの話題で教室中持ちきりです。

中には、昼からの授業、イヤホンを制服の袖から遠し

ラジオを聴く生徒まで、多分にもれず、私も授業中にラジオを聞いた

一人ではあるのです。

私の感では、聞かなかった生徒はいなかったのではないかと思うほど、

それに、イヤホンが付いていたなんて、聞くなと言う方が無理。

これも、当然先生方にはお見通しだったでしょう。

中学生活の楽しい思い出の一つになることを、

当時の先生方も願っていたのではないのでしょうか?

今では、聞く事もなくなった授業風景になぜか寂しさを感じるのです。




 明日は、将机!です。


 では、また。

Posted by ビギン at 11:46 | 昔を散策 | この記事のURL
2009年10月09日
理科の解剖!
 おはようございます。

今日は理科の解剖です。

今では、あまり聞く事がなくなったように思います。

私の小学生の頃にはまだ理科の授業の中で解剖の時間があったのです。

今でもあるのでしょうか?

私のした解剖は、『フナ』の解剖です。

私よりさらに昔を振り返ると『カエル』だったりと、

その時代を見ることができる気がするのです。

解剖に使うメスやハサミも、当時の私の記憶では、本格的なもので

先端には丸みが付いてありフナの内臓を傷つけない配慮のある道具。

人間の手術に使う道具と同様のものだった記憶があるのです。

当時の理科室は研究所の雰囲気があり、フラスコやビーカなど

どれも格式のあるもので、部屋に入ったとたん今までの騒がしいクラスから

科学者の集団になった雰囲気もあるほどです。

おそらく、それ以前から理科の実験室で遊ぶと

ガラス製品が割れたことや温度計、顕微鏡といった高価な実験道具の

壊れた経験から、解剖のある学年の頃には風格があったのでしょう。

フナも生きたものを使う本格的な解剖だった記憶が残っているのです。

小学校の正門をくぐると庭があり学校らしく二宮金次郎の像が立ち

そこを過ぎると小さな池があったのです。

どうやら一年中、フナをそこの池で飼っていたものを実験に使っていた気がする。

今、思い返せば理科の解剖の前には池の掃除があり、その時に

解剖で使うフナを理科室へ運んでいたのです。

フナの肛門から丸みを帯びたメスを入れ内臓を丁寧に取り出し、

心臓・腸・その他の臓器と机の上で並べ勉強をしたのを思い出します。

心臓はまだ動いていて初めて体験する解剖に

興奮を覚えたのは言うまでもありません。

今では、小学校には池はなく、理科の授業で解剖をした話を

聞く事がなくなったようです。

時代の流れなのか教育方針の変化なのか、

また、生物を大切にする精神からなのか少しさびし気もする。

それと、小学校に池がなくなったのもさびしい気がする。

一年に何人か必ず落ちる池も当時の遊び場の一つだったのです。





 明日は、Myラジオ!です。





 では、また。

Posted by ビギン at 09:44 | 昔を散策 | この記事のURL
2009年10月08日
バットの感触!
 おはようございます。

今日は、バットの感触です。

小さい頃、野球が好きでよく近くの公園でしたのを覚えています。

今ではあまり見かけることも少なくなりましたが当時では、誰もが野球をの

感じを受けるくらい子供の賑やかな声と金属バットの音が聞こえたものです。

そうした時期があったからなのでしょう。

高校へ通う頃、機会があって硬式野球のボールを打つ事ができたのです。

さすがに高校野球ともなると小さい頃の野球の雰囲気はなく

本格的なスポーツと呼べる感じが一番ある部活だったのではないかと思います。

野球部以外の生徒が硬式野球のボールを打つ事なんてほとんどといっていいくらい

ないと思います。

私が高校3年になった頃から野球部の様子が今までと違ってきたのです。

私の所属するクラブ、卓球部の練習に時々顔を出すことがあったのです。

雨の日の屋内トレーニングと称しては体育館へ来て約1時間ほど

卓球をしてゆくことが多くなったのです。

おそらく、高校3年を迎えると春の選抜の選考が最後で

