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 屋根裏に子供部屋が、小さい頃の思い出・・・ 沢山の思い出が、大冒険の始まりの予感が!
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2009年10月21日
学生カバン!
 おはようございます。

今日は、学生カバン!です。

数日前、秋祭りの時、見かけた光景でふと懐かしく感じたのです。

夏祭りとは違って秋祭りは少し静かな雰囲気があり、神社の境内も

静かな感じがしていたのです。

そこへ賑やかな笑い声が響き目の前を見てみると

女子中学生の数名の姿があったのです。

私が通っているころとはずいぶん変わった様子で、学生服も

当時の詰襟にセーラー服から今ではブレザーに変化しており

随分おしゃれになったものだと感じたのです。

夜店で手伝いをする仲間と話す中にカバンの話題が上り

去年とカバンの大きさが変わったとの話題に昔が蘇る思いがしたのです。

私が中学へ通う頃を今日は少し思い出してみようと思います。

当時、近所には親戚が多くあり、中学へ通う頃にも

幾つものお下がりがあったのです。

学生服や学生帽、体操服に学生カバン・・・・幾つものお下がりの中で

学生カバンの思い出が鮮明に残っているのです。

当時の通学に持つカバンは、手提げのもので、今の高校生の持つものと

あまり変わりがなかったのですが、お下がりでもらったカバンは

昔の・・・戦時中の漫画によく出てくるタイプのカバンだったのです。

肩からつるすタイプのもので襷がけにし両手がいつでも使えるように

なったものだったのです。

私が中学へ通う頃も学校では販売はしていた記憶がある、

当時、どちらを購入するか選択ができた時代だった記憶があるのです。

幸いにも私の場合お下がりで昔のタイプのカバンを持っていたため

新しいタイプの手提げのカバンを購入したのです。

中学へ通うようになって周りに昔のタイプのカバンが多ければ

お下がりをつかおう、そう話をしたのを覚えているのです。

中学へ通い始めて周りを見ると昔のタイプのものはあまり・・・

というより、ほとんどなく新しいタイプのものがほとんどだったのです。

学年で1〜2名はいたのかも知れません。

話を聞くと私と同様、昔のタイプのカバンをお下がりでもらって

持っている人も多くいたようです。

中学生活で昔のタイプのカバンを使う機会はなかったのですが、

学生を卒業し、社会へ出たころに再びめぐり合う機会があったのです。

当時、自衛官として教育隊へ入隊し前期・後期の教育を受け一般部隊へ・・・

職種がらそのカバンを持つ機会があったのです。

自衛隊では当時そのカバンを通信バック(通信カバン)と呼んでいたのです。

今ではあまり見かけることがないようですが、昔の郵便配達のおじさんを

イメージするとピッタリ当てはまるのかも知れません。

通信の職種の中にもいろいろあり郵便業務も一つの通信科の職種だったのです。

中にはいろいろな電報を入れ肩から下げ配達をする大事な任務。

配達までの間、取られたりなくすことはもちろんあってはならない重要な

ものだけに肩から然りと掛け配達をする通信のカバンだったのです。

ここ数年、私の通勤かばんも肩から掛けるタイプのものが多くなり

中には・・・やはり置き忘れたり失くしてはならない

大事なものが入っているのです。

社会生活を送る中、いつのころか大切に感じる感性が生まれたのでしょう。

個人情報の重要視される中、違う重要なものがあることに気付く機会が

今の私の通勤の風景にあるのかも知れません。

なんでもない、女子中学生の姿に昔を思い出し

いろいろな思いを巡らせた秋祭りだったのです。





 明日は、地域の名物!です。




 では、また。

Posted by ビギン at 10:16 | 昔を散策 | この記事のURL
2009年10月20日
お神楽!
 おはようございます。

今日は、お神楽!です。

ここ数年、地域の神社のお祭りに参加する機会に恵まれ

昔を懐かしく思い出すことが多くあるのです。

そんな中、ある不思議な人物と会うことがあったのです。

このブログでも幾つか紹介した神様の話。

ところがある年のお祭りのときです。

懐かし人物?懐かしいというより変わらない姿の人物と会ったのです。

お神楽を舞う神社の上でいつもお菓子を手渡していた人。

昔と変わらない姿で・・・・

今は、神社のお神楽を舞う巫女さんやその席にいる人の顔を見ることなんて

あまりない。

しかし私の小さなころは顔を見ないお祭りはなかったのです。

小さな子どもにもお神楽を舞うところから手を差し伸べて神社からのお菓子を

直接手渡しでもらう、子供の目にはその人の顔が

おぼろげに記憶に残っているのです。

ところが、数年前、神社のお神楽を舞う席に私の目が届いたのです。

その時、巫女さんを制する懐かしい顔の人と目があったのです。

しかも、巫女さんを制する時、まだ待ての声とともに・・・・

心の中に確かに聞こえた声、何を意味しているのか?

しかし、なぜ・・・小さい頃の私の記憶にある人が、その時のイメージのまま

しかも、その制する仕草は、工事現場で見るガラス会社の人に見えたのです。

私の顔を見たとたん巫女さんを制するその人物は私が小さい頃、

いつもお祭りでお菓子を手渡していた、おじさんの姿そのままだったのです。

あれから40年私は年を重ねあの頃の面影はほとんどなくなっているはず、

私に気がついたのだろうか?いや、間違いなく気がついたはずだ・・・

小さい頃のお神楽を舞っていた巫女さんも今はかなり年を重ね

数年前会った時、そのおじさんと同様、まだ、の声がかすかに聞こえた。

私の周りの状態を表しているような気がする。

今でも懐かしい顔を残したまま、お参りをする人を見ているのだろうか?

きっと見ているに違いない、そう感じるのです。





 明日は、学生カバン!です。




 では、また。

Posted by ビギン at 09:19 | 昔を散策 | この記事のURL
2009年10月16日
チリ取り!
 おはようございます。

今日は、チリ取りです。

ここ数日、関東へ出かけていて更新ができてなかったのです。

ブログを楽しみにしてくれている方には本当にに申し訳なく思っています。

今日から再び掲載してゆきます。

あるきっかけで私の転職が余儀なくなったのです。

就職難の中、ご縁がありある建設関連の会社へ勤めることができたのです。

当初は、営業部に所属各地域を回り営業経験を積むと配置換えがあったのです。

私の配置された部署は工事部、文字通り様々な住宅の工事をするのです。

床下のクラックの補修から天井裏の補強、屋根の補修にと様々な工事があり

日々忙しく追われる中、元気に勤務をしたいたのです。

ある日の工事で屋根の上の面土の補修工事があり私も一人前に作業を・・・・

今までにない作業で使う道具もコテの形も特徴のあるものばかり

専門用語では「鶴首」と言われ文字通り鶴の首のように長く

瓦の奥に入り込んだ部分の漆喰の補修に適した道具なのです。

まだ、工事に携わって間のない私の作業といえば、金槌を使い

面土にある古く老化した漆喰を除去する作業にもっぱら追われていたのです。

屋根の上とあってさらに特徴のある道具があったのです。

面土の漆喰の除去の時、漆喰のかけらが転げ落ち下の道を通る人の頭に・・・

そうならないためにチリ取りを使いこまめにかけらを取りながらの作業、

面土の一つ一つ丁寧に除去しながらチリ取りでしかし、日頃使うチリ取りとは

少し違い屋根の上でも使いやすい形と機能を持っていたのです。

先端は帽子のつば、のように丸く突き出ていて瓦の隙間に差し込むと

手を添えていなくても落ちることがない形になっていたのです。

当然チリをためる部分も深みがあり見た形は箱のような四角い形なのです。

工事部では、各人自分の道具を持ち手入れから補修に至るまで自分の管理、

職人に近い職場ですから当然と言えば当然なのでしょう。

私も一人前に道具をそろえ腰袋を付け作業に・・・・・

チリ取りにも各人のお気に入りのものがあり

自分自分で作ったものだったようです。

作業も慣れてくるとその使いやすさのこだわりにきずき始めたのです。

数週間、作業をしてゆく中、私も自分のチリ取りを作ろう、そう決めたのです。

作業の合間に自分の使いやすい大きさ、長さ、厚みをメモに取り作成。

少し悩んだものの自分の作業で使いやすいサイズの形に、

作っていくうちに中学のころ、技術の時間にチリ取りを

作ったことを思い出したのです。

ブリキを形に切り切り口を丁寧に叩いて丸め加工したチリ取りの作成を

懐かしく思い出したのです。

自分のチリ取りを作りながら当時を思い出し、チリ取りの加工をすると