高校3年間のクラブ活動の引退をまじかに迎えていたようなのです。

その頃から3年の野球部員はどことなく楽しいクラブ活動を

エンジョイしていたようです。

今までの礼儀正しい野球部員から少し高校生らしくなった雰囲気もあり

周りは和む雰囲気で一杯だったように感じます。

ある日の午後、一人の同じクラスの野球部員から硬式野球のボールを

打ったことがあるか聞かれたのです。

私は一度もなく今まで体育館で卓球を沢山楽しんだ代わりに

硬式野球のボールを打たせてくれるよう頼んだのです。

野球部員もはじめからそのつもりだったようで

グランドには野球部の3年生が数名残ってくれていたのです。

そこで我が卓球部の3年生は全員硬式野球のボールを打つ経験ができたのです。

硬式野球のボールはかなり手ごたえがあると思いきや

バットの芯に当たると手ごたえがさほどない、あまりの感触のよさにビックリ、

ところが逆にバットの芯に当たらなかった時の手のしびれと言ったら

電気マッサージ機を手で持っている感じ、それにかなり手首にも痛みがある。

あの時の3年の卓球部員はそれぞれどんな気持ちで

バッターボックスに立ったのでしょう。

教えられたように前足の膝は伸ばし今までにないホームでのスイング!

私には生涯の良い思い出となって残ったのです。

今思えば、高校3年間の思い出に残るよう野球部員の配慮だったのでしょう。

それと、日頃のクラブ活動の大変な野球部から見た卓球部は

違った意味で魅力があったのでしょう。

高校3年間のクラブ活動の思い出の場所に卓球部のいる体育館を選んだ

野球部員たちのほんの少しの思い出になれた気がします。





 明日は、理科の解剖!です。





 では、また。

Posted by ビギン at 08:52 | 昔を散策 | この記事のURL
2009年10月07日
溜り場と化した2階!
 おはようございます。

今日は、溜り場と化した2階!です。

私も高校の時、溜り場なる、場所があったのです。

何かと好奇心の多い時期、青春を満喫した時期、があったようです。

クラブの友人の自宅の2階がいつの間にか溜り場になっていたのです。

もともと、根の悪い遊びの知らない私の楽しみはいたって単純。

将棋をするかマンガを読みあさる程度。

この時期に将棋を覚えたといっても過言でないほどした記憶がある。

友人の中に将棋に関してはかなりの腕前の持ち主がいたこともあるのでしょう。

十三駅前にはいくつかの囲碁将棋会館があったようです。

暇があれば通うほどの将棋好きとあっていつも将棋盤とにらめっこ。

当時の友人たちもかわるがわる将棋の相手に、いつの間にか囲いや

攻めのテクニック、飛車の振り方、いろいろ身につけたようです。

中でも三間飛車や四間飛車・相振り飛車にひねり飛車など

今ではよくそんな事覚えたなと思う事までこの時期に熱中したようです。

マンガとなると今ではマンガ喫茶となってしまったようですが

当時、まだ近くには貸本屋があり一冊10円ほどの金額でマンガを貸してくれる

お店があったのです。

買って読むには当時でも350円から400円するマンガの単行本が

手軽に借りれることと、全巻そろうこともあって読みふけった思い出がある。

マンガも読みだすと時間を忘れ気がつくと夜中、なん〜ってこともたびたび。

家に帰らない日もあるほど、当時は熱中していたのです。

学校からの帰り貸本屋の前で財布にあるお金を数え単行本を十冊ほど・・・

それでも、今思えば100円程度と買う事を思えばかなり安い。

しかも、友達皆で読みあさるのですから、元は十二分に取っているといっても

過言ではないくらい、ただ、返却日を過ぎて返せなかったことも、たびたびある。

不思議とそういう時に限って追加料金の100円がなかったりして

困った経験も今では覚えている。

今では集まることもなくなった部屋、時々、当時を思い出し

家の前を通ってみることもある。

表札は変わってしまっていつの間にか引っ越しをしたようだ。

何処からか、風に乗って声が聞こえる。

この地域に何があったか知らないのは、約10年地域を離れていた

私だけだったのでしょうか?

今では貸本屋の店も閉め通りはお店が減ったようだ。

変わりに、私の中学時代にかかわった人の名前の表札がやけに目につく。

私にもあった青春時代、ふと思い出すことがあるのです。





 明日は、バットの感触!です。






 では、また。

Posted by ビギン at 11:02 | 昔を散策 | この記事のURL
2009年10月06日
お葬式!
 おはようございます。

今日は、お葬式!です。

あまりあってよいものではないのかも知れません。

しかし誰もが皆経験することでもあるのです。

そんなお葬式の中に思い出に残ることがあったのです。

ひょっとしたら、以前お話の中でもしたかもしれません。

私の高校時代の出来事なのです。

当時、同級生のお葬式が多くあったことを覚えています。

中でも忘れ得ないお葬式があったのです。

当時の記憶をさかのぼってみると、ある日の夜の出来事から始まったのです。

阪神高速の出口付近で起きた事故。

事故の噂が広まるのは早く私の耳にもはいってきたのです。

近くに住む同級生が原付バイクで事故を起こした、

そう知らせが入って来たのです。

幸い命にかかわる事故ではなかったようなのですが

事故の原因が悪くも信号を無視した事が原因の事故。

しかも、大変なことに事故を起こした相手の乗っていた車が高級車のベンツ。

当時の同級生、誰もがかなりの修理費がかかることを感じたようです。

どちらの信号無視かは知らないのですが、当時同級生の何人かは

バイクの事故で命を落とすことが続いていたのが気にはなっていたのです。

事故の知らせから数日後?2日後だったのかも知れません。

学校帰りの土曜日、駅前でその同級生とばったりと出会ったのです。

まだ腕には包帯を巻いた状態で電車の改札へ、

そこへ私が改札から出てきたのです。

偶然にも出会った私に微笑むと「今帰り?」の声に

私は返事を返すと同時に、事故の事を聞いたのです。

微笑みながらけがは大したことがないことを聞いたのです。

ところが、困った様子で今から事故にあったオートバイを取りに行くのだと

私に話したのです。

まわりには高校の同級生でしょう、数名と一緒になって行くことを聞いたのです。

私は心の中でよかった怪我が大したことなければ大丈夫。

いつものように歩いて自宅へ向かったのです。

同級生と一緒だった私は帰り道事故の事を少し話、自宅近くの交差点まで

帰ってきた時、交差点でばったりまた別の同級生とあったのです。

もともと小さな町ですから不思議でもなくまして

土曜日となるとよくある光景なのです。

ところが、この時、ある知らせがあったのです。

今日の夜お通夜だと聞いた私は耳を疑ったのです。

駅からのんびり歩いても1時間とかからない距離。

今、駅前であって話したばかりのはずが、お葬式なんて・・・・

当時の私はまだ、若くお葬式は死んだ人のすることとしか考えれなかったのです。

若い私は、そんなバカな話はない、今あって話したばかりなのに・・・・

足早に先を急ぐ同級生も慌ただしく色々な友人に知らせに走ったようです。

この日のお通夜に私は参加をしなかったのです。

しかし、この日以降、その同級生とは合う事がなくなったのです。

確かにあって話した同級生、しかも1時間前の出来事。

今でも不思議に感じる、まるで狐につままれたようなものです。

私の記憶間違いかも知れない。

駅前であってから数日たっていたのかも?そう感じる時もある。

しかし、けがは大したことがないと微笑んだ顔を忘れることはできない。

今でも、あの時の不思議な感じは覚えている。

合う事がなくなった同級生、時代はめぐっているのか、同じような事故を

耳にする事が十数年後起こることを誰も知らない。





 明日は、溜り場と化した2階!です。





 では、また。


Posted by ビギン at 06:49 | 昔を散策 | この記事のURL
2009年10月03日
大地の子3!