出来上がった形があるものに似ていることに気がついたのです。

作成段階ではサイズの通り作り、出来上がりの形までは

イメージになかったのです。

しかし、出来上がったチリ取りは私がつける、腰袋の形とまったく同じ

大きさと長さ、形になっていたのです。

作り終わった私は不思議と今まで何気なく使っていた腰袋が計算され

作成された形のように思えたのです。

それと同時に自分の使いやすいサイズも間違いではなかった、

思いが込み上げてきたのです。

中学で作成したチリ取りの授業を思い出し、自分の思ったサイズのものが

出来上がった時、中学の技術の時間のありがたさに気付くことができたのです。

なんでもない小さなチリ取りに昔懐かしい思い出が蘇った瞬間です。

あの時の・・・・中学の技術の時間作ったチリ取りは・・・・・

今でも自宅の植木の陰にひっそりとあるようです。





 明日は、文鎮!です。





 では、また。

Posted by ビギン at 05:29 | 昔を散策 | この記事のURL
2009年10月13日
将机!
 おはようございます。

今日は、将机!です。

前回に引き続き中学の技術の時間の思い出の作品です。

私が通っていた頃の中学では、なぜか大工道具があったのです。

今では珍しく道具袋があり中にはのこぎり・かんな・金槌・のみ・キリ・

折尺・くぎ抜き・金切りのこに至るまで一通りの大工道具を

購入した記憶があるのです。

道具袋には学年と氏名を書く欄があり、かなり本格的なものだったのです。

当時の中学には技術家庭の授業があることは前回も少しお話をしましたが

色々な作品を制作したのです。

その中の一つに『将机』があったのです。

昔の風景、戦国時代のドラマなどでは出てくる松明の明かりのもと

将軍たちが座り戦略会議をしている陣営、その座っている椅子こそ『将机』と

呼ばれるものでそれを作成したのです。

以前のお話にもたびたび出てきた材木工場があったように地域では

こうした取り組みがあったのかも知れません。

小さい頃から材木工場へ切れ端をもらいにゆき、工作に予断がなかったのも

こうした環境からだったのでしょう。

大工道具の一揃えを持っているとは言え、まだのこぎりすら触ったこともない

生徒もたくさんおり授業も一苦労。

切てはいけない部分を切ることもたびたびで、切っている最中に間違いにきずく

なんて事もあり、そのつど技術の先生から指導を受け手直しをするのです。

気の切りくずを集め木工用ボンドと混ぜ「とのこ」と称しては

傷口を埋める作業に懸命になったことも、中にはイスの周りが穴だらけで

どの穴に鉄の棒を通すか判らないほど沢山の穴を開けた学生もいるほど、

中にはその大きな穴を埋めるのに「とのこ」のほか、木の円筒を作る生徒まで

しかし、だんだんと形になるにつれ製作の作業も楽しさを増してくるのです。

中には早く完成して授業中その将机に座る生徒もいて、

その姿は何処となく将軍に見えることも・・・・・

なんとも偉そうででも、作品が仕上がっている以上、

座っても叱られることもなく、うらやましく思う事もある。

座る部分に張る布の長さも適度な長さになっているもの、そうでないものは、

座っても何処となく背伸びをしたように滑稽な感じに見える人、

また、長すぎてふんぞり返りまるでバカ殿様のように見える人、

出来た作品にもいろいろな個性があり

楽しく感じる授業であったことを覚えているのです。

今では中学の後輩の当たる学生の通学姿に道具袋が見えないことを

まわりの人たちはきずいているのだろうか?

当時の技術の楽しさを実際に感じた私はさびしく感じるのです。

土曜日の休みもいい面が沢山ある、それと比例してさびしく感じるものも

多くなったのではないでしょうか?