 おはようございます。

今日は、大地の子3です。

中国の生活の中の一部分のお話を私の記憶の中に残る範囲でお話します。

中国にはその当時、強制労働収容所があったようです。

日本の刑務所のイメージで私は捉えたのですが映画を見ていくうち少し

違うことに気がついたのです。

ケイン・コスギ扮する中国の青年がある容疑の疑いを

かけられたため収容されたのです。

中国では、容疑の晴れるまでの間、収容所の生活を余儀なくされるようです。

収容所は私が見たん感じ刑務所の中の作業場の感じが強くあったのです。

違うのは昔でいわれる奴隷のようにかなりハードに働かされている。

しかも名前のとおり強制労働・・・・

私は行ったことがないのですが日本の喜劇でもよくある

どこかの山の飯場につれていかれ、働かされる感じです。

ところが容疑が晴れるとその奴隷のような強制労働も様子が変わってくるのです。

どちらかというと今の自衛隊、日本で言えばそういう感じを受けたのです。

収容施設での生活は変わりないのですが、

警察の機関から自衛隊の機関へ移る感じを受けたのです。

今までの刑務所の中のような生活とは一変して自衛隊。

収容場から遠く離れた牧場へ羊の世話役として行くのです。

その風景はさすが、中国と感じる壮大な景色で山々に囲まれた

広い地域の牧場へ何日もかけて移動。

そこでは、今までのような奴隷のように強制的な労働はなく

どちらかと言えば遊牧民族の感じを受けるほどのんびりとした

時間が流れるのです。

ケイン・コスギ扮する中国の青年もこの時、さまざまなことを思い

自分の将来を見つめていたようです。

週に一度その牧場を通る遊牧民族の若い娘と知り合い、恋におち

楽しい生活をしばらくの間送るのです。

その間の監視は全くと言ってない。

いいかえれば自衛隊の雰囲気です。

自衛隊も教育の期間は色々な制限があり約一年ほど大変な時期があるものの

その期間が過ぎればまたもとの部隊の雰囲気に戻る。

私の受けた感じではそういった気持が強かったのです。

ケイン・コスギ扮する中国の青年も強制労働の期間が終わり

再び一般社会へ戻る日が来たのです。

山奥の地で知り合った女性とともに元の職場に復帰。

再び中国の製鉄産業の重要なポストを担うことになるのです。

日本側からの担当者が自分の父である事を強制労働所で聞いていた

青年は、父の姿に喜び交流が再び始まるのです。

やがて子供もでき大地の子としてすくすくと育つ。

この先、最後のシーンはあまり記憶に残ってないのです。

残ってないというより見ていないという方が正しい。

少し最後の重要な部分に差し掛かった時、私の気持ちがなえてしまった。

今思えば大地の子の題名になる要素が終わりの部分にあったのかも知れない。

機会があり、『大地の子』を見ることがあれば私の代わりにぜひ最後まで

見ていただきたい。

今から約十年前、平成11年頃の大阪市の中央図書館で見た作品です。

今ではインターネットで検索をすると自宅近くの区の図書館まで

資料やCD/DVDを持って来てくれるサービスがある。

他にもまだまだ沢山の資料もあるようです。

私の見たものだけでも、小森一揆の話や水平社の話など部落差別や

教育に関するものもたくさんある。

私は同和の活動をしているわけではないのですが機会に恵まれたのか

図書館へ行く機会が多く目に止まったのです。

今では、落語のDVDを借りてみるのが楽しみになっているほどです。

一度時間を見つけ行ってみるのもいいかも知れません。





 明日は、お葬式!です。





 では、また。

2009年10月02日
大地の子2
 おはようございます。

今日は、大地の子2!です。

昨日に引き続き大地の子のあらすじを私の記憶に残る部分で

お話しようと思います。

日本の製鉄会社の担当者と中国政府から選ばれた若者は次第に意気投合し

家族ぐるみの交際が始まったのです。

中国の男性は、技術者ノウハウを聞きまた日本の文化へも

親しみを覚え始めていたのです。

同時に、日本の製鉄会社の担当者はこの頃からある行動をしていたのです。

日本の製鉄技術を中国の近代設備に取り入れるため日ごと中国へと行き来する中、

以前、中国に残したまま帰国した中国の女性と子供の事が気になっていたのです。

日本政府や中国政府の力添えもあり、当時の記憶から

中国の女性と子供の捜査を依頼していたのです。

年月は立ち中国政府レベルでの取り組みの中、建設された製鉄工場は

可動を始めるのですが、この時、ある容疑から中国側の担当の青年が

逮捕されることになったのです。

今まで意欲的に取り組んできた製鉄工場も軌道に乗り始めた矢先の出来事、

当然、日本から出向していた担当者も不安を隠せない状態になったのです。

特に家族ぐるみの付き合いのあった青年ですから疑いの晴れる方法は

ないものかと思案する中、ある知らせが届いたのです。

日本からの担当者が捜査の依頼をしていた中国の女性と子供の重大な事実が

解ったとの知らせに、日本を後にしたのです。

中国へ渡った担当者の元へ届いた知らせは驚く事実が書かれてあったのです。

捜査の依頼してあった女性と子供の居場所が判明したのです。

残念なことに数年前女性は病気から他界、

しかし子供は元気に中国で育っていると報告されたのです。

驚く事実はもう一つ、その男の子は現在、中国政府の管理下に置かれ

中国強制労働所へ収容されていたのです。

日本からの担当者は心にもしやの気持ちが浮かんだのです。

中国政府から選ばれた担当の青年『ケイン・コスギ』が子供なのかも・・・

中国政府へ子供の名前を問い合わせたのです。

『大地の子』の映画はここから中国の生活や文化へと場面を映してゆくのです。

今日は、ここまでにいたしたいと思います。





 明日は、大地の子3!です。






 では、また。

2009年10月01日
大地の子!
 おはようございます。

今日は、大地の子!です。

昨日の映画『ムトー』と同じ時期に大阪市の中央図書館で借りたビデをです。

今は図書館も大変立派になりビデオやCD/DVDといたものも借りることができ

かなり充実した施設になっていると思います。

子供と同様一日図書館で過ごしても飽きることがないほどです。

そんな中に幾つかの記憶に残るビデオがあったのです。

今日紹介する『大地の子』もその一つなのです。

確か、NHKのドラマの特集で6日間放送されたものだったと記憶しているのです。

時代は今より数十年前、確かオリンピックか

大阪万博の頃の話だったと記憶してます。

私の住む町にも沢山の鉄工所がありかなり有名な会社だと思うですが

その会社のその当時の実話だったようです。

日本がまだ今のように中国との貿易にさかんでなかった頃、

千葉県にある大手製鉄会社との取引が行われたようです。

中山製鉄だったのでしょうか?私はそう記憶しているのです。

当時の製鉄産業はめまぐるしい発展をしており新たに

中国への進出を果たしたのです。

当時の中国はまだ産業が乏しく日本の製鉄技術のノウハウを取り入れるため

国レベルの外交へと発展していったのです。

中国に大きな製鉄工場を建設、日本の製鉄技術結集ともいわれる設備を

当時の中国に出向き設計から施工・可動までをある人物が担当をしたのです。

この時の担当した当時の担当者は昔、中国へ軍人として行った経験があり

中国から帰国した人物だったのです。

当時の日本兵は敗戦し誰もが帰国の道がないと思っていた頃です。

中国で結婚された方も多くおられた時期、この時の担当者もある中国の女性と

結婚をし二人の間には一人の男の子が誕生していたのです。

しかし敗戦から数年、帰国が認められ、この時の担当者は子供と女性を

中国に残したまま日本へ帰ってきたのです。

中国では政府レベルの製鉄産業の取り組むスタッフに一人の男性

今の「ケイン・コスギ」が役者として出演。

この「ケイン・コスギ」が務める中国人男性がこの担当者の中国女性との間に