夏休みの宿題にのこぎりで木材を切って工作する姿が

地域から消えたように感じるのです。





 明日は、チリ取り!です。





 では、また。

Posted by ビギン at 09:56 | 昔を散策 | この記事のURL
2009年10月11日
Myラジオ
 おはようございます。

今日は、Myラジオです。

学生生活の中で様々なものを作成してきたように思います。

幼稚園・保育園から始まり小学校、中学・高校、中には専門学校・大学と

誰もが進む道の中で幾つもの作品がある、今日は、その中のラジオです。

今では、見かけることも聞く事もなくなりましたが私の頃は技術家庭の

授業があったのです。

女の子は家庭科、小学校でも授業にあった縫製、ミシンも使いかなり本格的な

事まで習う、代わりに男子は、技術、旋盤やいろいろな専門機器を使う

かなり本格的な授業が当時はまだあったのです。

今、思うとハローワークで取り入れている職業訓練。

中学でも馬鹿にできないくらい設備もあり

本格的な授業だったと今では思うのです。

中学3年間でいろいろなものを作成してきた中に、ラジオがあるのです。

ラジオ作成のキットと言ってしまえばそれまでなのかも知れません。

しかし、実際に作ってみると知らなければ作成できないことが

数多くあったのです。

炭素皮膜固定抵抗器、当時ではヒューズと呼んだように記憶にあります。

赤や黄色、茶など色分けをされたもので色を見ながら計算をするのです。

抵抗器の容量によってはクリップを使いはんだ付けをしなければ

ならないものもあり、当時ではかなり難しい電気の基礎知識が

必要だったのです。

一つ一つ計算をして基盤にはんだ付けされてゆく小さな部品、

はんだ付けも松ヤニを使い誰もが懸命に作成をしていたのです。

それは当然、スピーカーから流れるラジオ放送を夢見て懸命に・・・・

可変抵抗器、いわゆるボリュームを最後に取り付けカバーをかぶせると

立派なラジオです。

当時の流行りの型で短波放送のメモリもある人気のタイプ。

作成できた順に電源を入れる。

まだ仕上がっていない人の周りから一つまた一つとスピーカーから流れる

ラジオ放送に歓喜の声が聞こえてくるのです。

中には作成段階のミスで放送の流れないラジオもいくつかあり、

技術室は、賑やかさを増してゆくのです。

放送の流れないラジオを技術の先生に持ってゆく生徒、その前にはテスターを

手に検査に予断のない先生、誰もが懸命にならざるを得ない。

当然、やり直しもあり数日間は、ラジオの話題で教室中持ちきりです。

中には、昼からの授業、イヤホンを制服の袖から遠し

ラジオを聴く生徒まで、多分にもれず、私も授業中にラジオを聞いた

一人ではあるのです。

私の感では、聞かなかった生徒はいなかったのではないかと思うほど、

それに、イヤホンが付いていたなんて、聞くなと言う方が無理。

これも、当然先生方にはお見通しだったでしょう。

中学生活の楽しい思い出の一つになることを、

当時の先生方も願っていたのではないのでしょうか?

今では、聞く事もなくなった授業風景になぜか寂しさを感じるのです。




 明日は、将机!です。


 では、また。

Posted by ビギン at 11:46 | 昔を散策 | この記事のURL
2009年10月09日
理科の解剖!
 おはようございます。

今日は理科の解剖です。

今では、あまり聞く事がなくなったように思います。

私の小学生の頃にはまだ理科の授業の中で解剖の時間があったのです。

今でもあるのでしょうか?