生まれた男の子供だったのです。

映画『大地の子』は1話から6話まであり当時の中国の文化・生活や

日本の製鉄業界のめまぐるしい発展を描いていたのです。

今日は、ここまでといたします。




 明日は、大地の子2!です。





 では、また。

2009年09月30日
オウム?
 おはようございます。

今日は、オウム?です。

一昔前・・・オウムと聞くと誰もが嫌な表情に・・・

表情に出なくても怖い・恐ろしい事件の記憶がよみがえり不安になる。

それも、ここ数年はあまり聞かれなくなった。

松本サリン事件も記憶に残るし東京メトロのサリン事件は惨忍な事件。

当時騒がれていたアチャリーや教祖と言われる人の

子供ニュースも少なくなったようです。

先々日の話でもした庚申!変わってものを申しあげる人も

いわゆるオウム?なのかそう感じる。

三部経の中にはそうした言葉も一部含まれている。

今、私の住む地域・・・・日本中に現れているのかも知れない。

今までは諸外国でされていたことが日本人の耳に多く聞こえる。

そう感じることが多くなったのです。

ひどい日にはテレビで話すアナウンサーのレポートの声にも多く出ている日がある。

あまりにも露骨な放送が多く感じる。

これも、憶測なのだが一番最初に感じたのは読売放送が初めだったと思う。

当時を振り返ると、テレビに出ているアナウンサー様子が一変した事を

思い出す、と同時にある市会議員もしくは国会議員と言われる政治権力の

あったことが心の中に聞こえてきた。

政策に一般国民の生活や社会人の生活に反映させるのに

放送局の社員でない人物がテレビの前で、アナウンサーとして

現場に出ている、こう聞こえたのです。

直接人から聞いた事柄ではなく今まで同様心の中に・・・・

一度は、朝日放送へ駆け込んだこともある。

当時はまだ今ほどあらゆる庚申・・・・オウムが出てはいなかったようだが

今では違う、あらゆる放送番組におかしな声が出ている。

現場で働くアナウンサーも感じてはいるだろう。

戦時中なら問題な放送、玉音放送もこれにあたるのではないかと思う。

大阪の天王寺の話も思い受かべてもらいたい。

大阪環状線の会話の話も。

大阪南の繁華街での韓国食材の店の話も。

町の中には数多くの不思議な声があるのです。

今から11年前、大阪市立中央図書館でこんなビデオとであった事を思い出す。

タイのある村での出来事を映画にしたものです。

村にある王族の跡継ぎ争いの舞台にある一人の老人が関与するものなのです。

村から遠く山の奥地で生活をする老人、

この老人には不思議な能力があったのです。

その能力が王族に生まれ王になるときに必要になったのです。

跡継ぎの争いに巻き込まれた王が村を追われた時、

山奥から老人がおりてきたのです。

この時の老人は遠い昔、テレビで見たダイバダッタを思い出す。

山奥で修行をした者のみ許される能力を身につけていた老人には、

山奥にいながら村の出来事、正当な村の継承者を追い出そうとする者の

考えや動きが手にとるように解っていたのです。

しかも能力はこれだけではなく武術に至るまで・・・

まるでテレビのレインボウマンのように、

村を追われた青年に能力を与えたのです。

正当な村の継承は無事におさまり、王となり元の平和な村に戻るのですが

この老人は再び山奥へ・・・村の平和と王族を守るため遠い昔から

不思議な能力を持っている一族。

村では生活ができず絶えず遠く離れた山奥で身を隠し生活をするのです。

この時の映画の題名は確か「ムトー」だったと思います。

小さい頃、テレビでよく見たレインボウマンがこれに当てはまるのを

映画を見ながら感じたのです。

昔、NHKに出演したアンデス音楽のクリスティーナとウーゴも日本で

放送されたときには色々な声が聞こえていたようです。

今の日本の中でこの映画のように山奥で生活をしている老人のような人が

多く町の中に出てきているのでしょうか?