私のした解剖は、『フナ』の解剖です。

私よりさらに昔を振り返ると『カエル』だったりと、

その時代を見ることができる気がするのです。

解剖に使うメスやハサミも、当時の私の記憶では、本格的なもので

先端には丸みが付いてありフナの内臓を傷つけない配慮のある道具。

人間の手術に使う道具と同様のものだった記憶があるのです。

当時の理科室は研究所の雰囲気があり、フラスコやビーカなど

どれも格式のあるもので、部屋に入ったとたん今までの騒がしいクラスから

科学者の集団になった雰囲気もあるほどです。

おそらく、それ以前から理科の実験室で遊ぶと

ガラス製品が割れたことや温度計、顕微鏡といった高価な実験道具の

壊れた経験から、解剖のある学年の頃には風格があったのでしょう。

フナも生きたものを使う本格的な解剖だった記憶が残っているのです。

小学校の正門をくぐると庭があり学校らしく二宮金次郎の像が立ち

そこを過ぎると小さな池があったのです。

どうやら一年中、フナをそこの池で飼っていたものを実験に使っていた気がする。

今、思い返せば理科の解剖の前には池の掃除があり、その時に

解剖で使うフナを理科室へ運んでいたのです。

フナの肛門から丸みを帯びたメスを入れ内臓を丁寧に取り出し、

心臓・腸・その他の臓器と机の上で並べ勉強をしたのを思い出します。

心臓はまだ動いていて初めて体験する解剖に

興奮を覚えたのは言うまでもありません。

今では、小学校には池はなく、理科の授業で解剖をした話を

聞く事がなくなったようです。

時代の流れなのか教育方針の変化なのか、

また、生物を大切にする精神からなのか少しさびし気もする。

それと、小学校に池がなくなったのもさびしい気がする。

一年に何人か必ず落ちる池も当時の遊び場の一つだったのです。





 明日は、Myラジオ!です。





 では、また。

Posted by ビギン at 09:44 | 昔を散策 | この記事のURL
2009年10月08日
バットの感触!
 おはようございます。

今日は、バットの感触です。

小さい頃、野球が好きでよく近くの公園でしたのを覚えています。

今ではあまり見かけることも少なくなりましたが当時では、誰もが野球をの

感じを受けるくらい子供の賑やかな声と金属バットの音が聞こえたものです。

そうした時期があったからなのでしょう。

高校へ通う頃、機会があって硬式野球のボールを打つ事ができたのです。

さすがに高校野球ともなると小さい頃の野球の雰囲気はなく

本格的なスポーツと呼べる感じが一番ある部活だったのではないかと思います。

野球部以外の生徒が硬式野球のボールを打つ事なんてほとんどといっていいくらい

ないと思います。

私が高校3年になった頃から野球部の様子が今までと違ってきたのです。

私の所属するクラブ、卓球部の練習に時々顔を出すことがあったのです。

雨の日の屋内トレーニングと称しては体育館へ来て約1時間ほど

卓球をしてゆくことが多くなったのです。

おそらく、高校3年を迎えると春の選抜の選考が最後で

高校3年間のクラブ活動の引退をまじかに迎えていたようなのです。

その頃から3年の野球部員はどことなく楽しいクラブ活動を

エンジョイしていたようです。

今までの礼儀正しい野球部員から少し高校生らしくなった雰囲気もあり

周りは和む雰囲気で一杯だったように感じます。

ある日の午後、一人の同じクラスの野球部員から硬式野球のボールを

打ったことがあるか聞かれたのです。

私は一度もなく今まで体育館で卓球を沢山楽しんだ代わりに

硬式野球のボールを打たせてくれるよう頼んだのです。

野球部員もはじめからそのつもりだったようで

グランドには野球部の3年生が数名残ってくれていたのです。

そこで我が卓球部の3年生は全員硬式野球のボールを打つ経験ができたのです。

硬式野球のボールはかなり手ごたえがあると思いきや

バットの芯に当たると手ごたえがさほどない、あまりの感触のよさにビックリ、

ところが逆にバットの芯に当たらなかった時の手のしびれと言ったら

電気マッサージ機を手で持っている感じ、それにかなり手首にも痛みがある。

あの時の3年の卓球部員はそれぞれどんな気持ちで

バッターボックスに立ったのでしょう。

教えられたように前足の膝は伸ばし今までにないホームでのスイング!