今でも古くから伝わる山では密教の教えもあり世間に生活する人々の

理解をはるかに超える教えもあるのでしょう。

庚申も普通に生活する人々には必要のないものではないのでしょうか?

町を歩くたび聞こえてくる会話に不思議な声が交って聞こえ届くことは

当り前ではなく、特別な能力でも優秀な人でもない。

皆と生活ができない世界で生きてゆかなければならない

人なのではないのでしょうか?

そうでなければ、高野山や比叡山と言われる霊峰は必要ない。

また、密教の教えも密教でなくなるのではないのでしょうか?

誰も聞くことのできる庚申も人の世には迷惑なものになるのでは?

そう感じるのです。

私の周りに多く起こる不思議なことも密教や宗教の教えなら

ありがたいものなのでしょう、しかし、人間の生きてゆく中には必要ない、

そう思います。



 


 明日は、大地の子!です。






では、また

Posted by ビギン at 10:34 | 冒険 | この記事のURL
2009年09月29日
目ん玉がひっくり返る!
 おはようございます。

今日は、目ん玉がひっくり返る!です。

なんだか、言葉を聞くとんでもないことを・・・・

ある、障害者団体の人が聞くとクレームの原因に、そうも感じるのですが、

私の周りには普通にあった言葉だったのです。

今の時代では見かけないもの、昔、古い時代の電話です。

明治時代のドラマには時々出てくる電話。

しゃべるところがあり、横にくるくる回すものが付いていて

への50番とか、ふの30番と相手に伝えるとへの50番にへつないでくれる電話。

昨日の話にも少し、今でも自衛隊では独自の電話交換をしているでしょう。

直接部隊にかかるのでなく、一度基地の交換の窓口につながり

そこから、内線へつながる。

自衛隊の野外の電話もこの電話交換機を使用しているのです。

今では、明治初期の頃のドラマみたいなものはなく、

普通にNTT同様、電子交換機を使用、普通に電話をかけるのと同じです。

ところが、私のいた頃はまだ昔のように

番号を伝えつないでもらう電話だったのです。

しかも基地の電話局のようにコンピューターでつなぐものでなく

自力で・・・人の手でつなぐものだったのです。

見たことのある人はおそらく少ないでしょう。

木の箱のようなものを沢山つなぎ合わせて一つの大きいな機械の箱のように

摘み重ねて使うのです。

一つ一つの中には電話線がひかれていてそれにつなぐと線がつながり相手と

電話で話ができるのです。

電話での通話が終わるとくるくるとレバーを回しておくと交換機についている

担当者にわかるようになっていて回線を切断してくれるのです。

この時の目印が、目ん玉のようなレンズに白くなるのです。

通常は黒くわからないのですが玉の裏側は、白く回転すると目立つ事から

目ん玉がひっくり返る!このような表現を使っているのです。

当時の私も電話交換所に行くと大きな声で、目ん玉がひっくり返ってるだろ、

怒鳴り声にびっくり・・・

普通に考えると一大事、救急車を呼ばないと、と思う人も少なくない。

よく、聞いてみるとなるほど、言葉通り目ん玉がくるりと引っくり返るように

見えるではないですか、一目瞭然。

感心したことと、テレビで見ていた申し込み電話、あのへの50番の

裏側にはこんな作業があったのだと興味心身で見ていた事を思い出すのです。

今では、時代の最先端、クモの巣のように細い線でもどこかつながっていると

コンピューターが自動的に早い回線を探しつないでくれる。

今のインターネットも同様コンピューター次第。

中には優先回路の指定ができるかも知れませんが、人の手を経由することは

少なくなっているのでしょう。

電話交換手の「はい何番へ」、「終わりましたか」、「終わりましたね」

の声がなぜか、カッコ良く感じたのは私だけではなかったようです。






 明日は、オオム?です。






 では、また。

Posted by ビギン at 09:22 | 昔を散策 | この記事のURL
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