私には生涯の良い思い出となって残ったのです。

今思えば、高校3年間の思い出に残るよう野球部員の配慮だったのでしょう。

それと、日頃のクラブ活動の大変な野球部から見た卓球部は

違った意味で魅力があったのでしょう。

高校3年間のクラブ活動の思い出の場所に卓球部のいる体育館を選んだ

野球部員たちのほんの少しの思い出になれた気がします。





 明日は、理科の解剖!です。





 では、また。

Posted by ビギン at 08:52 | 昔を散策 | この記事のURL
2009年10月07日
溜り場と化した2階!
 おはようございます。

今日は、溜り場と化した2階!です。

私も高校の時、溜り場なる、場所があったのです。

何かと好奇心の多い時期、青春を満喫した時期、があったようです。

クラブの友人の自宅の2階がいつの間にか溜り場になっていたのです。

もともと、根の悪い遊びの知らない私の楽しみはいたって単純。

将棋をするかマンガを読みあさる程度。

この時期に将棋を覚えたといっても過言でないほどした記憶がある。

友人の中に将棋に関してはかなりの腕前の持ち主がいたこともあるのでしょう。

十三駅前にはいくつかの囲碁将棋会館があったようです。

暇があれば通うほどの将棋好きとあっていつも将棋盤とにらめっこ。

当時の友人たちもかわるがわる将棋の相手に、いつの間にか囲いや

攻めのテクニック、飛車の振り方、いろいろ身につけたようです。

中でも三間飛車や四間飛車・相振り飛車にひねり飛車など

今ではよくそんな事覚えたなと思う事までこの時期に熱中したようです。

マンガとなると今ではマンガ喫茶となってしまったようですが

当時、まだ近くには貸本屋があり一冊10円ほどの金額でマンガを貸してくれる

お店があったのです。

買って読むには当時でも350円から400円するマンガの単行本が

手軽に借りれることと、全巻そろうこともあって読みふけった思い出がある。

マンガも読みだすと時間を忘れ気がつくと夜中、なん〜ってこともたびたび。

家に帰らない日もあるほど、当時は熱中していたのです。

学校からの帰り貸本屋の前で財布にあるお金を数え単行本を十冊ほど・・・

それでも、今思えば100円程度と買う事を思えばかなり安い。

しかも、友達皆で読みあさるのですから、元は十二分に取っているといっても

過言ではないくらい、ただ、返却日を過ぎて返せなかったことも、たびたびある。

不思議とそういう時に限って追加料金の100円がなかったりして

困った経験も今では覚えている。

今では集まることもなくなった部屋、時々、当時を思い出し

家の前を通ってみることもある。

表札は変わってしまっていつの間にか引っ越しをしたようだ。

何処からか、風に乗って声が聞こえる。

この地域に何があったか知らないのは、約10年地域を離れていた

私だけだったのでしょうか?

今では貸本屋の店も閉め通りはお店が減ったようだ。

変わりに、私の中学時代にかかわった人の名前の表札がやけに目につく。

私にもあった青春時代、ふと思い出すことがあるのです。





 明日は、バットの感触!です。






 では、また。

Posted by ビギン at 11:02 | 昔を散策 | この記事のURL
2009年10月06日
お葬式!
 おはようございます。

今日は、お葬式!です。

あまりあってよいものではないのかも知れません。

しかし誰もが皆経験することでもあるのです。

そんなお葬式の中に思い出に残ることがあったのです。

ひょっとしたら、以前お話の中でもしたかもしれません。

私の高校時代の出来事なのです。

当時、同級生のお葬式が多くあったことを覚えています。

中でも忘れ得ないお葬式があったのです。

当時の記憶をさかのぼってみると、ある日の夜の出来事から始まったのです。

阪神高速の出口付近で起きた事故。

事故の噂が広まるのは早く私の耳にもはいってきたのです。

近くに住む同級生が原付バイクで事故を起こした、

そう知らせが入って来たのです。

幸い命にかかわる事故ではなかったようなのですが

事故の原因が悪くも信号を無視した事が原因の事故。

しかも、大変なことに事故を起こした相手の乗っていた車が高級車のベンツ。

当時の同級生、誰もがかなりの修理費がかかることを感じたようです。

どちらの信号無視かは知らないのですが、当時同級生の何人かは

バイクの事故で命を落とすことが続いていたのが気にはなっていたのです。

事故の知らせから数日後?2日後だったのかも知れません。

学校帰りの土曜日、駅前でその同級生とばったりと出会ったのです。

まだ腕には包帯を巻いた状態で電車の改札へ、

そこへ私が改札から出てきたのです。

偶然にも出会った私に微笑むと「今帰り?」の声に

私は返事を返すと同時に、事故の事を聞いたのです。

微笑みながらけがは大したことがないことを聞いたのです。

ところが、困った様子で今から事故にあったオートバイを取りに行くのだと

私に話したのです。

まわりには高校の同級生でしょう、数名と一緒になって行くことを聞いたのです。

私は心の中でよかった怪我が大したことなければ大丈夫。

いつものように歩いて自宅へ向かったのです。

同級生と一緒だった私は帰り道事故の事を少し話、自宅近くの交差点まで

帰ってきた時、交差点でばったりまた別の同級生とあったのです。

もともと小さな町ですから不思議でもなくまして

土曜日となるとよくある光景なのです。

ところが、この時、ある知らせがあったのです。

今日の夜お通夜だと聞いた私は耳を疑ったのです。

駅からのんびり歩いても1時間とかからない距離。

今、駅前であって話したばかりのはずが、お葬式なんて・・・・

当時の私はまだ、若くお葬式は死んだ人のすることとしか考えれなかったのです。

若い私は、そんなバカな話はない、今あって話したばかりなのに・・・・

足早に先を急ぐ同級生も慌ただしく色々な友人に知らせに走ったようです。

この日のお通夜に私は参加をしなかったのです。

しかし、この日以降、その同級生とは合う事がなくなったのです。

確かにあって話した同級生、しかも1時間前の出来事。

今でも不思議に感じる、まるで狐につままれたようなものです。

私の記憶間違いかも知れない。

駅前であってから数日たっていたのかも?そう感じる時もある。

しかし、けがは大したことがないと微笑んだ顔を忘れることはできない。

今でも、あの時の不思議な感じは覚えている。

合う事がなくなった同級生、時代はめぐっているのか、同じような事故を

耳にする事が十数年後起こることを誰も知らない。





 明日は、溜り場と化した2階!です。





 では、また。


Posted by ビギン at 06:49 | 昔を散策 | この記事のURL
2009年09月29日
目ん玉がひっくり返る!
 おはようございます。

今日は、目ん玉がひっくり返る!です。

なんだか、言葉を聞くとんでもないことを・・・・

ある、障害者団体の人が聞くとクレームの原因に、そうも感じるのですが、

私の周りには普通にあった言葉だったのです。

今の時代では見かけないもの、昔、古い時代の電話です。

明治時代のドラマには時々出てくる電話。

しゃべるところがあり、横にくるくる回すものが付いていて

への50番とか、ふの30番と相手に伝えるとへの50番にへつないでくれる電話。

昨日の話にも少し、今でも自衛隊では独自の電話交換をしているでしょう。

直接部隊にかかるのでなく、一度基地の交換の窓口につながり

そこから、内線へつながる。

自衛隊の野外の電話もこの電話交換機を使用しているのです。

今では、明治初期の頃のドラマみたいなものはなく、

普通にNTT同様、電子交換機を使用、普通に電話をかけるのと同じです。

ところが、私のいた頃はまだ昔のように

番号を伝えつないでもらう電話だったのです。

しかも基地の電話局のようにコンピューターでつなぐものでなく

自力で・・・人の手でつなぐものだったのです。

見たことのある人はおそらく少ないでしょう。

木の箱のようなものを沢山つなぎ合わせて一つの大きいな機械の箱のように

摘み重ねて使うのです。

一つ一つの中には電話線がひかれていてそれにつなぐと線がつながり相手と

電話で話ができるのです。

電話での通話が終わるとくるくるとレバーを回しておくと交換機についている

担当者にわかるようになっていて回線を切断してくれるのです。

この時の目印が、目ん玉のようなレンズに白くなるのです。

通常は黒くわからないのですが玉の裏側は、白く回転すると目立つ事から

目ん玉がひっくり返る!このような表現を使っているのです。

当時の私も電話交換所に行くと大きな声で、目ん玉がひっくり返ってるだろ、

怒鳴り声にびっくり・・・

普通に考えると一大事、救急車を呼ばないと、と思う人も少なくない。

よく、聞いてみるとなるほど、言葉通り目ん玉がくるりと引っくり返るように

見えるではないですか、一目瞭然。

感心したことと、テレビで見ていた申し込み電話、あのへの50番の

裏側にはこんな作業があったのだと興味心身で見ていた事を思い出すのです。

今では、時代の最先端、クモの巣のように細い線でもどこかつながっていると

コンピューターが自動的に早い回線を探しつないでくれる。

今のインターネットも同様コンピューター次第。

中には優先回路の指定ができるかも知れませんが、人の手を経由することは

少なくなっているのでしょう。

電話交換手の「はい何番へ」、「終わりましたか」、「終わりましたね」

の声がなぜか、カッコ良く感じたのは私だけではなかったようです。






 明日は、オオム?です。






 では、また。

Posted by ビギン at 09:22 | 昔を散策 | この記事のURL
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